第2話

 僕は、彼の絵を見て絶句した。初めて見る、小汚い世界。


 赤と黒の交じり合った色彩はこんなにも薄気味悪いのか、とその絵は僕に再認識を与えた。グラデーションでも成っていれば赤と黒はもう少し美しく見えただろう。しかし彼の絵はさっき見た彼の綺麗な青い瞳の美しさを一瞬で忘れさせる、とても深くて重い何とも表現し難い世界観を持っていた。汚さが前に出て美しさとか奥ゆかしさとかそう言った類の褒め言葉を全て隠してしまっていた。


 かの有名なピカソは死後に絵の素晴らしが認められた。それと同じで、彼の絵も今の僕の価値観には見合わないほど、レベルの高い芸術なのだろうか。けれど僕にもピカソの良さを感じることが出来る感性は少なからず持っている。それはピカソの良さを認めた世界で生きているからかもしれないが。


 とにかく僕には彼の芸術が分からなかった。


「これでも君は僕と仲良しになりたいかい?」


 彼は自分の絵を見つめながら言った。僕は彼の絵から目を逸らし彼を見た。彼の容姿の美しさに思わずため息が出そうだった。彼の絵の理解に苦しみ息苦しさを感じていた僕は彼の美しさにひどく安心感を抱き大きく息が吸えたのだった。


「みんなそうさ」


 彼はゆっくりと僕を見た。


「みんな僕の美しさと僕の絵の醜さに困惑するんだ」


 まだ乾いていないキャンパスの絵の具に彼は手を伸ばした。赤色の絵の具が彼の人差し指に付いた。


「僕の頭の中での作品たちは、僕なんかよりみんな美しいんだ。けれど僕から離れた作品たちはとても醜い」


 彼は油絵の具のついた人差し指を自分の口元に持って行った。そして人差し指で自分の唇を拭う。彼の唇が紅に染まり、キャンパスの上で醜さの要因であったはずの赤色は紅と化し妖麗さを放った。


「どんなに描いても醜いんだ。それに気が付いた人々は皆僕を馬鹿にする。僕の容姿と僕の絵のギャップが面白くて仕方ないんだ。あんなに美しいくせに、描く絵は汚い。あんなに努力しているくせに、あんなに絵はへたくそだ、ってね」


 彼は悲しそうに言った。


「勝手にちやほやしてきたくせに裏切られたと大声をあげる。そうされるたびに僕は思うんだ、僕の中ではこんなにも美しい絵なんだ、と」


 彼は紅に染まった唇を少し噛んだ。彼の白い歯が少し紅に染まる。


「でも、こんなにも汚いじゃないか、そんな言葉が僕の中で広がっていくんだ」


 彼は悔しそうに手を握りしめた。


「だから僕はまた描き続ける。いつか僕の中にある美しい絵が表現できるかもしれない、そう信じて」


 僕は彼の言葉を聞きながら彼の絵を見た。さっきとは違う表情をした彼の絵は、何だか泣いているような気がした。


「分からないじゃないか」


 僕はぼそりと呟いた。


「僕らの価値観が低いだけで、本当は素晴らしい絵なのかもしれないじゃないか」


 僕の言葉に彼はふっと笑った。


「君は芸術の中で一番大切なものは何か知っているかい?」


 彼の問いの真意が分からず僕は首をひねった。


「絵でも歌でも演劇でも文章でも何でもいい。芸術において一番大切な物はなんだ?」


 僕は必死に考えた。奇抜さ? 大胆さ? 意外性?


「君は今、表現する側のことばかり考えているだろう」


 彼の言葉で僕は思考を止めた。


「違うのかい?」


「違うよ。芸術で一番大切なのは聴衆だ。芸術において一番の主役は作品なんかじゃない。作品を見ている人間だよ」


 僕は彼の言っていることが分からず少し首を傾げた。


「どんなにいいものを創ったって、世間に認められなければそれはごみさ。作品の価値は受取り手によって決定される。僕の絵は世の芸術から追い出されたただのごみだ」


 彼は笑顔を浮かべた、けれど目は少しも笑っていない。


「けれど僕だってそんなに馬鹿じゃない。世の中で認められている作品たちの魅力は確立されたものだとは知っているよ」


 彼は怪奇な笑みを浮かべる。


「でも今の世の中、たくさんの情報にあふれていて人間の知能は落ちぶれているだろう? 判断能力もほぼ皆無に近いこの人間たちはきっと誰かが僕の絵を素晴らしいと称賛すれば賛同し、まるで僕の才能が認められたと僕を褒め称えるだろう」


「けれど僕は僕の描きたい世界を少しも表現できていない。そんな状態で産み出した絵になんて、僕は興味ないんだ」


 彼は近くにあったテーブルの上に載っていたライターと煙草を手に取った。そして煙草に火をつけ一度煙草を吸うと煙草の火を絵に押しつけた。煙草の銘柄はHOPEだった。


 焦げ臭い空気がアトリエに充満する。


「分からない」


 僕は複雑な彼の言葉を受けてポロリと本音を漏らした。

 整えられた彼の眉が左右非対称に動く。


「君はそれでも美大生かい?」


 煙草の灰を落としながら言った、彼の嘲笑ともとれるその言葉に僕は少しも苛立ちを覚えなかった。彼の、僕や世間への皮肉や自分自身を揶揄する言葉は少しも邪心が混ざっていない、純粋なものであるように僕は感じた。彼は自分で感じたそのままを言葉にしているのだろう。その純粋さで僕は彼の脳内にある彼の絵の美しさを垣間見たような気さえした。


「僕は芸術に固執することでしか、この世界に居ることが出来ないんだ」


 僕はそう言いながら、目を閉じて自分の絵を頭に思い浮かべる。それすらもぼやけてしまう僕には、きっと才能どころか個性すらない。


「けれど僕は、芸術を愛している」


 僕の中にあるぼやけた僕の絵は、僕の愛しているという言葉で風に吹かれたようにふっと消え去っていった。


 僕は目を開ける。


「何度も僕に才能のないという現実を突き付けてくる僕の作品たちを、僕はこの世で一番愛している。愛おしくて仕方ないんだ」


 彼はふかしていた煙草を灰皿に押しつけた。きっと彼は煙草の煙を肺まで行き届かせてはいないだろう。


「そうさ」


 彼は僕の言葉になんの表情も変えずに言った。


「自分を愛しているから自分の作品も愛することが出来る。自分の作品を認めている自分自身を知っているから、相手の作品を愛する余裕が出来るんだよ」


 そうか、僕は僕の作品を認めている僕という存在を知っているから、どこか心に安心感があるんだ、僕は彼の言葉ではっとした。


「自己肯定感は最高なり!」


 彼はそう叫んで筆を洗うために汲んでいた水を思い切りキャンパスに掛けた。僕はそんな彼を、何も言わずにただぼうっとまるで悲劇の映画の一部のシーンを観るかのように見ていた。


「君は愛情を受けて育ったんだ」


 彼の崩れていた作品がさらに崩れる。


 掛ける前は透明だった水が、キャンパスの角から滴り落ちるころにはどす黒い赤色をしていて、その汚さに僕は体を流れる血液を想起した。


「そんな人間に、芸術家は向いていない」


 彼は濡れた絵の具の上に人差し指を置き、彼の指がLoVeと描いた。


「どこか歪んでいないとね」


 彼は自分の書いた文字が水分過多で崩れていくのを楽しそうに見ていた。そんな彼を見て僕は乾いた笑顔を浮かべる。


 彼は美しい自分の世界を求めているくせに、自分の世界がさらに壊れ汚くなるのを見て喜んでいる。彼の存在はまるで何層にも分厚い鎧で囲まれたフェイクのようなものだった。


 純粋で嘘をつかない、けれど存在がフェイク。

 彼の心は一体どこにあるのだろうか。


 美しさと汚さ、真実とフェイク、それらは相反するようで実は同じものなのかもしれない。そう思わせるほど彼は正反対の物を持ち合わせていた。


「оをaに変えなくていいのかい?」


 僕がそう言うと彼は自分の指の腹を見た。


 そして一つため息をつくと


「嗚呼、変えてこよう」


 そう言って僕に背を向けた。


「ついでにおいしいピザでも食べに行こうか」


 僕は歩き始めた彼の横に立ち、彼の肩をポンポン叩いた。


「いいね、僕は弧を描いたピザの美しさについてならいくらでも語れる気がするよ」


「それは楽しみだ」


 もうすっかり夕日は落ちてあたりは真っ暗だった。けれどアトリエ内には彼の絵の色の鮮やかさが煌々と光輝いている様だった。僕の脳内に彼の絵の色彩が焼き付いて、そう見えただけかもしれないが。

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