第3話

 初めて出会ってから三か月経つが、彼の家族の話を僕は聞いたことがなかった。彼の噂は大学内では絶えない。その噂は学校一のプレイボーイだの、人を殺したことがあるだの、整形しているだのどれもくだらないものばかりであった。


 そんな噂はめったに彼の目の前では繰り広げられることはなかった。けれど彼の異端さは人によってはすこぶる気に入らないらしい。僕らが二人で居た時、とある生徒が僕らに話しかけてきた。


「君は母親を殺したんだろう?」


 彼に向かってその生徒は言った。

 またくだらないことを、と僕は呆れた。


 きっと彼はいつもの通り、そんなわけないじゃないか、と苦笑いして穏便に過ごすんだろうなと僕は思い彼を見た。


 しかし彼は僕の思っていた反応とは異なる対応をした。

 彼はその生徒をじっと見つめ、口角を上げた。


「ああ、そうさ。僕は母を殺した」


 彼はそう言った。

 僕もその生徒も驚き動揺した。


「何言っているんだよ」


 僕は彼の言葉を冗談とし少し笑いながら彼の肩を押した。


「真実さ」


 彼は僕のテンションを全てはねのけるように、僕の言葉を遮った。僕は言葉を失う。


「母親を殺しておいて、よくのうのうと生きてられるな」


 その生徒は鼻で彼を笑いながら言った。


「そんな言い方無いだろう」


 僕はその生徒の悪意のこもった言葉を撤回するよう求めた。


「いいよ、その通りだ」


 彼は僕の肩に一回だけ手を乗せるとそのままその場から去って行った。


「なんて最低なことを言うんだ」


 僕はその生徒に言った。


「人殺しに人権なんてない」

「それは君が決めることじゃない。大体、事情も知らない癖に自分の価値観や正義感で相手の尊厳を否定するなんて、君は最低だ」


 僕はそう言い捨てて彼を追いかけた。

 彼がいる場所は大体がアトリエだ。僕は初めて会った場所に向かって走った。


 アトリエの近くに来ると彼はアトリエの中に入ろうとしていた。

 僕に気づいた彼は扉を握ったままこっちを見ている。

 僕は走る足を止めて歩きながら息を整え彼の元に向かった。


「君が第一声に何を言うのか楽しみだ」


 彼は近づいてくる僕に笑って言った。


「特に何も考えていなかったよ」


 僕がそう言うと君らしいね、と彼は呟いた。彼はアトリエの扉から手を離してアトリエの前にある三段ほどの階段に腰かけた。僕も隣に座った。


 数秒の沈黙の末、


「聞いてもいいかい?」


 僕は彼に聞いた。


「知りたいなら聞けばいい」


 彼はいつもとは違う低い視点から見える景色を眺めながら言った。


「さっきのことは本当かい?」


 こんなにも木々が生い茂っていたんだな、周りの景色を見てそんな関係のないことを考えながら僕は言った。


「ああ、そうだよ」


 彼は足元のコンクリートの隙間から生えていた雑草を引っこ抜きながら言った。


「僕は母を殺した」

「なぜ?」


 彼は引っこ抜いた雑草を放り投げた。手のひらに雑草の緑が付いたらしい。親指でその緑をさすった。


「僕はドイツと日本のハーフだ」


 彼は自分の手のひらから目を離さずに言った。


「父はドイツ人で有名な絵描き、母は日本人で父の絵のモデルだった」


 緑を落とすことを諦めた彼は手を階段に戻した。少し前かがみな彼の体勢のせいで彼の顔はこっちには見えない。


「父も母も容姿が美しいことで有名で、僕の容姿の良さは産まれる前から確約されていたようなものだった」


 普通の人間はそんなセリフ、死んでも言えないだろう。彼が言えばそんなセリフでも嫌みにも自意識過剰にも聞こえない。


「父は母の綺麗な黒髪と綺麗な黒い瞳を愛していた」


 大和撫子と言うやつだね、彼は言った。


「だから僕は一度も父に遊んでもらったことがないどころか、父から抱擁を受けたことがない」

「え?」


 僕は感嘆の声を漏らした。


「人間というのは、自分の好みの見た目じゃ無い者に非常に冷たい」


 彼が僕に向けた笑顔から、その切なさが伝わってきた。


「僕は父に愛されている母に嫉妬した。唯一僕に愛をくれた母を妬み嫉み恨んだ。父に認められたくて必死に絵を描いて必死に愛情を表現していたのに、父は僕に見向きもしなかった。そりゃあそうだ、あんなに絵が下手なんだもの」


 彼は自分を嘲笑する。彼の思いが詰まったか細い声で、自虐に声の大きさは必要ないのだと僕は実感した。


「きっと僕の中の美しい絵を表現出来たら父は僕を愛してくれる、そう信じても僕は思うように絵が描けない。けれど母は僕のどんな絵でも、僕の絵を褒めるんだ。それが僕は気に入らなくて仕方なかった。僕の実力はこんなもんじゃないんだって思っていた」


 ふうっと彼はため息をついた。彼は何度も過去を振り返りそのたびに後悔してきたのだろう。


「僕は母を苦しめ続けた。結果母は病気になった。母の病気が分かってから父は母の病気を治すためにお金を湯水のように使った。僕には一銭たりとも出そうとはしない癖に。そんな父の態度が気に入らなくて、僕は病気で苦しむ母に死ねって言ったんだ」


 僕は苦しそうに話す彼の背中を摩った。


「そうか、分かったよ」


 僕は彼の苦しそうな様子をもう見ていられなくて、彼の言葉を止めた。


「そしたら母はそのまま涙を流して死んでいった」


 けれど彼は話すことを辞めなかった。体中が震えて、きっと鮮明にお母さんが死んだときのことを思い出してしまっているのだろう。


「母さんが亡くなったのは4時36分43秒、父さんが病室に着いたのは4時37分51秒だった」


 どこか遠くを見つめながら彼はただ口だけを動かしていた。目の焦点は合っていない。


「ギリギリ間に合わなかったんだ。父さんは病室に入ってくるなり、僕を突き飛ばして母さんに泣きついた。死んでも母さんは僕よりも父さんに愛されていた。震える手で父さんは母さんの死に顔を描き始めた」


 彼は自分の顔を手で覆った。きっと涙はもう枯れ果ててしまっているだろう。母を失った悲しみに浸れないほど深く持ってしまった父への執着心が、彼の心に巻き付いて彼を解放させない。


「僕は母を殺したんだ」


 彼は自分に言い聞かせるように言った。


「違うよ」


 僕は自責の念に駆られる彼が震える不憫でならず、そう言った。


「君の母さんは病気で亡くなったんだよ。君のせいじゃない」


 彼は下唇を噛んでいた。


「そんな考えもあるね」


 前髪をかき上げて露わになった眉を顰めた彼の表情は、同性の僕にさえ胸の高鳴りを与えるほど色っぽかった。けれど皮肉にもその顔は彼にとっては悲劇の原因だったのだ。


「でも僕はそうは思えない。僕が殺した。そう思って生きていくと決めたんだ」

「何故?」

「罪悪感に浸っている方が楽なんだ」


 彼は立ち上がって自分の尻に付いた土を落とした。


「父は母を忘れることにしたらしい。もう後妻がいるんだ」


 僕もそっと立ち上がる。


「きっと父は精一杯母を愛した。だから後悔もなく罪悪感もなく、再婚なんてできたんだ」

 

 彼はまるで捨てられた子犬のような切なさを身にまとっている。彼の中の時間は、きっと父から冷たく突き放され傷ついた幼少期で止まっているのだろう。


「不思議と父を想起させるはずの絵を描いている時、僕は何もかも忘れられるんだ。ただひたすら自分の中の綺麗な世界を信じて、指の先まで神経を張り巡らせる」


 彼は自分の手を太陽にかざした。


 彼の影が地面に伸びる。その影は天に手を伸ばしている様にも見えた。


「でも僕の目の前に出来上がるのは、僕の想像とはかけ離れた汚い世界」


 彼は脱力するかのように勢いよく腕を下ろした。


「僕はこの世界の何なんだろうね」


 彼は僕に向かって言った。しかし僕は何も答えることが出来なかった。ただ彼を見つめ返す。彼はふっと笑うと僕に背を向けてアトリエの中に入っていった。哀愁が漂うその背中を僕は追いかけることが出来なかった。彼の唯一の救いの時である絵を描く時間を、僕の自己満足の励ましで邪魔するなんて、僕には出来なかった。

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