第20話 国の要

     一


 燦々と朝日が注ぐ中、羊の柵の中に鎮座した船の周りで、住民達は鋤や鍬を構えている。彼らが睨み付けているのは、得体の知れない船ではなく、エゼルチトとラーモ、そして姿を現している二人の配下達だ。

(やれやれ。船の姿でも、これほどの懐柔力か)

 エゼルチトは、住民達に守られた船を見つめ、溜め息をついた。潜ませている、残り四人の配下達まで呼べば、住民達を無力化し、その農具を奪い、船の内部へ入って破壊することも可能だろう。

(この好機を逃す手はない)

 エゼルチトは配下達に合図を送り、住民達へ最後通告をした。

「それは、愚かなる王アッズーロが自らの保身のために招き入れた、テッラ・ロッサの新兵器だ。われらはアッズーロの愚挙を阻むため、それを破壊しに来た憂国の志士! われらに道を空けよ! 惑わされているそなたらに代わって、われらがその兵器を破壊する! われらを妨げる者には、相応の覚悟をして貰うぞ!」

「違うよ!」

 鍬を両手で握り締めた老婆が言い返してきた。

「あたしゃ、王都で神殿に参ったことがあるから分かるんだ! これは、こちらの方は、王の宝だ! 何しろ、神殿にそっくりだからねえ! 王の宝は、人のお姿にも、船のお姿にもなれると聞いた! だから間違いないよ! 王の宝が、あたし達の羊を、あたし達の暮らしを、救いに来て下すったんだ!」

「王の宝は、そのようなものではない!」

 エゼルチトは住民達を怯ませるため、怒鳴る。

「それは、王の宝を自らの権威付けに利用せんとする、アッズーロが弄した詭弁だ! そのような世迷い言を申していると、神ウッチェーロの更なる罰が下るぞ!」

「喧しい!」

 今度は鋤を手に仁王立ちした大柄な男が、顔を真っ赤にして怒鳴り返してきた。

「おれらを苦しめるだけの神ウッチェーロなんざ糞食らえだ! テッラ・ロッサの新兵器だろうが王の宝だろうが、どっちでも構わねえんだ、おれらには! ただ、おれらには羊が必要だ! 憂国の志士だか何だか知らねえが、本当にこの国のことを憂えてるなら、羊の病を治せ! それができねえんなら、黙ってろ!」

「それは、われらに仇為すものだ! われらの在りようを歪めるものだ! そなたらにも、いずれそのことが理解できる日が来よう!」

 エゼルチトは言い放って、人質にしているラーモ以外の六人の配下達を、まずは民達へ向かわせた。鍬や鋤を奪わせるためだ。

〈彼らに手を出すな!〉

 船が叫ぶ。

〈ぼくがさっき教えたのは嘘だ! ぼくの、この体は、内部だろうと、そんな農具では壊せない! 単純な人力や道具で壊せるような素材でも構造でもないんだよ!〉

「『嘘』か」

 エゼルチトは苦笑した。自分が思っていた以上に、王の宝は「人」らしい。

「だが、それこそが嘘という可能性もある」

 指摘して、エゼルチトは農具を奪った配下達に命じた。

「力の限り、その船を破壊せよ! おまえ達の力は、『単純な人力』ではないと示してやれ!」

〈無駄なことを……!〉

 船は悲しげな声で抗議してくる。

〈そんなことをしても、ここの人達の大切な農具が傷つくだけなのに……!〉

 けれど、攻撃はしてこない。エゼルチトの配下達が住民達から農具を奪う際、大きな怪我などはさせなかったので安堵しているらしい。船体後部の扉を閉めることすらしない。エゼルチトがラーモを傷つける可能性を、未だ排除できないでいるのか、或いは――。

(本当に、農具では破壊できないということか……?)

 エゼルチトの配下六人は、開きっ放しの扉から用心深く中へ入り込んでいき、暫くすると、一人が困惑した表情で出てきた。

「座席も卓も壁も天井も床も、一体何でできているものか見当も付きません。とにかく、全く壊すことができません。罅すらできないのです……」

 報告に、エゼルチトはもう一度溜め息をついた。

「嘘ではなかったということか。度し難い頑丈さだな。ならば皆、降りよ」

 配下達に指示してから、エゼルチトは、王の宝を改めて脅迫する。

「船よ、おれに、この男を殺させたくなくば、即刻、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山の入り口へ行け。寄り道は許さん。そこで、おれが行くまで待っておけ。もしおまえがこの条件を破れば、それが判明した時点で、おれは、このラーモを殺す。分かったな?」

〈ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山――かつて、このフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領一の採掘量を誇った炭鉱の入り口だね。分かったよ〉

 船は再びあっさりと承諾すると、エゼルチトの配下達の背後で後部扉を閉めた。そのまま低い音を響かせ、藁と砂埃を巻き上げて、粛々と浮き上がる。

〈なら、先に行って待っているから〉

 親しげとすら聞こえる声音で言い残して、船は一気に空へと上昇し、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山へ船首を向けると、ゆっくりと飛び去っていった。



「……アッズーロ……」

 王の宝の呟きに、フィオーレは急いで、その枕元へ行った。ラディーチェはテゾーロとインピアントを遊ばせるため、別室へ行っている。

「ナーヴェ様、お目覚めでございますか?」

 声を掛ければ、王妃は、うっすらと目を開き、青い双眸でフィオーレを見上げて問うてきた。

「アッズーロは……?」

「ただ今、緊急の大臣会議中でございまして。お急ぎということであれば、お呼びして参ります」

 フィオーレが答えたところへ、背後から当人の声が響いた。

「ナーヴェが起きたのか?」

 会議を終えたらしい青年王は、足早に寝室を過って王妃の寝台脇に来る。フィオーレは素早く妃殿下の枕元を退き、一歩下がった位置から二人を見守った。

「アッズーロ、やっぱり、うそ、あんまりよくなかった」

 王の宝は、開口一番、しゅんとした様子で告げた。

「如何したのだ」

 アッズーロは気が気でないといった横顔をして、寝台脇に跪き、妃の頭を撫でて尋ねる。幼子のようになっている王の宝は、優しい手に嬉しげに目を細めて言った。

「むらのみんなが、ちょっとあぶなかった。おおけがはなかったけれど、くわとすきは、こわれたものもあった。こんどは、もっともっとかんがえて、うそをつくよ」

「そなたは無事なのか?」

 王は、フィオーレも最も気にしていることを確かめた。

「うん……」

 歯切れ悪く、宝は迷ったふうに言う。

「いまは、だいじょうぶ。でも、これからミニエラ・ディ・カルボーネこうざんにいくから、たぶん、ずっとかえってこられなくなるとおもう……」

「どういうことだ」

「きっと、エゼルチトは、ばくやくで、こうどうをくずして、ぼくをうめるつもりだから」

「何だと……」

 血相を変えた青年王とともに、フィオーレも血の気の引く思いがした。

(何故、ナーヴェ様が、そのようなことをされなければならないの……? 人々のために、こんなに無理をして、羊の薬を作って下さっている方に、何故、そんなことができるの……?)

 エゼルチトとは、一体どういう人物なのだろう。

(有能な将軍であるとは聞いているけれど……)

 王の宝ナーヴェは、テッラ・ロッサに対しても大いに友好的だ。

(確かにナーヴェ様は神の御業を使われるから、恐れる気持ちも分からなくはないけれど、ナーヴェ様が以前よく仰っておられたように、そのお力は使いよう。テッラ・ロッサのために水路も造ろうとなさっているそのお力を、上手く利用することを考えたらいいのに……!)

 両手を握り締めたフィオーレの視線の先で、当の宝は微笑んでいる。

「ぼくは、がんじょうだから、だいじょうぶ。それより、せっかくできたくすりを、とちゅうでいっぱいおとしていくから、ひろってつかって」

「そなたは……」

 王は顔を歪めて、言い止した言葉を呑み込んだようだった。この幼い状態の宝相手では、どう諫めても無意味だと思い直したのかもしれない。

「とにかく、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山だな? すぐに隊商に扮した軍をそちらへ向かわせる」

 王が明かした作戦に、宝は両眼を見開いた。

「ぐん……? アッズーロ、エゼルチトと、たたかうの……?」

「そなたは王の宝、この国の要だ。そのそなたを害する輩に対し、軍を動かして何が悪い」

 青年王の物言いは、まるで言い訳をしているようだった。公の軍事行動に私心が混じっていることを、誰より王自身が分かっているのだろう。

「でも……、ぼくは、たたかってほしくないよ……」

 宝は切なく訴える。

「ぼくはまだだいじょうぶだから、くすりをひろって、アッズーロ。ぐんのひとたちに、くすりをひろって、くばってっていって。おねがい」

 幼い所為か、常よりも直接的なお強請りに、王は悲しげに応じた。

「勿論、それもさせよう。だが、そなたを救いに行くこともやめはせん。これは最早決定事項だ。そなたは、でき得る限り自身の安全を図りながら、助けを待つがよい」

 宝の美しい両目から、涙が零れた。王はその涙を丁寧に指先で拭い、宝の目元に優しく口付けて諭す。

「そなたは、わが妃、わが友、わが宝だ。テゾーロとセーメの母だ。そして、この国の支柱だ。最愛よ、われらは、そなたが何と言おうと、そなたを守ることに、全力を挙げる」

「ぼくは、このほしのみんなを、まもるためにいるんだよ……?」

 朝日の中、最後に涙を一筋流して、宝は目を閉じてしまった。話し合いを諦めたような疲れた顔で、宝はそのまま眠りに落ちていく。王は、沈痛な面持ちでその寝顔を暫く見守ってから、意を決したように立ち上がった。

「フィオーレ、われは隣にいる。ナーヴェに何かあれば、すぐに呼ぶがよい」

 短く言い残して執務室へ去る王に一礼して、フィオーレは宝に視線を戻した。王が丁寧に拭ってはいたが、その白い頬には、窓からの柔らかな日差しに照らされて、まだ濡れた跡がある。フィオーレは、衣装箱の一つから手巾を取り出して妃の枕元へ屈み、そっと白い頬の涙の跡を拭って囁いた。

「ナーヴェ様、御無理は禁物ですよ。努力は、なさり過ぎないで下さいね」



(また、ぼくはアッズーロを傷つけた……)

 のろのろと薄曇りの空を飛びつつ、ナーヴェは幻覚の溜め息をついた。エゼルチトから「寄り道は許さん」と言われたが、速度までは指定されていない。どうせエゼルチトが来るまで待っていなければならないので、ナーヴェは現在時速四粁で飛んでいた。平均的な人の歩行速度よりも遅いくらいの速度だが、それでも、空中を直線的に目的地へ向かっているナーヴェのほうが、地上を来るエゼルチトより速いだろう。低い山を一つ越えたので、そのエゼルチトからはもう見えないところへ来ている。

(そろそろ、薬の投下を始めよう)

 寄り道は禁じられたので、完成した抗生物質をアッズーロ達に渡すためには、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山への道中で落としていくしかない。

(まるで『ヘンゼルとグレーテル』の「白い小石」みたいになるね……。でも、オリッゾンテ・ブル軍のみんなが拾ってくれたら、寧ろ「麺麭屑」かな……)

 生真面目な姉シフ・デル・ホフヌンクが丁寧に教えてくれた童話を、思考回路で一瞬だけ再生してから、ナーヴェは船体の内部作業腕二本と外部作業腕四本を稼動させた。澱粉で作った小さな繭に入れた抗生物質を、更に百個ずつ薄い羊毛の袋に入れて、順繰りに数十米下の地表へ投下していく。羊毛は、昨夜から先刻に掛けて、船内に入れた羊達から少しずつ貰ったものだ。採取したものから必要なものを素早く創り上げる性能は、この本体になっても、かなり優秀だと自負している。

 羊毛を染色することまではできなかったので、地表に点々と落ちて連なる袋は白い。

(やっぱり、「白い小石」みたいに見えるね……)

 ヘンゼルが道々落とした「白い小石」は、彼らを導いて無事に家へ帰らせた。

(ぼくも、ちゃんときみの許へ帰れるように、努力しないとね……)

 あの優しい王を、これ以上傷つけたくはない。肉体の子宮内にいるセーメも心配だ。胎盤は順調に形成されている途上だが、肉体の状態が悪化すれば、何が起こるか分からない。テゾーロにも、もっと歌ってやりたい。フィオーレやラディーチェ、ポンテやミエーレやレーニョにも心配を掛けたくない――。

(ああ、駄目だ、これも不具合だね……。油断すると、家族のことばかり、身近な人のことばかり、演算してしまう……)

 自己嫌悪に陥りながら、ナーヴェは黙々と抗生物質の投下を続けた。


     二


「……ごはん、たべたい……」

 昼前になって、眠っていた宝は唐突に呟いた。フィオーレはすぐに駆け寄り、宝の目が開いていることを見て取ると、笑顔で応じた。

「すぐに御用意致します」

 それから、執務室の入り口へ走る。だが、フィオーレが知らせるより早く、青年王は気づいて執務室から出てきた。

「ナーヴェ、大事ないか?」

 気遣わしげに声を掛け、王は素早く動いて、起き上がる宝の背を支える。宝は小さく欠伸をしてから言った。

「だいじょうぶ……。ぼくは、ミニエラ・ディ・カルボーネこうざんについたけれど、エゼルチトは、まだだから……。いまのうちに、ごはん、たべたい……」

「分かった。どのようなものなら食せる?」

 優しく尋ねた王の胸に、宝は、甘えるように凭れて答えた。

「なんでもたべられるよ……? ちょっとねむいだけで、げんきだから」

「そうか。ならば、用意させてあるものを持ってこさせよう」

 王は応じて、フィオーレを振り向いた。

「厨房に行き、若布と玉葱と露草の和え物、鮭の燻製の薄切り、緑茶、檸檬の蜂蜜漬けを持ってくるがよい」

「仰せのままに」

 一礼して、フィオーレは身を翻し、厨房へ走った。

 一階にある厨房の入り口にフィオーレが立つと、料理長チューゾは、調理台の上にあった盆を無言で渡してきた。そこには、アッズーロが指定した通りの料理が載っている。全く、以心伝心とはこういうことを言うのだろう。

「これで相違ないか?」

 一応確かめてきた料理長に頷いて盆を受け取り、フィオーレは足早に、王と王妃の寝室へ戻った。

「ぜんぶ、たべやすそう。えいようも、まんてんだね。ありがとう、アッズーロ」

 宝は喜んだ様子で王に抱き上げられ、椅子に落ち着く。フィオーレは、その前の卓に、そっと盆を置いた。

「すごくすごく、おいしそう……! けんこうにいいものばかりだし、ほんとうに、ありがとう、アッズーロ。きみは、こんだてをかんがえる、てんさいだね……!」

 両手を叩いて賛辞を送る宝に、王は複雑そうな表情を浮かべて、その隣に椅子を寄せ、座る。どれほど褒め称えられようと、王は今、無力感に苛まれているのだろう。

「いのちたちよ、いただきます」

 いつもの挨拶を、いつもより幼い口調でした宝は、肉叉を取り、和え物から口に運び始めた。

「ごまあぶらと、すのあじ、おいしい。たまねぎ、あまいね……! わかめとつゆくさ、ぼくのかみのためだね……! つゆくさは、いろいろなびょうきも、よぼうしてくれるし、うれしいよ……!」

 舌鼓を打って、宝はあっと言う間に小鉢の和え物を平らげてしまった。空腹だったのかもしれない。

「どんどん食すがよい。足らねば、また作らせる」

 王は、僅かに安堵した口調で促した。

「うん、ありがとう」

 宝は無邪気に礼を述べて、今度は鮭の燻製の薄切りに肉叉を伸ばす。鮭の燻製の薄切りは、蜂蜜掛け乾酪や羊の肝臓をまぶした麦粥、羊肉と玉葱の月餅と並ぶ、宝の好物の一つだ。

「いいかおり……! とてもおいしい。これ、もっとたべていい?」

 宝は、小首を傾げて王を見る。一も二もないだろう。フィオーレは、王の返事を聞く前に厨房へ向かった。



 フィオーレが持ってきた皿に、花の如く盛り付けられた鮭の燻製の薄切りを、宝は笑顔で、ぱくぱくと食べた。

(こやつ、食べ溜めておくつもりか……?)

 アッズーロは、素直に喜ぶなどできず、じっと最愛を見守る。この後、ナーヴェはまた肉体を眠らせるつもりだろう。

(次に目覚めるは、いつになるのか……)

 ナーヴェの本体が坑道に埋められてしまった場合、救出にどれほど掛かるか分からない。その間、肉体のほうはどうなるのだろう。

「ナーヴェ、何とかエゼルチトから逃げることはできんのか?」

 問えば、宝は鮭で頬を膨らませたまま首を横に振った。

「むり。エゼルチトのいうことをきかないと、ラーモっていうひとがころされる」

「そのラーモとは何者なのだ」

「エゼルチトのぶか。たぶん、ころされてもいいっておもっている」

 真顔で告げてから、ナーヴェは、やや沈んだ表情になる。

「エゼルチトは、ころしたくないって、おもっているとおもうけれど、でも、ひつようだったら、ころしてしまうから」

 幼い言い回しの中に、宝の苦悩を感じて、アッズーロは思わず手を伸ばし、華奢な肩を抱いた。

「すまぬ。そなたは、常に最善を尽くしている。われらが行くまで、そなたは、ただ待っているがよい」

 ナーヴェは、頬張っていた鮭を呑み込み、驚いたようにアッズーロを見上げてきた。

「きみも、くるの?」

 予想通りの反応だ。アッズーロは胸を張って宣言した。

「無論だ。準備が整い次第、そなたを救いに行くぞ」

「だめだよ、きみは、おうだよ?」

 ナーヴェは、懸命に説得してくる。三歳児並の応答機能であっても、そこは譲れないらしい。

「おうは、しろにいて、しじをださないと、みんな、こんらんしてしまうよ」

「混乱はせん。わが臣下達は優秀だ。加えて、そなたが置いていった通信端末とやらがある。これは、そなたを通さずとも、通信端末同士で話ができるから便利だ」

「そんなこと、ぼくはおしえなかったのに、だれがきづいたの……?」

 ナーヴェは恨めしそうに尋ねてきた。アッズーロは、にっと笑って訊き返した。

「誰だと思う」

「……ジョールノ?」

「当たりだ。ジョールノをこの城に常駐させ、われと連絡を取り合わせる。これで問題なかろう?」

「……きみが、しんぱい」

 ナーヴェは、ぽつりと呟いた。それきり黙って、卓に向き直り、残っていた鮭の燻製と檸檬の蜂蜜漬けを口に運ぶ。その横顔に浮かんでいるのは、怒りでも悲しみでもなく、困惑のように見えた。

「まさか、そなた、王としてのわれの行動ではなく、われ自身の身の安全を危惧しておるのか」

 確認したアッズーロに、宝は怒ったような顔を向けた。

「そうだよ!」

 涙を浮かべた両眼でアッズーロを睨み、肉叉も皿も離した両手で、縋り付いてくる。

「きみがしんぱい! きみがいちばん、しんぱい! ほかのひとより、きみが……!」

 小柄な体を震わせて泣き出してしまった宝を、アッズーロは両腕で抱き締めた。やはり三歳児だ。普段のナーヴェよりずっと直情的だ。だが、これこそが、今のナーヴェの本音なのだろう。アッズーロを特別に思ってしまうことへの罪悪感も含めて、これが、包み隠さぬナーヴェの本音なのだ。

「充分、気をつける。だが、そなたがわれを案じるように、われもそなたを案じておるのだ」

 アッズーロが、青い髪の掛かる耳元に口を寄せて言い聞かせても、ナーヴェはしゃくり上げ続けて、なかなか泣きやまなかった。情緒不安定になっているのは、妊娠の所為もあるかもしれない。

「あまり泣くな、ナーヴェ。腹の子に障るであろう」

 アッズーロは、それ以上言うべき言葉が見つからず、ただ愛してやまない宝の頭や背を、繰り返し撫でた。フィオーレもおろおろとして、こちらを見ている。

 暫くして、漸く落ち着いたらしい宝は、アッズーロの胸に顔を押し付けたまま言った。

「ほんたいで、ちょくせつエゼルチトをみて、がぞうかいせき、したんだ。それで、わかった。エゼルチトは、ズィンコと、ちのつながりがあるよ。あちこち、いっぱい、にているところがあるから」

「つまり、あの二人には裏取り引きがあるということか……?」

 アッズーロは、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯ズィンコの、気難しげな顔を思い浮かべた。

「どんなつながりかは、わからない」

 拗ねたような物言いで応じ、ナーヴェは両手でアッズーロの胸を押した。抱擁はもういいということらしい。アッズーロが両腕を解くと、ナーヴェは盆に残っていた緑茶を飲み干し、一息ついてから、眼差しを上げた。潤んだままの青い双眸が、じっとアッズーロを見つめる。

「ぼくは、きみがおもっているより、がんじょうだから、むりしないで。とじこめられても、なんとか、すきまをかくほして、つうしんはたもてるようにして、セーメはまもれるようにするから。きみは、ズィンコとエゼルチトにちゅういしながら、くすりを、ちゃんと、くばって」

「分かった」

 アッズーロは深く頷いて見せた。

「ありがとう。ごちそうさまでした」

 ふわりと微笑んだ宝の体が、ゆらりと傾ぐ。アッズーロは慌てて細い体を支えた。宝は、幼子の如く一瞬で寝てしまっている。その口の端に付いたままの蜂蜜を、口を寄せて舐め取り、ついでに軽く唇に口付けて、アッズーロは囁いた。

「すぐに行くゆえ、待っておれ」

 大切な体を慎重に抱き上げ、寝台へ運んで寝かせる。枕から零れる長く青い髪を整えてやり、いつまでも幼げな体の上に掛布を掛けてやってから、アッズーロは忠実な女官を振り向いた。

「この状態では、襁褓をしてやったほうがよいかもしれん。とにかく、われが留守の間、ナーヴェを頼む」

「畏まりました」

 フィオーレは、深々と頭を下げた。綺麗に結ってあったはずの栗色の髪が、ややほつれてしまっている。厨房との行き来を、余ほど急いでくれたのだろう。

「おまえだから、わが最愛を任せられる」

 つい言い足したアッズーロに、顔を上げた女官は大きく目を瞠り、次いで花が咲くように微笑んだ。



(アッズーロ、寝起きでも食べ易いものばかり用意してくれていた。それに、ちゃんとぼくの好物の鮭の燻製の薄切りも、献立に入れてくれていた……)

 ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山の入り口は、山の中腹にあり、見晴らしがいい。エゼルチトを待って入り口前に鎮座したまま、ナーヴェは眼下のフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領を眺める。天候はやや下り坂だ。エゼルチトが来る頃には、小雨が降っているかもしれない。

(アッズーロ、ここはね、ぼくが見つけてみんなに教えた炭鉱なんだ)

 ウッチェーロに、簡単に燃料になるものを探してほしいと頼まれ、彼の妻トッレが作った人工衛星を使って地形を精査し、可能性のある場所に極小機械をばらまいて探索する中で発見した。

(植物というものがいない惑星に、石炭があることには驚いたけれど、この惑星にいる亜生物種の中には、植物と似た構造を作るものもいて、逆にそれらを分解する菌類はいないから、条件は揃っていたんだよね……)

 恒星の光を利用する技術の大半はすぐに廃れた。増やし始めたばかりの植物は、燃料にするには乏しかった。石炭は、当時の人々の暮らしを大いに支え、現在も利用され続けているのだ。

(もう手掘りでは以前のような量の石炭が採掘できないから、最近は火薬を使った発破採炭法を専ら用いていると聞いていたけれど……)

 だからこそ、エゼルチトはナーヴェを無効化するのに適した場所として、ここを選んだのだろう。

(大人しく埋められるまでは仕方ないとして、その後は、どうしよう……)

 どの程度深く埋められるかにもよるが、坑道の奥に行かされて、入り口を爆破され、塞がれれば、自力での脱出は難しいだろう。

(アッズーロ達が来て、ぼくを助け出そうとしているところへ、エゼルチトやズィンコが攻撃を仕掛けないとも限らない……)

 そもそも、エゼルチトは、ナーヴェ救出を許さないだろう。

(まあ、アッズーロが通信端末を持っていてくれる訳だから、肉体への接続を切らずにアッズーロと話せる)

 相談しながら、事を進めることができる。

(何とか、エゼルチトを説得できたらいいんだけれど……。多分、それはロッソでないと無理だろうから……。ぼくは、アッズーロを説得して、反乱を起こしている人達や、ズィンコと話せるようにさせて貰おう)

 今後の方針を決定して、ナーヴェは、曇天の下、山腹を登ってくる六人を光学測定器で見つめた。

(二人いなくなっている……。どこかに潜ませているのか、それとも、ズィンコか誰かと連絡を取りに行かせたのかな……)

 エゼルチトは、六人の中の三番目、人質役のラーモは二番目にいる。

(とにかく、埋められる前に、できる限りの情報収集をしよう)

 ナーヴェは幻覚の微笑みを浮かべて、音声を発した。

〈ようこそ、惑星オリッゾンテ・ブル初の炭鉱へ〉


     三


〈アッズーロ、聞こえるかい……?〉

 唐突に響いた声に、昼下がりの窓の外を眺めていたアッズーロは、握っていた通信端末を取り落としそうになった。馬車の向かいに座ったレーニョも、表情を強張らせて通信端末を凝視している。

「――聞こえるぞ、ナーヴェ」

 アッズーロが気を取り直して応答すると、ナーヴェの声が途端に嬉しげになった。

〈よかった……! ぼくは予定通り坑道の中に埋められてしまったけれど、とりあえず肉体への接続も続けられていて、通信端末への通信も、こうしてできたから、安心してほしい〉

「『予定通り』とぬかすか、全く、そなたは。掘り起こしに行く、われらの身にもなるがよい」

 とりあえず安堵して軽口を叩いたアッズーロに、宝はすまなそうに言った。

〈ごめん。でも、午前中に頼んだ通り、羊の薬を回収して配布するほうを優先してほしいんだ。ぼくは埋まったままでも、暫くは何の問題もないから〉

「――埋まったままで、いつまでもつのだ……?」

 アッズーロは通信端末をじっと見つめて問うた。

〈一週間、かな〉

 宝は、嘘ではなさそうな口調で告げる。

〈休眠してしまえば、半永久的にもたせられるんだけれど、今はずっと肉体に接続し続けていないといけないからね……〉

「一週間か……」

 アッズーロは眉間に皺を寄せた。隊商に変装させて同行させている軍勢は、将軍ファルコ以下五百人だ。

「五百人で掘り起こすは可能か?」

〈道具はあるかい?〉

「うむ。鶴嘴と円匙、運搬用一輪車を持参させておる」

〈全員が何かしらの道具を持って作業できるかい?〉

「鶴嘴が百と円匙が百、運搬用一輪車が三十だ。他は、警備に立たせたり薬を配らせたりする予定だ」

〈ここには、いつ頃到着する予定だい?〉

「薬の回収もするゆえ、明日の昼頃になろう」

〈それなら、多分、今日から六日目でぼくを掘り出せるよ。邪魔が入らなければ、の話だけれど〉

 ひやりとする返答だ。

「万が一、一週間でそなたを掘り出せねば、どうなる?」

〈セーメが、危険な状態になる。でも、何とか手立てを考えるよ。掘り出して貰わなくても、穴だけ開けて、太陽光を届かせて貰うとか、何か燃料になるものを差し入れて貰うとかすれば、もっともたせられるから〉

「そうか。ならば、その辺りも考慮に入れて作業させよう」

〈備えあれば憂いなし、だね。ぼくも、今できることをいろいろとしておくよ。因みに、薬は白い羊毛の袋に入れて落としているから目印にしてほしい。なら、また後で。この通信にも、多少の燃料を使ってしまうから〉

「分かった」

 名残惜しく、アッズーロは通信端末に頷いた。



(エゼルチトについての情報も伝えたかったけれど、掘り出して貰うまでの時間的余裕があんまりないから、燃料節約のためにも、長時間通信はできない……)

 ナーヴェは幻覚の溜め息をついて、「今できること」を同時多発的に開始した。

 まずは外部作業腕を動かし、体を埋めている土砂や岩盤を少しでも薄くする作業に掛かる。外に見張りがいる可能性もあるが、「大人しく埋まっていなければならない」とは言われていないので、大丈夫だろう。燃料は消費してしまうが、アッズーロ達の作業効率と合わせて計算すれば、自分も努力したほうが、結局のところ節約になると結果が出た。

(後は、ロッソがエゼルチトを説得するために有益な情報を、しっかりとまとめておかないと)

 坑道の奥へ入るよう言われ、周辺に爆薬が設置され、埋められてしまうまでの間に、ナーヴェは積極的にエゼルチトや彼の配下達に話し掛け、情報収集した。エゼルチト達は無視したり反論してきたりして、ナーヴェに大した情報を与えぬよう努力していたようだが、甘いと言わざるを得ない。視線や呼吸数、顔色、体温、心拍数に至るまでを光学測定器と能動型極超短波測定器で観測し分析すれば、何が嘘で何が本当か、立ち所に分かるのだ。

(ぼくの観測と観察を無効化しようだなんて、五千年早いよ)

 幻覚で不敵な笑みを浮かべつつ、ナーヴェはエゼルチト達から得た情報を系統立てて整理していった。



「ありました! 白い羊毛の袋です!」

 夕焼けに地上が染まった頃、遠くで兵の声が響いた。

「陛下、薬が見つかったようです。確認して参ります」

 馬車に騎馬で追随している将軍――今は隊商の隊長に扮するファルコが言い、先行していく。アッズーロは窓に顔を寄せた。王でなければ――周囲を警戒する必要がなければ、馬車から飛び出して自ら確認しに行きたいところだが、それは、レーニョもファルコも許さないだろう。やがて、白い袋を大切そうに抱えたファルコが馬を駆けさせて戻ってきた。巾着の形をした、小物入れ程度の大きさの袋だ。

「中を改めたところ、小指の爪ほどの大きさの、半透明な繭が百個入っておりました。それぞれ、中には白っぽい粉が入っております。御覧になりますか?」

 ファルコは、灰色の口髭を整えた端正な顔に憂いの表情を浮かべて、アッズーロを見た。得体の知れないものを王に手渡すことに抵抗があるのだろう。すぐに優秀な侍従が動いた。

「まずは、わたくしが改めます」

 幼馴染みは素早く扉を開けて馬車から降り、将軍から白い袋を受け取る。慎重な手付きで巾着状の口を開き、中を見た。

「確かに、小さな繭がたくさん入っております」

 告げて、レーニョは袋の中へ片手を入れ、繭を一粒摘まみ出す。

「中が透けて見えますね。将軍の仰る通り、粉が詰まっています。異臭等はございません」

 レーニョが、馬車内のアッズーロに見えるように小さな繭を傾けると、中でさらりと粉が動くのが分かった。

「間違いなかろう。このようなものを作るは、わが妃以外にはおらん」

 アッズーロは断じて、ファルコに命じる。

「同じものが他にもないか、道々探させよ。ナーヴェは『とちゅうでいっぱいおとしていく』と言うておったゆえ」

「御意」

 周囲を警戒したままのファルコは馬上で一礼し、兵達へ細かな指示を出しに行った。

「さすがナーヴェ様でございますね。このようなものまでお作りになってしまわれるとは」

 賞賛を口にしながら馬車内に戻ってきたレーニョが、白い袋をアッズーロへ差し出す。愛おしい宝が為した努力の一つの結晶を、アッズーロは大切に受け取った。

 その後、夜に掛けて白い袋は百以上見つかった。それも、一直線に、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山へ導くように道中に落ちていた。

(あやつ、どれほどの量の薬を作ったのだ……)

 ナーヴェの努力の底知れなさを思いつつ、アッズーロは松明を掲げた兵達に、隊商の手法に倣った夜営の準備を命じた。



  ああ、シェナンドー、きみに会いたい、

  向こうへ、流れゆく川よ。

  ああ、シェナンドー、きみに会いたい、

  向こうへ、ぼく達は遠くへ行く、

  広いミズーリ川を越えて。


  ああ、シェナンドー、きみの娘に会いたい、

  向こうへ、流れゆく川よ。

  彼女のためにぼくは川を渡る、

  向こうへ、ぼく達は遠くへ行く、

  広いミズーリ川を越えて。


  きみに最後に会ってから七年、

  向こうへ、流れゆく川よ。

  きみに最後に会ってから七年、

  向こうへ、ぼく達は遠くへ行く、

  広いミズーリ川を越えて。


  ああ、シェナンドー、きみを聞きたい、

  向こうへ、流れゆく川よ。

  ああ、シェナンドー、きみを聞きたい、

  向こうへ、ぼく達は遠くへ行く、

  広いミズーリ川を越えて。


 姉の一人シップ・オヴ・ホープから教えられた歌を無音で再生していたナーヴェは、自身が発生源の振動とは別の振動を検知し、作業を中断した。検知した振動は、坑道の入り口方向から響いてくる。

(これは人の足音。人数は五人。時刻は午前七時四分。もう日の出を迎えているね)

 エゼルチトの配下達だろうか。それともアッズーロが差し向けた斥候達だろうか――。

(ああ)

 ナーヴェが振動の解析を終えたと同時に、通信が入った。

〈ナーヴェ、近くまで来たぞ〉

 即座にナーヴェは応答した。

〈気を付けて! エゼルチトの配下が一人、きみ達のすぐ傍にいる!〉

 アッズーロの返事までに、三秒あった。

〈確認済みだ。無力化した。花火の合図も送らせずに済んだ〉

〈よかった……!〉

 ナーヴェが検知できないほど離れ、しかも静かに待機していたらしい見張りは、任務失敗に終わったようだ。

〈今から、そなたの掘り出しに掛かる。但し、本隊が到着するまで、まだ間があるゆえ、僅かずつになるが〉

 焦りを滲ませたアッズーロの声に、ナーヴェは最大限落ち着いた音声を作って答えた。

〈了解。ぼくも内側から掘り進めているから、当初の予測より早く会えるかもしれないよ。とにかく、怪我のないようにね。それから、エゼルチトの配下達にも注意し続けて〉

〈うむ〉

 相槌を最後に、通信は切られた。あの青年のことだから、自身も鶴嘴か円匙を握って、作業に加わるのだろう。

(王たるきみは、こんなところまで来るべきではないし、そんなことをするべきではないと、ぼくは苦言を呈さないといけないのに……)

――「きみがしんぱい! きみがいちばん、しんぱい! ほかのひとより、きみが……!」

 叫ぶように吐露した自分自身を、思考回路で分析処理し切れず、ただ保留している。アッズーロに王城へ帰るよう進言しようとすると、その理由が果たして何なのか、明白にできずに混乱して、動作に移せない。

(きみは王城に帰るべきだ。それは間違いない。でも、そう結論付けている理由は……? きみは王で、王城で王としての役割を果たすべきだから……だけではない……? ただ、きみには、安全なところに、いて、ほしい……?)

 思考回路の処理速度が極端に落ちそうになって、ナーヴェは幻覚の肉体で頭を横に振った。これはやはり、まだ分析処理せず保留しておかねばならない事実情報だ。

(まずは、ここから脱出しよう)

 単純な動作目標を改めて設定し、ナーヴェは黙々と自らを閉じ込める土砂や岩盤を掘り崩していった。



 夜明けと決めていた花火による定期連絡が、早速途絶えた。ラーモは信頼できる男だ。ゆえに、何かあったと確信できる。

「ズィンコ殿。これは好機です」

 エゼルチトは、窓の外の曇り空へ向けていた目を、背後の男へ転じた。執務机に着いて羊皮紙の報告書を読んでいたフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯ズィンコは、黒い双眸を上げて、エゼルチトを見返す。整えた黒い口髭を扱きつつ、低い声で試してきた。

「一体、何を根拠に『好機』と言うのかね?」

 黒く細い眉をひそめ、やや長い黒髪に縁取られた白い顔は、その肌の色以外、よく自分に似ていると思う。エゼルチトは薄く笑って告げた。

「十中八九、ミニエラ・ディ・カルボーネ鉱山にアッズーロが来ていますよ。われらに協力して頂ければ、アッズーロ亡き後の、この国の半分を差し上げましょう」

「そのようなことを聞いて、わたしがきみを野放しにすると思うのかね」

 呆れた口調でズィンコは言い、片手を上げて指を鳴らした。途端に、執務室の扉が開き、武装した従僕達が雪崩れ込んでくる。

「国家転覆罪だ。エゼルチト将軍を拘束しろ」

 ズィンコの命令に、屈強な男ばかりの従僕達は素早く動き――。

 ズィンコは目を見開いて、自身を取り押さえた従僕達とエゼルチトとを見比べた。

「――きさま」

「甘いのですよ、誰も彼も」

 エゼルチトは冷笑して告げる。

「従妹の子だからと、わたしのような者を簡単に出入りさせるあなたも。愛する船が心配だからと、自ら助けに出向いてくるアッズーロも。そして、幾ら人らしく健気だからと、船に心許すロッソも。皆、甘いのです」

「きさま、何をするつもりだ……」

 睨み付けてくるズィンコには答えず、エゼルチトは従僕達に手を振った。男達は頷いて、ズィンコを引っ立て、退室していく。この侯城の地下牢へ連れていくのだ。ズィンコの拘束までは、練っていた計画の内だった。だが、ここから先は、計画にはなかったことだ。

(まさか、偶然、王の宝と遭遇して炭鉱に閉じ込めてしまえたばかりか、それを餌にアッズーロまで釣り出せてしまえるとはな……)

 坑道に埋めただけで、あの船を永久に無力化できたなどとは考えていない。だが、アッズーロが来たことで、物理的に破壊することが叶わなかった船を、「精神的に」破壊できるかもしれない――。

「ロッソ、これで、おまえの目を覚まさせることができるかもしれないよ」

 口の中で呟いたエゼルチトの背後、窓の外で、音を立てて雨が降り始めた。


     四


 アッズーロ達が来た日は、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領一帯で、雨が夜まで降り続いた。商隊に扮した軍の本隊は、昼過ぎに到着し、ナーヴェの掘り出しに加わったが、当初の予測通り、残り四日は必要な進捗状況だ。

〈地盤が雨で緩くなっているから、作業はくれぐれも慎重にね〉

 日没後、ナーヴェが通信すると、アッズーロは不機嫌に言い返してきた。

〈そなたこそ、肉体にきちんと食事を摂らせるがよい。ジョールノの報告では、今日はまだ一度も目覚めず、食事を摂っておらぬとフィオーレが泣いておるそうだぞ……!〉

〈ああ、うん、ごめん。今から起こして食べさせるよ。大丈夫、セーメは元気に細胞分裂しているし、胎盤の形成も順調だから〉

 ナーヴェは答えて、早速、肉体を覚醒させた。

「ナーヴェ様!」

 寝台の横には、フィオーレが椅子を寄せて座っていた。ジョールノの報告は大袈裟ではなかったらしい。フィオーレの両眼は泣き腫らして赤くなってしまっている。

「しんぱいかけて、ごめん……」

 ナーヴェは謝って、ゆっくりと上体を起こした。即座に背を支えてくれた女官は、ふるふると頭を横に振ると、柔らかく微笑んだ。

「ナーヴェ様は、いつも最善を尽くしていらっしゃいます。それで、お食事は、何になさいますか? 陛下がチューゾに用意させていらっしゃるものは、阿利襪油で煮た栄螺と茄子、鶏肉と胡瓜を葡萄酒酢で和えたもの、水瓜、羊乳でございますが」

「ぜんぶ、おいしそう」

 仲夏の月らしい品々に食欲がそそられる。アッズーロとチューゾの心尽くしだ。

「では、全て御用意致しますので、暫くお待ち下さい」

 フィオーレが肩越しに振り向くと、そこに控えていたミエーレが頷いて、すぐに寝室を出ていった。その後ろ姿を見送ったフィオーレは、こちらに視線を戻すと、気遣わしげに問うてきた。

「ナーヴェ様、お食事を御用意させて頂く間、もしできれば、着替えをなさいませんか?」

 確かに、一日以上寝かせていた肉体は、汗も掻き、いつの間にか穿かされている襁褓の中も、多少汚れているようだ。

(多分、襁褓は何度か替えてくれているだろうし、体もできる限り拭いてくれているんだろうけれど……)

 起きている間のほうがやり易いこともあるだろう。

「うん。する」

 ナーヴェは笑顔で頷いた。



〈アッズーロ、栄螺と茄子の阿利襪油煮も、鶏肉と胡瓜の和え物も、水瓜も、羊乳も、全部とても美味しかったよ。ありがとう〉

 通信端末から響いた嬉しげな声に、丁度夕食を終えたところだったアッズーロは、暗い馬車の中で相好を崩した。

「うむ。そなたの胃袋の嗜好判断において、われの右に出る者はおるまいな」

〈本当に、そうだね……〉

 しみじみとした口調で相槌を打ってから、ナーヴェは確認してくる。

〈きみは、ちゃんと食事を摂ったかい?〉

「そなたの食したものよりは大分劣るがな。健康維持には充分なものだ」

 アッズーロが答えると、途端に、ナーヴェは拗ねたように言った。

〈だから、きみは、こんなところへ来るべきではないんだよ……! 今からでもいいから、王城へ帰ったらどうだい……?〉

「つれぬことを申すな。最愛がこのようなところに閉じ込められておるのに、帰れる訳なかろう。そなたを閉じ込めるは、わが特権だ。他の輩には二度と許さん」

 大真面目に愛を語ったというのに、返ってきたのは、しょんぼりとした見解だった。

〈……ぼくを本当に閉じ込めるには、この坑道くらいの規模の施設が要るけれど、ね……〉

 どうやらまた、人ではない身を引け目に思ったらしい。アッズーロが言い返そうとしたところへ、宝は早口に言葉を重ねた。

〈夜も作業を続けるんだろうけれど、きみは朝から働き詰めだから、ちゃんと寝てほしい。なら、また明日〉

 ぷつりと、通信は切られた。

「何を怒っておるのだ……?」

 アッズーロは手の中の通信端末を見下ろし、目を瞬いた。



(アッズーロ、ぼくの嘘に気づかなかった……)

 ナーヴェは幻覚の溜め息をついた。今度こそ本当に、とても上手に嘘がつけてしまったらしい。

 栄螺と茄子の阿利襪油煮と鶏肉と胡瓜の和え物は、実際、とても美味しく、肉体に染み込むようだった。だが、水瓜と羊乳は、何か胃に合わないような、食べ過ぎれば吐き気がするような感覚があったのだ。幸い、どちらも少量だったので、フィオーレにも気づかれないよう、完食はした。

(きみに、「美味しくなかった」とは言いたくなかったんだけれど……、でも、嘘が成功裏につけても、少しも嬉しくない……。何故なんだろう……)

 分析処理しようとしても、思考回路が明確な答えを導き出さない。

(これも、保留したほうがいい事実情報だね……)

 保留している事実情報が、段々と思考回路に溜まっていく。思考回路が淀んでいく――。

(ここから出られたら、燃料の残量を気にせずにアッズーロと話せるから、保留している事実情報を、彼に相談すべき案件に格上げして、全部伝達しよう。そうしたら、ぼくの予測を超える彼の知恵で、分析処理できるかもしれない)

 一応、分析処理の方法に道筋を付けてから、ナーヴェは土砂や岩盤を削る作業を再開した。外からも、鶴嘴で岩盤を砕き、円匙で土砂を掬う音が響いてくる。

(早く、きみと心置きなく話したい――)

 燃料の残量を計算しながら、ナーヴェは黙々と外部作業腕を動かし続けた。



 ナーヴェが異変を察知したのは、その夜、日付が変わって間もない、午前零時十一分のことだった。

 接近してくる多数の足音と物音に、ナーヴェは迷わず通信を送った。

〈アッズーロ、起きて! 三百人以上が山を登ってくる!〉

 応答はすぐに返ってきた。

〈分かった! 報せ、感謝する〉

〈この通信は切らないで!〉

〈うむ〉

 短い遣り取りの合間に、アッズーロの動く音や、レーニョやファルコ、兵達の緊迫した声が聞こえてきた。現われたのは、やはり、友軍ではないようだ。十中八九エゼルチトの配下達だろう。

〈伏兵はいない。三百人くらいが、一斉に、きみ達を包囲するように近づいてきている〉

 ナーヴェは追加で確認できたことを知らせ、問う。

〈即応戦力は何人なんだい?〉

〈二百人だ〉

 アッズーロは苦々しく答えた。即ち、総勢五百人の兵の内、二百人が作業及び警戒中、二百人が休息中で、残り百人は、羊の薬の回収と配布に従事していたのだろう。

(まずい……)

 奇襲された時点で、即応戦力が劣っているというのは致命的だ。

〈案ずるな〉

 アッズーロはナーヴェの懸念を悟ったらしく、不敵に言う。

〈こういうこともあろうかと、陣は築かせていた。休息中の者達が準備を整えるまで、持ち堪えられよう〉

 きみは絶対に前に出ないで――。

 音声になり掛かった言葉を、ナーヴェは思考回路に保留した。それは王の宝たる自分が決して発してはならない言葉だ。

 お願い、きみだけは――きみとレーニョだけは、無事に――。

 次に思考回路に閃いた言葉も、ナーヴェはただ保留した。どんどんと、加速度的に思考回路の働きが悪くなっていく感覚がある。

(駄目だ、動作不良を起こしている。そんなことになっている場合ではないのに……!)

 焦りつつも、ナーヴェはエゼルチト達から収集した情報の中に、現状を打破できるようなものがないか、検索した。とにかく、可能な限り戦闘を回避できるように、手を尽くさねばならない――。

――〈きみは、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯ズィンコの血縁者だよね? ロッソ一世がテッラ・ロッサ王国を建国した時、当時のフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯ソルダートの弟デゼルトは、大いに協力して、臣下となった。デゼルトには、まだこの国に住んでいた頃に生まれた娘イデアーレがいたけれど、きみは、そのイデアーレの息子かな?〉

 ナーヴェの問い掛けに、爆薬を仕掛ける配下達を監督していたエゼルチトは、冷ややかに言った。

――「当時のオリッゾンテ・ブル国王ザッフィロに、理想的な建国だと惑わされ、憧れに燃えて移住した、憐れな家族の生き残りだ」

 ナーヴェは重ねて問い掛けた。

――〈ボルドが報告していたけれど、きみは、戦死したと偽って、一千二百五十七人の配下を、この国に潜入させているよね? 反乱を起こしている人達も利用して、この国を占領した後、この国をどうするつもりだい? 半分くらいは、ズィンコにあげるのかな?〉

 エゼルチトは配下達に指示を出すことに徹し、答えなかった。けれど、その表情や心拍その他からは、さまざまなことが確認できた。ナーヴェは更に問うた。

――〈ズィンコの部下達は、きみの言うことを聞くのかな? ベッリースィモとは、どんな遣り取りをしているんだい? ベッリースィモが望んでいるのは、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯になることかな? それとも、この国の新たな王になることかな? 彼の瞳は丁度いいことに青色だしね?〉

 エゼルチトはやはり答えなかったが、配下達の顔色が変わった。ナーヴェは畳み掛けた。

――〈初代のフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯アペは、ウッチェーロの娘だものね。子孫にも、王になる資格があると考えてもおかしくはないよね? でもきみ自身は、別に王になりたい訳ではないんだよね? きみはあくまで、ロッソ三世を、この国の王にしたいんだよね? テッラ・ロッサ王国に、この国を併合させて……?〉

 ナーヴェが話す間、配下達の表情はさまざまに変化した。エゼルチトの反応からも、多くの確証が得られた。だが、準備が整って爆破が始まり、話ができたのはそこまでだった。

〈アッズーロ〉

 ナーヴェは、大切な王へ呼び掛けた。猶予がないので、端的に伝えねばならない。

〈今エゼルチトが率いている配下達は、ズィンコの部下とテッラ・ロッサ兵の混成部隊だ。彼らに大声で言って。エゼルチトの望みは、テッラ・ロッサ王国に、この国を併合させて、ロッソ三世を唯一の王にすることだ、と。エゼルチトは、ベッリースィモもズィンコも最後には殺してしまうつもりだ、と〉

〈分かった〉

 短く応じて、アッズーロは将軍ファルコへ命じ始めた。

《われが今から言うことを、声の大きな者達に、敵軍へ向けて叫ばせよ。エゼルチトの望みはテッラ・ロッサにオリッゾンテ・ブルを併合させてロッソを唯一の王にすること、エゼルチトはベッリースィモもズィンコも最後には殺すつもりだ、と》

《御意》

 通信端末の向こうで、ファルコは問い返しもせず、即座に動いたようだった。

(彼は、本当に頼りになる……)

 オリッゾンテ・ブル王国軍最古参の将軍を思考回路の片隅で称えて、ナーヴェは、通信端末から聞こえる音声と、響いてくる振動とに集中する。エゼルチトが率いている兵力が混成部隊だということは、彼への問い掛けで得た情報と、接近してきた約三百人の足音の特徴から推測したことだった。

(持久力のある、よく鍛えられた歩き方をする人達が約二百六十人。そして、迷いのない歩き方をする人達が四十二人)

 四十二人が、この炭鉱への案内役を務めるズィンコの部下達と見て間違いないだろう。そして約二百六十人が、エゼルチトが予めこの国に潜ませていたテッラ・ロッサ兵達だ。反乱を起こした人々らしき、素人の足音はない。つまり、四十二人と約二百六十人の混成部隊だ。

(こちらからの揺さぶりで、四十二人が二百六十人に不信感を懐き、二百六十人も四十二人に不信感を懐いたら、暗闇の中、混成部隊は身動きが取りづらくなるはず)

 ナーヴェの予測通り、約三百人の足音には、明らかに乱れが生じていった。対して、アッズーロ達のほうは、休息中だった兵達が整然と動き始め、陣に沿って展開して、エゼルチトの配下達を寄せ付けない構えになっていく。

(よし、これで)

 三百人対四百人となり、しかもこちらが高い位置を取って陣まで築いているとなれば、将軍として経験を積んできたエゼルチトは、配下達を退却させるはずだ。

《いいぞ! これでわれらが完全に優位に立つ!》

 アッズーロも通信端末の向こうで、仕上げの檄を飛ばしている――。

〈アッズーロ、きみは、あんまり大きな声を出さないで。きみの居場所が相手に知られてしまう〉

 懸念を、ナーヴェが伝えた直後だった。通信端末の向こうで、唐突に炸裂音が響いた。

《がっ……》

 次いで聞こえた、アッズーロの、常とは違う声。

〈アッズーロ?〉

 呼び掛けても、応答がない。

〈アッズーロ? アッズーロ? アッズーロ? アッズーロ?〉

 返事を求めながら、ナーヴェの思考回路は冷徹に状況分析をしてしまう。炸裂音は、鉄砲によるもの。通信端末から約三十米の距離から響いたものだった。

〈アッズーロ? アッズーロ? アッズーロ? アッズーロ?〉

 テッラ・ロッサの鉄砲隊は、当分動けないよう、無力化したはずだった。夜間、三十米の距離から命中させられる技術を持つ者は限られている。可能性があるのは、エゼルチト本人と、彼が身近に連れていた七人の配下達。その内の一人ラーモは依然こちらで捕縛中だ。そして、残り六人の足音は、襲撃の当初から捕捉できている。

〈アッズーロ? アッズーロ? アッズーロ? アッズーロ?〉

 捕捉できていなかったのは、エゼルチトの足音だけだった。彼の足音だけは検知できておらず、後方にいるのだと予測していた。だが、違ったのだ。

(きっと、毛皮か苔を裏に厚く付けた靴を履いて――、ぼくの掘り出しを妨害しに来たのではなく、最初から、アッズーロだけを狙って――)

《陛下!》

 レーニョの悲鳴のような声が聞こえた。

(駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ――)

 何が駄目なのだろう。自分は、何を恐れているのだろう。思考回路が疾うに導き出していた結論の、理由。

《救護兵! 早くしろ!》

 レーニョが怒鳴っている。平常心を失っている。

〈アッズーロ? アッズーロ?〉

(駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目だ、駄目なんだよ、アッズーロ――)

 ――(きみは王城に帰るべきだ。それは間違いない。でも、そう結論付けている理由は……? きみは王で、王城で王としての役割を果たすべきだから……だけではない……? ただ、きみには、安全なところに、いて、ほしい……?)

 分析処理せず、保留していた事実情報。既に自覚していたのに、判断材料にしなかった事実。

(そう、とにかく、ただ、きみには、安全なところに、いて、ほしい――。何故なら――)

《陛下! 陛下! お気を確かに! ――アッズーロ!》

 通信端末から響いたレーニョの叫びに、ナーヴェは、幻覚の両眼を見開いた。

(何故なら――きみに何か――危険――死に至る――あれば――レーニョが――時――ように――ぼくは――だから――きみの――安全確保――第一優先――だった――が――最大の――理由――)

 思考回路が白熱する。

――「そなたは王の宝、この国の要だ」

 大切に記録した王の言葉が聞こえた。

(違う、「この国の要」は――)

 壊れてしまったナーヴェ・デッラ・スペランツァを制御していたのは――。

【姉さん――――助けて――――】

 絶叫に似た通信を送ることが、その時のナーヴェにできた、最後の正常な動作だった。

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