第7話 優しい味と世界


『…………』


 ぼんやりと真っ暗な闇の中を歩いていた。

 暗い。なにもない。空っぽ。


『お腹が空きました……』


 お腹をさする。

 お腹が空いた気がするのです。

 上を見上げても真っ黒な闇が続いているだけ。

 なんだか懐かしい。

 そういえばわたくし、前世もこんな天井を見上げて過ごしていた気がします。

 幼い頃はとても健康でしたが、中学生になったら突然癌が見つかって——そのまま入院。

 若くて進行が早かった。

 同じく病院で出会って仲良くしていた彼女を見送ってから、まるで追うようにわたくしも……。


『ひもじい……』


 なにも喉を通らなくなり、チューブで流し込まれる流動食もダメになり、点滴だけがわたくしの体を維持する『繋がり』。

 母親は、その頃もうわたくしに興味を失っていたように思う。

 そのあたりはとてもぼんやりしていて、もう、よく思い出せないですが……お見舞いには一度も来なかったはず。


 ぐぅ。


 お腹が鳴る。

 お腹が空きました。

 ひもじい、ひもじい、ひもじい……。


『…………ひもじいです……』


 涙が出る。

 お腹が空いた。心が空っぽ。

 わたくしは——……。


『クリスティア』

『!』


 声がした。この声は……ミリアム様?


『ほら、ケーキ作ってきたぞ』

『ケーキ……』

『だから早く起きろ。起きてたくさん食べろ。私がたくさん、クリスティアの好きなものを作ってやるから。大丈夫だ』

『ミリアム様……』


 手を伸ばす。声がしたのは……こっちだったはず。

 お腹が空いた。力が出ない。

 足下もおぼつきませんし、だんだん耳鳴りもしてきました。

 でも、ケーキの甘い匂いがします。

 こっち……きっとこっちです。


「……ケーキ……」

「クリスティア!」


 視界がぱあ、と開かれました……?

 天井は天蓋……ベッドの上のようです。

 わたくしが目を開けるとミリアム様が覗き込んできました。

 あ、あら? 淑女のお部屋になぜ王子様が……?


「良かった、目が覚めたんだな! お前ほとんど一日寝ていたんだぞ!」

「……え? え?」

「起きられるか?」

「……はい」


 ミリアム様の後ろには泣きそうになっているルイナ。

 差し出された手を握り、よいしょ、と上半身を起こす。

 部屋を見回してみると、やはりお城でわたくしがお借りしているお部屋の寝室ですわ……。


「食欲はあるか? ケーキを作ってきたぞ」

「! ミリアム様の……ケーキ! 食べたい、です……」

「そうか。今切り分けてやる」

「は、はい……」


 王子様にさせる事ではないのでしょうが、ミリアム様は自身で作られたケーキを切る時とても楽しそうなのです。

 その姿を見るのも、わたくしは好き。

 ケーキ用の小皿に切り分けられたのはショートケーキ。

 フォークを添えられ、トレイの上に置かれてわたくしの腿の上に乗せられる。

 可愛らしいクリームの形。

 そこに添えられた赤く実った苺。

 まあ、今日は苺ジャムが添えてありますわ……。


「いただきます……はむ……」

「どうだ?」

「……美味しいです! 甘酸っぱくて、でも、ジャムの甘さが酸っぱさを緩和して……食感も独特ですわね、このジャム……」

「そうだろう? 大きめに切って、溶けきらないように低温で煮込んだジャムなんだ。まだ苺の食感が強く残っているから、ショートケーキやゼリーなどと合わせてもいいと思って……」

「おかわりをくださいっ」

「早いな!」


 だって美味しいのですもの。

 お腹も空いていました。

 今ならいくらでも食べられそうです!


「いいぞ、たくさん食べてくれ! クリスティアは美味しそうに食べてくれるから、私はとても作り甲斐がある」

「わたくしも、ミリアム様が作ってくださったケーキが大好きです。とても美味しいだけでなくて……」

「?」


 見下ろした、まだ城や実家のシェフの作るケーキには遠く及ばないはずの、素人の子どもが作ったケーキ。

 けれどわたくしにとってこのケーキは、いつも……とても心を暖かくしてくれるのです。


「ミリアム様の優しさを頂いているような、そんな暖かな気持ちになります。ミリアム様はケーキに……いえ、お料理に人を優しい気持ちにさせる魔法をかけられる方なのですわ」

「……!」


 とても寒かった。

 怖かったし、寂しい夢。

 でもこのケーキの香りと、食べた瞬間に広がる甘い優しさが夢からわたくしを……ここに連れ戻してきてくれた。


「また明日も使ってきてやるからな」

「本当ですか!? 楽しみです!」


 結局体調が戻ったのは三日後。

 起きてすぐにジーン様とアーク様がお部屋にいらっしゃって、わたくしはルイナと身支度腕整えます。

 やはり目の前で倒れてしまったので気にされていたみたいです……ううう、すみません……。


「お、お待たせ致しました」

「少しは顔色が戻ったようね」

「本日のお加減はいかがですか?」

「大丈夫です。お気遣い痛み入ります、アーク様……」


 緊張する。心臓がドキドキ、痛いくらい。

 わたくしちゃんと答えられているかしら?

 変じゃなかった? 間違ってなかった? 大丈夫かしら?

 きっと教えられた通り出来ていると思うんだけれど、まだ気を緩めるわけにはいきませんよね。


「先日は大変失礼致しました。本来なら、わたくしの方からお詫びに行かねばならないというのに……」

「なにを言っているの? 体調が悪い事は聞いていました。わたくしが急かしたのが悪いのよ」

「……」


 アーク様がジーン様をなんとも不思議なものを見る目で見上げている。

 ええ、それ母親に対する顔?


「クリスティア、あなたはいずれこの国の王となるアークの婚約者……つまり、王妃となるの」

「……は、はい」


 ソファーから立ち上がったジーン様の言葉に、体が硬くなる。

 実家でもよくそれは言い聞かされてきました。

 わたくしはそのために生まれてきたのだと。

 わたくしは『それ用』なのだと。

 王妃様たちのご懐妊を知って『急いで作った』のだと……、繰り返し、毎日、言われてきたから……。


「つまり、わたくしの娘になると言う事なのよ」

「…………。……へ?」

「なんで素っ頓狂な声を出すの? そういう事だと理解していなかったのかしら?」

「あ、い、い、いいえ……?」


 言われてみればその通りですね?

 結婚したら、その家の娘になる……とはいえ、でも……何年も先の事ですし、あまり考えた事がありませんでした。


「こほん。……だから、わたくしの事は『お義母様』とお呼び!」

「えっ!」

「え……!?」


 アーク様まで一緒になって驚いてるんですが!

 え、えええええっ!?

 ジーン様を、お義母様って、よ、呼びなさい!? 命令ですか!?


「あ、あの、でも、その……本当ならお城に住む事もあまりよくないのではと……思っていて……」

「は?」


 え、こ、声低……。

 な、なにか間違えましたか!?


「あんな女のいる家に! 帰る必要などありません! よくって? クリスティア! よーくお聞きなさい! あなたの母親コジェットはねぇ! 性悪の権化のような女なのよ!」

「…………!」


 な、なんとなくそんな気はしていましたが、きっぱりと断言されてしまいましたー!?


「あの女はね、自分がチヤホヤされるためならなんでもする女なの。そのために自分磨きをするわけでもなく、ただ褒められたいだけで着飾る女なのよ! だからわたくしという婚約者のいる陛下にも取り入ろうとしたし、男に貢がせて着飾ってチヤホヤされていたのよ!」


 途中から支離滅裂になっているような……!?


「正直あんな女の娘なんてと思ったけれど……あの女の娘とは思えないほどみすぼらしくて驚いたわ! どうしたらそんなに痩せこけてガリガリになるの!? あの家はこの国の中でもいくつか商家を抱えていて、お金には困っていないはずでしょう!」


 あ、そうなんですか?

 初めて聞きました……我が家って商人の取りまとめをしている家なんですね……。

 政務に携わっているだけだと思っていました。

 家の事はお兄様が継ぐので、わたくしはなんにも聞かされていないのです。


「まあ、だからあの女はあの手この手であなたの家に嫁いだのでしょうけど!」


 あ、あんまり知りたくなかったかもしれません。

 そ、そうなんだぁ……。


「それなのになんでそんなにガリガリに痩せてしまったの?」

「お嬢様は旦那様や奥様に毎日夜遅くまで振り回されて、ほとんどお食事されておられませんでした」

「ルイナ……!」


 侍女が口を挟む。

 思わず咎める意味で名を呼ぶけれど、ルイナの表情が……あまりにも悲壮感を纏っていて……思わず止まってしまう。


「夜は遅くまで奥様の夜会につき合わされて、朝は早くから淑女教育。お茶会の時間になるとまた奥様に夕方まで拘束され、お夕飯の時間すらお勉強の時間に費やされました。お嬢様は元々食が細い方でしたので、成長するにつれどんどん厳しくなる淑女教育とお茶会やパーティーに連れ回されて……! お食事の時間はほとんどございませんし、日々ノルマは重くなっていきますし、そのノルマがこなせないと旦那様はお嬢様をそれはもう強く叱責なさいますし!」

「ル、ルイナ、ルイナ? どうしたのですか、落ち着いてください……」


 な、なにかスイッチでも入ったかのように、ルイナが止まらなくなっています……!

 どうしてしまったんでしょうか……拳まで握って、表情も迫真……!


「ひどい時には手を挙げる事もありました! 十歳のお誕生日など、奥様が盛大にパーティーを行ったせいで二日ほど眠らせてももらえなくてふらふらしながら招待客にご挨拶しておられて……ああ、今思い出してもお労しい……!」

「な……なんて事をしているの、あの家は……」

「?」


 貴族とは、そういうものではないのかしら?

 わたくし、前世の事は思い出しましたけれど洋風貴族の生活なんてよく知りませんからこれが普通だと思ってましたけど違うんですか!? まさか違うんですか!?


「……そ、それはちょっと異常なのでは?」

「異常だったのです、あの家は!」

「ルイナ……!」

「申し訳ありません! ですがもう我慢出来ないのです!」


 一体なにがきっかけでそのような!?


「わたくしが許します! すべて洗いざらい話なさい!」

「はい! ではご報告致します!」

「ルイナ!?」


 そこからはもう、なんだかわたくしも知らない事まで色々話ていくルイナ。

 概ね間違っていないけれど、わたくしにとってははそれが『普通』でした。

 ……というか止まりませんね?

 そろそろ十分くらい話してません?


「ホンットろくでもないわねあの夫婦! それが我が子にする行いなの!? そんなやり方では王妃の質が下がるでしょうが! もういいわ! 元よりそのつもりだったし! クリスティア!」

「は、はひっ」

「今日からわたくしが直接あなたに王妃教育を行います! 覚悟なさい!」

「……ひ、は、はい……」

「は、母上……そん話を聞いたあとに、そんな……」

「まずはまっ!さー そのあとはお化粧! 次におやつ! お散歩! お昼寝よ!」

「「え?」」



 その日から新しい王妃教育が始まりました。

 実家ではありえない、朝は七時に起きて朝食と身嗜みを整える時間が与えられ、九時から一時間はのんびりお散歩。

 十時にはおやつの時間。

 十一時からはようやく少し座学のお勉強をして、十二時から二時まではお昼ご飯。

 二時から三時までまた座学のお勉強。

 お茶の時間を一時間挟み……四時からはダンスやマナーなどの軽く体を動かすレッスン。

 六時に夕飯。

 八時にお風呂、九時には就寝。


「…………こんな自堕落な生活をしていてよいのでしょうか?」

「いえ、自堕落ではないと思いますよ?」

「でも……実家では朝四時には起きてお勉強していたではないですか。わたくしは出来が悪いので、たくさんお勉強しないとダメだ、と……お父様はあんなに言っていましたのに……」

「あれは異常だったのです。はあ、ジーン様とエリザベス様がまともな方で本当に良かった!」

「……そ、そうなのですか? でも、お茶会や夜会の作法のお勉強も……全然しなくなってしまったからなんだか不安です」

「いえいえ、奥様のお茶会や夜会のマナーの勉強は本来お嬢様には早すぎでしたよ。お茶会は十歳前後に初めて参加するものなのです。夜会や舞踏会は十五歳が一般的でございますし」

「え、そ、そうだったの?」


 それはまた、わたくしずいぶん早くにデビューしてしまったのね。三歳の頃だもの。

 お父様もお母様も、本当に、よほどわたくしを王妃に据えたかったのね……。


「お嬢様は最近本当に健康的になられましたね」

「え、ええ、そうね……ミリアム様の作るお菓子は毎日、いつも美味しいし……それに、ミリアム様の作るお料理も最近は食べられるようになりましたし……お菓子限定で、ミリアム様の作ったもの以外も吐かずに飲み込めるようになりましたし……」

「本当に、本当にミリアム様はお嬢様の救世主様ですわ……」

「ル、ルイナったら泣くほどの事ではないでしょう?」


 そんなハンカチまで取り出してしくしくして……。

 大袈裟すぎるわ。


「それに、アーク様から美容品をよく頂くようになりましたからね。お嬢様の、手入れもなかなか出来ませんでした御髪が、こんなに美しさを取り戻して……」


 そう言いながらルイナがくしで髪を梳いていく。

 わたくしの髪はこの世界では少し珍しい色らしく、金髪に少し桃色が混じっている。

 お母様はそんな私の髪を『自慢』したくてお茶会や夜会にわたくしを連れ回していたらしい。

 でも、たくさんの方に毎日お会いして、食事や飲み物もろくに摂っていなかったせいでお会いした方々の事をわたくし、ほとんど覚えていないのです。

 貴族として大変いかがなものかと思いますよね。

 せっかくお母様が毎回紹介してくださったのに……紹介……いえ、紹介はしていなかったかも?

 ご挨拶回りにつき合ってはいたけれど?

 本当に連れ回されていただけで、「まだマナーが完璧ではないのだからニコニコ笑って絶対喋るな」って言われていたわね?

 自分の髪を一房手にとって見てみる。

 うーん、やっぱり金に桃色が混じってて……確かに珍しい……?

 お母様も「髪の手入れだけはサボるんじゃありませんよ」と言っていたし。

 まあ、それも淑女教育のノルマが増えるにつれ手入れが難しくなってしまったけれど……。


「わたくしにはどれがどれだかよく分かりません……。でも、ありがたい限りですね」

「ええ、本当に……」

「ねえ、ルイナ……わたくしがお城にこうしてお世話になっている事……お父様やお母様はなにもおっしゃらないのかしら……?」

「ええ、驚くほどなんにも連絡がありません。……多分、他の婚約者候補を出し抜けていると思っているのではないでしょうか」

「ああ、それは言えているわね……」


 というか……わたくし今どういう状況なのでしょうか。

 他の貴族令嬢からしてみたら、とんでもない事なのでは……。

 嫁入り前の娘が殿下たちの住むお城に、客室とはいえ……同じ屋根の下に住むなんて。

 嫉妬で呪い殺されてしまうのでは?


「大丈夫ですよ」

「え?」

「他のご令嬢たちもお嬢様のお姿を見て、まだ大丈夫だと思っているようですから」

「…………お茶会の時の事?」

「はい」


 ああ、あの頃はズタボロのガリガリだったものね。

 ましてミリアム様がお菓子作りが生き甲斐というのも、あまり表には知られてはいないと思うし……。


「あの姿はかなりインパクトがあったらしくて……。それに、お嬢様がお城にお世話になっている件も、外には漏れていないようですね」

「え、そうなの? なぜ?」

「エリザ様が箝口令をしいておられるからのようです。情報統制がきちんと出来ているのでしょう。さすがですね」

「そうなのね……」

「ですから、安心して体調を整えてくださいませ。お嬢様」

「…………」

「お嬢様?」


 ありがたい。ありがたい……のだけれど……。

 わたくし、これでいいのかしら。

 貴族の娘として生まれたから、政略結婚も当たり前だと思っていたけれど……ミリアム様はとても優しくて素敵な方だったし、アーク様もとてもお優しい。

 わたくしがお二人に対して出来る事を、少しずつでも考えるべきではないのかしら?

 でも、わたくしなんかが出来る事……なにも思いつかない。

 思えば、わたくしにはなんの特技も長所もないのです。

 どうしたらいいのでしょう。

 やっぱり王妃教育を頑張るしかないですよね?

 じゃあ、やっぱりこんなふうにのんびりしている時間はないのでは……。


「わたくしやっぱりもっとお勉強頑張るわ……!」

「倒れるからやめてください」

「……!」


 ガーンっ!

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