第16話 王として
一
鉄砲隊三十人の内、二十七人を倒し、後三人無力化すれば終わりというところだった。だが、残り三人の内一人が、ナーヴェの急襲に正常な判断力を失ってしまったのだ。十歩離れた距離から肉体に向けられた銃口を確認し、瞬時に分析して、ナーヴェは右肩を撃たれることを選択した。ナーヴェの肉体が避けてしまうと、背後にいる鉄砲隊の別の一人の胴体に銃弾が命中してしまう計算だったからだ。
銃撃にしては至近距離からの銃弾を右肩で受けたナーヴェの肉体は、衝撃で後ろへ倒れた。
(よかった……)
とりあえず、ナーヴェは安堵する。右肩の骨は砕けたが、銃弾はそこで止まり、貫通させずに済んだ。
(華奢な体だから、自信がなかったけれど……。でも、後三人)
「捕らえよ!」
鉄砲隊の隊長の声が響いた。二十七人は皆、腕や足を骨折させたので、すぐには動けない。だが、標的としている三人が、倒れたナーヴェに向かってくる。好都合だ。鉄砲を背に負い、肉体に掴み掛かってきた三人の兵士を、ナーヴェは体を捻り、両足で勢いよく蹴って一気に倒した。二人は二の腕、一人は脛を蹴って骨折させたので、無力化成功だ。
「――撤退だ! 動ける者は動けぬ者を助けて、即時撤退せよ!」
隊長の声がまた響いた。
(いい判断だね)
ナーヴェは、ゆらりと立ち上がりながら微笑んだ。右肩からの出血は酷いが、暫くならまだ戦える。全員骨折して鉄砲が撃てなくなった鉄砲隊の隊長としては、懸命な判断だ。
(鉄砲を撃つというのは、きみ達にとって、まだ特殊な技術。他の兵士に鉄砲を渡しても、上手く使い熟しては貰えない。それよりは、鉄砲を保持したまま、撤退したほうが軍としての被害が少なくて済む)
ナーヴェが鉄砲隊を撹乱し、無力化したので、ファルコ以下のオリッゾンテ・ブル軍の一点突破も上手くいったようだ。山裾から、林のほうへ遠ざかっていくのが見える。テッラ・ロッサ軍の騎馬隊と歩兵隊が多少の追撃はしているが、それもじきに止むだろう。
(テッラ・ロッサ軍は、別に全面戦争を望んでいる訳ではない。この辺りで退却するはずだ。後は、この肉体を本体で回収するだけだけれど……)
ナーヴェは、肉体の目で、ゆっくりと周囲を見た。
(出血多量で暫く動けなくなるから、少し、難しいかもしれないな……)
テッラ・ロッサ軍が去っても、そこにはまだ、さまざまな農具や武器で武装した、反乱民達の姿があった――。
〈ごめん。肉体の回収は、暫く待ってほしい〉
王城へ一気に飛んでいく惑星調査船から響いた声に、アッズーロは表情を険しくした。
「どういうことだ」
聞き返せば、ナーヴェの本体は、すまなそうに告げた。
〈負傷した所為で反乱を起こしている人達に捕まったんだ。脱出するまで時間が掛かるから、それまで王城で待っていてほしい〉
「どの程度の負傷をしたのだ! 包み隠さず明かすがよい!」
アッズーロは怒鳴る声音で求めた。
〈……右肩を撃たれたんだ〉
渋々といった口調でナーヴェは説明する。
〈でも、極小機械で治療しているから、大丈夫。ぼくを捕まえた人達も、ちゃんと手当てしてくれているよ。捕虜としての価値は認めてくれているみたいだ。でも、きみ達の足を引っ張らないよう、隙を見て逃げるから、それまで待っていてほしいんだ〉
「一人で逃げられるのか?」
アッズーロは鋭く尋ねた。ナーヴェの「大丈夫」ほど信用ならないものはない。
〈怪我の治療が済めば、行けるよ。ぼくは強いからね。バーゼの手は煩わせないつもりだ〉
宝は穏やかに、しかしきっぱりと答えてから、付け加えた。
〈心配を掛けてごめん。でも、きみには、ぼくのことより、次どうするかを考えてほしい。テッラ・ロッサの介入は明らかになった。介入を命じた人が、どこまでするつもりなのか、探って対処しないといけないよ〉
「言われずとも、分かっておる」
アッズーロが低い声を出すと、ナーヴェは悲しげに応じた。
〈またぼくは余計な一言を口にしてしまったね。きみがちゃんと分かっていることを、いつも言ってしまう。許してほしい。ああ、もうすぐ王城だよ。少し急制動を掛けるから、みんな、肘掛けを握っていて〉
ナーヴェの指示に、アッズーロ以下、ジョールノ、ヴァッレ、ペルソーネが従った直後、惑星調査船が減速し、座席帯に体が支えられる。次いで緩やかな降下を始めた船体の中で、会話は途切れた。
(これは……、あんまりアッズーロには報告したくない状況になりそうだ……)
ナーヴェは、連れていかれた農具倉庫のようなところで、藁の上に寝かされたまま、思考回路で呟いた。見下ろしてくる男達の目が妙にぎらつき、ナーヴェの肉体の胸や下腹へ注がれている。
(銃創から弾丸を抜いてくれたのはいいけれど、声を上げてしまったのが、よくなかったかな……)
ベッリースィモが、さすが諸侯に連なる血筋らしく、銃創の治療に詳しかったのはよかった。だが、傷口に焼いた火箸を差し込まれて弾丸を抜かれたので、叫ばずにはいられなかったのだ。その後、治療の一環として長衣を切り裂かれ、肩に包帯を巻かれたため、見えてしまっている胸当てもまた、男達を煽っているのだろう。
「ベッリースィモ、こいつ治療してやって、どうするんだ?」
荒々しい雰囲気を纏ったタッソが、ベッリースィモに問うた。
「当然、捕虜として、アッズーロとの交渉に利用するのだ」
ベッリースィモは手に付いたナーヴェの血を手巾で拭いながら答える。
「あの男は、この王の宝とやらを、溺愛しているそうだからな。かなりの条件でも呑むだろう」
「なら、こいつを生かしておきさえすりゃあいいんだな?」
タッソは舌舐めずりしてナーヴェの全身を眺め回した。
「おまえは物好きだな」
ベッリースィモは、肩を竦めたが、止めはしない。
「背徳の王とともに民を惑わせた女に罰を与えるのはいいが、楽しみ過ぎて殺してしまうなよ? せっかく治療したわたしの苦労が無駄になるからな」
「ああ、分かってる」
タッソは、扉を開けて去っていくベッリースィモに景気よく返事をすると、ナーヴェに覆い被さってきて、間近から言った。
「あんた、さっきは随分といい声で啼いてたよなあ? 熱い火箸はそんなに気持ちよかったかい? アッズーロにも、毎晩そんな声を聞かせてやってるんだろう? 減るもんじゃねえし、もう一回聞かせてくれよ? 今度はおれの下でなあ」
(この状況を打開するのは困難だ……)
重傷を負った肉体を組み敷かれながら、ナーヴェは分析する。
(なら、せめて、できるだけ今後に生かせるようにしないと)
最善手を求めて、ナーヴェは演算を開始した。
沈黙したまま王城の庭園に着地したナーヴェ本体の扉が開く。同時に座席帯も外れて、アッズーロ達の体を解放した。
「ナーヴェ様、ありがとうございました」
ヴァッレが座席から立ち上がって、船へ礼を述べる。
「この御恩は、反乱を早急に収束させることで、お返ししたいと存じます。どうか、肉体の回収に向かって下さい」
「わたくしからもお願い致します」
同じく立ち上がったペルソーネが、悲痛な声を出す。
「どうか、御自身の肉体も大切になさって下さい。助けられておきながら差し出がましいとは承知しておりますが、何卒、陛下の御心痛を察して頂ければと思います」
「本人がいる前でそのようなことを申すな」
アッズーロは憮然として言い、座席に座ったまま、ヴァッレとペルソーネを見上げる。
「そなたらは、さっさと降りて、他の大臣どもに現地の情報を伝え、わが妃が言うておった通り、次に打つべき手を考えるがよい」
「陛下はどうなさるのですか」
眉をひそめたヴァッレがアッズーロを見下ろした。
「われはこのまま、妃の肉体の回収に赴く。ジョールノ、手伝え」
〈それは駄目だよ〉
当のナーヴェがジョールノより早く応じた。沈黙していても、やはり、会話は全て聞いているらしい。
〈肉体の回収に行くのは、ぼくだけで充分だ。きみは王城で全体の指揮を執らないと〉
「すぐに回収して戻ってくればよい。そなたが人質にでもされれば、こちらの対処もしづらくなるであろう」
言い返したアッズーロに、ナーヴェは困った声を出した。
〈それは無理だよ。治療を終えて脱出を図るには、まだ時間が掛かりそうで……、ぁ、っ……〉
微かに聞こえた悲鳴に、アッズーロは目を瞠った。
「そなた、今、どのような状況下にあるのだ」
〈……もう嘘をつけるぼくに、それを訊くのかい?〉
ナーヴェは、苦い口調で呟いた。
「そうだ。答えよ」
アッズーロは険しく眉を寄せて命じる。
「そなたの嘘なぞ、われは立ち所に見破るゆえ、諦めて正直に答えるがよい」
暫しの静寂を挟んでから、ナーヴェは淡々と告げた。
〈ぼくは、王の宝、王の妃として、人々の心を乱した罰を受けている。でも、同時に諜報活動と説得工作を展開中だから、治療ともども一段落するまで待っていてほしい。ぼくの座右の銘は、『転んでもただでは起きない』だからね〉
「――『罰』とは、何をされておる」
追求したアッズーロに、ナーヴェは頑なに言った。
〈それは、後で報告するよ〉
治療のためとはいえ、焼いた火箸を傷口に差し込まれた青い髪の少女は、悶絶して、何度も悲鳴を上げた。その叫ぶような悲鳴に耐え切れず、ドゥーエは農具倉庫から出てきてしまっていた。ベッリースィモに命じられて、火箸を焚き火で熱したのはドゥーエ自身だ。必要なことだったはずだが、まるで拷問のような光景に、居た堪れなくなったのである。
悲鳴が聞こえないところまで離れて農具倉庫を見守っていたドゥーエに、一人の少女が歩み寄ってきた。癖のない長い黒髪を背で緩く編み、青い双眸、小麦色の肌をした少女は、真剣な表情を湛えている。
「ドゥーエさん、ですよね?」
尋ねられて、ドゥーエは尋ね返した。
「ええ、そうだけど、あなたは?」
「わたしは、ヴェルデといいます。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領から来ました。今の王の在り方には、常々疑問を懐いていたので」
黒髪の少女は硬い口調で告げてから、視線を農具倉庫へ転じた。
「テッラ・ロッサ軍と戦って負傷した王の宝は、捕虜として、あそこに囚われているんですよね? 先ほどから、ずっと悲鳴のような声が聞こえるんですが、まさか拷問しているんですか?」
「いいえ、治療よ」
ドゥーエはむっとして教える。
「鉄砲で撃たれた傷の中から、弾を取り出すために、火で焼いて消毒した火箸を使ってるの。それで、どうしても痛むから、王の宝が悲鳴を上げてるのよ。仕方ないの」
「でも、弾を取り出すのに、いつまで掛かるんです? 悲鳴は、まだ聞こえるんです……」
ヴェルデという少女の懸念に、ドゥーエも少し心配になった。
(中にいるのは、ベッリースィモとチーニョとヌーヴォローゾと、それにタッソ……)
ドゥーエの幼馴染みのゼーロは今、仲間の一人ニードとともに、テッラ・ロッサ軍やオリッゾンテ・ブル軍の退却を見届けに行っていて、農具倉庫の中にはいない。
(ゼーロがいたら安心なんだけど、タッソは、自制の効かないところがある……)
タッソは言動が乱暴で卑猥なことも口にするので、ドゥーエはあまり近寄らないようにしてきた。仲間に加わって以来、ゼーロの指示には従っているので、今まで特に警戒もしてこなかったが――。
「――いいわ。様子を見に行きましょう」
ドゥーエは、ヴェルデを従えて、農具倉庫へ歩き始めた。
ナーヴェの胸当てを上へずらしたタッソは、顕になった小さな突起二つを執拗に摘まみ、舐め、時に噛む。感じ易い部分を噛まれると、鋭い痛みが走り、口から短い悲鳴が漏れて、本体まで影響を受けてしまった。
(アッズーロに余計な情報を与えてしまった……)
後悔しつつ、理性を失わない限界まで脳内麻薬を分泌して、ナーヴェは問い掛けた。
「何故、きみ達は、侯城を焼いたんだい……?」
「アッズーロを王とは認めないという、おれ達の意志を示すためだ!」
見下ろしてくる男達の一人、チーニョが憤然として言う。
「アッズーロは、単なる人に過ぎないきさまを王の宝などと偽って、これ見よがしに己の権威付けに利用し、挙げ句、妃にまでした。王都を地震が襲って、神殿が跡形もなく消え、その半月後に大量の星が流れたのは、神の警告だ。これ以上アッズーロを王にしておけば、この国は神ウッチェーロに見放され、滅ぼされる。きさまはどうせ弱味を握られるか金で雇われるかしてるんだろうが、奴に加担して神を蔑ろにした罪は重いぞ!」
「成るほどね……」
呟いたナーヴェの長衣の裾を、タッソがばさりとめくり上げた。
「そんなに冷静に話してられるのもここまでだぜ? あんたに与える罰は、今からだからな」
タッソの節くれ立った手が、ナーヴェの筒袴の紐を解き、下袴の紐を解く。
(アッズーロ、またきみを傷つけてしまう。ごめん……)
肉体に、この男達に抵抗するだけの力は残っていない。極小機械も最大限活用して右肩の重傷を治療するので精一杯だ。
(この肉体は、きみのものなのに、ぼくはちっとも大切にできていないね……)
ナーヴェと直接関わったことのある人々には、人ではない部分がしっかりと伝わっているが、そうではない人々には、「王の宝」などと喧伝しても、上手く伝わらないのは道理だ。自分達は、何より大切な自国民の理解を得ることに失敗していたのだ。けれど、反省だけしても意味はない。次へ繋げなければならない。
「でも、アッズーロやぼくが神の怒りを買ったとしても、罰を受けるのは、ぼく達だけではないのかい……?」
剥き出しにされた足を開かれながら、ナーヴェは更に問い掛ける。
「地震があっても、神殿がなくなっても、星が流れても、きみ達に悪影響はなかったはずだよ……?」
「おまえは知らんのか」
呆れたように答えたのは、もう一人の男、ヌーヴォローゾだった。タッソやチーニョよりも、がっしりとしていて上背のある男は、冷ややかにナーヴェを見下ろし、告げる。
「羊の病が、じわじわと広がっている。あれが神の罰でなくて何だ? レ・ゾーネ・ウーミデ侯領では終息したらしいが、それはレ・ゾーネ・ウーミデ侯が秘密裏にアッズーロを見限ってテッラ・ロッサに付いたからだ。だから、おれ達も、おまえ達を見限る。アッズーロは最早おれ達の王ではないし、おまえは、王の宝ではない」
成るほど、と相槌を打つことはもうできなかった。ナーヴェは歯を食い縛って、タッソから与えられる苛みに懸命に耐え続けた。
二
農具倉庫の扉を開けたドゥーエは、三人の男の視線を浴びて、凍り付いた。何が起こっているかは、一目で分かった。しかも、予想した中の最悪の次くらいに気分の悪いことだ。
「あんた達……」
言葉の続きが出てこない。王の宝は、まだ生きていた。だが、拷問に近いことをされていた。半裸にされた華奢な体の上に覆い被さっていたのは、予想とは違って、ヌーヴォローゾだった。タッソのほうは、捕虜の頭近くに座っている。けれど、その袴の前は寛げられていて、つい先ほどまで何をしていたか、問うまでもなかった。
(輪姦――)
一歩後退ったドゥーエの横を、すり抜けるようにしてヴェルデが中へ入り、二歩、三歩と、捕虜を嬲る男達へ歩み寄る。
「あなた達、一体、何をしているんです……」
震える声で咎めた少女に、タッソが笑い含みに答えた。
「『何』って、王の宝を騙った奴に、罰を与えてるのさ。捕虜だからな、殺しちゃいない。でも、罰は与えて、罪を償わせねえとな」
続けてヌーヴォローゾも淡々と答えた。
「最大の罪はアッズーロにあるが、こいつにも加担した罪がある。罰を与えるのは当然だ。だが、女が見るものではない。出ていけ」
チーニョだけは、青褪めた顔で、怯んだようにヴェルデとドゥーエを見たきり答えなかったが、その衣服もまた、乱れている。タッソやヌーヴォローゾと同じことをしたのだ。
(ゼーロを呼んでこないと……)
ドゥーエは、更に後退ると、身を翻して幼馴染みを探しに走った。
〈まずい。バーゼが危険だ〉
不意に口を利いたナーヴェ本体に、アッズーロは即座に命じた。
「ならば即刻、カテーナ・ディ・モンターニェ侯城跡に戻るがよい。当然、われとジョールノを乗せてな」
〈そうだね。きみと問答している暇もないようだ〉
硬い口調で応じて、ナーヴェはすぐに浮揚する。同時に、座席に座ったままだったアッズーロとジョールノの体を、座席帯が固定した。
〈急行するから、しっかり肘掛けを握っていてほしい〉
ナーヴェの指示にアッズーロ達が従った直後、惑星調査船は急回頭と急加速をする。窓の外に、庭園に立ってこちらを見上げるヴァッレとペルソーネの姿が見えたが、一瞬で後方へ流れ、見えなくなった。
〈時間が惜しいから、候城跡ではなくて、麓の町外れの農具倉庫へ直接行くよ。そこに、バーゼとぼくの肉体がいるから〉
ナーヴェの声は、緊迫している。それだけバーゼの身が危ういのだ。
「分かった。そなたの思うようにするがよい」
アッズーロは了承してから、念押しする。
「但し、バーゼだけでなく、そなたの肉体も救うのだ」
〈――了解〉
ナーヴェは短く答え、沈黙した。それから幾らもしない内に惑星調査船は減速し、旋回する。眼下に見えたカテーナ・ディ・モンターニェ侯城の焼け跡がすぐ視界から消え、ナーヴェが高度を下げるのが分かった。
〈目標の農具倉庫に軽く突っ込むから、ジョールノはそこにいる三人の男達を牽制して、バーゼをぼくに乗せて。アッズーロは、ぼくの肉体を回収して。できるだけ素早くね。本当は、きみ達を危険には晒したくないんだけれど、ぼくの肉体を回収しないと、バーゼも動きそうにないから、ごめん〉
余裕なく詫びたナーヴェは、小高い山肌をこすりかねない低空飛行で町へ迫り――、煉瓦作りの倉庫の、木でできた扉へ、言葉通りに軽く突っ込んだ。木っ端が散り、粉塵が舞い上がる。
〈今だ〉
開かれた船の扉から、ジョールノに続いてアッズーロも跳び出した。走るジョールノの背を追って、砕けた扉の破片を踏み、粉塵を抜けて、倉庫の中へ駆け込む。暗がりに一瞬戸惑ったが、すぐに、見慣れた青い髪と白い長衣を目が捉えた。だが、青い髪は藁の上でぐしゃぐしゃに乱れ、長衣は最早まともに役目を果たしていない。
(ナーヴェ――)
仰向けに寝かされた華奢な体の、右肩から胸の半ばまで、長衣が破られている。右肩には包帯が巻かれ、そこには真っ赤な血が滲んでいた。胸当ては上にずらされ、顕になった二つの幼げな突起は赤く腫れている。長衣の裾は太腿の付け根までまくり上げられており、何も穿いていない白い両足は、無防備に開かれていた。何をされたかは明らかだ。そして、それを行なったと思しき三人の男達は、華奢な体の向こう側で腰を浮かし、驚愕の表情でこちらを見ていた。バーゼは、ナーヴェの頭側に立って、こちらを振り向いている。そこへジョールノが躍り込んでいき、問答無用で三人の男達を蹴り倒し、殴り倒し、関節技を極めた。
【アッズーロ、急いで。すぐに他の――この人達の仲間が来る】
ナーヴェに急かされるまでもなく、アッズーロは華奢な肉体に走り寄り、跪く。目を閉じた肉体の、重症らしい右肩を動かさぬよう、そっと上体を支え、噛まれた痕すら見える胸の上へ胸当てを戻し、長衣の裾を下ろして覆った両足を抱えて立ち上がった。
「……っ……」
ナーヴェは、体が余ほど痛むのか、険しく顔をしかめる。痛々しくて、憐れで、見ていられない。
「ジョールノ、そやつらを殺せ! 罪状は明白だ」
命じたアッズーロを、抱き抱えたナーヴェがうっすらと目を開けて見上げた。
【アッズーロ、駄目だ】
肉体で話すこともままならないのか、接続の声で訴える。
【殺したら駄目だ。彼らに道を誤らせたのは、ぼくなんだ。ぼくが血迷ったきみを止めず、妃になってしまったからなんだ。ぼくが、王の宝であることを、きちんと彼らに証明して見せなかったからなんだ。ぼくが、彼らを徒に不安に陥れて、こんなことをさせてしまったんだ。全部、ぼくの罪なんだよ。だから、ぼくが罰を受けるのは当たり前なんだ。きみのものである、この肉体を傷つけてしまったのは申し訳なかったけれど、でも、彼らもみんな、ぼくの子どもみたいなものなんだ。絶対に、殺さないで……!】
「ならん!」
アッズーロは拒否した。
「罪人を裁いてこそ、国の安寧は保たれる。それは王の責務だ」
【彼らを罪人にしたのは――ぼく達だ】
ナーヴェの肉体から、ふっと力が失われ、アッズーロの目の前に、実体ではないナーヴェが現れる。
【王の責務というなら、きみは、ぼくを妃にするに当たって、大臣達だけでなく、国民の理解を得なければならなかった。何故、神殿がなくなったかも、何故、星が流れたのかも、もっと説明をしなければならなかった。理解できないだろうからと、国民に殆ど何も真実を語ってこなかった付けが回ってきたんだ。それはきみの罪であり、きみを王にしたぼくの罪なんだよ。王たるきみが何より守るべきものは、彼ら国民だ。きみが王として治める人々なんだよ。ぼくの肉体なんか、二の次でいいんだ。もし、彼らを殺すというのなら、ぼくは、ぼくの肉体の治療をしない】
きっぱりと告げられ、瑠璃に似た双眸で見据えられて、アッズーロは折れざるを得なかった。
「ジョールノ、命令は撤回する。だが、その男どもの顔はよく覚えておけ。そやつらが罪人であることに変わりはない。バーゼ、御苦労だった。ジョールノとともにナーヴェ本体に乗れ」
【ありがとう】
実体ではないナーヴェは微笑んで、姿を消した。
粉塵が収まっていく中、倒れた男達を残して、アッズーロはバーゼ、ジョールノとともに惑星調査船に乗り込んだ。両腕に抱えたナーヴェの肉体を操縦席に座らせると、すぐに座席帯が動いて、傾く上体を固定する。次いで、ナーヴェ本体の声が響いた。
〈みんな座って。すぐ発進する〉
ジョールノとバーゼが後席に座り、アッズーロも助手席に座って、座席帯に体を固定された。直後、惑星調査船は浮揚し、回頭して、一路、王都を目指して飛び始める。アッズーロが窓に顔を寄せると、若い男と女が、慌てた様子で扉の破壊された倉庫へ駆け寄っていくのが、ちらりと見えた。
「ナーヴェ、そなたの肉体は大丈夫なのか?」
アッズーロが問うと、本体が言いにくそうに明かした。
〈右肩に割と至近距離から銃弾を受けたお陰で、複雑骨折と出血をした上に、銃弾を取り除くのに焼いた火箸を使ったから、火傷もしている。治すのに時間が掛かるよ。胸は、噛まれたくらいだから、極小機械は使わずに、肉体の自然治癒に任すつもりだよ。後は、申し訳なかったけれど、彼らの分身は、全部、極小機械で殺した。妃として、きみ以外の子を妊娠する訳にはいかないからね……〉
重苦しい事実に、アッズーロは唇を噛む。後席のジョールノは沈黙を保ったが、バーゼが湿った声で詫びた。
「助けて頂いたのに、何もできず、本当に申し訳ございません……!」
〈謝らないで〉
ナーヴェは穏やかに諭す。
〈ぼくが守るべき人の中に、勿論、きみも入っているんだから。きみを無事救出できて、ほっとしたよ。ジョールノも、アッズーロも、ありがとう〉
「陛下、御迷惑をお掛けし、ナーヴェ様も守れず、申し訳ありませんでした……」
バーゼは、アッズーロにも詫びてきた。
「よい」
アッズーロは溜め息交じりに言う。
「わが妃の護衛は、おまえの任務には入っていなかったからな」
〈バーゼは、ぼくを助けようと、あの人達に食って掛かったんだ。身の危険を顧みずにね〉
言い添えてきたナーヴェに、アッズーロは鼻を鳴らした。
「だから、別に咎めてはおらんだろうが」
〈そうだね。ごめん……〉
しゅんとした言葉を最後に、ナーヴェは黙ってしまう。居心地の悪い沈黙にアッズーロは顔をしかめ、操縦席にぐったりと座るナーヴェの肉体を、じっと見つめ続けた。
「何があった……!」
ゼーロの問いに、顔を腫らしたタッソが、埃や木屑の中からよろよろと起き上がって言った。
「あのテッラ・ロッサの新兵器が、突っ込んできて、男と、アッズーロが降りてきて、王の宝を連れていったんだ。あの、いつの間にかいた、ヴェルデとかいう女が、きっと手引きしやがったんだ。アッズーロの手下だったみたいだからな。畜生め!」
「テッラ・ロッサの新兵器が、アッズーロを乗せて王の宝を助けに来たのか? なら、やっぱりオリッゾンテ・ブル軍とテッラ・ロッサ軍は、まだ共闘してるのか? だが、王の宝を――あの女を撃ったのは、テッラ・ロッサ兵だろう? あの時は、キアーヴェの提案した噂作戦が上手くいったとばかり思ったんだが……。テッラ・ロッサはどういうつもりなんだ……」
ゼーロの疑問に、ドゥーエも頷いた。その辺りの事情が、全く分からない。ゼーロに拠れば、オリッゾンテ・ブル軍とテッラ・ロッサ軍はそれぞれ別に撤退したとのことだった。互いに警戒していて、共闘している様子は一切なかったという。それだけを聞けば、オリッゾンテ・ブル軍とテッラ・ロッサ軍それぞれを疑心暗鬼に陥らせる噂作戦が功を奏したと感じたのだが、別の事実を突き付けられてしまった形だ。
(一体、何がどうなってるの……?)
ドゥーエは、タッソの横に起き上がったチーニョとヌーヴォローゾを見据え、険しく眉を寄せる。分からないことだらけだ。誰が正しく、誰が間違っているのかさえ、彼女には判別できなくなっていた……。
三
〈到着した〉
沈黙を破って告げ、ナーヴェ本体は降下を始めた。行きよりは随分と穏やかに王城の庭園へ着陸し、全員の座席帯を外して扉も開ける。アッズーロは立ち上がり、操縦席のナーヴェの肉体を、注意深く抱き上げた。
「……ごめ……ん」
微かに肉体の口を動かし、ナーヴェが謝る。右肩の包帯は既に全て血に染まり、白い腕を血が伝っている。相当痛むはずだ。
「済んだことはよい。それよりも、治療に専念せよ」
言い聞かせて、アッズーロは惑星調査船を降りた。
「陛下、ナーヴェ様!」
フィオーレが珍しく大きな声を上げて、レーニョとともに走り寄ってくる。アッズーロは玄関へ歩きながら、それぞれに命じた。
「フィオーレ、メーディコに銃創の手当ての準備をさせて寝室へ連れて参れ。レーニョ、バーゼを大臣会議に参加させて反乱民どもの内情を報告させよ。われはナーヴェの体調が落ち着き次第行く」
「はい、ただちに!」
「仰せのままに」
フィオーレとレーニョは、各々一礼し、命令を遂行するため、また走っていく。アッズーロはそのまま足を緩めることなく玄関を入り、階段を上がり、回廊を歩いて、寝室へ直行した。腕に抱えたナーヴェは、つらそうな表情で目を閉じたままだ。その顔を見ていると、胸が掻き毟られるような気持ちになる。ナーヴェは「彼ら」と言った。つまり、一人の狼藉ですらなかったのだ。何故、これほどの重症を負ったいたいけな少女に、輪姦などという悍ましいことができたのだろう。
(われは許さん……! そなたが何と言おうと、われは、あやつらを許さんからな……!)
アッズーロは怒気を表情に上らせながら寝室に入り、出迎えたポンテには目もくれず、ナーヴェの寝台に歩み寄った。右肩に負担が掛からないよう、ゆっくりと寝かせ、乱れた長く青い髪を直してやる。重症を負った宝に対し、自分は、そのくらいしかできない――。
「陛下、お待たせ致しました」
診察道具の入った鞄を抱えたメーディコが、急ぎ足で入ってきた。その後ろには肩で息をしているフィオーレもいる。まるで自分が大怪我を負ったような悲壮な表情だ。
「出血が酷い。骨折もしているらしい。弾は抜いたが、その際、焼いた火箸を使った所為で、火傷も負ったそうだ」
アッズーロは告げながら、寝台脇の場所をメーディコに譲った。
「分かりました。とにかく、まずは診てみます」
メーディコは寝台の端に置いた鞄から鋏を取り出し、ナーヴェの包帯を切って丁寧に外していく。顕になっていく酷い傷口に、アッズーロは唇を噛んだ。
深い穴のような銃創からは、鮮血が溢れ続けている。銃創の周囲は、ところどころ引き攣れたような火傷になっている。その傷口を更に開くようにして、メーディコが覗き込んだ。
「あっ、うっ……」
ナーヴェが呻いて身を捩る。アッズーロは思わずメーディコの肩に手を掛けた。
「やめぬか! 痛がっておるではないか!」
「いい……から、アッズーロ……」
息も絶え絶えに、ナーヴェが口を挟んでくる。
「メーディコ……は、きちんと、診てくれようと、しているだけ……」
「申し訳ございません。ですが、今暫くの御辛抱を」
メーディコは、ナーヴェとアッズーロ双方に向けて頭を下げ、診察を続けた。ナーヴェは、声を上げまいとしてか、歯を食い縛って耐えている。ぎゅっと閉じたその目尻から、涙が溢れて耳のほうへ流れていく。アッズーロは寝台の反対側へ回り込み、指先で、流れる涙を拭ってやった。自分には、そのくらいのことしかできない――。
傷口を覗き終えたメーディコは、次に、そっと右肩全体を触診し始めた。それもまた痛むのか、ナーヴェは殆ど息を止めて耐えている。
「少し動かします」
メーディコが前置きして右腕を掴み、僅かに動かした時には、ナーヴェは頭を振って涙を零した。
「――やはり、折れておりますな」
沈痛な面持ちで、メーディコはナーヴェから手を離し、診断結果を述べる。
「出血、火傷、骨折。どれも酷うございます。特に骨折は、常人であれば、一生涯、肩が上がらなくなるほどの複雑骨折をなさっておられます。とにかく、一切動かさぬように固定し、薬草を貼り、朝夕包帯を変えるしか手の施しようがございませぬ。後は、ナーヴェ様御自身の、驚異的な回復力に頼るのみです。傷口は、火傷の痕が残らぬよう、できるだけ綺麗に整え、縫いましょう。わたくしにできるのは、そこまででございます」
冷静に締め括った侍医に、アッズーロは文句を言った。
「結局、殆どナーヴェの極小機械頼みではないか」
「さようでございます」
殊勝に、メーディコは頷く。
「このお方は、いつもいつも、無茶をなさい過ぎます。もっと御身大切にと申し上げたいところではございますが、それは陛下が充分に仰っておられますでしょう。わたくしにできることと言えば、誠心誠意、御快復のお手伝いをする、ただそれだけにございます」
小柄な壮年の侍医の、丸い顔に浮かんだ慈愛の表情を見て、アッズーロは溜め息をついた。
「よい。分かった。では、おまえにできることを最大限致せ」
「仰せのままに」
メーディコはすぐに自らの鞄を開いて、縫合用の針と糸、消毒のための酒精の瓶、替えの包帯、薬草類などを取り出して、寝台脇の小卓の上に並べていった――。
右肩の銃創をメーディコに丁寧に治療されたナーヴェは、幾分落ち着いた様子で目を開いた。
「メーディコ、ありがとう。凄く綺麗に縫って貰ったと分かるよ。いつもいつも、大変な治療ばかり頼んでごめん」
「いえいえ」
メーディコは、小さな両眼を細めて、優しくナーヴェを見下ろす。
「多少なりともあなた様のお役に立てる。それだけで、身に余る光栄でございます、ナーヴェ様。よくお分かりでしょうが、右肩は動かさず、絶対安静に。暫くは御不自由でしょうが、耐えて下され」
「うん。分かったよ」
素直に返事をしたナーヴェに一礼し、アッズーロにも一礼して、メーディコは鞄を持ち、退室していった。それを見送ったナーヴェは、深い青色の双眸で、アッズーロを見上げてくる。
「アッズーロ……、できれば沐浴をして、体を洗いたいんだけれど、いいかな……?」
「そなた、今、メーディコに『絶対安静に』と言われたばかりであろう?」
眉をひそめて歩み寄り、アッズーロは最愛の顔を覗き込んでから、その全身を見遣った。右肩だけは綺麗にされたが、ナーヴェはまだ血と埃に汚れた長衣を纏ったまま、下半身には何も穿いていない。
「着替えついでに、フィオーレに体を拭かせる。それでは駄目なのか?」
「……もっと……、きちんと洗いたいんだ……。それに……、できれば、きみに洗ってほしい……。きみが、できるだけ早く大臣会議に出なければいけないのは、知っているんだけれど……」
言いにくそうな宝の様子に、アッズーロは目を眇め、了承した。
「分かった」
包帯の上から木製の固定具で固定された右肩に注意しつつ、アッズーロはナーヴェを抱き上げる。戸口へと歩き始めながら、アッズーロは控えているポンテとフィオーレに命じた。
「ポンテ、ナーヴェの着替えを持ってついて参れ。フィオーレ、ナーヴェの掛布と敷布と枕を取り換えよ」
「仰せのままに」
「畏まりました」
それぞれ一礼して、女官達も動き始めた。
二階の回廊から階段を降り、アッズーロはナーヴェを抱えて沐浴場へ入る。円形をした広い人工の水場には、いつも通り澄んだ水が並々と湛えられていた。その端に設けられた段の一つに、下半身が水に浸かるよう慎重にナーヴェを座らせ、その横に、自身は衣を着たままアッズーロも座る。
「まずは衣を脱がせるぞ」
告げて、アッズーロは腰帯に差した小刀を抜き、襤褸雑巾のようになっている長衣と、土と血に汚れた胸当てを切り裂いて脱がせた。その残骸を水場の淵に置き、小刀を収めて、アッズーロは隣からナーヴェの顔を見つめる。
「綺麗にしたいのは、ここか……?」
水の中で左手を動かし、白い足の間に触れると、ナーヴェは泣きそうな表情になって、こくりと頷いた。
「馬鹿者め……。そういうことは、もっとさっさと言うがよい」
低い声で叱って、アッズーロは右手を動かし、傷ついた右肩に気を付けながら、そっと華奢な上半身を抱き寄せる。されるがまま、アッズーロの胸に頭を押し付けたナーヴェは、俯いて、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「そなた、本当に、人らしくなったな。そういうところを、あまり隠さぬがよい。特に、われにはな」
囁いたアッズーロに、宝は小さな声で疑問を呈してきた。
「何故……? こんな時に涙を流しても、きみを苛立たせたり悲しませたりするだけで、何の益もないのに……。これは、ただの不具合だよ。せっかく新しい本体になったのに、ぼくはまだ、不具合を起こしてしまう……」
「以前にも言うたであろう?」
アッズーロは、静かに言い聞かせる。
「『不具合』もまた、そなたの学習の一つだ、と。そなたはそうして、一歩一歩、人らしくなっていくのだ。だから、そなたの人らしくなっていく道のりを、隠さずわれに見せるがよい。そなたはわれの宝ゆえ、われは全てを見たいのだ」
「何の益もなく、涙を流すところまでかい……?」
頑固な宝はなかなか納得しない。アッズーロは小さく溜め息をつき、わざと明るく茶化してみた。
「そなたが益のある涙なぞ流し始めたら、さぞ見物であろうな」
ところが、宝は俯いたまま生真面目に応じた。
「――できるよう、努力するよ……」
「たわけ。戯れ言を真に受けるでない」
憮然として、アッズーロは再度言い聞かせる。
「涙に益なぞ求めぬわ。そなたがわれの前で泣く。涙を見せる。その事実に意味があるのだ。他の者の前では泣かぬがよいぞ。その泣き顔は、われ一人のものだ」
「……きみは本当に、変わっているね……」
淡々と呟いたナーヴェの涙は、ぽたぽたと零れ続けて止まらない。アッズーロは水中の左手で、無慈悲に他の男達に暴かれてしまったところを優しく愛撫し、指先を使って、間まで、中まで、できる限り清めていった。
「……もう、大丈夫。ありがとう、アッズーロ」
囁いてきて顔を上げたナーヴェに、アッズーロは軽く口付け、問うた。
「本当に大丈夫か? もっと甘えてよいのだぞ?」
「本当に大丈夫だよ。それに、これ以上、きみの時間を奪うことはできない。大臣達が、国民が、きみの裁定を待っているよ」
最愛は柔らかく微笑んで、政務に戻ることを促した。
「全く、そなたはでき過ぎた妃だ」
アッズーロはぼやいて、傷ついた細い体を注意深く抱き上げ、水場から出る。控えていたポンテがすぐに寄ってきて、手に提げた篭から大きな布を取り出した。体を拭くためのものだ。アッズーロは、水場の脇の台にナーヴェを座らせ、ポンテから布を受け取ると、自ら最愛の体を拭いていった。右肩に障るといけないので、水には下半身しか浸からせていないが、胸の頼りない突起も洗い清めたので、そこも優しく拭いてやる。腫れは少し引いたが、血の滲んだ歯型がまだくっきりと残っているのが腹立たしい。
「――あやつらを殺しはせん。だが、いずれは捕らえて罪を償わせるぞ」
アッズーロが宣告すると、宝は寂しげな表情で頷いた。
「うん。それは仕方ないと思っている。でも、どうか、彼らの未来に繋がる償い方を与えてほしい」
アッズーロは鼻を鳴らしたが、反論はせず、ポンテに布を返し、替わりに胸当てを受け取って、ナーヴェの幼げな胸を覆い、真ん中を結んだ。次いで、下袴を受け取り、ナーヴェを自らの肩に掴まり立ちさせて、片足ずつ通して穿かせ、紐を括ってやる。
「きみは王なのに、結構何でもできるよね……。テゾーロの世話も、器用にこなすし」
ナーヴェが、感心したように呟いた。
「ほぼ毎日そなたの着替えを見ておるのだ。できんほうがおかしいだろう」
憮然として言い返し、アッズーロは手早く筒袴も穿かせて、ナーヴェを座らせる。長く青い髪の上から、すっぽりと長衣を被らせ、頭を出させてから髪も出してやり、左袖だけ腕を通させて、裾を引き下ろした。
「右肩に負担の掛からん衣を仕立てさせたほうがよいか……」
顎に手を当て、考えたアッズーロに、ナーヴェが苦笑する。
「わざわざいいよ。こうして袖を通さず着ていれば、負担は掛からないから」
「御遠慮なさらず、ナーヴェ様。衣の一つや二つ、すぐ縫えますよ」
横からポンテが口添えしてきた。
「でも……」
ナーヴェはすまなそうな顔をする。
「その分、きみ達が忙しくなるだろう?」
「では、暇な時にさせて貰いますよ。それなら宜しいでしょう?」
ポンテは、さすがの貫禄で王の宝を言いくるめてしまった。
「分かった。ありがとう」
律儀に礼を述べた宝を抱き上げ、アッズーロは立ち上がる。自身の下半身はまだ筒袴ごと濡れたままだが、上半身でナーヴェを抱き抱える分には、何の問題もない。
「きみは着替えないのかい? 風邪を引いてしまうよ」
ナーヴェのほうが気にしてきたが、アッズーロは鼻を鳴らして言った。
「人の心配をしたければ、まずは己の体を己で世話できるようになるがよい。この右肩、上がらぬようになるは許さぬぞ」
「……努力するよ……」
しゅんとして、宝はアッズーロの腕の中で項垂れた。そんな姿が、堪らなく愛おしく大切で、だからこそ、傷つけられたことが許せない。
「――そなたを、ずっとわが寝室に閉じ込めて、誰にも触れさせんようにできれば、どんなによかったか……」
つい心の声を漏らしたアッズーロを、ナーヴェは驚いたように見上げてきて、真顔で指摘した。
「それなら、きみはぼくに肉体を持たせるべきではなかった」
鋭い言葉に、アッズーロはナーヴェの澄んだ双眸を見つめ返して黙る。すると、最愛はふっと頬を弛めて告白した。
「でも、ぼくはこうして肉体を持てて、とても嬉しいんだ。きみに、とても感謝している。肉体を持てたお陰で、ぼくは多くの人と関わることができている。人の痛みも喜びも、より深く知ることができた。きみと繋がって、生命の連鎖の一端に連なることすらできた。だから、ぼくにとっても、この肉体は大切なんだ。できる限り、完治を目指すよ」
「――ならばよい」
不覚にも目頭が熱くなったアッズーロは、ナーヴェから視線を逸らすと、沐浴場を出て階段を上がり、西日が差す回廊を歩いて寝室へ戻った。
四
一度手洗いに連れていってから、アッズーロはナーヴェを寝台に寝かせた。敷布も掛布も枕も取り替えられた寝台に、気持ちよさげに収まったナーヴェは、アッズーロを見上げ、真剣な口調で切り出してきた。
「アッズーロ、お願いがあるんだ」
予想は付いていたことだ。アッズーロは先回りして言った。
「われに接続して、大臣会議に参加したいのであろう?」
「うん……」
ナーヴェは、心配そうにアッズーロの顔色を窺う。
「許してくれるかい……?」
アッズーロは溜め息をついた。
「そなたが、その身を犠牲にして得た情報があるのであろう? ならば、否とは言えぬ。だが」
腰に手を当て、アッズーロは妃を見下ろす。
「右肩の治療が危うくなるようであれば、即刻接続を切る。これが参加を許す条件だ」
「うん。ありがとう、アッズーロ」
嬉しげに微笑んだナーヴェは、可愛らしくて、そのまま抱いてしまいたくなる。けれど、右肩が治るまでは、抱くどころか、普通に抱き締めることすら憚られる。
(忌々しい限りだ)
胸中で呟いて、アッズーロは身を屈め、ナーヴェの目元に軽く口付けると、踵を返した。
「フィオーレ、われも着替える。下袴、筒袴、長衣、腰帯、上着、全て替えるゆえ、用意せよ」
「畏まりました」
控えていたフィオーレは、すぐに動いてアッズーロの衣装箱から、命じた衣を取り出し始めた。
(バーゼは、どこまでの情報を掴んでいたんだろう……?)
素早く着替えるアッズーロをぼんやりと眺めながら、ナーヴェは思考する。ナーヴェを三人の男達から救うため、農具倉庫に踏み込んできたバーゼは、テッラ・ロッサ軍について言及していた。
(バーゼは、ぼくがテッラ・ロッサ軍に撃たれたから、アッズーロがテッラ・ロッサ軍を招き入れたはずはないと主張していた。それに対して、ヌーヴォローゾは、双方の軍を疑心暗鬼に陥れる彼らの作戦が機能したからだと反論していた。つまり、反乱を起こしている人達は、アッズーロがテッラ・ロッサ軍をこの国に招き入れたと思っていた訳だ……)
黒幕はエゼルチトだが、まだ証拠固めが済んでいない。ゼーロ達に話しても、なかなか信用は得られないだろう。
(ぼく達自身が信頼されていない状態だから、まずはそこを改善していかないと……)
「ならば行ってくる」
着替え終えたアッズーロが声を掛けてきた。
「うん。きみが会議室に着いた頃に接続するよ」
笑顔で応じて、ナーヴェは一旦アッズーロを見送った。右肩の治療に集中するためには、できるだけ接続する時間を短くしなければならない。
(できれば、会議自体も早く終わらせられるように、努力しよう……)
ナーヴェは、効果的に今回の議事を進めるための演算を行なってから、アッズーロに接続した。
衛兵が開けた扉から、アッズーロが会議室へ入っていくと、中央の卓に着いていた十二人の大臣達が議論をやめて一斉に立ち上がり、頭を下げた。部屋の隅では、バーゼもまた、椅子から立って頭を下げている。そんな彼らの前を通って、アッズーロは、一段高い王座に腰掛けた。直後、大臣達は各々の席に座り直し、アッズーロを見上げる。アッズーロは、その中の一人に視線を向け、命じた。
「これまでの議論のあらましを説明せよ、ヴァッレ」
「仰せのままに」
再び立ち上がって一礼した従姉は、凜とした声で述べていった。
「バーゼの諜報活動により、判明したことから申し上げます。第一に、反乱民の主体はカテーナ・ディ・モンターニェ侯領の者達ですが、ピアット・ディ・マレーア侯領、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領、フォレスタ・プルヴィアーレ・カルダ侯領から合流した者達もいると分かりました。第二に、彼らの主張の詳細は、王都の地震及び神殿の焼失、その半月後の流星は、陛下が偽の王の宝を仕立て上げたことに対する神の怒りである、このままでは国が滅ぶゆえ陛下を退位させねばならない、というものだと分かりました。第三に、反乱民は、陛下が彼らを鎮圧するため、テッラ・ロッサ軍を招き入れたと考えていると分かりました。対して、まずは、陛下の権威の象徴たる王の宝ナーヴェ様に、民の前でその本領を発揮して頂くことを、加えて、テッラ・ロッサと連絡を取り合い、軍派遣の意図を質し、新たな協力態勢を築くことを、検討致しておりました」
「――わが妃を、再び奴らに会わせる気はない」
アッズーロは案の一つをきっぱりと却下した。ナーヴェは、心身ともに傷つけられた。反乱民を目にするだけで苦痛なはずだ――。
【ぼくは会うよ、アッズーロ】
「声」とともに、実体ではないナーヴェが、王座の傍らに現れた。
【ぼくのことを心配してくれているんだろうけれど、大丈夫だよ。彼らはみんな、ぼくの子どもみたいなものだから、できるだけのことをしたいんだ。勿論、きみ達のためでもあるしね】
穏やかな眼差しで、宝はアッズーロを見つめてくる。実体ではないその右肩に傷はない。ナーヴェ自身にとっては、右肩の傷は、大したことではないのかもしれない。
(そう言えば、パルーデのことも完全に許しておったな、こやつは)
この宝は、底なしに寛容で、腹立たしいほど慈愛に満ちているのだ。
「――が」
アッズーロは、難しい顔をした大臣達へ、溜め息交じりに告げる。
「妃自身は、会うと言うておる。忌々しいことにな」
「では……?」
立ったままのヴァッレが、代表して訊いてきた。
「引き続き、検討するがよい」
アッズーロは、目の端に嬉しげなナーヴェを見ながら、厳しい表情を作る。
「但し、その手法如何によっては許可せぬゆえ、慎重に審議せよ」
「仰せのままに」
一礼して、ヴァッレは椅子に腰を下ろした。
アッズーロは従姉から、元許嫁候補に視線を転じた。
「テッラ・ロッサとの交渉については、ペルソーネがヴァッレを補佐し、中心となって進めるがよい。ペルソーネ、三度に渡りテッラ・ロッサへ赴いた経験と人脈とを生かせ」
「畏まりました」
ペルソーネは、立ち上がって一礼し、静かに座った。
「ムーロ」
アッズーロは続けて、黒髪に黒い肌の軍務担当大臣を呼ぶ。
「ヴァッレとペルソーネを補佐せよ。軍事面については、そなたが交渉せよ」
「御意のままに」
ムーロも立ち上がって一礼し、椅子に座り直した。
【もう一つ、大臣達に知らせて対応してほしいことがあるんだ】
ナーヴェが、王座の傍らから話し掛けてきた。
「申せ」
小声で促したアッズーロに、ナーヴェは新たな事実を告げてきた。
【羊の病が、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領の外へ広がっているらしいんだ。あの人達が反乱を起こした背景には、多かれ少なかれ確実に羊の病がある。どの程度広がっているのか、何故報告が上がってこないのか、調査した上で対応すれば、反乱を鎮める一助になるはずだよ。何より、羊の病が広まってしまえば、ぼく達の国民みんなが困ることになる】
「レ・ゾーネ・ウーミデ侯領で封じ込めたのではなかったのか」
苛立って呟いたアッズーロに、ナーヴェは悲しげに頷いた。
【うん。ぼくも把握できていなかったことだけれど、ぼくに罰を与えた一人がそう言っていたから、確実な話だと、ぼくは推測している】
(パルーデめ、自領で終息したことのみ伝えてきて、後は黙っておったな……!)
顔をしかめたアッズーロは、すぐに畜産担当大臣の顔を見た。
「ゾッコロ、わが妃が掴んだ新たな情報だ。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領で流行していた羊の病が、他領にて未だ蔓延しておる疑いがある。反乱が起きた理由の一つとも考えられる。これについて早急に調査し、報告せよ」
「はっ。ただちに」
小柄で小太りの大臣は、慌てて立ち上がって一礼すると、がたんと椅子を鳴らして座った。その様子に、ゾッコロの双子の兄で、農産担当大臣を務めるズッケロが、呆れたように小さく首を横に振る。アッズーロは、その兄にも命じた。
「ズッケロ、農産担当大臣として、ゾッコロを補佐せよ。畜産と農産の両方を営んでおる民も多いゆえな。窮乏の度合いを中心に調査するがよい」
「畏まりました」
兄のほうは、弟とそっくりな容貌ながら、落ち着いた動きで立ち上がり、一礼して座った。
「しかし、羊の病とは……」
財務担当大臣モッルスコが眉間に皺を刻んで発言する。
「何故、今まで蔓延の報告が上がってこなかったのか、それも調査する必要がありますな」
「それよりもまず!」
道路担当大臣カッメーロも声を張り上げて発言する。
「これ以上の蔓延を防ぐため、道路を封鎖する必要がありましょう!」
「そうだな」
アッズーロは鷹揚に頷いた。傍らで、ナーヴェも満足そうな顔をしている。
「われが特に命じた者達以外は、各々の担当において、羊の病に対処する案をまとめよ。明日、改めて臨時会議を開き、検討する。本日は、これまでだ」
「「仰せのままに」」
大臣達は立ち上がり、頭を下げる。バーゼもそれに倣っている。王座から立ち上がったアッズーロは、彼らの前を再び通って扉へ向かう途中で、バーゼに命じた。
「バーゼ、後でわが執務室へ参れ」
「仰せのままに」
頭を下げたまま応じたバーゼの返事を耳に拾って、アッズーロは会議室を後にした。
【大臣達は、みんな優秀で、この国をよくしようという意欲に満ち溢れていて、素晴らしいね】
実体ではないナーヴェが、視界の隅に浮遊してついて来ながら、感心したように言う。
【お陰で、ぼくは情報提供するだけで、口を挟まずに済んだよ】
回廊に差し込む夕日に透けた美しい姿は、ひどく儚く、やはり幽霊のようだ。
「われはすぐに行くゆえ、肉体に接続して治療に専念するがよい」
アッズーロは、話には付き合わずに命じた。
【うん、そうするよ】
ナーヴェは、すまなそうに微笑む。
【きみは、ぼくのために、会議を短く切り上げてくれたんだね。ごめん】
謝罪を残して消えたナーヴェを追い掛けるように、アッズーロは急ぎ足で寝室へ戻った。
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