第18話 分かり合うために
一
一晩中アッズーロに慰められて過ごした翌日。昨日同様、テゾーロのために歌っていたナーヴェの許へ、保健担当大臣ビアンコが現れたのは、午前も半ばを過ぎた頃だった。
「ナーヴェ様、陛下の御命令ということで、ビアンコ様がお越しになりましたが、如何致しましょう?」
初めてのことに、取り次いだフィオーレも戸惑っている。ナーヴェも戸惑いは感じたが、微笑んで応じた。
「アッズーロのことだから、ぼくのためもあって、ビアンコに命じたんだよ。大臣会議に出られないぼくが鬱々としてしまわないように、ビアンコに何か知識か情報をあげられるように、ということだと思う。ビアンコも忙しいのに、わざわざ来てくれたことだし、とにかく会うよ」
「畏まりました」
フィオーレは一礼して、すぐにビアンコを呼び入れた。
「妃殿下には、御機嫌麗しい御様子、安堵致しました。拝謁をお許し頂き、感謝致します」
入り口で跪いて挨拶した黒髪の青年大臣に、ナーヴェは寝台の上から笑顔を向けた。
「忙しいのに来てくれてありがとう。妊娠中だから、このままで失礼するけれど、許してほしい。それで、アッズーロは、きみに何と言ったんだい?」
「畏れながら、陛下が仰せになった通りに申し上げますと」
断ってから、ビアンコは真顔でアッズーロの口真似をする。
「『わが妃は知識の宝庫ゆえ、保健担当大臣たるおまえの知見を以てして、此度の反乱に対処するための方策を引き出してくるがよい。ついでに、妃は近頃些か気鬱気味ゆえ、世間話で慰めよ』との御命令でございます。付け加えますと、大臣会議は、本日はもうありません。各大臣は、それぞれ担当業務に従事することになっております」
「そう」
ナーヴェは苦笑して胡座の膝に座らせたテゾーロの頭を撫でる。
「それで、まずはどんな話からしようか……?」
訊いてみると、ビアンコはナーヴェを見据えて問うてきた。
「陛下は、主に間諜達、工作員達を動かして反乱を収束させるおつもりのようですが、妃殿下におかれましては、他に何か手を考えていらっしゃいますか?」
「そうだね……。ぼくとしては、できるだけ早くみんなに元の生活を取り戻してほしいから、カテーナ・ディ・モンターニェ侯城の城下町の再建を進めたい。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領の木工職人さん達や竹細工職人さん達とは、草木紙生産を教える時に仲良くなったから、是非、協力を仰ぎたいと思っているよ」
「成るほど……。さすが妃殿下です。目の付け所が素晴らしい」
ビアンコは怜悧な顔に素直に感心した表情を浮かべて評価してくれた。しかし、僅かに含みのある言い方だ。
「きみには、何か別の案がありそうだね……?」
ナーヴェは促してみた。大臣会議で発言を躊躇するような性格ではないはずだが、何かアッズーロ相手では難しい提案があるのかもしれない。
「はい。陛下には申し上げていないことなのですが」
予測通りのことを述べて、ビアンコはナーヴェを見据える。
「畏れながら、妃殿下に、今一度だけ、反乱民の前へお立ち願いたいのです」
確かに、今のアッズーロ相手では口にするだけ無駄な提案だ。セーメを身篭もった以上、ナーヴェとしても、了承しづらい。それでも、切れ者のビアンコの意見だ。
「それで、もしそれが可能だとしたら、ぼくは彼らの前で、何をしたらいいんだい……?」
確かめたナーヴェに、ビアンコは珍しく熱の篭もった口調で語った。
「バーゼの報告で、妃殿下の言動に感化された者が多くいると分かっております。是非、その者達をもう一押しして頂きたいのです。その際、王の宝として、羊の病に効く薬も施して頂ければ、何より効果的でございます」
「羊の病に効く薬……。今日、きみがぼくに会いに来た一番の目的は、それだね……?」
目を細めたナーヴェに、ビアンコは真摯に請うた。
「さようでございます。陛下が『知識の宝庫』と仰せになるそのお力を、わたくしどもにお貸し頂きたいのです。此度の羊の病に効く薬。お作りになれますか……?」
「その病に罹った羊を連れてきて貰えれば、できるよ。反乱を起こした人達のところへもう一度行くのはアッズーロの許可がないと無理だけれど、薬はこの王城で作れる。それだけは必ずすると約束するよ」
ナーヴェが頷くと、ビアンコは安堵した様子で頬を弛めた。
「感謝致します、妃殿下。早速、畜産担当大臣ゾッコロに伝えて、病の羊を手配させたく存じます。御前を失礼しても……?」
「うん。急いで行ってきて」
許可したナーヴェに、ビアンコはふと口元に笑みを湛えて言った。
「わが妻が、常日頃から妃殿下のことを、それこその神の如く御尊敬申し上げつつ、同時に甚く御心配申し上げている理由がよく分かりました。陛下には妃殿下が最早必要不可欠でいらっしゃいますが、妃殿下におかれましても、陛下が必要不可欠でいらっしゃるのですね……」
「――どういうことだい……?」
話の繋がりが理解できず、小首を傾げたナーヴェに、黒髪の青年は立ち上がりながら告げた。
「どうぞ、陛下にお尋ね下さい。では、御前失礼致します」
一礼して去ったビアンコから、ナーヴェは控えたままのフィオーレに視線を移したが、有能な女官はすまなそうに頭を下げた。ビアンコの言う通り、アッズーロに訊けということらしい。ナーヴェは溜め息をついて、膝のテゾーロを見下ろした。
「ラディーチェがぼくを尊敬しつつ心配していることと、アッズーロとぼくが互いに必要不可欠であることと――。一体、どういう脈絡なんだろうね……?」
問い掛けても、幼い息子は笑って青い髪を掴むばかりだ。
「あんまり引っ張ると、母上は痛いんだからね、テゾーロ」
ナーヴェは優しく赤子を窘めた。
昼食を取るため戻ってきたアッズーロに、ナーヴェは早速、ビアンコが残していった謎について尋ねた。
「つまり、どういうことなんだと思う……?」
アッズーロは、卓の向こうで溜め息をつくと、ナーヴェの顔を真っ直ぐに見据え、告げた。
「つまりは、無茶をするそなたを、われが止めねばならんということだ」
「何故、そうなるんだい……?」
まだ理解できず、重ねて尋ねたナーヴェに、アッズーロは眉を上げつつも、丁寧に説明した。
「ビアンコが言うたままに言えば、ラディーチェは、そなたのことを神の如く尊敬しつつも、心配しておるのであろう? そして、われにとってそなたが必要不可欠であるように、そなたにとってもわれが必要不可欠である、と。即ち、ラディーチェの目から見れば、そなたは心配すべき対象で、そのようなそなたを必要不可欠としておるわれが、そなたにとって必要不可欠だということだ。ラディーチェは、そなたを心配しても止めることはできんが、われがそなたを守るため、無茶をするそなたを止めるからな」
「成るほど……」
論理的な言い回しをして貰うと、格段に理解し易い。
「よく分かったよ。ありがとう」
礼を述べたナーヴェに、アッズーロはまたも溜め息をついて言った。
「だが、まだまだわれは、そなたを止め切れておらん。悔やまれる限りだ」
「悔やむことはないよ」
ナーヴェは静かな口調で若い王を慰める。
「ぼくは、きみときみの国の人々を守るためにいるんだから」
「それは痛いほど分かっておる……!」
青年王は苛立った様子だ。ナーヴェを愛してしまっている彼が怒るのは当然だろう。ナーヴェとて、彼を傷つけたくはない。けれど、ナーヴェの存在意義については、何度でも伝えて理解しておいて貰わねばならない。自分が特別に愛してしまったこの相手は、王なのだ。
「そうだね。きみは、ちゃんと分かっている。だから、今日、保健担当大臣のビアンコをぼくのところに来させた。ぼくなら、羊の病に効く薬を作れると分かっていたからだろう?」
「うむ。われにゾッコロの補佐を命じられたあやつが、羊の病に効く薬を欲しておることは、よく分かっていたゆえな。そなたが知識の宝庫たる事実を、できるだけ多くの者に実感させたいのだ」
認めたアッズーロに、ナーヴェは微笑み掛けた。
「きみは聡い。王として、ちゃんと、ぼくの使い方を分かっている。それでいいんだよ。個人的な感情で、判断を違えないで。王として、人々のために、ぼくを充分に使い熟して。それが、ぼくの一番の願いなんだ」
我ながら、狡くなったものだと思う。自分のことを最愛と呼ぶ青年に対して、「ぼくの一番の願い」などという言い回しは、卑怯だろう。それでも、それこそがナーヴェの一番の願いなのだ。
「そなたは――」
眉を吊り上げた青年王は言い止して、怒りを遣り過ごすように三度目の溜め息をつく。
「ただ、全てを、われと相談せよ。われは王なのであろう? ならば、全てにわが裁可を仰ぐがよい」
王としての立場を重んじ、伴侶として最大限の譲歩をした青年に、ナーヴェは深く頷いた。
「うん。何か決める時は、必ずきみと相談するよ。――但し」
王を真っ直ぐに見つめてナーヴェは付け加える。
「きみも、何か重大なことを決める時は、必ずぼくに相談してほしい。ぼくの知識と情報と経験を生かせることがたくさんあると思うから」
「うむ、よかろう」
アッズーロは、にっと笑う。
「何せ、われらは『比翼の鳥』で『連理の枝』なのだからな」
難局に直面しているというのに、何故、アッズーロはこうも自分を幸せな気持ちにさせてくれるのだろう。
「うん」
不思議に思いながら、ナーヴェはもう一度深く頷いた。
「――それはさて置き」
アッズーロが口調を変え、ナーヴェを見据える。
「そなたとビアンコが話した内容は、それで全てではなかろう。どのようなことであれ、全て明かすがよい。われは、無茶をするそなたを止めねばならんからな」
ナーヴェは軽く苦笑した。余ほど上手に嘘をつかない限り、アッズーロはナーヴェのことなどお見通しなのだ。
「うん。最初は、ぼくのほうから、カテーナ・ディ・モンターニェ侯城の城下町再建のために、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領で親しくなった木工職人さん達や竹細工職人さん達の協力を仰ぎたいという話をしたんだ。その次に、ビアンコのほうから、ぼくにもう一度、反乱を起こしている人々の前に立ってほしいと言われた」
「ならん!」
アッズーロは今度こそ眉を吊り上げて、ナーヴェを見た。ここまでは、予測通りの反応だ。ナーヴェは微笑んで続けた。
「でも、それはぼくの希望でもあるんだ。彼らに対する説得工作を完遂するためにも、ぼくは、もう一度彼らと会うべきなんだよ」
「ならん!」
アッズーロは頑なだ。
「われは、もう二度とそなたを戦場には行かせん!」
「彼らがいるところを、『戦場』でなくせばいいんだよ」
ナーヴェは粘り強く説得する。
「セーメやぼくのことを気遣ってくれるのは、とても嬉しい。でも、『戦場』では、ぼくがされたようなことは、残念ながら、しばしば起こることだ。きみが、ぼくのために傷ついたように、多くの人が、自分の家族を傷つけられて、傷つく。それが『戦場』だ。反乱を起こした人達は、そんなところにずっといるんだ。まずは、彼らのいるところを『戦場』でなくす。できる限り日常に戻す。それが最優先課題だと、ぼくは思う」
開けた窓から、爽やかな初夏の風が吹き込み、ナーヴェの青い髪を数本そよがせる。慈愛に満ちた眼差しで、宝はアッズーロを真っ直ぐに見つめてくる。優しく強い眼差しに負けるように、アッズーロは視線を逸らした。
「せっかくの料理が冷める。早く食せ。そなたの提案は、とりあえず検討する」
「うん。ありがとう」
嬉しげに頷いて、ナーヴェは、目の前で湯気を立てる薄焼き麺麭に向かう。蜂蜜と羊酪と林檎の果醤を掛けているので、栄養は充分のはずだ。ナーヴェは、既に切り分けてある薄焼き麺麭の一切れを、左手に持った肉叉で刺して、口へ運んだ。
「美味しい」
笑顔で咀嚼する顔は、相変わらず幼子のようで可愛らしい。つい先ほどまでの、政治を語っていた顔とは、また別の愛らしさだ。
「うむ。よい焼き加減だ。チューゾめ、また腕を上げたな」
アッズーロは妃の顔に満足しつつ、王城料理長を褒めた。長身で黒髪に黒い瞳、白い肌の料理長は、まだ三十代。寡黙でやや無愛想だが、アッズーロの注文に的確に応じる腕前の持ち主だ。
「チューゾにも、いつもお礼を言いたいのに、なかなか会えなくて、申し訳ないよ……」
ナーヴェが残念そうに呟いた。
「あやつには、百の礼の言葉より、料理が綺麗に平らげられた皿一枚が重要なのだ」
アッズーロは咀嚼の合間に教え諭す。
「礼が言いたいなら、心して毎食綺麗に平らげることだ」
「そうだね……」
素直に納得して、ナーヴェは薄焼き麺麭を食べ、羊乳を飲んだ。ここ二日、寝室から出ずに養生しているので、肉体は少しずつ元気になっているようだ。
(だが、心のほうは……)
アッズーロは、ナーヴェの表情や仕草の些細な部分も見逃すまいと、観察を続ける。「抱いて」とせがんだ二日前の夜以降は、常に穏やかで壊れた様子は見せないが、アッズーロは、ナーヴェが直ったとは考えていなかった。
(まだ、油断はできん。こやつは、ぎりぎりまで「大丈夫」と言い張るゆえな)
「――どうしたんだい……?」
ナーヴェが、肉叉を止めてアッズーロの顔を見つめる。懸念が表情に出てしまっていたらしい。
「そなたの提案を検討中なのだ」
アッズーロは告げて、自分の薄焼き麺麭の最後の一切れを平らげた。ナーヴェを再び反乱民達に会わせれば、わざわざ「忘れた」記憶が蘇ってしまうかもしれない。今度こそ、ナーヴェが完全に壊れてしまうかもしれない。
(そのような危険性が僅かでもあるなら、われは、そなたを行かせたくはないのだ。例え、そなたの再訪が、奴らにとって、どれほどの意味を持つとしても――)
アッズーロは眉間に皺が寄るのを自覚しながら、羊乳の木杯を空にした。
二
昼食を終えた頃、寝室にラディーチェが現れた。
「ありがとう、ラディーチェ」
ナーヴェが卓に着いたまま、笑顔で迎える。
「午前中は何とか頑張ったんだけれど、ぼくはもう暫くお乳が出ないから、お世話になるよ」
「精一杯務めさせて頂きます」
ラディーチェは、恐縮した面持ちで頭を下げた。かなりの時間ナーヴェと過ごしてきたはずだが、フィオーレやミエーレと比べて、全く接し方が熟れていない。アッズーロは内心で眉をひそめた。
(ナーヴェは、それこそ、相手によって態度を変えるなぞ、殆どせん。漸く最近、われを特別扱いし始めたばかりだ。況してや、ラディーチェにだけつらく当たるなぞ、する訳がない。となれば、やはり、テゾーロの懐き方の問題か……)
生真面目なラディーチェは、テゾーロが「母上」「父上」と呼び始める前に「ラディ」と呼んだことを、後ろめたく思っているのだろう。
(それもあってビアンコを個人的にナーヴェに会わせたのだが、あやつめ、己の妻には、何の働きかけもしておらんのか……)
全く腹立たしい限りだ。或いは、多忙の余り、ナーヴェとの面会以降、まだ妻とは会っていないのかもしれない。何はともあれ、これではナーヴェも気詰まりだろう。懸念するアッズーロの耳に、テゾーロのぐずる声が聞こえた。
「ああ、テゾーロもお腹が空いたみたいだね」
ナーヴェが微笑んで席を立ち、ラディーチェを導くように揺り篭へ向かう。アッズーロは慌てて自らも立ち上がり、ナーヴェの傍らへ寄り添った。未だ右肩に固定具を付けている妃は、何をするにも不自由そうで危なっかしく、気が気ではない。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ?」
ナーヴェは苦笑しつつ揺り篭の傍らに立つと、左手でわが子の頬に触れた。
「テゾーロ、ラディーチェが来てくれたよ」
テゾーロは無邪気にナーヴェの指を握る。その様子を見つめるナーヴェの横顔が、寂しげだ。
「腹が空いたとは限らんだろう」
アッズーロは思わず口を挟んだ。
「単に構ってほしいだけやもしれん」
「ううん。赤ん坊のこの泣き方は、お腹が空いたという意味で……」
真面目に説明するナーヴェを半ば強引に寝台に乗せて胡座を掻かせ、アッズーロは揺り篭からわが子を抱き上げた。
「とにかく、まずはそなたがあやしてみよ。乳については致し方ないが、それ以外は遠慮せず母としての役目を果たすがよい」
真顔で命じて、アッズーロはナーヴェの膝にテゾーロを座らせた。ぐずっていたテゾーロは、元気に動いて、ナーヴェの長衣を掴む。ナーヴェは、左手でわが子を支えながら、困った顔をした。
「ごめん、テゾーロ。母上はもう今はお乳が出ないんだよ……」
だが、言葉の分からない幼子は、ナーヴェの長衣を引っ張って、身を捩り、ひたすらに求める動きをする。求めているのは、ナーヴェの言う通り、やはり乳なのだろう。
「ラディーチェ、頼むよ」
ナーヴェが、顔を上げてラディーチェを呼んだ。
「はい、ただ今」
素早く寝台に近づいたラディーチェが、ナーヴェの膝からテゾーロを抱き取ろうとする。だが、テゾーロはナーヴェの長衣をしっかりと掴んで離さず――。
「……ああ、ああえ……!」
テゾーロが発した声に、その場の全員が耳を聳てた。一瞬、しんとした寝室に、またテゾーロの声が響く。
「あぁ、ああうえ……!」
アッズーロはナーヴェの顔を凝視し、告げた。
「今、確かに『母上』と言うたぞ」
ナーヴェは、アッズーロをまじまじと見返してから、息子に視線を戻す。テゾーロは、ラディーチェの両手に半ば抱えられながらも、ナーヴェの長衣を離さず、三度目、更にはっきりと言った。
「ああうえ……!」
「ナーヴェ様……」
ラディーチェが、感極まった声を出して、そっとテゾーロの体から手を離した。ナーヴェは、再びわが子の体を左手で支えて抱え――。テゾーロの顔を見下ろすその双眸から、はらはらと涙が落ちた。透明な美しい涙は、幼子の額や頬に落ちて、円らな両目を瞬かせる。アッズーロは無言で妃の傍らに座り、その華奢な体をテゾーロごと抱き寄せて、感動を分かち合った――。
沙漠の彼方に日が沈み、夜の静寂が訪れた寝室で、ロッソの目は報告書の上を滑っていた。ロッソに無断で軍に国境を越えさせたエゼルチトの申し開きの言葉が、脳裏を巡って文字が頭に入ってこない。ロッソは溜め息をついて、報告書を机の上に置き、開けた窓の外の宵闇を見つめた。
――「陛下とて、あの王の宝の危険性は理解なさっておられたはず。それゆえ、一度はオリッゾンテ・ブルと戦争状態に陥ることをお覚悟の上で、処刑なさったのでしょう?」
エゼルチトが言ったことは、全て的を射ていた。
――「わたしは、直接かの宝と会ってのち、その思いを共有致しました。かの宝を擁したオリッゾンテ・ブルは、ゆくゆくはわが国の大きな脅威となります。あの沙漠の彼方の船も、いつ宝と手を組んでもおかしくはない。そうなる前に、かの宝は破壊されるべきなのです。こちらが急な動きを見せれば、必ずあの宝が前線に出てきます。此度は、あの宝の予想外の強さに撤退を余儀なくされましたが、持久戦に持ち込めば、勝機はあります。どうか、陛下、われらが国の安寧のために、かの宝の破壊を、改めてわたしにお命じ下さい!」
普段冷静なエゼルチトの必死の訴えは、ロッソの心に深く刺さった。だが、国境付近で軍事演習をするだけだったはずの軍を、独断で動かし、オリッゾンテ・ブルへ侵攻させた罪は重い。例え、交戦した相手が、実質、あの王の宝だけだったとしても。エゼルチトが、ロッソの気の置けない幼馴染みだったとしてもだ。ロッソは王として、オンダ伯エゼルチトを幽閉塔へ入れるよう、近衛隊長ジェネラーレに命じたのだった――。
ロッソが物思いに沈んでいると、控えめに扉を叩く音がした。
「陛下」
密やかに呼び掛けてきたのは、末妹シンティラーレの声。
「ソニャーレが参っております」
待っていた報せだ。
「入れ」
ロッソは短く促した。
音もなく扉を開け、末妹シンティラーレと間諜ソニャーレは滑るように入ってくる。相変わらず、仲がいいようだ。
「して、オリッゾンテ・ブルの状況はどうであった」
急かしたロッソの前に跪き、ソニャーレは報告を始めた。
「エゼルチト将軍麾下のわが軍撤退後、宝は反乱軍に捕らえられ、数人の男達から辱めを受けたようにございます」
ソニャーレの声が硬い。大恩あるナーヴェの悲劇を伝えるのに、感情を押し殺して何とかという様子だ。シンティラーレは初めて聞く話なのか、大きな目を瞠って、顔を強張らせた。この末妹にとっても、オリッゾンテ・ブルの王の宝は、既に大切な存在なのだろう。
「その後、かの惑星調査船なる乗り物を用いて、アッズーロ陛下御自らと、ジョールノ殿が、宝を救出した由にございます」
ソニャーレは、シンティラーレを安心させるかのように口調を和らげて述べていく。
「宝は不調とのことですが、カルドの鳩によれば、原因は妊娠とのことです」
「まさか――」
シンティラーレが息を呑んで呟く。陵辱の結果だと考えたのだ。しかし、すぐにソニャーレが告げた。
「アッズーロ陛下は、自らの子であると明言しているそうにございます。かの宝であれば、誰の子であるということも、はきと分かるのではないかと推察されます」
(成るほどな……)
ロッソも安堵して薄く笑った。さもありなんだ。
(ならば、あやつもナーヴェも、心折れてはおらんだろう)
第二子のためにも、王国を安定させようと奔走するはずだ。
(まあ、あやつが、ナーヴェには奔走させんようにするであろうが)
胸中でアッズーロを揶揄して、ロッソは笑みを納めた。一呼吸置いたソニャーレは、更に報告を続ける。
「反乱軍は、オリッゾンテ・ブル軍を退けたことで勢いに乗り、勢力を拡大している模様ですが、カルドの情報によれば、アッズーロ陛下も連日大臣会議を開き、対策を講じている様子です。表立っては、わが国へ再び訪問団を派遣するとの由。用件は、わが軍の国境侵犯についてでございましょう。また、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領にて蔓延していた羊の病について、調査を始めたとのことでございます。反乱の原因の一つと目しているのでしょう。恐らく、反乱軍に対しても、既に間諜を放っているものと思われます。ただ、懸念されるのは、レ・ゾーネ・ウーミデ侯の動きです」
ソニャーレは、かつての潜入先の主人について、難しい表情で語る。
「侯がエゼルチト将軍に、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領の通過を許可した証拠は未だ掴めておりません。ですが、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領側の国境警備は極めて手薄であったことが分かっております。両者の間に、暗黙の了解なり、合図なりがあった可能性は高いと推測致します。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領には伝手を残してきておりますので、可能な限り、証拠固めを進めて参ります」
「うむ」
ロッソは頷いて、指示を下した。
「では、引き続きレ・ゾーネ・ウーミデ侯の意図及び動静を探るとともに、反乱軍の動向も可能な限り調べよ。カルドとも連携するがよい」
「仰せのままに」
頭を垂れて肯うと、ソニャーレは入ってきた時同様、滑るように退室した。
「兄上」
替わって、シンティラーレが話し掛けてくる。憂いに満ちた表情だ。
「エゼルチト将軍を、どうなさるおつもりですか……?」
「それはこれから、そなたらと協議して決めることとなろう。奴の尋問も進めつつ、だがな」
眉を寄せ、ロッソは答えた。尋問には、ロッソ自身も参加する予定だ。
「……分かりました」
末妹は、硬い面持ちで了解した。しかし、ロッソを見つめたその青い双眸には、気遣う色が浮かんでいる。どうやら、かなり心配されているようだ。
「――懸念には及ばん」
ロッソは低い声で告げた。
「奴が幼馴染みであろうと、おれは王としての判断を誤ったりなどせん」
「分かっております」
王宮の薬師を務め、毒薬も管理する末妹は、凜とした返事を響かせると、一礼した。
「では、わたくしもこれにて退出させて頂きます。おやすみなさいませ、兄上」
「うむ」
応じたロッソをもう一度だけ見つめてから、シンティラーレは静かに退室していった。
(「懸念には及ばん」か……)
末っ子の前で、精一杯の虚勢を張ってしまったかもしれない。
(おれに、そなたを裁くことなどできるのか……?)
エゼルチトは、少年の頃からの同志だ。エゼルチトとロッソの願望は、ずっと同じだった。自分達は、同じ方向を見て歩んできた。少なくとも、ついこの間までは。
(まさか、そなたと道を違える時が来ようとはな……)
ロッソは深い溜め息をつくと、ゆっくりと扉へ向かった。
(尋問ではなく、まずは、充分に話をしておかねばな……)
廊下へ出たロッソは、控えていた近衛兵達を引き連れて、幽閉塔へ繋がる通路に赴く。尋問するよりもまず、一度腹を割って話しておかねば、後悔ばかりが残ってしまうだろう。
(何故、おれとそなたの考えが違ってしまったか、互いに理解しておく必要があろう、なあ、エゼルチトよ)
黙々と歩いて幽閉塔を登り、ロッソは、エゼルチトが監禁されている部屋の前に立つと、身振りで近衛兵達を下がらせた。
三
「お越し下さると思い、お待ちしておりました」
寝台に座っていたエゼルチトは、扉の格子越しにこちらを見て立ち上がり、微笑んだ。やはり、以心伝心らしい。ロッソも微笑んで応じた。
「今夜は、久し振りに語り明かすぞ。そなたが王の宝を破壊しようとする根拠の一つ一つを、おれが論破していってやろう」
「それは、楽しみです」
エゼルチトは笑みを深くしつつ、その黒い双眸には真剣な光を湛える。
「では、まず、あの宝が、そもそも人ではないという点です」
冷ややかに、エゼルチトは切り出した。
「陛下も御覧になられたので、よくお分かりと存じますが、あの宝は、本来、かのシーワン・チー・チュアンなる巨大な建造物と同じものです。どれほど人を真似ていようと、人ではあり得ません。そのような、人ではなく、況してや神でもないものに、われらの国の在りようについて干渉されるは迷惑且つ危険というものです。あれは、いつ何時われらの想像を超えた振る舞いをするか分かりません。必要なしと判断すれば、庭園の雑草を抜くように、われらを滅ぼすかもしれぬのです」
確かに、そういった危険性を秘めた存在ではあると、ロッソにも思えた。だが、あのナーヴェという単体に限って考察すれば、エゼルチトの指摘する危険性は皆無だと確信している。ロッソは淡く笑って告げた。
「人ではない、ということは、おれも認めよう。だが、それゆえに、あれには私心がない。大した欲望もない。全て、人のために、それも、あらゆる人々のために働こうとしておる。王の命令には逆らえんという制約はあるようだが、あれの王アッズーロは、愚鈍ではない。われらがテッラ・ロッサを滅ぼそうともしておらん。寧ろ、オリッゾンテ・ブルとわれらが共存共栄するために、アッズーロは、あれの力を有効に使い熟すだろう」
「何故、そう言い切れるのです?」
エゼルチトは端正な顔に怜悧な表情を浮かべる。
「人ではないということは、人の感覚とは異なる動きをするかもしれぬということ。いつ、われらに見切りを付け、裏切るか知れぬのですよ? あれを信頼することに、わたしは反対です。そしてアッズーロもまた、信頼するに足りません。独断専行に過ぎる王です。しかも、遣り口は果断。いずれ、臣下達の反発を招くでしょう。その折、アッズーロは必ず宝の力を使う。或いは、宝が自らアッズーロを助けようとする。その方法が、われらに悪影響をもたらす可能性は大いにあります。あの宝の力を使い、準備を調えれば、このテッラ・ロッサを併合することも、不可能ではないはずです」
「ナーヴェは、そのようなこと、せんだろう。そも、この国は、あの宝の助けによって築かれたのだ。表向きは、わが祖父が一人で同志を集め、建国したようにしてあるがな」
ロッソは、微かに苦く呟いた。
「成るほど」
扉に歩み寄ってきたエゼルチトは、興味深げに、且つ暗く笑う。
「正史の陰に宝あり、ですね。やはり、あの宝は危険です。われらが歴史を己の都合で捻じ曲げていく」
「しかし、全ては、われら人を思ってのことだろう。少なくとも、わが祖父は、望み通り一国の王となった」
「それが余計なお世話だというのです」
真顔でエゼルチトは訴える。
「ロッソ一世陛下は、本当ならば、内乱を起こしてでも、オリッゾンテ・ブル国王となるべきお方だった。全ての人々を統べる器を持ったお方だった。新たな国を興し、人々を分ける必要などなかったのです。けれど、王の宝が、ロッソ一世陛下を別な方向へ動かした。内乱を回避したかったという理由が主でしょうが、そうしてロッソ一世陛下の行動は捻じ曲げられ、今に至る不公平が生じた」
「わが祖父が他人の言動に惑わされたと言うか。侮辱致すな」
ロッソは低い声で怒りを表した。
「――申し訳ございません」
エゼルチトは、片膝を床に突いて真摯に詫びた。幼馴染みだからこそ、ロッソが如何に祖父を尊敬しているか知っているのだ。知っていて、敢えて言った。ロッソは溜め息をついて語った。
「わが祖父こそ、内乱は望んでいなかった。だからこそ苦しみ、その上で、宝が示した道を自ら選んだのだ。そうでなければ、王など務まらん」
「さようでございますね」
エゼルチトは目を細め、立ち上がる。
「なれど、王など務まらぬのに王の座にいる者が、しばしば見受けられます。例えば、先代のオリッゾンテ・ブル国王のように。あの王もまた、宝に認められ、王位に就いたのです。そのような宝に、信など置ける訳がない」
ロッソは反論に窮した。先代オリッゾンテ・ブル国王チェーロについては、ロッソもよい心証を懐いたことがない。けれど、唯一言えることがある。
「チェーロは、何の抵抗もせず息子に譲位した。己の不明を自覚していたのだろう。王として、腐り切ってはいなかったということだ。そして、チェーロがいたからこそ、アッズーロという王が誕生した。宝は――ナーヴェは、われら人より長い目で歴史を見つめ、考えておるのだろう」
「成るほど。今のわれらの思いなど、民の思いなど、先のことを考えれば捨て置くこともあるということですね」
「結果的にはな」
ロッソは部分的に同意した。
(だが、あれは、「捨て置く」ことなどできていないだろう)
きっと、常に心を痛めているのだ。己の所業を悔いながら、長い長い時を生き続けているのだろう。まるで、苦行のようだ。
(王よりも過酷な道だ――)
ロッソは僅かにナーヴェに同情しつつ、エゼルチトに問い掛けた。
「そなたの言う通り、あれは元々シーワン・チー・チュアンと同じものだ。だからこそ、シーワン・チー・チュアンへの対抗手段となる。破壊してしまえば、われらはシーワン・チー・チュアンという強大な力への対抗手段を失うぞ?」
「御心配には及びません」
エゼルチトは優雅に否定する。
「シーワン・チー・チュアンの主人は、あの子ども。そして、あの子どもの心は、既に陛下が掴んでおられるではありませんか。あの子どもは、陛下の助言に従いますよ。いずれは、この王宮に迎えても宜しいかと。そうすれば、シーワン・チー・チュアンはわれらが力となります」
「それは楽観的に過ぎよう」
「そうですね。なれど、シーワン・チー・チュアンの望みは、あの子どもに子孫を残させること、及び、われら人の間で生活させることでしょう。ならば、交渉の余地は充分にあります。あの宝のように全体のことを考えていない分、寧ろ扱い易い。宝を破壊すれば、シーワン・チー・チュアンが交渉相手として選ぶのは、アッズーロなどより陛下である可能性も高いでしょう。やはり、宝は破壊されるべきです」
断言されて、ロッソは眉をひそめた。確かに、エゼルチトの述べることには一理ある。ナーヴェの為人を信じなければ、シーワン・チー・チュアンのほうが与し易い相手に見えるだろう。そうしてシーワン・チー・チュアンを利用すれば、エゼルチトの思い描くように、オリッゾンテ・ブルを攻め滅ぼすことも可能かもしれない。その際、ナーヴェは邪魔となるだろう。早めに除いておけば、憂いはなくなる。ナーヴェを失い、精神的にも痛手を負ったアッズーロに、統治能力が残っていない公算も大きい。
くすり、とエゼルチトが吐息を漏らした。
「どうなさいました、陛下? もう反論はなさらないのですか?」
「いや、決定的な反論があるぞ」
ロッソは口だけで笑み、格子越しに幼馴染みの顔を見つめる。
「そなたは、王の宝ナーヴェを、本当には理解しておらん。あれが、如何に人に寄り添おうと努力しておるか、そこを分かっておらん。あれは未だ成長中なのだ。今は、アッズーロがあれを育てている。おれは、あれがどのように育つか、そこに期待しているのだ」
「まさか、そのような希望的観測に頼って国の舵取りをするおつもりですか」
エゼルチトは、まじまじとロッソを見つめ返してきた。
「ああ」
ロッソは深く頷く。
「王の務め、国の舵取りとは、詰まるところ、誰をどのように信じるかなのだ。おれは、ナーヴェを、われらが歴史に干渉する者として、肯定的に信じている」
「――あの宝が、どのように成長するか、未知数だというのに……?」
「アッズーロだけでなく、われらもまた、あの宝の成長に関わっていけばよいのだと、おれは考える。そうして、よりよい方向へ成長させ、未来へ引き継げばよいのだと」
「陛下は、あの宝の最大の欠陥に、やはり気づいておいでなのですね……?」
エゼルチトは、真剣な眼差しで確認してきた。ロッソは、苦い思いで答えた。
「ああ。アッズーロに万一があった場合のことだろう」
アッズーロが大怪我を負ったり、命を落としたりした場合、ナーヴェは正常を保てるだろうか。少なくとも、いつかはアッズーロも死ぬのだ。
「はい。人ではないものが、人のように傷つき悲しんだ時、どのように振る舞うのか。大いに危険です。アッズーロにとって害となった、或いは害となると判断した相手全てを滅ぼしかねません」
エゼルチトの懸念は尤もだ。だが、それについてはロッソも疾うに考えた。そして、シーワン・チー・チュアンへ向かう道中で結論を出した。
「ナーヴェにとって、アッズーロは確かに特別だが、あれは、あくまで全体主義で博愛主義だ。ならば、われらもまたナーヴェの成長に関わることで、あれの正常を保つことも可能なはずだ。更に言えば、あれがわれらにとって危険となった場合、あれ自身が己を永久に停止させるだろう。おれは既に、あの宝をそう信じている。それに、あの宝を――あの惑星調査船を破壊するは、はっきり言って、不可能だぞ……?」
「――陛下には、既に、あの惑星調査船を破壊する気など、おありではないでしょう。議論になりませんね……」
エゼルチトは硬い声で反駁し、視線を床へ落とす。ロッソを王として見限ったのかもしれない。だが、それでも――。ロッソは言葉を続けた。
「おれは、そなたのことも信じている。いずれナーヴェを理解し、わがテッラ・ロッサとオリッゾンテ・ブルの共存共栄する術を見出してくれる者だと、な」
「――陛下は、随分と甘くなられた。それでは、オリッゾンテ・ブルを滅ぼさんとするわたしの意見など無用ですね」
赤裸々に告げて、エゼルチトは踵を返し、ロッソに背を向けて寝台へ戻っていった。明かり取りの窓から差し込む月明かりの中、振り返らないその背を暫し見続けてから、ロッソもまた踵を返して、幽閉塔を後にした。
去っていく幼馴染みの重い足音を聞きながら、エゼルチトは険しく悲しく顔をしかめた。
(陛下――ロッソ、あなたは、意図的に、あの宝の最大の欠陥に目を瞑ると仰せになった)
アッズーロが成長させているという宝。アッズーロと、人並み以上に親密に過ごしていた宝。その姿を目撃したからこそ、エゼルチトは宝の危険性に気づいたのだ。
(あれは、人ではない……。人ではない、人を遥かに超えた存在が、人のように狂った時、一体、どうなるのか……。シーワン・チー・チュアンは、人たらんとしていない分だけ安定している。だがナーヴェは――。われらが如何に成長に関わろうとも、回避はできない。己を停止させるだろうなどと、希望的観測でしかない。あれは、いつか必ず暴走するよ、ロッソ)
だから、その前にナーヴェを破壊する。あの惑星調査船を――そこに収められたという「函」ごと破壊してしまう。そうすれば、大きな憂いが一つ、消え去るのだ。
(そのためには、もう一度、あの惑星調査船を、われらが作戦領域へ引き摺り出さなければ……)
決意を新たにして、エゼルチトは寝台に腰掛けた。
深更の静けさの中、執務室から出てきたアッズーロが、そっと掛布をめくって、傍らに横になった。歯磨きや着替えを終えた後に、更に一仕事してきたのだ。
「お疲れ様」
ナーヴェが囁くと、アッズーロは無言で手を伸ばしてきた。疲れているはずの青年王は、ナーヴェの夜着の胸紐を解いて、するりと手を滑り込ませてくる。胸当てをずらされ、素肌に直接触れられて、ナーヴェは微かに身を捩った。妊娠したナーヴェをアッズーロが抱くことはない。それでも、触れることはやめたくないらしい。
(まあ、このくらいなら、ぼくは気持ちいいだけだから、いいけれど……)
アッズーロに我慢をさせてしまっていることが申し訳ない。
「ねえ、アッズーロ」
ナーヴェは月明かりで青年王の顔を見つめて、密やかに問い掛けた。
「ぼくがテゾーロを妊娠していた時もそうだったけれど、きみは、女の人を抱くお店には行かないのかい……?」
「はあ?」
アッズーロから初めて聞くような声が返ってきた。
「ちょっと、アッズーロ、テゾーロが起きてしまうよ」
ナーヴェは、青年王を注意した。徹底的に安静にしているので、肉体はかなり回復してきて母乳も多少出せるようになっている。そのため、昨夜に続きテゾーロを寝台脇の揺り篭で寝かせているのだ。
「――そなたが突拍子もないことを言うた所為であろう」
アッズーロは小声でナーヴェを詰って溜め息をつき、答えた。
「行く訳なかろうが。そなたは、わが愛を疑うのか?」
「疑ってはいないよ。ただ、ずっと性行為をしないのは、特に若い男性にとっては、つらいことだと認識しているから。それに、愛情がなくても、性行為をすることは可能なはずだよ?」
ナーヴェが、思考回路に蓄積してきた情報を元に応じると、アッズーロは、奇妙な表情になった。
「そなたは、われがそのようなことをしても、平気なのか……?」
問われて、ナーヴェは演算し、解を出した。
「……嬉しくはないけれど、必要性は認識していて、きみの心身の健康のためにはそのほうがいいと分かっているから、肯定的に受け止めるよ」
「ならば、もし、われがそのようなことをして、その相手を特別に愛してしまったとしたら、どうなのだ」
アッズーロから提示された新たな命題を、ナーヴェは演算する。思考回路が全力で稼動し、低く唸った。
「……そうなると、体裁上、王妃を軽々に変える訳にはいかないから、その女の人には、側室になって貰うしかない。でも、きみがその人を特別に愛しているなら、この寝室を使うのは、その人にして貰って、ぼくはどこか、別の部屋を使うよ。きみとその人との間に子どもが生まれた場合、王太子を誰にするかは、きみの意見だけでは決めず、大臣達にも諮って……」
「もうよい、やめよ、ナーヴェ!」
低い声で叱られて、ナーヴェは口を止めた。直後、アッズーロの手がナーヴェの目元を拭う。いつの間にか泣いていたらしい。
「ああ、ごめん、また不具合だね……」
詫びたナーヴェに、アッズーロが覆い被さってきた。体重を掛けない、優しい覆い被さり方だ。
「すまぬ、ナーヴェ。つまらぬことを問うた」
アッズーロは、ナーヴェの涙を丁寧に拭い取り、そっと頭を撫でてくる。
「少し、そなたに嫉妬させたかっただけなのだ。わが最愛は、そなただ。そなたへ捧げる愛は、わが一生涯、決して変わらぬ」
「そんな約束、しなくていいよ」
「いや、誓っておきたいのだ」
アッズーロは頑なに言って、僅かに身を起こし、ナーヴェの左手を取って甲に口付ける。
「そなたはわが最愛。わが宝だ。ゆえに、われは、でき得る限り、そなたの傍にいたい。娼館へ赴くなぞ以ての外。寸暇を惜しんで、われはそなたの傍に在りたいのだ。そして、できれば触れていたい。そなたの肉体に負担は掛けぬようにするゆえ、構わぬか……?」
「前にも言ったはずだよ?」
ナーヴェは青年の顔を見上げて微笑む。
「この体はきみのものだ。だからきみは、寝室で、ぼくの許しなんて求めなくていい」
「――感謝する」
アッズーロは珍しく素直に謝意を表して、ナーヴェの額に口付けると、元通り傍らに横になって、丁寧に掛布を掛け直してくれた。
腕枕をして、柔らかく抱き寄せていると、やがてナーヴェは、すうすうと寝息を立て始めた。
(すまぬ……)
アッズーロは、最愛の寝顔を見つめ、胸中で繰り返し謝罪する。ナーヴェが壊れ掛けていると分かっていたのに、更に壊すようなことを口にしてしまった。
(われは、本当に至らぬ夫だ……)
月明かりを映す美しい青い髪を、アッズーロはそっと撫でる。どれだけ愛しても愛し足りない宝だ。失うことなど考えたくもない。
(もう決して、そなたを追い詰めるようなことは言わぬゆえ、頼むから、壊れてくれるな)
林檎果汁の香りがする細い首筋に顔を寄せて、アッズーロは目を閉じた。
四
翌朝、ナーヴェ達が起きる頃を見計らったように、レーニョが寝室を訪れ、病の羊が届いたと報告した。
「畜産担当大臣ゾッコロの手配により、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領の辺境から、ピアット・ディ・マレーア侯領経由で輸送してきたそうです。病を広げぬよう、馬車に乗せ、厳重に囲って連れてこられています。今は、王城の裏庭に待機させていますが、これからどう致しましょう、との、メディチーナ伯からの問い合わせです」
保健担当大臣メディチーナ伯ビアンコは、やはり遣り手だ。
「すぐ行くよ」
応じて寝台から降りたナーヴェを、アッズーロが目で止めた。
「王妃が朝食と身仕度を済ませたのち向かうゆえ、それまで待てと伝えよ」
「でも、アッズーロ、一刻も早く薬を作らないと……」
反論したナーヴェに、アッズーロは目を眇めて断言した。
「そなたの体調管理のほうが大事だ。朝食を抜くことは許さん」
「……分かったよ。なら、すぐ食べる」
ナーヴェが視線を向けると、控えていたフィオーレが一礼して、すぐに退室した。朝食を取りに行ってくれたのだ。
「フィオーレを待つ間に着替えるよ。ミエーレ、手伝ってくれるかい?」
「はい、勿論でございます」
控えていたもう一人の女官は、蜂蜜色の癖毛を揺らして、すぐに篭から着替えを取り出し、歩み寄ってくる。
「では、わたくしは廊下で控えております。何かありましたらお呼び下さい」
レーニョが慌てて退室した。
着替えの白い長衣は、ポンテが縫ってくれたもので、右腕が動かなくても袖を通し易い前合わせの意匠だ。夜着の長衣と筒袴を手早く脱いだナーヴェは、ミエーレの助けを借りて、着替えの長衣を羽織り、筒袴を穿いた。羽織った長衣の前合わせの紐と、筒袴の紐をミエーレが括ったところへ、フィオーレが戻ってきた。
「ありがとう、フィオーレ。ありがとう、ミエーレ」
ナーヴェは、最後にミエーレに布靴を履かせて貰って、卓へ移動する。フィオーレが盆ごと卓に置いた朝食は、蜂蜜漬け林檎を挟んで焼いた麺麭と、羊の内臓の挽肉と香草を挟んで焼いた麺麭、及び羊乳だった。香ばしい香りがして、とても美味しそうだ。アッズーロが昨夜の内に指示を出すのを聞いてはいたが、想像以上の出来栄えである。
「食欲をそそる、いい匂いだね。アッズーロ、いつもありがとう」
ナーヴェは、卓の向かいに着いた青年王へ真摯に礼を述べた。
「セーメとそなた、二人分しっかりと食すがよい」
アッズーロは鷹揚に頷いて、肉刀と肉叉を取り、最初にナーヴェの皿の麺麭を適当な大きさに切り分けてくれた。
「ありがとう」
重ねて礼を述べ、ナーヴェは麺麭と羊乳を見つめる。
「命達よ、いただきます」
感謝を捧げてから、肉叉を取って、挽肉の麺麭のほうから口に運んだ。麺麭の中から肉汁が溢れ出て、香草の香りも立ち、とても美味しい。肉体が喜ぶ味だ。
「きみは、とても忙しいのに、いつ、こういう料理を考えているんだい?」
食べる合間にナーヴェが尋ねると、アッズーロは微苦笑して答えた。
「何、料理を考えるは、われにとって気晴らしだ。そなたが喜ぶ顔を想像しながら、報告書を読む合間に考えておるのだ」
ナーヴェは、胸が熱くなり、頬が火照るのを感じた。手を止めたので、アッズーロが、気遣わしげにこちらを見て、目が合った。
「顔が、赤いぞ……」
「うん。何だか、凄く、体温が上がってきて……」
「体調不良か……?」
「ううん、違うんだ……。ただ、嬉しくて……」
告げたナーヴェを、まじまじと見つめ、アッズーロはおもむろに席を立つと卓を回ってきた。無言でナーヴェの頭を胸に抱き寄せ、耳元に囁いてくる。
「朝から、そのように誘う顔をするでない。われの自制心を試す気か?」
「そんなつもりないんだけれど、上手く制御できなくて……。また」
「『不具合』と切り捨てるでない。それは、そなたがわれを特別に愛しているという証左だ。嬉しいぞ」
そんなふうに言われては、余計に体温が上がり、心拍すら速くなってしまう。ナーヴェは困って囁き返した。
「アッズーロ、きみが喜んでくれるのは、ぼくも嬉しいけれど、ぼくがぼく自身を制御できなくなっている時は、きみが制御してほしい。今は、一刻も早く朝食を済ませて、羊の薬を作りに行かないと」
「……全く」
アッズーロはナーヴェの頭の上で溜め息をつく。
「そなたはやはり、でき過ぎた妃だ」
ぼやいて、青年王は優しくナーヴェを離し、自席へ戻った。
その後、滞りなく朝食を平らげたナーヴェは、同じく完食したアッズーロとともに歯磨きまで済ませ、連れ立って王城の裏庭へ向かった。廊下で待機していたレーニョも、記録を取るためらしい草木紙の束と筆代わりの木炭を手に、後ろからついて来た。
裏庭は、城門から続く表の庭園よりも、ひっそりとした造りになっている。完全に王族の私的な空間として造園されているのだ。その裏門近くに、場違いな馬車が一台停まっている。その前に立っていたビアンコと、御者らしい男が、アッズーロとナーヴェに気づいて深く頭を下げた。
「ここは少し狭いけれど、病の羊は人目に付かないほうがいいから、こっちに移動してくるよ。ちょっと庭木の枝を折ってしまうかもしれないけれど、許してくれるかい?」
ナーヴェが許可を求めると、アッズーロは先ほどまでとは打って変わった王の顔で頷いた。
「うむ。庭師達は泣くであろうが、国の一大事に比べれば些細なことだ。すぐに来るがよい」
「彼らには後で謝っておくよ」
ナーヴェは心底済まなく思いながら、表の庭園で休眠させていた本体を起動させた。できるだけ静かに浮上させた本体を、できるだけ慎重に裏庭の木々の間へ降下させる。だが、予測通り、計五本の枝が本体に圧迫され、音を立てて折れてしまった。庭師達が丹精込めて調えていた枝達だ。
「ごめん……」
呟いたナーヴェの頭を、アッズーロがそっと撫でた。
晴天の下、木々の間に鎮座した惑星調査船の扉を開けて、ナーヴェは馬車を手招いた。
「病の羊を地面へ下ろさないように、できるだけ近くまで来て」
「御配慮に感謝致します」
ビアンコが応じて、傍らの男を振り向いた。馬の轡を取っていた男は、素早く御者台に上がり、手綱を捌く。馬はゆっくりと足を踏み出し、木々の間を巧みに縫って馬車を牽き、ナーヴェの本体へ近づいた。
「荷台をぼくの後部扉の前にくっ付けて、直接、羊をぼくに乗り込ませて」
指示しつつ、ナーヴェは惑星調査船内部の減圧を始めた。病原が何か不明なので、空気感染や飛沫感染も警戒しておかねばならない。
最後は御者が荷台に上がって羊を追い立て、惑星調査船の後部にある作業室へ入れた。羊は、まだ元気そうで動き回っている。ナーヴェはすぐさま扉を閉め、羊を本体作業室に監禁した。
(ごめん。ちゃんと、治療もするからね……)
胸中で羊に詫びて、ナーヴェはビアンコと御者に笑顔を向けた。
「後は、ぼくが引き受けるよ。結果が出たら知らせるね。馬車は、強いお酒で丸ごと洗って消毒するか燃やして処分するかしてほしい。できるかい?」
「お任せ下さい。既に焼却の準備を調えてあります」
ビアンコが穏やかに応じ、御者の男に視線を送る。御者は一礼すると素早く御者台に戻り、また巧みに馬を操って、木々の狭間に馬車を走らせ、裏門から出ていった。
「では、わたくしも、一度御前失礼致します。保健担当大臣室で業務に当たっておりますので、何かあれば、お呼び頂きますよう」
十二人の大臣には、それぞれ王城の一階に大臣室が与えられている。各大臣は、基本的にそこで執務を行なっているのだ。ナーヴェは微笑んで頷いた。
「うん。今日中には結果を出せるように努力するよ」
「感謝致します」
深々と一礼して踵を返し、ビアンコは己の大臣室のほうへ去っていった。その背から、傍らのアッズーロへ眼差しを移し、ナーヴェは告げた。
「ぼくはこれから肉体を寝室へ戻して、病原の解析に集中するよ」
「よもや、肉体に負担を掛けるのではあるまいな?」
アッズーロは眉間に皺を刻んで見下ろしてきた。
「負担というほどのことではないよ」
ナーヴェは軽く肩を竦めて見せる。
「ただ、病原の解析は繊細な作業で、集中力が要るからね。肉体は眠らせておいたほうが楽なんだ。勿論、セーメの状態にはずっと注意を払いながらするから、そこは心配しないで」
「――無理は許さんぞ?」
「大丈夫だよ」
請け負ったナーヴェをじっと見つめてから、アッズーロは溜め息をついた。
「やはり、そなたの『大丈夫』ほど信じられんものはない」
ぼやいた青年王は、おもむろにナーヴェの肉体を抱き上げ、言葉を続ける。
「王命だ。そなたやセーメに悪影響が出る可能性があるならば、即刻、病原の解析を中断せよ。よいな?」
「分かったよ」
ナーヴェは、抱え上げられた体勢で青年王の顔を見上げ、素直に了承した。
ナーヴェの肉体を寝室の寝台まで運んだアッズーロは、ゆっくりとする暇もなく会議室へ赴き、ヴァッレとの非公式の謁見に臨んだ。テッラ・ロッサとの交渉、とりわけ訪問団を派遣する件について詳細を詰めるためだ。派遣する人員は既に決定しているが、行程や交渉の方針については、まだ細かな調整が必要だった。
「ナーヴェ様の御体調はどう?」
立って待っていたヴァッレは、最初から砕けた口調で訊いてきた。二人きりや、今のように幼馴染みのレーニョだけが傍にいる時は、すぐこれだ。
「小康状態だ。だが、また無理をさせることになるゆえ、予断を許さん状況だ」
アッズーロは苦々しく答えた。
「『無理』って、妊娠させた上に、一体何をさせているの」
ヴァッレは目を吊り上げて問い詰めてきた。全く、この王城の中は、ナーヴェの親族のような者ばかりだ。
「ゾッコロとビアンコに病の羊を連れてこさせて、ナーヴェに病原の解析をさせておるのだ」
アッズーロは正直に告げた。この従姉に隠し事をしても、何もいいことはない。
「それは……、必要なことね」
ヴァッレは不承不承という体でアッズーロの判断を認め、感心したように呟く。
「それにしても、そんなことまでできてしまうなんて、本当にナーヴェ様は『王の宝』ね……。母上が王であった時には、そんなことまでしていなかったと思うけれど……。ナーヴェ様にそこまでさせてしまえる、あなたが偉大ということなのね……」
「命じさえすれば、ナーヴェはしたであろうが……、伯母上も父上も、あやつの力のほどを見誤っておられたのであろうな……」
アッズーロは感慨深く返した。
――「歴代のどの王よりも、王の宝に認められた王だ」
即位の際、臣下達へ向かってそう告げたのは、アッズーロ自身だ。あの時は、単に見栄を張ったに過ぎなかったが、今、それは少しばかり違う形で現実となっている。ナーヴェは、アッズーロを特別に愛するようになってくれた。それは、この上もなく幸せなことなのだが――。
(われは、あやつを「最愛」と呼びながら、無理ばかりさせておる……)
「そんな、素直に落ち込んだ顔しないで」
ヴァッレが窘めてきた。
「二人の子の父になろうという人が、そんなことでどうするの? ナーヴェ様が無理をするのは、結局、あなたのためでしょう? なら、あなたも最善を尽くして応えるしかない。そうでしょう?」
「うむ」
「では、さっさと訪問団の件、話を進めましょう」
ヴァッレは、自分が振った話題だということなど忘れたかのように、尊大に促してきた。
(さすがは、わが従姉よな)
アッズーロは苦笑して、王座ではなく、卓の周りにある椅子の一つへ腰掛けた。
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