僕はこの世界の何なんだ。

狐火

第1話

 彼に僕が出会ったのは綺麗な夕焼けが見える雨上がりの春だった。日本にある芸術大学に進学した僕は、彼の風変りさを耳にして彼と友達になりたいと思い、彼がよくいると噂の大学のアトリエに僕は足を運んだのだった。


 そのアトリエは木々に囲まれ手入れが行き届いていない奥地にあるため、彼以外誰も使いたがらない。静かな場所であった。


 胸を高鳴らせながら僕はアトリエのドアをノックした。けれど返答はない。古びたアトリエのドアを少し押すと、ドアを開けるためにはかなりの力がいることが分かった。


 僕は力を振り絞ってドアを押すと、ギィっと鈍い音がしてドアは開いた。神々しいオレンジ色の夕焼けが部屋に染み渡っていることが、扉を開いて明るみになる。僕はそのアトリエの中に人の気配を感じ、雨上がりの土の匂いと共にアトリエ内に足を進めた。油絵の具の独特の匂いが僕の鼻腔を通り抜け、それは人の気配をさらに強める。


 入ってすぐの部屋には誰も居らず、微かに空いたドアがもう一つの部屋の存在を示している。僕はその半開きのドアを引いて中を覗き見た。


 するとそこにはキャンパスの前に座る一人の男の後ろ姿があった。彼に隠れて絵は見えない。彼の短い金髪は夕焼けに照らされて色の鮮やかさを増していた。


 彼に目を奪われ僕はドアノブを押す力を失い、そのせいでドアノブはやや大きい音を立てて元の位置に戻った。その物音で僕の存在に気が付いた彼はゆっくりと僕の方を振り返る。見え始めた彼の顔の骨格の美しさは、僕のなけなしの芸術家としての血を騒がせた。


 普段は見慣れない綺麗な鼻筋の曲線美に僕は思わず手を伸ばそうとしたが、それは一般人として生きている僕の理性が食い止めた。そんな理性があるにも関わらず僕は彼にくぎ付けになっていた。やがて彼の顔全てが僕の方へ向いて、やっと僕は彼と目を合わせることが出来たのだった。


 綺麗な金髪に青い目、すらっと長い脚。彼は典型的なヨーロッパ人の見た目をしていた。ドイツ人だろうか、彼の見た目から僕はそんな予想を勝手にした。


「Zeichen Sie ein Bild?(絵を描いているの?)」


 僕は昔に少しかじったドイツ語で彼に話しかけた。


 (彼の耳に僕の声は入っているのだろうか?)


 はっきりと声を出したにも関わらずそんな疑念が湧き上がる程、僕の胡散臭いドイツ語はアトリエ内に何度も跳ね返り反響し彼の元に届いている様子はない。異物を見るような彼の視線は、僕という存在を認めていないようにも思えた。


 重い沈黙に、僕は狼狽し早くこの空気感を変えたいと脳内で言葉を探した。すると彼の口角が少し上がる。


「ああ、そうだよ」


 あまりにも流暢な彼の日本語に僕は度肝を抜かれた。そんな僕の様子を見て彼はまた少し笑った。


「君のように似非ドイツ語で僕に話しかけてくる奴は五万と居るから安心して」


 彼の言葉は凄くとげとげしく、そして彼の目は僕を軽蔑していた。


「すまない」


 僕は彼に不快感を与えてしまったのかと思い謝罪をした。彼はひとつ息を吐く少し宙を仰いだ。


「日本人は本当に謝罪が好きだよね。謝れば許されると思っている」


 僕は今までいろいろな芸術家に出会ってきた。みんな風変りではあったがその中でも彼は飛びぬけて風変りの様だ、僕は彼の言葉でそんな風に思った。けれど同時に僕は自分と正反対の彼の媚びない人柄とその風変りさに愛着を覚える。


「不快にさせたのなら謝るべきだと思っただけだよ」


 謝罪したことに僕はまた謝罪をしようとしていたことに気づき、謝罪を胸にしまった。

 彼は僕の言葉を関心なさそうに軽く耳に入れていた。


「そうかい」


 彼はもう僕には全く関心がなくなった様で、また僕に背を向けてキャンパスに向かっていた。

 何とか彼の友達になりたい、そう思った僕はチャンスを逃すまいと必死に彼に喋りかけ続けた。


「君の名前はなんていうの? 嗚呼、まず名乗らないと失礼だよね。僕の名前は内山幸助って言うんだ」


 僕は笑顔で口をべらべら動かしていた。


 やがて僕の語彙力が尽き果てて、僕がようやく口を閉じるとはあ、と一つため息が聞こえてきた。


「ごちゃごちゃうるさいな」


 彼は筆を動かす手を止めずに言った。


「君の名前なんかに興味ないんだよ、僕は」


 これほどまでに自分の存在をあからさまに否定されたことがなかった僕は、ツンと喉の奥に苦しみを感じた。


――さっさと僕の空間から消えてくれよ。


 そう言われたような気がした。


「そんな、僕は君と仲良くなりたいんだ」

「何故?」


 僕の言葉に若干被せるように彼は言った。


「僕の容姿がいいから? 絵が上手そうだから?」


 彼は筆を持ったまま立ち上がり、僕の方へ向かってきた。


「理由なんて……」


 威圧感ある彼に圧倒されながら僕は次の言葉を探した。


――理由なんてない?


 僕は何故彼と仲良くしたいのだろうか。きっと彼と一緒に居たら芸術的な彼に刺激され、彼の世界に飲み込まれる気がした。


 それは自分には才能がないと分かっているのにも関わらず、僕は誰かからの影響を受け、自分の能力が開花するなんて夢物語を未だに信じているからかもしれない。もしくは、誰かに飲み込まれ自分が芸術家として成功できない理由を作りたいからかもしれない。


 いつの間にか彼が僕の目の前に立っていた。


「本当に理由なんてない?」


 彼の青い目に吸い込まれそうな錯覚を抱く。僕の世界が少しぐらついた気がする。


「じゃあ見せてあげるよ」


 彼は僕の腕を力強く引っ張り、僕を自分の描いた絵の前に誘導した。


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