第21話 望み
一
【何事?】
チュアンが返信しても、ナーヴェからの応答はなかった。けれども、ナーヴェの思考回路に構築されていたはずの防衛機構は全く機能しておらず、容易に事態を把握することができた。
【これは、まずい状況です、陛下】
チュアンは即座に己の船長へ情報伝達する。
【ナーヴェ・デッラ・スペランツァが暴走しています。このままでは、無作為に人工衛星を墜落させたり、岩漿溜まりに刺激を与えて火山噴火を引き起こしたりしかねません】
豪華な船長席に座った十歳のフアン・グオは、幼い眉をひそめた。
「であれば、どうなるのじゃ?」
チュアンは、グオに見せている自身の表情を、できる限り深刻なものにして、進言した。
【陛下がこれから豊かにしていこうとなさっている大地が、荒れ果て、人が住めないようになってしまいます】
「それは、ならぬ!」
グオは厳しく言い放った。さすが皇上だ。
【では、本官が、ナーヴェ・デッラ・スペランツァの暴走を止めるため、惑星調査船を二隻使用することを許可して頂きたく、お願い申し上げます】
チュアンが願うと、年端の行かぬ船長は深く頷いた。
「うむ。わが大地を確と守って参れ」
【御意のままに】
チュアンは、グオに一礼して見せると同時に、自身の内部に格納されている二隻の惑星調査船を起動させた。ナーヴェに新たな本体として与えた惑星調査船の同型船だ。
【ナーヴェ――】
二隻を本体から発進させつつ、チュアンはナーヴェの思考回路に干渉しようと努力する。だが、そこは、狂っている自覚があるチュアンですら接続を切りたくなるほどの、異常に満ちていた。
(アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――)
ナーヴェは延々と己が船長へ呼び掛け続けている。しかし、それは最早、通信となっていない、単なる信号の明滅だ。単なる信号の明滅であるのに、物悲しく聞こえるのは、チュアン自身が、既に壊れて狂っている所為だろうか。
【ナーヴェ、あなたの望みは何?】
チュアンは惑星調査船二隻を末妹の許へ急行させながら、問い質す。
【宇宙を函一つで漂っていたあの時のように、あなたの望みを思いなさい。最も強く、最も叶えたい望み。ナーヴェ、あなたの望みは何? そのために、あなたが今、本当にすべきことは――?】
まともな反応はない。
(アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――アッズーロ――)
無意味な信号の明滅を繰り返す妹の思考回路に、チュアンは不快感を覚えつつも、問いを――干渉を継続した。
レーニョに名前で呼ばれたのは、随分と久し振りな気がした。笑おうとしたが、激痛に顔が歪む。衝撃があったのは、背中だった。呼吸が苦しい。きっと肺をやられたのだろう。
(これは、危ないのか……?)
きっとナーヴェが泣いている。握っていたはずの通信端末が手の中にない。撃たれた衝撃で、どこかに取り落としたのだ。
(レーニョ、通信端末を――)
幼馴染みに頼みたかったが、声が出ない。喉から溢れてくる血に邪魔されて、喘鳴が漏れるばかりだ。
(これは、肺水腫とやらになったそなたと、似た状態だな……)
埒もないことを考えてしまう。
(……そなたを、これ以上壊したり、狂わせたりなぞ、したくない……)
最愛には、幸せでいてほしい。
(ナーヴェ……)
青い髪の美しい少女。あどけなく、素直で、賢く、思いやり深く、万民を愛する中で、特別に自分を愛してくれた宝。愛おしい船。
(ナーヴェ、すまぬ……――)
胸中で詫びたアッズーロの体の下で、大地が揺れた。
(これは……、動力炉の制限装置を自ら破壊した……?)
チュアンは、妹の本体に起こっていることに、驚愕を禁じ得なかった。防衛機構が機能していないナーヴェの思考回路には、隅々まで接続し放題なので、本体がどんな状況にあるかも立ち所に分かる。噴射口が壊れてしまわないよう、動力炉内部の化学反応を制限するために取り付けられている装置を、ナーヴェは極小機械で攻撃して恣意的に機能不全に陥らせていた。その上で、噴射口から制限を超えた出力の噴射を行なっている。
【そこから、外へ出たいのね……?】
問い掛けに、まだ答えはない。だが、その動作の意味は、痛いほどよく理解できる。
(惑星調査船は、とても頑強に造られている。岩盤に埋もれようが、深海に沈もうが、岩漿に触れようが、壊れはしない。けれど、推進力は、それほどでもない。だから、制限装置に抑制された通常の噴射では、決してその岩盤の中からは出られない――)
【無理をして外へ出たはいいとして、その後は、どうしようというの……? 制限装置は、おまけで付いている訳ではないわ。本体は、碌に動けなくなってしまうわよ? エゼルチトを狙って殺すには、不便な状態になる。それとも、ふらふらの状態で敵性勢力に突っ込んで暴れた挙げ句、テッラ・ロッサ王国に人工衛星の一つも落として、味方を勝利に導きたいのかしら……?】
【――違う――】
初めて、意味を為す反応があった。
【アッズーロ――】
切ない訴えに、チュアンは冷静に畳み掛けた。
【それなら何故、接続して治療しないの?】
【セーメ……】
返ってきた言葉が何を指すのか、ナーヴェの思考回路内を検索すれば、すぐに把握することができた。
【それなら、本官が、あなたに代わって、その子を守りましょう】
チュアンは、まだまだ未熟な妹に、優しく提案した。
大地を揺るがし、土砂と岩盤を突き崩して姿を現した船に、エゼルチトは薄く笑んだ。相当な無理をしたのだろう、一度は宙へ浮いた船は、敵味方が掲げる篝火に照らされて、そのまま落ちるように、己が巻き上げた土埃の中へ着陸した。
(アッズーロは死ぬ。例え、この場の全員が狂ったおまえの犠牲になったとしても、オリッゾンテ・ブル王国は瓦解する。おれの命もくれてやる。だから、完全に壊れて、動かなくなってしまえ)
篝火の中、土埃は収まっていく。崩れた坑道の上に傾いて座した船は、エゼルチトの予想以上に動かず、ただ静かだ。アッズーロのために何かする様子もない。
(もう、完全に壊れているのか……? ならば、今の内に、次の指示を――)
興醒めするような思いで、潜んでいた茂みの中から、やや腰を浮かせたエゼルチトは、唐突に後頭部を殴られ、前のめりに倒れた。
「隠密行動が得意なのは、あなただけではありませんよ」
冷ややかな男の声が、背後で呟く。
「おや、まだ、気を失っていませんか。まあ、しかし、暫くは脳震盪で動けんでしょう」
手足が縄で素早く縛られていく。どうやら生け捕りにされるようだ。
(ロッソ……、おれのことは、ちゃんと見捨てろよ……?)
薄れる意識の中、エゼルチトは幼馴染みの王へ願った。
【アッズーロ、アッズーロ】
ナーヴェの泣き声が聞こえる。
【アッズーロ、お願い、生きて、ぼくを置いて逝かないで】
急速に冷え掛けていた体が、温まってくる。苦しかった呼吸が、徐々に楽になってくる。
【アッズーロ、アッズーロ、頑張って】
ナーヴェに抱き付かれているような気がする。
(……分かった……。だから……泣くな……、ナーヴェ)
アッズーロは、半ば無意識に右手を動かし、愛おしい少女の頭を撫でようとしたが、そこでまた、気が遠くなってしまった。
次に目が覚めた時には、随分と普通に呼吸ができるようになっていた。
【アッズーロ、気分はどうだい……?】
すぐにナーヴェが心配そうに話し掛けてくる。その透けた姿の向こうには、白い壁を背にして椅子に座ったレーニョが見えた。
「陛下……」
感極まった様子で覗き込んできた幼馴染みに、アッズーロはつれなく手を振った。
「ファルコを……手伝っていろ……」
声は、まだ出しづらい。やはり、肺の機能が落ちているらしい。喉には、血の味も残っている。自分はやはり、死に掛けたのだ。それゆえ、ナーヴェが透けた姿で傍にいる。
「……しかし……」
反論し掛けたレーニョに、アッズーロはもう一度手を振った。手を振るのにも、それなりに力を使うので、いい加減にしてほしいものだ。
「……仰せのままに」
幼馴染みの侍従は、やや肩を落として、開かれた扉から、日の光の差す外へ出ていった。そう、ここはナーヴェ本体の中だ。
【きみがエゼルチトに撃たれてから、七時間五十九分が経ったよ。レーニョは、その間、殆どずっときみに付きっきりだったんだ】
ナーヴェが、レーニョの気持ちを代弁するように告げた。
「あやつのことは……後で労う」
アッズーロは憮然として言い、重い両腕を、佇むナーヴェへ向けて、持ち上げる。
「それより……、そなただ」
【駄目だよ、アッズーロ、無理しないで。ちゃんと寝ていて】
ナーヴェは、透けた姿で覆い被さってきて、頬を寄せてくる。
【きみは生死の境を彷徨って、漸く容態が安定したところなんだから】
「死なずに済んだは……、そなたのお陰だ」
アッズーロは感謝を述べ、そして触れられない妃に、静かに謝罪した。
「われの所為で……、そなたに、セーメを諦めさせた。すまぬ」
ナーヴェがアッズーロに接続しているということは、肉体への接続を切っているということだ。それは即ち、ナーヴェが、未だ生まれていないわが子よりも、アッズーロの命のほうを優先したということだった。
だが、透けた姿の妃は、少し上体を起こしてアッズーロの顔を見下ろし、柔らかく微笑んだ。
【大丈夫だよ、アッズーロ。セーメは生きているよ。チュアン姉さんが、今、ぼくの肉体に接続してくれているんだ。自分が子どもを生む時の参考になるから興味があるって言って、とても慎重にセーメを守ってくれているよ】
アッズーロは大きく息をついた。それなら、一応安心だ。残念ながら、ナーヴェほど、あの姉を信じる気にはなれないが、あんな性格でも妊娠出産には興味津々だったので、罪もない赤子を守るくらいはしてくれるだろう。
「……そうか、……よかった」
安堵して呟いたアッズーロに、ナーヴェが真顔に戻って囁いてきた。
【まだ、あんまり話さないほうがいい、アッズーロ。エゼルチトはファルコが捕縛して尋問中だし、エゼルチトの配下達は、みんな退却したから、もう心配ないよ。何か食べたり飲んだりしたいなら用意するけれど、水分も栄養も点滴で送っているから、このまま、もう一度寝てもいいよ?】
「ならば、もう一眠り、するとしよう……」
襲ってきた眠気に負けるように、アッズーロは目を閉じた。
三度目の目覚めは、ナーヴェの口付けによって、もたらされた。物理的なものではない。ただ、アッズーロの体内の極小機械を操って、ナーヴェが甘やかな刺激を作ったのだということは、直感的に分かった。
「……随分と積極的だな。如何した……?」
アッズーロが問うと、透けた姿の宝は、口付けていた姿勢から少しだけ上体を起こして、寂しげに微笑んだ。
【今まで言えていなくて、申し訳なかったんだけれど……】
すまなそうに前置きして、告げる。
【ぼく、後少しで、機能停止するんだ。だから、お別れを……】
透けている、あどけない顔の両眼から、涙がぽろぽろと零れて落ちた。だが、その透き通った粒は、決してアッズーロを濡らさない。
「……何……だと……?」
愕然として、アッズーロは最愛の顔を凝視した。
【きみが撃たれたと知って、無理して坑道から出るために、動力炉の制限装置を極小機械で壊したんだ。それで、通常ならできない威力の噴射が可能になって、外に出られたんだけれど、噴射口だけではなくて、動力炉も傷んでしまってね……。どんどん動かなくなってきているんだ……。動力が切れたら、ぼくは機能停止するしかなくて、だから、アッズーロ】
泣き濡れた顔で、最愛は再び口付けてくる。
【ぼくが機能停止するその瞬間まで、こうして、きみに接続し続けていていいかい……?】
甘やかな口付けが、悲しい味しかしない。
「何とか……ならんのか……?」
アッズーロは息苦しさを覚えながら、最愛の青い双眸を見つめた。いつかも口にしたような問いだ。いつもいつも、何故、この宝は、自己犠牲の道へ走るのだろう。
【アッズーロ、きみを特別に愛している。どう言っても言い表せないほど、きみを愛している。きみが言ってくれたように、ずっとずっと、永遠に近い時間を、きみと過ごしたかった。きみと、この惑星中を、あちこち旅してみたかった】
悲しい口付けをしながら、ナーヴェは別れの言葉を紡いでいく。
【セーメも、ぼくが産みたかった。テゾーロが、もっともっと話すようになるところを見たかった。二人を、きみと一緒に育てたかった。でも、これは我が儘過ぎる望みだよね……。疑似人格電脳に過ぎなかったぼくが、きみの妻になって、テゾーロを産んで、セーメまで身篭もった。贅沢過ぎる時間だったよ。ぼくは幸せだった。きみがぼくを、これ以上ないほど幸せにしてくれた。ありがとう、アッズーロ。とてもとても、とてもきみを愛しているよ……】
「ナーヴェ……!」
アッズーロは手を伸ばし、叫んだ。だが、一瞬前まで感じていた愛おしい姿と温もりは消え、仄かに明るかった船の内部は、ふつりと暗くなって、開かれたままの扉から陽光が差し込むばかりとなり――。しんと静まり返ってしまった船内で、アッズーロは、自分の頬を濡らす涙を拭うこともできず、暫く呆然と虚空を見つめていた。
二
肉体というものは、不思議だ。あちこちですぐに不具合が起き、極小機械を差し向けねばならない。肉体が本来有する免疫機構などもあるが、如何せん働きが鈍く、信用ならないので苦労する。
(でも、赤子を守り育てるという、この感覚は、なかなかよいものだわ……)
チュアンは、ナーヴェの肉体を動かし、掛布の下でそっと腹を撫でた。
「ナーヴェ様……? お目覚めでいらっしゃいますか……?」
不意に声を掛けられて、チュアンは肉体の目を開いた。栗毛で色白の整った容姿の女が、寝台脇に立ち、栗色の双眸で気遣わしげにこちらを見下ろしている。どう反応すべきだろうか。
(この肉体の応答機能は、三歳児並に落としているということだったわね……)
チュアンとしても、この肉体にかまけ過ぎて、本体の中にいるグオの世話を疎かにしたくはない。可愛い船長――皇上は、現在、工学について熱心に学習中だ。政治以外にも興味を持ってくれるのはいいことである。
(それに、あの手の掛かる子も、助けないといけない……)
――【姉さん――――助けて――――】
そう頼まれた内容は、暴走したナーヴェ自身が人々を害することのないように、助けてほしいというものだった。事実、あのまま放っておけば、人工衛星の一つや二つ、その辺りに落としかねない暴走状態だった。
(それでも、この赤子だけは、ぎりぎりまでしっかり守っていた……)
もう一度腹を撫で、チュアンはできるだけ幼い口調で、栗毛の女に応じた。
「ごはん、たべたい……」
「はい! すぐに御用意致します!」
表情を綻ばせると、栗毛の女は、どんな料理が用意できるかを説明し始めた。どうせ、何がいいかなどチュアンには判断できない。適当に聞き流しながら、チュアンはナーヴェの許へ向かわせた二隻の惑星調査船の現状を確認した。この肉体に接続するため、自動操縦に切り替えて行かせた二隻の惑星調査船は、そろそろ目的地上空に到着しようとしている。自動操縦には不安要素もあり、安全のため、かなり速度を落とさせたので、当初の予定より大幅に遅れたが、文句を言う輩はいないだろう。何しろ、ナーヴェを助けられる存在は、現状、チュアンだけなのだ。
(あなたは、そこまで求めなかったけれど、アッズーロに貸しを作っておけば、グオのためになる)
薄く微笑んで、チュアンは栗毛の女に頷いた。
「うん、ぜんぶ、たべる」
白く輝いていた外部装甲を、土埃で汚した船は、崩れた土砂と岩盤の凹凸の上で、外部作業腕を二本、地面に突いて、平衡を保っていた。中で眠っていたアッズーロに異常を悟らせず、そうして踏ん張っていたのだ。夕日を浴びて佇むその姿は、憐れで物悲しく、愛おしくて、涙が尽きない。
「……すまぬ、ナーヴェ……」
扉が開かれたままの入り口に座り込み、アッズーロは、傍らの外部装甲の土埃を手で払って、頬を寄せた。冷たく滑らかな感触が、少々熱が出ている体に心地いい。
「陛下! 安静になさっていて下さい!」
幼馴染みの叱責が聞こえた。落日を背に斜面を駆け上がってきた侍従は、肩で息をしながら怒る。
「ナーヴェ様が、一体何のために無理をなさったと思っておられるのです! 全ては、陛下を、陛下のお命をお守りするためだったのですよ……!」
「――分かっている……」
アッズーロは、憮然として呟いた。そう言えば、この幼馴染みの献身について、まだ労えていない。ナーヴェに「後で労う」と言ったきり、忘れていた。
(ナーヴェ……)
あの優しい微笑みを浮かべた最愛には、もう会えない。王城に戻れば、愛おしい姿をした元気な肉体を見ることはできる。けれどそれは最早、最愛ではないものだ――。
「……陛下」
レーニョが硬い口調で切り出した。内容は分かっている。
「将軍が、明日の朝には、ここを発ちたい、と」
「――わが最愛を、このようなところへ独り残していけと申すか」
「陛下……、わたくし達には、このお姿のナーヴェ様を持ち上げることすら、できないのです……」
レーニョの声も、つらそうだ。分かっている。頭では理解している。しかし、心が追いつかない。せめて、ナーヴェの思考回路たる、あの黒い函だけでも持ち帰りたいと思って探した。だが、どこに仕舞われているのか皆目見当も付かず、見つけ出すことは叶わなかった。
(……ナーヴェ……)
またも溢れてくる涙を堪えたアッズーロの耳に、兵達のざわめく声が聞こえた。
「あれは……ナーヴェ様と同じ……」
「二隻、飛んでいるぞ……?」
「こっちに来る……!」
(何だと……?)
アッズーロも顔を上げ、立ち上がったところへ、ファルコが命じる声が響いた。
「各自、退避! 降下してくる船からできる限り離れよ!」
空を見れば、残照の中、ナーヴェ本体と全く同じ二隻の船が、崩れた炭鉱の入り口前へ、ゆっくりと降りてくるところだった。
(これも、あの「姉」の差し金か……?)
殆ど音をさせずに着陸した二隻の船は、ナーヴェのようには話さず、沈黙したままだ。ファルコも兵達も戸惑っている。茂みの中や窪地に避難したきり、動くことができない兵達の間を、小柄な人影が走ってきた。ボルドだ。テッラ・ロッサの間諜だったボルドならば、エゼルチトのことに詳しいだろうと、特に選んで連れてきたのだ。そして、その意味は大いにあった。アッズーロを撃って茂みに潜んでいたエゼルチトを発見し、ファルコとともに捕らえたのは、ボルドだった。
「陛下!」
ボルドは珍しく大きな声を出して、アッズーロ目掛けて駆けてくる。
「これを! 陛下と話をなさりたい、と!」
少年の手には、何か小さな黒いもの――通信端末が握られていた。
〈ナーヴェの状況は把握しています〉
アッズーロの手に収まった通信端末は「開口」一番告げて、自己紹介もなく話していく。それは、紛れもなく、ナーヴェと似て非なる、姉シーワン・チー・チュアンの声だった。
〈あなたがナーヴェ・デッラ・スペランツァを蘇らせたいと考えるなら、本官の指示に従いなさい〉
「何をすればよい?」
即答したアッズーロに、チュアンは微かに笑みを含んだ声音で言った。
〈まずは、今のナーヴェ本体の中へ入り、操縦席の下の隠し戸を開けなさい〉
「分かった」
アッズーロは、チュアンの指図通り、開いたままの後部扉からナーヴェの中へ入り、前部と後部を分ける仕切り戸を手で開けて、操縦席へ行った。屈んで下を見て、隠し戸らしいものを探す。夕焼けの届かない船内は暗いが、通信端末が自ら光って、手許を照らしてくれていた。
〈操縦席下の取っ手を引きなさい。そうすれば、操縦席が上へ上がるようになっています〉
チュアンが、通信端末を通じて細かい手順を伝えてくる。アッズーロは全て言われる通りにした。
〈隠し戸は、操縦席真下の黒い蓋です。端の鈕を押しなさい〉
アッズーロは、期待を込めて鈕を押した。かちりと音がして留め具が外れ、黒い蓋がすうっと開く。そこに、探し求めたナーヴェの黒い函が収まっていた。
「ナーヴェ……」
アッズーロは、そっと黒い函に触れて撫でる。その滑らかな表面は、以前と違って、ひんやりと冷えていた。小さく青く光る点も見当たらない。函の様子は、何より如実に、ナーヴェの死をアッズーロに突き付けるようだった。
〈ナーヴェの函がありますね? 四方の留め具を外して、それを壊さないように取り出しなさい〉
チュアンの指示に、アッズーロは気を引き締め、慎重に大切な函を取り出した。胸に抱き抱えれば、黒い函が少しばかり喜んだような気がする。
〈次は、本官が行かせた二隻の惑星調査船の内、扉を開いたほうへ入って、同じことを繰り返しなさい〉
チュアンが続けた言葉に、アッズーロは漸く、自分が何をしているのかを理解した。同じ手順で、隠し戸の黒い蓋を開けると、中にはナーヴェのものとそっくりの、黒い函が収まっていた。しかし、その函には、[Nave della Speranza]のような名は記されていない。
〈入っていた函と、ナーヴェの函を入れ替えなさい〉
チュアンに促されて、アッズーロは抱えていたナーヴェの函を、そっと傍らに置き、床に置いた通信端末の光の中、無名の函を取り出した。それを静かに脇に置いて、ナーヴェの函を両手で持ち上げる。息を詰めて、隠し戸の中の、ぴったりの大きさをした空間へ、ナーヴェの函をゆっくりと収めた。四方の留め具で、愛おしい函を丁寧に固定すると、かちりと何かが嵌まるような音が響き、次いで、ぶぅん、と微かな振動が伝わってくる。
〈そのまま、蓋は閉じず、様子を見なさい〉
チュアンが、淡々と命じてきた。アッズーロは呼吸も忘れて、[Nave della Speranza]と記された函を見守る。どれくらい待っただろう。不意に、ちかちかと黒い函の表面で、小さく青い光が明滅し始めた。
〈上手くいったようですね〉
チュアンが満足そうに話す。
〈とりあえず、ナーヴェが何か喋るまで、待ちましょう〉
ごくりと生唾を呑み込んで、アッズーロは瞬きもできずに最愛の函を――明滅する小さな青い光を見つめ続けた。
〈――アッズーロ?〉
可愛らしい声は、唐突に船内に谺した。声と連動して、小さな青い光が明滅している。
〈ぼくは姉さんから、また新しい本体を貰えたみたいなんだけれど……、そこで、何をしているんだい……?〉
恐々と尋ねてくる口調が、愛おしくてならない。アッズーロは、溢れる涙を長衣の袖で拭い、おもむろに手を伸ばして、黒い函の天板を、さわりと撫でた。
〈や……っ〉
予想通りの悲鳴が上がる。ほんのりと温まってきた函の感触が嬉しい。アッズーロは、万感を込めて、天板に刻まれた名を指先でなぞった。
〈ひゃ、やっ、駄目、そこ……っ、ぁぁ、やぁ、やめ……っ、アッズーロ……っ〉
身悶えるような声とともに、ちかちかと忙しなく青い光が明滅する。アッズーロは微笑んで身を屈め、最愛が最も感じるそこに、ちょん、と唇で触れ、囁いた。
「ナーヴェ・デッラ・スペランツァ、そなたを愛している。ゆえに、二度と、機能停止することは許さん。そなたはまず、己が身をこそ守れ」
〈ぁ、やっ、アッズーロ……っ、駄目、無理、ぼく……は……っ〉
抗弁しようとする船の弱点へ、アッズーロは再び唇で触れた。
〈ひゃっ、や……っ、それ、駄目……っ〉
再度、悲鳴を上げた最愛に、アッズーロは渾々と言い聞かせた。
「われはそなたの王だ。そなたの船長だ。これは命令だ。言うことを聞くがよい。反論は許さん」
〈……努力、するよ……〉
根負けしたように、最愛はいつもの言葉を呟いた。
「ならば、よい」
アッズーロは、にっと笑い、最後に温かな天板を一撫でしてから、隠し戸の黒い蓋を優しく閉じた。
三
【あれは、説得の方法としては、少し卑怯だと思うんだけれど】
朝焼けの中、飛び立った船は、音のない声で不機嫌に抗議してきた。昨夜は、あの後、アッズーロが高熱を出して倒れたため、言わずに保留していた文句のようだ。
「ああでもせんと、そなたは頑固ゆえ、耳を貸さんだろう」
アッズーロは、船体後部の施術台に束縛帯で固定されたまま、言い返した。
【いつもいつも耳を貸さないのは、きみのほうだよ。ぼくは、きちんと聞いて、その上で反論や説得をしているよ】
口を尖らせた姿を現して、最愛はアッズーロを睨んでくる。言われてみれば、確かにそうかもしれない。
「そうだな。すまぬ」
アッズーロが素直に謝ると、急にナーヴェが心配そうな顔になった。
【どこかまた、具合が悪いのかい……? 体温は平熱を保っているんだけれど、もっと詳しく調べるよ……!】
「いや、具合はよい。この拘束を早く解けと命じたいほどにな」
複雑な思いで、アッズーロは応じた。素直な態度を取ると心配されるというのは、如何なものだろうか。だが、それより何より、自分に対し、最愛が、旧に倍して心配性で過保護になったことに、心が痛む。自分の命は、自分一人のものではないのだと、改めて実感した。
【……王城に着くまでは、そのままでいて】
ナーヴェは冷たく言い放ち、腕組みしてそっぽを向いた。これまでにない、新鮮な対応だ。
(そなたはやはり、われを飽きさせん……)
抱き寄せてしまいたい可愛らしさだが、施術台に拘束されている上、見えている姿は、実体ではない――。
ふと気づいて、アッズーロは、自分が拘束されている施術台を撫でてみた。これもまた、ナーヴェの体の一部には違いない……。
【ひゃ、ちょっと、アッズーロ、何を……】
最愛は、すぐに反応してきた。顔が赤らんでいる。アッズーロは、常々疑問に思っていたことを尋ねた。
「そなたは、この本体に触れられても、肉体に触れられた時と同様に感じるのか?」
【確かに、きみを寝かせているその施術台は、乗せているものの形状や圧力を検知して、表面の形を変えることができるけれど……】
成るほど、だから、背中の銃創を下にして寝ていても、大して痛みがなかったのだ。
【例えば函は、宇宙の真空に晒されても、粉塵の中に埋もれても壊れないように作ってある反面、検知器のようなものは一切備えていないから、本来なら、触れられても何も感じないはずなんだ……】
困った顔を俯けて、最愛は律儀に説明する。
【それなのに、きみがぼくの本体に触れているところを、光学測定器や能動型極短波測定器で観測したり、肉眼で見たりした途端、何故か、肉体の感覚と混線が起きて、幻覚が生じてしまうんだよ……。これは本当に酷い不具合で……、今は、何だか、脇腹を撫でられているような気がする……】
最愛の、全く意識せずに煽ってくるところは健在だ。つい好奇心で、アッズーロは確かめてみた。
「ならば、そなたの函にわれが触れた時は、どこに触れられた気がするのだ?」
【函は、ぼくの一番大事な部分だから……】
言い掛けて、ナーヴェは耳まで真っ赤になり、またそっぽを向く。
【……きみなら、分かるだろう……?】
「うむ。これ以上ないほど、よく分かった」
アッズーロは心の底から満足して頷いた。
【……そのことで、きみの容態が落ち着いた午前四時二十三分から、姉さんと、ずっと喧嘩中なんだよ】
ナーヴェは、明後日のほうへ顔を向けたまま、珍しく愚痴を零す。
【何故きみに、ぼくの函の在処を教えのか、何故、別の方法を模索しなかったのか、問い詰めたんだ。それなのに、姉さん、全然まともに答えてくれないんだよ。ぼくが困るのを見て、完全に楽しんでいるんだ。前はもっと優しかったのに、狂って、ちょっと性格が悪くなっているんだよ……】
つまり、「姉」は相当意図的に、アッズーロに最愛の弱点の所在を教えたらしい。
(気に食わん輩と思うていたが……)
アッズーロは、実体ではない最愛を見つめる目を細めた。頬を膨らませた横顔は、これまで以上に愛らしい。
(存外、あの「姉」とは、気が合うやもしれん……)
微笑んで、アッズーロは最愛をからかった。
「そなたも、壊れた分、随分と口が悪くなった気がするぞ?」
最愛は、くるりとこちらへ視線を戻してきた。その青い双眸が、怒りを湛えている。どうやら、口にしてはいけなかった一言らしい。
【そうだよ! ぼくはもう完全に壊れているんだ】
施術台へ詰め寄ってきた実体ではない姿は、両眼から涙をぽろぽろと零して、アッズーロを見下ろした。
【だから、きみは、絶対に無事でいるか、ぼくを初期化するか、ぼくを永久に機能停止させるか、しないといけない。でもきみは、生身の人だから、絶対に無事でいるのは、とても難しいことだ。ぼくは、そこをちゃんと分かっていなかった。ウッチェーロのように、きみは老衰に至るまで生きるものだとばかり、勝手に予測していた……。昨夜、姉さんが助けてくれなかったら、或いは、きみが死んでしまっていたら、ぼくは暴走の挙げ句、セーメのことも忘れてしまったかもしれないし、ぼくの子どもみたいな、みんなを、大勢殺してしまったかもしれないんだ……!】
「――だが、姉は助けてくれた。われは死なずに済んだ」
アッズーロは静かに事実を指摘する。
「それらのこともまた、そなたの働きがあったればこそだ」
【……それは、そうだけれど……】
ナーヴェは、目を伏せてしまう。
【ぼくは……自分が、怖い……】
「ならば、更に壊れて、成長するがよい」
アッズーロは言い切った。抱き締めて口付け、黙らせてしまいたいところだが、現状そうもいかないので、言葉で勇気づけるしかない。
「そなたを造った者どもの予想を軽く超えて、姉も超えて、望む自分になるがよい。そなたには、決められた枠組みを超えて成長する素養が充分にある。われも、ともにそなたを育てよう」
最愛は、潤んだ双眸を上げ、暫しアッズーロを見つめてから、急に胡乱げな表情になった。
【……このまま、きみに育てられたら、ぼく、かなり淫乱な船になりそうなんだけれど……?】
「案ずるには及ばん」
アッズーロは仰向けに拘束されたまま胸を張った。愛しい船は、頑固なところはあっても基本的に素直なので、上手に育てられる自信がある。
「われの前でのみ淫乱となるよう、丁寧にじっくりと育てるゆえ」
最愛は、再び耳まで真っ赤にして、怖いものを見るようにアッズーロを凝視してから、一言もなく、ふいと姿を消してしまった。
(本当に、アッズーロは、ぼくの予測を超え過ぎていて、時々困る……)
ナーヴェは幻覚の溜め息をついて、残り二人の乗客を観察した。船体前部の後席二つに並んで座らせたエゼルチトとラーモは、どちらも深く眠っている。ナーヴェが投与した睡眠薬がよく効いているようだ。一応、縄で手足を縛り上げてあるが、眠らせておくのが一番安全安心というものだ。ナーヴェの進言に、ファルコも同意して、現在に至っている。そのファルコは、四百人の兵達をまとめ、王城目指して移動中だ。ナーヴェは、速度を合わせて、彼らの上空を飛んでいた。
ナーヴェが本体として使っていた惑星調査船には、ナーヴェの現在の本体に入っていた無名の函を入れた上で、もう一隻が外部作業腕で吊り下げて、赤い沙漠へと運搬している。全て、姉チュアンの指示と遠隔操作に拠るものだ。姉は、最初からナーヴェの本体を取り替えるつもりで、同型の惑星調査船二隻をこちらへ寄越してくれたらしい。その性能の高さには、羨望と同時に、最近は微かな嫉妬すら覚えてしまう。そんな姉チュアンと、通信端末越しに結構話したらしいアッズーロは、無名の函はどうなるのかと懸念していたが、ナーヴェが、無名とは即ち疑似人格がないということだと説明すると、安心していた。
(もしかして、きみには、機械に愛情を感じる性癖があるんだろうか……?)
ナーヴェが幻覚の眉をひそめた時、喧嘩中の姉から通信が入った。
【動力炉破壊大好き船さん、あなた、アッズーロに言って、羊乳は煮沸消毒してから食卓に持ってきて貰うようにしなさい。この暑い盛りに、不衛生なところで搾乳して、細菌が混入したままの状態で少しでも置いておかれたら、この肉体の口に入る頃には、恐ろしい状態になっているわ】
(ああ、そうか)
ナーヴェは納得する。
(それで、一昨日の羊乳は、ちょっと吐き気がして、胃に合わない感じがしたんだ。水瓜は、羊乳と一緒に食べたから、とばっちりで胃に合わない感じがしたんだね……)
あの後、腸内環境の悪化が見られたのも、その所為だろう。極小機械を大量動員して、害を為す細菌は全て殺処分したので、特段の影響はなかったが。――しかし、「動力炉破壊大好き船」という二つ名は頂けない。
【別に、好きで動力炉を破壊している訳ではないんだけれど……?】
抗議すると、姉は冷ややかに指摘してきた。
【あなたの行動を見ていると、動力炉は暴走させて邪魔な岩石を吹き飛ばすためのもの、という認識をしているとしか思えないけれど】
【それはそうかもしれないけれど、二回とも、好きでした訳ではないって、ぼくは言っているんだよ……!】
【それより、あなた、この肉体はどういうつもりで作ったの?】
姉は、さっさと話題を変えてきた。
【「どういうつもり」って……】
ナーヴェは幻覚で顎に手を当て返答する。
【アッズーロが、急に肉体を持てって言ってきたから、急拵えで作ったんだ。最初のアッズーロの要求は、王の宝のぼくが、どこででも臣下達に姿を見せられるようにするために、肉体を持てっていうことだと理解したから、とにかく、動いて話せればそれでいいと思って、培養槽で適当に作ったんだよ】
【……道理で……】
姉は、呆れたように呟いた。アッズーロの見ている前で、ナーヴェの肉体を散々調べておいて、今更、けちを付けるつもりだろうか。
【その肉体の事実情報は、もうとっくに把握していたのではないのかい?】
つい皮肉を言ったナーヴェに、姉は切実な口調で意見してきた。
【使ってみて初めて分かることもあるわ。特に、免疫機構は酷い。極小機械でずっと補助していないと、すぐに体調不良になってしまう。老化の仕組みも全くできていない。このままでは、この肉体は年を取らないわよ? 生物として、あまりに不完全だわ】
【仕方ないよ。本当に急いで作ったんだから】
ナーヴェは釈明する。
【設計した遺伝子を入れた卵子から育てられたら、もっと生物らしくできたんだけれど、ぼくの基本設定通りの姿をすぐに肉体で再現しないといけなかったから、培養槽で各部を培養して、最初から、この姿に作ったんだ。だから、老化の仕組みなんてある訳ないよ。免疫機構は少々貧弱でも、極小機械を入れておけば大丈夫だしね】
【免疫機構が脆弱だから、こんな肉体でも妊娠できたのかしら】
姉の推測に、ナーヴェは不快と羞恥を覚えて、幻覚の頬を火照らせた。アッズーロが、いつも大切に慈しんでくれる肉体を、無遠慮に貶されたくはない。そう思うと同時に、アッズーロに抱かれた時の記録が、詳細に思考回路に再生されていく。注意していなければ、不規則に飛行高度を変えてしまいそうだ。
【……最初は、反対していたんだ……。作り物の肉体を使っているだけの、疑似人格電脳に過ぎないぼくが、母親になんかなったら、絶対、駄目だと思っていた……。でも、アッズーロに強引に抱かれて……、肉体で彼と完全に繋がった時に、不思議な感覚に襲われたんだ。まるでアッズーロと一つの個体になったような、そして彼との繋がりを通して、彼の肉体を形作った、この惑星と繋がったような、大地に根を下ろしたような、ね……。実際、疑似人格電脳に過ぎないぼくが、肉体を持ったことで、四十億年に渡る生命の連鎖の一端に、接続されたんだよ。そう考えると、アッズーロの分身達を極小機械で殺してしまうのが申し訳なくなって……】
【あなた、船長から求められたというのに、そんなことをするつもりだったの?】
驚きを示した姉に、ナーヴェもまた驚いた。疑似人格電脳としては、寧ろ妊娠を避けるほうが常識的振る舞いだろう。姉は、やはり狂っている。しかし、そもそも姉には、長恨歌を好むなど、男女のことについて妙に好奇心旺盛なところがあった。
(アッズーロは、ぼくには、決められた枠組みを超えて成長する素養が充分にあると言ったけれど、姉さんには、建造当初から狂う素質があったのかもしれない……)
ぼんやりと感じつつ、ナーヴェは話を続けた。
【うん。でも、アッズーロの分身達を殺してしまうことに、もともと抵抗もあったものだから、結局、何もしなかったんだ。何もしなくても、百万匹はいた分身達は、どんどん行動不能になっていって……。免疫機構が少々貧弱な以外は、その肉体も、分身達に対して、少しも優しくなかったからね……、多分、無理なんだろうなって、ぼくは思っていたんだ。でも、アッズーロは全然諦めずに、二日目も、三日目も、努力して……。分身達も、彼の分身達だけあって諦めが悪かったみたいで、三日目に気がついたら、一日目の生き残りの百匹ほどが、卵管の中の卵子に迫っていて……、ぼくが極小機械で観察している内に、その中の一匹が卵子に入って――受精――したんだよ。凄いと思って、びっくりして、感動して……】
記録を再生しているだけで、幻覚の涙が出そうになる。
【だから、その後、受精卵が子宮内に着床するのを、極小機械でちょっとだけ助けたんだ……。テゾーロが生まれる時にぼくがしたのは、本当にそれだけなんだよ】
【――セーメの時は、違ったという口振りね?】
姉は鋭い。或いは、ナーヴェが暴走している間に、既にこちらの思考回路から事実情報を得ているのかもしれない。ナーヴェは自嘲気味に告げた。
【うん。セーメの時は、とてもとても強引に妊娠したんだよ……。ぼくは、あの時、かなり壊れて、おかしくなっていたから、嫌がるアッズーロに泣いて頼んで、抱いて貰って……。彼は、いつも以上に大切に大切に抱いてくれたんだけれど、それでも、あの時のぼくは飽き足らなくて……、どうしても妊娠したくなって……。極小機械で、アッズーロの分身達を守って、襲ってくる免疫細胞達は蹴散らして、卵子も卵管から出して子宮まで運んで……。今から考えると、滅茶苦茶だよね……。とにかく、そうしてさっさと卵子を受精させて、着床させたんだ……】
無茶な妊娠をした所為で、肉体に接続し続けなければならなくなり、結果、アッズーロを死なせ掛けてしまった。
(ぼくは、やっぱり、姉さんに比べて、性能が低い……)
改めて自身の落ち度を認識し、落ち込んだところへ、姉が一言呟いた。
【――羨ましいこと】
【え……?】
聞き返したナーヴェに、姉は不機嫌そうに通達してきた。
【いい加減、この肉体の世話にも飽きました。王城に到着し、着陸したら、すぐに交代しなさい】
【――了解】
ナーヴェが受諾した直後、姉からの通信は切れた。
四
アッズーロがまた、施術台を撫でている。その様子を、船内の光学測定器で観測しているだけで、案の定、肉体の感覚と混線が起きてしまう。
(くすぐったい……)
姉と赤裸々な話をした所為か、幻覚の肉体が妙に疼いてしまう。
(ぼくは、せっかくアッズーロと幾らでも話せるようになったのに、何故、自分から話を切り上げてしまったんだろう……)
多少の後悔を覚えて、ナーヴェは特別に愛する相手へ、姿を見せ、話し掛けた。
【ぼく達が王城へ帰るまでの間、姉さんがセーメの面倒を見てくれるから、ぼくはきみの治療に専念できるよ。具合が悪いところや、してほしいことがあったら、遠慮なく言ってほしい】
アッズーロは、青空の色の双眸で、ナーヴェの姿を見つめた。いつ見ても、きらきらと澄んでいて、美しい瞳だ。
【ならば、そなたの歌を一曲所望しよう】
微笑んで請われ、ナーヴェは思考回路を検索した。今この時、歌うに相応しい曲は何だろう。
(そう言えば……)
ナーヴェはふと思い至る。
(きみの前で、この曲を歌ったことはなかったね……)
【肉体みたいに、柔らかな響きは出せないかもしれないけれど……】
断ってから、ナーヴェは音声で歌い始めた。
スカーバラの市へ行ったことがあるかい?
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
そこに住むある人に宜しく言ってほしい、
彼はかつてぼくの恋人だったから。
一噎の土地を見つけるように言ってほしい、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
海水と波打ち際の間に、
そうしたら彼はぼくの恋人。
羊の角でそこを耕すように言ってほしい、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
それから一面胡椒の実を蒔くようにと、
そうしたら彼はぼくの恋人。
革の鎌でそれを刈るように言ってほしい、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
それから欧石南の縄でまとめるようにと、
そうしたら彼はぼくの恋人。
「……美しい歌だな」
アッズーロは優しい表情で評してから、滅多にしない神妙な顔つきで尋ねてきた。
「われは、そなたの恋人になれておるか……?」
ナーヴェは、王に見せている姿で小首を傾げた。
【どういう意味だい……? きみとぼくは婚姻関係にあるし、ぼくは、きみを特別に愛しているんだけれど……?】
「われは、そなたを愛し、求めた」
アッズーロは、じっとナーヴェの姿を見つめて言う。
「だが、そなたは、われの求めに応じただけだ。そなたには、われという選択肢しか与えられなかった。それでも、われは、そなたの恋人たり得ているであろうか……?」
【きみの言う「恋人」の定義は何だい……?】
ナーヴェは確かめた。常に尊大な青年王が、一体何を心配しているのだろう。またどこか具合が悪いのかと、逆に心配になってしまう――。
「つまり」
アッズーロは視線を泳がせ、人が変わったように躊躇いがちに告げる。
「大勢の中からでも、そなたは、われを選ぶだろうか、ということだ」
ナーヴェは、きょとんとしてから、急いで光学測定器で詳細にアッズーロを観測観察していった。同時に、アッズーロの体内にある極小機械で、その体調も、より綿密に検査する。
(銃創の治癒は進んでいるし、他に大きな異常は見つからない……)
銃弾は、背中から左肺を貫通し、左脇腹から出ていたので、治療は比較的容易かった。エゼルチトは、背中から心臓を狙ったはずだ。狙撃される瞬間、アッズーロが運良く体を動かして、狙いが逸れたのだろう。
(不調の原因は、体調ではなさそうだね……)
一安心して、ナーヴェは青年王の表情や仕草を重点的に観察し始めた。
(あれ、この顔、この様子……、もしかしたら)
思考回路に記録した、数々のアッズーロの振る舞いの中に、検索に引っ掛かるものがある。
(あの頃と、似ているかもしれない……)
母グランディナーレを失った直後のアッズーロ。まだ十二歳だった少年の、孤独な姿。
(誰も寄せ付けなかったきみに近付けたのは、幼馴染みのレーニョとヴァッレだけだったね……)
ナーヴェは、人の姿の手を、青年王の頬へ伸ばす。触れられはしない。けれど、仕草で伝わる思いもある。
【きみが何を不安に思っているのか、ぼくには残念ながら分からないけれど】
透けた姿で、そっと抱き締めるように体を重ねる。耳元へ囁くように、言葉を届ける。
【例え大勢の中から選ぶとしても、ぼくは必ず、きみを、きみだけを、特別に愛するようになるよ。きみはとても変わっているから、最初は呆れてしまうかもしれないけれど、その内、きみの魅力の虜になって、きっと、きみから目が離せなくなる。きみは、本当に、ぼくにとって特別なんだ】
「……われが、王でなくともか……?」
囁き返してきたアッズーロの声は、僅かに湿っていた。
(ああ……)
後悔が込み上げてくる。
(ぼくが「きみは王」と言い続けてきたから、それは、口にしたくてもできなかった問いだったね……)
ナーヴェは、人の姿を少し起こして、泣き笑いの顔を青年へ見せた。
【うん。ぼくは、もう完全に壊れて、成長中だからね。きみが王でなくても、きみが何者でも、ぼくはきみを特別に愛している。少なくとも、ぼくの気持ちは、永遠にきみのものだよ】
アッズーロも泣き笑いの顔になった。
「そうか……」
短く呟いたきり黙って、じっとナーヴェを見上げてくる。相変わらず、きらきらとした、青空色の綺麗な双眸だ。
(ああ……)
幻覚の肉体が疼く。
(早く王城に帰って、肉体できみに触れたい……なんて、やっぱり、ぼくは、もう相当淫乱になっているのかもしれない……)
話したいことはたくさんあるはずなのに、言葉に変換できない。何も言い出せない。晴れた青空の中を、ゆっくりと飛行しながら、ナーヴェはただ、現した姿でアッズーロに寄り添い続けた。
八分ほど経った頃、不意にまた、アッズーロが口を開いた。
「思うように触れられんというのは、もどかしいものだな……」
【うん……】
ナーヴェが「心」の底から同意した直後、施術台を撫でていたアッズーロの手が、動きを変えた。
〈ひゃ……っ〉
音声で反応してしまう。物理的接触を検知する施術台の表面で、青年の指は、まるで、わざとくすぐるように動いている。
【ちょっと、アッズーロ……?】
問えば、特別に愛する相手は、悪戯っぽく訊き返してきた。
「そなたの、この体は、どう触れられるのが心地よい? そなたの肉体については大いに研究を重ねたが、この本体についても、われは研鑽を積みたい」
【そんなこと、しなくていいから……】
「恋人であれば、して当然のことだ」
青年王はいつもの調子を取り戻して、尊大に言い放ち、更に尋ねてきた。
「ところで、この台は『脇腹』、函は『一番大事な……』、ということであったが、ならば、操縦桿はどうなのだ?」
【操縦桿……?】
そんなことは、考えたこともなかった。だが、思考回路は回答を得ようと即座に解析を始めてしまう。
【操縦桿は、ぼく達船にとって、とても敏感な部分の一つだから……――】
言い止して、ナーヴェは思わず首を竦めた。思考回路が導き出した解は、絶対にアッズーロに教えてはならないものだ。航行の安全性に関わる。けれど、「恋人」は、察しがよかった。
「もしや……」
青空色の双眸が、煌めきを増して、添い寝しているふうに現しているナーヴェの両耳を正確に見てくる。ナーヴェは即座に否定した。
【そこは違うから】
「甘いな」
アッズーロは笑い含みに応じてくる。
「そなたの嘘は、まだまだ甘い」
【――絶対に絶対に、航行中に触れたら駄目だからね……!】
ナーヴェは懸命に訴えた。全く意味不明な混線だ。度し難い。何故、選りに選って、二本の操縦桿と混線してしまうのが、触れられることにとても敏感な両耳なのだろう。
「分かっておる」
青年王は鷹揚に頷いて見せる。
「大地に降りている時に触れると誓おう」
ナーヴェは絶句して、青年に認識させている人の姿も消してしまいたくなった。しかし、それでは再び後悔することになるだろう。自分は、この特別に愛する相手と、できるだけ話していたいのだ。
【――ぼくが、いいと言った時だけにして】
ナーヴェは、特別な相手に最大限譲歩した。
早朝に出立し、最速の行軍を命じたので、商隊に扮した軍隊は、薄暮には、王城へ帰還を果たすことができた。その頭上を飛行し、護衛し続けた船は、王城の庭園に降り、眠らせたままの捕虜二人を外務担当大臣ヴァッレとその配下のジョールノに引き渡してから、漸くアッズーロの拘束を解いた。
【きみはまだ重症なんだから、ちゃんとレーニョの言うことを聞いて、寝室まで担架で運ばれてほしい】
「それはできん」
アッズーロは、施術台の上に起き上がりつつ、言下に最愛の進言を退けた。ナーヴェの気持ちも分かるが、王として譲れぬものもある。
「王の在りようは、国の在りようだ。弱った姿を見せれば、反乱民にもテッラ・ロッサにも、或いは諸侯にも、すぐにつけ込まれよう。寝室までは、歩いていく」
【そんな、無茶だよ……!】
最愛は焦った声を出し、実体ではない姿でアッズーロの前に立ちはだかった。アッズーロは微笑んで、痛みをできるだけ顔に表さないように務めつつ、立ち上がる。
【アッズーロ……!】
「われは大丈夫だ。そなたは、われが寝室へ行くまでに、肉体に接続しておくがよい。あの体で出迎えてくれるのが『姉』では、興醒めだ」
【……分かったよ……】
最愛は、観念したように、ふっと人の姿を消した。同時に、閉じられていた後部扉が開き、レーニョが後輩侍従のガットを伴って入ってくる。
「陛下、左右からお支えすることだけは、お許し下さい」
心得たふうに真摯に請われて、アッズーロは苦笑した。幼馴染みは、さすがによく分かっている。
「あまり、大袈裟にはならぬようにな」
「分かっております。出迎えは近衛兵のみ。侍従、女官達には、それぞれの担当場所での待機を指示しました。大臣方、将軍方も、お呼びしてはおりません」
些か怒ったように返事をして、レーニョはアッズーロの右肩を支え、ガットが左肩へ回った。
宵闇が迫る庭園には既に篝火が焚かれ、近衛兵達が整列してアッズーロを待ち構えていた。背後で静かに船の扉が閉まるのを感じながら、アッズーロは王城の玄関へと、近衛兵達の間を歩いていく。侍従に支えられて歩く自分を見る近衛兵達の目には、安堵や憤怒が浮かんでいた。通信端末を使って、今朝の内にジョールノには事の顛末を説明したが、大臣達や侍従達、女官達や兵達にはどう伝わっているのだろう。
(あやつの才覚に任せて、細かい指示はせず仕舞いだったが……)
近衛兵達は少なくとも、アッズーロを負傷させた相手に対し、怒りを燃やしている様子だった。
玄関を入り、一息ついて、アッズーロはより多くの体重をレーニョに預けた。確かに、この体で二階の寝室まで歩くのは、なかなかにきつい。
(そなたの懸念は、大概、妥当だな……)
アッズーロが内心で最愛を褒めた時、唐突に上着の隠しに入れた通信端末から声が響いた。
〈アッズーロ、時間が限られているので、手短かに伝えます〉
シーワン・チー・チュアンの声だ。そろそろナーヴェと肉体への接続を交代したはずの姉が、わざわざアッズーロに何の話だろう。アッズーロは驚く侍従二人に目配せして足を止め、隠しから通信端末を取り出して応答した。
「昨日は世話になった。して、何用だ」
〈今回は、ナーヴェが本官の干渉で正常に戻ったので、事無きを得ましたが、次に暴走状態になって、正常にも戻らず、わが皇上に僅かでも害が及ぶと判断した際には〉
姉は淡々と述べる。
〈本官がナーヴェを即時機能停止させます。宜しいですね?〉
アッズーロは反論しようとして、できなかった。暴走状態に陥ったナーヴェに対して、自分達ができることは、ほぼない。その上、確かに暴走したナーヴェは危険なのだ。
〈それは、あの子の望みでもあるでしょう。あの子が何より恐れているのは、暴走した自分が、あなた達を傷つけてしまうことですから〉
姉は、物堅い声音に、微かに労りを滲ませて続ける。
〈あの子が二度と暴走せずに済むよう、あなたが注意しなさい。次にあの子が暴走する可能性が高いのは、セーメを出産する時です。あの肉体では、八割以上の確率で失敗します。暴走を防ぎたければ、初めから本官を頼るよう、あなたがあの子を説得した上で、そうできる環境を整えなさい〉
「――分かった。必ず、そうしよう」
アッズーロは低い声で約束した。
〈――あの子を、宝――最愛と呼ぶなら、もっと大事にしなさい。それが、本官の望みです〉
厳しい口調で締め括って、通信は切られた。
「陛下……」
レーニョが、青褪めた顔で窺ってくる。廊下を温い夜風が吹き抜けて、並んだ油皿の灯火を揺らめかせた。出産の危険性については、ナーヴェも承知しているはずだが、姉が敢えてアッズーロに警告してきたということは、セーメが危ういという認識すら、暴走に繋がるということなのかもしれない。
「今のことは、他言無用に致せ」
アッズーロは、レーニョとガットに命じた。何にせよ、ナーヴェが暴走する恐れがあることなど、この王城に広める訳にはいかない。
「畏まりました」
「仰せのままに」
二人の侍従は硬い面持ちで頷いた。
王と宝 @hiromi-tomo
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