第9話
彼はやはり眠れなかったらしいく飛行機の中で爆睡し、ドイツについてからも寝方が悪かったと首に手を置きながら言っていた。
彼の作品はドイツのとある美術館に展示される。コンクールは観覧者の投票によって賞が決定されるらしい。
彼の作品は1139品目だった。かなりの距離を歩かなければ、展示されている場所にはたどり着けない。
「随分たくさん展示されているんだな」
僕は小声でそんな感想を漏らした。
「もっと芸術家っぽい感想を言えないのか?」
彼はスーツを着て痛烈な言葉を口にした。だいぶ緊張しているらしい。僕は苦笑して自分のネクタイをきつく締めなおした。
歩き進めていくとようやく彼の作品が展示されている場所にたどり着いた。彼の絵には人が集まっていた。そんな様子を見て彼は口角をあげていた。
俺たちは生唾を飲んだ。僕は緊張で喉がカラカラだった。彼は自分の作品に歩み寄っていく。
僕は何だかそんな彼を引き留めたいと思った。何故だかは分からない、けれど本能的に察知した何かで、僕は彼をその場に行かせたくないと思ったのだ。けれど彼はお構いなしに自分の作品に寄っていく。僕はゆっくりと彼の後を追った。
「おいこれ、アーレ先生の息子の作品だぜ」
流暢なドイツ語が聞こえて来る、きっとそんな風に言ったのだろう。僕はドイツ語を簡単にしか訳せない。
「本当だ」
「ここにいればアーレ先生に会えるかもしれないな」
そんな会話が聞こえてくる。早すぎて理解できないドイツ語もあった。
「しかし、アーレ先生の息子は才能を引き継がなかったんだな」
「ここの運営も、こぞってこの作品を見たがったらしいぞ」
「あまりにも奇抜で芸術家気取りで変な面白い絵だって皆で笑ったらしい」
彼らの冷酷な会話が嫌でも耳に入ってくる。彼の耳にも当然聞こえているだろう。
「あっちから来るの、アーレ先生じゃないか?」
誰かが向こうからやってくる一人の男性を指差した。その人はいつぞや大学で見た男性だった。
「アーレ先生!」
美術館であることも忘れ口々に人々は大声を出した。
「少し黙らないか、ここは美術館だぞ」
そのアーレ先生の一言で群衆は静まり返る。彼はただ黙ってアーレ先生を見ていた。アーレ先生は一瞬彼を見たが気づかないふりをした。
「これかね? 話題になった絵は」
アーレ先生は彼の絵の前に立つ。
「そうです、この絵をみんな見たくて来たようなもんですよ。アーレ先生の息子さんが描いたのでしょう?」
彼はギュッとこぶしを握った。アーレ先生の返答で、僕は彼のこれからの人生全てが決まるような気がして、僕は息を飲んで聞いていた。
(どうか、自分の息子に称賛を与えてくれ。彼と、彼の母のために)
そんな祈りを僕は彼の絵に捧げる。
今度こそ自分の父に認められるかもしれないと言う期待と不安を抱き、心が潰されてしまいそうな彼を、僕は穏やかな気持ちで見ることが出来なかった。
「いや、私に息子なんぞいない」
あまりにも冷酷な言葉が、美術館中に響き渡ったような気がした。彼の心が粉々に玉砕されて、彼の中の時計の針が全て抜き取られてしまったようだ。
彼を守らなくては、そう思い僕は彼の耳を塞いでやろうかとも思ったが僕はそれを行動に移すことが出来ずただ立ち尽くしていた。
「そもそも息子がこんな芸術的でも何でもない、幼い子供が描いたような絵をこんな立派なコンクールに出す身の程知らずなわけないじゃないか」
「ですよね」
群衆は笑いながらアーレ先生の話を聞いていた。笑っていないのは僕と彼だけだった。
どうして世間とは、こうも冷たく疎外的なんだろうか。そんな憤りに近い落胆が僕の中ではっきりと生まれた。
壊れてしまった人形のように捨てられたいつかの宝物のように、彼はただ茫然としていた。
アーレ先生が移動すると、その群衆も付いて行く。こちらをじっと見ている夕波を見つけ、僕は彼女の狙いがアーレ先生と彼の決別だったのではないか、と察した。夕波は表情を変えることなく、アーレ先生の元に戻って行った。
いつしか彼の絵を見ているには僕と彼だけになった。
僕は彼に何と話しかけてよいのか分からず、ただ彼の哀愁漂う後姿を見ていた。
彼は急に僕の方を振り返った。けれど僕は何も言えずに自分の瞳から流れた正体不明の感情を拭うこともしなかった。
彼はそんな僕の対応にも耐えかねたのか、一目散に走りだした。
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