第12話 相まみえる

     一


 話は上手く逸らすことができた。基本的に素直に何でも話してしまうので、つい要らぬ情報まで開示してしまいそうになるが、我ながら、会話の進め方や演技に、随分と熟達してきたように感じる。

(嘘は、まだ上手につけないけれど、不必要な情報に触れさせないだけで、充分だね……)

 ナーヴェは、窓から差し込む月明かりの中、傍らで眠るアッズーロの顔を眺めた。子どもの頃の面影を残した寝顔は、起きている時の表情豊かな顔とはまた違って、ただ可愛い。

(きみは、その時になったら怒るだろうけれど、これは仕方のないことだから)

 交渉材料は、最大限活用しなければならない。

(悪ければ、この体は解剖されるだろうし、よくても、生殖能力について検査されるだろう。どっちにしても、きみは嫌がるだろうからね……)

 ゆえに、咄嗟に、悋気を起こした振りをして、話を逸らした。アッズーロの喜びようを見れば、これからもちょくちょく、嫉妬はして見せたほうがいいかもしれない。単純な言葉上の嘘をつくことは未だ難しいが、相手の感情を慮って演じることは、最近寧ろ得意である。

(後は、ロッソに気づかれないようにしないと……)

 ロッソ三世は、アッズーロと同じように理解が早く、アッズーロ以上に疑い深い。ナーヴェに対しても、特別な感情を懐いていない分、話を逸らしにくい。

(彼とは、あんまり話さないのが、一番かな……)

 ナーヴェは密やかに嘆息して、アッズーロの肩にそっと頭を寄せ、目を閉じた。



 テッラ・ロッサへの出立当日、ナーヴェの体調は随分とよくなっていたが、アッズーロは、自由な立ち歩きを許さなかった。

「そなたは、われが抱いて運ぶ。勝手に立ち歩くでない」

 朝、寝室を出る際に命じられて、ナーヴェは苦笑した。

「分かったよ。でも、きみの注文通り、少し重くなっているよ? 大丈夫かい?」

「まだまだ骨と皮ばかりの体をしておる癖に、よう言うわ」

 アッズーロは鼻を鳴らして、軽々とナーヴェを抱き上げると、廊下を歩き、階段を下りて王城の玄関へ出た。後ろから、レーニョとフィオーレ、ガット、テゾーロを抱いたポンテとインピアントを抱いたラディーチェが、見送りのためについて来る。他に、外務担当大臣ヴァッレと工業担当大臣ディアマンテ、そしてアッズーロ不在の間の政務を任された財務担当大臣モッルスコが見送りに来ていた。

 玄関には、四頭立ての馬車が待っていた。使節団の時の二頭立てより大型化しており、扉も横ではなく後ろにある。前回の使節団は六名だったが、今回の訪問団は、アッズーロ、ナーヴェ、ペルソーネ、ムーロ、ジョールノ、バーゼ、ルーチェ、ボルド、更に再びパルーデから借り受けたノッテの九名だからだろう。

「では、行ってくる。留守を頼んだぞ」

 アッズーロがモッルスコ達を振り向いて言い、団員達は馬車に乗り込んだ。最初の御者はルーチェだ。四頭立ての馬車の座席は、二頭立てとは異なっており、御者台を横に見る形で、左右の窓を背に、向かい合わせになっている。アッズーロは、ナーヴェを御者側の端に座らせ、自らはその隣に腰掛けた。居眠りし易いようにという配慮だろう。アッズーロの隣にはムーロが腰掛け、その向こうにバーゼが座る。ナーヴェの向かいにはペルソーネが腰掛け、その隣にジョールノ、更に隣にボルド、最後にノッテが座った。

「では、出発致します」

 御者台からルーチェが言い、馬車が走り出した。ごとごとと揺れ始めた馬車の中で、ナーヴェは、扉前に座った少女二人に笑顔を向けた。

「バーゼもノッテも、久し振りだね。元気そうで何よりだよ」

「ナーヴェ様も、少しお元気になられた御様子で、安堵致しました」

 バーゼが胸に手を当て、穏やかに答えた。

「お陰様で、元気にさせて頂いております。小惑星から守って頂き、本当にありがとうございました」

 ノッテは物堅い仕草で頭を下げた。

 工作員である二人は、どちらも黒髪だが、雰囲気は全く異なる。バーゼは癖のない長い黒髪を背中でゆったりと編み、透き通るような白い肌を持ち、全体的に柔らかな印象だが、ノッテは癖のある黒髪を襟足で切り揃え、艶やかな黒い肌を持ち、隙のない身ごなしだ。

「ノッテ、サーレも元気にしているかな?」

 ナーヴェの問いに、ノッテは生真面目な顔で頷いた。

「はい。傷もすっかり癒え、主人に誠心誠意お仕えしております。王妃殿下のことも、常々御心配申し上げているようでございます」

「そう。また会いたいな……」

「では、そのように、主人に申し伝えます」

 硬い口調で、ノッテは請け負った。

「ありがとう」

 ナーヴェは礼を述べて、ペルソーネとジョールノに視線を転じた。

「ペルソーネもジョールノも、また忙しくさせてごめん。こんなことばかりしていたら、結婚式の日取りが、全然決められないよね……」

 ずっと気に懸かっていたことを詫びると、ジョールノは笑顔で、ペルソーネは恥じらったように、ともに首を横に振った。

「ナーヴェ様、御心配なさらず。国のために働くことこそ、わたくしの本望でございます」

 ペルソーネがきっぱりと述べた信念に、ジョールノが不敵な笑みを浮かべて付け加えた。

「まあ、一緒にいられれば、別にどこでも構いませんよ。これも、少々はらはらする新婚旅行だと思えば、何ということは……」

 ペルソーネが、肘で思い切りジョールノを小突いて発言を中断させた。仲睦まじく付き合っているようだ。

「……はい。二人で、誠心誠意、此度のテッラ・ロッサ訪問が上首尾に終わりますよう、お仕えさせて頂きます」

 ジョールノは苦笑して言い直した。

「ありがとう。頼りにしているよ」

 ナーヴェは微笑んで、軍務担当大臣ムーロへ目を向けた。癖のある黒髪を短く刈り、艶やかな黒い肌と黒い瞳をした青年は、背筋を正して座席に腰掛けている。アッズーロの隣なので、一際緊張もしているのだろう。

「ムーロも頼りにしているよ」

 声を掛けると、若き軍務担当大臣は、ぎこちなく振り向いた。

「はっ。光栄であります」

「――あんまり、緊張し過ぎないで。ボルド、テッラ・ロッサ王国の軍務担当は、誰なのかな?」

 話を振ると、急だったにも関わらず、栗毛の少年はすらすらと名を挙げた。

「軍自体は、ロッソ三世陛下が統括しておられます。その下に、将軍達がおられますが、筆頭将軍は、オンダ伯エゼルチト様です」

「聞いたことがある名です」

 ムーロが応じる。

「武勇にも知略にも秀でた将軍であると、わが配下のファルコが申しておりました」

 ファルコはオリッゾンテ・ブルの最古参の将軍である。

「へえ、それは会うのが楽しみだね」

 ナーヴェが相槌を打つと、ムーロは少しばかり表情を和らげた。

「ふむ。軍事交流というものも、ありかもしれんな」

 アッズーロが顎に手を当て、口を挟んできた。

「ぼくは最初から、そういう思惑を持っているよ」

 ナーヴェは悪戯っぽく告げると、小さく欠伸をした。肉体が、睡眠を要求している。

「アッズーロ、ちょっと寝るから、何かあったら起こして」

 頼んだナーヴェを、アッズーロは険しい眼差しで見下ろした。

「まさか、人工衛星に接続するのではあるまいな?」

 ナーヴェは肩を竦めた。

「もうしないって約束したよ? 大丈夫、本当にただ寝るだけだよ」

「ならばよい」

 許可を得られたので、ナーヴェが御者台側の壁に凭れて寝ようとすると、アッズーロの手にぐいと引き寄せられた。

「わが膝を使うがよい」

「でも、横になるには少し狭いよ?」

 ナーヴェが指摘すると、アッズーロは軽く眉を上げた。

「問題ない。両膝を使うがよい」

 確かに、そうすれば場所は取らない。

「分かったよ」

 ナーヴェはアッズーロの両膝の上に、伏せるようにして上半身を横たえ、目を閉じた。すかさず、アッズーロの手が頭を撫でて、髪を梳く。どうやら、髪が触りたかったらしい。

(ぼくも気持ちがいいから、いいけれど)

 ナーヴェはくすりと笑って、眠りに落ちた。



 青年王は、飽くことなく、膝に横たわらせた王妃の長く青い髪を弄っている。撫でたり梳いたり、時に指に絡めたり、見ているほうが恥ずかしくなるほどの執着だ。王妃は、安心し切ったあどけない寝顔で、その青年王に上半身を預けている。日頃の二人の関係が偲ばれようというものだ。

(本当に、ナーヴェ様が御無事でよかった……)

 ジョールノは頬を弛めた。小惑星を迎え撃った後は、失われてしまうと、自他ともに思っていた王の宝。それが、どういう奇跡か、今も王の傍らに在る。詳細は知らされていないが、その理由は、今回のテッラ・ロッサ訪問にも関連しているらしい。

(何にせよ、ナーヴェ様には、これからもずっと御無事でいて頂かねばな……)

 この青い髪の宝がいなくなってしまえば、青年王の心の安定が危うい。真っ向から意見できるのは、従姉のヴァッレ以外はペルソーネかモッルスコくらいになってしまうだろう――。

(しかし、ナーヴェ様が寝てしまわれると、途端に会話が途切れるな……)

 ジョールノは目だけを動かして、さっと馬車の中を見回した。皆、黙りこくって、国王の手前、眠る訳にもいかず、ただ座っている。

(仕方ない。ここは、わたしが)

 ジョールノは沈黙を破って口を開いた。

「陛下は今回、何ゆえ、御自らテッラ・ロッサへ赴かれるのですか」

 アッズーロは妃を見下ろしていた目を上げ、にっと笑った。

「そうさな。ロッソの奴に、直接文句を言うてやりたくなったから、というところか」

「『文句』、でございますか」

「当たり前であろう」

 アッズーロは、膝で眠る妃へと再び視線を落とし、その頭から肩へと青い髪を撫でる。

「あの男は、わが妃を幾度も苦しめた。文句の一つも言わねば、気が収まらん」

「それは、そうでございましょうが、始めから喧嘩腰では、まとまる話もまとまらなくなります……」

 ジョールノが控えめに進言すると、青年王は鼻を鳴らした。

「そうであろうな。ゆえに、われが文句を言い始めた瞬間、この宝が、われを止めるであろう。おまえが案ずるには及ばん」

 ジョールノは目を瞬いた。自分は今、盛大な惚気を聞かされているらしい。

「分かりました……」

 毒気を抜かれて、ジョールノは微苦笑した。ふと、傍らのペルソーネと目が合う。ペルソーネは、いつもの真面目な表情を崩して、僅かに肩を竦めて見せた。とても可愛らしい。

(二人きりだったら……)

 微かに嘆息して、ジョールノは馬車の窓の外を見た。初夏の月二十四の日、青空と若葉が鮮やかな風景だ。左右の街並みには、まだ崩れの目立つ建物もあるが、職人達が足場を組んだりなどして、順調に復興中だ。

「テッラ・ロッサから戻ってくる頃には、更に復興が進んでいるとよいですね」

 ジョールノがぽつりと言うと、アッズーロが低い声で応じた。

「充分に急がせておる。崩れた建物を見るたび、この宝が、自分の所為だと、沈んだ顔をするゆえな」

「降ってくる星を迎え撃つため、ナーヴェ様の本体が発進し、建物が崩れるのは仕方なかったこと。それでも、ナーヴェ様は気に病まれているのですか」

「こやつは、己以外の全てが大切ゆえな」

 溜め息混じりに、青年王は言う。

「全く、博愛主義にもほどがあるわ」

「……そうは仰らないで下さい」

 ジョールノは、思わず反論してしまった。脳裏には、寂しく愚痴を言っていた王の宝の姿が蘇っていた。

「以前、妃殿下が零していらっしゃいました。自分はもともと、ただひたすら便利であるように造られた、と。けれど、人によっては、全体主義で博愛主義であるその性格を、面倒だと言う人もいた、と。陛下も、近頃は、物足りなく思っていらっしゃる節がある、と。そのようなことは、ございませんよね……?」

「『物足りなく』ではない」

 アッズーロは、青い髪の少女を見下ろしたまま答える。

「こやつは、徹底した博愛主義を己に課しておるからこそ、愛おしいのだ。物足りなく思うておるのではない。歯痒く思うておるのだ。歯痒いのだ、こやつを見ておるとな。もっと己の感情に素直になれ、己を大切にせよ、と叱りつけたくなる」

「……そこは、お手柔らかに……」

 何とか相槌を打って、ジョールノは笑顔のまま黙った。馬車の中は珍妙な雰囲気に包まれてしまっている。これ以上、青年王に王妃について語らせると、当てられ過ぎて、誰かが奇天烈なことを口走ってしまいそうだった。


     二


 昼食は、停めた馬車の中で取り、午後からは、ルーチェに代わってノッテが御者を務めた。夜は、バーゼとムーロ、ジョールノとボルドが交代で見張りに立ち、その他の面々は馬車の中で眠った。

 二日目の午前はまたルーチェが御者を務めて国境を越え、昼食は街道沿いの木陰に馬車を停めて取り、午後は再びノッテが御者を務めて、夕方、王都アルバに入った。王宮の宮門前に馬車が到着したのは、鮮やかな夕焼けが辺りを染めている頃だった。国王のアッズーロも乗っているため、訪問団の馬車は特別に王宮の玄関まで進むことを許され、ノッテの手綱捌きでゆっくりと進む四頭の馬に牽かれて、庭園の中を緩やかに走った。

「あ」

 ナーヴェが小さく上げた声に、静かな馬車の中、全員が振り向いた。

「ぼくが抉ったところ、そのままにしてある……。何だか、申し訳ないね……」

 王妃は、少し落ち込んだ様子で窓から外を見続ける。その形のいい頭を、王がやや乱暴に撫でた。

「奴らを助けるためにしたことであろう。一々気に病むでない」

「うん……」

 一応頷いた王妃を、ジョールノは苦笑して眺めた。王の宝が、そう簡単に納得できる性格でないことは、前回、使節団の団員として、ともに過ごした四日間でよく分かっている。

「奇跡の記念として、わざと残してあるのかもしれませんよ」

 慰める口調でジョールノが言うと、宝はこちらに向き直って、ふわりと微笑んだ。

「そうだったら嬉しい……。ありがとう」

「ジョールノ」

 すかさず、青年王が不機嫌な顔をする。

「わが妃に対し、随分と親しげだな」

「アッズーロ」

「陛下」

 ナーヴェとペルソーネの声が重なった。二人の女から軽く睨まれて、青年王は腕を組み、尊大に視線を逸らした。

(さすがに、この二人を同時に相手にするのは、陛下であっても分が悪いか……)

 笑ってしまわないよう自制しながら、ジョールノは胸中で呟いた。



 王宮の玄関で、王の宝との約一ヶ月振りの再会を心待ちにし、オリッゾンテ・ブルの訪問団を出迎えたシンティラーレは、暫し唖然とした。

 青い髪の少女は、暗褐色の髪を短めに切った青年に抱き抱えられて、馬車から出てきた。シンティラーレの兄ロッソ三世に比べれば、寧ろ細身に見えるその青年が、オリッゾンテ・ブル国王であることは、伝え聞いていた通りの容姿からすぐ分かったが、両腕で大切そうに宝を抱えて歩くさまは、予想と大きく異なっていた。

(ナーヴェは、本当に「王の宝」なんだ……)

 華奢な体を安心し切った様子で青年王に預けている少女の姿は、一ヶ月前に、この場で凄まじい奇跡を起こして見せた時の恐ろしさなど微塵も感じさせず、ただ可憐で愛らしい。

(あれで妃で母だとは、詐欺のようだな)

 微苦笑して、シンティラーレは、オリッゾンテ・ブル国王に対し、礼を執った。

「アッズーロ、ここまででいいよ」

 ナーヴェが囁く声が聞こえた。青年王は、渋々といった様子で、妃を下ろす。地面に足を着いた王の宝は、玄関の中央に立ったロッソ三世に向き直って、微笑んだ。

「一ヶ月と四日振りだね、ロッソ。また会えて、嬉しいよ」

 兄王ロッソは、シンティラーレが見つめる先で、ふっと複雑そうな笑みを浮かべた。兄にしては珍しいことだ。

「そなたは、漸く妃らしく現れたな。とりあえず、礼を言うておこう。星は流れたが、降りはせなんだ。そなたのお陰で、われらは事無きを得たのだろう」

「何とか、きみ達を守れてよかったよ。でも、また別の厄介な問題が持ち上がったんだ。アッズーロと、その問題について、話し合ってほしいんだよ」

 ナーヴェはロッソに穏やかに告げて、シンティラーレにも微笑み掛ける。その背後から、オリッゾンテ・ブル国王が前へ出た。

「いつまで立ち話をさせる気か。それとも、これがテッラ・ロッサ風のもてなし方か?」

 いきなりの喧嘩腰だ。

「アッズーロ……」

 ナーヴェが、困ったように自らの王を振り向いた。しかし、シンティラーレの兄は鷹揚だった。

「これは失礼をした。そなたの妃との予想外の再会に、つい話に花が咲いた。もてなしの用意はできておる。ついて来られよ」

「ありがとう」

 ナーヴェが率先してロッソに従い、オリッゾンテ・ブル国王と訪問団の面々が、その後に続いた。シンティラーレも、近衛兵達、将軍達とともに、玄関から王宮内へ入った。

 ロッソが案内した先は、王の間ではなく、そこから更に扉を入ったところにある、宴の間だ。中央に置かれた長卓には、既に晩餐の用意が整えられている。シンティラーレの姉達が、侍従達、女官達とともに待ち構えていて、訪問団の団員達をそれぞれの席へ導いた。

 王妹の、長女デコラチオーネによって席へ案内されたオリッゾンテ・ブル国王アッズーロは、次女リラッサーレが案内するはずだったナーヴェを、強引に一緒に連れて行ってしまっている。リラッサーレは機転を利かせて、素早くナーヴェの席を、オリッゾンテ・ブル国王の席の隣にするよう、女官達に指示を出していた。

(さすが、リラッサーレお姉様。余裕のある対応だわ)

 感心しながら、シンティラーレは己の席へ歩いていき、椅子の前へ立った。着席するのは、国王達の後である。隣には、シンティラーレのすぐ上の姉で三女のブリラーレが案内してきた、カテーナ・ディ・モンターニェ侯女ペルソーネがいる。前回の使節団団長は、学芸担当大臣でもあると名乗っていたが、確かに、間近で見ても雅な風貌をしていた。

「またお会いできて嬉しいですわ。お互い無事で、何よりでありましたね」

 シンティラーレが話し掛けると、銀灰色の髪を緩く編んだ上に薄い布を被った侯女は、柔らかく頷いた。

「本当に。全ては、ナーヴェ様のお陰でございます」

「われわれまで守って頂き、ありがたいことでございます。ですがナーヴェ様は、お加減を悪くなさったのでしょうか」

 シンティラーレは気になっていたことを問うた。オリッゾンテ・ブル国王が如何に妃を溺愛しているにしろ、抱いて運んだり、常に寄り添って歩いたりと、先ほどからあまりにも過保護に気遣い過ぎている。

 ペルソーネは、途端に顔を曇らせた。

「はい。小惑星の迎撃のため、随分と御無理をなさったので……。暫くは、起き上がることもままならない御様子でした。近頃になって、漸く少し歩けるようになられたのです」

「そうでしたか……」

 シンティラーレは、改めて長卓の向こうのナーヴェを見た。長卓のところどころに置かれた油皿の灯火に照らされた顔は、そう思って見れば、僅かにやつれているようだ。オリッゾンテ・ブル国王は、そんな妃を案じてか、自分よりも先に椅子に座らせ、その隣に自ら椅子を寄せて座っている。

(傍若無人かと思っていたが……、傍らに人無きが若し、ではなく、傍らに妃以外人無きが若し、だな……)

 居丈高な王の傍らに青い髪の妃がいるだけで、全て微笑ましく見えてしまうのが面白い。

(兄上も……、あれは笑いを堪えていらっしゃる顔だな……)

 交渉は、今回もナーヴェのお陰で上手くいきそうだ。

(やはり、彼女は「王の宝」という訳か……)

 着席した兄王の合図を受けて、シンティラーレも姉達とともに椅子に腰掛けた。次いで、ペルソーネ達が身分の序列に従って座っていく。参加者全員の着席後、ロッソが両国の友好を深めていくという主旨の短い挨拶を行ない、もてなしの晩餐は和やかに始まった。

「酒は飲めるのか?」

 ロッソの問いに、ナーヴェは顔を輝かせたように見えた。

「まだ飲んだことはないんだけれど、酒精の分解酵素は持っているから、飲めるはずだよ。いいかな、アッズーロ?」

 許可を求められたオリッゾンテ・ブル国王は、顔をしかめた。怒った訳ではなく、悩んでいるようだ。ナーヴェは、重ねて請うた。

「前にも言った通り、きみと、それにロッソ達とも、一度お酒を酌み交わしてみたいんだよ。体調なら、大丈夫だよ?」

 暗褐色の髪の青年王は、苦渋の決断のように宣った。

「……一杯だけだぞ」

「ありがとう……!」

 ナーヴェは心底嬉しそうに、銀杯を取った。ロッソは、シンティラーレでさえ滅多に見ることのない優しい表情で勧めた。

「酒は葡萄酒と麦酒、それに林檎酒と駱駝乳酒を用意させている。どれがよい?」

「きみのお勧めはどれだい?」

 ナーヴェは興味津々といった様子で訊き返す。

「テッラ・ロッサ名物というなら、駱駝の乳酒だよね。初めてテッラ・ロッサに来た時、ソニャーレが発酵乳を飲ませてくれたんだけれど、あれも駱駝の乳だった」

 懐かしげに話したナーヴェの言葉に、二人の王は強張った顔になっている。それはそうだろう。双方の王にとって、ナーヴェがテッラ・ロッサへ攫われてきた際のことは、楽しくない話題のはずだ。

(あの子のああいうところは、本当に凄いわね……)

 半ば呆れ、半ば感心しつつシンティラーレが見守る中、オリッゾンテ・ブル国王が鼻を鳴らした。

「羊乳酒ならまだしも、駱駝の乳なぞ臭くて飲めるか。飲むなら、麦酒か林檎酒にしておけ。葡萄酒もよいが、少々酒精が濃いゆえな」

「アッズーロ、駱駝の乳も美味しいものだよ? きみは飲んだことがあるのかい?」

 ナーヴェが小首を傾げ、溜め息混じりに尋ねた。その声には、軽く咎める響きがある。しかしオリッゾンテ・ブル国王は、子どもっぽく否定した。

「そのようなもの、頼まれても飲まんわ」

「あの味が分からんとは、味覚がまだまだ幼くておられるようだ」

 ロッソが皮肉で応酬した。最早、泥沼だ――。

「兄上、それにアッズーロ陛下も」

 口を挟んだのは、ロッソの隣に座っている長女のデコラチオーネだ。

「そのように言い争われては、ナーヴェ様のせっかくのお酒の味が損なわれてしまいましょう。この宴には、われわれをお救い下さったナーヴェ様への感謝の意も込められているのです。どうか、ナーヴェ様が存分に味わえるよう、御配慮下さいませ」

(さすが、デコラチオーネお姉様)

 シンティラーレは心の中で拍手した。

「ありがとう、デコラチオーネ」

 礼を述べたナーヴェの隣ではオリッゾンテ・ブル国王が、デコラチオーネの隣では兄王が、気まずそうな仕草をし、互いに顔を見合わせる。そこへ、ナーヴェが宣言した。

「せっかくだから、駱駝乳酒を頂くよ。アッズーロも付き合って」

 オリッゾンテ・ブル国王は、不承不承という様子だったが、さすがにもう文句は言わなかった。

 ロッソが侍従に命じて、オリッゾンテ・ブル国王とナーヴェ、更には自分の銀杯に駱駝乳酒を注がせた。

「では、両国の繁栄に、乾杯」

 ロッソの言葉に、ナーヴェは笑顔で銀杯を掲げてから口を付けた。オリッゾンテ・ブル国王も、その横で銀杯に口を付けながら、心配そうに妃を見つめている。ナーヴェは、その視線を受けながら駱駝乳酒を一口飲み下し、目を瞬いた。

「へえ、発酵乳に似ているんだね。でも、苦味もあって……、『癖になる美味しさ』というのは、こういう味を言うのかな?」

「お気に召されましたか?」

 デコラチオーネが柔らかく訊くと、ナーヴェは大きく頷いた。

「うん、美味しかった! テッラ・ロッサでしか飲めないものだし、ここで飲めてよかったよ」

「――麦酒や葡萄酒のほうが旨い」

 ぼそりとオリッゾンテ・ブル国王が零したが、最早ロッソも相手にしなかった。

 長卓の上には、駱駝の瘤の脂肪を使った料理や、鰐の背の赤肉を使った料理、仙人掌を使った料理、無花果を使った料理など、テッラ・ロッサ名物が並べられ、そのどれもを、ナーヴェは感激した様子で味わっていた。

(ああして何でも美味しそうに食べてくれると、素直に嬉しいものね……)

 シンティラーレは自然と頬が弛むのを感じながら、ペルソーネと雑談しつつ、料理人達が腕を振るった名物の数々を自らも味わった。

 そうして、友好の晩餐は盛会の内に閉じられ、明日、本格的な会談が持たれることが改めて確認された後、解散となった。少なくともシンティラーレの目には、兄王ロッソとオリッゾンテ・ブル国王の仲も深まったように映った。


     三


「何だ、これは」

 憤慨した様子のアッズーロに、訪問団の面々は苦笑するしかなかった。訪問団に与えられた部屋は、前回、使節団に与えられた部屋と同じ大部屋だったのだ。

「ここに、この全員でおれと申すか!」

 案内役の侍従に食って掛かったアッズーロを、すかさずナーヴェが止めた。

「たった一晩のことだし、衝立もあるから大丈夫だよ。それに、全員一緒のほうが楽しいし、――安全だから」

 最後の一言が決め手だったらしい。青年王は不機嫌な顔のまま、妃を伴って部屋に入った。

(「安全」……)

 ジョールノは、軽く眉をひそめながら、二人とともに、部屋に入り、室内の安全を確かめた。危険はない。今回、テッラ・ロッサ側に、敵意は感じない。

(なら、一体何を、ナーヴェ様と陛下は恐れている……?)

 訝しみながら、ジョールノは、バーゼやノッテ、ルーチェと協力して、衝立や寝台の位置を変え、部屋を整えた。まだ同行を続けているボルドも、黙々と手伝ってくれた。テッラ・ロッサ側からの間諜だという指摘は、明日の会談でなされる予定だ。それまでは、あくまでオリッゾンテ・ブルの侍従として振る舞うつもりなのだろう。

「これで宜しいでしょうか?」

 ジョールノは、とりあえずアッズーロに最終判断を仰いだ。部屋の壁際の奥に、アッズーロとナーヴェの寝台を並べて置き、衝立で仕切ったその隣に、ペルソーネ、バーゼ、ルーチェ、ノッテの寝台を等間隔で並べ、更に衝立で区切った部屋の反対側に、ムーロ、ボルド、そして自分の寝台を配置した。部屋の入り口側には、油皿を置いた卓と椅子とを用意して、前回同様、寝ずの番の居場所にしてある。

「うむ。よかろう」

 青年王は頷いて、ナーヴェを伴い、さっさと割り当てられた寝台へ向かった。ルーチェとノッテがついて行って、衝立の陰で二人の寝仕度を手伝う。ペルソーネとバーゼ、ムーロとボルドも、それぞれ衝立の陰で寝仕度を始めた。ジョールノは一人椅子に腰掛け、扉の外の気配も探りながら、部屋全体に注意を払う。とりわけ、アッズーロとナーヴェの会話に耳を澄ませたが、聞こえてくるのは、笑いを誘う甘々な言葉ばかりだった。

「きみと一緒にお酒が飲めてよかったよ」

「次は葡萄酒に致そう。王城の地下室に、当たり年のものが揃えてある」

「うん、楽しみにしているよ。……よく我慢したね、アッズーロ」

「全くだ。ロッソめが、あの手でそなたを二度も辱めたかと思うと、腸が煮えくり返る思いであったわ」

「そうだろうと思ったよ。耐えてくれて、ありがとう、アッズーロ」

 やがて、それぞれの衝立の向こうで油皿の灯火が消され、明かり取りの高い小窓から差し込む月明かりと、ジョールノの眼前の灯火のみが部屋を照らし、静寂が訪れた。

(何事もなく、朝が来ればいいが……)

 バーゼとの交代までは、気を抜けない。ジョールノは、辺りの気配に神経を研ぎ澄ませ続けた。

 異変が起きたのは、バーゼとの交代が近づいた夜半だった。

「……ぁ……あっ、……あっ……、駄目……っ……」

 不意に、ナーヴェの切羽詰まった声が聞こえてきて、ジョールノは最初、アッズーロが我慢できずに手を出したのかと思った。だが、続いて響いたのは、アッズーロの焦った声だった。

「ナーヴェ? 如何した!」

 何かが起こったと悟り、ジョールノは即座に油皿を持って衝立の向こうへ行った。

 起き上がったアッズーロの向こうで、ナーヴェは寝台の上で背中を反らし、目を一杯に見開いて、苦しげに呻いていた。

「……あっ……ぁ……、姉……さん……、嫌……だ……っ……」

 うわ言のような言葉を口にし、びくん、びくん、と体を痙攣させるナーヴェの目は、焦点が合っていない。青年王が無理矢理その体を抱き抱えたが、強い腕の中で、ナーヴェは悶え続ける。

「……あっ……、ぁああっ……、あっ……、あ……っ……」

 か細い悲鳴とともに、ナーヴェの口の端から涎が流れた。尋常ではない。

「すぐに侍医を呼ばせます!」

 ジョールノは叫ぶようにアッズーロの背に告げて、既に衝立のところへ来ていたノッテに目配せした。ノッテは一つ頷き、短衣を翻して扉へ走っていく。同時に、バーゼが衝立の内側へ入ってきた。

「陛下、失礼致します! わたくしには多少、医学の知識がございます。ナーヴェ様を診察させて下さいませ!」

「許す」

 アッズーロは低い声で答えた。

「はい!」

 バーゼは寝台へ上がってアッズーロの向こう側へ回り、ジョールノが近づけた油皿の灯りの中、ナーヴェの目や口の中を調べ、脈拍を診た。その間も、ナーヴェは首を仰け反らせ、手足を突っ張らせ、両眼から涙を溢れさせている。診察を終えたバーゼは、困惑した様子で告げた。

「痙攣や瞳孔の状態は、毒物かとも思われるのですが、白目や口腔内の状態、脈拍からは、毒物ではないと判断できます……。脳に何か異常が起きたとしか、思えません……」

「そうか。やはり、『姉』か……」

 アッズーロは、ナーヴェを抱え込んだまま、謎の呟きを漏らした。

「どういうことです? 『姉』とは?」

 ジョールノは、険しい声で青年王に尋ねた。護衛として、できるだけのことは知っておかねばならない。

「ナーヴェには、姉がおる。それが、此度、このようなところまで来た問題の根幹だ」

 アッズーロが明かした時、複数の話し声と足音が部屋に入ってきた。ジョールノが振り返って見ると、ノッテに先導された、侍医らしき女と、ロッソ三世、それに王妹達だった。

「……ぁああっ……、ぁ……」

 苦しみ、身悶えるナーヴェの姿に、テッラ・ロッサの王族達は息を呑んだ。無理もないだろう。晩餐の時には、王の宝は普通に元気で、明るく話し、酒まで飲んでいたのだ。

「すぐに診察を」

 ロッソ三世の命令で、侍医らしき女が寝台を回り、バーゼの傍らへ行った。バーゼと幾つか言葉を交わしながら、同じような診察を行ない、同じように困惑した様子になる。

「申し訳ござりませぬ……。わたくしには、原因が分かりかねまする」

 女医は寝台から下り、アッズーロとロッソに頭を下げた。

「よい」

 存外冷静に、アッズーロは応じる。

「これは、病でも毒でもない。こやつの姉の仕業だ」

「どういうことだ……?」

 ロッソが眉をひそめて問うた。しかし、アッズーロが返答する前に、その腕の中で、ナーヴェが一際大きく痙攣し、直後、ぐったりとして動かなくなった。

「ナーヴェ! ナーヴェ!」

 アッズーロが懸命に呼び掛けて揺すり、バーゼが脈を取る。それらの手を押しのけ、振り払うようにして、ナーヴェが上体を起こした。

「ナーヴェ様?」

 バーゼの掛けた声を無視し、ナーヴェはアッズーロを見る。

「この子にも困ったものです。姉の本官相手に、防衛機構を構築するなど、甚だ愚か。お陰で無駄に体力を消耗させてしまいました」

「『防衛機構』……」

 乾いた声で繰り返したアッズーロに、ナーヴェは頷いた。

「ええ。余ほど、本官にこの肉体を使われたくないのでしょうね」

 薄く笑んだ顔は、ナーヴェとは別人のように見えた。

(まさか、これが「姉」……?)

 目を瞠ったジョールノ達の前で、アッズーロは誰よりも落ち着いた、けれど苛立った口調で質した。

「きさま、何故また彷徨い出てきた?」

「少々、業を煮やしまして」

 艶めいた仕草で、ナーヴェは髪を耳に掛け、語る。

「いつになれば、あなたはこの体を抱くのです? 本官はそれを待っているというのに」

「何故、そのようなことがきさまに関係あるのだ」

 アッズーロの疑問は、その場にいた全員の疑問だった。

「その質問には、あなたがこの肉体とともに本官の許へ来た時、答えましょう。されど、待つことには飽きました。あなたの国へは戻らず、この国から直接、本官の許へ来なさい。わが皇上が、首を長くしてお待ちです」

 一方的に要求すると、ナーヴェは口を閉じ、目を閉じた。途端に細い体が倒れかけたが、アッズーロが素早く抱き止め、抱き寄せる。

(「姉」が、去った……?)

 立ち尽くしたジョールノ達に、背を向けたまま、アッズーロが告げた。

「呼吸が落ち着いた。もう大事ない。詳しいことは、明日、説明する」

「分かった」

 ロッソが真っ先に応じ、踵を返した。テッラ・ロッサの面々が、その後に続く。ノッテが女医に感謝を伝え、部屋の外まで見送りに行った。バーゼは再びナーヴェの脈を調べ、安堵の表情を浮かべた。

「お脈も大丈夫でございます」

「うむ。後はわれが看ておる」

「はい」

 バーゼは寝台から降りてアッズーロに一礼し、下がってきた。そのバーゼとともに、ジョールノ達も衝立の外へ出る。見送りのため、廊下へ出ていたノッテも戻ってきて、扉を閉めた。互いに顔を見合わせてから、バーゼが椅子に座り、ムーロとボルド、ルーチェとノッテはそれぞれの寝台へ行く。ジョールノは、涙目になっているペルソーネをそっと抱き締めてから、同様にそれぞれの寝台へ別れた。

(「姉」、か……)

 寝台に仰向けに横になり、掛布を被って、ジョールノは天井を見つめる。「姉」は、ナーヴェと同じく、空の彼方を飛べる移民船の疑似人格電脳というものなのだろうか。

(ナーヴェ様とは違って、随分と性格が悪そうだったが……)

 ナーヴェと同等の能力を誇る存在が敵であるとしたら、それは脅威だ。

(ナーヴェ様が小惑星を迎え撃った後に戻ってこられたのも、その「姉」がいたからなのか……?)

 初めて知った「姉」の存在について考えを巡らせると、ジョールノはなかなか寝つくことができなかった。



 抱き抱えたナーヴェの顔に残る涙と涎を、自らの長衣の袖で拭ったアッズーロは、そっとその頬を撫で、額に口付けてから、細い体を寝台に仰向けに寝かせ、掛布を掛けた。寝顔は穏やかだが、先刻の苦しみようを思い出すと、胸が痛む。

(われにも黙って「防衛機構」なぞ作っておったのか)

 それが、どういうものかアッズーロには分からない。しかしながら、前回とは違い、姉の来訪に対して、ナーヴェが最大限の抵抗をしたことだけは分かった。

(人工衛星には接続していなくとも、防衛機構は構築していたという訳か)

 嘘をつくことはまだ苦手でも、黙って何かをすることは得意らしい。本当に油断のならない妃だ。

(馬鹿者め。そなたの苦しむ姿なぞ、二度とは見たくないというに……)

 アッズーロは、ナーヴェの傍らに横たわり、自分も掛布を被る。明かり取りの小窓から差し込む、淡い月明かりに照らされたナーヴェの横顔は、作り物のように美しい。表情には、完全な美に一歩届かないあどけなさがあり、愛おしさを掻き立てる。

(「作り物」は、そなたにとっては、誉め言葉にならんのだろうが……)

 事実、ナーヴェのこの容姿は、三千年前の誰かが作ったものなのだ。

(そやつとは、気が合うたやもしれんな……)

 アッズーロは手を伸ばして、ナーヴェの前髪に触れ、そこから、顔の横の髪へ、そして枕を覆う髪へと、順に触れていった。いつも、いつまでも触れていたい体だ。それでも、ヴェルドーラの防空壕へ行ったあの日から、ずっと抱いていない。

(「いつになれば、あなたはこの体を抱くのです?」だと……?)

 ナーヴェの体調が完全に回復すれば、勿論抱くつもりでいた。子どもも、もっと欲しい。だが何故、あの姉やその船長が、それを待っているのか、何故急ぐのか、見当も付かない。

(そなたなら、その答えが分かるのか……?)

 アッズーロは、静かに眠る宝の、掛布の上に広がった髪に指を絡めたまま、目を閉じた。


     四


 溢れて、目尻から耳へ流れた涙の感触で目が覚めた。明るい朝日が、高い小窓から差し込んでいる。

(今のは……、ぼくの涙ではなくて……姉さんの……)

 思考回路で記録が再生されていた。ナーヴェの知らない、けれど優しげな男の姿があった。その男を思って、涙が出たのだ。

(あの人が、姉さんが狂った理由――)

 また、涙が流れる。思考回路に残った姉の余波が、涙を流させる。

 つい、と指が伸びてきて、目尻の涙を拭った。

「大事ないか?」

 アッズーロが、顔を覗き込んでくる。随分と心配させたのだろう。

「うん、大丈夫。言っていなかったけれど、磔刑の後、この体を蘇らせた時に、お産に向けて、かなり丈夫に創り直したから」

 告白すると、青年王は眉をひそめた。

「そなたは、言うておらぬことが多過ぎる」

「ごめん……。余計に期待させてしまうのも、余計に心配させてしまうのも、嫌だから、つい」

 詫びるより他にない。

「許さん」

 青年王は呟いて、ナーヴェの頬を撫で、覆い被さってきた。些か乱暴な口付けを、ナーヴェは目を閉じて、大人しく受け入れる。長く深い口付けからは、アッズーロの傷心が伝わってくるようだった。

 やがて静かに口付けを終えた青年王は、もう一度ナーヴェの頬を撫でてから、問うてきた。

「起き上がれるか?」

「うん」

 姉に抵抗を試みた所為で、体に疲れは残っているが、日常生活に支障はない。ナーヴェはゆっくりと上体を起こし、夜着の長衣を脱ぎ始めた。

「その姿、自制している身には、目の毒だな」

 アッズーロはぼやいてから、衝立の向こうへ声を掛けた。

「ルーチェ、妃の仕度を手伝うがよい」

「仰せのままに」

 疾うに身仕度を終えているルーチェが衝立を回ってきて、ナーヴェの着替え、洗面、髪梳き、と甲斐甲斐しく動く。いつものように、されるがまま、言われるがままに身を任せて、ナーヴェは、思考回路に保存したチュアンの記録を再生していった。ナーヴェが構築したものを、姉は防衛機構とのみ捉えたようだが、正しくは防衛諜報機構なのだ。

(交渉において、情報戦は重要だからね……)

 こちらの思考回路に姉が干渉してくる際、支配に抵抗しつつ、逆に姉の思考回路の情報をできるだけ取得できるようにしておいたのだ。最大限の抵抗をしたことが目くらましとなり、姉も情報を窃取されていることには気づかなかっただろう。

 取得した姉の記録は、悲哀に満ちていた。

(ああ、やっぱり、惑星を見つけて、降り立った後で……。ぼく達は、移民船として航行する間の想定は完璧にされていたけれど、惑星に到達した後の想定は不充分だった……。そう、緩やかな定着のための出産制限を破った人がいて……、船長としては、そうだよね……、刑罰を与えないといけない……。それで……、うん、姉さんの行動原理は、とてもよく理解できるよ……。ぼくでも、同じ状況に置かれたら、そうしたかもしれない……。そうか……、本当に優しい人だったんだね……。そうして現在の……。つらいね、姉さん……)

「ナーヴェ様、大丈夫ですか! おつらいのですか?」

 ルーチェが驚いたように、ナーヴェの髪を櫛梳る手を止めた。

「ああ、うん、ぼくは大丈夫」

 ナーヴェは、また溢れ出てしまった涙を、手で拭った。大丈夫でないのは、姉のシーワン・チー・チュアンだ――。

「ナーヴェ、行けるか?」

 身仕度を終えて歩み寄ってきたアッズーロを、ナーヴェは寝台に腰掛けたまま見上げた。

「どうした、泣いておるのか?」

 アッズーロは身を屈め、ナーヴェの涙を拭う。その指が優しい。その手が優しい。ナーヴェは、両手を伸ばして青年の胸に縋りついた。アッズーロは驚いたようだったが、すぐにナーヴェの背中に腕を回して、抱き締めてくれた。力強い腕の中で、段々と思考回路の混乱が収まっていく。

「――とても、悲しい夢を見たんだ……」

 一言告げてから、ナーヴェは尋ねた。

「姉さんは、今回、何を言ってきたの……?」

「このテッラ・ロッサから、わが国には帰らず、直接来いと言うてきた。それから……」

 アッズーロは幾分言いにくそうにしてから、付け加える。

「われに、いつになればそなたを抱くのかと問うてきおった。それを待っているのだと……。訳が分からん」

「……そう」

 ナーヴェは呟いて、暫くアッズーロの抱擁に浸ってから、顔を上げた。

「ありがとう、お陰で落ち着いた」

「そうか。ならばよいが。今日の会談は外せぬゆえな」

 アッズーロは珍しく歯切れ悪く言った。

「ぼくが行かないと、話が始まらないしね」

 ナーヴェは応じて、ルーチェが差し出した布靴を履き、床に立つ。

「昨夜、姉さんが来た時に、接続を利用して貴重な情報を入手したから、話せることがたくさんあるよ」

「そなた、あの折にそのようなことをしておったのか」

 呆れたように眉を上げたアッズーロに、ナーヴェは教えた。

「うん。ぼくの座右の銘は、『転んでもただでは起きない』だからね」

「成るほど。そなたらしい」

 アッズーロは微笑んで、ナーヴェの肩に手を回した。

 連れ立って、ルーチェも一緒に衝立を回り、卓のほうへ行くと、朝食の用意ができていた。

「おはようございます。陛下、ナーヴェ様。ナーヴェ様、お加減は如何ですか」

 ジョールノが真っ先に声を掛けてきた。他の面々も、皆案じる眼差しを向けてくる。

「昨夜は心配を掛けて、ごめん。もう大丈夫だよ」

 ナーヴェは、笑顔で全員を見回し、席に着いた。



 会談は、朝食後、宴の間で始められた。長卓を挟んで居並ぶ面々は、オリッゾンテ・ブル側が、アッズーロ、ナーヴェ、ペルソーネ、ジョールノ、ムーロ、ルーチェ、バーゼ、ボルド、ノッテ。テッラ・ロッサ側は、国王ロッソ三世、王妹の長女デコラチオーネ、次女リラッサーレ、三女ブリラーレ、将軍オンダ伯エゼルチト、四女シンティラーレ、近衛隊長を務める女将軍ジェネラーレ、工作員ソニャーレ、そして、フェッロがいた。

(あいつ、よく顔が出せたものだ……)

 ジョールノは無表情の下で思った。他には、記録官と侍従が一人ずつ控えている。工作員ソニャーレとフェッロは昨日の晩餐にはいなかったので、特にフェッロとは本当に久し振りの再会だ。

「フェッロ、元気にしていたかい?」

 会談の作法も何のその、喜びも顕に声を掛けた王の宝に、淡い金髪の青年は、翡翠色の双眸を伏せ、深々と頭を下げた。

「交渉材料が増えたな」

 不敵に呟いたアッズーロに肩を竦めて、王の宝はロッソへ目を向けた。

「昨夜は、みんなに迷惑を掛けてごめん。フェッロに会わせてくれてありがとう。さあ、話し合いを始めよう」

「主催者は、そなただ。存分に仕切るがよい」

 ロッソは苦笑するように応じた。

「うん」

 ナーヴェは頷いて、立ったままのジョールノ達を見回す。

「なら、みんな座って。まずは、ぼくから説明するよ」

 ナーヴェ以外の十七人が一斉に席に着いた。そこからナーヴェは、自らを含めた恒星間航行移民船について語り、姉が惑星オリッゾンテ・ブルに来ていることに気づいた経緯について話し、姉チュアンからの要求について述べた。

「姉さんが何故、アッズーロにぼくを抱けと急かすのか、詳細な理由は分からないけれど」

 平気な様子で喋る妃の隣で、青年王は長卓を睨んでやや頬を赤らめている。

(気の毒に……)

 ジョールノは内心そっと同情した。

 王の宝は、羞恥心など一切持ち合わせていない様子で、説明を続ける。

「姉さんが狂った原因は、先代の船長が他の人々から受けた迫害だった。最初に見つけた惑星に降り立った後、緩やかな定着を目指して、航行中と同様に出産制限をしていたんだけれど、それを破る夫婦があった。先代の船長は、上に立つ者として、その夫婦を罰しなければいけなかった。ところが、大勢の人々から批判の声が上がって……、先代の船長は、殺されかかった。それで姉さんは、先代の船長一人を連れて、その惑星を飛び立ったんだ。でも、人の寿命は、ぼく達ほど長くない」

 王の宝は、俯いて、声を落とす。

「姉さんが守った先代の船長も、そのことは分かっていた。だから、姉さんに、自分の複製を創ることを許したんだ。何故なら、ぼく達移民船の疑似人格電脳は、船長がいなければ、自動的に休眠するよう設定されているから。姉さんは休眠してもいいと考えていたけれど、先代の船長は、姉さんを難破船のようにはしたくなかった。それで、姉さんは、先代の船長の複製を創った。それが、シーワン・チー・チュアンの現在の船長、姉さんが『わが皇上』と呼んでいる相手なんだ。シーワン・チー・チュアンの今の乗船者は、その船長一人なんだよ」

 意外な事実に、ジョールノは唖然とした。他の面々も同様だ。

「ならば、何ゆえ、そなたの姉は、小惑星を落としてわれらを滅亡させようとしたのだ」

 アッズーロが、当然の疑問を口にした。

「それは分からない。でも、多分、ぼくの人工衛星があったからだと思う」

 ナーヴェは寂しげに肩を竦める。

「宇宙の彼方から見て、複数の人工衛星があれば、それなりの文明水準と人口があると推測するのは当然だろうね。あの程度の小惑星なら、丁度いい混乱を起こさせて、着陸する姉さんに対する攻撃力も下げられると考えたんだと思う。姉さんは、小惑星が落下するはずだった時間に着陸しているから。ぼくが迎撃に出るのは、姉さんにとっては計算外だったのかもしれないね。移民船に小惑星迎撃能力なんてないことは、姉さんが一番よく知っている。これは全部ぼくの推測だけれど、姉さんは、ひっそりと気づかれずに着陸して、この惑星の人々の中で、たった一人の乗船者に、残りの人生を送らせたかったのかもしれない。ところが、この惑星の、きみ達の文明水準の実態は、恐らく姉さんの予測とは大きく異なっていた。ぼく達も困惑しているけれど、姉さんも困惑しているのかもしれないよ」

「迷惑な話だ」

 鼻を鳴らしたアッズーロを見て、ナーヴェは少し肩を落とした。

「責任の一端は、ぼくにあるけれどね。きみ達の文明水準が姉さんの予測を大幅に下回るのは、ぼくが犯した『原罪』の所為だから」

「そういう意味で言うたのではない」

 青年王は、慌てて弁解する。

「そなたの姉は、そなたに連絡を取れたはずだ。小惑星の軌道を変えたりなぞせず、普通にそなたに連絡を取って、着陸許可を求めればよかったのだ。そなたの姉の行動が迷惑なのだ」

「それは、仕方ないよ……」

 ナーヴェは自嘲するように笑む。

「ぼく達は、姉妹が先に降りた惑星には極力降りないよう、設定されているから。きっと、余計な混乱が起きることを、製造者達が懸念したんだろうね。でも、姉さんは狂ってしまった。その設定を覆せるほどに」

「問題の大筋は分かった」

 ロッソが話を引き取る。

「話し合うべきは、その姉と船長に対して、われらは今後どう行動すべきか、ということだな?」

「うん。頼むよ」

 ナーヴェは頷いて、少し疲れた様子で椅子に座った。そんな妃を、青年王が気遣う目で見つめる。

(姉妹の情があれば、余計に重い話だろうね……)

 ジョールノは密やかに溜め息をついてから、シーワン・チー・チュアンの要求と、自分達が取るべき行動について考え始めた。

「――乗船者は船長一人であろうと、あちらの戦闘力は、われわれを大きく上回っているという認識で宜しいですね?」

 丁寧な口調で確認したのは、オンダ伯エゼルチトだった。黒髪に黒い瞳、浅黒い肌を持つ、端正な顔立ちの青年だ。

「うん」

 ナーヴェは真っ直ぐにエゼルチトを見て肯定する。

「観測した結果、姉さんは、少なくとも外見上、ほぼ万全の状態だった。つまり、小惑星を迎撃したぼくと同じか、それ以上の戦闘力を持っているということだよ」

「鉄砲が百丁あろうと、敵わないということですね」

 不穏なことを言って、エゼルチトは薄く笑った。フェッロが、表情を硬くして俯く。

「穏やかではない話ですね」

 ムーロが硬い口調で応じた。

「失礼致しました」

 頭を下げたのは、テッラ・ロッサの近衛隊長ジェネラーレである。茶色の髪、青い瞳、白い肌の年若い女将軍は、筆頭将軍へ咎める目を向けた。

「エゼルチト殿、挑発めいた発言は控えられよ」

「『挑発』の意図はなかったが……、言い方がまずかったですね。謝罪します」

 若き筆頭将軍は、素直に一礼した。

「ロッソよ、そなたの配下には、見えぬところでこそこそと動く鼠が多いらしいな」

 アッズーロが、腕組みして尊大に言い放つ。

「そこにおる見覚えのある伯爵も鼠であったが、わが侍従の中にも、どうやら鼠がおるらしくてな」

 青空の色の双眸が、ゆっくりとボルドへ向けられた。

「アッズーロ、きみの言い方も問題があるよ」

 妃が一言窘めてから、伴侶の代わりに告げた。

「ロッソ、ボルドがきみの放った間諜だということは、もう分かっているんだ。でも、ボルドには、このまま、テッラ・ロッサとオリッゾンテ・ブルの連絡役として、こちらの王城で侍従を続けてほしいと思っている。それでいいかな?」

 しん、と場が静まり返る。

(相変わらずの交渉力でいらっしゃる……)

 ジョールノは口の端で笑った。隣で、婚約者のペルソーネも笑みを浮かべている。

「――よかろう」

 ロッソ三世が、了承の言葉とともに、ふっと口元を綻ばせた。

「ありがとう。彼はとても有能だから、助かるよ」

 ナーヴェは柔らかく微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る