嵐の日の事件(5)
「大丈夫?」
遠くから聞こえてきた声で、トバリは目を覚ました。
どうやら気を失っていたのは短い時間らしい。記憶ははっきりしている。
瞼を開けると、自分の顔を覗き込んでいる少女と——ドラゴンと目が合った。
「わっ」
驚いたトバリは慌てて飛び起きる。
自分は崖のそばの木の下に寝かされていたらしかった。雨は依然として降り続いているが、木々の葉がそれを受け止めてくれている。
上体を起こして自分の傷の具合を確かめてみる。肩を抉られたり、脇腹を貫かれたりとかなりの大怪我を負っていたはずなのだが、不思議なことにそれらの傷は塞がっていた。
「あれ、怪我が治っている?」
痛みはまだかなりあるが、無理に動かさなければ大事にはならなさそうだ。
「私は、〈癒し手〉だから。ドラゴンの治療のために覚えたものだけど、人も治せる」
心なしかほっとしている様子のシオンが疑問に答えた。
どうやら彼女が〈
「そっか。ありがとう、助かった」
「それは私が言うべき言葉。あの……ありがとう。あなたの命を懸けた行動が私達を救ってくれた。本当に、感謝してる」
礼を言い慣れていないのか、シオンは目を合わせずずっと俯いたまま話した。トバリも何となく恥ずかしくなって、視線を逸らす。
「そ、そう言えば……シオンさんは風の魔術も使っていたが、一体いくつの術を使えるんだ」
気まずい雰囲気になったので、トバリは話題を変える。
「術? 16よ」
シオンの返事に、トバリは吹きかけた。
剣術の鍛錬の合間とはいえ、自分がこれまでに体得したのは三つだけだ。専門の術師でも二桁の術を覚えている者は少ない。
(世の中には、とんでもない逸材が眠っているもんだな)
トバリは世界の広さを思い知るのだった。
周囲を見渡すと、仔竜のエルーが恐れ半分、興味半分といった目でこちらを見ているのに気がついた。
檻の中で威嚇していた時の様子に比べると、ずいぶん態度が柔らかくなっている。
さっきの
手を差し出すと、エルーは恐る恐るだが顔を擦り付けてきた。
『きゅ〜』
その口からなんとも気の抜けた可愛らしい声が響いた。
「ははっ。お前の鳴き声はぐるるぅとかじゃなったか?」
「あれは威嚇する時の声。今のは仲間や家族に向ける親愛の声よ」
シオンが解説してくれた。
ドラゴンを世話する仕事を覚えようという気は全くないが、懐かれるのは悪い気はしない。トバリはそのままエルーの顎や頬を撫で続けた。
恐らくラキが助けを呼んでこちらに向かっていることだろう。明日の仕事もあるので、早いところ宿舎に戻って休みたいものだ。
大量に血を流してしまったせいもあるが、今日はひどく疲れた。
『きゅ〜?』
じっとこちらを見ていたエルーが首を傾げ、何かを尋ねるかのような声を出した。
トバリがなんの声かと訝しむ一方で、シオンはハッと何かに気づいたようだった。
「あの! えーっと……あなた、名前は何と言ったか聞いてもいいかな」
「……トバリっす」
一度名乗ったはずなのに、全く記憶されていなかったことにトバリはやや落ち込む。
「トバリ! エルーがもう一度尋ねてきたら、その子の目を見て頷いて!」
シオンが、彼女にしては珍しい慌てた口調で言った。
「ええ!? 尋ねてきたらって、さっきの声を出したらってことか? それに目を見て頷くってどういう……!」
少女の言っている意味が理解できず混乱している間にも、エルーが再びこちらを見る。
『きゅ〜?』
そして先ほどと同じ響きの、何かを尋ねるかのような声を出した。
「トバリ、早く!」
「わ、わかったよ!」
トバリはシオンに促されるまま、エルーの金色の瞳を見て大きく頷く。
瞬間、仔竜の体が青白く光り始めた。
シオンが突然トバリの右手を握ってくる。彼女のもう片方の手は光り始めたエルーの体に添えられた。
「〈竜の巫女〉たるシオン=メア=ハーミットの名において、契約の履行を開始する!」
シオンの顔の左側に刻まれた線の模様の刺青が、エルーと同じ青白い光を放ち始めた。
「〈古代竜王〉の末裔エルーの問いかけを受け、人の子トバリはそれを許諾した。今ここに太古より受け継がれし竜と人との縁を結ぶ契約を執り行う! 天翔ける星よ、四天の竜よ、彼のもの達に祝福を——刻め、〈
エルーとシオンを包む光が増幅し、地面に円形の陣を描いていく。
トバリにも変化があった。シオンに握られている右手が彼女らと同様に光り始めたのだ。
「な、な、なんだこれは——!」
光はさらに強さを増し、トバリは目を開けたままではいられなくなってしまう。光は周囲を包み込み、そして全てが塗りつぶされた。
「——終わったわ」
どれだけの時間が経過しただろうか。
シオンの声がした。
恐る恐る目を開けてみると、景色は元のままだった。シオンとエルーは光っていないし、薄暗い空からは滝のように雨が降り注いでいる。
シオンが握っていたトバリの手を離した。今までずっと彼女に手を握られていたことに気づき、トバリは赤面する。
ふと、右手の甲に何やら印のようなものが描かれていることに気が付いた。
汚れかと思って服で拭いてみたが、まるで取れない。刺青を入れられたみたいだ。
「なんだ、こりゃ?」
「それは〈
聞きなれない単語に、トバリは目を何度も瞬きさせる。
「〈
シオンはトバリの質問にすぐに答えず、申し訳なさそうに目を伏せた。
「まず謝っておくわ。ごめんなさい、トバリ。私はあなたの了承を得ないまま、エルーとの契約を結んでしまった。竜が……それも〈古代竜王〉が契約を提案する機会はほんの一瞬だから、慌ててしまった」
竜との契約という言葉を聞いて、トバリは資料室でラキと一緒にめくった〈希少竜大全〉を思い出した。
確か、あの本には『知性を持つドラゴンは主人と認めた者に契約の印を渡す』と書かれていた。その儀式には〈竜の巫女〉の力が必要だということも。
では、たった今自分が目撃し、そして体感した儀式は竜の契約だったのだろうか。
「あ、あのー、シオンさん。その契約をした場合、自分が王都に戻ることになにか支障をきたすことはあるのでしょうか」
質問する声が震えてしまう。
なぜなら自分の目標はいち早く牧場を離れて王都の直属部隊に戻ることであり、それ以外の要素は障害となるからだ。
しかし、シオンは残酷にも首を横に振ってしまう。
「申し訳ないのだけれど、しばらくは難しいと思う。契約を結んだ竜と人は遠い距離を離れることができない。そして、エルーはまだ子供だから遠くに行かせることはできない。だから、その……」
シオンがその先、何を言わんとしているかは容易に察せられた。
(エルーがご飯を食べるようになれば、シオンもラキも喜ぶだろう。それはいいことだ。とてもいいことだ。だが、自分は……そうなると自分は……!)
頭の中を様々な思念が飛び交い、混乱を起こしたトバリは気絶し背中から倒れた。
奇しくも、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます