第8話
彼がアトリエに籠って今日で丸40日だ。
失恋の傷はもう癒えたのだろうか。僕は自分が彼らを出会わせたと言ってもいい働きをしてしまった。だからこそ罪悪感があった。
何か彼を心の傷から救える方法はないかと試行錯誤したが結局思いつくのはちんけな考えばかりで、到底実行なんてできないのであった。
彼がアトリエに籠っていることはそれとなく大学中に広まり、好奇の目で見られることもあったが、彼の絵に一種の才能を感じている輩は出来上がる作品を待ち望みしていた。
「いったいどんな作品が出来上がるのかしら」
夕波さんが僕に話しかけてきた。その口ぶりは彼を卑下している様に聞こえた。
「さあね」
僕は彼女に構わず歩き始めた。
「ドイツで開催されるコンクールの枠が一つ余っているらしいわ」
彼女は僕の横を歩きながら言った。
「彼を推薦しようと思っているの」
「え?」
僕は足を止めた。
「どうかしら」
彼女がまっすぐ僕を見つめる。
「き、君がいいと思うならいいんじゃないかな」
僕は彼女の言葉に驚きながらもあたり障りのないことを言った。
「彼の絵なんて少しもいいと思わないわよ」
彼女は冷たく僕の言葉をあしらった。
「じゃあなんで?」
「別に理由なんてないわ。彼の付き添いにはあなたを推薦しておくわね」
彼女はそう言うとじゃあね、と言ってどこかに行ってしまった。
彼は一体どんな反応をするのだろうか。もし彼が嫌がるなら僕から言って推薦を取りやめてもらってもいいな。
僕はそう思って彼のアトリエに向かった。彼のアトリエの扉の前に立ち、僕は大きく息を吸って吐いた。
ノックしようと扉の前に手を伸ばした瞬間、扉がぎぃっと開かれた。
「おっ」
彼は僕の存在に驚き声をあげた。
「やあ、ひさしぶ……」
「聞いてくれよ内山!」
彼は僕の言葉を遮って、僕にとびかかるかのように身を乗り出した。
「どうしたんだい?」
彼の笑顔の眩しさに僕は若干驚きながらも彼に聞いた。
「ドイツのコンクールに出ることになったんだ」
「え?」
僕が彼女から彼を推薦したいと聞いたのはついさっきだ。もう彼に話が伝わったのだろうか。
「学長が僕の頑張りを認めてくれたんだ」
彼は僕の腕を握ると僕をアトリエの中に入るよう促した。僕はさっきの彼女の言動と現状の食い違いに疑問を抱きながら、彼の誘導のままアトリエの中に入っていった。
「見てよ」
彼は僕を自分の絵の前に僕を引っ張った。彼の絵を見た僕には何の驚きもなかった。いつも通りの彼の絵がそこにはあった。
「40日間籠って描いたんだ。これを見た学長が僕の褒めてくれた。君は素晴らしいと言ってくれたんだ」
僕には以前の彼との違いがこの絵から見出す事が出来なかった。
(僕の目が節穴なのか……?)
僕がぼうっと彼の絵を見ていると
「やっぱりそんなにすごいかな」
彼は嬉しそうに言った。
「……ああ、とてもすごいよ」
僕は彼に、何の変化もないよなんて口が裂けても言えなかった。
「君も一緒に行こう!」
彼は心底嬉しそうにドイツに行く計画を話し始めた。僕の耳には少しも入ってこない。
夕波さんが言っていたことと、彼が学長に認められたという話は一体どちらが本当なのだろうか。僕はそのことばかり考えていた。
「これ渡しておくね」
彼は僕に飛行機のチケットを渡した。僕は少しそのチケットを受け取るのをためらった。
「どうした? もしかしてパスポート持ってないのか?」
彼は僕の顔を覗き込んだ。
「いや、持っているよ」
僕は笑顔を作るとチケットを受け取った。
「ありがとう」
僕がチケットを受け取ると彼は満面の笑みで言った。
「まだ作品に取り掛からなくちゃいけないんだ」
「分かった、じゃあまた」
僕は彼に背を向けてアトリエを後にしようとした。
「内山!」
彼が僕を呼び止めた。僕は彼を振り返る。
「ありがとう。君のおかげだ」
彼は少し照れながら僕に言った。
「何言っているんだ、君の実力だろう」
「いや、君が失恋の痛みを教えてくれなかったら今の僕はない」
彼は絵が認められていなかった自分を過去の自分にしようとしていた。
僕は何も言えずに彼に背を向け歩き始めた。認められたのは彼の実力ではないかもしれない、と言う背景を知ってしまった罪悪感から背を向けるかのように。
チケットによると約二週間後僕らはドイツに向かうらしい。
僕はその時から二週間、彼について夕波に何も詮索したりしなかった。事実を知ってしまい、彼に漏らしてしまうかもしれない自分がとても怖かったからだった。
40日間アトリエにこもり作っていた彼の作品がドイツに一足先に送られた。飛行機に載せられる作品を僕らは見送った。
「できはどうだい?」
「過去最高だよ」
彼はそう言って満面の笑みを浮かべた。
「そうかい」
「ところで準備は終わったか? 飛行機は明日だぞ」
「終わったよ。あとは荷物を持って飛行機に乗るだけさ」
「そうか、じゃあ少し早いけど夜ごはんでも食べに行くか?」
「ああ、いいよ」
僕らは空港近くのピザ屋に行った。
「初めて僕らが一緒に食べたのはピザだったんだけど、君覚えてる?」
僕は彼に聞いた。
「まあ覚えているよ。君は珍しい人間だったからね」
「珍しい?」
「僕の刺々しい言葉で逃げて行かない人間は、なかなか珍しいよ」
僕は一番人気のメニューだと記載されたピザを注文した。彼は照り焼きチキンが乗っているピザを注文した。
「緊張するかい?」
僕はテーブルの真ん中にあった水を手元に寄せながら言った。
「ああ、とても緊張しているよ。今晩寝られるのかな」
彼は笑った。
「最悪飛行機でも寝れるさ」
「そうだね」
僕らの中に沈黙が起こる。
「ありがとうな。」
彼がぼそっと言った。
「僕は何もしてないよ」
「いや、君にはだいぶ世話になった。感謝しているよ」
彼から初めて感謝され、何だか歯痒かった。
「なんだよ、君らしくない」
「君らしくないってなんだよ。まるで僕が他人に感謝しない暴君みたいじゃないか」
僕は何も言わず頷いた。
「酷いなあ」
彼は笑った。
「まあまあ。僕は君の成功をただ祈っているよ」
僕は運ばれてきたワイングラスを顔の前に持ち上げた。彼もワイングラスを持った。二人はワイングラスを軽くぶつけ合い、乾杯した。
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