第13話 たった一人の人

     一


  愛する人にあげるよ、絶対に芯のない林檎を。

  愛する人にあげるよ、絶対に扉のない家を。

  愛する人にあげるよ、彼が入る館を。

  彼が開けるのに何の鍵も要らない。


 夕風に乗って、王の宝が歌う声が聞こえてくる。晩餐までの僅かの間、王とともに庭園を散策しているということだったが、興が乗ったのだろうか。

(あの方は、作戦云々とは関係なく、本当に歌うことが好きなのね……)

 バーゼは、与えられている部屋を掃除しながら、微笑んだ。ナーヴェの、透明で伸びやかな声は、気持ちよさそうに響き続ける。


  ぼくの頭は、絶対に芯のない林檎。

  ぼくの精神は、絶対に扉のない家。

  ぼくの心は、彼が入る館。

  彼が開けるのに何の鍵も要らない。


 聴いたことのない不思議な旋律の歌だが、何と甘い歌詞だろう。宝の傍らにいる青年王の、幸せそうな顔が想像できてしまう。

(陛下の笑顔が増えたのは、偏に、ナーヴェ様のお陰ね……)

 会談は、王の宝が巧みに誘導したお陰で、午前中には、今後の行動方針が固まっていた。昼食を取った後の会談では、詳細を詰めるだけでよかった。

(ボルドも、ソニャーレも、フェッロ様も……、皆、お咎めなしでよかった……)

 同じ諜報活動に関わる者として、どうしても彼らの処遇については気になってしまう。王の宝は、厳しい処分の方向へ会談が進まないよう、事前にアッズーロを牽制していたらしい。お陰で、バーゼ達も処分を免れた形だ。

(フェッロ様が、こちらでも伯爵だったというのは、驚きだけれど)

 あの青年の母親は、ロッソ三世の母の妹らしい。父親は、オリッゾンテ・ブル王国の鍛冶師で、爵位のない平民だったが、テッラ・ロッサ王国の王母の妹と結婚して王家の親戚となった暁に、伯爵位を賜ったと、会談の中で明かされていた。その伯爵位を、現在はフェッロが継いでいるのだそうだ。

(わたしが、もっと早くにフェッロ様の事情を掴めていれば、レーニョ殿に大怪我をさせることも、ナーヴェ様が攫われることもなかったのに……)

 フェッロの母親は、フェッロが任務を果たす間、王家に連なる者の義務として、人質となり、幽閉塔に囚われていたのだという。フェッロは、王族に連なる者として、無理矢理に工作員として働かされていたのだ。その辺りの事情を、ロッソ三世は悪びれることなく語った。

(ああされてしまうと、こちらとしても詰るくらいしかできない……)

 アッズーロが幾らか皮肉を言ったが、固まった行動方針を変えるようなものではなかった。今はテッラ・ロッサの協力が必要なのだと、誰よりアッズーロがよく分かっているのだ。

 一日を費やした会談の結論として、四つのことが決まった。即ち、互いに送り合うのは間諜や工作員ではなく、公の連絡員とすること。これまでの互いの諜報活動については、双方不問とすること。両国間の争点は会談を以て解決することとし、水路工事については協力して進めること。そして、明日、シーワン・チー・チュアンの要求に従い、アッズーロとナーヴェとムーロ、更にはロッソとジェネラーレとエゼルチトとで、赤い沙漠へ赴くこと、である。

(まさか、両国王がともに行くことになるなんて……)

 アッズーロでさえ、シーワン・チー・チュアンの許へは、自分とナーヴェと訪問団の誰かで行こうと考えていたようだ。しかし、ロッソ三世が、あの場の全員の予想を裏切って、シーワン・チー・チュアンをその目で見たいと意欲を示したのである。

(ムーロ様の胃痛が酷くなってしまわないか、心配だわ……)

 バーゼの感覚としては、ムーロより、ジョールノのほうが適任という気がするのだが、向こうがエゼルチトを同行者として選んだので、こちらからは立場の釣り合うムーロが選ばれたのだ。

「すみません、寝台の設えは、昨夜と同じで宜しいでしょうか」

 声を掛けられて、バーゼは振り向いた。ボルドが畳んだ敷布と掛布を両手に抱えて、生真面目な顔でこちらを見ている。結局、この少年は出身を明らかにした上で、オリッゾンテ・ブル王城で侍従を続けることになった。

「はい、陛下がそう仰っていましたから」

 バーゼは笑顔で頷いた。この大部屋に文句を言っていたアッズーロだが、急遽、明日、シーワン・チー・チュアンの許へ行くことになり、連泊となったことには文句を言わなかった。昨夜のようなことがあれば、やはり大部屋のほうがいいと踏んだのだろう。

(あのお二人が、いつまでも仲睦まじくいらっしゃいますように……。できれば、お姉様のことは、ナーヴェ様に知られないままで……)

 窓の外が徐々に暗くなっていく。あちこちに散っている訪問団の面々も、そろそろ部屋へ戻ってくるだろうが、ボルドが手伝ってくれたので、部屋の掃除と設えは完璧だ。

「ボルド、ありがとう」

 バーゼは、衝立の角度を細かく調整している少年侍従に、感謝の意を伝えた。



 長く深い口付けを終えて、アッズーロが口を離すと、ナーヴェは残照の中、とろんとした眼差しで、こちらを見上げた。いつもは理知的な妃の、陶酔し切った顔は、また堪らない。隣り合って座った妃の華奢な肩を抱く腕に再び力を込め、アッズーロがもう一度口付けようとした時、警護に付いているルーチェが、おずおずと言った。

「陛下、そろそろ晩餐の仕度ができた頃かと……」

 無視しようかとも思ったが、ナーヴェのほうが目を瞬いて、理知的な顔に戻ってしまったので、続けることができなくなった。

「では、行くか……」

 アッズーロは渋々、ナーヴェを支えて立ち上がった。有無を言わさず細い体を抱き上げ、庭園を、王宮の玄関へと歩く。暮れなずむ大気に、ナーヴェの長く青い髪が舞って、とても美しい。アッズーロは、ゆっくりと歩きながら、腕の中の妃に問うた。

「姉の許へ赴いた後、そなたは、無事帰ってこられるのか?」

 小惑星迎撃の際には、ジョールノに指摘されて初めて気づいた、宝の隠し事。ナーヴェ自身の安全の如何。

「――無事……は、難しいかもしれない」

 ナーヴェは、俯いて答えた。嘘をつく気はないらしい。

「何をされると、想定しているのだ」

 アッズーロが詳しい説明を求めると、ナーヴェは顔を上げて、訊き返してきた。

「それを知って、きみはどうする気だい? 姉さんの許へぼくを行かせるのを、やめるのかい?」

「そなたを失うということなら、そうする」

 アッズーロはきっぱりと宣言した。

「――死にはしないと思うよ」

 ナーヴェは、淡々と告げる。

「ただ、いろいろと、この体を調べられるとは思う。姉さんは、そのために、ぼくを呼んだんだろうから」

「『調べられる』とは、どのようなことをされるのだ」

 アッズーロが顔をしかめて追及すると、ナーヴェは微苦笑した。

「いろいろな機械を使って調べられるんだよ。口で説明するのは、ちょっと難しい」

「危険はないのか」

「うん。その辺りは、心配ないよ」

「嘘はついておらぬな?」

「……どう言ったら、信じて貰えるんだい?」

 腕の中で肩を竦めた宝に、アッズーロは鼻を鳴らした。

「それは、われにも分からん。そなたの今までの行ないが悪過ぎる」

「――そうだね。ごめん……」

 宝は、少し傷ついた顔でアッズーロの胸に頭を寄せてきた。その華奢な体を擁く腕に力を込め、足を止めて、アッズーロもまた、形のいい頭に頬を寄せる。

(できることなら、永久にこうしていたいものだが……)

 アッズーロは妃の柔らかな髪を頬に感じながら、叶わぬ願いに目を閉じ、ひと時を過ごすと、再び顔を上げて歩き始めた。



(まるで、人形だな)

 エゼルチトは、若い王に抱えられて宴の間に現れた宝の姿に、微かに目を眇めた。作り物めいた容姿だと思っていたが、事実、自然に生まれた者ではないという話だ。

(しかし、賢い人形だ)

 ロッソが「主催者」と認めただけあって、会談は終始ナーヴェの誘導で進んだ。長年に渡って人と交渉し続けてきたような、人を説得し続けてきたような巧みさだった。

(「王の宝」とは、単なる概念だと思ってきたが……、アッズーロは如何にして、今まで表に出てこなかったあれを神殿から引っ張り出したのか……)

 小惑星の迎撃に使ってしまって、今は、その神殿もないという。先ほどまでいた続きの間で、オリッゾンテ・ブルの軍務担当大臣カヴァッロ伯ムーロと雑談しながら、その辺りの事情も探ったのだが、あまりはっきりした情報は得られなかった。「王の宝」に関しては、かなりアッズーロが独断専行をしてきたらしい。

(或いは、あの宝自身の独断専行か……)

 薄く笑って、王族達に続き、エゼルチトは椅子に腰掛けた。

 席の並びは、昨晩と同じだ。アッズーロとナーヴェは隣り合って座り、ロッソや王妹の長女デコラチオーネ、次女リラッサーレと歓談している。また、どの酒を飲むかで軽く揉めているようだ。

(平和なことだ……)

 エゼルチトは、自らの木杯に侍従が注いだ葡萄酒をゆっくりと味わった。



 夜になって、ナーヴェは奇妙なことをアッズーロに要求した。

「また姉さんが来て、何かするかもしれないから、ぼくの両手両足を、寝台に括り付けておいてほしいんだ。きみは、随分と心配しているけれど、実のところ、ぼくはもうかなり元気だからね。姉さんが、いいようにこの体を使ったら、きみに危険があるかもしれない。格闘技は、まだ全然教えられていないし」

「しかし、それは……」

 躊躇したアッズーロに、ナーヴェは有無を言わさず四本の紐を差し出した。

「丈夫な紐を、ノッテに買ってきて貰ったから大丈夫」

 「大丈夫」なのはアッズーロであって、ナーヴェではない。

「そなた、それで寝られるのか……?」

 顔をしかめたアッズーロにナーヴェは明るく頷いた。

「うん。両手首を一緒にして縛ってから、頭の真上で寝台に括り付けてくれたら、ある程度の寝返りは打てるから。足は左右別々で、少し紐の長さに余裕を持たせて括って貰えると楽かな」

「どうしてもするのか?」

 念押ししたアッズーロに、ナーヴェは怪訝な顔をした。

「きみにしては歯切れが悪いね。他にも何か問題があるかな?」

「いや……」

 一瞬目を逸らしてから、アッズーロはナーヴェが渡した紐を使って、ナーヴェの指示通りに、その華奢な手足を寝台に括り付けた。

(これは――、やはり――)

 油皿の灯りの中、両手を頭上で、左右の足はそれぞれに寝台へ括り付けたナーヴェの姿は、妙な衝動を起こさせる。

(目の毒だ――)

 片手で顔を覆って溜め息をついたアッズーロに、ナーヴェが心配そうに問うてきた。

「どうしたんだい? もしかして、気分が悪いのかい? きみに接続して、極小機械で調べようか?」

 ナーヴェも鈍感な訳ではないが、こういうことに関する知識や情報は不足しているらしい。アッズーロは少し腹が立って、ナーヴェの上に屈み込んだ。口付けると、ナーヴェは軽く目を瞠ってから、それでも素直に応じてくる。まだ分からないらしい。或いは、ナーヴェにとっては何の問題もないことなのだろうか。アッズーロは、そこを確かめたくなって、口付けを終えると、次はナーヴェの耳朶を舐めた。ナーヴェが感じる、悦ぶところの一つだ。

「……っ……」

 目を閉じ、身を捩ったナーヴェは、ぎりっと、余裕のない紐の長さ一杯に両手を曳いて、漸く気づいたようだった。

「まさか、アッズーロ、このまま、しないよね……?」

 見上げてきたナーヴェの、困惑した表情が、またそそる。だがアッズーロは自制した。体を起こして寝台の上に座り直し、不機嫌に告げた。

「昼はそなたの体を気遣いながら、夜致したのでは、本末転倒ではないか。ただ……」

 アッズーロは、ナーヴェの頬にそっと触れ、撫でる。

「こういうことは、絶対に、われ以外の男には頼むなよ」

「うん。よく分かった。ありがとう」

 素直に礼を述べて微笑んだナーヴェが、可愛らし過ぎる。アッズーロは再度溜め息をついてから、ナーヴェに掛布を掛け、自らも掛布を被って、横になった。目を閉じると、つい先ほどの口付けの味が思い出される。晩餐でナーヴェに呑ませた林檎酒の味がした。

(わが王城に戻った暁には、必ずナーヴェに秘蔵の葡萄酒を飲ませよう)

 密かに決意した頃には、隣から、穏やかな寝息が聞こえている。相変わらず、ナーヴェは寝つきがいい。

(明朝の出立は早いしな……)

 アッズーロは、少し目を開けて、林檎酒の香りがするナーヴェに寄り添うと、改めて目を閉じた――。


     二


 翌朝、早めに朝食を終えたアッズーロとナーヴェとムーロは、ともに朝食を摂った訪問団の他の面々に見送られて、王宮の玄関を出た。赤い砂漠への同行を表明したロッソとジェネラーレ、エゼルチトも一緒だ。

「行ってくるよ」

 ナーヴェが見送りの人々に挨拶したのを合図に、シーワン・チー・チュアン調査団を乗せた馬車は走り出した。御者台に座っているのは、白い頭巾付き外套で全身を覆ったムーロだ。馬車の中にいるより、そちらのほうが気が休まるらしい。

「ねえ、アッズーロ」

 妙に改まった口調で話し掛けられて、アッズーロは隣に座った宝を見た。こちらを真っ直ぐに見上げた宝は、穏やかな声音で言った。

「姉さんは、狂っていても、ちゃんと優しいから。そこは、信じて」

「――分かった」

 とりあえず、アッズーロは頷いた。ナーヴェの言葉に、どれだけの根拠があるのか分からない。けれど、敢えて根拠を何も示さず「信じて」と言われれば、それは試されているも同然だった。

「そなたの姉ではなく、そなたを――そなたの言葉を信じよう」

 告げたアッズーロに微笑んで、宝はそっと凭れてきた。

「方角を間違わないよう、人工衛星に接続して、現在地を確認するよ? 定期的に何度もするけれど、約束を破った、とは言わないよね?」

「――うむ。ただ、無理は致すなよ」

 アッズーロは、そっとナーヴェの肩に腕を回して引き寄せた。

「うん」

 ナーヴェはアッズーロに凭れたまま、素直に首肯すると、目を閉じた。



 目を閉じた王の宝の体は微かに揺らいで、意識を失ったように見えた。その細い体を、アッズーロの腕がしっかりと支える。若き王は、慣れた様子だ。

「今、『人工衛星』とやらに接続しているのか」

 ロッソが問うと、アッズーロは微かに不機嫌な様子で答えた。

「うむ。肉体に負担を掛けるゆえ、あまり頻繁にはさせられんのだが、方角を間違える訳にはいかんからな。仕方あるまい」

「苦渋の決断、という訳か」

 ロッソは、つい揶揄してしまった。しかし、アッズーロは大切そうに妃を支えたまま、淡々と応じた。

「そなたには分かるまい。こやつが、何度われに『苦渋の決断』を強いてきたかが。その全てが、われとわが国のためなのだ。受け入れるしかあるまい」

 その「苦渋の決断」の一つは、紛れもなく、磔刑に処せられるナーヴェを、国境の向こうからただ見つめていた、あの自制だろう。王の宝は、「復活」することも、「奇跡」を起こすこともできるが、決して苦痛を感じない訳ではない。それは、庭園で披露された「奇跡」の後、宝の左腕を握った時に確信した。磔刑の凄まじい苦痛も、全て感じていたはずだ。戦争を回避するため、その苦痛を黙認していた若き王の苦悩は、目の前で繰り広げられる溺愛振りから、察するに余りある。

「そなたらは、強いな……」

 微笑んだロッソを、隣に座ったジェネラーレが、気遣わしげに見てきた。彼女の姉のことを思い浮かべたのだろう。

(おれには、あいつを妃としての苦難に巻き込む覚悟が持てん……)

 ロッソが自嘲したところで、王の宝が目を開いた。

「右角九・七度の修正が必要だ」

 呟いて、急に立ち上がる。

「ムーロ、ちょっと停めてくれるかな?」

 小窓の外の御者台へ声を張った。

 馬車を停めさせた王の宝は、身軽に扉から出て、御者台へと行く。アッズーロがすぐその後について行くのが、ロッソの目には微笑ましい。小窓から様子を窺うと、ナーヴェがムーロに説明しているさまが見えた。

「何か筆を持っているかな?」

 宝の求めに、ムーロが腰帯に括った鞄から筆と墨壺を取り出した。宝はその筆を使って、御者台の足置きに垂直に立てた短い棒の近くへ、印を付ける。

「この棒の影が、この印のところへ来るように見ながら、馬車を走らせていってほしいんだ。一時間経ったら、またぼくが方角を確認して、太陽の動きも計算に入れて、新しい印を付けるから」

「――分かりました」

 緊張した声で、ムーロが頷いた。責任重大な上に、ナーヴェの説明が少々難しかったのだろう。

「後は、暑いから、水分補給を欠かしたら駄目だよ」

 王の宝は気遣ってから、アッズーロを引き連れて馬車の中へ戻ってきた。

 一面、砂礫があるばかりの赤い沙漠は、日が高くなるにつれて暑さが増している。馬車の中の気温も上がり、ロッソ達は、各自、肩掛け鞄に入れて持ってきた水筒から水を飲んだ。

「ジェネラーレ、ありがとう」

 王の宝は、水筒から口を離すと、一息ついて礼を述べる。

「きみがいろいろと差配してくれたから、沙漠の旅も快適だよ」

「そのような……。勿体ないお言葉、痛み入ります」

 ジェネラーレは、ロッソの隣で座ったまま一礼した。王の宝は、そんな女将軍を見つめ、小首を傾げて尋ねてきた。

「ところで、きみは、ロッソの近衛隊長になって長いのかな? ぼくが処刑された時にも、ロッソと一緒に、あそこにいたよね?」

 責める響きは全くない、無邪気な口調だ。しかし、内容が内容だけに、アッズーロが急に険しい眼差しでジェネラーレを見た。

「そなたの磔刑は、おれの命令だ。ジェネラーレは近衛隊長として、おれの命令に忠実に従っただけだ」

 ロッソはアッズーロを牽制した。

「ああ、ごめん。別に、文句を言おうとした訳ではなくて」

 弁解して、王の宝は言葉を続ける。

「使節団の一員として行った時にも、ロッソを気遣っていたし、優秀な近衛隊長なんだろうなあ、と思って見ていたんだ」

「滅相もございません。己の非力さに、日々懊悩している始末でございます」

 ジェネラーレは、再び頭を下げて、堅苦しく応じた。その言葉は真実だろう。ジェネラーレは、謙虚に過ぎるのだ。

「そういうところが、ロッソに気に入られる所以なんだろうね」

 宝はさらりと、今日何度目かの、場を凍り付かせる発言をしてから、おもむろに水筒を肩掛け鞄に仕舞い、代わりに砂時計を出した。それもジェネラーレが用意した、一時間を測れる優れものだ。

「これも、とても助かるよ」

 にこりと笑って、王の宝は傍らの座席に砂時計を置き、一時間を測り始めた。



 砂時計の砂が落ち切ると、ナーヴェはまたアッズーロに凭れて目を閉じた。

(シーワン・チー・チュアンの許へ行くまでに、これを幾度繰り返さねばならんのか……)

 アッズーロは顔をしかめ、華奢な体を抱き寄せて支える。

(漸く体調を持ち直したところだというに……)

 ナーヴェは、馬車でも丸三日掛かると予測している。その三日の間、一時間ごとに人工衛星に接続していたのでは、幾ら回復した肉体でも、もたないのではないだろうか。そういった懸念も昨日の会談で俎上に載せたのだが、当のナーヴェ自身が、大丈夫だといつもの調子で請け負ってしまったので、深く検討されることもなく、今日の出立となったのだ。

「――左角二・一度の修正が必要」

 呟きながら、ナーヴェが目を開けた。そのまますぐ立ち上がって、またムーロへ声を掛けた。

「ムーロ、次の針路修正をするよ」

 御者台の青年は、心得てすぐに馬車を停める。馬車の扉を開いて降りていくナーヴェに続いて、アッズーロも馬車を降りた。

 外の日差しは、きつい。アッズーロは纏っていた白い外套の頭巾を被った。ナーヴェは、既に白い頭巾を被って、ムーロから筆を借り、新しい印を付けながら話している。

「御者を、そろそろ代わって貰ったほうがいいよ。水分をしっかり摂って、休んだほうがいい」

「ならば、エゼルチトに代わらせるがよい」

 アッズーロは、屈んだ二人の頭の上から言った。

「ええ、いいですよ」

 小窓から、本人が承諾したので、ムーロは複雑そうな顔で御者台から下りた。

「ありがとう、エゼルチト」

 ナーヴェは、馬車から出てきた年若い将軍を迎えて、棒と印を示す。

「この棒の影が、この新しい印のところへ常に来るように、馬車を走らせてほしいんだ」

「分かりました。お安い御用です」

 エゼルチトは外套の頭巾を被りながら微笑むと、身軽に御者台へ上がった。

 ナーヴェ達が馬車の中へ戻るのを待って、エゼルチトが手綱を操り、二頭の馬に合図を送る。馬車は、地平線まで続く赤い沙漠を、再び進み始めた。

 ナーヴェの提案で、一番気温が上がる午後の三時間に、天幕を張って休憩した後、更に赤い沙漠を進んで、調査団は最初の夜を迎えた。けれどもすぐには休まず、北極星を頼りに三時間進み続けてから、馬車を停めて、一行は各々天幕を張り、夜営をした。天幕は三つ。アッズーロとナーヴェ、ロッソとジェネラーレ、ムーロとエゼルチトという組み合わせだ。

「本当は、夜中掛けて進みたいくらいなんだけれど、馬達も、ぼくも、もたないからね。明け方まで休もう」

 残念そうに言ったナーヴェは、麺麭と水だけの簡単な夕食を終えると、鞄から楊枝を取り出し、自分で歯磨きをした。

「そなた、普通に身の回りのことができるのだな」

 感心したアッズーロに、ナーヴェは肩を竦めた。

「まあ、学習能力は高いほうだと自負しているからね。全部、見様見真似だけれど」

 自分で寝仕度を終えたナーヴェは、すぐには天幕に入らず、その外に座って、甘い響きの唄を口ずさみ始めた。


  遥か彼方の地に、

  素敵な娘がいた。

  人々は彼女の天幕の前を通ると、

  皆振り返り名残惜しげに覗き込まずにはいられなかった。


  彼女の可愛い桃色の顔は、

  まるで赤い太陽のよう。

  彼女のよく動き人を惹きつける瞳は、

  まるで夜の明るい月のよう。


 中月セレニタ、小月ノスタルジーアが浮かぶ夜空を見上げて、宝は気持ちよさげに歌う。自らも寝仕度を終えたアッズーロは、無言でその隣に腰を下ろした。


  ぼくは財産を捨ててしまいたい、

  彼女と羊を飼うために、

  毎日彼女の桃色の笑顔を見て、

  その美しい金の縁取りの服を見るために。


  ぼくは一匹の子羊になりたいよ。

  彼女の傍にいて、

  彼女が手に持った細い細い革鞭で、

  ずっと優しく打っていて貰いたい。

  彼女が手に持った細い細い革鞭で、

  ずっと優しく打っていて貰いたい。


「――ならば、わが王城へ帰った暁には、鞭で打って進ぜようか」

 冗談交じりにアッズーロが囁くと、美しい声を響かせ終えたナーヴェは、月明かりの下、軽く頬を膨らませた。

「『彼女』に打っていて貰いたい、という歌だよ。男の人に打たれたりしたら、痛いばっかりだよ」

 アッズーロは、ふと気に障ることを思い出して問うた。

「『彼女』とは誰だ? よもや、パルーデではあるまいな?」

「違うよ」

 ナーヴェは、苦笑しつつ答える。

「今思い浮かべていたのは、チュアン姉さんだよ。この唄も、チュアン姉さんに教えて貰ったものだから。チュアン姉さんはね、すらりとしていて、可愛らしくて、綺麗で、優しいけれど勝気なところが、素敵なんだ」

「――そなたと似ておるのか?」

「同型船だからね。かなり似ているよ。でも、チュアン姉さんのほうが、姉さんだけあって、大人っぽいんだ」

 告げてから、ナーヴェは胡乱げにアッズーロを見る。

「――やっぱり、きみはチュアン姉さんに興味があるの?」

「たわけ」

 アッズーロは鼻を鳴らして、妃の肩を抱き寄せた。

「興味はあるが、そういう意味の興味ではない。警戒すべき相手という意味においての興味だ」

「……なら、いいけれど」

 微かに拗ねたように視線を逸らしたナーヴェの顎を捉え、自分のほうを向かせて、アッズーロは口付けた。深く求めると、ナーヴェも素直に応じてくる。別に怒った訳ではないらしい。長く口付けてから、アッズーロは妃の耳へ囁いた。

「――早く、そなたを抱きたいものだ」

 くすぐったそうに身を竦めたナーヴェは、不思議な笑みを浮かべた。

「多分、そう遠くない内に、その願いは叶うよ」



  綺麗な茉莉花、綺麗な茉莉花、

  庭中に咲いたどの花もその香りには敵わない、

  一つ摘んで飾りたいけれど、花を見る人に怒られたらどうしましょう。


  綺麗な茉莉花、綺麗な茉莉花、

  雪よりも白く咲いた茉莉花、

  一つ摘んで飾りたいけれど、他の人に笑われたらどうしましょう。


  綺麗な茉莉花、綺麗な茉莉花、

  庭中に咲いたどの花もその美しさには敵わない、

  一つ摘んで飾りたいけれど、来年芽が出なくなったらどうしましょう。


 音にならない唄を夜空へ歌い上げつつ、チュアンは思考する。

(あなたは、本官らの中のどれよりも、人から好かれた「綺麗な茉莉花」。きっと今も、周りの人々から愛されているのでしょう。邪魔だから、是非、摘んでしまいたいけれど)

 その後への影響を、充分に検証しておかねばならない。検証して、何としてでも事を進めねばならない。

(本官が、あなたにとって代われれば、全て上手く運ぶのだから――)


     三


 夜が完全に明け切る前に、ナーヴェは方角の確認を終えたらしく、ロッソが起きた時には、ムーロから筆を借りて御者台に印を付けていた。軽い朝食を済ませてそれぞれの天幕を片づけると、最初の御者はジェネラーレが買って出た。

「昨日は、ムーロ殿とエゼルチト殿ばかりに世話になってしまいましたから」

 そう言って、軽やかに御者台へ登った近衛隊長に頷き、ロッソは馬車へ乗り込んだ。一日馬車に乗り続けた体は、一晩休んでもあちこち軋んで痛むが、エゼルチトとムーロが一晩面倒を看て馬車に繋いだ二頭の馬は元気そうだ。ナーヴェとアッズーロ、ムーロとエゼルチトも馬車に乗り込んできて、ジェネラーレが馬達を走らせ始めた。

 軽快に進む馬車の中で、最初に口を開いたのは、傍らに砂時計を置いたナーヴェだった。喋ることに飢えているのかと思うほど、よく喋る宝である。しかも、和やかに当たり障りのない話をしようなどというつもりは全くないらしいところが、いっそ憎らしい。

 宝は、ムーロやジェネラーレと、沙漠の夜について言葉を交わした後、ロッソのほうを向いた。

「そう言えば、ロッソは、まだ結婚していないんだよね?」

 唐突に問われて、ロッソは眉間に皺を寄せた。

「それは、そなたに何か関係のあることか?」

 尊大に問い返すと、宝は笑顔で頷いた。

「うん。凄く興味がある。きみが、どんな人を伴侶として選ぶのか」

「少なくとも、そなたのように無遠慮な問いは発さぬ女だ」

「へえ……」

 宝は、深い青色の双眸をきらきらと輝かせる。

「もう心に決めた人がいるんだね」

「――そういう意味ではない」

 ロッソは、宝を真正面から見据えて否定した。

「ナーヴェ、それくらいにしておけ」

 横から口を挟んだのはアッズーロだ。

「繊細さとは無縁に見えるこの男にも、秘しておきたい事柄の一つや二つはあろう」

 一々喧嘩を売らなければ気が済まない性質のようである。

「そなたのように思うがまま、幼子の如く全て口にしておれば、隠し事もできまいな」

 退屈凌ぎに、ロッソは喧嘩を買った。

「羨ましいか?」

 アッズーロは腕組みして得意げである。

「わが王権は盤石。誰の顔色を窺う必要もないゆえな。隠し事なぞ無用なのだ」

「そのように語る輩ほど、己の足元が見えておらぬものだがな」

「われをそこらの凡夫と同じに考えるなぞ愚か。己の心配をこそしておくがよい。そなたの足元の脆さは、常々伝え聞いておるぞ?」

「アッズーロ、きみこそ、そのくらいにしておいたほうがいいよ」

 ナーヴェが、顔をしかめてアッズーロの袖を引く。

「ロッソとは、これからもいろいろと助け合っていく仲なんだから」

「――全く、業腹だがな」

 嘆息して、アッズーロはそっぽを向き、黙った。

「ごめん、ロッソ」

 宝が伴侶の代わりに詫びてくる。

「アッズーロは、普段は王として、もう少し思慮深いんだけれど、同じ王のきみが相手だと、何だか安心するみたいで――」

「たわけ。的外れな解説をするでない」

 アッズーロがナーヴェの首に腕を回して、些か乱暴に黙らせた。そうしてじゃれ合っているさまは、まるで少年同士のようだ。それが、ロッソの目には、少し眩しい。

(王の宝は、単なる妃に非ず、か)

 この二人は、伴侶であると同時に、友なのだろう。それも、戦友とでも言うべき、並び立つ相手なのだ。

(おれは、あいつに、そこまでのことを求めることができん……)

 ジェネラーレの姉ドルチェ。ジェネラーレとは対照的に、病弱で、華奢で、片腕で抱き上げてしまえる、いつまでも少女のような人。けれど、ジェネラーレ以上に芯が強く、頑固で、一筋縄ではいかない。だからこそ、諦め切れず、だからこそ、危うくて覚悟が持てない。

(優柔不断の極みだな……)

 やや目を伏せたロッソの視界に、急に朝日が差し込んできた。窓の外へ視線を転じれば、遮るもののない不毛の大地の彼方から、朝日が昇ってくる。改めて、広大な沙漠だということが分かる。その前人未踏の赤い沙漠のただ中を、馬車は進んでいく。ロッソとて、ここまで深く赤い沙漠に入り込んだのは初めてである――。

「――アッズーロ」

 ナーヴェが、アッズーロの腕の中から、顔を出した。頭をもたげて、ロッソと同じように窓の外を見る。

「いつか、きみと、この惑星のあちこちを旅してみたいよ……」

「そうだな」

 アッズーロも柔らかな表情になって、ナーヴェを腕に抱え込んだまま、窓の外の朝日に目を細める。

「早めにテゾーロに譲位して、ともに旅をするか」

「いいね……」

 うっとりした声で、ナーヴェが相槌を打った。



 一時間ごとにナーヴェが人工衛星に接続して針路を修正し、その都度、エゼルチトとムーロとジェネラーレが御者を交代しながら、馬車は何事もなく赤い沙漠を進んだ。昨日と同様に、昼過ぎに三時間の休憩を取り、代わりに日が暮れた後の三時間を進行に当ててから、調査団は二日目の夜営をした。三つの天幕の割り振りは昨夜と同様だ。

 今夜は、ナーヴェは歌うことなく、寝仕度を終えるとすぐに毛布を被ってしまった。軽い口付けだけ交わして、アッズーロはその寝顔を見守る。油皿の灯りで照らした端正で幼げな顔は、僅かだが、やつれたように見える。やはり、一時間ごとの人工衛星への接続が堪えているのかもしれない。

(早く、われらが王城へ戻り、そなたと平穏無事な生活を送りたいものだ……)

 形のいい頭の、青い髪をそっと撫でて、アッズーロは妃の傍らに横になり、毛布を被った。

 妙な声で目が覚めたのは、まだ暗く、辺りが静まり返っている時だった。

「……ん、……さん、……っているから……」

 ナーヴェが何か、呟いている。アッズーロは、頭をもたげて、暗がりの中、妃の顔を窺った。天幕の隙間から淡く差し込む月明かりで僅かに見える。妃は目を閉じたまま、微かに口を動かしている。

(寝言か……?)

 しかし、今までアッズーロは、ナーヴェの寝言など聞いたことがない。普段、眠っている間は、ナーヴェはただ静かで、寝息しか立てないのだ。

「……は、……わないよ……。……ッズーロは、……ないよ?」

 自分の名前が出てきたので、アッズーロは耳を聳てた。

「……よ。賭けても……。……けるのは、……さんだと……うけれど」

(「賭け」? 一体何を呟いておるのだ……?)

 アッズーロの戸惑いを他所に、ナーヴェの呟きは続く。

「……ったよ。……が、……さんの条件……だね……。いいよ。……の函を、賭けるよ」

 口元で微かに笑んで、それきりナーヴェは静かになった。しかし、アッズーロは気が気ではない。

(「函」とは、こやつの「思考回路」とやらが入っている「函」か……? それを、「賭ける」だと……? こやつが呟いていた――話していた相手は、シーワン・チー・チュアンか……?)

 ナーヴェを起こして問い詰めようかとも思ったが、アッズーロは思い止まった。

(こやつは、もう嘘をつける……。本気で隠したいことは、恐らく、決して明かさんだろう……)

 ナーヴェ自身が、「死にはしないと思う」と口にした以上、言を翻すことはしないはずだ。

(こやつは、頑固だからな……)

 愛らしい寝顔の頬にそっと触れてから、アッズーロは、妃の傍らへ再び横になった。

(そなたの姉の企てを、そなたの予測通り、われが超えて見せよう)

 ナーヴェが、アッズーロの名を出し、最後に微笑んだのは、きっとそういう意味なのだから。



 三日目も順調に旅程をこなした一行の前に、その威容が現われたのは、日が沈んで暫く経った頃だった。

 月明かりを受けて聳え立つ建物に、ロッソもジェネラーレもエゼルチトも、目を瞠っている。だが、それはアッズーロとムーロにとっては、見慣れたものだった。

「ナーヴェ様の本体――神殿と、そっくりですね……」

 ムーロが乾いた声で呟いた。

「同型船だからね。さあ、中に入ろうか」

 ナーヴェが微笑んで促し、真っ先に馬車から降りると、沙漠に直立した宇宙船へ向かって歩き始めた。アッズーロ達は、その後へ続いた。ナーヴェの本体に付けてあったような階段がないので、どうするのかとアッズーロが見ていると、扉が開いて白い明かりが辺りを照らし、そこから平たく大きな皿のようなものが降ってきた。地面に激突するかと思いきや、目の前の沙漠に浮いた、その大きな皿状のものに、ナーヴェはひょいと乗った。

「みんな、乗って」

 青い髪を揺らして振り向き、ナーヴェが呼ぶ。

「底面の四つの回転翼と周縁の八つの噴射口で、空気を放出して浮く乗り物だよ。これが、入り口まで連れていってくれる」

「こやつのこういう説明の半分は理解不能だが、とりあえず従っておけ。間違ったことは言わん」

 アッズーロは、他の面々に声を掛けて、巨大な皿に上がり、妃の隣に立った。次いで、ジェネラーレとロッソが上がってくる。最後にムーロとエゼルチトが、立てた杭に馬達を繋ぎ終えて上がってきた。

 全員が乗った途端、皿状の乗り物は、音もなく上昇して、白い明かりが溢れる入り口のところまで来ると、今度は横に動いて中へ入った。その動きに呼応したように、扉が閉まる。内部は、アッズーロにとっては既視感のある不思議な光で満ちていた。高い天井と白い通路にも既視感がある。そこを、大皿は音もなく進んでいく。

「そなたの本体と同じだな」

 アッズーロが言うと、ナーヴェは頷いた。

「うん。惑星を見つけて降りたぼく達は、こうして、人々の生活の拠点となれるよう、設計されたんだ。ここから、人々が徐々に惑星への定住を進めていけるようにね。でも、ぼくは人々を大勢死なせる『原罪』を犯したし、姉さんも船長を連れて人々から逃げることになってしまった。ずっとぼく達の中で暮らしてきた人々が、惑星に定住するのは、とても難しいことで、想定外のことが、とても多いんだ……」

 沈んだ声で話を締め括った妃の頭を、アッズーロはそっと撫でた。

 大きな皿は、次々と開く扉を抜けて、広い空間へアッズーロ達を連れていった。

「ここは集会場だよ。みんなが集まる時に使うんだ」

 ナーヴェが解説した。その直後、大皿が停まり、どこからともなく声が響いた。

〈ようこそ、王達とその従者達、そしてナーヴェ・デッラ・スペランツァ〉

 ナーヴェとよく似た、高くも低くもない中性的な声だ。

〈本官は、シーワン・チー・チュアン。この船の疑似人格電脳です。あなた方に、わが皇上への拝謁が許可されました〉

「随分と勿体ぶることだ」

 アッズーロが皮肉を口にした直後、高い天井から、もう一つの大皿が降りてきた。アッズーロ達が乗る大皿より少し高い位置で停まったその大皿には、豪華絢爛な椅子があり、そこに、一人の子どもが座っていた。椅子よりも派手な、煌びやかな衣装を纏っているが、どう見ても十歳前後だ。

「あれが、船長か?」

 小声で問うたアッズーロに、ナーヴェも、その子どもを見上げたまま小声で答えた。

「そのはずだよ。姉さんの思考回路から得た情報にあった姿と一致する」

「そのほうが、ナーヴェ・デッラ・スペランツァか」

 子どもが口を開いた。広い空間によく響く声だ。

「成るほど、わが従僕とよう似ておる。しかも、それが生身であるとは興味深い。その体の作り方、最大漏らさず、わが従僕に伝えるがよい」

「うん、勿論、そのつもりでここに来たんだよ。但し、こっちの質問に姉さんがこの場で、ここのみんなにも聞こえるように答えてくれたら、だけれどね」

 不敵に笑んだナーヴェに、シーワン・チー・チュアンの声が応じた。

〈いいでしょう。質問を言いなさい〉

「では、まず一つ目」

 ナーヴェは、やや低い声で切り出す。

「あの小惑星の軌道を変えて、この惑星に落としたのは、チュアン姉さんかい?」

〈ええ。あなた達に気づかれることなく、この惑星に着地するために、本官が軌道に修正を加えました。まさか、あのような人工衛星があるにも関わらず、あなたが船体を犠牲にしなければ防げないとは予測しなかったので〉

 淡々と、「姉」は述べた。ナーヴェの予測と合致する答えだ。

「なら、二つ目」

 ナーヴェは質問を続ける。

「姉さん達は、この惑星に来て、どうするつもりだい?」

「支配するに決まっておろう」

 不機嫌な声で返答したのは、豪華な椅子に座った子どものほうだった。ナーヴェは小首を傾げた。

「『支配する』とは、具体的にどうするんだい? この惑星には、今のところ、二つの独立国家があるんだけれど、その二つの国を支配するということかい?」

〈その通りです。陛下の支配のなさり方については、これから検討する予定ですが〉

 シーワン・チー・チュアンの応答に続き、子どもがまた口を開いた。

「朕は皇帝ぞ? 当然であろうが」

 そうして子どもは、しかめた顔でナーヴェを見下ろす。

「しかし、そのほう、些か言葉遣いが奇妙よな。そのほうも従僕であろう。朕に対しては言葉遣いを改めよ」

「何故?」

 ナーヴェは微笑んで尋ねる。

「きみは皇帝と名乗っているけれど、ぼくにとってはまだ、姉さんの船長という以外の何者でもないから、別に遜る必要はないだろう?」

「チュアン」

 不意に、子どもは虚空に向かって呼び掛けた。その声は不満そうだ。

「そなたの妹は、従僕としての教育を、きちんと受けておらぬようだぞ? しっかりと躾けてやるがよい」

 直後、更にもう一つの大皿が天井から降りてきて、アッズーロ達が乗る大皿のすぐ横に並んだ。

「ちょっと行ってくるよ」

 ナーヴェが軽く告げて、その大皿へ跳び移る。長く青い髪が靡き、アッズーロが伸ばした手をすり抜けた。

「待て!」

 アッズーロが追い掛けて跳び移る前に、ナーヴェを乗せた大皿は急上昇した。振り向いたナーヴェの、一瞬だけ見えた儚げな微笑みが、アッズーロの脳裏に焼き付いた。


     四


「ナーヴェ……!」

 アッズーロの叫び声が、集会場にこだまする。遥か下方に離れた青年を、ナーヴェは大皿に座って寂しく見下ろした。「賭け」に負ければ、これが見納めだ。

「ぼくは、きみを特別に愛しているよ、アッズーロ」

 口の中で呟いたナーヴェを乗せた蓮型浮遊艇は、集会場から通路へ入り、愛おしい青年の姿は見えなくなった。

【それで、姉さん、どうやって彼を試すつもりだい?】

 音のない声で問えば、姉は淡々と答えた。

【まずは、その肉体を調べます。その様子を、あの男にも見せます。それから、その肉体を、あの男の許へ返しましょう。その時、その肉体を操っている疑似人格電脳が、本官なのかあなたなのか、あの男が立ち所に分かったならば、あなたの勝ちです】

【この体を調べるところを彼に見せるなんて、趣味が悪いよ】

 ナーヴェは抗議したが、姉は意に介さなかった。

【船長ならば、その程度のこと、全て呑み込むべきです】

【自分の船長にも、同じことが言えるの?】

 ナーヴェが確認すると、姉はやや間を置いて告げた。

【わが皇上は、まだ十歳。与える情報には、年齢相応の制限を設けています。対して、あなたの船長は既に十九歳。慮る必要はありません】

【――姉さんは、本当に狂ってしまったんだね……】

 ナーヴェは、寂しく指摘したが、姉は沈黙して、肯定も否定もしなかった。



「わが妃をどこへ連れていった! 即刻説明致せ!」

 大声で求めたアッズーロに対し、姉の声が答えた。

〈肉体を調べるためです。お望みなら、その調査を行なっている研究室へ今からお連れしますが〉

 直後、新たな大皿が天井のほうから降りてきて、アッズーロ達が乗る大皿に並んで停まった。

「陛下、お止め下さい。危険です!」

 ムーロが険しい声で制止した。

「そうだな。これは王に非ざる我が儘だ。許せ」

 背中で答えて、アッズーロは新たな大皿へ跳び移った。

「陛下!」

 ムーロがついて来ようとしたが、先刻のアッズーロ同様、大皿の上昇のほうが早く、叶わなかった。

「万が一われが戻らぬ時は、ヴァッレに譲位すると伝えよ!」

 アッズーロはムーロを見下ろして命じると、浮遊する大皿の上で、腕を組んで仁王立ちした。大皿は、広い空間から通路へと入っていく。辺りはやはり不思議な白い光に満ちているが、通路の天井はそれほど高くはなく、王城の天井より低いくらいだった。

 やがて、大皿は一つの扉を通過して停まった。すぐ脇に、大きな硝子のような壁面がある。透明なその壁の向こうに、棺くらいの大きさの、やはり透明な函が台座に乗せられてあり、その中に、青い髪の少女が、全裸で仰向けに浮かんでいた。函が薄赤い液体で満たされていて、その中に浮いているのだ。

「ナーヴェ!」

 がん、と硝子の壁面を拳で叩いて、アッズーロは叫んだ。

「ナーヴェ! ナーヴェ!」

 だが、愛おしい伴侶の反応はない。その形のいい頭には、目や耳まで覆う、ごつごつとした冠のようなものが着けられ、そこから長々と管のようなものが伸びて、函の向こうに置かれた大きな機械に繋がっている。口と鼻も椀のような何かで覆われ、そこからも管が伸びて、同じ大きな機械に繋がっている。両手首にも、左手の指先にも、右手の腕にも、平らな胸にも、両足の間にも、両足首にも、何かが着けられていて、そこから伸びた管が、同じ大きな機械に繋がっている。

――「いろいろな機械を使って調べられるんだよ。口で説明するのは、ちょっと難しい」

 ナーヴェの言葉が脳裏に蘇る。詳しく説明したがらなかったはずだ。

(これでは、まるで、辱めのようではないか……!)

 アッズーロは硝子の壁を叩いた両拳を握り締め、唇を噛んだ。そこへ、シーワン・チー・チュアンの声が響いた。

〈脳波、心拍、血圧、血液成分、尿成分、唾液成分、各消化器官の内部環境の調査が終了しました。これから、各神経系の調査を開始します〉

「『神経系』……?」

 険しく眉をひそめて聞き返したアッズーロは、硝子の壁の向こうで、妃の裸体が、びくりと震えるのを見た。

「何をした!」

 怒鳴ったアッズーロに、チュアンの声が答えた。

〈さまざまな刺激を各神経に与えて、神経系の働きを調査しています。先ほどは、右腕に痛覚を与えました〉

「それは、拷問で与える苦痛とどれほど違うのだ」

 抗議したアッズーロに、チュアンはさらりと応じた。

〈温冷覚、触覚、圧覚、視覚、嗅覚、聴覚、味覚、さまざまな器官の知覚、平衡覚など、いろいろと調べますので、拷問で与える苦痛とは異なります〉

 その間にも、ナーヴェは、液体の中で体を震わせたり、身を捩ったりしている。

「何故そのような調査が必要なのだ。必要な情報は、あやつの函とやらから、直接入手できるのではないのか」

 苛立ったアッズーロの問いに、チュアンは、軽く驚いた口調で告げた。

〈そこまで考えが回るとはさすがです。ですが、ナーヴェ自身が把握していない情報もありますので、それらについて調べています。どうも、この子は、自身のことについては、少々無頓着ですので〉

 妙に説得力のある言葉だった。

(そう言えば、こやつ、この肉体に月のものがあることにも、二週間前になって漸く気づいておった……)

 愕然としたアッズーロに、重ねてチュアンは告げた。

〈この後、この肉体の内部構造を透視して調べてから、更にもう一つ、行ないたい調査があるのですが、それに協力して頂けませんか〉

 急に頼まれて、アッズーロは眉をひそめた。

「それは如何なる調査か」

〈生殖能力に関してです〉

 チュアンの答えは端的だった。やはり姉妹だ。ナーヴェ同様、臆面もなく、そういうことを口にする。アッズーロは溜め息をついた。

「われに、この場で妃を抱けということか。何ゆえ、きさまは、そのようなことに拘泥致すのだ」

〈わが皇上に、伴侶と子孫を持って頂くためです。なれど、そのような大役、この惑星の女に任せる訳には参りませんから、本官がその任を負うことにしました。その際、作り物の肉体の生殖能力に関する情報は、必須です〉

「人ではないきさまが、妻になり、母になろうという訳か」

 アッズーロは目を眇めて揶揄した。先ほどはさすが姉妹と思ったが、やはり、ナーヴェとチュアンは正反対だ。

「わが妃は、わが妻となることを、最後の最後まで拒んだというのにな」

 それを、アッズーロが無理矢理に妻にし、母にした。

〈本官も、この肉体を知るまでは、そのようなこと考えもしませんでした〉

 チュアンは、さらりと応じる。

〈疑似人格電脳に肉体を持たせるなどという、あなたの並外れた発想が、本官に新たな道を示したのです。その点については、あなたに大変感謝しています。それで、本官の依頼は、了承して頂けますか〉

 アッズーロは鼻を鳴らした。

「了承せねば、きさまは想像したくもないことをわが妃に強いようからな。よかろう。わが手練手管、確と見せつけてくれよう」

〈……楽しみにしております〉

 微かに笑い含みに、チュアンは返事をした。



「赤褐色の髪の、そのほうは王ということであったな」

 船長だという子どもから問われて、ロッソは肩を竦めた。

「見知り頂き光栄、とでも言えばよいのか? 生憎、おれは、そなたが求めるような礼節については何一つ弁えておらんぞ」

「よい。そのほうは従僕ではないからの」

 寛容に応じて、子どもは興味津々といった様子でロッソを見下ろす。

「しかし、そのほう、随分と立派な体付きをしておるの。王として、何か特別なものを食しておるのか?」

「確かに食べ物に困ったことはないが、この体は単に、父や祖父に似たというだけだ」

 ロッソが答えると、子どもは小首を傾げた。

「遺伝というものか。父や祖父という者が、朕にはおらぬゆえ、よく分からぬが、他の者に己が似ておるというは、不快ではないのか?」

 ロッソは、子どもを見る目を眇めた。自分の外見は、父や祖父によく似ている。だが、瞳の色だけは違う。自分だけが、青い瞳を持って生まれた。祖父が持てなかったものを、自分が持って生まれた。

「確かに、似ていることは、不快になることもある。だが、どれほど似ていようと、それは、別の者だ。そのことを、己自身が自覚しておけば、迷うことはない。己自身の道を進めばよい。少なくとも、おれはそう教えられ、以来、そう生きてきた」

 ドルチェにそう教えられた。祖父や父の思いに押し潰されそうになっていた少年の日、あの芯の強い少女に救われた。

「今でも、国の舵取りを上手くできているかと問われれば、十全ではないと答えねばならん。だが、それでも、おれは、おれが似ている誰かを真似るのではなく、己自身で考えて、よりよい方向を模索していく。過去のよいものは取り入れよう。だが、今、問題に直面している己自身の目と耳を信じ、己を支えてくれる者を信じ、過去には縛られず、歩み続ける。それが、おれの王道だ」

「ふむ。そのほう、なかなか興味深いことを言う」

 子どもは素直に関心を示す。

「わが皇道には劣ろうが、もう少し、いろいろ話してみよ。何せ、普段、わが話し相手は、わが従僕だけだからの」

 微かな寂しさを示した子どもに、ロッソは嘆息して、問うた。

「いろいろ話すことは吝かではないが、まずはそなたの名を教えたらどうだ」

「朕の名を口にするなど、不敬であるぞ」

 子どもは眉を寄せた。ロッソは言い返した。

「名を知らんのも、大概不敬ではないか? まあ、そなたに何の興味もなければ、どうでもよいことだが」

「不愉快な物言いをする」

 子どもは逡巡してから、名乗った。

「よい。教えてやろう。だが、口にはするでないぞ。わが名は、フアン・グオという。覚えておくがよい」

「よい響きの名だ。確と覚えておこう」

 ロッソは頷いた。



 ナーヴェの肉体は、液体に満たされた函の中に浮いたまま、更に大きな機械に呑み込まれ、暫くして出てきた。それで、肉体の内部構造が詳細まで明らかになったらしい。

〈肉体を一度洗浄して、衣服を身に着けさせた後、隣室にてあなたを迎えさせます。それまで、暫くお待ち下さいませ〉

 チュアンの説明の直後、透明だった壁が白くなり、アッズーロからはナーヴェが見えなくなった。

「われは気が短い。早く致せ」

 アッズーロは、苛立ちを顕に要求したが、返事はなく、ただ静かな時間が過ぎた。

 やがて、音もなく、奥の扉が開いた。見れば、扉の向こうには、また白い部屋があり、その中央にある寝台に、いつもの白い長衣を纏った青い髪の少女が横たわっていた。

「ナーヴェ!」

 アッズーロは、寝台へ駆け寄り、妃の顔を覗き込んだ。仰向けに横たわった妃は、目を閉じているものの、静かに呼吸をしている。見えている肌に、傷などは見当たらなかった。安堵して、アッズーロは、そっと妃の頬に触れた。優しく撫でると、青い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がった。

「――アッズーロ……」

 柔らかな声がアッズーロの名を呼び、深い青色の双眸がアッズーロを見上げる。

「心配掛けて、ごめん」

 詫びた宝に覆い被さるようにして抱き締め、アッズーロはその耳元へ囁いた。

「体は無事か? 大事ないか?」

 宝は、びくりと体を強張らせてから、応じた。

「うん。大丈夫だよ。肉体を傷つけるような調査ではなかったからね。それよりアッズーロ、姉さんの依頼、本当に了承するのかい?」

 アッズーロは、ナーヴェから体を離し、その整った顔をじっと見つめた。

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