第4話

 それから数日間、彼はアトリエから出てこなかった。


 彼から母親の話を聞きだした僕は、自分のしたことが罪深いような気がしてならない。やっと彼が僕の前に姿を現した時、彼はいつもと変わらない様子で、それは遠回しに何も触れるなと言われているような気がした。


 僕はあたり障りのない普通の会話をした。それは以前と変わらない友情関係だった。彼の過去を知った僕は、できるだけ彼の心をかき乱したくないと思った。


 けれどそんな僕の望みは思うほど、現実は正反対に動き出す。

 

 彼が自分の母親を殺したのだという噂が、ある生徒から学校中に知れ渡ってしまったのだ。僕は憤慨しその生徒に撤回するよう求めた。けれど彼は何も言わなかった。そんな彼の様子で僕はさらにその生徒への怒りを増したのだった。


「何でそんなに怒っているのさ」


 彼は僕に笑いながら言った。


「何でって……。僕は君の友人だ」

「僕が君の立場なら、僕はきっと君みたいに怒らない」


 周りからの視線を感じながら僕らは廊下を歩いていた。


「それでも本当に友達なのか?」


 彼は僕に聞いた。


「怒りの発端になることは人それぞれだ」


 僕は若干心に違和を感じながらも言った。


「友達なんて、時間を共有できるだけでいいものさ」

「そんなもんかね」


 彼の耳には友達と言うものが薄く聞こえたのかもしれない。でもそれは逆だ。共有という何気ないことでも繋がっていられる関係は素晴らしく厚みがあるのだ。薄っぺらさに何層もの意味を見出せる。


「SNSでの共有も立派な友情ってわけだ」

「あれは共有じゃない、強要だ」


 僕の冗談に彼は笑った。


「現代人は承認欲求の塊だね」


 きっと彼は自分のことを揶揄しているのだろう。僕は彼の背中をぽんっと叩いた。


 しばらくすると、周りに他人が居なくなったような気がした。


「何だか人が少ない気がしない?」


 僕がそう言うと彼は頷いた。僕らの横を駆け抜けていくクラスメイトに僕は声をかけた。


「そんなに慌ててどこに行くんだ?」

「夕波さんの作品公開だよ。誰かは知らないが有名な画家も来るらしい」


 夕波さんとは、この大学に彫刻の推薦で入学した特待生だった。彼女は美しいことで有名だった。


「見に行くかい?」


 僕は心を躍らせながら言った。


「行きたそうだな」


 彼は笑いながらそう言って歩き出した。僕は彼の後をついていく。

 夕波さんのアトリエの周辺には人だかりが出来ていた。未だ作品は公開されていないらしい。


「すごい人だな」


 彼はその人だかりを見て苦い顔をした。


「この大学は九割が芸術オタクだもの」


 芸術が好きというだけでこの大学には入学できる。僕もその芸術オタクのうちの一人だ。

 

 彼女の作品が布を掛けられた状態で群衆の前に運ばれてきた。群衆はざわざわとしだす。


 夕波さんが自分の作品の前に立った。そして一礼すると彼女は布に手をやった。群衆が一気に静まり返り、みんな生唾を飲んだ。緊張感の中彼女は布を引っ張り、作品を露わにした。


 張り詰めた緊張感が群衆の興奮により張り裂け、超音波の如く声が上がる。


 彼女の作品は銅像であるにも関わらず生命力に満ち溢れ、今にも動き出しそうであった。彼女の美しさに命を吹き込まれたこの作品は綺麗とか、見事、と言った稚拙な日本語では表現できないのであった。


 僕はその作品に見とれた。大きく息を吸うと何だか涙が出そうであった。


「素晴らしいな」


 彼は呟いた。


「嗚呼、とても……」


 僕は一瞬たりとも作品から目を離さずに、この素晴らしい作品を目に焼き付けようと必死になった。

 群衆は彼女の作品に夢中になり、言葉を失っていた。夕波さんは姿勢よくその場に居た。


 突然、後方から拍手が聞こえてきた。段々とその音は近づいてくる。


「素晴らしい!」


 僕らの横を通り過ぎた拍手の音の主は、そう言いながら夕波さんに近づいていく。


「あれ、あの人確か……」


 僕はその人をどこかで見た気がして隣に居る彼を見た。いつになく彼は目を見開いて表情を強張らせている。


 群衆がざわつき始める。


「もしかして、君のお父さん……?」


 僕は茫然とする彼に向かって言った。返答はなかったがその様子を見れば答えは分かった。


「いやぁ、素晴らしい!」


 彼の父は群衆をかき分け夕波さんの元にたどり着くや否や、すぐに夕波さんに握手を求めた。彼女は冷静に差し伸べられた手を握っていた。

 

 父に認めてもらいたいと努力してきた彼が、自分より先に他人が称賛されたら彼はきっと――。


 僕がそんな風に考えているうちに、彼はこの場から去るために走り出していた。


「お、おい!?」


 僕の言葉からも逃げるかのように彼はこの場からいなくなる。彼の父は彼を探している様子はなかった。もしかしたら、自分の息子がこの学校にいることを知らないのかもしれない。


 僕は彼を追いかけるため走り出した。

 けれどどこを探しても彼は居ない。自殺、そんなことはあり得ないと思いながらも心に不安がよぎる。


 ただ彼の無事が知りたい、そう思って僕は彼に電話を掛けた。


 6コール目で彼は出た。


『なんだ』


 いかにも不機嫌そうな声が聞こえてくる。


『良かった、無事ならいいんだ』


 僕はそう言うとじゃあ、と電話を切ろうとした。


『もう僕に構わないでくれ。僕は誰とも関わりたくない』


 そう言って彼は電話を切った。


「ごめん」


 僕はもう、届くはずのない謝罪の言葉を口にした。


 それから彼は一か月ほど僕の前に姿を現さなかった。







「夕波さん」


 僕は彼と会えなかった一か月間に一度だけ彼女に話しかけたことがあった。


「どうしたの?」


 彼女はいつも落ち着いていて物静かだ。この大学の大和撫子、なんて言われるだけのことはあるその綺麗な黒髪や瞳は、彼の母に似ているのかもしれないな、と僕は思い、それがまた悲しかった。


「君の作品、素晴らしかった。感動しちゃったよ」


 僕は少し照れ臭い気もしたが心根を伝えた。


「ありがとう」


 彼女は細く微笑む。


「握手していた人は知り合いかい?」

「知らないの? ドイツで有名な画家よ。」


 そうなんだ、と僕は何度か首を縦に振った。


「私、ドイツに行くことにしたの」

「留学?」


 そうよ、彼女は嬉しそうに笑った。


「先生がそばに置いて、お金も出してくれるって」


 先生、それはきっと彼の父親のことだろう。


「よかったね」


 僕は彼のことが心から離れなかったが称賛の言葉を彼女に投げた。


「先生は私のことをとてもよくしてくれるの」

「よく?」


 僕は彼女の言葉に若干の違和感を覚えながら言った。


「ええ、私を幸せに」


 僕はその時の彼女の恍惚とした顔の醜さや卑しさを、一生忘れられない気がした。


――嗚呼、なんて陋劣なんだろう。


 快楽と欲望に塗れた動物はきっともう落ちぶれていく一方だろうなと、僕は勝手に決めつけた。


「そうかい」


 才女である彼女は、頭もよく強かだ。どう振舞えば富と名声を手に入れることが出来るのか、よくわかっている。女としての武器を使わずとも、彼女は才能だけで芸術の世界を生きていけるはずなのに、そうとはせず愛人の一人となることを選んだ。僕はふっと鼻で笑った。

 僕のそんな様子を見て彼女は少し怪訝な顔をした。


「なにかしら?」


 大和撫子、なんて聞いて呆れるな。彼女の見かけの清純さに騙されている我々は大馬鹿者だ。


「じゃあ次の作品の題名は『醜関係』かな?」


 すると彼女のいつもの美しい化けの皮がはがれ、相手を威嚇する醜い本性が顔に現れた。

 口角は笑っているのに目は少しも笑っていない。


「優れた芸術家なんて、そんなものよ」

「自分の汚さを隠すことに優れた、だろう?」


 僕は彼女に軽蔑の眼差しを向ける。


「この世の中にはうまく取り繕えない、もしくはうまく表現できない可哀そうな人が大勢いるわ。けれど私はこの手で、いくらだって世界を作ることが出来る」


 彼女の真っ白な細い手がひらひらと揺れる。


「頭の中で自己完結している野郎どもとは違うのよ。人間、目で見えていることが全てを支配する」


 彼女は僕に手を伸ばした。

 中指の腹で僕の顎を持ち上げる


「あなたたちは負け組よ」


 美しい整った彼女の顔に唾を吐きたい衝動に駆られながら、僕は何も言わずに彼女を見ていた。


「じゃあね」


 彼女は僕から離れ僕に背を向けた。艶のある黒髪が風で靡いて、一本一本が違う動きをする。


 彼女の実力は本物だ。けれど彼女と彼の父の関係を知ったとたん、何故か僕は彼女の不幸を心の底から望んだ。

 

 僕には関係のないことのはずなのに。

 

 彼らの関係を醜いという権利は誰にもないはずなのに。


 けれど彼女は僕の言葉をさらりと受け止めた。少しも否定せず芸術家としての自分を好きで仕方ない、そんな顔をしていた。どちらかと言うと僕の方がよほど醜いのではないか?僕は苦笑いをした。


 所詮は僕も醜い人間の一人なのだと実感してしまう。この世の中に美しい人間なんて存在しないのかもしれない。誰にでも醜い面はある。いつもは美しい人は、他人に理想を押し付けられ、仕舞にはそのギャップのせいで醜さが目立ってしまう。


 彼の絵だってきっとそうだ。


 彼は今何をしているのだろうか。彼が彼の父と夕波さんのこと知ったら、彼は何を想い何と言うのだろうか。

 

 その情景を想定するには僕の想像力は、足りなすぎる。

 どうか彼にとって絵を描くことが幸せでありますように、そう僕は願った。


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