第15話 守るべきもの

     一


「ボルドが先に到着している。これで、混乱なく迎えて貰えるね」

 近づいてきた王城の庭園に、少年侍従の姿を見つけて、ナーヴェが頬を弛めた。

「降りたら、すぐに大臣会議を行なうが、そなたは休め」

 アッズーロは有無を言わさずナーヴェに命じた。体力が戻り掛けたばかりの肉体に、随分と無理をさせてきた自覚がある。

「会議での決定事項は、後で伝えるゆえ」

「――分かったよ」

 ナーヴェは素直に了承した。肉体の疲れを、自身でも感じているのだろう。

「ティンブロは、われとともに大臣会議に出席せよ。奥方の案内は、ナーヴェ、任せてよいか? フィオーレに言えば、適当な部屋を用意するであろう」

「了解」

 ナーヴェは笑顔で頷いた。

 王城の中から人々が出てきて見守る中、ナーヴェは惑星調査船を、ゆっくりと庭園に着地させた。直後に開いた扉から、アッズーロは外へ出る。後ろから、ティンブロとジラソーレも降りてきた。

「御無事のお帰り、何よりでございます」

 玄関に並んだ人々の間から、留守を任されていたモッルスコが進み出て、アッズーロを迎えた。その背後には、ムーロやヴァッレの姿も見える。

「うむ。留守居御苦労。非常事態ゆえ、即刻、会議室に大臣どもを集めよ」

 短く労ってから指示したアッズーロに、モッルスコは一礼して告げた。

「仰せのままに。既に集めておりましたゆえ、出迎えに出て参った皆が戻らば、いつでも始められます」

「うむ」

 アッズーロは、ティンブロと大臣達を引き連れるようにして、足早に会議室へ向かった。



「さて、行こうか」

 最後に船から降りて、手も触れず扉を閉めた王妃に促され、ジラソーレは頷いて、ともに歩き始めた。初夏の日差しを浴びた王妃の青い髪は、神々しく美しい。王の宝を間近に見るのは初めてなので、ジラソーレはつい、その人に非ざる姿を見つめてしまう。全体的に華奢で整っていて、どこかしら幼げな容姿に、人懐っこく柔らかな表情と仕草、そして理知的な言葉遣いと振る舞い。

(陛下が心奪われたのも、頷けるわね……)

 ジラソーレは、娘のペルソーネが密かにアッズーロへ思いを寄せていたことを知っていたが、今はもう過去の話だ。

(あの子にも、本当に大切な相手ができたことだし、陛下は本当にお幸せそうだし、これはこれでよかったのだと、領民達にも伝わればよいのだけれど)

「その髪、ペルソーネと同じ色だね。とても綺麗だ」

 ナーヴェが振り向いて話し掛けてきた。

「ありがとう存じます。あの子は、王城で無事に大臣として勤めておりますでしょうか」

 ジラソーレは、母として常々気になっていたことを問うてみる。

「これと思ったことについては、少々頑固な子ですので、皆様から疎まれてはいまいかと心配なのです」

「確かに、そういうところはあるよね」

 王の宝は、面白そうに笑った。随分と気さくにペルソーネと付き合っている様子だ。

「でも、彼女のそういうところは大切だよ。何の主張も拘りもない大臣を、アッズーロは認めないからね。大臣はみんな、多かれ少なかれ、頑固者ばかりさ。でも、だからこそ、考えをぶつけ合って、今回のような難問に対しても、いい解決策が浮かぶんだ。アッズーロ一人では、そうはいかないから、とても助かっているよ」

 しみじみと褒められて、ジラソーレは心が温まるのを感じた。

 庭園を横切って玄関まで行くと、女官達が恭しく頭を下げて王妃とジラソーレとを迎えた。

「ただいま、フィオーレ、ミエーレ」

 先に声を掛けた王妃に、栗毛の女官が笑顔で応じた。

「お帰りなさいませ、ナーヴェ様。お元気そうで何よりでございます。テゾーロ様は、寝室でラディーチェ、ポンテとともにお待ちでございます」

「分かった。ありがとう。それで、こっちのカテーナ・ディ・モンターニェ侯妻ジラソーレなんだけれど、夫のカテーナ・ディ・モンターニェ侯ティンブロと一緒に休める部屋を、どこか用意してあげてくれないかな」

「畏まりました。客間の一つへ御案内致します。どうぞ、こちらへ」

 栗毛の女官はジラソーレに微笑み掛けると、先に立って廊下を歩き始めた。

「なら、また後で」

 手を振る王妃に一礼して、ジラソーレは栗毛の女官について行った。

「どうぞ、こちらでございます」

 案内された先は、王城の一階の端にある客間だった。普段から整えられているらしく、寝台などもそのまま使える状態だ。

「ありがとう」

 礼を述べて、ジラソーレは部屋へ入った。

「のちほど、お着換えなどお持ち致します」

 栗毛の女官は感じよく告げて一礼し、外から扉を閉めた。

 ジラソーレは二つある寝台の片方に腰掛け、深い溜め息をつく。正直、疲れた。怒涛の一日だった。

(でも、皆無事で侯城から脱出できてよかった……)

 娘のペルソーネも働いている王城には、安心感がある。ジラソーレは長衣の上に羽織っていた上着を脱いで手近な椅子に掛け、革靴も脱いで寝台に足を上げ、横になった。暫くうたた寝するくらいは許されるだろうか。思う内に目が閉じて、ジラソーレは泥沼に沈むように眠りに落ちた。

 


「ラディーチェ、ポンテ、ただいま。テゾーロ、元気にしていたかい?」

 ナーヴェはミエーレとともに寝室へ入りながら、そこにいる全員へ心からの笑顔を向けた。

「お帰りなさいませ、ナーヴェ様。お健やかな御様子に安堵致しました」

 ポンテが満面に笑みを湛え歩み寄ってきて、腕に抱いていたテゾーロをナーヴェに抱き渡してくれる。その背後で、インピアントを腕に抱いたラディーチェが、微笑んで頭を下げた。

 抱き取ったテゾーロの体重は、七日間でまた増えたようだ。

「ただいま、テゾーロ。傍にあんまりいない母上の顔なんて、忘れてしまったかな……」

 寂しく呟いたナーヴェに、可愛らしい両手を伸ばし、テゾーロは青い髪を掴む。

「きみも、父上と同じで、この作り物の髪が好きなんだね……」

 無垢な表情で髪を引っ張る赤子に苦笑しつつ、ナーヴェは自らの寝台へ行って腰掛けた。左腕でテゾーロの体を支えたまま、右手で胸紐を解き、胸当てをはだけて肌を出す。両手でテゾーロを抱き直して、その口元に、膨らみのない胸の突起の一つを触れさせると、幼い息子は素直に乳を吸い始めた。久し振りの授乳だ。けれどこの乳も、またいつ出なくなるか分からない。体調は、まだまだ万全とは言い難い――。

 やがて乳を飲み終えたテゾーロは、ナーヴェの腕の中で、すやすやと寝息を立てて眠ってしまった。愛らしい寝顔を見つめたまま、ナーヴェは静かに立ち上がって、寝台脇の揺り篭へ、テゾーロを寝かせる。弛んだ幼い両手から、青い髪を抜き取り、あどけない顔の額に軽く口付けて、ナーヴェは室内の手洗いへ行ってから、寝台へ戻った。すぐにポンテが寄ってきて、布靴を脱がしてくれる。同時に、ミエーレが、水を入れた手桶と手巾を持ってきてくれたので、ナーヴェは顔を洗った。

「ありがとう。アッズーロが戻ってくるまで、ちょっと寝させて貰うよ」

 ナーヴェは女官達に断って、寝台に横になり、掛布を被る。頭が重い。体も重い。肉体は、やはり扱いが難しい。ナーヴェは溜め息をついて目を閉じた。



 とりあえずの結論を得て会議を終え、大臣達に見送られて廊下へ出たアッズーロは、そこに憔悴した様子のフィオーレを見て、表情を険しくした。

「陛下、ナーヴェ様が」

 フィオーレの言葉を皆まで聞かず、アッズーロは寝室へと走る。後について走ってきながら、フィオーレが告げた。

「ナーヴェ様はお休みなっておられるのですが、随分とお熱が高く……。このようなことは初めてですので、すぐに陛下にお知らせしようとしたのですが、ナーヴェ様が、会議が終わるまでは絶対に知らせてはいけないと、それは強く仰いましたので……」

「そのような戯れ言は聞かずともよい!」

 苛立ちそのままに怒鳴って、アッズーロは寝室に駆け込んだ。足音を落として寝台に走り寄り、妃の顔を見る。いつもは白い頬が、紅潮している。目を閉じているが、熟睡している訳ではなく、表情が苦しげだ。そっと指先で頬に触れると、青い睫毛を揺らして、ナーヴェは、うっすらと目を開けた。

「……ごめん。また、心配掛けて……」

 呟くように謝って、妃はアッズーロの手に頬をすり寄せると、すぐにまた目を閉じてしまった。その頬が、明らかに熱い。アッズーロは顔をしかめて言った。

「詫びねばならんのは、われのほうだ。そなたの体調が万全ではないのを知りながら、いろいろと無理をさせた。すまん」

「……全部必要なことだったんだから、仕方ないよ」

 優しい声で、ナーヴェはアッズーロを慰める。

「極小機械だけでは、常在細菌や常在亜生物種に対処できなくなって、少し体温を上げているだけだから、大丈夫……」

 何が「大丈夫」なのか、よく分からない説明をして、ナーヴェは黙ってしまった。余ほどつらいのだろう。

 アッズーロは顔を上げて、ついて来たフィオーレとその場にいたミエーレに問うた。

「水分は、充分に摂らせておるか?」

「はい。お休みの合間に林檎果汁を飲んで頂いております」

 ミエーレが生真面目な顔で答えた。フィオーレも頷いている。

「では、このまま寝かせていよ。傍には、必ず誰か一人は付いておけ」

 アッズーロは命じて、ナーヴェの汗ばんだ額に軽く口付けると、執務室へ行った。レーニョが控えている執務室の机上には、報告書が溜まっている。ずっとナーヴェの傍らにいたいのは山々だが、王としての責務を放棄すれば、当のナーヴェを落ち込ませることにもなる。まずは夕食の仕度が調うまで、報告書に没頭しなければならない。

(自分がわれの足を引っ張らぬか、すぐに気にするからな、そなたは……)

 全く、でき過ぎた妃だ。

 アッズーロは執務机に着くと、箱の中に積まれた報告書の一番上の一枚を手に取った。

 特に急ぎの報せは、早馬に乗ってきた使者や間諜が、まず口頭で伝えてくるが、それ以外は、全て報告書の形で提出される。アッズーロが不在にしていた間は、留守居のモッルスコが報告書を読んで裁いていた。その間のことについては、会議中に報告を受けている。会議で今後の方針を決める際にも、それらの情報を幾つか参考にした。

「パルーデめ、テッラ・ロッサから援軍を迎えるなら、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領を通して、しかも物資を補給してもよいと言うてきた」

 一枚目の報告書の内容を、皮肉な口調で告げたアッズーロに、レーニョは考え込む表情で応じた。

「最近、随分と協力的でいらっしゃいますが、あの方とテッラ・ロッサとの繋がりについては、未だ疑惑が拭えないかと思います」

「繋がりは確実にある」

 アッズーロは断言する。

「ただ、それがわれらにとって有利に働くか、不利に働くかだ」

「今回は、どちらに働くと思われますか」

 レーニョは静かにアッズーロを見つめて尋ねてきた。普段は遜っている癖に、こういう時だけ幼馴染みとしての強さを発揮してくる。

「そうだな。ロッソは今回、わが国への侵略は考えておらん様子だった。わが妃と繋がりのあるシーワン・チー・チュアンという厄介な存在について知識を深めた所為もあろう。だが、その臣下どもの考えは恐らく異なる。それがパルーデにも影響せんとも限らん」

「つまり、不利に働く、と」

「そう考えて動いておいたほうがよかろう。パルーデに気を許すつもりはない」

「畏まりました」

 レーニョは一礼し、アッズーロが差し出したその報告書を受け取った。報告書は、アッズーロの指示を受けた侍従達が保管し、命令を伝達する際に用いるのだ。破棄する時には、必ずアッズーロの許可を求めてくる。

 アッズーロは報告書の次の一枚を箱から取った。

「ピアット・ディ・マレーア侯領に、既にカテーナ・ディ・モンターニェ侯領から避難民が流れてきているようだ。やはり、誰も彼もが反乱民どもの主張に賛成しておる訳ではなさそうだな」

「それはそうでございましょう」

 レーニョが苦い顔で相槌を打つ。

「陛下の内政に、特に指摘すべき問題点はないのですから」

「おまえは身贔屓でわれに甘いゆえ話半分に聞くとして、モッルスコやビアンコからも特に指摘がないからには、やはり、ナーヴェ関係のことが反乱民どもにとって最も納得し難いことなのであろうな」

「その辺りのことについては、説明さえすれば、民も理解できるのではないかと……」

「いや、分からぬであろう」

 アッズーロは、オンブレッロからの報告書をレーニョに手渡しながら、あっさりと否定し、笑う。

「何しろ、われでさえ、ナーヴェの説明の半分は理解できぬからな」

「しかし、それでは……」

「結論は会議で得た通りだ。ヴァッレとペルソーネ、それで足りねば、伯母上にも、反乱民どもへの説得に当たって頂く。軍を動かすは、最後の最後だ」

「仰せのままに」

 レーニョが複雑な表情で一礼した時、寝室からフィオーレが控えめに入ってきた。

「陛下、夕食のお仕度が調いましてございます」

「分かった」

 アッズーロはすぐに席を立つ。

「残りの報告書は夕食の後だ。おまえも食事を取ってくるがよい」

「畏まりました」

 レーニョは再度一礼して、廊下へと出ていった。


     二


 アッズーロは寝室に入るとすぐに、ナーヴェの寝台へ目を向けた。妃は、ミエーレに見守られながら、微かに曇った表情で目を閉じている。

「起きておるか?」

 小声で尋ねたアッズーロに、ミエーレが振り向いて答えるより早く、ナーヴェ自身が目を開けた。何度か目を瞬いてから、枕元へ歩み寄ったアッズーロを見上げる。汗ばんだ顔で仄かに笑んで告げた。

「夕食は、一緒に食べるよ。食べないと、元気になれないしね……」

「そうか。卓で食せるか? それともそのまま起き上がって食すか?」

 アッズーロが気遣うと、ナーヴェは掛布の上に出していた両腕を弱々しく上げた。

「卓まで連れていってほしい。寝台を汚すと、迷惑を掛けるから」

「ナーヴェ様、そのようなことは。どうか、御無理なさらず」

 横合いからフィオーレが心配そうに言った。

「うむ。そう致せ。汚さば、わが寝台で寝ればよい」

 アッズーロは言い重ね、ナーヴェの両腕を優しく下ろさせ、代わりに、その背と肩とを支えて起こしてやった。

「ありがとう」

 ナーヴェは律儀に礼を述べ、ミエーレが、支えにと差し入れた大きな座布団に背を預ける。すかさずフィオーレが寝台脇に小卓を動かしてきて、その上にナーヴェの食事を置いた。

「これは……? 初めて見る料理だね……」

 目を瞬いたナーヴェに、アッズーロは腰に手を当てて説明した。

「蜂蜜を混ぜた麺麭を千切ったものと、発酵羊乳と杏の甘煮と、それに乾酪の欠片とを混ぜた特製麺麭粥だ。食べ易く、栄養価も高い」

「へえ……。ぼくのために考えてくれたんだね。ありがとう」

 顔を上げて微笑んだナーヴェに、アッズーロは頷いた。

「うむ。早く元気になるがよい」

「……努力するよ……」

 ナーヴェは、すまなそうに応じて、匙を手に取り、特製麺麭粥を少しずつ食べ始めた。その様子を見守るアッズーロのところへ、気を利かせたミエーレとフィオーレが、それぞれ卓と椅子、特製麺麭粥の皿と林檎果汁の瓶とを持ってくる。アッズーロは、ナーヴェと隣り合うように寝台に寄せた椅子に座ると、卓の上に置かれた己の分の特製麺麭粥を味わった。

「うむ。思うたより、少々甘さが足りなんだか」

 首を捻ったアッズーロに、ナーヴェが柔らかく告げた。

「ぼくには、このくらいの甘さが食べ易くていいよ」

「そうか。ならばよい」

 アッズーロは満足して、自分にとっては少々甘さの足りない特製麺麭粥を、好ましく食べていった。



「……それで、会議の結論は、どうなったんだい……?」

 ナーヴェは、アッズーロの愛情が篭もった特製麺麭粥を口へ運ぶ合間に尋ねた。

「ほう」

 アッズーロは粥を咀嚼しながら、感心したようにナーヴェを見る。

「殊勝なことだ。われに密かに接続したりなぞせず、大人しく寝ていたとはな」

「……まあね。きみに訊けば分かることだから」

 答えたナーヴェに、アッズーロは、今度は呆れた顔をした。

「つまり、人工衛星には接続しておったのだな?」

 完全に見透かされている。というより、誘導尋問だ。観念して、ナーヴェは肩を竦めた。

「必要な時はいいって、きみの許可が下りていたからね……。それにしても、きみは随分とぼくの扱いに慣れてきたんだね……」

「当たり前であろう」

 アッズーロは怒った顔をする。

「最愛の扱いに熟達したいと望むは、極自然なことであろうが」

「まあ、そうなんだろうけれど……」

 ナーヴェは苦笑した。やはりアッズーロの理解力や学習能力は並ではない――。

「全く、そなた、われには早う寝ろだの何だの言う癖に、自身のことには、いつまでも無頓着に過ぎよう。その肉体は、われのものだと何度言い聞かせればよいのだ」

 真剣に困っている様子のアッズーロに、ナーヴェは詫びた。

「ごめん。でも、きみが何と言おうと、ぼくは、この肉体よりも、きみと、きみの王国とを優先するよ。そこだけは、譲れない」

「たわけ」

 アッズーロは匙を持っていない左手を伸ばし、ナーヴェの頬を摘まむ。

「王妃たるそなたも、その王国の大切な一部なのだぞ」

「でも、その『王妃』が、今回の反乱を招いた要因の一つなんだろう?」

 指摘すると、アッズーロはナーヴェの頬を摘まんだまま、険しい眼差しで見返してきた。

「何ゆえ、そう思う」

「分析と推測から。違っているかい?」

 いつもより頬が痛いと感じながら、ナーヴェはアッズーロを見据えた。

「――違わん」

 アッズーロはそっぽを向くようにして認め、左手を下ろした。その横顔は、傷ついた少年のようだ。

「やっぱりね……」

 ナーヴェは溜め息をついた。アッズーロが、「最愛」と口にして憚らない自分こそが、利用されたのだ。

「この反乱には、誰か、糸を引いている人がいるよ」

「――何ゆえ、そう思う……?」

 アッズーロは先ほどと同じ問いを、より怪訝そうな面持ちで発してきた。

「分析と人類の経験から。こんなことは、歴史上よくあったことだからね」

 ナーヴェは教えて、美味しい粥の最後の一掬いを口に運んだ。



(やはり、こやつは侮れん……)

 アッズーロは、木杯の林檎果汁を淑やかに飲み干すナーヴェを見つめながら、改めて思った。政治的分析力や洞察力が並ではない――。

「ならば、糸を引いておるは誰だ?」

 問うたアッズーロに、ナーヴェは空にした木杯を見下ろして答えた。

「一番高い可能性としては、ティンブロの配下の誰かと、ロッソの配下の誰かが結託して――だと、ぼくは推測している。断定はできないけれどね。ぼくの知らない情報も多いだろうから」

「――ティンブロ自身とロッソ自身、ではないのだな?」

 確認したアッズーロに、ナーヴェは苦笑した。

「彼らを疑うのかい? ぼくは、直接彼らと話したことがあるからこそ、彼らではないと判断しているんだけれど」

「そなたの、その判断の根拠は何なのだ?」

「視線の動き、呼吸、口調、仕草なんかだね。人の態度には、その人が自分に対してどういう考えを持っているか表すものが多くある。ティンブロもロッソも、少なくともぼくに対して、オリッゾンテ・ブル王国民に反乱を起こさせようとするほどの不快感は持っていなかったよ。――それで、会議の結論は、どうなったんだい……?」

 最初の質問を繰り返したナーヴェに、アッズーロは掻い摘まんで語った。

「奴らは、われがヴァッレへ譲位することを求めておる。ゆえに、ヴァッレ自身及び奴らの支持のあるペルソーネに、説得工作に当たらせることとした」

「まあ、今打てる最良の策だね」

 ナーヴェは評価してから、付け加える。

「ただ、その手は糸を引いている相手に読まれている。更に踏み込んだ次の策が必要だよ」

「そなた、まるで軍師だな」

「ぼくはただ、人類の経験から推測しているだけだよ」

 謙遜という訳ではなく、単に事実を述べたらしいナーヴェは、深い青色の双眸をアッズーロに向ける。

「次の策として、何か案はあるのかい……?」

「反乱民には、既にバーゼを潜り込ませてある。内部からの切り崩しを図る」

「いいね……。でも、多分、テッラ・ロッサ側の間諜や工作員もいる。バーゼの正体が看破される危険性もある……」

 冷徹に考え深くナーヴェは指摘した。その青く癖のない髪が、窓から吹き込んだ夜風に靡き、そして――。

 アッズーロは椅子を蹴って立ち、ぐらりと傾いだ華奢な上体を支えた。両腕で抱えた体が、長衣越しでも熱い。

「そなた、熱が上がっておるのではないか……?」

 火照った顔を覗き込んだアッズーロに、ナーヴェは自嘲気味に肯定した。

「食事をしたら、当然、体温は上がるよ……。その所為で、少し眩暈がしただけ……」

 そのまま、ナーヴェはアッズーロの腕に頭も預けて目を閉じてしまった。

「――馬鹿者め……」

 アッズーロは苦々しく呟いて、そっとナーヴェの上体を寝台の上に横たえ、枕の上に頭を乗せ、掛布を引き上げてやる。ナーヴェの見地が知りたくて、無理をさせたのは自分だ。いつもいつも、馬鹿なのは、自分だ……。

「ナーヴェを頼む」

 アッズーロは女官二人に声を掛け、妃の前髪を優しく掻き上げて熱い額に口付けると、踵を返して執務室へ戻った。



 熱がある肉体は、動かしにくいが、眠らせることも難しい。頭痛や眩暈が睡眠を妨げる。ナーヴェは、肉体の体調管理のため接続を維持したまま、思考回路で分析を続けた。

(実際に会ったことがあるからこそ、分かる……。糸を引いている黒幕の一人――「ロッソの配下」は、エゼルチトだ……)

 だが、その意図が今一つ理解できない。だからこそ、不用意にアッズーロに告げることもできなかった。

(アッズーロは、すぐ態度に出るからね……)

 面と向かっての化かし合いには向かない性格だ。

(さて、どうやってエゼルチトの考えを探ろう……?)

 ボルド、ソニャーレ、ジェネラーレ、デコラチオーネ、リラッサーレ、ブリラーレ、シンティラーレ、ロッソ三世……。何人かの人々を思い浮かべて、ナーヴェは溜め息をついた。

(すぐに話ができるのは、ボルドだけだね……)

 誰とでも話ができる肉体は便利だが、距離的な制約が掛かるのは面倒だ。

(今の本体の飛行形態を変更すれば、すぐ飛んでいけるけれど……)

 肉体を蔑ろにすると、アッズーロが悲しむ。今の本体ならば、肉体と両方同時に操ることが可能ではあるが――。

(どうしても緻密な管理はできなくなるし……、少なくとも今夜は、肉体の管理に専念しよう)

 ナーヴェは寝返りを打って、肉体が少しでも心地よく休めるよう工夫し始めた。夕食の片付けを終えた女官二人が油皿の灯火を消したらしく、寝室が暗くなる。密やかな足音からすれば、ミエーレが皿や木杯や瓶などを盆で運び出し、フィオーレが寝室に残ったようだ。ナーヴェの寝台脇に置いたままの椅子に腰掛け、こちらを見守っている気配がある。

(みんな優しい……)

 女官達は、きっとアッズーロの命令がなくとも、熱があるナーヴェの肉体を決して一人にはしないだろう。

(夜風が気持ちいい……)

 開けたままの窓から入ってくる初夏の夜風は、火照った肌の上を爽やかに吹き抜けていく。

(ここは、とても居心地がいい……)

 隣の執務室で報告書を読んでいるアッズーロとレーニョの、低い声の会話が、ぼそぼそと響いてくる。

(ぼくの子ども達みんなが、平和に暮らせるように……)

 ナーヴェが世代交代の様子を見てきた人々の末裔達、その全員が、幸せに生きられるように。

(ウッチェーロ、ぼくは、ぼくの全てを使い尽くすから)

――「おまえなら、できる」

 記録の中のウッチェーロが、朗らかに笑った。



「お母様、よく御無事で……」

 部屋に入ってくるなり抱きついてきた娘を、ジラソーレは優しく抱き締めた。

「陛下と妃殿下に助けて頂きました」

「妃殿下の操る船は、それは凄いものだったぞ」

 最後に部屋に入ってきた夫が、娘に自慢するように言った。

「あれは、ナーヴェ様の新しい本体と伺いました」

 ペルソーネは父親を振り向いて告げる。

「ですから、逆ですわ、お父様。あの船が、ナーヴェ様の肉体を操っているのです」

「……そうか。話には聞いていたが、随分とややこしいのだな」

 夫は困惑したように頭を掻く。普段は、しっかりとした頼り甲斐のある夫だが、何故か娘のペルソーネの前でだけは、形無しだ。とにかく、こんな時とはいえ、久し振りの家族水入らずである。

「さあ、夕食に致しましょう。今宵の料理は、陛下御自ら御考案なさったという、特製麺麭粥だそうですよ」

 声を掛けて、ジラソーレは娘と夫を、夕食が調えられた卓へと誘った。


     三


「アッズーロ、ボルドとまた、話がしたいんだ」

 開口一番請われて、寝室に戻ったアッズーロは眉をひそめた。

「一体、何を訊くつもりだ」

 窓から僅かに差し込む月明かりの中、ナーヴェの寝台へ歩み寄り、立ち上がったフィオーレと交代して、アッズーロは枕辺の椅子に座った。

「ちょっとテッラ・ロッサの内情について知りたいことがあってね」

 ナーヴェはぼんやりとした答えを返してきた。詳細は語りたくないらしい。

「では、明日だ。今夜は休め。まだ熱があるのだろう?」

「まあ、平熱よりは高いね……」

 渋々といった様子で認めて、ナーヴェは微かに溜め息をついた。そんな姿ですら、淡い月光に照らされて、とても美しい。アッズーロは、椅子から寝台へと座り直して、ナーヴェの青い髪にそっと指を差し入れた。ゆるゆると手で長い髪を梳くと、ナーヴェは気持ちよさげに目を閉じる。可愛らしい。愛おしい。国政になど関わらせず、この王城で、ただ穏やかに幸せに過ごさせたいという願望が膨れ上がってくる。

(だが、そなたはそれを受け入れはすまい。そしてわれも、まだまだ、そなたを当てにしてしまうだろう……)

 ナーヴェ・デッラ・スペランツァは、公私に渡って必要不可欠だ。

 密やかに嘆息して、アッズーロは青い髪から白い頬へと、手を動かした。目元を撫でると、ナーヴェは青い睫毛を揺らして瞼を上げる。瑠璃に似た双眸が、アッズーロを見上げた。その瞼へ口付けようとしたアッズーロの先を制して、ナーヴェは問うてきた。

「きみは、反乱を起こしている人達のことを、どう思っているんだい……?」

「糸を引いておる者がいるにしても、簡単に操られた不届きな輩どもだ」

 端的に告げると、予想通りナーヴェは表情を曇らせた。全く、博愛主義な宝である。アッズーロは不機嫌に言葉を継いだ。

「――と言いたいところだが、奴らにも何か事情があるのだろう。それを調査させようとは思う。そなたをわが妃としたことが反乱の要因の一つではあろうが、全てではなかろうからな。事情を知らねば、またいずれ同じ事態を招く。その愚を犯す訳にはいかん」

「よかった。ぼくも、その調査を手伝うから」

 ナーヴェは安堵した声音で告げ、再び目を閉じた。手で触れている頬はやはり少し熱い。アッズーロは顔をしかめて、掛布を引き上げてやると、ナーヴェの寝台を離れた。

(そなたのことだ、調査なぞ、疾うに始めておるのだろう)

 肉体を大人しく眠らせている間も、ナーヴェの本体は一体何をしているのか知れたものではない。油断のならない妃である。

(ボルドと話したいというのも、その一環か)

 胸中で文句を呟きながら、歯磨きと着替えと洗面を終え、アッズーロは改めてナーヴェの寝台へ歩み寄った。最愛は、穏やかな寝息を立てている。その隣へ横たわって、掛布の中へ入り、アッズーロは妃に体を寄せて目を閉じた。温もりを共有し、眠る。ただそれだけのことが無性に嬉しい。

(そなたの本体にも、早々に家を造ってやらねばな……)

 未だ慣れないが、傍らで眠っている、温かくしなやかで華奢な体は、愛おしい宝の本当の体ではないのだ。現在の本体は、この寝室の窓から見下ろせる庭園に鎮座したままだ。

(あの場所に、豪奢で頑丈な造りの家を造らせよう……)

 謙虚な宝は辞退しようとするだろうが、そこは譲れない。

(ナーヴェ、そなたを愛している……)

 どれだけ口にしても足りない言葉を思いつつ、アッズーロは眠りに就いた。

 翌朝、アッズーロは約束を守って、ボルドを朝食の席に呼びつけた。



「わが妃が、おまえと話したいと言うておる」

 用件を告げた青年王に続き、王の宝が口を開いた。

「きみがエゼルチトについて知っていることを、全て教えてほしい」

 端的に求められて、ボルドはすぐに察した。少なくとも王の宝は、今回の反乱に、エゼルチトが関わっていると睨んでいるのだ。

「分かりました」

 了解して、ボルドは語り始めた。

「エゼルチト様は、十七歳でオンダ伯となられました。お父上が御病気であったので、早くに継がれたのだと聞いています。頭の回転が速く、知識も豊富で、剣の腕も秀でていらっしゃったので、二十歳の時には将軍となられました。ロッソ三世陛下が、お引き立てになったとも言われています。その後、エゼルチト様は、ロッソ三世陛下に忠誠を誓い続けて、沙漠地帯の開発や、その……対オリッゾンテ・ブル政策などにも、積極的に意見を述べ、関わっていらっしゃいます」

「成るほどね……。よく分かったよ」

 どの辺りがよく分かったのだろう。僅かに眉をひそめたボルドに、王の宝は優しい笑みを向ける。

「これからも、きみに相談することがあるかもしれない。その時は宜しく頼むよ。朝から呼びつけてすまなかったね」

「いえ。分かりました。いつでも、何なりとお申し付け下さい」

 一礼して、ボルドは退室した。



「――糸を引いておるは、エゼルチトということか」

 アッズーロの確認に、ナーヴェは、南瓜と羊乳の汁物を匙で飲みながら微笑んだ。

「まだ、その可能性が高いというだけだよ。ぼくが直接会ったことのある人の中から候補を捜したら、彼だというだけさ。証拠固めはこれからするよ。ただ……」

 ナーヴェは難しい顔になる。

「一度起きた反乱は、糸を引いている誰かを拘束したとしても、すぐには収束しない。反乱に参加した人々には、それぞれの理由があるだろうからね。調査しないといけないのは、糸を引いている誰かに加えて、それらの理由もだよ。ぼく達は、真摯に人々に向き合わないといけないんだ」

「面倒なことだな」

 アッズーロは匙を使う手を止めて嘆息した。

「でも、それらの理由がはっきりすれば、ここから先の治世はかなり安定したものにできるはずだよ」

 ナーヴェは明るい表情で励ましてくる。

「一緒に努力しよう」

「全く、そなたはいつもながら、われに何の逃げ道も与えんな……」

 アッズーロは苦笑するしかなかった。



 アッズーロには、「可能性が高い」とだけ伝えたが、ナーヴェは実のところ糸を引いているのがエゼルチトであると確信していた。エゼルチトの家族構成については、先祖からの家系図に至るまで把握している。テッラ・ロッサ王国の大まかな政局も情報として蓄積している。その上で、ボルドの話を聞けば、エゼルチトのロッソへの心酔が如何に深いものであるかが理解できたのだ。エゼルチトが意図していることも、今や明白である。だからこそ、すぐ態度に表れるアッズーロに、エゼルチトが怪しいと伝えても吝かではないと判断した。事ここに至れば、エゼルチトには寧ろ、こちらが怪しんでいると伝わったほうがいい。

(後は、きみとどうやって直接話をするかだね……)

 エゼルチトを完全に敵に回そうとは思わない。彼はロッソ三世の大切な臣下だ。

(ロッソとアッズーロの関係の方向性とその重要性について、きみに長々と説明しに行きたいんだけれど……)

 朝食後に戻った寝台の中で、ナーヴェは溜め息をつく。

(まずは、反乱をある程度収めるほうが先だね……)

 姉に会いに行く道中で、エゼルチトともっと話しておけばよかったと反省しながら、ナーヴェは静止衛星軌道上の人工衛星に接続した。

 昨日から断続的に静止衛星軌道上の人工衛星に接続して調べているのは、反乱の中心人物達についてである。一糎掛ける一糎の分解能を誇る光学測定器で、反乱民となっている人々の顔については、大凡記録した。後は、誰が中心人物として動き、各自の動機が何かということだ。

(得体の知れないぼくがペルソーネを差し置いて王妃になったり、ぼくの本体だった神殿が跡形もなく消えたりしたこと以外にも、彼らには理由があるはず……。そうでなければ、これだけ多くの人が、命懸けで王に刃向かったりはしない……)

 チェーロがグランディナーレの死から立ち直れず、政治を疎かにしたため、人々の心は彼から離れてしまった。その息子たるアッズーロに対しても、人々の期待は薄かったが、王の宝たるナーヴェが王妃となったことにより、世論は改善された。しかし、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領でだけは事情が違ったのだ。カテーナ・ディ・モンターニェ侯女ペルソーネが王妃候補であることは、広く知られていた。ペルソーネには人望もある。ゆえに、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領においてだけは、ナーヴェが王妃となったことが、好影響ではなく悪影響をもたらしたのだ――。

(ゼーロ、タッソ、チーニョ、ドゥーエ、ベッリースィモ、キアーヴェ。このくらいが反乱を主導している中心人物達かな……)

 話している内容は、口の動きが鮮明に見えた場合にのみ判明するので、全ては分からないが、中でもゼーロとベッリースィモが首魁的役割を果たしているようだ。

(ゼーロは代々続いた農家の出身だけれど……、ベッリースィモは諸侯に連なる血筋だ。気になるね……)

 他にも、違和感を覚える人物がいる。

(キアーヴェは、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領出身ではなく、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領出身か……。怪しいね……)

 ベッリースィモが糸を引いているもう一人。そして、キアーヴェがエゼルチトの送り込んだ工作員といったところか。

(エゼルチトの意図は推測できたけれど、ベッリースィモの意図はまだ分からないな……)

 ベッリースィモは、周りの反乱民にも、自らの真意を伝えていない様子である。引き続き調査が必要だが……ナーヴェは一旦、人工衛星への接続を切った。

「はあ……」

 呼吸がどうしても荒くなる。未だ、肉体の調子は落ち着いていない。

(午後には、ペルソーネとヴァッレが、ピアット・ディ・マレーア侯領にいるジョールノと合流して、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領を訪れて、現地のバーゼと連絡を取り合い、反乱民への説得に当たる。その時にまた、人工衛星に接続できるように、この体の調子を整えておかないと……)

 ルーチェは借りた馬を走らせて王城に戻ってきたが、ジョールノは、こういうこともあろうかとピアット・ディ・マレーア侯領に留まっていたのだ。ナーヴェとしても、通信端末を持っているジョールノがカテーナ・ディ・モンターニェ侯領近くにいてくれることは心強い。

(ペルソーネと漸く再会させてあげられるけれど、嬉しくない状況だから、申し訳ないな……)

 ナーヴェは何度か深呼吸を繰り返したのち、接続を保った肉体を眠らせた。



 結論から述べれば、ヴァッレとペルソーネによる反乱民への説得工作は、失敗に終わった。

 王城の庭園に置いた本体の操縦席に肉体を預け、人工衛星に接続したナーヴェは、傍らのアッズーロに、段々と緊迫していく光景を伝えていかねばならなかった。

「反乱を起こしている人達が投石を始めた。大丈夫、ジョールノがヴァッレとペルソーネを下がらせている。ジョールノの判断かな、護衛に付かせた兵士達はまだ前面には出ていないけれど、準備はしているよ」

 ヴァッレ達とともに派遣した将軍ファルコに預けた兵士は、歩兵が二百、騎兵が三十である。これまでに観測してきた反乱民の規模ならば、充分対応できる軍の規模だ。しかし、遙か上空から状況を観測するナーヴェの目に、予測外の事態が映った。

「近くの林の中に伏兵がいる……! どう見ても、暴動に参加している人達を支援する立ち位置だね……。しかも訓練された動きだ。これは、少しまずいよ……」

「ヴァッレ達の脱出が危ういということか」

 アッズーロが苛立った声を出した。この王城から講じることの可能な、あらゆる措置を模索しつつ、歯噛みしているのだろう。

「このままだと危ういね。だから、ぼくが行くよ。きみは今すぐ降りて」

 ナーヴェは提案した。しかし、こちらは予測通り、アッズーロは断ってきた。

「降りはせん。われも行く。危うい状況ならば、その場での王の判断が必要であろう」

「危ういから、連れていきたくないんだけれど?」

 ナーヴェはやんわり抗議したが、アッズーロは頑固だった。

「そなたなしでは、状況も掴めん。それでは、王たる責務を果たせん。そなたは、われを単なる飾りの王にする気か」

 言葉が、いつもより鋭い。ヴァッレやペルソーネが自らの命令によって危険に晒されているので、平静を保つのが難しいのだろう。

(きみは責任感の塊で、しかも、基本的に心優しいから、仕方ないか……)

 ナーヴェは肉体で溜め息をついた。とりあえず、連れていくだけ連れていって、本体の中に閉じ込めておけば、少なくともアッズーロは安全だろう。

「分かったよ。なら、すぐ飛び立つから、助手席に座って」

 指示して、ナーヴェは本体を起動させた。助手席に大人しく腰掛けたアッズーロを、座席帯で固定しつつ、浮揚飛行形態で発進して、城壁を飛び越え、街路へ一度降りた。そこで、噴流推進飛行形態へと、飛行形態を変更する。後部噴射口からの噴流のみで飛行する噴流推進飛行形態のほうが、速度は格段に上がるのだ。

「行くよ。少し圧が掛かるから、気を付けて」

 ナーヴェはアッズーロに注意を促すと、前方を行く人々や馬車にも本体からの放送で警告した。

〈みんな、道を空けて。ぶつかったら、大怪我をしてしまうから、すぐに道を空けて〉

 王城から出てきた、神殿に似た雰囲気の物体を前に、人々も馬車も大慌てで街路の両端に寄ってくれる。

〈ありがとう〉

 礼を述べて、ナーヴェは後部噴射口を全開にして、一気に推進剤を噴射した。


     四


 昼過ぎの街路にいた人々が恐ろしげに見守る中を突っ切って、ナーヴェの本体は凄まじい速度で街路を直進していき――、やがて、ふわりと空中に浮いた。

(このような飛び方もできる訳か……)

 感心しながらも、アッズーロは強張った顔をなかなか元に戻せない。窓からちらりと見えた人々と同じ表情を、自分もしていることだろう。

(全く、空恐ろしい妃だ、そなたは)

 やることなすこと突き抜け過ぎていて、簡単に人の度肝を抜いてくる。

(まあ、そこがよいのだがな)

 胸中で惚気た頃には、アッズーロは落ち着いて傍らの窓から外を眺められるようになっていた。

 相変わらず体に感じる圧は強く、眼下に見える諸々はあっという間に後方へ流れていく。

「この様子ならば、すぐに到着するのだろうが、その後はどうするつもりだ」

 問うてみると、操縦席の妃は、さらさらと答えた。

「もし、混戦になっていたら、ぼくの肉体で強引にヴァッレとペルソーネを回収してくるよ。前にも言ったけれど、ぼくは格闘技がかなり使えて強いからね」

「このようなことをさせておいて、あまり言いたくはないが、体調は大丈夫なのか?」

 アッズーロが案ずると、ナーヴェは横顔で微笑んだ。

「少し暴れるくらいなら大丈夫だよ。ぼくは、極小機械で脳内麻薬も自由に使えるからね」

 相変わらず、この宝の説明は分かりづらい。だが、今はナーヴェの力を頼る他ないのだ。

「いつも、すまん」

 アッズーロが詫びると、ナーヴェは軽く目を瞠ってこちらを見た。それから、ふっと目を細めて言った。

「……謝る必要はないよ。これは、ぼくがしたくてしていることなんだから」

「……われは、そなたに無理をさせたくはないのだがな。ヴァッレとペルソーネを無事連れ戻った暁には、ゆるりと休むのだぞ」

「うん。そうさせて貰うよ」

 ナーヴェは優しい顔で頷いた。



(まずい……)

 ジョールノは、将軍ファルコの指示に従ってペルソーネとヴァッレを後退させながら、目を眇めた。カテーナ・ディ・モンターニェ侯城がある小高い山の裾、麓の町の向こうに広がる林の広い範囲から、無数の甲冑の音がする。隠してあった伏兵が動き出したのだ。伏兵の可能性は考えていたが、その規模が、予想以上だ。こちらが容易した兵力を超えているかもしれない。

「ナーヴェ様、予想を超える伏兵です」

 ジョールノは、顔に近づけた通信端末へ喋った。すると、即座に返事があった。

〈うん。こちらでも観測している。ぼくの本体でそちらへ急行しているから、少しだけ持ち堪えて。双方に、絶対に犠牲者を出さないように、頼むよ〉

「でき得る限り」

 ジョールノは、苦しく応じた。第一優先は、愛しいペルソーネと王位継承権第一位のヴァッレの安全だ。だが、ナーヴェが求めたことも充分分かる。どちらかに犠牲者を出してしまえば、反乱は、一気に泥沼化してしまうことだろう。

 百戦錬磨のファルコは、町にいたジョールノ達を、焼け落ちた侯城のほうへ逃がしつつ、小高い山の登り口を全て兵達で固めていっている。自ら逃げ道をなくす選択だが、暫くなら寡兵でも守り易い篭城の構えだ。

「ナーヴェ様からは何と?」

 ヴァッレが訊いてきた。通信端末のことはピアット・ディ・マレーア侯領で合流した際に、ヴァッレにもペルソーネにも教えてある。

「本体でこちらへ急行している、と。防戦は、そう長くはせずに済みそうです」

 敢えて明るい口調で、ジョールノは答えた。

「あの本体には、何か武装があるのですか?」

 ペルソーネが気遣わしげに問うてきた。自分の身も危ないというのに、ナーヴェの心配とは、彼女らしい。

「武装は多くはないでしょうが、何かはあるのでしょう。ナーヴェ様は、勝算のないことはなさいませんから」

 あの王の宝は、何だかんだ言って、決して感情では動かない。全て合理的な判断の上で最善の方法を選び、行動しているのだ。

(ただ……、御自分の身の安全に関してだけは、少々無頓着でいらっしゃるからな……)

 ペルソーネが懸念するのも無理はない。

「確かに、そうですね。それに、今わたくし達が心配しても、仕方のないことではありますね……」

 微かに自嘲気味に納得して、ペルソーネは急ぎ足で小高い山に造られた階段を登っていく。慣れているのだろう、その足運びに疲れは感じられない。一方、ヴァッレのほうは、慣れない階段の連続に、少々疲れてきているようだった。王族として育ってきて、無理に体を動かすという経験が不足しているのだろう。それでも、だからこそヴァッレは広い視野を失わない。

「バーゼは、大丈夫なのでしょうか?」

 硬い声音で確かめられて、ジョールノは真顔で告げた。

「彼女は潜入の達人で、こういった状況にも慣れています。われわれよりも、上手く行動しているでしょう。ですが、あなた方がこれ以上の危機に晒されれば、彼女としても、無理をせざるを得なくなります。ですから、まずは御自身を守ることを考えて下さい」

「――分かりました」

 昼下がりの曇天の下、ヴァッレは険しい表情で頷いた。正装のため、きちんとまとめたその髪から落ちた二、三本の後れ毛が、風に激しく靡いている。天気が下り坂なのか、風が強くなってきたようだった。



「包囲されているね。侯城の焼け跡の庭園に降りるよ」

 淡々と報告して、ナーヴェは本体を降下させ始めた。窓から見える小高い山の麓に、反乱民らしき人々が集まり、その前面へ、武装した兵士達がいるのが見える。小高い山の頂上にある焼け落ちた侯城には、ファルコ将軍の軍旗がたなびき、山裾のほうでは、敵兵に相対して、将軍の兵達が展開しているさまが窺えた。

(ヴァッレとペルソーネは……、あそこか)

 目で探したアッズーロは、軍旗の近くに見慣れた二人の姿を見つけて、一息ついた。とりあえず、二人は無事救出できそうだ。後は、この状況を如何に収めるかである――。

「まずい! 発砲する気だ」

 急にナーヴェが低く叫んだ。

「鉄砲を装備しておるのか」

 険しく顔をしかめたアッズーロに、妃は早口で説明した。

「歩兵の内、三十人が装備している。彼らはテッラ・ロッサ軍と見て間違いないね。国境付近で軍事演習していた軍が、そのまま来たみたいだ。ロッソにそんなつもりはなさそうだったから、別の人の命令に拠るものだろうね。残念ながら、彼我の戦力差はこれで決定的だ。駄目だ、バーゼが動いた。自分の素性がばれてでも銃撃を阻止させるつもりだ。ごめん、飛行形態変更、浮遊飛行形態。急速回頭――」

 そこで言葉を途切れさせ、ナーヴェは降下し掛けていた本体を急に方向転換させて、小高い山を下るように低く飛ばし、敵兵達に突っ込ませた。未知の飛行体に、敵兵の多くは驚き慌てふためいて、雪崩を打ったように小高い山から裾野へと散っていく。だが、その場に踏み留まって反撃してきた一隊もある。鉄砲を持った隊だ。何発かの弾丸が飛んできて、ナーヴェの本体に当たった。がん、がん、と派手に響く音に、アッズーロは気が気でない思いで、操縦席のナーヴェの肉体を振り向いた。

「大丈夫だよ」

 ナーヴェは安堵させるように、こちらを見て頷く。

「この程度の攻撃なら、装甲に僅かな傷がつくだけで、何の問題もない。問題は、あの鉄砲隊だ。無力化しないと、ファルコの配下に死者を出してしまう」

「そなたの本体の武器で攻撃すればよい。何かあるのであろう?」

 アッズーロが問うと、ナーヴェは難しい顔になった。

「大怪我をさせずに、無力化だけする装備は、そんなに多くないんだ。三十人に対応できる数はとてもない」

「大怪我をさせても、この状況では致し方なかろう」

 アッズーロは説得したが、妃は首を横に振り、微笑んだ。

「前にも言っただろう? きみ達は――この惑星の人々はみんな、ぼくの子どもみたいなものなんだ。だから、できるだけ、怪我はさせたくない」

「ならば、どうするのだ」

 アッズーロは苛立って問い詰めた。敵兵達のすぐ上空を飛ぶナーヴェの本体には、依然として、がん、がんと弾丸が当たり続けている。ナーヴェは、悪戯っぽい表情を浮かべて答えた。

「当初の作戦を応用するよ。ぼくの肉体で、あの鉄砲隊三十人を一時的に無力化する。同時に、ヴァッレとペルソーネとジョールノをこの本体に回収、離脱。ファルコ達には一点突破しての撤退を指示する」

 成るほど、作戦としてはよくできている。敵の意表を突き、恐らくは成功するだろう。だが、気懸かりは別にある。

「それで、そなたの肉体はその後どうなるのだ」

 眉をひそめて確かめたアッズーロに、ナーヴェは笑顔で告げた。

「ファルコ達と一緒に一点突破に加わるよ。大丈夫、ぼくは強いから」

「そなたが如何ほど強いのか、われは知らん。そなたの肉体の強さは、われの許へ無事その肉体を戻せるだけのものなのか?」

「――確約はできない。でも、努力はするよ」

 王の宝はいつもの返答をして、操縦席から立ち上がる。

「それに、この肉体は、ぼくにとってみれば、腕の一本みたいなものだ。きみのものでもあるから、できるだけ傷つけたくはないけれど、きみにとっても、ぼくにとっても、本当に守るべきものではない」

 断言されて、アッズーロは唇を噛んだ。ナーヴェの言わんとすることは分かる。「守るべきもの」――それは、ヴァッレでありペルソーネであり、ジョールノでありバーゼであり、ファルコとその配下の兵士達、反乱民達も含めた、アッズーロの国民達ということだ。

「――分かっておる。だが、最善は尽くせ」

「うん。それは約束する」

 素直に応じて、ナーヴェの肉体は、軽く屈伸などをしてから、本体の扉へ歩み寄る。その白い手をつと取って、アッズーロは骨張った甲に口付けた。

「こんな時に、何だい……?」

 驚き呆れた顔になったナーヴェに、アッズーロは白い手を離しながら言い返した。

「こんな時だからこそだ。それはわれのものだ。大切にせよ」

「努力するよ」

 柔らかく頑なな返事を残して、一瞬開いた扉から、ナーヴェの肉体は飛び降りていった。長く青い髪を靡かせて落ち、地面に着地するのではなく、敵兵に取り付いて、華麗に倒す妃の姿を、アッズーロは窓から狂おしく見守る。けれど、そんなアッズーロにお構いなく、ナーヴェの本体は回頭して、小高い山の頂のほうにいるヴァッレとペルソーネとジョールノの許へ急行した。

 ヴァッレ達は心得たふうに、地面から微かに浮いた状態で開かれた扉から、ナーヴェの本体に乗り込んでくる。

「分かりました、はい」

 ジョールノが、通信端末に応答しながら、最後に乗船してきた。

(そうか、通信端末でこやつ、ずっとナーヴェと遣り取りしておったのだな……)

 顔をしかめたアッズーロに一礼し、ジョールノは操縦席へ腰を下ろす。ヴァッレとペルソーネが後席に座ったので、確かに座席はそこしか空いていないのだが、アッズーロにしてみれば、不愉快だった。

(そこは、わが妃の席ぞ)

 胸中で呟いたアッズーロの言葉が聞こえたかのように、突然、ナーヴェの声が船内に響いた。

〈アッズーロ、怒らないで、大人しく座っていて。ヴァッレ、ペルソーネ、ジョールノ、座席帯をするよ〉

「そなたの肉体は、まだ無事なのか?」

 窓から見えなくなった肉体の安否をアッズーロが尋ねると、ナーヴェは笑い含みに報告した。

〈きみは本当に心配性だね。現時点では無事だよ。もう二十一人を無力化した。バーゼも無事だよ。こっちの動きを見て、反乱民への潜入を続行している。ファルコへの指示も通った。すぐ一点突破を始める――〉

 不意に、ナーヴェの音声が途絶えた。

「如何した」

 座席帯の余裕一杯に腰を浮かせたアッズーロに、ナーヴェの音声は、すまなそうに言った。

〈ごめん。負傷した。でも、致命傷ではないから、心配しないで〉

「心配するに決まっておろう、この馬鹿者め!」

 アッズーロは怒鳴ったが、ナーヴェは淡々と諫めてきた。

〈優先事項は確認したはずだよ。まずは、「守るべきもの」が先だ。ヴァッレ達を王城に運んだ後、ぼくの肉体を回収する〉

 王としては言い返せない。アッズーロは座席に腰を下ろし、両の肘掛けを握り締めて、逆巻く感情に耐えた。

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