第3話

 こ、こんなことって――。


 さすがにパニックになってしまう。僕はちょうど四つん這い、失意体前屈の格好で、その下にはあおむけになっている山岸の体があった。その黒い髪は乱れて床の上に流れている。眼鏡はずれており、その奥の瞳は驚きで見開かれている。かろうじて僕達の体は触れ合ってはいなかったが、この体勢は完全に……アウトだ。


「ち、ちがっ! これはその――」


 と、僕がとっさに何か言い訳しようとした途端、


「変態」


 山岸は鋭い目で僕を睨み、あおむけのまま体を後退させ、僕の体の下から抜け出した。


「へ、へんた、い? そ、そんな、僕はただ……」


 繰り返すが僕はコミュ障タイプのぼっちである。それがこんなアクシデントで、一年半ぶりぐらいに同年代の女子と口をきいて、その最初の一言が罵声とか、錯乱せずにはいられなかった。顔が火のように熱い。


「あなた、早良君だっけ。いかにも友達いなさそうな、暗い男子」


 ぐはっ! そういう目で見られてたんだ。当たってるし。


「女子が一人でいるところを後ろから襲うとか、最低よね」

「ち、違う! 襲ったんじゃない! 転んだんだ!」

「転んだ? それでこんなに都合よく女の子を押し倒せるの?」

「……それは、その」


 さすがに返す言葉がない。自分でも「ねーよ」って思ってしまうありえない事故なのだから。


「と、とにかく、その……ごめんなさい」


 ひとまず謝った。悪いのは間違いなく僕なのだから。そして、ゆっくりと身を起こした。心は晩秋の枯れ葉のようにかさついていた。山岸とはもしかして話し相手ぐらいにはなれるかもと思っていたのだ。それがこんな、いきなり嫌われるようなことをしてしまって……うう。


 と、そこで、足の下に何かがあるのに気づいた。見ると、山岸のものらしいノートを、僕の右足が思いっきり踏んづけていた。


「あ……」


 ちょ、これはさすがに……。チラリと山岸の方を見ると、刃物のような目でこっちを睨んでいる。当然だ。山岸のノートの開かれたページには、僕の上履きの跡がついているのだから。


「ご、ごめん! これも、ごめん!」


 僕はあわててそれを拾い、山岸に手渡す――と、その瞬間ふと、ノートに描かれている絵に目がとまった。それは漫画の下書きの下書き、いわゆるネームというやつらしかった。絵は適当で、何が描かれているのかさっぱりわからなかったが(ネームってそういうものだし)、こんな登場人物の台詞が目に飛び込んできた。


「ワッフドゥイヒ、この学園竜都中を探し回るというのか?」


 それは本当に、会話の一部、断片的な台詞だった。だが、僕は、とても驚いてしまった。なぜなら、「ワッフドゥイヒ」「学園竜都」この二つの単語は、僕にとってとっても見覚えのあるものだったから……。


「山岸さん、これって……」

「返して!」


 ノートをじっくり見ようとした途端、山岸がものすごい速さでこっちに来て、僕の手からノートを奪い取った。


「あなたって本当に最低! 人にいきなり抱きついて、人のノートをいきなり踏みにじって、あげくに勝手にその中身を見ようとするなんて!」


 山岸は怒髪天を衝く勢いだった。しかし、僕はノートの内容のことで呆然とするばかりだった。


「山岸さん、その漫画……世界竜の上に学園があったりしない?」

「え?」

「世界竜ってのは、空を飛ぶ巨大な竜だ。その上に人の都市があるんだ。学園だったり、農業都市だったり、軍事拠点だったり……世界竜の数だけ人の街がある。空の上に」

「な……なんで、私の漫画の内容、そこまで知ってるの?」


 山岸は今度はびっくり仰天したようだった。

 僕はさらに続けた。


「主人公の名前はワッフドゥイヒ。愛称はワッフだ。でも男に言われると怒る。女の子にだけワッフって呼ばせてるやつなんだ。どう、当たってる?」

「え、ええ……」


 山岸は額に汗をにじませる。


「あなたまさか、私のノートを見たの?」

「いや、今初めて見たよ。今言ったのは、僕が書いてる小説の設定だ」

「早良君の書いてる小説? 何それ? 全然答えになってないわよ?」


 山岸は依然として強い戸惑いと疑いのまなざしだ。


「そんな偶然あるわけないじゃない! この漫画、誰にも見せたことないのに!」

「ぼ、僕だってそうだよ! 小説は誰にも見せたことがない。でも、僕達、どうやら同じ話を書いてるみたいなんだ――」

「うそ! そんなことあるわけないわ!」


 山岸は僕の声をさえぎって、鋭く叫んだ。


「どうせ、私の目を盗んで、ノートをこっそり見たんでしょう。それで、私のことバカにして、からかってるんだわ」

「ちがう!」

「あなたって最低!」


 山岸はいよいよ感情を爆発させたようだった。いきなり、僕の顔に平手打ちしてきた。


 パシィッ……!


 その乾いた音が響くのは二人だけの教室――のはずだった。


 だが、その瞬間、僕達の周りの景色は一変した。信じられないことに、僕が彼女に平手打ちされると同時に、そこは高校の教室ではなくなっていたのだった。

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