第3章「オレガノの香りを追って」
オレガノの香りを追って(1)
翌日からトバリの日常は一変した。
具体的には、契約を結んだ(結ばされた)エルーの世話が業務の中心となった。
〈
特別な役割を与えられたことが嬉しくないわけではない。しかし、ドラゴン飼育に関してはズブの素人である自分がそんな大役を果たせるのか自信はない。今も早速大きな課題にぶつかり頭を悩ませているところであった。
「さ、ほら、食べるんだよ。おいしいご飯だぞお」
トバリはブルートドラゴンに与えている飼料を器に入れて、エルーの前に置いてみるが、仔竜は首を傾げるばかりで食べようとしない。
水は飲んでくれるのに、なぜ餌は食べてくれないのだろうか。
「もしかしたら、餌を食べ物だと認識していないのかもしれない」
エルーの様子を観察しながら顎に手を当てて考え込んでいたシオンが呟いた。彼女も引き続きエルーの世話に当たってくれているので頼もしい。
「食べ物だと認識していない?」
「そう」
トバリの質問にシオンが頷く。
「この子は人間に捕まるまで、親が口移しで与えてくれた物だけを食べていたはず。だから地面に無造作に置いてある餌が食べ物だとわからないのかもしれない」
「でもブルートドラゴンは小さな子供でも餌入れに入っている飼料を食べているよな。一体何が違うんだ?」
何度かブルートドラゴンの餌やりを経験したが、まだ生まれたばかりの子供でもおいしそうに飼料を食べていたことを思い出す。
「彼らは群れで生きているから、親や先に生まれた兄弟達の真似をして食べれる物、食べられない物を学んでいくの。だけど、エルーは1人だから……」
「なあ、この印? こいつを通じてエルーと意思疎通はできないのか?」
シオンは首を横に振る。
「まだ難しい。契約を結んでも、縁はゆっくり育てていくものだから」
トバリは腕を組んで別の案を考える。
「一時的にブルートドラゴンの群れに紛れ込ませてみるとかはどうだ」
「ブルートは仲間意識が強い種だから、受け入れてくれない可能性が高い。最悪の場合、攻撃されてしまうかもしれない」
「なら、自分が手渡しで餌を与えてみるのは」
「それは有効かもしれないけれど、あなたの腕の本数を考えると2回しかあげることはできないわ」
どうやら腕ごと食べられる前提で話しているらしい。
ならば木の板などに乗せて口に運ぶというのはどうだろうか。板も一緒に食べてしまったら、腹を下してしまうかもしれないという懸念はあるが。
「エンシェントドラゴンのような大型な種の竜は、親がまず食べやすい大きさに口でちぎって、それを咥えて子供の前で振って食べ物だという認識を与える。つまり、子供から見ると高い位置でこう……お肉が振られていて……それを食べ物だと思う訳で……」
シオンはドラゴンの親子の食事風景を想像しているのか、手を動かしながらぶつぶつ独言している。
どうやら親と一緒にいた時の状況に近づけることで、餌を食べてもらおうとしているらしい。
(そうか……この仔竜がどう見ているかをシオンさんは考えているのか)
トバリは目を閉じて想像の世界へ入り込む。
自分は子供のドラゴンだ。大きな親ドラゴンの足元で安心してくつろいでいる。
親ドラゴンが肉を咥え、それを自分の頭上で振る。自分はゆらゆら揺れるそれをじっと見つめ、やがて首を伸ばして食らいついて——
「釣りだ」
トバリがはっと目を開け呟いた。
「シオンさん、釣竿を持っていないか。できれば丈夫なやつ」
「釣竿って、釣りをするための? いえ、持ってないわ」
「そうか……」
誰か牧場の人で釣りをしている者はいないだろうか。
そういえば、つい最近「釣り」という単語を聞いた気がする。
『僕がたまに釣りをしている池です。ここからはそう離れていませんが——』
記憶を辿り、トバリはぽんと手を打つ。
「そうか、クリスロアさんが話していたんだ」
昨日、自分とラキが2人でブルートドラゴンに乗ってエルーとシオンを探しに行った時、捜索する範囲を説明しているクリスロアが確かにそう言っていた。
「ええっ、釣竿ですかぁ!? もちろんありますよ! いやぁ、嬉しいなぁ、釣りに興味を持ってくれる人が現れるなんて。ラキちゃんは待ってる時間が退屈だから嫌だと言って、イグルカさんは魚を取るなら直接潜った方が早いだろと言って、誰も釣りの楽しさ、奥深さをわかってくれないんです。釣り糸を垂らした水面を静かに見つめ、森の木々の声を聞く……その時間こそ最高の贅沢だと思いませんか、トバリさん!」
〈毛長竜〉ファードラゴンの竜舎を掃除していたクリスロアが、興奮のあまり手に持っていた箒を落とし熱弁した。
トバリはその勢いに押されながら、なんとか言葉を挟む。
「いや、あの、クリスロアさん。あまり時間がなくて、できればすぐ貸してほしいんだが……」
「ええっ、業務時間中にこっそり抜け出して釣りをしようというんですかぁ!? その発想はなかったですね。働かなくてはならないという罪悪感を感じながら、じっと魚がかかる時を待つ……あぁ、想像しただけでゾクゾクしますねぇ!」
どうやらこの
自分にはこれほど熱中できる趣味はないので羨ましくもある。
「いや、いや! 意外かもしれないが、仕事で使おうと思っているんだ」
トバリはエルーが置かれた状況と、仔竜に餌を食べてもらうためにこれから試みようとしている実験について説明した。
すると、クリスロアは目に見えて熱が引いていった。
「あぁ、なるほど……それは試してみる価値はあるかもしれませんね。では少し待っていてください。一番丈夫な竿を持ってきますので」
トボトボと哀愁漂う背中を揺らして、クリスロアが宿舎に向かって歩き出す。
と、その途中に振り返り、トバリの右腕をじっと見つめてきた。
「……それが、〈
クリスロアが見ていたのは、どうやら右手の甲に刻まれた竜との契約の印のようだった。
「そうだけど……何か気になることがあるのか」
唐突な問いに、トバリは身構える。なぜだかクリスロアの目がいつもより鋭く感じたれた。
「ええ、初めて目にするものなので一体どのような力が秘められているのか気になりましてね」
「今のところ、何も変わったことはないな。シオンさん曰く、そばにいると落ち着いたり暴れなくなったりするらしいが」
「そうですか……何かあったら僕にも相談してくださいね。何か力になれるかもしれませんから。おっと、今は先に釣竿を持ってこないといけませんね」
クリスロアは軽く一礼をすると、再び歩き始めた。
トバリは自分の手の甲を体の前に掲げ、〈
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