第2章「嵐の日の事件」

嵐の日の事件(1)


 王立ロンロン牧場の朝は早い。


 朝日が昇る前に起床し、眠い目をこすりながら担当の竜舎へ行く。

 一日の初めにやることは、ドラゴン達の餌の準備だ。ブルートドラゴンやワイバーン用の飼料には肉を混ぜて食いつきをよくさせる。ファードラゴンは大量の干し草を食べるので、せっせと納屋から運んでいく。


 ドラゴン達の食事を無事に終えたら、ようやく自分達の朝食の時間だ。

 パンと干し肉と野菜の酢漬けを、前日の余り物を薄めたスープで流し込む。簡素な食事だが、準備をする必要がないのはありがたい。


 午前中はドラゴン達を外に出して、その間に竜舎の掃除をする。

 古くなった寝藁を新しいものに変えたり糞集めをしたり、たまには水を流したりと汚れることが多い仕事だ。

 外のドラゴンを監督する係の者は、ドラゴンが群れから離れないか見張ったり、水辺に連れていって体を洗ったりなどの仕事をしている。


 昼過ぎにドラゴン達を竜舎に戻したら、一休みの時間だ。菓子を食べて一息つく者もいれば、昼寝をする者もおり、思い思いに過ごしている。

 ここまでが毎日の定型的な仕事で、午後からはそれぞれに与えられた業務をこなしていく。

 街に食材や飼料の調達に行ったり、ワイバーンの群体飛行に付き添ったり、ファードラゴンの毛並みを整えたり、生まれたばかりのドラゴンの健康状態を確かめたり……やることは無限に思えるほどある。


 職員の人数は十数人。トバリとシオンを除いた全員が亜人種だ。しかし、その人数ではどうにも人手が足りずやらなければならない仕事や手をつけなければならない課題はどんどん溜まっていく。


 仕事がひと段落したなら、宿舎に戻って各々夕食を取る。全員が揃うということは珍しく、大概はバラバラか個人同士で誘い合って食べている。

 そうして就寝まで束の間の自由時間を楽しみ、また早い朝が始まるのだ。





「……なになに、〈古代竜王〉ことエンシェントドラゴンは知能が高く、成長した個体は人間と意思疎通を図ることも可能になる。天候を操るまでの力を身に付けた個体は、古代の人々に神として崇められた。現在は数を大きく減らし、鈍色山脈の山間部にわずかに生息するのみである。げげっ、随分遠くから来たんだなあ」


 トバリは資料室と呼ばれている小さな部屋で、エンシェントドラゴンに関す記述が書かれている本のページをめくっていた。

 部屋には2人分の机と椅子が用意されており、隣には炎蜥蜴族サラマンダーの少女ラキが座っている。この日は朝から厚い雲が空を覆って冷え込んでいるが、ラキが発する熱で部屋は暖房いらずだ。


 2人はエンシェントドラゴンの子供エルーを助けるための作戦会議をしている最中だった。トバリは空いた時間で剣の素振りなり肉体の鍛錬なりをしたいのだが、彼女が乗り気のためこうして昼休憩の時間を使って情報を集めているのである。


「今から鈍色山脈のお家に帰してあげることはできないのだ?」


 本を覗き込むラキが提案をしてきた。

 ちなみにラキは難しい字は勉強中のため、トバリが本の内容を読んで聞かせている。


「難しいだろうな。ワイバーンでは運ぶことができないし、陸路で行けば何ヶ月かかるかわからない。その間、エルーの体が持つはずがない。そもそも広い鈍色山脈の中で、かつて住んでいた場所を探し当てるのはほぼ不可能だ」


 トバリが牧場に来てから3日が経っている。

 その間も何も口にしていなかったとしたら、あの仔竜は初日に見た時の様子よりさらに弱っていることだろう。


「とりあえず読み進めてみよう。ええと……知性を持つドラゴンは主人と認めた者に契約の印を渡す。賢さに秀でるエンシェントドラゴンの中にも、かつて人と契りを交わした個体もいた。ただ、〈竜の巫女〉の血脈が途切れかけている現在ではそれも難しいだろう。契約には巫女の力が必要だ」


 ドラゴンと契約した戦士の逸話は意外と多く伝わっている。実際に会ったことはないが、面識のある者から何度か話を聞いたことがある。

 〈竜の巫女〉とは何者だろうか。文面から推測するに、ドラゴンと人の間を取り持つ役割なのかもしれない。


「それなのだ! エルーと契約ができれば、ご飯を食べてもらえるはずなのだ!」


「だけど、〈竜の巫女〉が必要だと書いてあるぞ。何者なのかは知らないが、そっちを探す方が荒唐無稽な話なんじゃないか?」


「大丈夫のようだ。シオンねえは〈竜の巫女〉なのだ!」


「はぁ!?」


 突然明らかになった事実にトバリは驚き、思わず大声を上げた。

 あの銀色の髪の美少女が、ちょうど本の記述に現れていた〈竜の巫女〉だとは。これほど都合の良い話があるのだろうか。


「……そもそも〈竜の巫女〉って何者なんだ?」


 トバリが尋ねると、ラキは首を傾げる。


「詳しいことは知らないけど、ドラゴンさんと心を通わせることができるようだ。顔のかっこいい模様が一族の証だって前に聞いたことがあるのだ」


 彼女の顔の左側に刻まれていた線の刺青を思い出す。やはりあの模様には特殊な意味があったのか。


「しかし、その〈竜の巫女〉のシオンさんがどうにもできていないってことは、自分たちが考えているような策はとっくに試して駄目だったということじゃないのか?」


「うーむ……それもそのようなのだ」


 2人で腕を組んで困ったように唸った。

 シオンは寝る時間もあの牢獄のような竜舎で過ごしているようだ。もしかしたら、自分達には分からないだけであのドラゴンの子供との対話をずっと試みているのかもしれない。


「やぁ、精が出るね2人とも! 休憩時間だってのに感心だ。トバリもここの仕事に興味を持ってくれて、牧場長のアタシは嬉しいよ!」


 扉を乱暴に開ける音がして、鬼人族オーガの牧場長イグルカが資料室に入ってきた。

 がっしりした肉体のイグルカが来たことで、ただでさえ狭く感じていた部屋がさらに窮屈になった。


「そうなのだ! トバリ君と2人でエルーのために何かできないか考えていたのだ!」


 ラキが嬉しそうな声で言った。無力な自分を嘆いて泣いていたことはもうすっかり忘れたようだ。


「うん、少し話が聞こえてきたよ。ドラゴンとの契約に目を付けるなんて大したもんだ。確かに契約することができれば、目の前に置かれたご飯を食べないなんてことはなくなるだろうさ」


 イグルカが歩み寄り、たった今2人で読んでいた〈希少竜大全〉の本を覗き込む。


「だけどね、あの子はもっととして根本的な問題を抱えているんだ。想像してごらん、幼い頃に突然親もとから引き離され、何が起きているかわからないまま売り物として扱われたんだ。誰も守ってくれない暗闇の中で」


 イグルカの言葉に、トバリは背筋に冷たいものが走る感覚を覚えた。

 そうだ、あのドラゴンの子供はまだ生まれたばかりで母親の足元に甘えていた時期だったろう。それが何の準備もできていないまま世界に放り出されてしまった。


 恐かったろう。


 困惑しただろう。


 あの子にとって近づく者は全て敵なのだ。だから誰も近づけさせないし、与えられる餌も食べない。怯えて敵意を見せるばかり——


(そうか。自分は外側からしか物を見ていなかった。どうすれば餌を食べさせることができるだろうか、と。ドラゴンが今何を感じているかなど、考えたこともなかった)


 トバリは顎に手を当てる。

 これまで、ドラゴンと触れ合う機会がないわけではなかった。移動のためにブルートドラゴンやワイバーンに乗る時などだ。

 しかしだからと言って乗っているドラゴンの心に思いを馳せることなどなかった。なぜならドラゴンは「手段」であり「道具」だったからだ。

 彼らと「生き物」として向き合う機会などなかった。


「なら、必要なのはエルーの恐怖を払い、自分達は味方だと知ってもらうことなのか」


 トバリが独り言のように呟くと、イグルカが意外そうな目で見てきた。


「そう考えてくれる王都の兵士はこれまでにいなかったよ」


「……自分は変わっていると言いたいのか」


「いや、悪い風に受け取らないでおくれよ。やはり君は逸材だと言うことさ。体が強く、考え方が柔軟! 文句の付けようがないね!」


 トバリは少し不機嫌そうに鼻から息を吐く。

 逸材というのは、牧場の職員として考えた場合のことだ。自分が目指す〈剣聖〉への道の上で必要なのは体の強さではなく力の強さ、そして柔軟さではなく従順さだ。

 しかし、ここ数日の自分の考え方の変化には自分自身でも戸惑いを感じる。のんびりした空気を吸って日和ってしまっているのだろうか。


(いけないな。ここらでしっかり気を引き締めないと)


 トバリはそう心に誓うのだった。


「さぁ、そろそろ休憩も終わりだよ。熱心に取り組んでいるところ悪いけれど、仕事に戻ってもらおうか。今日は雲行きが怪しいからね、雨に加えて雷が降るかもしれない。やれることは先にやってしまおう」


 そうイグルカが話している間にも、部屋に一つだけある窓からは曇天から大きな雨粒が落ちてくる様子が見えた。遠くで細い稲光も光っている。


「ありゃあ、ここまでか。トバリ、悪いけれど隔離竜舎に行ってシオンとエルーの様子を見に行ってくれないか。シオンの分の雨具も持って行ってくれ」


「了解した」


 返事をしたトバリが本を閉じようとした時、〈古代竜王〉の項の次のページに描かれていた挿絵が目に入った。

 挿絵の竜は炎を吐いていて、いかにも悪の竜という印象を受ける。

 名前は〈古代炎竜〉エンシェント・ファイアドラゴン。

 説明には、魔法そのものと言える力が満ちた弱肉強食の古代世界で暴れ回った凶悪なドラゴンとある。すでに絶滅しているが、どこかに封印されているとの言い伝えも残っており——


「ラキも行くのだ!」


 炎蜥蜴族サラマンダーの少女が元気よく手を挙げ、トバリは続きを読むことをやめて慌てて本を閉じた。


「いや、ラキちゃんは牧場を見て回ってまだ竜舎に戻ってきていないドラゴンがいないか見回りをしてほしい。お願いできる?」


「りょ、了解したのだ!」


 ラキがトバリの口調を真似て、敬礼の仕草をする。

 トバリは〈希少竜大全〉を本棚のもとあった場所に戻すと、早足で部屋を出て行った。

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