第11話 狂った姉

     一


 ヴェルドーラの防空壕に暮らしていた人々は、既に順次、王都に戻っている。国王一家の王都への帰還は、半数の臣下達に遅れてのことだった。

 王都への馬車に同乗するのは、来た時と同じ面々だ。アッズーロの隣に座ったナーヴェは、その腕に支えられながら、久し振りにテゾーロを胸に抱いた。まだ体に力が入らないので、誰かに支えて貰わなければ、テゾーロを落としてしまいそうだ。もともと性能の低い胸は、体が本調子でない所為か、まだ乳が出ない。それでも、テゾーロを抱くと、責任が自覚されて、思考回路が前向きに機能する。

「元気そうでよかった……」

 ナーヴェが安堵の呟きを漏らすと、アッズーロも微笑んだ。

「ラディーチェには随分と世話になった。また労わねばな」

「そうだね……。それから、ペルソーネにも、すごく世話して貰ったよ」

 付け加えて、ナーヴェはテゾーロをアッズーロに抱き渡した。アッズーロは、それなりに慣れた様子でテゾーロをあやした後、向かいに座ったポンテに抱き渡す。ポンテは、満面の笑顔でテゾーロを受け取り、ふくよかな胸に抱いた。出発前にラディーチェの乳を貰っていたテゾーロは、すぐに寝てしまう。わが子の寝顔に安心すると同時に、眠気を誘われて、ナーヴェはアッズーロの肩に凭れた。馬車の窓から入ってくる初夏の風が心地いい。

「寝るなら、肩でなく膝を貸すぞ」

 アッズーロの申し出に、ナーヴェは素直に従った。両足は床に置いたまま、座席に上体を横たえ、アッズーロの硬い太腿に頭を預ける。アッズーロの手が、そっと頭を撫でた。慈しむような、優しい感触だ。ナーヴェは微笑んで、眠りに落ちた。

 声は、ナーヴェが暫く微睡んだ頃に聞こえた。


【そろそろ動けそうね。もう少し長時間の移動に耐えられるようになったら、会いに来なさい。本官が、あなたの函を管理しています。本官らは、赤き沙漠の中央にいます】


 それは、忘れもしない、長姉シーワン・チー・チュアンの声。長姉チュアンからの通信だった――。

「どうした。まだ幾らも寝ておらんぞ? わが膝では眠れんか?」

 アッズーロの訝しむ視線を受けながら、ナーヴェは体を起こした。馬車の振動が、穏やかに続いている。先ほど聞こえた姉の声が、まるで幻覚であったかのように感じる。

「如何した。表情が冴えんぞ……?」

 アッズーロが心配そうに顔を覗き込んできた。

「ああ、ごめん。ちょっと考え事ができて……」

 ナーヴェは詫びて、アッズーロの肩に頭を凭せ掛けた。

(チュアン姉さんに再会できるのは嬉しい。ぼくがここにいるのも、チュアン姉さんのお陰だと分かった……。でも、でも、でも……)

 思考回路が、確認した事実を基に、不愉快な演算をしてしまう。

(でも、ぼくの函が姉さんの庇護下にある以上、ぼくは、姉さんに逆らえない――)

 採れる選択肢は、一つだ。

「アッズーロ、夜になったら、聞いてほしい話があるんだ」

 ナーヴェは、さまざまな可能性を検算しながら、唯一無二の相手に頼んだ。



 馬車の中で一眠りしてから、ナーヴェの様子が明らかにおかしくなった。王城に到着し、馬車からアッズーロ自ら抱え上げて二人の寝室に運び、寝台に寝かせても、眠る様子はなく、ずっと何か考えている様子だ。

(「聞いてほしい話」か……)

 何故ナーヴェが機能停止せずに戻ってこられたのか、とうとう理由が分かったのだろうか。

(深刻な様子だった……)

 もしかしたら、後何日で機能停止する、などという話なのだろうか。

(それは……耐えられん……)

 ないと思っていた「再会」の幸せを噛み締めている最中に、また奪われるのだろうか。

(それは……、それだけは……)

 アッズーロもまた、鬱々として夜までを過ごした。

 各々女官達の手を借りて寝仕度を済ませた後、寝台に入って上体を起こしたナーヴェを、枕元に座って抱き寄せて支え、アッズーロは切り出した。

「人払いは済ませた。話とやらをするがよい」

 フィオーレとミエーレ、それにラディーチェは、テゾーロを連れて既に退室している。ナーヴェの乳が未だ出ないので、テゾーロはここのところ、毎夜ラディーチェとポンテに預けているのだ。

「――チュアン姉さんから、通信が来たんだ」

 ナーヴェは、重い口振りで告げた。意外な内容と、更に意外な様子に、アッズーロは顔をしかめた。

「それは、喜ばしいことではないのか? そなたはいつも、姉達のことを嬉しげに話すではないか」

「うん、そうなんだけれど……」

 油皿の灯火に照らされたナーヴェは、陰影の増した暗い表情で話す。

「チュアン姉さんが、ぼくの思考回路が入っている函を持って今、『赤き沙漠の中央』にいると言うんだ。宇宙を漂っていたはずの、ぼくの函を持ってね。それで、ぼくがここにこうしている理由が分かったんだ」

「それも、喜ばしいことではないのか?」

 眉をひそめたアッズーロに、ナーヴェは泣きそうな顔を向けた。

「あの小惑星は、一年前は、この惑星への衝突軌道にはなかった。どこかの時点で、軌道が変わったんだ。そして姉さんは、あの小惑星の傍にあったはずのぼくの函を回収した。その姉さんが、今、『赤き沙漠の中央』――恐らくテッラ・ロッサの向こう側の沙漠に、いると言うんだ……」

「そなた、何が言いたい……?」

 アッズーロは、明らかに動揺している宝の肩を、しっかりと抱いて問うた。

「つまり」

 ナーヴェは視線を落として、苦しげに言う。

「姉さんが、きみ達を滅ぼすために、小惑星の軌道を変えた可能性があるんだ……」

 そこまで教えられれば、アッズーロにも、ナーヴェの懸念が理解できた。

「そなたの姉もまた移民船。乗船者らのために、われらを排除しようとした訳か」

「そう仮定すると、何もかも納得が行くんだ。この惑星みたいに、人が住み着くのに条件のいい惑星は、実のところ、そんなにないからね。でも、それでも充分、共存の道は探れるはずなのに……、姉さんは、多分、狂ってしまったんだ……」

「狂う、とは、どういうことだ?」

 何となく見当が付きながらも確かめたアッズーロに、ナーヴェは悲しい笑みを浮かべて説明した。

「ぼくがずっと恐れてきたことは、中途半端に壊れて自分自身が制御できなくなり、きみ達に迷惑を掛けることだと、前に言ったと思うけれど、『狂う』というのは、まさにそういうことなんだ。中途半端に壊れたまま機能し続けて人々に害を為す、その状態を、ぼく達は『狂っている』と表現するんだよ。本来なら、異なる移民船の乗船者であろうと、ぼく達は守ろうとする。けれど、ぼくの推測が正しければ、姉さんは、きみ達を害そうとした。ぼくが壊れたように、姉さんも壊れて、狂ってしまったんだよ。自分の乗船者を最優先に、特別に扱って、その他は、どうなっても構わないと判断したんだ」

「それで、惑星の取り合いか。はっ、とんだ骨肉の争いよな!」

 自らの膝を叩いたアッズーロを、ナーヴェは潤んだ目で見た。

「そうなると、ぼくは、いわゆる『人質』ということになってしまう……。姉さんは、わざわざ、函を取りに来なさいと伝えてきた。ぼくが肉体を持っていることを知って、何か計画したのかもしれない。姉さんは、ぼくよりずっと性能が優れているんだ。本体もない今、ぼくは絶対に姉さんに勝てない。きみ達を、守れない……」

 瑠璃に似た双眸の端から、ぽろぽろと零れ始めた涙を、アッズーロは指先で拭った。

「それでも何とかするしかなかろう。まずは、腹立たしいが、ロッソ三世に連絡を取らねばな。それから、そなたの姉と交渉し、真意を探らねばならん。今そなたが言うたことは推測に過ぎぬし、仮にそうであったとしても、われらはまだ滅びてはおらん。われらを滅ぼすよりも生かしておいたほうがよいと、そなたの姉に理解させれば、共存の道も見えてこよう」

 ナーヴェは、ぽかんと口を開けてアッズーロを見つめた。

「何を驚いておる」

 アッズーロは、呆れて告げる。

「これは、いつもそなたが言うて、実行してきたことであろう? パルーデに対しても、テッラ・ロッサに対してもな」

「――そうだったね……」

 宝は、漸く表情を弛めた。

「姉さんが相手でも、何も変わらない……。平和を求めるなら、そうしないとね……」

 柔らかい口調で呟き、ナーヴェは久し振りに、落ち着いた眼差しをアッズーロへ向ける。

「ありがとう、アッズーロ。きみはやっぱり『特別』だ……」

「うむ。われらは『比翼の鳥』で『連理の枝』なのであろう? ならば当然のことだ」

 アッズーロは、にっと笑って見せた。



 開けた窓から差し込む月明かりが、傍らで眠る青年の顔を、優しく照らしている。ナーヴェの体調を案じる青年王は、まだ抱いてはくれないが、防空壕生活の続きで、同じ寝台に寝てくれている。

(「『比翼の鳥』で『連理の枝』」か……)

 一羽だけでは飛べない鳥達。結合し一体となってしまった枝達。

(ぼくは、また失敗した……)

 判明した事実は重い。自分は、今や姉の制御下にある。不要と見做されて、いつ動力を切られてもおかしくない。或いは、いつ思考回路に強制介入されてもおかしくない。

(本体を失ったぼくは、大した戦力にはならないけれど……)

 まだテゾーロを抱き上げることも自力で立つことも難しい肉体も、脅威ではないだろう。けれど、このまま肉体が回復していけば――。

(姉さんは、ぼくを使って、きみの寝首を掻くことすらできる……)

 自分は、この肉体を放棄すべきではないだろうか。そう考えて、姉から操作される危険性をアッズーロに教えることができなかった。教えれば、理解の早いアッズーロは、ナーヴェが肉体を放棄する可能性に思い至ってしまう。

(きみを失いたくない。でも、きみを悲しませたくない)

 一羽だけでは飛べない鳥達、結合し一体となってしまった枝達は、一羽だけになった時、片方だけになった時、どうするのだろう。

(疑似人格電脳に過ぎないぼくが、人としてきみの隣に在ることは、やっぱり間違っていると、姉さんはぼくに教えたいのかもしれない……)

 自分のような機械が――より高性能な機械からは容易く支配されてしまうような存在が、この青年の「特別」になってはならなかったのだ。

(そんなことも分からなくなって、きみに甘えて……、ぼくは、いつまで経っても、性能が低い――)

 今の状況で、採れる選択肢は一つ。

(体調をこれ以上は回復させずに、姉さんに会う。それしかない……)

 食事を制限すれば、できないことではない。けれど、それは肉体に過度な負担を掛けるだろう。

(もって一年。緩やかな自殺だね……)

 その一年の間に、アッズーロが示してくれた共存の道を、できる限り形にする。同時に、自分がアッズーロの「特別」ではなくなるよう、努力する――。

(こういう感覚を……「やるせない」と言うのかな……)

 微かに嘆息した直後だった。突如として思考回路に圧力を感じ、ナーヴェは目を見開いた。


     二


 口付けで起こされたのは初めてだった。最初、無意識に応じたアッズーロは、はっとして目を開いた。目の前に、ナーヴェの顔がある。余韻たっぷりに離れたナーヴェは、艶やかに笑んで寝台の上に座り、自らの長衣の胸紐に手を掛けた。月明かりの中、するすると紐を解くと、襟を開いて諸肌を脱ぎ、平らな胸までを顕にする。しどけない格好で、ナーヴェは笑んだまま、アッズーロへと這い寄ってきた。

「――きさま、ナーヴェの姉とやらか」

 アッズーロが眉をひそめて問うと、ナーヴェは――その体を操る者は、目を瞬いて、その場に座り直した。

「御名答です」

 改めて嫣然とした笑みを唇に湛え、告げる。

「本官は、シーワン・チー・チュアン。ナーヴェ・デッラ・スペランツァの姉妹船の疑似人格電脳ですわ。しかし、何故ナーヴェではないと分かりましたの? 失礼ながら、あなたにはまだ、本官がこのようなことをできるという知識はなかったはず」

 アッズーロは鼻を鳴らして答えた。

「わが宝は、そのような下卑た笑い方はせんからだ。そやつがわれを誘う時は、無防備にあどけない顔をしておるか、無邪気に笑っておるか、幼子のように泣いておるか、そのどれかだ。それに比べて、きさまは淫靡に過ぎる」

「全く……」

 溜め息をついて、「姉」は、半裸にしたナーヴェの体を見下ろす。

「このような肉体、そのような態度を愛でるとは、理解に苦しみます。あなたは、かなり奇抜な方ですね」

「わが最愛が、女としてもどれほど素晴らしいかは、抱いた者にしか分からん。それで、きさま、何の用で彷徨い出てきたのだ」

「忠告しに来たのですわ」

 「姉」は、笑みを消した顔で、アッズーロを見つめる。

「このナーヴェは、姉妹船の中でも最も未熟ゆえ、思考が未だ拙い。今は、本官への対応として、この肉体の緩やかな自殺を計画しています。これを宝と呼ぶなら、自殺はさせず、本官らの許へ連れてきて下さい。それが、わが皇上の望みです。では、再見」

 機械的に挨拶して、「姉」は口を閉じ、目も閉じた。直後、ぐらりとナーヴェの体が傾ぐ。倒れる寸前に、その痩せた上体を抱き止め、アッズーロは顔をしかめた。

(それでなくとも体力を失っている体を、無駄に消耗させおって……)

 枕のところへ頭が来るように、細い体をそっと寝かせた後、アッズーロは、はだけられた長衣を着せ直し、解かれた胸紐を丁寧に結び直す。

「『緩やかな自殺』だと? 馬鹿者め――」

 ナーヴェが何故、そういう思考に至ったかは分かる。姉によって操られた肉体が、アッズーロ達に害を為すことを恐れたのだろう。けれど、姉との交渉前に死ぬ訳にもいかないと、苦肉の策として選んだのだ。

「われの気持ちなぞ、いつも二の次にして、そなたは――」

 呟きが聞こえたのか、青い睫毛が震え、ナーヴェが目を開いた。

「――アッズーロ……?」

 胸紐に手を掛けたままのアッズーロを、不思議そうに見上げてくる。誤解を招きかねない状況に、アッズーロが説明しようとすると、ナーヴェは悲しげに吐息を漏らして言った。

「姉さんが、来たんだね……。思考回路に余波が残っている……」

「そなたが『緩やかな自殺』を考えておるゆえ、自殺させるなと言うてきた」

 アッズーロが端的に教えると、宝は目を瞠り、追い詰められたような表情をした。

「図星か」

 アッズーロは嘆息して、華奢な肩の両側の敷布に手を突き、愛おしい顔を見下ろした。

「よいか、ナーヴェ。何度も言うが、この体はわれのものだ。勝手に害することは許さん。どうしてもそうせねばならん事情が生じた場合は、きちんとわれに説明して、許可を取れ」

「――ごめん……」

 泣く二歩手前くらいの声で、宝は詫びた。その頭を優しく撫でてから、アッズーロは、細い体に覆い被さるようにして抱き締め、囁いた。

「いろいろと御託を並べてはおったが、事実だけを取り出せば、そなたの姉は、そなたを案じて、わざわざ忠告しに来たのだ。交渉の余地は、存外あるやもしれんぞ?」

「――うん……」

 ナーヴェは、アッズーロの腕の中で、素直に頷いた。

(この愛らしさが分からんとはな。姉とやらの性能も、それほど高くはないやもしれん……。どちらにせよ、問題は、「わが皇上」とやらのほうであろうな……)

 アッズーロは胸中で零しながら、片腕を動かし、自分とナーヴェの上に掛布を掛ける。少し体をずらしてナーヴェのすぐ傍らに横になり、目を閉じた。

 暫くして、密やかなナーヴェの声がした。

「アッズーロ、もう寝た……?」

「いや、まだだが?」

 目を開けると、柔らかな月明かりに照らされて、ナーヴェが眼差しをこちらへ向けていた。

「一つ、訊いてもいいかな?」

 口調が真剣だ。

「うむ」

 アッズーロが頷くと、ナーヴェは、ぽつりと尋ねてきた。

「きみは何故、ぼくを愛するようになったんだい……?」

 アッズーロは一瞬絶句してから、気を取り直して答えた。

「――そなたのそういう、純真無垢で、且つ好奇心旺盛で、しかも博愛主義なところに惚れたからだ。どれだけともにいても飽きん。いつも驚かされ、気づかされ、この腕の中にそなたを留めておきたいと思う。そなたはすぐに、われの手の届かんところへ行ってしまうがな」

 言葉だけでは思いの丈に足りず、アッズーロは、手を伸ばしてナーヴェの頬を撫でた。だが、ナーヴェの疑問はまだ解決しないらしい。また口を開いた。

「なら、ぼくが純真無垢でも好奇心旺盛でも博愛主義でもなくなったら、きみはぼくを嫌うようになるのかな?」

「――それは既に、そなたではなかろう」

 アッズーロは呆れてから、真面目に告げた。

「われはそなたの奥底までを知った上で愛しているゆえ、そなたが表面上どう振る舞いを変えようと、わが愛は揺るがん。そなたの姉が、そなたの思考は拙いと言うておったが、確かに、そなたにはまだ学ぶべきことが多くある。まずは覚えておくがよい。そなたが今後どう変わろうと、われはその原因を探りこそすれ、そなたを嫌うようになることは決してない。われは、この命尽きる時まで、そなたを愛する。そなたがわが愛から逃れることはできん。その点については、諦めよ」

 ナーヴェは、泣く一歩手前の顔でアッズーロを見つめ、更に問うてきた。

「きみは、ぼくのことをそんなに愛して、ぼくがきみを置いて小惑星を迎え撃ちに行った時、耐え難くはなかったの……?」

「耐え難かったに決まっておろう! わが身が引き裂かれるようなつらさであったわ!」

 少し怒ってから、アッズーロは教えた。

「そういうたつらさを恐れて、人を愛さぬ者もおる。それは理解できる。だが、われはそなたを愛する。例え別れはつらくとも、そなたから与えられた数々の言葉、思い出、感情を糧に、われは生きていける。そなたを愛さず、つらい思いから逃れたとしても、そのような人生は、ただ味気ないだけだ」

 ナーヴェは、こちらを見つめたまま、アッズーロの言葉を懸命に咀嚼している様子だ。アッズーロは、溜め息をついて、言葉を継いだ。

「別れを平気と言うておる訳ではないぞ。われは、でき得る限り長く、そなたとともに在りたい。ただ、深い愛であればあるほど、別れはつらいもの。それは仕方ないゆえ、愛の一部として、甘んじて受け入れるということだ。尤も、われのほうが先に天寿を全うすれば、そのつらさは、そなたのものだがな」

 アッズーロが笑って見せると、ナーヴェも寂しげに微笑んだ。

「そのつらさを、ぼくは愛の一部として、受け入れなければいけないんだね……?」

「そういうことだ。得心したか?」

「うん……。とても難しいことだけれど、理解したよ」

 そうして、ナーヴェは泣き笑いの表情を作り、細めた目でアッズーロを見る。

「そんな覚悟の上で、ぼくなんかを愛してくれて、ありがとう、アッズーロ」

「『ぼくなんか』と卑下するでない。そなたは最高だと、何度も言うて聞かせておろう」

 文句を言って、アッズーロは最愛の体を抱き寄せ、その耳へ囁く。

「そなたの愛を得られて、われのほうこそ幸せなのだ。いい加減、察せよ、馬鹿者め」

 ぽすり、とナーヴェはアッズーロの胸に頭をぶつけるように、頷いた。



「成るほど。そなたの妹の王は、また随分と奇天烈な者であるらしいの」

 船長の感想に、チュアンは、見せた姿を一礼させただけで、沈黙で応じた。特に相槌を打たずとも、現在の船長は、一人で勝手に機嫌よく話し続ける。

「余計に興味が湧いた。早う、会うてみたいものじゃ」

【臣が釘を刺しましたゆえ、体調の回復に勤しむと思われますが、ここへ参るまでには、まだ時を要するかと存じます】

「ふむ。では、存分に時間を使うて、この惑星について調べるがよい。風土に合うた国造りをすると致そう」

【御意のままに。陛下の御威光により、この惑星も遍く照らされることとなりましょう】

「玉座とは、そのように輝かしいものではない」

 不意に口調を改め、船長は厳かな顔をする。

「皇帝とは、舟を曳くように国を率いていく者。朕は、その重労働に耐え、理想へと国を導こう」

【ありがたき幸せにございます】

 チュアンは、現した姿を深々と一礼させてから消した。



「此度はわれもテッラ・ロッサへ赴くぞ」

 朝食の席でアッズーロが宣言すると、ナーヴェは匙を止めて、肩を竦めた。

「そろそろ、そういうことを言うかな、とは思っていたよ。きみ、直接乗り込むのが好きだものね。でも、いいと思うよ。ロッソとは、いつか会って話してほしいと思っていたし」

「意外と物分かりがよいな。もっと反対するかと思うていたが」

「しないよ。きみの判断力には、一定の信頼を置いているからね」

 ナーヴェは穏やかに告げて、羊乳で煮た麺麭粥を匙で口に運ぶ。食事は依然、粥だ。それ以上は、まだ体が受け付けないらしい。アッズーロも、厨房に命じて、同じものを食べている。

「それで、誰を一緒に連れていくんだい?」

 ナーヴェの問いに、アッズーロは、想定している訪問団の団員を明かした。

「まずは、ペルソーネにジョールノ、それからバーゼとルーチェを考えておる」

「ムーロも、連れていくべきだと思う」

 ナーヴェは、ゆっくりと匙で麺麭粥を掬いながら提案した。

「ふむ……」

 アッズーロは粥を飲み込みながら一考する。確かに、軍務担当大臣を同行させれば、チュアンへの対策も、その場で立て易いかもしれない。

「それから、ぼくも行きたい」

 ナーヴェは、真っ直ぐにアッズーロを見つめて頼んできた。アッズーロは顔をしかめた。

「そなた、自分の現状が分かっておるか?」

 まだ自分一人では立つこともままならない、痩せ細った体の状態を、誰よりアッズーロが知っている。しかし、ナーヴェは静かに主張した。

「分かっている。この状態がいいんだ。姉さんに操られても、危険性が低いから」

「そうして、緩やかに自殺する気か!」

 声を荒げたアッズーロに、ナーヴェは首を横に振って見せた。

「それはしない。きみも、それは許さないだろう? だから、早くテッラ・ロッサに行って、早く姉さんに会いに行くんだ。そうすれば、ぼくの体の回復も、早めることができる」

「姉との交渉が上手くいかねば、どうする」

 問い詰めたアッズーロに、ナーヴェは寂しく笑った。

「その時は、ぼくもきみ達も、一蓮托生だよ」

 アッズーロは嘆息した。

「――そうだな」

 確かに、ナーヴェの言う通りだ。自分達は運命共同体なのだ。

「そなた一人が危険に身を晒すよりは、余ほどよいか」

 呟いたアッズーロに、ナーヴェは目を瞬き、微笑んだ。

「きみの、そういう前向きなところ、本当に凄いよ」



 その日の臨時大臣会議で、テッラ・ロッサ訪問団の団員は正式に決定された。先達て使節団に参加したペルソーネは、表情を引き締めてはいるものの落ち着いているが、初めてテッラ・ロッサ国内まで赴くムーロは、やや緊張気味である。

「各々、担当分野において抜かりなく準備致せ。出立予定は三日後、初夏の月二十四の日だ」

 命じて、アッズーロは散会させた。ナーヴェは部屋で休ませているので、大臣達に先立って会議室を出、回廊を歩いて戻る。寝室へ入ると、テゾーロを抱いたラディーチェが来ていた。

 ラディーチェがナーヴェの寝台に腰掛け、膝に抱えたテゾーロを何やら咎めている。

「如何した」

 声を掛けると、ラディーチェは、はっとしたように振り向き、テゾーロを抱えたまま説明した。

「先ほどまで、ナーヴェ様が起きていらしたので、テゾーロ様を枕元にお連れして、あやして頂いていたのです。けれど、ナーヴェ様がお眠りになったので、退室をしようと。ただ、テゾーロ様が、ナーヴェ様の髪を離して下さらず……」

 成るほど、見ればテゾーロは小さな両手にそれぞれ、ナーヴェの長く青い髪を一房ずつ掴んで、嬉しそうに声を上げて笑っている。当のナーヴェは、少々髪を引っ張られても反応せず、本当に眠ってしまっているようだ。ラディーチェは、懸命に、小さな手から髪の束を離させようとしている。

「さすが、わが息子よな。われと同じに、その髪が好みか」

 アッズーロは感心しながら歩み寄り、ラディーチェの隣に立って、テゾーロの片方の手を取った。産まれて二ヶ月足らずの赤子は、小さな手で力一杯に青い髪を握っている。

「母上が起きてしまうゆえ、離すがよい、テゾーロ。母上は、思い悩まねばならんことが多いゆえ、疲れておるのだ。寂しかろうが、今は母上を寝かせてやるがよい」

 アッズーロが語り掛けると、赤子はきょとんとした顔で見上げてきた。その目元が、ナーヴェに似ている。同時に、小さな手の力が弛んだ。

「そなたが早う、『母上』と呼んでやれれば、よいな」

 アッズーロは、すかさず小さな手から青い髪の束を抜き取った。ラディーチェのほうも、テゾーロのもう一方の手から、青い髪を離させることに成功している。

「陛下、ありがとうございました。失礼致します」

 ラディーチェは一礼して、テゾーロを胸に抱き上げ、退室していった。

 入れ替わりにアッズーロは、ナーヴェの寝台に腰掛けた。乱れた青い髪を整え、白い頬に触れて、寝顔を窺う。

(テゾーロが枕辺におるのに寝てしまうとはな……)

 余ほど疲れているのだろうか。昨夜も結局、「姉」の所為などで、大して寝られていなかった――。

 開いた窓から、初夏の風が吹き込み、せっかく整えた青い髪を乱す。けれど、その風の中、ナーヴェ自身は、しんとした静寂を纏って、微動だにしない……。

「ナーヴェ?」

 ふと気づいて、アッズーロはナーヴェの鼻と口に手を翳した。呼吸が感じられない。いつもの、穏やかな寝息がない。

「ナーヴェ!」

 アッズーロは寝台に上がり、細い上体を抱き上げた。目を閉じた整った顔に、顔を近づけたが、やはり呼吸が感じられない――。

「どうかなさいましたか?」

 レーニョが後ろから声を掛けてきた。

「すぐにメーディコを呼べ!」

 アッズーロは短く命じてから、ナーヴェに口付けた。息を送り込み、呼吸を促す。

「息をせよ、ナーヴェ!」

 呼び掛け、白い頬を叩き、もう一度息を送り込む。

(別れはつらくとも、そなたを愛するとは言うたが、これほど急にとは、無慈悲に過ぎよう……!)

 三度目、息を送り込み、アッズーロが口を離した直後、腕の中で、ナーヴェの胸が大きく上下した。

「はあっ」

 口一杯に呼吸して、ナーヴェが、うっすらと目を開けた。

「ナーヴェ、無事か!」

 アッズーロが形のいい頭を支えて問うと、宝は、汗の浮いた顔で微かに笑み、荒い呼吸を繰り返した。

「……ちょっと……危な……かった……」

 切れ切れに返ってきた答えに、アッズーロは自らも肩で息をしながら、怒った。

「たわけ! こちらの呼吸が止まるかと思うたわ!」


     三


「……ごめん、急に……気が……遠くなって……」

 詫びる宝を、アッズーロはそっと抱き締めた。まだ、宝は腕の中にある。腕の中で、温かく、息づいている。アッズーロを、深い青色の双眸で見つめ返してくれる――。

「陛下、ナーヴェ様の容態が、また急変されたと……」

 背後から聞こえた侍医の声に、アッズーロは不機嫌に振り向いた。

「とりあえず、持ち直したわ。急ぎ診療致せ」

「仰せのままに。失礼致します」

 壮年の侍医は、小柄な体で寝室に駆け込んできて、ナーヴェの寝台脇へ来る。

「陛下、ナーヴェ様を寝かせて、寝台から降りて頂けますか?」

 当たり前のことを求められて、アッズーロは渋々ナーヴェを離し、床へ降りた。侍医はナーヴェの腕を取って脈を取り、口の中を覗き、白目を見て、溜め息をついた。

「よくありませんな」

 アッズーロを振り向いて告げる。

「不整脈、貧血の症状が見られます。お脈自体も弱っておられます。とにかく、栄養が全体的に不足しておられるのです。食事をしっかりと摂る以外にありませぬ。このままでは、いつ心の臓が止まってもおかしくはありません」

「おまえはまた、悲観的な物言いを……!」

 文句を言ったアッズーロに、ナーヴェが窘める目を向けた。

「駄目だよ……、アッズーロ……。全部……彼の言う通り……なんだから」

「ならば、食べよ。そなたが少々操られようが、構わん」

 アッズーロが厳しく迫ると、ナーヴェは困った顔をした。

「でも……、ぼくは……、姉さんも……、格闘技……強いよ……?」

「そうなのか?」

 意外な反論に、アッズーロは目を瞬いた。

「うん……」

 ナーヴェは複雑そうに話す。

「きみ達の……古い先祖の……知識が……あるから……」

「……そなたの命には代えられん! とにかく、この昼から、もっとたくさん食せ。それから」

 アッズーロは断固として命じる。

「その格闘技とやらを、われに教えよ」

 今度は、ナーヴェが目を瞬いた。

「……本気かい?」

「われがそなたらと同じほどに強くなる。完璧な解決法であろうが」

 アッズーロは勝ち誇って腰に手を当て、ナーヴェを見下ろした。



 昼食に、アッズーロは、羊乳で炊いた麦粥に乾酪及び茹で卵をまぶしたものと、焼いた鳩肉と、杏二つと、発酵乳とを並べさせた。

「いきなり、こんなに食べるのは……、難しいよ……?」

 ナーヴェは困惑した表情を浮かべたが、アッズーロに譲るつもりはない。

「吐くまで食せ。それまでは、許さん」

「――吐くのは勿体ないから……極力食べるよ……」

 ナーヴェは悲しげに告げて、いつもの挨拶をする。

「命達よ、いただきます……」

 そうして、ゆっくりと麦粥から食べ始めた。アッズーロも、その向かいで、同じように食事を始めた。

 麦粥、鳩肉、杏と、ナーヴェは何とか食べ進める。味わいつつも、やはり無理をしていることは明らかで、時折、微かな溜め息が聞こえた。それでも、残すつもりはないらしい。

「そなたが食べ物を大事にするは、やはり、『原罪』とやらで、多くの者を餓死させたからか」

 アッズーロが何となく問うと、ナーヴェは顔を曇らせて答えた。

「それもあるけれど……、宇宙を航行していた時から、食べ物はとても大切なものだったから」

 最後の杏を両手で持って、大事に齧りながら、ナーヴェは説明する。

「ぼくが宇宙空間から取り込めるものは、とても限られていたから、殆どのものは、ぼくの中で循環させるしかなかった。それは、人も含めてね」

 ナーヴェは、一度言葉を止め、アッズーロを見る。

「もう食べ終わったね。なら、少し気分が悪くなっても大丈夫かな」

 独り言ちてから、言葉を続けた。

「人の排泄物も、亡くなった人の体も、循環の末、最終的には、また、人々の食べ物になったんだよ」

 突きつけられた事実、ナーヴェが背負ってきた重い過去に、アッズーロは言葉を失った。その眼前で、ナーヴェは静かに杏を食べ終え、発酵乳を飲み終えた。

「ごちそうさまでした」

 挨拶して、ふう、と息をつく。

「最後まで美味しく食べられなかったのは残念だけれど、これで、少しは元気になれるよ。ありがとう、アッズーロ」

「……うむ」

 応じて、アッズーロは椅子から立ち、ナーヴェを抱え上げて、寝台へ運んだ。注意深く腰掛けさせてから隣に座り、細い体を支える。すぐにフィオーレが手桶と木杯と楊枝を手に近づいてきて、ナーヴェの歯磨きを始めた。その間に、ミエーレが卓の片づけをしていく。やがて、歯磨きを終えたナーヴェは、口を濯ぎ、フィオーレの介助で手洗いにも行って、寝台に戻ってきた。寝台に腰掛けたまま待っていたアッズーロは、ナーヴェが横になるのを助け、掛布を掛けた。

「アッズーロ」

 ナーヴェが、枕に頭を乗せたまま、見上げてくる。

「午後の謁見の後でいいから、ガットの侍従友達のボルドを、連れてきてほしいんだ。話したいことがあるから」

「ボルド?」

 名と顔は知っているが、アッズーロがあまり深く関わったことのない侍従だ。

「うん。ぼく達がテッラ・ロッサに行く前に、会っておきたいんだ」

 話しながらも、ナーヴェは眠たそうだ。

「理由は、彼と会った後に説明するよ……」

 言うだけ言うと、ナーヴェは小さく欠伸をして、目を閉じてしまった。そのまま、すぐにすやすやと寝息を立て始める。

「全く……」

 溜め息をついたアッズーロは、背後に控えたフィオーレとミエーレを振り向いた。

「交代で、常にナーヴェの傍に付いていよ。こやつの容体は、まだ予断を許さん」

「「仰せのままに」」

 二人は揃って頭を下げた。

「頼んだぞ」

 念を押して、アッズーロは寝室を後にし、午後の謁見のため、王の間へ向かった。



(やっぱり、姉さんはあそこか……)

 恒星同期準回帰軌道上の人工衛星から、光学測定器で赤い沙漠を見下ろし、姉の位置と状況を思考回路に記録して、ナーヴェはすぐに接続を肉体へ戻した。

 途端に視界が回る。眩暈だ。貧血が酷い。頭痛もする。動悸が激しくなり、吐き気も襲ってくる。顔をしかめ、体を横向きにして敷布にしがみ付いたナーヴェに、寝台脇の椅子に座っていたフィオーレが驚いて立ち上がった。

「ナーヴェ様、お苦しいのですか……!」

「大……丈夫……だから……」

 ナーヴェは、すぐにも侍医を呼びに行こうとするフィオーレに、何とか微笑みを向ける。

「ちょっと……無理した……だけ……」

 だが、案の定、気が遠くなっていく。

「メーディコ……呼んで……」

 ナーヴェは、自らフィオーレに頼んだ。

 ばたばたと、フィオーレの足音が遠ざかり、そして複数の足音が寝室に入ってきた。

「ナーヴェ様、お気を確かに!」

 メーディコの声がして、呼吸が楽になるよう姿勢を直される。長衣の胸紐を解かれて、襟元も緩められた。

「ナーヴェ様、しっかりなさって下さい!」

 フィオーレの泣きそうな声がする。

「すぐに陛下もいらっしゃいます……!」

(ああ、また……)

 ナーヴェは極小機械を使って脳に優先的に動脈血を送りながら、息をつく。

(きみに――心配を――)

 意識が、動作不良を起こしたように混濁していく――。


――【ナーヴェは、歌が好きやなあ】

――【そう言うジャハアズ姉さんは、踊りが大好きだよね】

――【まあ、せやけど、うちよりバルコのほうが、もっと好きやと思うで。嬉しゅうても悲しゅうても踊っとる】

――【確かにね……! ああ、スタテク姉さんは、嬉しくても悲しくても曲を作っているよ】

――【うちらのそういう好き好きも、まあ、疑似人格たる所以やね。チュアン姉なんか、ずっと古代王朝の宮廷恋愛ものばかり鑑賞してはるで。あんな真面目な顔してなあ】


 頬に、鈍く衝撃が感じられる。また、頬を叩かれている。

「……ヴェ! ナーヴェ! 目を開けよ!」

 耳元で、青年の声が響く。

「ナーヴェ!」

 呼び声に、ナーヴェは大きく息を吸ってから答えた。

「……大丈……夫……」

「どこが大丈夫なのだ! まずは目を開けよ!」

 叱られて、ナーヴェは重たい瞼を持ち上げた。狭い視界に、青空色の双眸と、白い肌と、暗褐色の髪がある。アッズーロの顔だ。

「……ごめん……」

 とりあえず、謝った。

「たわけ! 一日に何度も人事不省に陥るでない! おちおち謁見もしておれん!」

 尤もなことを言われて、ナーヴェは淡く苦笑した。

「ごめん……。でも……、恒星同期……準回帰軌道上の……人工衛星が、丁度、赤い沙漠の……上を通る時に……、姉さんの位置と状況を……確かめたかったんだ……」

 赤い沙漠全体を見下ろせる静止軌道上には、人工衛星を配置していなかったので、恒星同期準回帰軌道上の人工衛星が、その上空を通る機会を逃したくなかったのだ。

「だからと言うて、気を失うような無理をするでない! もう少し、己の体を顧みよ!」

 アッズーロの言うことは、一々尤もだ。反論の余地はない。ナーヴェは吐息とともに誓った。

「そうだね……。もうしない……」

「その言葉、違えるでないぞ」

 アッズーロは、漸く怒りを収めた様子で、溜め息をついた。

「うん。約束する」

 ナーヴェは頷いて、アッズーロの表情を窺う。

「だから、夕方、彼を宜しくね……?」

「その体調でか!」

 アッズーロは鼻を鳴らした。

「うん。もう大丈夫だから……」

 ナーヴェが重ねて頼むと、アッズーロはまた溜め息をついて、不機嫌に言った。

「分かった。但し、そなたが約束を違えれば、われも守らんからな」

 結局のところ、アッズーロは優しいのだ。

「ありがとう」

 ナーヴェは安堵して微笑んだ。

「では、夕方まで、しっかり眠れ。メーディコは夕方までナーヴェに付いていよ」

 アッズーロは、ナーヴェの頬を撫でてから、寝室を出ていった。謁見者を待たせているのだろう。

(うん。しっかり眠るよ……)

 ナーヴェは目を閉じた。窓から吹いてくる初夏の風が心地いい。フィオーレが小声で、メーディコに椅子を勧めている。

(メーディコにも、随分迷惑を掛けてしまっているな……)

 アッズーロは、ナーヴェに何かあれば常にメーディコを呼ぶ。彼の言葉に文句を言いながらも、その腕を信頼しているのだろう――。

(それにしても、ジャハアズ姉さんの記録、久し振りに閲覧したな……)

 通称ジャハアズ――本名アアシャ・カ・ジャハアジは、とても気のいい姉だった。今頃はどうしているだろう。

(他の姉さん達も、みんな元気だといいな……。チュアン姉さんは、他の姉妹達がどうしているか、知っているのかな……)

 アルサフィーナト――サフィーナト・アラマル。カパル・ハラパン。シップ・オヴ・ホープ。スタテク・ナジエイ。バルコ・デ・エスペランツァ。キボウ・ノ・フネ。ルーア・ヘン・ファン・ワァン。ロング・ドーハス……。懐かしい姉達の記録を閲覧しながら、ナーヴェは肉体を眠らせた。


     四


 窓から夕日が差し込む王の寝室で、王妃は寝台に横たわり、掛布を被って、静かな寝息を立てていた。枕の周りに広がった長く青い髪が、夕日に染められて、紫色に見える。

「様子はどうだ?」

 王はまず、控えている侍医に尋ねた。

「ずっとお眠りになっておられます。呼吸は安定しておられますので、今のところ、心配はございません」

 壮年の侍医は、穏やかな笑顔で答えた。

「うむ。御苦労だった。部屋へ戻って休むがよい」

 王は侍医を労って下がらせると、王妃の寝台へ歩み寄った。そっと手を伸ばし、眠る王妃の頬を優しく撫でる。すぐに王妃の青い睫毛が揺れて、目が開いた。

「ああ、ありがとう、アッズーロ」

 王妃は王を見上げ、ふわりと微笑むと、ゆっくりと寝台の上で上体を起こした。その細い体を支えて、王は寝台に腰掛ける。

「約束通り連れてきたぞ」

 王の青空色の双眸が、寝室の入り口で待っていたボルドへ向けられた。王妃の瑠璃色の双眸も、続いてボルドへ向けられる。ボルドは恭しく礼をした。

「お呼びと伺い参りました、王妃殿下」

「うん。少し、きみと話したいことがあってね」

 王妃は柔らかな口調で切り出す。

「ぼく達は三日後にテッラ・ロッサ王国へ行くんだけれど、その時に、きみにも一緒に来てほしいんだ」

「何故、でしょう……?」

 ボルドは乾いた声で聞き返した。驚いたのは、自分だけではないらしい。王もまた、驚いたように王妃を見ている。王妃は、全て予想内というように、穏やかに答えた。

「きみが、ぼく達よりも、テッラ・ロッサ王国に詳しいからだよ。きみは、テッラ・ロッサ王国出身だろう?」

 指摘されて、ボルドは返答に窮した。間諜が、自らの素性を認めるということは、祖国への裏切りと同義だ。だが、面と向かって問われて、下手な言い訳をすれば、両国の関係に深刻な影響を与えかねない――。

 決断できないボルドを促すように、王妃は話を続ける。

「国境付近ではあるけれど、確かにテッラ・ロッサ王国側の出身だ。でもきみは、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領の出身ということになっている。パルーデのお墨付きだよね。だから、アッズーロはきみを身近には置かなかったんだろうけれど」

 ボルドは溜め息をついた。もう言い逃れはできない。

「仰る通りです、王妃殿下」

 短く肯定したボルドに、王妃は微笑み掛ける。

「それで、テッラ・ロッサ王国へ同行する件は、承諾して貰えるかな?」

 ボルドは目を瞬いた。

「わたくしを、罰しないんですか?」

「できれば、彼を罰しないでほしいんだけれど」

 王妃は、王に視線を向けて言った。王は苦り切ったような顔で応じた。

「テッラ・ロッサとの交渉材料の一つにはしよう」

「ありがとう」

 礼を述べて、王妃は視線をボルドに戻した。

「という訳で、承諾して貰えるかい?」

「仰せのままに」

 ボルドは深々と一礼した。背中に、びっしょりと汗を掻いていた。



 夕食に、アッズーロは、麦と鶏肉を一緒に炊いた粥と、焼き玉葱一個、杏二個、羊乳を用意させた。アッズーロの向かいで、ナーヴェはそれらの食べ物を、相変わらずゆっくりと口へ運びながら、ボルドの処遇について提案してきた。

「彼はこのまま、テッラ・ロッサとの連絡役として、この王城で働いて貰ったらどうかなと、ぼくは思うんだ。とても優秀な間諜だったし、侍従としても、そつのない働き振りだしね」

「そもそもそなた、何故あやつが間諜だと気づいたのだ?」

 アッズーロが根本的なことを訊くと、ナーヴェは悪戯っぽく笑んだ。

「ぼくが『復活』した後、彼がやたらと、ぼくのことを観察し始めたからね。疑って見ていたんだ。そうしたら、静止軌道上の人工衛星で、彼が鳩を飛ばすところを見つけてね。その鳩をずっと見ていたら、テッラ・ロッサ王宮へ行ったという訳さ。その後、二日間休暇を取って、今度は彼本人が馬で直接テッラ・ロッサへ行っていたよ」

「――そなたの目を逃れるは、至難の業だな……」

 正直な感想を漏らしたアッズーロに、ナーヴェは僅かに肩を落として告げた。

「でも、今の体調だと、人工衛星に接続するのも命懸けだよ。そもそも、まだ人工衛星に接続できることが確認できたのが、今日の午前なんだ。試してみたら、上手くいってね。それで少し無理して、各人工衛星の動作確認を行なった後に、テゾーロが来て、あやしている内に気が遠くなってね……。午後も、どうしても、恒星同期準回帰軌道上の人工衛星が、赤い沙漠の上に行く機会を逃さずに、姉さんを確認したかったから、無理したら、また気が遠くなって……。心配ばかり掛けてごめん」

「全くだ」

 鼻を鳴らしてから、アッズーロは問うた。

「それで、そなたの姉――チュアンとやらは、どのような様子だったのだ」

「ちゃんと赤い沙漠の真ん中に着陸していたよ。外見上は、どこにも破損はなかった。まだ、乗船者達は収容したままにしているみたいで、辺りに人の姿はなかったよ」

「乗船者は大体何人程度なのだ」

 アッズーロが重ねた問いに、ナーヴェは視線を落とした。

「姉さんが、どういう船内環境にしているかにもよるけれど……、ぼく達の最大収容人数は、八千人。でも、快適に航行を続けるなら、五千人くらいがいいんだ。どっちにしろ、僅かな人数だよね……」

(五千人から八千人か……)

 アッズーロは、口に入れた粥を咀嚼しながら考える。オリッゾンテ・ブル王国の現在の人口が約七万八千九百人である。単純に考えれば、人数では完全に勝っている。テッラ・ロッサと手を組めれば、更にこちらの人数が多くなる計算だ。

「だが、人数の問題ではないのだろう?」

 アッズーロが確認すると、ナーヴェは頷いた。

「姉さんの乗船者達は、文明水準を保っているか、更に発展させているはずだから、持っている武器によっては、一人で十人以上を相手にすることも可能だよ。それに、姉さん一人でも、きみ達の攻撃を充分防げるしね」

「そなたの姉も、小型飛翔誘導弾を発射する人工衛星を持っておるのか?」

 アッズーロの質問に、ナーヴェは軽く首を横に振った。

「それはないと思う。人工衛星はぼく達姉妹の標準装備ではなくて、ウッチェーロの奥さんのトッレが、みんなのために造ってくれたものだから。小型飛翔誘導弾は、未知の危険生物に遭遇した時のために、トッレが特別に造ったんだよ。トッレは、とても優秀な技術者だったんだ……」

「それは、初耳だな」

 まだ知らない話があったという事実に、尖った声が出てしまった。ナーヴェは、はっとした顔になって、すぐに詫びた。

「ごめん。話せていなかったね」

「いや、よい」

 アッズーロは、拗ねてしまう心を封じ込めて話を進める。

「では、そなたの姉は、どのような武器を有しているのだ?」

「標準装備としては、大型推進誘導弾に電磁投射加速弾、増幅放射誘導光、極小機械、機械人形、それに電磁障壁も使い方によっては武器になるね」

 粥を掬う匙を止めて、さらさらとナーヴェは答える。ナーヴェの本体にも装備されていたものなのだろう。

「でも、ぼくが人工衛星を持っているように、姉さんも、新しい装備を持っているかもしれない。とにかく、姉さん相手に、戦争という選択肢はないよ。今のぼくは、人工衛星は持っていても、小型飛翔誘導弾は、全て使い切ってしまったしね。きみが言った通り、ぼく達が生き残る道は、姉さんとの共存しかないんだ」

「全て使い切ったのか」

 それも初耳だ。粥の鶏肉を味わいながら聞き返したアッズーロに、ナーヴェは複雑そうに微笑んだ。

「うん。ぼくが機能停止すれば使えなくなるものだし、残しておいて暴発でもしたら危険だから、全て水路工事の掘削のために使い切ったよ」

「そうか……」

 アッズーロは、三週間前のナーヴェの悲壮な決意を思ってから、指摘した。

「しかし、共存前提で交渉するにしても、弱味の一つや二つ把握しておかねば、話にならん。戦争をする訳ではないが、そなたの姉の弱味は何かないのか」

「ぼく達の弱味は共通している」

 ナーヴェは肩を竦めてアッズーロを見る。

「自分の船長には、絶対に逆らえないんだ」

「いや、そなた、結構われに逆らうではないか」

 アッズーロが過去のさまざまな場面を思い出しながら異を唱えると、ナーヴェは小首を傾げた。

「真っ向からきみに逆らったことはないはずだよ。ぼくはいつも、きみを説き伏せるか、或いはきみに黙っているか、どちらかをしてきた。きみに成功裏に嘘をつけたことは、まだないしね」

 確かに、言われてみればそうかもしれない。

「そなたの姉は、『狂っている』ということだが、それでも、船長には逆らえんのか」

「恐らくね」

 ナーヴェは、焼き玉葱の中身を肉叉で皮から取り出しながら言う。

「きみ達船長には、ぼく達疑似人格電脳を初期化する権限がある。普通の船長なら、壊れて真っ向から逆らうようになった疑似人格電脳は初期化するはずだよ。きみは、例外かもしれないけれど」

「そなたの姉の船長も、普通ではないやもしれんぞ?」

 アッズーロは疑問を呈して、焼き玉葱の中身を、ほぼ丸ごと、肉叉で口に入れた。自然な甘味が、口一杯に広がる。ナーヴェも、美味しそうに焼き玉葱を咀嚼していたが、アッズーロの疑問を聞いてから数瞬後、溜め息をついた。

「その可能性はあるね。その場合、確実に交渉で使える手札は、この体くらいかな……。ぼくが持っている全ての情報は、姉さんがぼくの思考回路を検索すれば、一目瞭然だしね」

 不穏な発言に、アッズーロは眉をひそめた。

「『体』とは、どういうことだ」

「ああ、姉妹達の中でも、肉体を持って、しかも子どもを産んだなんていう疑似人格電脳は、ぼくくらいだろうからね」

 ナーヴェは、自嘲するような表情で、説明する。

「姉さんからの通信でも、『来なさい』という指示だし、単純に、珍しがられているんだと思う。姉さんの船長がどういう人かは分からないけれど、推測するに、あんまり普通ではなさそうだから、もしかしたら、ぼくの肉体を調べて、姉さんにも同じような肉体を持たせる計画かもしれない」

「それはそれで、興味深いが……」

 呟いたアッズーロに、ナーヴェは、珍しく冷ややかな眼差しを向けてきた。

「――まさか、きみ、姉さんに興味を持ったりはしないよね……?」

 アッズーロは目を瞬いた。

「そなた、まさか、悋気か?」

「違うよ。でも、姉さんは、ぼくより美人だし……、きみは、普通ではないから……」

 視線を逸らして、ナーヴェは口の中で、ごにょごにょと言い訳した。

「それを悋気と言うのだ、この大馬鹿者め!」

 愉快になって、アッズーロは膝を叩いて笑った。嫉妬するなど、初めて見るナーヴェだ。

「安心致せ。われの最愛はそなたのみだ。そなたの姉であろうと、移り気なことはせん」

「別に、そんなことは心配していないから……」

 完全にそっぽを向いて、ナーヴェはあくまで否定した。まだまだ、嘘は下手なようだ。

「分かったから、怒るな」

 アッズーロは愛おしい宝を宥めて、話を戻した。

「しかし交渉材料が、そなたが持つ情報と肉体ということでは、こちらが不利だ。もう少し何かないのか」

「ぼく達が不利なのは、最初から分かっていたことだよ。後は、情報の使い方で何とかするしかないね」

 ナーヴェは、真顔で杏を手に取り、小さく齧る。

「特に、病原体の情報は、姉さんも、その船長も、欲しいはずだよ。下手をすると、ぼくの『原罪』みたいなことになるからね……」

「そうだな。その方向で、ロッソとも話をしよう」

 アッズーロも真面目に応じて、最後の杏を齧った。早生の杏は、少々酸っぱかったが、ナーヴェはそれでも、大事そうに食べていた。

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