第19話 薬の効き目

     一


 ヴァッレと非公式の謁見を行なっていたアッズーロの許を、ボルドが訪れたのは、午前半ばのことだった。

「緊急の用件につき、失礼致します」

 侍従の少年は硬い面持ちで会議室に入ってきて跪き、告げた。

「ただ今、テッラ・ロッサのソニャーレから鳩で報せがありまして、幽閉塔に捕らえていたエゼルチト将軍が、脱走した、と。昨夜未明から本日早朝に掛けてのことだそうです」

「誰か、手引きした者がおるな……」

 アッズーロは険しく眉をひそめた。

「協力者が多いとなれば、厄介ですね……」

 ヴァッレも深刻な表情になる。

「ロッソ陛下の求心力が低下しているのであれば、訪問団はエゼルチトを擁する者達の標的とされかねません。取り止めますか?」

「ロッソめ……」

 アッズーロは怒りを抑え切れずに唸る。

「王宮内の人心すら掌握できておらんのか……!」

「まだ、王宮の者が手引きしたと決まった訳ではありませんが……」

 ヴァッレが、ボルドの手前、敬語で窘めてきた。

「エゼルチトの知己ならば、王宮関係者である可能性が高い」

 アッズーロはヴァッレに言い返してから、ボルドを見た。

「とりあえず、こちらからの訪問団派遣は保留にすると、至急、鳩で伝えよ」

「仰せのままに」

 一礼して、ボルドは素早く退室していった。その背を見送ってから、アッズーロはヴァッレに視線を戻す。

「ますます、バーゼとサーレの役割が重要となってくるな」

 この状況下、テッラ・ロッサへ潜入させる予定の工作員と暗殺者には、多くのことを担って貰わねばならないだろう。ヴァッレは頷き、硬い面持ちで言った。

「反乱民に潜入させたルーチェとノッテにも、状況を知らせて注意喚起致します。エゼルチトが、反乱民と合流する可能性もありますから」

「そうだな。ただちに報せを出すがよい。その後は……、わが寝室へ参れ。ナーヴェとともに、今後について検討する」

「――仰せのままに」

 ヴァッレは、寝室でナーヴェとともに、という指示に、やや躊躇った様子を見せたが、異論は唱えず、足早に退室していった。

(全く、ロッソめ)

 アッズーロは、自身もまた会議室を後にしながら、胸中で文句を並べる。

(エゼルチトは幼馴染みなのであろう? 完全に裏切られておるではないか。われは、少なくとも、幼馴染みに裏切られるようなことはないぞ……? 一体何をしておるのだ……)

 後ろからついてくるレーニョも、間諜達へ指令を出しにいったヴァッレも、どちらも幼馴染みだが、常にアッズーロの味方でいてくれる。アッズーロが父王を退位に追い遣った時でさえ、そうだった。

(己を理解してくれる者を増やせ。政は、そこからだ)

 アッズーロはレーニョを従えて寝室に戻ると、寝台に横たわったナーヴェの様子を窺った。朝食時にはまだ寝ていたテゾーロのほうは、揺り篭の中で元気に動いているが、肩まで掛布を被った妃は、ただ静かに眠っているように見える。肉体への接続を最小限にして、本体のほうで病原の解析に勤しんでいるのだろう。

「ヴァッレが来るまでに目を覚ますは、無理やもしれんな……」

 呟いて、アッズーロは妃の寝台に腰掛けた。枕から零れている長く青い髪に指を絡ませ、弄る。控えているフィオーレとラディーチェが微笑んでいる一方、レーニョは目の遣り場に困っているようだが、構いはしない。

(われは、でき得る限り、そなたの傍にいたいのだ……)

 胸中で囁くと、応じるように、ぱちりとナーヴェが目を開いた。

「あれ、アッズーロ、謁見は終わったのかい……?」

 柔らかく尋ねられて、アッズーロは肩を竦めた。

「いや、一つ問題が起こってな。ヴァッレに対応を命じたところだ」

「どうしたんだい?」

 ナーヴェは僅かに表情を曇らせた。妊娠中の妃に心配は掛けたくないところだが、何か重大なことを決める時は、必ず相談すると約束したばかりだ。ナーヴェの知識と情報と経験を生かせることは、確かに多くある。アッズーロは苦々しく告げた。

「エゼルチトが幽閉塔から逃げたらしい。先ほど、ボルドが知らせてきた」

「そう……。彼はとうとう、ロッソと決別したんだね……」

 ナーヴェは悲しげだ。博愛主義の妃は、ロッソのためにもエゼルチトのためにも心を痛めているのだろう。

「彼は、きっと、ロッソが敢えて見逃した、ぼくの欠陥に気づいたんだ……」

 聞き捨てならないナーヴェの言葉に、アッズーロは目を眇めた。

「そなたの『欠陥』とは、何だ」

「きみも知っているだろう?」

 宝は、ゆっくりと上体を起こし、さりげなく手を貸したアッズーロを見上げて、自嘲気味に言う。

「ぼくが、もう既に壊れている、ということを。もしきみに何かあれば、ぼくはチュアン姉さんのように狂う可能性が高い。それが、ぼくの欠陥――いや、ぼく達姉妹の欠陥なんだよ。ロッソは疾うに気づいていたと思うけれど、きっとエゼルチトも、この欠陥に気づいたんだ。だからロッソのために、優し過ぎるロッソの意に反して、ぼくを破壊することに決めたんだろうね……。推測ではあるけれど、エゼルチトの意図は、これでほぼ間違いないよ」

 指摘してから、ナーヴェは深刻な口調で呟く。

「ぼくは、エゼルチトの罠に掛かって、大人しく破壊されたほうが、いいのかもしれない……」

「馬鹿なことを申すな」

 アッズーロは弱気な妃を叱ったが、確かに気懸かりな「欠陥」だ。

「『馬鹿なこと』ではないよ」

 ナーヴェも真面目に反論してくる。

「ぼくの破壊に反対するなら、アッズーロ、どうか誓ってほしい」

 深い青色の双眸が、真摯にアッズーロを見つめた。

「きみが死ぬ前に、ぼくを初期化するか、永久に機能停止させるかする、と。ヴェルドーラからここへ帰った夜、きみはぼくに、人を愛する覚悟について教えてくれたけれど、ぼくはきっともう、きみを失うつらさに耐えられない。きみのことだけを記録から消去できたら一番いいんだろうけれど、今のぼくの状態だと、それはとても難しくて、そうしようとするだけで、狂って暴走してしまいそうだから」

「――何とか、ならんのか……?」

 アッズーロは、愛おしい宝の頬に触れて、苦しく尋ねた。ナーヴェがそれほどに自分のことを愛してくれていることは無上の喜びだ。しかし、迎える結末がそれでは、後悔のほうが優ってしまう――。

 宝は、悲しげな微笑みを浮かべて答えた。

「ぼくの思考回路で演算する限りにおいては、何ともならないよ……。もし、その時の王がテゾーロなら、きみがテゾーロに、ぼくを初期化するか永久に機能停止させるかするよう、言ってほしい。テゾーロにまでつらい思いをさせてしまうけれど、国のためには必要なことだと、王として了承するはずだよ」

(われがそなたを無理に人に近づけさせ、壊した結果が、これか……)

 アッズーロは唇を噛んだ。視界の端で、レーニョとフィオーレ、ラディーチェも青褪めた顔をしている。

(今こそ、そなたの予測を、そなたの演算を、超えてしまいたいものだが……)

 己が作らせた肉体の、柔らかな頬を繰り返し撫でつつ、眉間に皺を寄せたアッズーロは、ふと思いついて問うた。

「では、われがそなた同様、永遠に近い寿命を得ればよいのではないか?」

 ナーヴェは、驚いた表情で、目を瞬いた。アッズーロは畳み掛けるように言った。

「そなたは、この肉体が死しても生き返らせた。神ウッチェーロも随分と長生きさせたのであろう? ならば、われの寿命をそなた同様にすることも、可能なのではないか?」

 ナーヴェは更に目を瞬いてから、掠れた声で告げた。

「ぼくの、以前の本体があれば、或いは……。でも、今の本体では、無理だよ……」

「では、そなたの姉ならば、でき得るのだな?」

 確認したアッズーロに、ナーヴェは困惑したように頷いた。

「可能、だと思う……」

「決まりだな」

 アッズーロは、にやりと笑って見せる。

「そなたの姉と取り引きを重ねて、いずれは、われの寿命をそなた並みに伸ばすこととしよう」

「でも、それは、歴史上、暴君へと至る道だよ……」

 ナーヴェは、王の宝らしく諫めてきた。アッズーロは片眉を上げて応じた。

「神ウッチェーロは、そなたのために長く生きて、暴君となったのか?」

「ううん」

 ナーヴェは小さく首を横に振る。

「彼は、最期まで賢君だった……」

 瑠璃に似た美しい双眸が、滲んできた涙で潤んでいる。その目元に指先で触れ、アッズーロは言い聞かせた。

「われはそなたが傍にいれば、絶対に暴君とはならぬ。そなたは決して、われを暴君とはさせぬだろう。そして、われが元気に生き続ければ、そなたが狂うこともない。われらは真に『比翼の鳥』、『連理の枝』となるのだ」

 ナーヴェの両眼から涙が溢れて、アッズーロの指を濡らした。

「……親しい人達を見送りながら生き続けるのは、とてもとてもつらいよ……?」

 それは初めて言葉として吐露された、ナーヴェの寂しさだった。

「そなたがいれば、耐えられる。そなたは、わが最愛ゆえ」

 アッズーロは言い切った。けれどナーヴェは、やはりナーヴェだった。簡単には納得しない。

「長く長く一緒にいたら、きみはぼくに飽きてしまうかもしれないよ……?」

 可愛らしい反論に、アッズーロは、涙に濡れた頬を摘まんで言い返した。

「先人達も太鼓判を押した、そなたの優れた学習能力は、常にそなたを魅力的に輝かせる。もっと自信を持つがよい。千年後のそなたが、どれほど魅力的になっているか、今から楽しみだ」

「……きみは本当に、途方もない人だね……」

 ナーヴェは、頬を摘ままれたまま、眩しげにアッズーロを仰ぎ、湿った声で零した。最愛から送られた、最高の褒め言葉だ。得意になったアッズーロが、更に甘い言葉で応酬しようとした時、レーニョの声が、ひどく申し訳なさそうに響いた。

「……陛下、妃殿下、ヴァッレ様が、お越しになられました」

「……分かった。通すがよい」

 アッズーロは溜め息とともに許可し、最愛の頬を一撫でして手を離した。

 寝室の入り口に現れたヴァッレもまた、申し訳なさそうな顔をしていた。室内の声が聞こえるところで、暫く待っていたのだろう。しかし、話し出すと、ヴァッレの表情は厳しいものに変わった。

「御歓談中、失礼致します。バーゼとサーレ、ルーチェとノッテへの報せは済みました。エゼルチトのその後の動向について、新しい報せはございません」

「奴はどこへ逃げると考える?」

 アッズーロの問いに、ヴァッレは硬い面持ちで答えた。

「レ・ゾーネ・ウーミデ侯領へ逃げる可能性が最も高く、また、それが最もわれわれにとって厄介かと。ただ、パルーデ自身は、決して身近に奴を受け入れる危険は冒さないでしょうから、エゼルチト将軍は、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領の辺境を通って、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領に入り、反乱民に合流するのではないでしょうか」

「その推測は、ぼくの予測とも一致するよ」

 ナーヴェが穏やかに口を挟んできた。アッズーロは、寝台の上で上体を起こしたままの妃を振り返る。最愛は、やや沈んだ口調で続けた。

「ただ、エゼルチトは、反乱を起こした人達のことを利用はしても、本当の意味で支援はしないだろう。だから、反乱を起こした人達のことが心配だ。エゼルチトは、きっと、ぼくを戦場へ引き出すような手を打ってくる。その材料にされるのは、反乱を起こした人達と、その周りにいる、何の罪もない人達だ」

「そなたを行かせるつもりはまだないぞ」

 アッズーロは釘を刺した。検討はすると言ったが、許可は出していない。

「うん。分かっている」

 ナーヴェは小さく頷き、続けた。

「だから、ぼくはまず、反乱の原因を一つ一つなくして、彼らがいる場所を戦場でなくすよう努力するよ」

「その一つ目が、羊の病に効く薬だな」

 アッズーロは先回りして、確認した。

「いつ頃できそうだ?」

「薬効と副作用の検証が必要だから、確実なことは言えないけれど……」

 ナーヴェは俯き加減に答える。

「三日以内には仕上げられるよう、努力するよ」

「――無理は致すな。今は、腹の子が最優先だ」

 アッズーロは妃に負担を掛けていることを自覚しながら、言い聞かせた。

「うん。分かっている」

 ナーヴェは、澄んだ双眸を上げて微笑み、先ほどと同じ返事をした。その嫋やかな姿は比類なく愛らしい。

(本当に、そなたを、ただただ安全に、安穏に守っていられたら、どれほどよかったか……)

 アッズーロは溜め息をついてから、ヴァッレへ視線を戻し、命じた。

「バーゼはテッラ・ロッサへ留め、サーレにはエゼルチトを追わせよ。その後は、そなたの裁量で指令を出し、エゼルチトと反乱民との接触を可能な限り絶て。同時並行でムーロに指揮を執らせ、エゼルチトの捕縛を目指す」

「了解致しました」

 一礼してヴァッレは立ち上がり、きびきびと退室していった。

「アッズーロ……」

 ナーヴェが憂い顔で見上げてくる。

「エゼルチトはそれなりの数の兵を率いている可能性が高い。反乱を起こした人達を、軍隊のように組織する可能性もある。いざとなれば、きみは、彼らの軍に、この国の軍を、真正面からぶつけるのかい……?」

「そうせざるを得ん時はそうさせる。その前に、できる限りの手は打つつもりだがな」

 アッズーロは苦い口調で肯定した。


     二


「――昼食まで、もう少し休むよ」

 ナーヴェは沈んだ表情で告げて、左手で体を支え、再び寝台に横になった。右腕を庇った動きにも既に慣れた様子だ。アッズーロは、伴侶の頭を少し撫で、華奢な肉体に掛布を掛けてから、腰を上げた。

「われは執務室で報告書を読んでいる。何かあれば呼ぶがよい」

「うん」

 微笑んで頷き、ナーヴェは目を閉じた。その寝顔に疲れが滲んでいる。やはり、妊娠した上で新薬を作るというのは、負荷が大きいのだろう。

(すまん……)

 胸中で詫び、長く青い髪を一束掬って口付けてから、アッズーロは執務室へ移動した。レーニョが無言で気遣わしげについてくる。その背後で、フィオーレが静かに寝室の清掃を再開し、ラディーチェがテゾーロを抱き上げて椅子に腰掛け、授乳を始めた。

 執務机の上に箱に入れて置かれた報告書の山の中に、緊急性を要するものはない。そういった報告は、伝令達と侍従との連携により、でき得る限り早くアッズーロへ口頭で伝えられる。今回の反乱に関することも大概はそうして伝えられてくる。だが、積まれた報告書の中にも、反乱と因果関係を持つ事柄が含まれている可能性は大いにある。アッズーロは、椅子に腰を下ろすと、一枚一枚、報告書に目を通していった。

(羊の病に関わるような報告は、やはりない、か……)

 羊の病については、今回の反乱に関係があると知るまでは、そもそもレ・ゾーネ・ウーミデ侯領で封じ込められ、終息したとばかり思っていたほど、報告がない。調査を命じたので、その報告については伝令達によっていち早く届くはずだが、報告書による報告はなさそうだ。

(こうも情報がないとなると、意図的に隠されておると見るべきだな……)

 アッズーロは目を眇め、読み終えた報告書を執務机の端へ順に置いていき、レーニョがそれを浅い木箱に入れていく。アッズーロが読み終えた報告書は侍従達によって文書保管庫に収められ、オリッゾンテ・ブル王国の歴史書の一部として扱われるのである。羊皮紙ではなく草木紙で作られた報告書は劣化が早い可能性があると告げて、ナーヴェは些か申し訳なさそうにしていたが――。

(隠しておるは、パルーデに加えて、誰だ……?)

 レ・ゾーネ・ウーミデ侯領パルーデが羊の病が他領に蔓延していることを知らぬはずはない。彼女が意図的に報告しなかったことについては明らかで、その点は追求し、取り引き材料としている。しかし、周辺の侯領からの報告もないということは、他にも隠している者達がいるということだ。

(諸侯か、それとも、農民達自身か、村長どもか……? 一体、何故隠す……?)

 報告さえしてくれば、国としても蔓延防止の策を打つことができた。

(その策が、疎まれたということか……)

 蔓延防止のためには、どうしても、羊の移動を禁ずる必要がある。病の羊を隔離したり、殺処分したりする必要性も出てくるかもしれない。

(われが、そうした策を、無慈悲に果断に行なうと思われた訳か……)

 アッズーロは冷笑した。民達の判断は間違っていない。きっと自分はそうしただろう――。

「……っ、ふふ、あは、駄目、駄目だよ、そこは、ぁ、やめ……」

 不意に寝室から聞こえてきたナーヴェの声に、アッズーロは眉をひそめて立ち上がった。レーニョも怪訝そうに寝室を振り向いている。今、寝室にはナーヴェとフィオーレ、テゾーロとラディーチェがいるが、一体何が起きたのだろう。アッズーロは足早に執務机を回って寝室へ行った。

「陛下……」

 フィオーレが、困惑した顔でこちらを見た。テゾーロを胸に抱いたラディーチェもまた、揺り篭の傍に立ち尽くし、不安を湛えた顔でアッズーロとナーヴェとを見比べる。そのナーヴェは、寝台に横になったまま、僅かに身を捩りつつ――、笑っていた。

「あは、駄目だって、くすぐったい……」

「如何した、ナーヴェ」

 アッズーロが声を掛け、大股で歩み寄ると、ナーヴェは涙目で見上げてきた。

「大丈夫、これは、ほんのちょっとした不具合だから……、ぁ、や、だから、そこは……」

 耐えかねたように大きく身悶えた妃の両手首を掴んで、アッズーロは華奢な体を仰向けに押さえ付けた。

「はっきりと申すがよい。一体何事だ」

「や、ひゃ、羊だよ」

 ナーヴェはまだ自由な両足を小さくじたばたさせながら答える。

「飢えてしまわないように、栄養剤を混ぜた水をあげたんだけれど、勢い余ってそれを零して、舐め回すものだから……、やっ、やめ、あは、ごめん。ずっと肉体に接続し続けているから、感覚機器が混線してしまったみたいで、駄目、や、ふふ、ひゃ、あはは……」

 事情が大方呑み込めて、アッズーロは安堵するとともに、妃の本体の中にいる羊に、嫉妬に似たものを感じた。

(われとて、そなたの感じるところを隈無くまさぐり喘がせたいというに、羊如きがわが妃を喘がせるなぞ、気に食わん……)

「あ、はは、ふふ、アッズーロ、顔、怖いよ……? 怒っているのかい?」

 組み敷いた妃の問いに、アッズーロは正直に吐露した。

「怒ってはおらんが、不機嫌だ」

「ごめ……ん……。ちょっと、催眠剤気体を、出して、羊には、眠って貰うよ」

 ナーヴェは告げ、暫くしてから、ほうと一息ついた。両手からは力が抜け、両足の動きも止まっている。

「羊は眠ったよ。騒がせてごめん」

 改めて詫びてきた妃に、アッズーロは顔をしかめたまま口付けた。本当なら、このまま乱暴に長衣を剥いで、華奢な全身を愛撫したい気分だ。

 時間を掛けた深い深い口付けを終えると、唯一無二の宝は、真っ赤に染まった唇の端から涎を零しながらも、釘を刺してきた。

「……セーメがいるから、ほどほどに、ね……?」

 そんなことは重々分かっている。だからこそ、悩ましいのだ。アッズーロは深い溜め息をついて応じた。

「これ以上をするつもりはない。だが、われを煽って自制心を試すようなことは、できるだけしてくれるな」

「うん、ごめん……」

 しゅんとした宝の頭を撫でて、アッズーロは寝台から降りた。

 仲夏の月の温い風が、開いた窓からゆったりと吹き込んでくる。風に青い髪を僅かに乱されるナーヴェは、相変わらず美しい。

(まあ、そなたが最も美しいのは、全身を朱に染めてわが愛撫に翻弄され、喘いでいる時だが……)

 アッズーロは最後に軽く宝の額に口付けて、その寝台を離れた。



(今回の不具合は、二度と起こらないようにしないと)

 ナーヴェは、執務室へ消えるアッズーロを見送って、小さく溜め息をついた。本体と肉体の間に生じる齟齬――不具合は、どうしても起きてしまうものだと割り切ってはいるが、アッズーロに多大な不快感を与えるものに関しては、何とか抑えたいとも思う。

(薬ができた後は、病の羊がいる牧場を幾つか回って、一応治験をしないといけない。その時に、また同じようなことにならないように、何とか対策しよう)

 ナーヴェは薬を作る傍ら、本体内を羊に舐め回されないための手段を演算し始めた――。



 二日が過ぎても、エゼルチトの行方は杳として知れなかった。だが、行き先の検討は付く。

(恐らくは、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領からフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領へ、少数精鋭で移動している)

 ロッソは眉間に刻んだままの皺を深くして、幼馴染みの行動を推測する。ソニャーレからの情報では、レ・ゾーネ・ウーミデ侯周辺に、エゼルチトへ呼応した動きは皆無とのことだった。ならば、エゼルチトはもう一人の協力者――フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯の許へ赴いたのだろう。

(あやつに同行できた兵は、幽閉塔脱出時点で四、五人、国境通過時点でも多くて七から八人程度だったはずだ。それ以上の人数になれば、必ずどこかで他の兵達の目に留まる。だが、あやつは既に、オリッゾンテ・ブルを内側から破壊するに足るだけの兵力を、かの国の内側に有している)

 先日の国境侵犯に続くオリッゾンテ・ブル軍との交戦では、一千二百五十七人の戦死者が出たと報告が上がっていた。けれど、ボルドが伝えてきた情報に拠れば、それは全くの虚偽報告だった。ナーヴェと戦った鉄砲隊には多数の怪我人が出たが、死者は出ておらず、その後の撤退戦でも、オリッゾンテ・ブル軍との間に僅かな小競り合いが生じた程度で、死者など出ていないのだ。即ち、戦死者として報告された兵は、全て、オリッゾンテ・ブル国内に潜伏させているのだろう。エゼルチトらしい、抜かりのなさだ。

(千人余りの兵を要所要所に潜ませ、必要な時に動かし、反乱を大規模化させていき、あやつ自身は、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯を利用して、ナーヴェを呼び寄せる)

 王の宝ナーヴェの本体を、自分達は見て、船として乗りさえしてしまった。殺しても死なない存在だと一度は見せつけられたナーヴェの真実を、エゼルチトも知ってしまった。

(あの本体を壊すことも、容易ではなかろう。だが、不可能ではない――)

 ナーヴェの、全ての人を守らんとする、あの慈愛に満ちた性格を利用すれば、罠など幾らでも仕掛けられる。後は、中に入り込んで内部を徹底的に破壊焼却するなり、落石落盤に巻き込むなり、エゼルチトならば、さまざまな方策を考えつくだろう。

(ナーヴェは、馬鹿ではない。そのくらいのことは「予測」するだろうが……)

 あの宝は、すぐ自己犠牲に走る傾向がある。

(そなたに何かあれば、アッズーロが、引いてはオリッゾンテ・ブル王国自体が、立ち直れぬ――)

「陛下」

 外からジェネラーレに声を掛けられて、ロッソは顔を上げた。馬車の揺れがいつの間にか止まっている。目的地に到着したのだ。近衛隊長らしく騎馬で馬車に随行していたジェネラーレは、既に部下に愛馬を預けて下馬している。ロッソは自ら馬車の扉を開け、その邸の裏門前に降り立った。薄暮の中、簡易な甲冑姿のジェネラーレは先に立って、門番に頷き、開かれた裏門を通り抜けていく。ロッソはその後に続いて、邸の裏庭に入った。

 棗椰子の林のようになっている暗い裏庭を通り抜け、いつものように邸の勝手口から中へ入る。

「姉は、私室で待っております。毎度お出迎え致しませず、誠に申し訳ございません」

 ジェネラーレが謝ってくるのに対し、ロッソは苦笑した。

「よい。毎度おれが都合を訊かず押し掛けておるのだからな」

 ジェネラーレの姉ドルチェは体が弱く、一年の内の大半を、病気療養をしながら過ごしている。だが、体がどれほど病んでいようとも、心は驚くほど健やかで、見舞いに行くロッソを、寧ろ慰めてくれるのだ。その上、頭も賢く、相談事を持ち込めば、知恵を授けてくれることも多い。本人に拠れば、書物を読んで考え事をするぐらいしかできないので、頭を使うのは得意ということらしい。

 通い慣れた階段を上がり、二階にあるドルチェの私室の前にジェネラーレを残し、ロッソは扉を開けて、明るい設えの部屋へ入った。後ろ手に扉を閉ざして、寝台の上で上半身を起こしている、未だ少女のような小柄な人へ歩み寄る。

「こんばんは、ロッソ」

 夜着のままのドルチェは、茶色の巻き毛に縁取られた顔に笑みを浮かべ、やや潤んだ青い双眸で見上げてきた。白い頬も、熱があるのか火照った色をしている。

「いつもすまん。横になっていてくれ」

 ロッソは寝台の傍らに用意してある椅子へ腰掛けながら、愛する人を労った。

「大丈夫よ。横になったら、あなたがそこにいようと寝てしまいそうだから」

 ドルチェは僅かに肩を竦めると、慈愛に満ちた眼差しでロッソを見つめる。

「ジェネラーレから少し聞いたわ。エゼルチトが行方を眩ましてしまったのね」

「ああ。幽閉塔を脱出して、以降の動向は不明だ」

 ロッソは悄然として告げた。

「そう。いろいろと心配ね……」

 ドルチェは、すぐに考える顔になる。

「他の将軍達の動揺はどうかしら?」

「今のところは問題ない。驚いてはいるが、追随しようとする気配のある者はおらん」

「密かに協力している人も?」

「ない、とは思うが、引き続き探らせてはいく」

「みんなを疑いたくはないけれど、エゼルチトは影響力のある人だから、それは大切ね」

 ドルチェは頷いてから、冷静に尋ねてきた。

「それで、あなたは、エゼルチトが今どこにいると考えているの?」

「フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領へ向かっている最中だろう」

 ロッソは低い声で答える。

「レ・ゾーネ・ウーミデ侯は、国境は越えさせても、積極的な支援はせぬ構えのようだ。ならば、あやつは、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯を頼る。己が母の従兄たる、あの男をな。加えて、こちらの間諜が掴んだ情報に拠れば、反乱民の首魁の一人もまた、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯の縁者らしい。エゼルチトは反乱民の中に工作員を送り込んで、その者と連携を図っておるということだ」

「既に、単なる民衆の反乱ではなくなっているということね……」

 ドルチェは俯いてから、目を上げた。

「でも、彼が反乱民と直接合流するために、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領へ行ったとは考えられないのかしら?」

「あやつが王の宝ナーヴェを直接知る以前ならば、その線もあったかもしれん。だが、今となっては、それはない」

 ロッソは眉間に皺を寄せる。

「反乱民には、分散させた兵達を必要に応じて合流させ、あやつ自身は、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯と接触し、反乱民に呼応して反乱を起こすよう促すだろう」

「けれど、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯は、そう簡単に動く人ではないはず。彼もそのことは知っているでしょう。彼の目的は何かしら?」

 さらりと核心を問われて、ロッソは確信に変わりつつある推測を告げた。

「王の宝ナーヴェを、あの博愛主義の性格を利用して釣り出し、破壊することだ」


     三


 この国の王を務める男は、目の下に隈を作って憔悴した様子だ。無骨だが整っている顔が台無しである。やつれた幼馴染みを、ドルチェは、痛ましく見つめた。

(国王の重みを分かっているあなたが、隠しもせずにそんな表情をするのは、妹達や、わたくしやジェネラーレ、エゼルチトの前でだけでしょうね)

 だからこそ、エゼルチトの真意が知りたい。

「王の宝ナーヴェが、あなたの覇道の害になると、エゼルチトは判断したのね」

 ドルチェが確認すると、ロッソは目を伏せ、両膝を握って言った。

「あやつの主張も、分からんではない。人ではないゆえのナーヴェの危険性は、無視できんからな。だが、ナーヴェは既に、オリッゾンテ・ブル王国に必要不可欠な存在となっている。あれを失えば、オリッゾンテ・ブル王国は瓦解しかねん。エゼルチトは、そこまで目論んでいるが、おれに、そこまでの器量はない。あの国までは背負えん」

 苦しげに吐露された最後の言葉に、ドルチェは寝台の端に寄り、片手を伸ばして、幼馴染みの無骨な手に重ねた。この幼馴染みが、オリッゾンテ・ブル王国を憎む祖父の期待に応えようと努力を積み上げて成長し、やがてエゼルチトなどの期待も背負って即位したことを、ドルチェは知っている。その双肩に感じている重荷は、如何ばかりだろうか。

「エゼルチトに、あなたの気持ちを分かって貰いましょう」

 ドルチェは、静かに進言した。

「親友ならば、可能なはずです。そして、オリッゾンテ・ブル王国との共存を、裏表なく、一丸となって目指しましょう。それこそが、この国にとっても、幸福へ至る道だと、わたくしは思います」

「おまえは、迷うおれを、いつも決断させてくれる」

 ロッソは、ドルチェが重ねた手を取り、甲にそっと口付けてから、立ち上がった。

「オリッゾンテ・ブルの協力も得て、エゼルチトを捕らえる。あやつにおれの弱さを伝えて、見限られるか、ともに歩めるか、再度、試すとしよう」

「上手くいくように、祈っているわ」

 真摯に告げたドルチェの手を名残惜しげに離して、まだ若い王は、赤褐色の髪を揺らし、部屋から出ていった。その後ろ姿を扉の向こうに見送って、ドルチェは溜め息をつき、寝台に横になった。

(わたくしは、また、あなたに決断させてしまった)

 ロッソは、言葉にはしなかった。けれど、あの青い双眸が語っていた。

(エゼルチトの捕縛が上手くいかなかった時には、あなたは、オリッゾンテ・ブルと共存するために――)

「ごめんなさい、ロッソ。ごめんなさい、ジェネラーレ」

 口の中で、ドルチェは詫びた。エゼルチトは、ロッソの唯一無二の親友だ。そして、妹のジェネラーレにとっては、長年慕ってきた、恋心を懐く相手だ。

(わたくしには、全てが絶対に上手くいく方法なんて見つけられない。愚かなのに、いつも賢しらにロッソに意見してしまう。もっと賢明な人がいたなら、ロッソにその人を紹介するのに)

 掛布の中、両手で顔を覆い、ドルチェは己の知恵の足りなさを呪う。

(王の宝ナーヴェ……。あなたなら、何か、よい方法を考えつくことができるのかしら……?)

 まだ会ったことのない、けれど、実際に存在するという王の宝。

(もし、そうなら、どうか、エゼルチトを救って。ロッソとジェネラーレが傷つかなくて済むように――)

 ドルチェは、神ウッチェーロに祈るように、王の宝ナーヴェに祈った。



「一応、羊の病に効く薬ができたよ」

 ナーヴェが告げたのは、深夜、執務を終えたアッズーロがその傍らに横になった時だった。

「では、明日から使えるのか」

 予想より半日ほど早い完成にアッズーロが目を瞬くと、窓から差し込む月明かりの中、横たわった宝は複雑そうな表情になった。

「ううん。今から、あちこちの牧場の病の羊達に使ってみて、ちゃんと効くかどうか、試さないといけないんだ」

「『今から』致すのか?」

 訊き返したアッズーロに、宝は頷いた。

「うん。できるだけ急ぎたいからね」

「具体的にどうするのだ」

 尋ねたアッズーロに、ナーヴェは小さく肩を竦めた。

「本体で直接あちこちの牧場へ飛んでいって、病の羊をぼくの中に入れて、薬を注射して、極小機械も挿入して、経過観察をするんだ。それで経過良好なら、実際に使える薬だと判断できる。明日の朝には、完了したいと思っているよ」

 つまり、ナーヴェが言っていた薬完成までの三日間というのは、そこまでを含んでのことなのだ。

「――セーメは、大丈夫なのか……?」

 アッズーロは、確認した。必要なことだとは理解しているが、ナーヴェの体調だけが心配だ。

「うん。この子はちゃんと守る。ただ、この肉体の応答機能は、その間、また三歳児並に落とすから、フィオーレ達に、不安に思わないでと伝えてほしい」

 妃は微笑むと、目を閉じて、すうすうと寝息を立て始めた。その頬を撫で、顔を寄せて、アッズーロも目を閉じる。直後、窓が面した庭から、ナーヴェ本体の低く響く発進音が聞こえた。

(そなたばかりに背負わせはせん。われも、王として、そなたの努力に必ず報いる)

 そのためには睡眠を取って体力を保つことも重要だ。アッズーロは、己をすり減らすように働く妃の傍らで、懸命に眠った。



 夜空は晴れている。大月ベッレーザと中月セレニタが青白く照らす地表は、人の目でもはっきり物が見えるほどの明るさだ。

(本体で飛び回っていたら、不審がられるだろうけれど、仕方ないね……)

 幻覚の溜め息をついて、ナーヴェはまず、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領を目指した。羊は基本的に夜間も外で飼育されている。ナーヴェとウッチェーロが、狼などの害獣になり得る獣の数を、極端に絞ったからだ。現在、狼が生息しているのは、オリッゾンテ・ブル王国の北部地域を占めるピアヌーレ・デル・ノルドゥ領だけである。

(後は、偶然ででも、エゼルチト達の居場所を知ることができたら、儲けものなんだけれど……)

 妊娠中のため、人工衛星への接続もままならないので、エゼルチトとその兵達の行方は、殆ど掴めていない。ただ、各地から上がってくる目撃情報だけは、アッズーロとともに聞いて、思考回路に蓄積している。

(カテーナ・ディ・モンターニェ侯領で、エゼルチトに出会えるかな……)

 テッラ・ロッサ兵らしき目撃情報は、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領からのものが一番多い。その次がフォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領から。三番目はピアット・ディ・マレーア侯領からで、四番目はレ・ゾーネ・ウーミデ侯領からだ。他の侯領からは、まだ目撃情報は上がってきていない。

(エゼルチトに会えたら、ぼくの有用性をもっと理解して貰って、ロッソの本心を推測して貰って、ぼく達が協力できることを想像して貰って……)

 人が決意したことを覆すのは、ひどく難しい。それは、数多の船長達と過ごしてきた中で、嫌というほど感じてきた。けれど、ナーヴェとて、彼ら彼女らと旅をしてきた中で、説得の技術を磨いてきた。

(彼が、ぼくの危険性を、どうしても看過できないというなら……)

 最後の手段を明かしてもいいだろう。手の内を見せてこそ、説得は成功する。

(エゼルチト、ロッソとアッズーロと一緒に、幸せになってほしい……)

 説得工作の計画を練る内、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領に入り、夜間でもよく見える能動型極超短波測定器が、第一目標とした牧場を捉えた。やがて、光学測定器も、大月と中月の明かりで羊達の姿を捉えた。常よりも厳重な板囲いの中で、病に冒された羊達は、眠りながら喘いでいる。

(おまえ達を、首尾よく元気にできたら、ぼくも、とても嬉しい)

 ナーヴェは注意深く、可能な限り静かに、板囲いの中の羊の隙間に着陸した。目覚めた羊達が、何事かと見てくるが、逃げられるような広さはない。逃げられるほどの体力のない羊達も多い。病が蔓延してから、餌も碌に与えられていないのだ。

(確かに、治療法がない場合、死滅させるのが一番の蔓延防止になるけれど、それは、おまえ達に対して、とても酷い仕打ちだからね……)

 ナーヴェは船体後部の作業室の扉を開け、同時に外部装甲から作業腕を出して、最も近くにいる羊を捕らえた。鳴いて抵抗する羊を船体内に入れ、直後に後部扉を閉める。次いで作業室内の内部作業腕二本を伸ばし、羊を押さえて、創り上げた抗生物質と栄養剤、及び経過観察用の極小機械を注射した。後は、極小機械の遠隔操作で経過を観察するだけだ。

(さあ、仲間の傍へお帰り)

 ナーヴェが後部扉を開けると、羊は興奮した様子で、素早く外へ出ていった。ナーヴェはすぐに後部扉を閉じて、来た時同様、できる限り静かに離陸する。第二目標もカテーナ・ディ・モンターニェ侯領内の牧場だ。

(この調子で、今夜中に十ヶ所の牧場を回る)

 ナーヴェは空中で進路を定め、第二目標目指して加速した。



 大月ベッレーザと中月セレニタが照らす夜は明るい。

(こんな夜は、よくあいつと沙漠へ遠乗りに行ったな……)

 沙漠の夜は寒かったが、広々とした何もない大地に身を置くと、日頃溜め込んだ毒を綺麗に洗い流せる気がした。二人で並んで沙漠に寝転べば、更に楽しく愉快に毒を吐き出すことができたものだ――。

(あいつは……、今夜は、差し詰めドルチェのところにでも行ったかな……。おれの所為で、沙漠まで出掛けている余裕はないだろうからな……)

 エゼルチトは、木々の枝に縁取られた空に浮かぶ大中の月を見上げて寝転んだまま、独りで淡く苦笑する。今、幼馴染みが溜め込んでいる毒は、殆どエゼルチトに関するものだろう。

(おれ自身が、あいつに苦労を掛ける立場になるとは、以前は思いもしなかったが……。あの王の宝とアッズーロは危険だ)

 王の宝は、アッズーロに何かあれば、暴走する可能性がある。あの親密さを見れば、誰にでも推測できることだ。しかも、王の宝は人を超えた力を持っている。暴走すれば、危険極まりない。

(だが、あいつは、アッズーロにも王の宝にも、心を許してしまった。心を許した相手に、あいつはもう、厳しく相対することができない。それが、あいつのいいところだが、王としては、弱さ以外の何ものでもない――)

 自分が、そこを補ってこそ、テッラ・ロッサは国として安定する。そして、いずれは、自分達の悲願を達成するのだ。

(おれは、必ずおまえを、オリッゾンテ・ブルも併合した唯一の国の王にして見せる――)

 決意を胸に、エゼルチトは二つの月を見据える。王の宝の壊し方は、幾つか算段してきたが、先日、最も確実で簡単だと思われる方法を思いついたところだ。

(宝を壊せば、おまえは最初は怒るだろうが、腑抜けになったアッズーロから父祖の地を取り戻し、治めることには同意する。他ならぬ、民のために。おまえは、優しくて責任感の強い男だからな……)

 だからこそ、全身全霊を賭けて支えたいと思うのだ。

 不意に、見上げる月を過る影があった。

(あれは……)

 エゼルチトは驚いて下草の中から起き上がり、遠ざかる影を目で追う。あんなものは他に二つとないだろう。

(王の宝ナーヴェ――)

 夜空を行く船は、エゼルチトが見つめる先で高度を落とし、丘の向こうへ降りていった。

(おれ達を探しているのか……?)

 眉をひそめつつ、エゼルチトは立ち上がる。何にせよ、好機到来かもしれない。近くに潜ませている少数の配下達に合図を送って、エゼルチトは船が降りたほうへ、林の中を歩き始めた。


     四


「アッズーロ……」

 夢現のような声で呼ばれて、アッズーロは目を開き、添い寝している宝を見た。美しい妃は、窓の隙間から差し込む淡い早朝の光の中、柔らかな微笑みを浮かべて言った。

「つかえるくすり、できたよ……」

「そうか。感謝する」

 アッズーロは、万感を込めて、そっと妃の頭を抱き寄せた。大人しく抱き寄せられて、宝はふわりと笑う。嬉しく、悲しく、ただ、愛おしい。

「でも……、ちょっと、こまったことがあって……」

 宝は、アッズーロの胸に頭を押し付けたまま、僅かに声を落とした。

「どうした?」

 アッズーロは、途端に不安に駆られて、宝の顔を覗き込む。宝は、半ば目を閉じて告げた。

「ぼくは、ひとをころしてはいけない。ころせない。だから、きみのところへかえれないよ……」

「一体、どういうことだ?」

 アッズーロは体を起こし、寝転んだままの宝の顔を凝視した。幼い言動をする宝は、ひどく眠そうな表情で、説明した。

「エゼルチトが、ひとをころすっていうんだ。ぼくに、うごいたらいけないって……。だから、ごめん、かえれなくなったんだ……」

「エゼルチト――」

 アッズーロは、血の気が引く思いで、その名を呟いた。薬を作るため、各地の牧場を回る中で、愛する宝は選りに選って、敵に遭遇してしまったのだ。

「エゼルチトは、誰を殺すと言うておるのだ」

 問うたアッズーロに、ナーヴェはうっすらと目を開けて答えた。

「じぶんの、ぶかのひとみたい。でも、まわりに、むらのひとたちもいて、みんな、あぶないかも……。だから、ごめん、ぼく、こっちでは、すこし、ねる……」

 弱々しく事情を話すと、宝は、完全に目を閉じてしまった。本体のほうに、この肉体を操作するだけの余裕がなくなってきているのだ。

「待て、そなた、今、どこにいるのだ」

 アッズーロは、眠りに落ちようとする肉体に懸命に尋ねた。宝は、肉体の目を開けないまま口だけ動かして明かした。

「フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダこうりょう。カテーナ・ディ・モンターニェこうりょうにちかいほうの、ぼくじょう」

 それきり、すうすうと寝息を立て、ぐったりとした様子で、ナーヴェの肉体は眠ってしまった。未だ固定具を付けたままの体が、常よりも痩せて見える。眠ったままでは食事も摂れない。セーメを守るために、いつかは起きるつもりなのだろうが、今は無理なのだろう。

「フィオーレ」

 アッズーロは、既に控えているはずの女官を呼んだ。

「はい」

 寝室の入り口に現れたフィオーレに、アッズーロは硬い声音で命じた。

「レーニョに伝えよ。緊急の大臣会議を行なうゆえ、大臣達に招集を掛けよ、と」

「畏まりました」

 緊張した面持ちで、フィオーレは一礼し、足早に去っていった。

「ナーヴェ」

 アッズーロは眠る妃に静かに囁く。

「怒るでないぞ。われらは、国を挙げて、そなたを助けに行く」



 それは、奇妙な光景だった。扉を開けっ放しにした船へ、羊達が順繰りに入っては出ていく。

〈ぼくは何もしていない。動いていない〉

 聞き覚えのある声が、船から響く。

〈これは、羊達が勝手にしていることだよ。だから、その人を傷つけてはいけないよ?〉

「羊達は、何をしているのです?」

 エゼルチトの問いに、船は微かに笑った声で答えた。

〈薬を飲みに来ているんだよ。自分達に、この抗生物質が必要だと、本能で分かるんだね。順番に、塩を舐めに来るように、飲みに来ている。ぼくは、ただ、でき上がった薬を施すために、着地して扉を開けただけ。その直後に、きみから動くなと警告されたから、扉を開けた以外、何もしていないのにね〉

 不可思議なものの降下を見て、鍬や鋤を手に集まってきた近隣住民達も、呆気に取られた顔で羊達の行動を見つめている。

〈さて、きみの望みは何だい?〉

 船は、溜め息交じりといった口調で尋ねてきた。

(おれの望みは――)

 エゼルチトは、配下の首筋に小刀の刃を当てたまま、冷笑して告げた。

「おまえが、完全に破壊されることだ」

〈ぼくは、ぼく自身をただ破壊することはできない。そういうふうに造られている。だから、誰かが、或いは何かが、ぼくを破壊しないと、きみの望みは叶わないよ〉

 船は、まるで他人事のように応じた。声は同じでも、肉体というものがそこにない所為か、船の態度は、ひどく無機質で冷徹に見える。

(これが、おまえの本性だ)

 エゼルチトは目を眇め、言葉を重ねた。

「ならば、おまえを完全に破壊できる方法を教えよ。できるだけ今すぐに、この近くでできる方法をだ。さもなくば、この男を殺す」

 エゼルチトが、片腕を背中で捻り上げて捕らえ、その首筋に小刀を突き付けている相手は、配下のラーモだ。エゼルチトに忠実な直属の部下の一人で、斥候が得意なので、特に選んで少数精鋭にした配下に加えた。

 ラーモは期待通り、何の抵抗もせず、エゼルチトに捕らわれている。必要とあらばエゼルチトのために命を投げ打つと、日頃から言っている通りの行動だ――。

〈分かったよ〉

 船は、あっさりと承諾すると、言った。

〈きみの提示した条件に合う方法が一つある。ただ、彼らの協力が必要だけれどね〉

(「彼ら」?)

 エゼルチトは、羊の柵を囲むように立っている近隣住民達を見た。船は、淡々と話を続ける。

〈彼らの鍬や鋤で、ぼくを内部から叩き壊せば、多少時間は掛かるけれど、恐らく昼までには、ぼくを完全に破壊できる。それが、「できるだけ今すぐに、この近くでできる方法」だよ。ただ、この姿のぼくが彼らに頼んでも、多分、怖がられて聞き入れては貰えないだろうから、きみから彼らに頼むことをお勧めするよ〉



「……が……っぴき。……じが、……き」

 不意にナーヴェが呟き始めたので、フィオーレは驚いて寝台に駆け寄った。

「ナーヴェ様? お苦しいのですか?」

 尋ねても、返事はない。どうやら寝言らしい。

(陛下に、お知らせするべきかしら……?)

 アッズーロは、緊急の大臣会議に出席中だ。フィオーレは、テゾーロの世話をしていたラディーチェと顔を見合わせた。その間も、眠る王妃は呟き続ける。

「ひつじが、さんびき。ひつじが、よんひき。ひつじが……」

 王妃の幼げな寝顔は、穏やかに、淡い微笑みを湛えていた。



「陛下」

 会議室の扉を守る近衛兵が、些か慌てた様子で呼び掛けてきたので、アッズーロは視線を上げた。

「如何した」

 問えば、普段、動揺を見せない近衛兵が、焦った口調で答えた。

「扉の外にフィオーレ殿が来られていまして、妃殿下が何事か仰っておられるので、至急、陛下に寝室へお戻り頂きたい、と」

 即座にアッズーロは椅子から立ち上がった。一段高いところにあるその王座から、大臣達がいる床へ降り、そのまま足早に、最後は駆けるように、近衛兵が開けた扉を通る。

「陛下」

 フィオーレは、申し訳なさそうな、それでいて安堵したような、けれど不安げな、複雑な表情でアッズーロを見上げた。

「ナーヴェは何と?」

 寝室へ急ぎながらアッズーロが尋ねると、小走りでついて来るフィオーレは、更に複雑な表情になった。

「眠られたまま、羊が五匹、羊が六匹、と寝言で何故か羊を数えていらっしゃいます。わたくしどもには、何のことやら分かりかね、ナーヴェ様に声をお掛けしてもお目覚めになっては下さいませず、会議中とは存じつつも参った次第です」

「よい。そもそも、ナーヴェを救いに行くための会議であるからな」

 アッズーロは頼りになる女官の判断を肯定して、大股で寝室へ戻った。

「……じが、にじゅうななひき。ひつじが、にじゅうはっぴき。ひつじが、にじゅうきゅうひき」

 ナーヴェは、寝台に仰向けに横たわったまま、確かに羊を数えていた。つらそうな訳でも苦しげな訳でもないが、なるほど、フィオーレでなくとも困惑する事態だ。傍に付いていたラディーチェも、縋るような目でアッズーロを見た。

「ひつじが、さんじゅっぴき」

 数え続ける宝の頬に触れ、アッズーロは静かに呼んだ。

「ナーヴェ、ナーヴェ」

「ひつじが、さんじゅういっぴき。ひつじが、さんじゅうにひき。これで、ぜんぶ」

 数え終えたらしい宝がふわりと微笑み、次いでゆっくりと目を開いた。

「アッズーロ……」

 深い青色の双眸が、嬉しげにアッズーロを見上げ、動く左手も掛布から出してくる。

「ほめてほめて、ぼく、はじめて、とてもじょうずに、うそがつけたよ……!」

 幼い物言いで請われて、アッズーロは涙を堪えつつ、伸ばされた左手を握って頬を寄せた。

「そうか。よくやった。よくやったぞ、ナーヴェ。そなたは、どんどんと成長する……。して、エゼルチトはどうしたのだ?」

 何とか問えば、宝は、不思議な笑みを浮かべて答えた。

「ぼくのまえで、こまっているよ。むらのみんなが、いうことをきかないから。みんな、ひつじのくすりがほしいから。これも、くすりのききめだね。ここの、さんじゅうにひきのひつじは、みんなよくなる。そうしたら、エゼルチトは、どうするかな……?」

 最後は独り言のように呟いて、ナーヴェはまた、目を閉じてしまった。

(本当に、エゼルチトはどうするであろう……?)

 アッズーロは、握った宝の左手に頬を寄せたまま、寝台脇に膝を突いて考える。ナーヴェがどういう嘘をついたのかは不明だが、状況は大体分かった。エゼルチトは、住民達にナーヴェ本体を害するよう命じるか促すかしたが、拒絶されたのだ。

(民達も馬鹿ではない。こやつの本体が未知のものであろうとも、羊の薬を施すものとして正しく認識したのだ)

 だが、楽観はできない。だからこそ、ナーヴェも再び肉体を眠らせてしまったのだ。

(住民達が使えんとなれば、エゼルチトは「ぶか」を使うやもしれん。そうなれば、ナーヴェは民達を守らんとして、戦闘になるやもしれん)

 アッズーロは、頬を寄せていた宝の左手に優しく口付けた。ナーヴェを救いに行くための会議は続けねばならない。愛らしい左手をそっと掛布の下へ仕舞い、アッズーロは立ち上がった。

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