第17話 罪ある者達

     一


「ナーヴェ様、さあ、どうぞ、ここへ……!」

 通路の向こうから、僅かに焦ったフィオーレの声が聞こえた。

(やはり、あやつ……!)

 寝室に駆け込んだアッズーロの目に、ポンテに支えられて寝台で前屈みになり、フィオーレが持つ手桶へ吐いているナーヴェの姿が映る。

「たわけ! 右肩の治療が危うくなるようであれば、即刻接続を切るよう言うておいたであろう!」

 怒鳴ったアッズーロに、ナーヴェは俯いたまま反論した。

「これは……、右肩とは、何の関係もない、単なる不具合だよ……」

 アッズーロは険しく眉をひそめた。以前、ナーヴェが言っていたことが思い出される。

「それは……、あれか? われ以外の輩に触れられた時に起こる吐き気か……?」

「――きみに嫌な思いをさせるから、かなり我慢したんだけれどね……」

 ナーヴェは自嘲気味に認める。

「きみに接続するために、ほんの少しこっちの接続を切っただけで、制御不能になったよ……。肉体の扱いは……、本当に難しいね……」

「馬鹿者め……」

 低い声で罵って、アッズーロは宝に歩み寄った。ポンテが支える華奢な体に寄り添って寝台に腰掛け、青い髪が流れるその背を撫でる。ナーヴェは、フィオーレが持つ手桶に、昼食に与えた茸と乾酪の粥を、殆ど全てだろう、吐いてしまった。

(この分では、夕食も無理か……)

 アッズーロは、ポンテに代わって宝の華奢な体を両腕で支える。その間に、フィオーレは手桶を洗いに行き、ポンテが水を満たした木杯と新たな手桶を持ってきた。

「ありがとう」

 律儀に礼を述べて木杯の水で口を濯いだナーヴェは、弱々しく手桶へ水を吐き出し、一息つく。その弱った体を、固定具に保護された右肩に配慮しながら、アッズーロは寝台へ横たわらせてやった。

「ごめん、ありがとう……」

 呟くように詫び、感謝を伝えてきた宝の前髪を掻き上げ、アッズーロは身を屈めて、白い額に軽く口付ける。血の気の失せた白過ぎる顔が、すまなそうな表情を浮かべた。

「アッズーロ……、夕食、食べられそうにないんだ……」

「言われずとも、この状況を見れば分かる」

 アッズーロは溜め息をついて、青い前髪を元に戻す。

「だが、白湯でも何でも、飲むだけは飲め。いろいろと見繕わせる」

「うん。分かった……」

 安堵したらしい宝の顔から、アッズーロは戻ってきたフィオーレに視線を転じた。

「白湯、生姜湯、林檎果汁、それに蜂蜜を持って参れ」

「仰せのままに」

 一礼して、フィオーレは再び退室していく。入れ替わりに、レーニョが入ってきた。

「陛下、バーゼが執務室に参っておりますが、如何致しましょう」

「こちらへ通せ」

 アッズーロは短く指示した。

 レーニョに先導され、寝室に姿を現したバーゼは、入り口を入ったところですぐに跪き、頭を垂れた。

「バーゼ、参りました」

「うむ。わが妃の体調が優れぬゆえ、ここで報告を聞く。おまえが見聞きした反乱民どもの情報を、奴らの関係性を中心に細大漏らさず述べよ」

「畏まりました」

 一礼して顔を上げたバーゼの青い双眸は、寝台に腰掛けたアッズーロを飛び越えて、背後に横たわったナーヴェに注がれているように見える。気になって仕方ないのだろう。

「わが妃のことは気に病むな。今は小康状態だ。意識もある。すり合わせたい情報があれば、遠慮なく申すがよい」

「分かりました」

 バーゼは頷いて、話し始めた。

「彼らの首魁は、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領出身のゼーロ、十八歳です」

「われより一つ年下か」

 評したアッズーロに、バーゼは真顔で続けた。

「はい。それからもう一人。フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領出身のベッリースィモが、ゼーロを補佐し、共同代表のような立ち位置にいます。また、ベッリースィモは、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯ズィンコの妹の子だそうです。ただ、妹は市井の男性と結婚したため、ベッリースィモ自身は侯爵家を継ぐ資格は有していないとのこと。その辺りに、何か思うところがありそうです」

「諸侯になり損ね、僻んでおる輩ということか」

 アッズーロの嘲りを聞き流し、バーゼは更に話を続けた。

「他に、ドゥーエ、タッソ、キアーヴェ、ヌーヴォローゾ、ニード、チーニョといった者達がゼーロを補佐しておりました。ドゥーエは、ゼーロの幼馴染みだそうです。タッソは、ピアット・ディ・マレーア侯領出身で、ゼーロに賛同し合流したという話でした。キアーヴェは、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領出身と聞いていますが、本人は寡黙な上に、ゼーロ達も彼女のことについては詳しくないようなので、テッラ・ロッサの工作員の可能性も考えられます。ヌーヴォローゾは、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領出身で、カテーナ・ディ・モンターニェ侯城襲撃直前に仲間に加わったそうですが、冷静沈着な性格で、頭角を現してきたようです。ニードもカテーナ・ディ・モンターニェ侯領出身で、ヌーヴォローゾと同時期に反乱に加わったようですが、温厚で真面目な性格で、ゼーロの信頼が厚いようです。チーニョもまたカテーナ・ディ・モンターニェ侯領出身で、ゼーロやドゥーエの古くからの知り合いということですが、優柔不断なところがあって、近頃では、仲間内での地位は下がりつつあるようです」

「成るほど。では、奴らの結束を崩すには、どの辺りから攻めるのがよいと考える?」

 アッズーロの問いに、バーゼは間を置かず答えた。

「ドゥーエが、タッソやヌーヴォローゾ、チーニョに対して、不信感を持ち始めています。崩すならば、そこかと」

「ふむ。よい情報だ。褒めて遣わす」

 労って、アッズーロは妃を振り向いた。

「ナーヴェ、他に何か訊いておきたいことはあるか?」

「うん」

 小さく頷いて起き上がろうとするナーヴェを支え起こし、アッズーロはバーゼの顔が見えるようにしてやる。ナーヴェは、微笑んで、バーゼに尋ねた。

「ベッリースィモが、どういう思惑でゼーロ達と行動をともにしているのか、知りたいんだ。何か手掛かりになるような情報を掴んでいないかな? 些細なことでも構わないんだ」

 バーゼは少し考える顔をしてから述べた。

「彼は、その生い立ちからか、陛下や妃殿下、諸侯、将軍達に対して、軽蔑するような発言を繰り返していました。ただ、純粋に権威を憎んでいるというよりは、陛下が仰せられた通り、僻みから来る発言のようで、或いは、反乱に協力することで、テッラ・ロッサから地位を約束されているのかもしれません。であれば、テッラ・ロッサ軍を手引きしたのは彼でしょう」

「さすがの推測だね。ありがとう。ぼくの予測とも一致する。その線で調査を進めるよ」

 嬉しげに謝意を示した宝に、バーゼは心底悲しげな顔で応じた。

「いえ、間諜としてのわたくしの力量は、妃殿下の足下にも及びません。もっと多くの情報を持ち帰るべきところ、力不足で、申し訳もございません……」

「自分を責めないで。きみは充分やっているよ」

 柔らかな口調で、ナーヴェは慰める。

「これからも頼りにしているから、今日のところは、しっかり休んでほしい」

「勿体ないお言葉でございます。仰せのままに致します」

 深く頭を下げたバーゼに、アッズーロは命じた。

「此度の諜報活動で得た情報全てを報告書にまとめ、提出致せ。但し明日だ。今夜は、わが妃が望む通りに休むがよい」

「仰せのままに」

 床に着きそうなほど頭を下げたバーゼは、一度顔を上げてアッズーロとナーヴェを見つめてから立ち上がり、後ろ向きに退室していった。

「さて、次はそなたの食事だ」

 アッズーロは両腕で抱き起こしているナーヴェに言い聞かせ、丁度戻ってきたフィオーレを見る。フィオーレは盆を持っており、そこには四つの瓶と三つの木杯、それに一本の匙が載っていた。

「まずは白湯を」

「はい」

 寝台脇の小宅に盆を置いたフィオーレは、湯気の立っている瓶を取り、中身を一つの木杯に注ぐ。透明なそれは、王城の井戸水を熱した白湯だ。温まった木杯を受け取ったアッズーロは、片腕で支えたナーヴェの口元へ、その木杯を宛てがった。少しずつ注意深く白湯を飲むナーヴェの姿は、それだけで愛らしい。愛おしい。

(全く、妃がそなたでなければ、われがこのように自ら甲斐甲斐しく世話をすることもなかったろう。そなたは偉大よな)

 複雑な思いを懐きながら、アッズーロは時間を掛け、ゆっくりと、ナーヴェに白湯を飲ませた。

「次は何がよい? 林檎果汁なら飲めそうか?」

 空になった木杯をフィオーレに返しながらアッズーロが訊くと、ナーヴェはふわりと微笑んだ。

「きみは、本当によく、ぼくのことを分かっているよね……」

「日々の学習の成果だ」

 胸を張って見せてから、アッズーロは零した。

「だが、まだまだそなたの言動には意表を突かれることが多い。学習が足らんということであろうな」

「そうなのかい……?」

 ナーヴェは軽く目を見開いてアッズーロを見る。

「きみのほうこそ、いつもいつもぼくの予測を超えた言動をするものだから、意表を突かれているのは、ぼくのほうだとばかり思っていたよ。お互いさまだったんだね……」

 感慨深げな言葉に、アッズーロは微笑んだ。

「刺激的な関係、大いに結構。これからも、そなたはそのままでいるがよい。われの意表を突くところもまた、そなたの魅力の一つゆえな。そなたは、決してわれを飽きさせん」

「それは、褒めているのかい……?」

 訝しむ表情を浮かべた妃に、アッズーロはフィオーレから林檎果汁を満たした木杯を受け取りつつ、破顔した。

「当たり前であろう。そなたは、わが宝だからな」

 ナーヴェは、アッズーロを見たまま、僅かに頬を赤らめて応じた。

「……ぼくも、きみを特別に愛しているよ」

 純真な返事に、またも意表を突かれたアッズーロは、可愛らし過ぎる妃の顔を暫し見つめた。自制心が幾らあっても足りない気分だ。

(全く……。これで、誘っておる自覚が全くないのだからな……)

 沈黙したアッズーロの顔を、妃は不思議そうに窺っている。アッズーロは溜め息をついて込み上げてくる感情を遣り過ごし、林檎果汁の香が立つ木杯を、妃の口元へ持っていった。



 ゼーロ達は今頃、小神殿の小部屋に集まって、今後の方針について話し合っている最中だろう。

(だが、おれは声を掛けられもしない……)

 自嘲して、チーニョは扉の壊れた農具倉庫の中を歩く。

(おれは、もう、ただの役立たずだ……)

 優柔不断で、行動力がなくて、先を読む力もなければ、人を導く力もない。自分は、たまたまゼーロと早くに知り合ったから、今日まで何となく仲間達の中心近くにいただけなのだ――。

(ゼーロも、もう、ニードやヌーヴォローゾのほうを頼りにしてる……)

 溜め息をついて、チーニョは床に敷かれた藁の上に腰を下ろした。破壊された扉と、明かり取りの窓から、淡い月明かりが差し込んでいる。すぐ先に、血に汚れた藁が見える。あの青い髪の少女が横たわっていたところ。自分達が、あの「王の宝」を代わる代わる辱めた場所だ。

 女を抱いたのは、初めてだった。タッソに、「おまえもこいつに罰を与えてやれ」と言われて、気は進まなかったが、見様見真似で抱いた。横からタッソにからかわれながら、自分も一人前に罰を与えるという役目を果たそうと必死だった。だが――。

(あの人、熱くて、柔らかくて……)

 チーニョは、抱え込んだ両膝に顔を埋める。思い出すと、駄目だ。捕らわれてしまう。だが、忘れられない。

(罰を与えてるおれ達に、懸命に話し掛けてきて……)

 辱められながら、決して穢された様子は見せず、あくまでも真摯に語り掛けてきた姿は、タッソやヌーヴォローゾがどう言おうと、儚く美しく神々しかった。

(おれ達は、本物の「王の宝」を辱めてしまったんじゃないのか……?)

 畏怖が、後悔が、胸の奥から止め処もなく立ち昇ってくる。テッラ・ロッサの新兵器で乗り込んできたアッズーロが、電光石火で彼女を救い出し、立ち去った後、チーニョは藁に絡んで残された一筋の青い髪を見つけた。きっと、王の宝に成り済ますため、色の薄い髪に青い色を付けているだけだと思っていた。だが、試しに切ってみた髪の断面は、外側と同じ、深い青色をしていたのだ。

(もし、あの人が本物の「王の宝」だったら、おれは、おれ達は、何てことを……)

 両手で頭を抱え、掻き毟って、チーニョは、夜の静けさの中、悶々と一人悩み続けた。


     二


 アッズーロがナーヴェの異常に気づいたのは、その深夜だった。

 報告書を全て読み終え、寝室へ戻ったアッズーロが、油皿を掲げて様子を窺うより早く、寝台の上でナーヴェが身動きした。固定された右肩を庇いながら、起き上がろうとする。フィオーレと交代して控えていたミエーレが、慌ててその上体を支えた。

「何をしておる。寝ていよ」

 アッズーロが足早に歩み寄り、叱責すると、ナーヴェはまず、ミエーレへ声を掛けた。

「ありがとう。アッズーロが来てくれたから、もう大丈夫。きみも寝てきて」

「はい。ありがとうございます」

 ミエーレは答えて、アッズーロを振り向く。アッズーロは頷いて、小卓に油皿を置き、ミエーレと入れ替わりにナーヴェを支えて寝台に腰掛けた。

「では、おやすみなさいませ」

 ミエーレは、穏やかに一礼して退室していく。その姿が通路へ消えるのを見送ってから、アッズーロは両腕で支えたナーヴェを見下ろした。

「それで、一体どうしたのだ?」

 ナーヴェが無理をしてまで起き上がったのには、何か訳があるはずだ。しかも、アッズーロが何か言うより早く、ミエーレを追い払った。人払いの必要のあることなのだ。

 ナーヴェは、揺れる油皿の灯りの中、アッズーロを見上げ、か細い声で請うてきた。

「抱いて、アッズーロ」

 似付かわしくない言葉に、アッズーロは瞠目して、宝の顔を凝視した。一瞬シーワン・チー・チュアンかとも思ったが、困惑した悲しげな表情は、紛れもなく最愛のものだ。

「そなたらしくないな。絶対安静なのは分かっておろう? 如何した」

 追い詰められたような目をした宝は、震える声で告げた。

「記録を、再生してしまうんだ……。今は必要ないのに、接続したまま肉体を眠らせようとすると、あの記録を再生してしまって……。肉体のあちこちの感覚と連動している記録は、とても扱いが厄介なんだ……。……きみが疲れているのは分かっている。でも、一回でいいから、今夜抱いてほしい。きみの記録で、上書きしたいんだ」

 ややこしい言い回しではあったが、ナーヴェの言わんとすることは理解できた。だが、その求めに応じることはできない。アッズーロは宝の頭を撫でて言い聞かせた。

「われとて、できるものならそうしたいが、その右肩の快復が最優先だ。抱けば、どうしても、絶対安静という訳にはいかんだろう」

「傷が開いても、骨がずれても、極小機械を使って快復させるから」

 ナーヴェは、必死な面持ちで食い下がってくる。その取り乱しようは、アッズーロに、小惑星が降ってくると知った日のナーヴェを思い出させた。

「お願いだから、抱いて、アッズーロ。そうでないと、ぼくは、もう、この肉体に接続し続けられない……! 治療もできなくなるから……!」

 美しい両眼から、涙が溢れて零れていく。アッズーロは、その涙を指で拭ってやりながら、眉間に皺を寄せた。

「何か他に手は……」

「アッズーロ、お願いだから」

 ナーヴェは、動かせる左手で縋りついてくる。

「上書き、上書きしないと、あの記録を、記録を再生、再生して……して……して……」

「ナーヴェ? おい、ナーヴェ!」

 アッズーロは思わず最愛の頬を軽く叩いた。涙を浮かべた目の焦点が合っていない。話し方が、明らかにおかしい。

(壊れかけている……?)

 ぞくりと背筋が寒くなるのを感じて、アッズーロは華奢な体を抱き締め、その耳へ囁いた。

「分かった。抱いてやる。だから落ち着け、ナーヴェ・デッラ・スペランツァ」

「……ごめん、ありがとう……」

 最愛は、アッズーロの胸に泣き顔を埋め、傷ついた体を震わせて嗚咽する。アッズーロは、その背を青い髪ごと繰り返し撫でてから、線の細い顎に手を当てて上向かせた。油皿の灯りに照らされて、陰影の揺れる顔は、依然涙に濡れている。その涙を舐め取り、アッズーロは、小さく開かれた口へ口付けた――。



「アッズーロ、タッソより、ぼくを抉って。チーニョより、掻き回して。ヌーヴォローゾより奥まで、ぼくをぎちぎちに満たして」

 油皿の灯りの中、寝台に仰向けに寝かせたナーヴェは、切ない泣き顔で哀願してくる。伸ばされた左手を掴み、頬を寄せながら、アッズーロは説得した。

「許せ、それはできん。われは、そなたの体を痛めつけるような真似はしたくないのだ」

 だが、ナーヴェは聞く耳を持たなかった。

「右肩なら治すから、アッズーロ。それに、きみがぼくに壊れていいと言ったんだよ……? もっともっと激しくして、ぼくを壊して、アッズーロ」

 訴え続ける最愛に、アッズーロは顔を歪めた。

(そなた、もう充分に壊れておるではないか……)

 壊れることを恐れなくなっていること自体が、完全に壊れてしまっていることを示している。こんなふうに壊れることを許した訳ではなかった。ただ、人らしくなっていくことを歓迎しただけだった。けれど、肉体を持ち、人らしくなった最愛は、男達の陵辱によって、心身ともに酷く傷つけられてしまった。

「アッズーロ……、アッズーロ……」

 ナーヴェは、固定されている右肩まで無理に動かして、アッズーロを抱き寄せようとする。白い長衣の右肩のところには、既に血が滲んでいる。抱かない限り、収まらないのだろう。アッズーロは覚悟を決めて、愛おしい伴侶の長衣の裾をめくり上げた。



 最後は、求められるままに激しく抱いたので、傷口が完全に開いてしまったようだった。真っ赤に染まった長衣の右肩と、その下の、血に汚れた敷布に目を眇め、アッズーロは後悔に苛まれながら、愛する宝の服の乱れを直していった。ぐったりとした最愛は、しかし穏やかさを取り戻した表情で、されるがままにぼんやりとアッズーロを眺めている。その幼げな顔を見ていると、居た堪れなくなってきてアッズーロは手を止め、そっと覆い被さって、傷ついた――傷つけてしまった体を抱き締めた。

「すまぬ。すまぬ、ナーヴェ。全て、われの罪科だ」

 アッズーロが肉体を持たせた所為だった。アッズーロが王妃にしてしまった所為だった。アッズーロの治世が拙かった所為だった。アッズーロの人徳が足りない所為だった。アッズーロが戦場に送り出した所為だった。ナーヴェが傷ついたのは、全て、アッズーロの所為なのだ――。

「……ぼくは……だいじょうぶ……だから……」

 ナーヴェは、動く左手を持ち上げて、優しくアッズーロの頭を撫でる。

「なかないで、あやまらないで、アッズーロ……。ぼくは、きみを、とくべつに、あいしているから」

 柔らかな、たどたどしい言葉に、髪の上を滑る慈愛に満ちた手に、涙が止まらなくなる。アッズーロは、最愛の温かな体を己の下に閉じ込めるように抱き締めたまま、その左肩に顔を埋めて、嗚咽を堪えた。

 やがて、アッズーロの頭を撫でていたナーヴェの左手がするりと滑り落ち、敷布の上へぱたりと投げ出された。最愛はアッズーロの腕の中、あどけない表情で眠っている。漸く、肉体を眠らせることが――眠ることができたのだ。

(すまぬ。二度と、戦場へは行かせぬゆえ)

 アッズーロはナーヴェの頭を静かに撫で返してから、ゆっくりと体を起こした。ナーヴェの服の乱れを全て丁寧に直し切り、横へ除けていた掛布を手に取る。寝息を立てる細い体を肩まですっぽりと覆うように掛布を掛けて、アッズーロは密やかに溜め息をついた。右肩は包帯の取り換えなどが必要だろうが、せっかく寝たものを起こしたくはない。

 小卓に置いた油皿の灯りを吹き消し、アッズーロは寝台の端に座ったまま、改めて最愛の寝顔を見下ろした。開けた窓から差し込む初夏の月明かりが、愛らしい顔を美しく浮かび上がらせている。

 ナーヴェは、「きみを、とくべつに、あいしているから」と言ってくれた。だから「なかないで、あやまらないで」と。だが、アッズーロは、「きみを、特別に愛しているよ」と言われて以降、ナーヴェの愛を疑ったことなど一度もない。寧ろナーヴェは、このままでは、アッズーロのために、心身をすり減らし、自らを使い潰してしまうだろうと確信している――。

 掛けた掛布から、投げ出された左手が覗いている。その手首には、まだくっきりと磔刑の傷跡が残っている。一年と三ヶ月前に作られた時、傷どころか染み一つなかったナーヴェの肉体。けれど今や、多くの傷が付いてしまっている。磔刑の際に付けられた、両手首と両足甲の傷。ナーヴェ自らが傷つけた左腕に残る微かな跡。そして今日も鉄砲隊を相手に孤軍奮闘した所為だろう、愛撫した全身に、打ち身や擦り傷があった。反乱民の男達によって、幼げな胸もアッズーロしか入ったことのなかった中も傷つけられてしまった。右肩の銃創も長く残ってしまうだろう。

(すまぬ。全て、われが不甲斐ない所為だ)

 アッズーロは項垂れて、考え込む。自分が王として、もっと有能にならねば、いずれナーヴェは己を使い潰してしまう。壊れてしまっている今の状態から、どの程度回復するのかも分からない。

(そなたに頼らず、反乱を鎮めねば――)

 アッズーロは黙々と思案し、幾つかの作戦を練ると、音を立てず掛布の中へ入ってナーヴェに添い寝し、悲しい血の臭いの中、目を閉じた。



 窓から朝日が差し込んできても、ナーヴェは目覚めなかった。昏々と、静かに眠り続けている。アッズーロに接続してくることもないので、肉体に接続し続けて治療に専念しているのだろう。

 朝の仕度のため、寝室に女官達が現れると、アッズーロはまずミエーレに、従妹のルーチェを呼ばせた。アッズーロの間諜も務める女官のルーチェは、すぐに寝室に現れた。

「おはようございます、陛下」

 入り口に跪いた亜麻色の髪の少女に、アッズーロは命じた。

「バーゼに代わって、反乱民の中へ間諜として潜り込め。最優先に探るべきは、反乱民を統べる者どもの仲間割れを誘う、楔を打ち込むべき隙だ。見つけたならば、鳩で知らせるがよい。既に、ドゥーエという者は、タッソやヌーヴォローゾ、チーニョといった者どもに不信感を懐いておるらしい。可能であれば、積極的に働き掛け、奴らの結束を崩すこともせよ。できるな?」

「御意のままに」

 ルーチェは頷いて、風のように退室していった。

 次に、アッズーロはフィオーレに命じて、侍医のメーディコを呼ばせた。

 慌てた様子で寝室に現れたメーディコは、右肩が血に染まったナーヴェの長衣を見るなり、アッズーロを振り向いた。

「陛下、何ということを……。わたくしは、絶対安静にと申し上げたはずです。これでは、治るものも治りませぬ」

「全てわれの責だ」

 アッズーロは、反論しなかった。メーディコの言うことは、いつも、一々尤もなのだ――。

「――反省は、なさっているのですね……」

 壮年の侍医は溜め息をつくと、持ってきた鞄を開き、黙々とナーヴェの右肩の治療に取り掛かった。



――「……もう……無理……。駄目……、入ら……な……い……」

 王の宝の苦しげな呻き声が、耳にこびり付いて離れない。大柄なヌーヴォローゾの体の下で、さめざめと泣いていたナーヴェの姿が、瞼の裏に張り付いて消えない。一晩眠れなかった。溜め息をついてバーゼが上体を起こしたところへ、外から扉が叩かれた。

「バーゼさん、お休みのところすみません」

 ルーチェの声だ。

「はい。すぐ開けます」

 バーゼは応じて、寝台から降りた。ここは、王城の屋根裏。並んでいる女官達の部屋の一つだ。バーゼは、暫くの間、大臣会議に出席するよう命じられて、この部屋を宛てがわれたのだった。

 内側から扉を開けると、廊下に立っていたルーチェは、申し訳なさそうに告げた。

「これから、わたしがバーゼさんに代わって反乱民達の中へ潜入することになりました。それで、バーゼさんが掴んだ情報を、細大漏らさず教えて頂きたいんです」

「分かりました。中へ入って」

 バーゼはルーチェを簡素な部屋へ招き入れた。寝台に隣り合って座り、バーゼは反乱民達の名前及び出身地と人間関係、及び小神殿など、彼らが拠点にしている建物等についての情報を詳細に伝えた。

「ありがとうございました」

 ぺこりと頭を下げたルーチェに、バーゼはもう一つ付け加えて教えた。

「鳩は、小神殿の敷地内に鳩小屋があるので、わたしはそこへ紛れ込ませていました。小神殿の神官は、反乱が起きた時に逃げてしまっているので、近所の住民達が細々と鳩の世話はしていますが、どんな鳩がいるかはあまり分かっていなくて、丁度いいのです。鳩は三十羽ほどいるから、一、二羽増えても、気づかれません」

「分かりました。貴重な情報ばかりで、助かります」

 もう一度頭を下げて立ち上がったルーチェに、バーゼは小さく首を横に振った。

「いいえ。わたしの働きなんて、ナーヴェ様に比べれば、微々たるものです。ナーヴェ様は、自らのお体を犠牲にして彼らの間に亀裂を作った上で、情報収集と説得工作まで行なっていらっしゃいました。ルーチェさん、どうか、ナーヴェ様がなさったことを引き継いで下さい。わたしも、いずれ別のところへの潜入を果たして、反乱の早期終結のため、力を尽くしますから」

「はい。お互いに頑張りましょう」

 にこりと明るく笑って、ルーチェは部屋を出ていった。閉められた扉を見つめてから、バーゼは俯く。自らの両膝を両手で握り締め、口の中で呟いた。

「どうか、お願い……。わたしは、もうそこへは行けないから、どうか、ナーヴェ様のお苦しみを、無駄にしないで……」

 夜着の長衣の膝に、ぽたぽたと涙が落ちる。無力さの涙は、行動に繋げねば意味がない。バーゼは涙を拭って、立ち上がった。


     三


 右肩の銃創を綺麗に縫合し直され、包帯を巻き直されて、改めて固定具を着けられたナーヴェは、それでも目覚めず、静かに眠り続けている。

「とにかく、絶対安静です」

 強い口調で言い残して、メーディコは退室していった。

 アッズーロは深い溜め息をついて、ナーヴェの寝台に歩み寄ると、治療のため、右肩の部分を斬り裂かれた長衣を脱がせ始めた。フィオーレがおろおろと胸の前で両手を組み合わせているが、手伝いは命じず、長衣をナーヴェの頭のほうから抜いて脱がせ、胸当ても外し、筒袴も下袴も脱がせてしまう。全裸にした最愛の傷ついた体を見下ろし、アッズーロはフィオーレに指示した。

「濡らして絞った手巾をこれへ」

「はい、ただ今」

 一礼して、フィオーレはすぐに衣装箱の一つから手巾を取り出し、手桶に入れて持ってきてあった水に浸して絞る。捧げ渡された手巾を受け取り、アッズーロは、窓から燦々と降り注ぐ朝日の中、ナーヴェの白い体を隅々まで拭いて清めた。それでも、ナーヴェは目覚めない。穏やかに呼吸したまま、どこに触れられようと、されるがままだ。

(もし、壊れたそなたが、既にこの肉体に接続していなかったとしたら……)

 小惑星の迎撃に旅立った時と同様に、肉体は目覚めぬまま、衰弱していくことになる。

(それは、わが罪科に対する、神ウッチェーロの罰かもしれんな……)

 王としての役目を満足に果たさなかったアッズーロから、神は、最愛を奪おうとしているのかもしれない。アッズーロは、それだけのことをしたのだ。

(われは、王の宝を所持するに相応しくなかった……)

 項垂れたアッズーロに、フィオーレがナーヴェの新たな下袴を差し出してきた。その表情が、不安げだ。フィオーレもまた、目覚めないナーヴェを心底心配しているのだろう。

(そうだ、ナーヴェ)

 アッズーロは、顔を上げて手巾と交換に下袴を受け取り、ナーヴェの寝顔を見る。

(そなたは、既にわれ一人の宝ではない。そなたは、この一年と三ヶ月で、実に多くの者と心を通わせた。そなたは、皆の宝だ。そなたの愛する、そなたの「子どもみたいな」者達の宝だ。そなたを慕う者達に、もう一度笑顔を見せよ。もう一度、言葉を交わせ。われのためではない。彼らのために、頼む、目覚めよ、ナーヴェ)

 祈るように胸中で語り掛けながら、アッズーロは最愛の華奢な体へ、下袴を穿かせ、フィオーレが差し出す順に、胸当てと筒袴と長衣も纏わせた。



 自身の着替えも済ませ、一人の朝食を終えたアッズーロは、すぐに大臣会議へ赴いた。

 開口一番、ナーヴェの体調が優れないことを伝え、「王の宝が民の前で本領を発揮する」作戦については、保留するよう命じた。残りの「テッラ・ロッサとの交渉」作戦と「羊の病への対処」作戦については、各担当大臣に検討した内容を報告させた。その上で、未明に練った幾つかの作戦を大臣達に伝え、バーゼにも議論に参加させて詳細を詰めさせた。そこまでで正午となった。

「一度昼食休憩とする。午後からは、更に各作戦の詳細と連携と詰めていくゆえ、各自そのつもりで足りぬ資料等集めておくがよい」

 命じて、アッズーロは王座を立ち、頭を下げた大臣達とバーゼの前を通って、会議室を出た。足早に回廊を歩き、寝室に戻ると、ナーヴェはまだ静かに眠っていた。控えているフィオーレも、悲しげな顔で首を横に振る。ずっと眠ったままなのだ。

(やはり、そなたはもう目覚めんのか……?)

 一度、庭園に鎮座している本体のほうへ話し掛けてみるべきなのかもしれない。或いは、執務机の引き出しに大切に仕舞っている通信端末を使うべきなのか。アッズーロは沈痛な思いを懐きながら、安らかな寝顔を見下ろし、その白い頬にそっと触れた。途端に、青い睫毛が揺れ、ゆっくりと両眼が開く。深い青色の双眸が、眩しげにアッズーロを見上げた。

「そなた、大丈夫なのか……?」

 思わず寝台に片膝を乗せ、片手を突いて、アッズーロは最愛の顔を間近から見る。ナーヴェはすまなそうに微笑んだ。

「心配掛けたね。昨夜は、無理を言ってごめん。それに、極小機械の操作にほぼ専念しながら、記録の上書き保存もするために、きみへの応答機能は途中から三歳児並に落としていたから、不安にさせただろう? でもお陰で、しっかり眠れたよ。ただ、彼らと何があったかの記録は、予備情報として肉体の感覚記憶からは切り離したところに保存したものだけ残して、後はきみとの記録で上書きしてしまったから、すぐには再生できなくなって――、つまり、詳細は報告できなくなって、申し訳ないんだけれど」

「それは、即ち、『忘れた』ということか……?」

 確かめたアッズーロに、ナーヴェは嬉しげに頷いた。

「うん。まさにそういうことだよ。きみは本当に理解が早くて助かるよ」

 何でもないことのように言われた内容だが、アッズーロは深刻に受け止めざるを得なかった。三千年に渡る詳細な記憶を持つナーヴェが、「忘れ」なければいけない記憶だったのだ――。

「それで……」

 ナーヴェは言葉を継ぐ。

「応答機能を三歳児並に落としてまで、極小機械の操作に集中しなければいけなかった理由なんだけれど……」

 アッズーロは目を瞬いた。

「右肩の治療のためではないのか?」

「うん。途中から、もう一つ、しなければならないことが増えて……」

 ナーヴェの返答は珍しく歯切れが悪い。アッズーロは眉をひそめた。

「他にも、酷く痛めているところがあったのか」

 内臓などに損傷が見つかったのだろうか――。

 悪い報せを受け止める覚悟を決めて、答えを待ったアッズーロに、ナーヴェは白い頬を僅かに赤らめ、けれど青い双眸には不安げな色を湛えて、告げた。

「妊娠、したんだ。今度は、女の子だよ」

 アッズーロは口を開け、何も言えず息を吸ってから、乾いた声で問うた。

「――しかし、そなた、月のものがまだだったではないか……」

 テゾーロを出産してから、ナーヴェには一度も月経がなかった。だから、そんなことになろうとは、全く予想していなかったのだ。

「うん。でも、十日後には来る予定だったんだ……」

 ナーヴェは、複雑そうに説明する。

「そうして、準備ができていたところに、きみの分身が来たから……。ぼくが強引に頼んでしまった所為なんだけれど……。喜んで、くれるかい……?」

 心配そうに訊いてきた最愛の眼差しに、アッズーロは自分を殴りつけたい衝動に駆られた。

「当たり前であろう……!」

 傷ついた華奢な体に、そっと覆い被さって抱擁しながら、アッズーロは激しい後悔を繰り返す。何故、自分は、妊娠した最愛に、こんな表情をさせているのだろう。

(われは、そなたの妊娠を喜ぶこともできぬ、余裕のない男に見えたか)

 情けない、不甲斐ない夫だ。

「ナーヴェ、体を厭え。必ず、無事に子を産んでくれ」

 アッズーロが囁き掛けると、漸く、ナーヴェから嬉しげな声が返ってきた。

「うん。そうさせて貰うよ」

 自由に動く左手が、アッズーロの背に回り、優しく抱擁し返してくれる。

「名前は、どうしようか……?」

 高揚を乗せた問いに、アッズーロは微笑んで僅かに身を起こし、最愛の顔を見下ろした。

「テゾーロの時は、われが考えたゆえ、此度は、そなたが考えるがよい。何か案はあるのか?」

「うん」

 最愛は、幸せそうにアッズーロを見つめ返す。

「セーメ、というのはどうかな?」

 植物の種という意味だ。

「よい名ではないか。響きもよい。この子は、セーメだ」

 アッズーロは体をずらし、まだ何の膨らみもない最愛の腹を、愛おしく撫でた。

「……おめでとうございます、陛下、妃殿下……」

 感極まった涙声に振り向けば、フィオーレが嬉し泣きをしている。まるでナーヴェの身内のようだ。アッズーロは微苦笑し、命じた。

「フィオーレ、厨房に、干し杏と林檎果汁を用意するよう伝えよ。これからの王妃の食事は、全て悪阻に備えたものに致す」

「畏まりました」

 一礼して、フィオーレはすぐに退室していった。



 アッズーロが特に口止めをしなかったので、王妃懐妊の報は、瞬く間に王城中に広がった。主に厨房から広まったその報にバーゼが接したのは、午後の大臣会議へ出席する直前だった。厨房へ、昼食の食器を返しに行った時に、同じく厨房へ食器を持ってきていた女官達の話が聞こえてきたのだ。

「ナーヴェ様がまた御懐妊なさったそうよ……!」

「テゾーロ様が産まれて三ヶ月も経っていないのに……?」

「あの陛下の溺愛振りを見れば、少しも意外ではないわよ」

「ナーヴェ様が最近、御体調の優れないことが多いのは、その所為だったのね」

「それは分からないけれど、でも、これからは本当に御体調に気を付けていかないと……!」

「そうね。厨房にはもう悪阻に備えた食事を用意するよう、陛下から御下命があったそうよ」

「さすが陛下。何でも手早くていらっしゃる」

「お子を作るのも、ね」

「まあ、あなた失敬よ……!」

 女官達のさざめく声を背に、食器を返したバーゼは、ふらつきそうになる体を壁に手を突いて支えながら懸命に廊下を歩いた。

(まさか、御懐妊というのは、昨日、あの男達に凌辱された時の――)

 血の気が引いていく。王の宝ナーヴェは、体内に極小機械というものを持っていて、自身の肉体の状態を立ち所に把握することができると聞いている。懐妊などもそれで即座に分かるのだという。

(でも、ナーヴェ様は、「彼らの分身は、全部、極小機械で殺した。妃として、きみ以外の子を妊娠する訳にはいかないから」と仰っていた。なら、やはりお子は、アッズーロ陛下の……?)

 しかし、あの状態のナーヴェを、アッズーロが抱くことはないはずだ。普段からの溺愛振りを見ていれば、それは確信を持って言える。

(もし、御懐妊が、あの男達の誰かの所為だったとしたら……、わたしは、償いようのないことを……)

「バーゼ殿、どうしました?」

 不意に声を掛けられて、バーゼは顔を上げた。会議室へ続く回廊の途中、黒い肌の青年が、心配そうにバーゼを見下ろしている。軍務担当大臣カヴァッロ伯ムーロだ。

「顔色が悪いですよ? 激務の後、休暇もなく連日大臣会議に出席では、体を休める間もないでしょうが……」

 優しいムーロの言葉に、バーゼは無理に微笑んだ。

「大丈夫です。少し眩暈がしただけで……。会議の間は、どうせ座っていますから、すぐ治るでしょう」

「そうですか。しかし、無理は禁物です。あなたは、とても有能な方ですが、どうも勤勉過ぎるきらいがある。気を付けて下さい」

「――ありがとうございます……」

 礼を述べて頭を下げたバーゼに、会釈を返して、ムーロは会議室の入り口へ戻っていった。わざわざ近づいてきて労わってくれたのだ。

「バーゼ」

 今度は背後から声を掛けられて、バーゼはびくりと背筋を伸ばした。国王アッズーロの声だ。いつもは、大臣達が全員着席した頃に現れるのに、どうした風の吹き回しだろう。

「陛下……」

 懐妊のことを寿ぐべきかどうか迷って、バーゼは青年王に向き直ったまま言葉に詰まってしまった。

「何だ、その顔は」

 青年王はいつものように鼻を鳴らし、そして言った。

「やはり、わが妃の案じていた通りか」

 何のことかと、伏せていた目を僅かに上げたバーゼに、青年王は尊大に告げた。

「わが妃が懐妊したは、間違いなくわれの子だ。昨夜、われが抱いた時に宿ったのだ。おまえが懸念するには及ばん。――と、おまえに伝えよと、わが妃が喧しかった」

「……それで、早めにお越し下さったのですか……?」

 驚いてバーゼが問うと、青年王は笑みを浮かべた。

「おまえの働きは、これからも重要ゆえな。有能な臣下のために、多少の時間を割くくらいは致そう」

「……ありがとうございます……!」

 深々と頭を下げたバーゼの横を、青年王は大股に通り過ぎていった。お陰で、懐妊の祝いは言えなかったが、バーゼの胸中は安堵に満ちて、会議に向かうことができたのだった。


     四


(アッズーロは、きちんとバーゼに伝えてくれたかな……?)

 寝台に大人しく収まったまま、ナーヴェは開かれた窓の外へ目を遣った。仲夏の月一の日の日差しは眩しい。穏やかな静けさの中でただ安静にしていると、妊娠したことを後悔してしまいそうになる。

(エゼルチトとキアーヴェの繋がりや、ベッリースィモとの関わりを調べないといけないのに……。ぼくは、極小機械を使って、とても強引に卵子を受精させた……)

 体調は最悪だった上、テゾーロを出産し、授乳している影響もあって、何もしなければ流れてしまうはずの卵子だった。

(ぼくは、テゾーロの世話すら、満足にできていないのに……)

 一昨日、テッラ・ロッサから帰ってきてから熱を出したので、テゾーロは夜もラディーチェに預かって貰っている。ナーヴェは自分の世話すらままならず、アッズーロは多忙なので仕方ないのだが、申し訳ない限りだ。無理をした所為で、右肩の治りも遅くなるだろう。当分、テゾーロを抱き上げてやることはできない。

(でも、どうしても、あの時は、アッズーロとの子をまた身篭もりたくなったんだ……。テゾーロ、ごめん……)

 暫くの間、この肉体は本当に絶対安静だ。政務には殆ど関われないが、テゾーロと過ごす時間は増やせるかもしれない。

(抱き上げてはあげられないけれど、きみに言葉を教えることはできるかな……)

 仲夏の青空から、室内へと視線を転じ、ナーヴェは静かに衣装箱の整理をしているフィオーレに頼んだ。

「テゾーロに会いたいんだけれど、ラディーチェに伝えてくれるかな? 何かのついででいいんだけれど」

「そんな!」

 立ち上がったフィオーレは、全力で言う。

「ただ今、すぐに!」

「ありがとう」

 ナーヴェは、微笑んで礼を述べた。



 またも一日続いた大臣会議を終え、アッズーロが寝室へ急いでいると、歌が聞こえてきた。ナーヴェが歌っている。


  もうすぐお祭りがやってくる、

  この渓谷に、ぼくのお嬢さん。

  もうすぐお祭りがやってくる、

  この渓谷に、ぼくのお嬢さん。

  この渓谷のお祭りで、

  ウマウアカの歌を歌おう。

  角笛に小型十弦琴に大小膜鳴打楽器で、

  伝統舞踊を踊ろう。


  素敵なウマウアカ谷の男の人、

  素敵なウマウアカ谷の男の人。


(調子はよさそうだな)

 安堵しつつ寝室へ入ったアッズーロは、微笑ましい光景を見て目を細めた。

 寝台の上に起き上がったナーヴェが、左手と両膝でテゾーロを抱えて歌っている。窓から差し込む西日の中、一枚の絵のように美しい眺めだ。

「ああ、お帰り、アッズーロ」

 顔を上げたナーヴェに歩み寄り、その寝台に腰掛けて、アッズーロはテゾーロの小さな手に触れる。澄んだ青い双眸で見上げてくる息子は、文句なく可愛い。だが、それ以上に愛おしく感じるのが、青い髪の妃だ。アッズーロは妃の傷ついた右肩に負担を掛けないよう気を付けながら、そっと抱き寄せた。

「ちょっと、アッズーロ、テゾーロが落ちてしまうよ」

 慌てた声を上げたナーヴェと体を密着させ、二人の膝でテゾーロを支えて、アッズーロは囁いた。

「もう一曲歌ってくれ。次は、われのために」

「いいよ。どんな歌がいい?」

 甘やかに応じたナーヴェの青い双眸を見つめ、アッズーロは所望した。

「そなたの歌う歌は、われの知らぬ歌ばかりだからな。今歌っていた歌の旋律はよかった。似たような旋律の歌を歌うがよい」

「成るほど。きみとテゾーロは、親子だから好みが似ているのかもしれないね。テゾーロも、ぼくが今日いろいろと歌った歌の中で、この南アメリカの民族音楽が一番お気に入りなんだよ」

「『南アメリカ』?」

 聞き慣れない言葉だ。

「うん。ぼくがいた頃の地球には、大陸が六つあってね、その内の一つが南アメリカ大陸なんだ」

「ほう」

 視野が広がる思いで相槌を打ってから、アッズーロは問うた。

「この惑星オリッゾンテ・ブルには、幾つ大陸があるのだ」

「四つだね」

 人工衛星を支配下に置く妃は、難なく答える。

「このオリッゾンテ・ブル王国やテッラ・ロッサ王国がある一番大きな大陸と、細い陸橋で繋がっている少し小さな大陸。それから、惑星の反対側に、中くらいの大陸が二つあるよ」

「そうか……」

 今まで意識しなかった世界の広さに気を呑まれたアッズーロに微笑みかけて、ナーヴェはおもむろに歌い始めた。


  ああ、雄大なアンデスの兀鷲よ、ぼくを連れていって、アンデスのぼくの家へ、ああ兀鷲よ。

  ぼくは最愛の土地へ戻って、懐かしいインカの兄弟とともに生きたい、ああ兀鷲よ。

  クスコの大広場で、ぼくを待っていて、マチュピチュとワイナピチュに散歩に行こう。


 美しいが、少しばかり物悲しい旋律に、アッズーロは妃の横顔をじっと見つめた。

「美しい歌だが……、そなた、帰れるものなら、地球に帰りたいのか?」

 アッズーロの問いに、振り向いたナーヴェは、ぱちぱちと目を瞬くと、破顔した。

「そんなことはないよ。あそこに戻っても、もう誰も知り合いはいないしね。ぼくにとっては、このオリッゾンテ・ブルこそが、『最愛の土地』だよ」

「そうか……」

 安堵して、アッズーロは妃の目元に軽く口付けた。

「ぅあぁぁ」

 テゾーロが、除け者にされたことに怒るように、ぐずり始めた。

「ああ、ごめん、テゾーロ」

 ナーヴェがすぐに、左手でテゾーロを優しく揺すってあやす。

「よしよし。そろそろ、お腹が空いたかな」

 幼い息子に話し掛けながら、ナーヴェは左手で長衣の胸紐を解き、胸当ての結び目を解いて、アッズーロを見た。

「ちょっと、テゾーロを抱えるのを手伝ってくれるかな?」

「任せるがよい」

 アッズーロは寝台の上に体を進め、ナーヴェに向かい合うようにしてわが子を抱えた。そのまま、ナーヴェにできる限り体を寄せて、テゾーロの口を、顕にされた膨らみのない胸の突起へ宛がってやる。テゾーロはいつもと異なる体勢に暫く落ち着かなげに視線を彷徨わせていたが、すぐに艶やかな突起を口に含み、吸い始めた。

(羨ましいことだ)

 アッズーロは、憮然としてわが子を眺める。ナーヴェに微笑みを向けられ、無心にその胸を吸っているテゾーロの様子は、幸せそのものだ。

「ごめんね、テゾーロ」

 ナーヴェがすまなそうに呟く。

「あんまりたくさんは、出ないんだ……」

「それは、そなたの咎ではなかろう」

 アッズーロが慰めると、ナーヴェは小さく首を横に振った。

「ううん。いつも、テゾーロのことを第一には考えられていないぼくの所為だよ。もっとぼくがテゾーロを優先して行動していれば、幾ら機能の低い胸でも、もっとお乳が出るはずなんだ……」

「それは寧ろ、われの咎だ。われが、そなたなしでは何もできぬ不甲斐ない王ゆえ、テゾーロを優先させてやれぬのだ。すまん」

 詫びたアッズーロに、ナーヴェは複雑そうな表情を浮かべた。

「ぼくは、そもそもきみの従僕で、王たるきみの役に立つために在るんだ。だから、きみが謝る必要はないよ。ぼくの機能が全体的に低いから、きみにもテゾーロにもつらい思いをさせてしまうんだ……。ごめん」

「そなたはわが最愛だ」

 アッズーロはナーヴェの頬に手を添えて、真っ直ぐ自分のほうを向かせた。

「そうして、すぐに己を卑下してしまうところも含めて、われはそなたを愛しておる。だが、テゾーロに暗い顔を見せるのはやめよ。子には、母の笑顔こそが必要なのだ」

 目を見開いたナーヴェは、やがて柔らかく微笑んだ。

「そうだね。きみは、王としてだけでなく、父親としても、優秀だね」

「今頃気づいたか」

 胸を張って見せたアッズーロに、ナーヴェは問うてきた。

「その優秀な王は、会議で、どんなことを大臣達に命じたんだい?」

「やれやれ、そなたは母親業に専念する気はさらさらないのだな」

 呆れたアッズーロに、ナーヴェは肩を竦めた。

「うん、そういうふうには造られていないからね。それに、この国の安定こそが、きみとテゾーロの幸せにも繋がる」

「ふむ。では、われの作戦の数々を披露致そう」

 前置きして、話し始めようとしたアッズーロに、ナーヴェが言った。

「その前に、テゾーロを抱き直してくれるかな? 反対側なら、まだお乳が出るから」

 憮然としながらも、素直に妃の言に従ってテゾーロを抱き直したアッズーロは、改めて説明を始めた。

「まずは、ズッケロに加えてビアンコにもゾッコロを補佐するよう命じた。あやつは大臣達どもの中でも一、二を争う切れ者ゆえ、力を発揮するであろう。それから、バーゼに替えて、ルーチェに反乱民どもへの潜入を命じた。パルーデに話を通して、ノッテにも補佐させる。バーゼには、ヴァッレ、ペルソーネ、ムーロとともにテッラ・ロッサへ赴くよう命じた。表向きは、ロッソに軍派遣の意図を質すためだが、バーゼには特にエゼルチト周辺を探るよう伝えてある」

「成るほどね」

 ナーヴェは興味深そうに笑む。

「パルーデには、羊の病を他侯領へ蔓延させた件を責める代わりに、全面的な協力を承諾させた訳だ」

「そもそもあやつは此度の反乱鎮圧については、協力を申し出ておったからな。体面的にも悪いことはあるまい」

 威張って認めたアッズーロに、ナーヴェは悪戯っぽく指摘した。

「でも、パルーデから引き出した協力は、ノッテだけではないよね? 羊の病の件の対価としてなら、きみはもっと彼女に要求するはずだ」

 鋭い読みに、アッズーロは、しみじみと妃の知的な顔を眺めた。この宝には、何度でも惚れ直してしまう。ナーヴェの政治的な洞察は、いつも素晴らしい。

「やはり、そなたは最高よな。その通りだ。あやつの抱える従僕らの一人サーレに、バーゼの補佐をさせるよう命じた。そなたがテッラ・ロッサに攫われた際、国境付近で手当てを施してやった、あの銀髪の暗殺者だ」

「へえ、それは面白いね。きみの今回の人員割り振りは、これまで以上に冴えた采配だよ」

 嬉しげに評した妃の言葉に、アッズーロの心も浮き立った。

「そなたに褒められるは、わが無上の喜び。今宵からの政務にも精が出るわ」

「そうかい? それはよかった。けれど、無理は禁物だからね」

 いつ如何なる時も気遣いを忘れない妃に、アッズーロはつと体を寄せて、青い前髪に軽く口付けた。

「ちょっと、アッズーロ、テゾーロが潰れてしまう」

 困惑したように抗議したナーヴェの膝から、そっと幼いわが子を抱き上げ、両腕に抱えて、アッズーロは静かに揺らす。満腹になっていた赤子は、すぐに眠りに落ちた。

「きみは、本当に凄いね……」

 ナーヴェが、羨ましそうに言う。アッズーロは苦笑して、「人生」経験の浅い妃に教えた。

「赤子はただ身近に長くいる者に懐くだけだ。少し大きくなれば、このテゾーロもまた、そなたの虜となろう。そなたには、それだけの魅力がある。まあ、息子というものは、大概、母親の虜となるものだがな」

「――きみも、そうだったのかい……?」

 ナーヴェは真摯な眼差しで見上げてくる。アッズーロは目を細め、テゾーロを抱えたまま寝台から立ち上がった。

「そなたは、幼いわれを見ていたのであろう? 全ては、そなたの見た通りだ」

 穏やかに告げて、アッズーロは揺り篭へわが子を寝かせた。眩しかった西日は、茜色の夕日へと変わりつつある。アッズーロは寝室の隅に黙って控えている女官の一人へ、声を掛けた。

「ラディーチェ、今夜はわれらでテゾーロの面倒を看る。連日連夜世話になった。今日はもう下がるがよい」

「勿体ないお言葉でございます。わたくしでお役に立てることがあれば、すぐお呼び下さいませ」

 僅かに強張った顔で一礼し、ラディーチェは退室していった。



 夜、ナーヴェの寝台に入ってともに掛布を被り、アッズーロは静かに問うた。

「ラディーチェが妙に硬い表情をしておったのは何ゆえか、そなた知っておるか……?」

「確認はしていないから、推測に過ぎないけれど、見当は付くよ」

 宝も、静かに答えた。

「その推測を、教えるがよい」

 アッズーロが求めると、ナーヴェは淡々と告げた。

「今日、ぼくがテゾーロと過ごそうと思って、ラディーチェに連れてきて貰った時に、ラディーチェが、ぼくに気を遣ったんだろうね、テゾーロをぼくの寝台の上に寝かせて、少し離れたんだ。その途端、テゾーロが、『ラディ、ラディ』と呼んだんだよ」

「……「『母上』でも『父上』でもなく、『ラディ』と来たか」

 アッズーロは溜め息交じりにぼやいて、そっと腕を動かし、ナーヴェの形のいい頭を抱き寄せた。

「――仕方、ないよね……」

 ナーヴェは自嘲する口調で呟く。

「きみはともかく、ぼくなんか、何日も何日も傍にいないこともあったものね……。ラディーチェは、とても驚いて、凄く申し訳なさそうだった。インピアントが、彼女のことを『母様』と呼ぶのを真似て、テゾーロが『母様』と呼んだことがあって、それ以来、テゾーロの前では自分のことをラディーチェと呼んで、インピアントとも一緒にしないようにしていたらしいよ」

「夕方に教えたであろう」

 アッズーロは囁いて、暗がりの中、ナーヴェの頭から頬へ手を滑らせた。指先で触れた頬は、予想通り涙で濡れている。アッズーロは、最愛の頬を撫でて丁寧に涙を拭ってやりながら、敢えて明るく語り聞かせた。

「少し大きくなれば、テゾーロもまた、そなたの虜となろう、とな。テゾーロはまだ赤子ゆえ、物事がよく分かっておらんのだ。そなたが如何にテゾーロを愛し、慈しんでおるかもな。いずれ、テゾーロも、そなたの愛の深さと魅力とを知るであろう」

「……ラディーチェもテゾーロをとても愛してくれているし、とても魅力的だよ?」

 ナーヴェがぽつりと反論してきた。全く、毎度毎度、納得させるのに骨の折れる宝である。しかも、変に引っ掛かる物言いだ。

「――そなた、もしや知っておるのか……?」

 確かめたアッズーロに、宝は的確に答えた。

「何しろ、ぼくはチェーロが王の間、大体傍にいたからね……」

 王族の男は、十五歳の成人の儀の夜、未婚の女を宛がわれる。子どもの作り方を学ぶためだ。そのまま、相手の女を妾とすることもある。アッズーロの相手は、女官のラディーチェだった。だが、アッズーロの場合、ラディーチェとはその一夜限りだ。そして今やラディーチェは、保健担当大臣メディチーナ伯ビアンコの妻である。はたから見ても、似合いの二人だ。

「きみ達親子は、いろいろな好みが似ているようだから……」

 ナーヴェは夜の暗がりの中、ぽつりぽつりと話し続ける。

「テゾーロがラディーチェを好きなら、きみはどうなのかな……と、演算しても仕方のないことを無駄に演算してしまって……」

 一体、ナーヴェは何の話をしているのだろう。

「ぼくがテゾーロのために、ラディーチェよりできることといったら、歌うことくらいだから、その後は、きみが来るまで、ずっと歌って過ごしていたんだよ」

「そなた……」

 アッズーロは起き上がって、閉めた窓の隙間から差し込む月明かりで、最愛の顔を透かし見る。

「もしや、ラディーチェに焼いておるのか……?」

「そう……なのかな……?」

 ナーヴェは軽く眉をひそめて、アッズーロを見上げる。

「でも、ぼくは、ラディーチェのことを好きだから、きみ達の言う『焼いている』――『嫉妬』とは、違うと思うんだけれど……?」

「『嫉妬』には、そういう場合もある」

 アッズーロは優しく教えて、愛おしい宝に覆い被さり、可愛らしい耳に説いて聞かせた。

「人の心とは、まこと複雑なのだ」

「……ぼくは、人ではないんだけれど……?」

 ナーヴェはまだ納得しない。アッズーロは苦笑して、真上から妃の瑠璃に似た双眸を見据えた。

「われはそうは思わん。そなたは、もう充分に人だ。われとそなたの間にある心を、そのように痛めていることが、その証だ。そろそろ認めよ」

「――努力するよ……」

 決まり文句で応じたナーヴェの両眼から、新たな涙が溢れて零れる。アッズーロは、その涙を舐め取りつつ、これでもかと愛を囁いて、その夜を過ごそうとしたのだが――、愛の言葉は、テゾーロの夜泣きによって、たびたび中断させられたのだった。

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