第5話

 あれから約一か月後、僕は彼に偶然会った。


「一か月間何をしていたの?」


 僕は笑いながら言った。彼は少し考えた後


「驚くほど何もしていなかった」


 そう真顔で言った。


 その言葉に僕は心配していた自分と彼の心中の明暗の落差に、つい吹き出してしまった。


「何も変化はなかったのかい?」


 彼は僕の問いに少し考えた。


「女に、出会った」

「女?」


 彼の口から初めて出る単語に僕は少し驚いた。


「安いお酒を飲みたくて近くの飲み屋に言ったんだ。そしたらそこで、そばかすだらけで縮れ毛で少し間抜けな女に出会ったんだ」


「彼女は客かい?」

「いや、店員だった」


 彼が他人の話をするなんて妙なこともあるものだなと僕は思った。


「いくつぐらいの子?」

「まだ二十歳にもなってないさ」


 その口ぶりから彼らは親密になったというわけではなさそうだった。


「その子がどうしたんだい?」

「いや、どうもしてない」


 僕はますます彼が何故その子の話をしているのか分からなかった。


「君、その子が好きなのかい?」

「え?」


 彼は段々と顔を赤らめた。


「やっぱりそう思う?」


 彼は僕に聞いた。


「君が他人の話をするなんて珍しいからね。そうなのかなと思ったよ」

「僕も自分が分からないよ」


 彼はそう言って黙り込んだ。


「話しかけてみたのかい?」


 彼は首を横に振る。


「ただ客として行っただけ?」


 彼は一回頷いた。


「何回お店には行ったの?」

「ほぼ毎日」


 その言葉で僕は自分の全ての動作を止めた。


「君、滅茶苦茶その子のことを好きじゃないか」


 彼は指を顎に置いて考え込んだ。


「すごく落ち着くんだ、彼女を見ていると」


 そう言った彼の頬は少し赤い。


「話しかけなくていいのか?」

「そんな勇気ないよ」

「え?」


 いつも自分の容姿に関しては自信ありげな彼が、珍しく弱気な発言をした。


「え? って何だよ」


 僕の反応が意外だったらしい、彼は笑いながら言った。


「僕は恋愛には奥手だよ」

「君の容姿で叶わない恋なんてあるのかい?」


 その発言に彼は僕の顔を覗き込む。


「何言っているんだ? 僕にだって羞恥心はあるよ」


 僕は少し彼を買い被りすぎていたらしい。


「そうか、じゃあ一緒に会いに行こう」


 僕は彼のバックを奪うと歩き出した。彼はすかさず付いてくる。


「帰せよ、家の鍵が入っているんだよ」

「ついてくれば返すよ。それより君の想い人はどこの飲み屋に居るんだい?」


 彼はピタっと足を止め、大きくため息をついた。

 僕は少し先で彼を振り返った。


「相変わらずおせっかいだ」


 彼は僕に向かって言った。


「でも君がそのおせっかいを案外気に入っているのを知っているんだ」


 僕は彼に満面の笑みを見せる。


「さあ早く」


 僕の様子を見て彼はハア、とまたため息をついた。


「こっちだ」


 彼は僕の横を通りすぎ、想い人のいる飲み屋に向かう。僕はその後を付いて行った。


「いらっしゃいませ!」


 威勢の良い男性の声が店内に響き渡る。僕は店に入ると二人だと店員に伝えた。あたりを見回しても女性の姿は見えない。


「今日は居ないのかな」


 僕はそっと呟いた。店員に誘導され僕らはテーブル席に座った。平日の未だ夜ではない時間帯と言うこともあり客数は少ない。

 

 彼はぼうっとメニューを見始めた。けれどきっと意識はメニューには集中していない。


「ご注文は」


 その時女性の声が僕らの耳に入った。僕らはメニューから目を離し声の主を見上げる。僕らに急に見られた彼女は、少し困惑した顔をした。顔にそばかすがあり縮れ毛でお世辞にも可愛いとは言えない彼女は、注文を聞くためにメモ帳を握りしめ僕らの前に居た。


「な、生ビールを」


 彼はぎこちない声で注文した。


「それ二つとあと冷ややっこと……枝豆とから揚げをください」


 僕は注文を加えた。


「少々お待ちください」


 彼女は一礼すると笑顔を見せるわけでもなく去っていった。


「彼女かい?」


 彼は俯いたまま頷いた。彼の耳が赤い。


「いつもこんな感じなのか?」


 彼はまた頷いた。


(毎日通っていてこの有様か……)


 僕は彼の予想以上の奥手さに苦笑した。いつもの容姿に自信過剰のうぬぼれ屋は、今日はどこにもいないらしい。


「もう何とでも笑ってくれ」


 彼は頭を垂れて弱々しく言った。


「お待たせしました」


 彼女が生ビールを運んできた。


「あの」


 僕は彼女に声をかけた。彼が嫌な顔をして僕を見たがそんなのはお構いなしだ。


「あなた、今好きな人はいますか?」


 僕は彼女に聞いた。え? と彼女は小さく声を漏らした。


「居ません」


 少し頬を赤らめて彼女は答える。こんな質問でも恥ずかしさを覚えるほど、彼女はうぶだった。


「この人君のことが好きなんだ。良かったら仲良くしてあげて」


 僕は彼を親指で指をさしながら言った。彼の顔が一気に紅潮する。何か言いたげな表情をして口を開けるが、彼女は何も言い返すことが出来ず金魚の様。


 その時、おーい! とどこかで店員を呼ぶ声がする。彼女は俺たちから逃げるようにその声へと向かった。


「おい、なんてことしてくれたんだ」


 彼は彼女が居なくなるや否や、僕の胸倉を掴む勢いで僕に顔を近づけた。


「あれぐらいしないと君たちの関係は、てこの原理でさえ動かない」


 僕は生ビールをあおってから言った。


「あとは頑張れよ」


 今度は別の店員が運んできた枝豆と冷ややっことから揚げを、彼はやけ食いのように貪り食っていた。


「君のおごりだからな」


 彼は口にから揚げをめいいっぱい入れて言った。


「その代わりちゃんと彼女に思いを告げろよ」


 僕は箸をカチカチ鳴らして彼に言う。


「……分かってるよ。」

「よろしい」


 僕らはそこからほぼ会話をせずに食事をした。


 食事がすんで僕は敢えて彼女がレジをしているタイミングで、彼に「来い」と目で合図をしながらレジに並んだ。


 僕にレジが回ってきたとき彼女は少し気まずそうな顔をした。


「あの」


 彼が勇気を振り絞って声を出した。彼女はレジを打つ手を止めて彼を見る。


「今度デートとか、行きませんか?」


 彼は自分の手をギュッと握りながら言った。


「いいですけど」


 彼女は少し照れながら、けれど表情を変えずに答えた。


「じゃあこれ」


 彼は彼女に電話番号が書いてある紙を渡した。


 (なんだ、ちゃっかり用意しているじゃないか)


 僕は内心笑いながら彼らを見ていた。


「どうも」


 彼女はそれを受け取るとまたレジを打ち始めた。その様子は少し嬉しそうに僕には見えた。


 僕は彼の背中をとんっと叩いた。彼は嬉しそうだった。

 それから彼と彼女は何度かデートをした。


 彼女のことをどんどん好きになる彼は、少しだけ心が浮ついていた。あまりアトリエに滞在しなくなり、絵を描いていてもどこか上の空だった。


 これまで彼は恋人が出来ても自分の信念を変えたことがなかったらしい。デートすら時間の無駄だとよく言っていた。けれど今回の恋は違った。いつだって彼女に会いたいと思っている。


「最近どうだい?」


 僕は自分がキューピットであることをいいことに彼の近況をよく聞いていた。


「ああ、今日もこれから会うよ」

「どこかに行くのかい?」

「ああ、美術館に誘われたんだ」

「いいね、僕も行こうかな」

「おいおい邪魔するなよ」

「冗談さ」


 僕は笑いながら言った。僕らは大学の外まで一緒に行った。


「ここで待ち合わせかい?」


 彼は頷いてからきょろきょろあたりを見渡した。

 すると向こうから髪の毛をみつあみに結んだ女が歩いてきた。彼はその女に向かって手を振る。彼女は手を振り返さずこちらをじっと見た。


「じゃあな」


 彼は彼女の元へ走って行く。俺は幸せそうな彼を見送った。


「見ろよあれ」


 俺たちと同じ大学のやつらが彼らを指さしていた。


「美男と野獣だな」


 その数人は声を出して笑っていた。


(別にいいじゃないか、顔面の良さなんて恋愛には関係がない)


「彼の絵から出てきたんじゃないか? あの女」


 そこにいたやつらは腹を抱えて笑っていた。


(人の恋愛を笑うなんて、偉そうな奴らだ)


「あんな女のどこがいいんだか」

「愛想もなければ可愛くもない。何故あいつは好きなんだろう?」


 僕はこれ以上彼らの悪口を聞きたくなかったので帰ろうと歩き出した。


「おい!」


 悪口を言っていたそいつらは僕を呼び止めた。


「お前あいつの友達だよな?」

「ああ、そうだよ」

「聞いておいてくれよ、あんな女どこがいいんだって」


 そう言うと奴らは大声で笑いだした。僕はそいつらに何も言わず歩き出した。彼らの粗悪さに同じ大学である恥じさえ感じた。


 しかし確かに彼女の見た目がどうだとかは関係なく、彼は彼女のどこが好きなのだろうかと気になった。


 あいつらへの嫌悪感を抱きつつ、心のどこかであいつらと同じ疑問を僕は抱いた。


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