第8話 長き旅路の果てに

     一


「無事、戻って参りましたね」

 向かいの席で微笑んだジョールノの言葉に、ペルソーネは頷いた。大臣としての生活とは正反対の、最前線の生活が終わったのだ。馬車の窓から見える景色は、既に王都の街路である。宵闇の中、灯火を点した建物群は、平穏無事な様子だった。

「しかし、王の宝は、本当に『復活』なされたのでしょうか。この目で見るまでは、信じられません……」

 ノッテが、ペルソーネの傍らで呟いた。

「まあ、あの磔刑の様子を見てしまうと、そうですね……」

 バーゼが、ジョールノの隣で頷いた。

 ペルソーネ達は、怒れる民衆達に混じって、王の宝が乗せられた箱馬車について行き、磔刑の一部始終を見守った。あまりに残酷な処刑のありさまに、ナーヴェが苦しげに喘いで身悶えるたび、ペルソーネは跳び出しそうになったが、ジョールノに強く腕を掴まれて、何とか踏み止まったのだ。

「感動の再会まで、もうすぐですよ」

 ジョールノが、ペルソーネの心を読んだように優しく言った。

 王城の門前に停まった馬車から、ペルソーネ達は順に降りた。馬車ごと迎えに来てくれた近衛兵に改めて礼を述べ、城門を入る。衛兵達と挨拶を交わしながら王城の玄関前へ至ると、開いた扉のところに、篝火に照らされて、王とともに宝が立っていた。

「ペルソーネ! それにジョールノ、バーゼ、ノッテ! 無事に帰ってきてくれて嬉しいよ!」

 宝は元気な様子で両手を広げ、ペルソーネ一行を迎えた。

「ナーヴェ様……!」

 ペルソーネは不覚にも涙ぐみながら、それでも王の手前、きちんと跪く。

「ナーヴェ様こそ、御無事の御様子で、安堵致しました。楽団作戦の任務を果たし、カテーナ・ディ・モンターニェ侯女ペルソーネ以下、ジョールノ、バーゼ、ノッテ、ただ今、帰還致しました」

「うん。大変な任務を果たしてくれて、ありがとう」

 ナーヴェは歩み寄ってきて膝をつき、そっとペルソーネの肩を抱き締めた。華奢な体の、確かな温もりを感じて、ペルソーネは漸く王の宝の「復活」を実感することができた。

「お腹の子も、御無事ですか……?」

 囁いたペルソーネに、ナーヴェは抱擁を解いて頷き、微笑んだ。

「お陰様で、とても元気だよ。ぼくは悪阻で、少し大変だけれど」

「それは……また陛下が気を揉むでしょうね……」

 苦笑したペルソーネに、ナーヴェは肩を竦めて見せた。その背後から、アッズーロが近づいてくる。ペルソーネは跪いたまま、畏まって一礼した。

「陛下も、御壮健そうで何よりでございます。御心配をお掛けしましたが、無事戻って参りました」

「全くだ」

 アッズーロはいつもの調子で鼻を鳴らす。

「そなたが工作員紛いのことをすると言い出した時には、耳を疑うたぞ。まあ、そなたなら、言い出した以上、やり遂げるとは思うておったが」

「いえ。当初の目的であった、ナーヴェ様の救出は果たせず、申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げたペルソーネに、ナーヴェがすまなそうに言った。

「それは、殆どぼくの所為だから、きみが気に病む必要はないよ」

「その通り。われらの策が変更を余儀なくされたは、全てこの独断専行好きな宝の所為だ」

 アッズーロが高笑いするように決めつけ、ナーヴェが振り向いて文句を呟いた。

「きみにだけは『独断専行』と揶揄されたくはないんだけれど……?」

 楽しげな応酬を目の当たりにすると、ペルソーネの胸は、まだ微かに痛む。しかし最早、自らを王妃にと思う気持ちは消え失せていた。アッズーロの傍らには、この青い髪の宝こそが相応しい――。

「陛下、ペルソーネ様はお疲れです。ノッテも、レ・ゾーネ・ウーミデ侯の許へ、報告に戻らねばなりません。われわれ二人も、できればフォレスタ・ブル大公女の許へ、今夜中に報告に参りたいのですが」

 涼しげな声で、さらりと会話に割って入ったのは、ペルソーネの背後で、バーゼやノッテとともに跪いていたジョールノだった。

「――そうであったな」

 アッズーロは特に怒るでもなく鷹揚に頷くと、ナーヴェの腕を取って立たせた。

「話の続きは、明日にするがよい。詳しい報告も、明日聞こう。今夜は、早々に休むがよい」

「「仰せのままに」」

 ペルソーネ達は跪いたまま頭を下げた。

 王と宝が王城内に戻り、近衛兵達によって扉が閉じられるのを待って、ペルソーネ達は立ち上がった。篝火を揺らして吹き渡る初夏の夜風が心地いい。

「ペルソーネ様、お館までお送り致します」

 ジョールノが爽やかに申し出た。

「しかし、あなた達はヴァッレ殿の許へ報告に行くのでは?」

 問えば、ジョールノは優雅に首を横に振った。

「それは、バーゼに任せれば済むことです。あなた様をお一人で帰したりしては、それこそヴァッレ様にお叱りを受けてしまいますから」

 その言葉が終わらない内に、バーゼと、そしてノッテがそれぞれ会釈して去っていった。

「――そう……。ありがとう」

 礼を述べたペルソーネに、ジョールノは笑顔で手を差し出した。ともに行動した一週間ほど、常々思ってきたが、本当に隙のない好青年振りだ。物腰にも品がある。

「あなたは――、その……、どうして、工作員になったの?」

 唐突に訊いてしまって、ペルソーネは俯いた。

「ああ、それは、ヴァッレ様に頼まれたからですよ」

 ジョールノは、ペルソーネの手を取って歩き出しながら、気さくな口調で答える。

「わたしは、ヴァッレ様の父方の従兄なんです。わたしの母が、ヴァッレ様の父上の妹なんですよ」

 予想外の話に、ペルソーネは驚いて青年の横顔を見上げた。ヴァッレの父はピアット・ディ・マレーア侯オンブレッロ。歴とした諸侯の一人だ。つまり、この青年も諸侯に連なる身なのだ。

「そうでしたの……。ヴァッレ殿は、そのようなこと一言も言っていなかったものですから。ごめんなさい……」

「謝る必要はないですよ。わたしも言っていませんでしたからね」

 ジョールノは明るく言って、何故か楽しげにペルソーネを連れ、諸侯の館や邸が立ち並ぶ一郭へと、王都の夜道を歩いていった。



「ペルソーネが幸せそうで、よかった……」

 寝台に入って掛布を被り、ぽつりと呟いた宝の上に屈み、アッズーロは口付けた。互いに歯磨きは終えた後だが、ナーヴェは、発酵乳の味がした。悪阻の所為で乾酪は食べられなくなったが、代わりに発酵乳を好むようになったらしい。ナーヴェ自身その変化に戸惑いながらも、腹の子のために食べられるものを選り分け、口に運ぶ姿は、健気で愛おしい。口付けを終え、体を起こしたアッズーロは、ふと疑問に思って問うた。

「ペルソーネは確かに元気そうではあったが、『幸せそう』というのは何故だ?」

「きみは気づかなかった?」

 ナーヴェは青い双眸をきらきらとさせて微笑む。

「ジョールノが随分ペルソーネを気遣っていて、ペルソーネも、まんざらでもない様子だったよ?」

「それは重畳」

 アッズーロはナーヴェの寝台に腰掛け、笑う。

「あやつがさっさと嫁いでくれると、われもそなたを王妃とし易い」

「そんな意地の悪い言い方しなくていいのに……」

 ナーヴェは微かに顔をしかめて文句を言った。最近、拗ねたり文句を言ったり、随分と人らしい。微笑んでばかりだった以前と比べると、新鮮だ。

「怒るな」

 アッズーロは軽く言って、手を動かし、ナーヴェの白い頬に触れた。ナーヴェは嬉しげに目を細める。可愛らしくて、つい抱きたくなるが、今は我慢の時である。

「では、しっかりと眠れ」

 最後に青い髪を弄ってから、アッズーロはナーヴェの寝台を離れ、卓に置いた油皿の火を消した。

「おやすみ」

 暗がりの向こうから、ナーヴェの声が密やかに響いた。

「うむ」

 いつも通り応じて、アッズーロは自らの寝台に入り、掛布を被る。漸く取り戻せたナーヴェとの生活は、ただ幸せだ。ナーヴェは気づいていないようだが、傍目にも今一番幸せそうなのは、きっと自分だろう。自嘲しながら、アッズーロは目を閉じた。



 水路作戦は、さまざまな条件を整えていかなければいけないので、遅々として進まなかったが、ナーヴェの妊娠のほうは、順調な経過を辿った。

 妊娠三ヶ月目頃からは、少しずつ腹が膨らみ始め、ナーヴェは動くのも億劫そうになっていった。妊娠四ヶ月目頃からは、赤子が動いているのが外からも分かると言って、ナーヴェはアッズーロの手を膨らんだ腹に当てさせ始めた。最初はよく分からなかったが、実際に赤子の動きが手に感じられると、アッズーロの気分も高揚した。

――「男ならば、名は、テゾーロでどうだ?」

 提案したアッズーロに、ナーヴェは幸せそうに頷いた。

――「宝という意味だね。とても、いいよ」

――「まあ、われにとって、第一の宝はそなただがな。子は、第二の宝だ」

――「子どもが第一と言ってくれたほうが、ぼくは嬉しいけれど」

 ささやかに反論したナーヴェに軽く口付け、アッズーロは断言した。

――「否。そなたに勝る宝はない。その点については、諦めよ」

 ナーヴェはそれでも不服そうだったが、それ以上の反論はしなかった。

 妊娠五ヶ月目の仲秋の月には、既成事実も充分で、大臣達の意見もまとまったので、アッズーロは正式にナーヴェを王妃とすることを国内外に宣言した。国内に反対する者はほぼおらず、パルーデですら王都へ来て、二人の結婚を祝福した。

 日々は平穏に過ぎていき、二人が出会ってから一年とひと月になる仲春の月、ナーヴェは産気づいた。侍医とともに、ポンテが寝室に来て、出産の準備を整えていく。アッズーロは、ポンテにナーヴェの手を握っておくよう言われて、付き添うことになった。

「ナーヴェ様は初産。加えて、産道が少々細くていらっしゃいます。難産が予想されます」

 そっと告げてきた侍医に、アッズーロは険しい顔をした。

「われは、覚悟なぞせんぞ。ナーヴェに何かあってみよ、おまえの一族郎党全て――」

 言葉は、途中で遮られた。

「アッズーロ、お医者さんを脅したりしたら駄目だよ?」

 隣の執務室で話していたというのに、ナーヴェには何の話か筒抜けだったらしい。

「このお産が難しいのは、ぼく自身がよく分かっているから。どうしても無理になったら、本体へ連れていって。でも、できる限りは、人として努力するから」

「――分かった」

 渋々承知して、アッズーロは侍医とともに寝室へ戻った。

 しかし、出産が始まると、アッズーロは気が気でなくなった。ナーヴェは、強く強くアッズーロの両手を握り締め、息む。その時間は長く続き、昼下がりに破水して始まった出産は、夜になっても終わりが見えなかった。夜半になって、フィオーレが火を点した油皿に油を注ぎ足す中、このままでは、ナーヴェの体力がもたないとアッズーロが心配し始めた頃、漸く赤子の頭が覗いた。だが、そこからがまた大変だった。初夜でも、磔刑でも、大して声を出さなかったナーヴェが、叫んで痛がる。その顔は、涙でぐしゃぐしゃだ。アッズーロは気も漫ろになりながら、ポンテに叱られて、ナーヴェを励まし続けた。やがて、閉ざした窓の隙間から、白い夜明けの光が漏れ始めた頃、アッズーロの寝室に、赤子の泣き声が響いた。

「よく頑張った! よく、頑張った……!」

 アッズーロは、はあはあと肩で息をしているナーヴェの肩と頭を抱いて、労った。

「テゾーロは、無事……?」

 ナーヴェは、軽くアッズーロを抱き返しながらも、赤子のほうへ顔を向ける。

「もう極小機械で様子を探れないから、見せて……」

「はいはい、御無事で、お元気でございますよ」

 ポンテが、産湯で洗った赤子を布で包み、ナーヴェの枕元へ抱いてきて見せた。まだ目の開かない赤子は、小さな口を開けて泣いている。その様子を見つめるナーヴェの両目から、新たな涙が溢れて零れた。ポンテは心得たふうに、ナーヴェの頭の横へ、そっと赤子を寝かせた。

「テゾーロ……。よかった……」

 ナーヴェは赤子へ頬を摺り寄せ、花のように微笑む。見守るアッズーロの目からも、その時初めて、涙が零れた。



 ナーヴェの産後の肥立ちは順調だったが、乳の出は悪く、授乳に関しては、ラディーチェに頼ることになった。アッズーロ付き女官のラディーチェは、ナーヴェよりも一ヶ月ほど早く妊娠していて、仲夏の月の半ばから休みを取っていたのだ。今ではインピアントという男の子の母である。

「ラディーチェがいてくれて、本当に助かったよ」

 林檎の花の下で、幹に凭れ、ナーヴェは気持ちよさげな表情で言った。生後一ヶ月のテゾーロを、そのラディーチェとポンテに預け、アッズーロとナーヴェはお忍びで、王都郊外の湖畔へ来ていた。本当は馬で遠乗りと洒落込みたかったが、産後のナーヴェにはまだきつそうだったので、行き帰りは馬車だ。供は、元気になったレーニョ一人。御者も兼ねてである。

 そのレーニョと馬車から少し離れて、アッズーロとナーヴェは、湖畔に連なる林檎並木の一本に、一緒に背中を預けていた。林檎の花を通して差し込む麗らかな晩春の陽光は暖かく、ナーヴェは眠たそうだ。しかし、アッズーロにナーヴェを寝かせる気はなかった。

「覚えておるか?」

 声を掛けると、傍らのナーヴェは、穏やかに振り向いた。

「何を?」

 柔らかな声で訊き返してくる。アッズーロは、にっと笑って告げた。

「ここは、われが初めてそなたの本体へ入り、『宝にしかできんことをして見せよ』と要求した際、そなたが見せた場所だ」

「ああ、そうだったね」

 ナーヴェは感慨深げに湖を見つめ、呟く。

「あの時は、きみの子どもを産むことになるなんて、全く予測しなかったな……。ぼくの演算能力も、大したことないよね……」

「われの行動を予測するは難しかろうが、今一度演算してみよ」

 アッズーロは勝ち誇って言うと、手を伸ばしてナーヴェの頬に触れ、そっと自分のほうを向かせた。

「われが、これから何をせんとしておるかを」

「そんなこと、テゾーロを置いて連れ出された時から、分かっているよ」

 ナーヴェは微笑んで答え、目を細めて、アッズーロの手に頬をすり寄せる。

「きみには、随分長い間、我慢させてしまったからね。でも、ぼくの体にはまだ妊娠線も少し残っているし、前ほどは気に入らないかもしれないよ?」

「たわけ」

 アッズーロはナーヴェの頬を摘まんだ。

「そのようなこと、毎日そなたの着替えを見ておるから知っておるわ。今更気に入らんなぞと言うものか。よいか、ナーヴェ。そなただからこそ、欲しいのだ」

 ナーヴェは頬を赤らめながら、更に言った。

「この距離だと、レーニョに聞こえてしまうけれど?」

「構わん。あやつは、聞こえぬ振りが得意だ」

 アッズーロは言い切り、ナーヴェの上体を抱き抱えるようにして、優しく叢へ寝かせた。

 柔らかな若草の上に長く青い髪が広がり、木漏れ日の中、澄んだ青い双眸がアッズーロを見上げる。いつもの白い長衣を纏ったその姿が、どんな格好をしているより美しい。幾度か口付けをしてから、アッズーロが白い長衣の襟を開こうとした時、その手にふと、ナーヴェが手を重ねてきた。

「我慢していたのは、きみだけではないからね?」

 潤んだ双眸がアッズーロの眼差しを捉え、熱を帯びた声が告げる。

「ぼくのこの体は今、きみを受け入れるためだけにあるんだ」

 アッズーロは目を瞠り、一瞬絶句してから言い返した。

「馬鹿者め。加減が効かなくなるではないか!」

「いいよ。来て」

 ナーヴェは、嬉しそうに笑って両手を伸ばし、アッズーロを抱き寄せた――。


     二


 産後の肉体は、まだ準備ができていない所為で、新たな子どもは宿らなかったが、アッズーロと濃密な時間を過ごして、ナーヴェは幸せだった。けれど、幸せを守るためにも、王妃として役に立つためにも、水路作戦を次の段階へ進める必要があった。

「妊娠や産後の肥立ちの心配やらで、一年近く人工衛星達に接続していないから、地形が変わっていないか心配でね。ちょっと接続してくるよ。その間、肉体は寝たきりになるけれど、一時間くらいで戻るから、心配しないでほしい」

 ナーヴェはアッズーロに告げ、揺り篭で眠るテゾーロの額に口付けてから、寝台に横になり、接続を切り替えた。まず接続した先は、恒星同期準回帰軌道上にある人工衛星。恒星との角度を一定に保ちながら、少しずつ軌道をずらして、惑星の地表全てを観測する役割を担っている。丁度、オリッゾンテ・ブル王国の上空を通っている日時なのだ。

 地表を見下ろすのは、妊娠する前日の昼間以来だった。久し振りの眺めだ。夜に入ったオリッゾンテ・ブル王国と、西のほうはまだ夕暮れのテッラ・ロッサ王国。人々の営みを内包した、美しい惑星。ナーヴェはまず、光学測定器で地表の川や植物の様子を観測してから、夜間でもよく見える能動型極超短波測定器で、クリニエラ山脈の地形を詳細に観測し始めた。能動型極超短波測定器も、光学測定器同様、一糎掛ける一糎の分解能を有している。小石が一つ移動していても分かるのだ。

(水路工事の妨げになるような地形の変化はないね……。よかった……)

 安堵したナーヴェは、次に、オリッゾンテ・ブル王国上空の静止軌道上にある人工衛星へ接続した。こちらにも、光学測定器とともに能動型極超短波測定器が搭載されている。恒星同期準回帰軌道よりも静止軌道のほうが高い高度にあり、観測幅が広い。ナーヴェは能動型極超短波測定器でクリニエラ山脈からテッラ・ロッサ王国側へ、より広い範囲の地表を観測してから、更に高い高度にある人工衛星へ接続を切り替えた。恒星から陰になる惑星オリッゾンテ・ブルの夜側に配置した、天文観測衛星である。さまざまな光学望遠鏡と観測機器を搭載しており、宇宙を観測する役割を担っている。ナーヴェは、十一ヶ月と十一日振りに、宇宙を見渡した。そして、――それに気づいた。

(何故、こっちに……!)

 一年前には確かに別の軌道を通っていたはずの小惑星が、惑星オリッゾンテ・ブルへ向かってきている。

(いつ軌道が変わった……? それに、この惑星への危機が明確になれば、緊急安全装置が作動して、疑似人格電脳のぼくに強制するか、或いはぼくを初期化してでも、対処を開始するはず――)

 そこまで一瞬で考察して、ナーヴェは幻覚の目を瞠った。

(まさか、ぼくが壊れたあの時に、アッズーロが「船長」の権限で、ぼくの初期化を拒んだから……?)

 アッズーロが、緊急安全装置に対して、どう言ったのかは聞いていない。しかし、恐らくは、何があろうと休眠状態を続けるよう命じてしまったのだ。小惑星の軌道は、あの事件以降に、何らかの原因でずれたのだろう。

(ぼくが壊れたから――、きみ達が、滅んでしまう……?)

 ナーヴェは、幻覚の体で、ゆっくりと惑星オリッゾンテ・ブルを振り向いた。眩い恒星を背景に、オリッゾンテ・ブルはその名の通り、美しい青い地平を見せている――。



(一時間と言うたのに、なかなか目覚めんではないか……!)

 執務室で一人報告書を読みながら、苛々と待っていたアッズーロは、寝室からゆらりと現れたナーヴェの様子に、目を瞬いた。

「如何した? 酷い顔をしているぞ」

 執務机に置いた油皿の灯火に微かに照らされたナーヴェの顔は、涙で濡れていた。

 報告書を置き、執務机を回って駆け寄ったアッズーロに、宝は、泣き顔で縋りついてくる。とりあえず抱き締めて、話をしようとしたアッズーロに、腕の中から宝は囁いた。

「……きみを失いたくない」

「何か、悪い夢でも見たのか」

 幼子に尋ねるように、アッズーロは問うた。両手で力一杯縋りついてくるナーヴェは、本当に、年端のいかない子どものようだ。けれど、暫くしてから返ってきた答えは、幼さとは懸け離れたものだった。

「――抱いて。悪い夢を見なくて済むくらい、滅茶苦茶に、抱いて」

 何かあったな、とは思った。だが、珍しく冷静さを失った宝を前に、アッズーロは、追及は後回しにして、言われた通りにしたほうがよさそうだと判断した。

「分かった。覚悟するがよい」

 囁き返して、アッズーロは華奢な体を抱き上げ、寝室へ戻る。テゾーロの揺り篭から遠い自身の寝台へナーヴェを寝かせて、アッズーロは、深い口付けから始めた。

 卓上で揺らめく油皿の灯りの中、ナーヴェは、昼間以上にアッズーロを求めた。アッズーロはそれに応じて、一つ一つ丁寧に、ナーヴェが悦ぶことをしていった。その効果があったのか、三十分もしない内にナーヴェは落ち着いてきて、アッズーロの下で口を開いた。

「どうしたの、アッズーロ、優しいよ……?」

「そなた、随分と口が悪くなったな? われはそなたに対して、概ねいつも優しかろうが?」

「……そうだね。その『概ね』という辺りに、きみの優しさを感じるよ……」

 複雑そうに呟きながら、ナーヴェは手を伸ばして、アッズーロの後頭部の髪の毛を、さわさわと梳いた。優しい指の感触が、心地よくもくすぐったくもある。そう言えば、昼間、林檎の木の下で睦み合った時にも、ナーヴェは頻繁にアッズーロの髪に触れていた。

「そなた、人の髪を触るのが好きなのか?」

 試しに訊くと、ナーヴェは目を瞬いた。

「しょっちゅうぼくの髪を弄っているきみに言われると、何だか意外だけれど……、そうだね、ぼくはきみの髪が好きなんだよ。柔らかくて、光の当たり方によって、金に近い色から黒に近い色にまで、いろいろな色に見えて、とても綺麗だ。昼間、木漏れ日の中で見た時も、とても綺麗だった」

「そなたの、この青い髪に比べれば、何ということもなかろう」

 長く青い髪を一房掬い上げて口付けてから、アッズーロは、テゾーロの揺り篭のほうを振り向いた。

「テゾーロはわれに似て暗褐色の髪だが、次の子は、青い髪でもよいな」

「それはないよ」

 ナーヴェは上体を起こしながら、冷静に告げる。

「この色は、遺伝子操作をして、無理に発色させているものだからね。そういうものは、殆ど遺伝しないし、万一があっても、させない。自然が一番だよ」

「そなたは相変わらず、頑固よな」

 嘆息して、アッズーロも起き上がり、寝台に腰掛けた。その脇から寝台を下り、ナーヴェは半裸のまま揺り篭へと歩いて、テゾーロを抱き上げた。少し前から細い泣き声を漏らしていた赤子を胸に抱き、乳を含ませる。膨らみに乏しい胸は、乳の出も悪かったが、それでも多少は授乳できるらしい。乳の出がいいラディーチェに相当助けられてはいるが、ナーヴェも努力して栄養価の高いものを食べ、夜間の授乳は一人でこなしている。

 テゾーロに乳を与えながら、自らの寝台に腰掛けたナーヴェに、アッズーロは漸く問うた。

「――それで、何があったのだ?」

「小さな星が一つ、飛んでくる」

 ナーヴェは、抱いたテゾーロに視線を落としたまま、低い声で答えた。予想外の返答に、アッズーロは眉をひそめた。

「流星か?」

「小惑星だよ。でも、この惑星にぶつかったら、隕石だね。きみ達が見たことのあるような、可愛らしい流星にはならないよ」

「ぶつかるのか……?」

 瞠目したアッズーロに、ナーヴェはこくりと頷いた。

「ぼくの計算では、一ヶ月後に衝突する。でも、それはさせない」

 きっぱりと言い切り、ナーヴェは顔を上げる。

「ぼくの本体を使う。飛ぶのは二千年振りだけれど、まだ飛べるから、迎撃に行く」

「できるのか」

 物騒な話に、声が掠れた。ナーヴェは静かな眼差しでアッズーロを見つめ、微笑んだ。

「大丈夫。ぼくはこう見えても、星の海を越えてきた船だから」



――「ただ、お願いがあるんだ」

 昨夜、ナーヴェが提示した幾つかの安全策を実現するために、アッズーロの日常は俄かに慌ただしくなった。臨時の大臣会議を招集し、事態を伝え、アッズーロは命じた。

「まずはこの王都から、諸侯と民衆を残らず避難させねばならん。神殿が飛び立つ際に、巻き添えを食ってはならんからな。近隣の町々に分散して三週間は過ごせるよう、建物や物資の用意をせよ。それから、万が一、空から星の欠片が降ってきた時のために、穴を掘り、防空壕を造らせよ。家単位、村単位、規模は何でも構わん。ただ、全ての国民が必ずどこかの防空壕に入れるようにせよ。最後に、忌々しいことだが、テッラ・ロッサの奴らにもこの事態を伝えてやらねばならん。これは、水路作戦の一環ともなる。使節団団長には、ペルソーネを任じる。加えて――」

「ぼくも行くよ」

 同席しているナーヴェが、珍しく口を挟んだ。大臣達が、驚いた顔で王の宝を振り返る。その話自体は、昨夜の内に確認していたが、ここで発言するとは聞いていなかった。アッズーロは、顔をしかめて口を閉じ、続きをナーヴェに譲った。

「ごめん、アッズーロ。でも、自分の口で説明しておきたいんだ」

 詫びて、ナーヴェは椅子から立ち上がり、大臣達を見つめる。

「自分達だけでも大変な時に、他国の人まで救おうとするのは、愚かだと考える人もいるかもしれない。けれど、利他的になれることこそが、人があらゆる困難を乗り越えて生き延びてきた理由の一つだから、今回も、手を差し伸べてほしいんだ。そうすれば、きっといつか、テッラ・ロッサに助けられる日も来るから」

 熱を持って語ったナーヴェに、ヴァッレとペルソーネが深く頷いた。他の大臣達も、表立って異は唱えない。中には、ナーヴェの機嫌を損ねると、小惑星の迎撃事態が危うくなると考える輩もいるだろう。

「一つ、質問が」

 工業担当大臣チェラーミカ伯ディアマンテが手を上げた。四十歳近いしっかり者だが、普段は控えめで、水路作戦で陶磁器の管制作を指揮し、苦労を重ねている一人でもある。その所為で、ナーヴェとのやり取りも増え、最近は随分と気の置けない仲に見える。

「どうぞ」

 ナーヴェも気安く応じた。

「はい」

 立ち上がったディアマンテは、不安げに鳶色の髪を耳に掛け、問う。

「未だテッラ・ロッサでは、われわれが妃殿下の偽者の少女を見殺しにしたと信じている輩も多いと聞きますが、その点は心配ないのでしょうか? 畏れながら、妃殿下が直接赴かれては、余計な混乱が生じるような気が致します」

「そうだね。混乱は起きるだろうね」

 ナーヴェは素直に認め、昨夜アッズーロに説明した時と同じように、穏やかに話す。

「でも、だからこそ、ぼく達の話に説得力も生まれると思うんだ。神の恩寵を受けた宝でも、奇跡の業を使う巫女でも神官でも、何でもいい。『復活』を信じさせて、ぼくという存在に、彼らが無視することのできない権威が備われば、それでいいんだよ。必要なら、新たな『奇跡』を二つ三つ見せてもいいとさえ思っている」

 穏やかながら強い言葉に、気圧されたようにディアマンテは頭を下げた。

「畏まりました。考えの浅いことを口にしてしまい、申し訳ございません」

「いいんだよ、ディアマンテ。そうして口にしてくれるから、ぼく達はより深く分かり合える」

 ナーヴェは微笑んで、身振りでディアマンテに着席を勧め、自らも椅子に腰を下ろした。

「他に今、王妃に問うておくべき事柄はあるか?」

 アッズーロは大臣達を見回したが、もう手を上げる者はいない。

「ならば、王妃は退席させる。いろいろと準備があるようだからな。われらはこれより、先ほど示した項目の一つ一つについて、担当を振り分け、話を詰める」

 手を振ったアッズーロに、ナーヴェは笑みを返し、大臣達が立ち上がって会釈する中、会議室を出ていった。近衛兵が閉じる扉の向こうに、長く青い髪が揺れる背中を見送り、アッズーロは微かに眉をひそめた。泣いて縋って、あれほど動揺していたというのに、今は些か落ち着き過ぎている。その様子が、逆に気掛かりだ。

(もう一度、しっかりと話をせねばならんな……)

 密やかに溜め息をついて、アッズーロは目の前の大臣達に視線を戻した。


     三


 テゾーロは、ラディーチェに乳を貰い、ポンテにあやされて、楽しそうだ。寝室に戻ったナーヴェは、テゾーロの笑い声を聞きながら寝台に横たわり、目を閉じた。二千年振りに本体を飛ばすためには、それなりの調整がいる。

(テッラ・ロッサへ出発する前に、ある程度、点検しておかないとね……)

 テゾーロと触れ合えないことに寂しさを感じながら、ナーヴェは肉体との接続を切った。

 本体で機器の調整をし、動作確認をしていると、ウッチェーロや、更に昔の船長達と過ごした当時の記録が、思考回路に頻繁に再生される。

(こういう状態を、「懐かしむ」と言うんだろうな……)

 船長達の権限は絶大だった。その船長達を、傲慢にも孤独にもさせないために、ナーヴェ達疑似人格電脳が創造され、移民船に搭載されたのだ。そう、ナーヴェ達は、滅びゆく地球から他の惑星を目指して旅立った、移民船だった――。

(ウッチェーロ、ぼくは「原罪」を償えたかな……? この「約束の地」を――ぼく達の子ども達を守り切るためには、もう時間があんまり残っていないんだ……)

――「大丈夫だ」

 再生された過去の声が、思考回路に響く。

――「おれ達の子ども達を、信じろ」

 幻覚の目から、涙が溢れて零れる。

(うん。そうだね。ぼくは、彼らの力を、信じるよ……)

 小惑星は、刻一刻と迫ってくる。直径は約〇・五七粁。惑星オリッゾンテ・ブルへの落下予測地点は、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領付近。惑星の反対側なら、まだ何とかなったかもしれないが、場所が悪過ぎる。落下の速度や角度は比較的低いのだが、それでもオリッゾンテ・ブル王国とテッラ・ロッサ王国双方の人々を、充分滅亡させてしまえる規模の隕石落下になる。

(惑星オリッゾンテ・ブルの総人口は、ぼくの本体に収容できる限界を疾うに超えている)

 ナーヴェに残された手段は、一つしかない。

(大丈夫だよ、アッズーロ。必ずきみ達を守り切って見せるから)

 人工衛星の光学望遠鏡で、ナーヴェは迫りくる小惑星を見据え、詳細な角度計算を始めた。



「オリッゾンテ・ブルから、使節団が来る」

 朝から王族の間に呼ばれ、兄王から告げられて、シンティラーレは眉をひそめた。

「それは、奴らが勝手に造り始めている、水路に関連してですか?」

「先ほど届いた書簡には、われらが大地に重大な危機が迫っているゆえ、その詳細を知らせに来るとある。しかも、その使節団の中に、王の宝がいるそうだ。そなたらは、どう見る?」

 兄王が告げた内容の意外さに、シンティラーレは愕然とした。三人の姉達も、口に手を当てたり目を見開いたりして驚いている。

「奴ら、また偽者を用意して、われわれを謀りに来るのでしょうか?」

 推測を述べながら、シンティラーレは怒りが湧いてくるのを感じた。あの憐れな少女の死を、オリッゾンテ・ブルの人々は何とも思っていないのだ。

「会えば、化けの皮を剥がすことも容易でしょう」

「真実ではない噂が広まるのを防ぐためにも、謁見を許すべきかと存じます」

「その際、憐れな偽者を立てることについて、糾弾することもできましょう」

 三人の姉達が口々に意見を述べた。兄王は頷いた。

「そなたらもそう思うか。ならば、謁見を許そう」



 臨時の大臣会議から三日後の朝に、ペルソーネを団長とする使節団がオリッゾンテ・ブル王城を出立した。ペルソーネのたっての希望で、団員にはナーヴェの他に、楽団作戦の時と同じジョールノ、バーゼ、ノッテを入れ、更にアッズーロの希望でルーチェが加えられた。

――「パルーデに随分と借りができた。まあ、あやつも、草木紙の一部をテッラ・ロッサに流して儲けておるようだがな」

 出立の前夜、寝る仕度をしながら愚痴を零したアッズーロに、寝台に腰掛けたナーヴェは屈託なく微笑んだ。

――「パルーデは、そうして、テッラ・ロッサにオリッゾンテ・ブルを売り込んでくれているんだよ」

――「そなた、パルーデに対しては底無しに寛容よな」

――「きみも、パルーデともっと仲良くなったらいいのに。グランディナーレを大切に思っていた人だよ?」

――「あやつがそなたを慰み者にしたことを、許せるようになるとは思えん」

 言い切ったアッズーロに、ナーヴェは寂しげな顔をした。

――「でも、いずれは仲良くなってほしいよ……」

 そう呟いた姿が儚げで、アッズーロはつい抱き締めたのだったが――。

(結局、変に落ち着いておる理由は聞き出せず仕舞いだ……)

 ナーヴェは、話を躱したり、別の話にすり替えたりするのが妙に上手いのだ。帰ってきたら、もう一度よく話し合わなければならない。

「気をつけて行け。そして、予定通り必ず四日で帰って参れ」

 王城の門前まで見送りに出たアッズーロは、捻りも何もない言葉で使節団を送り出した。



「では、改めまして、自己紹介をさせて頂きます」

 使節団の馬車内で、ジョールノが切り出し、ナーヴェに向かって優雅に一礼した。

「わたくしは、ピアット・ディ・マレーア侯妹の子ジョールノです。フォレスタ・ブル大公女ヴァッレ様配下の工作員です。特技は剣と横笛、それに木登りと縄抜けと料理です」

 ペルソーネはぎくりとした。そこまで細かく言わなければならないのだろうか。

「では次、バーゼ」

 ジョールノに指名されて、その隣に腰掛けたバーゼが会釈した。

「同じくヴァッレ様配下の工作員のバーゼです。特技は歌と踊りと弓、それから薬の調合と潜入と腹話術です。できる限りお役に立ちたいと存じます」

「きみは、ラディーチェの妹なんだってね」

 ナーヴェが興味深げに言葉を返す。

「この間、ラディーチェから聞いて、初めて知ったよ。でも、言われてみれば、その綺麗な黒髪も、海みたいな青い瞳も、そっくりだよね」

 それは、ペルソーネにとっても初耳の情報だった。ラディーチェについては、アッズーロ付きの、長い黒髪をした物静かで美しい女官という認識しかなかった。

「姉が大変お世話になっております」

 恐縮したように、バーゼが頭を下げると、ナーヴェは軽く首を横に振った。

「ううん。お世話になっているのは、ぼくのほうだよ。ぼくには、赤ん坊についての知識はあっても、実際に育てた経験がないからね。ラディーチェに毎日いろいろ聞いて学んでいるんだ……」

 語尾が、僅かに寂しげだ。四日間とはいえ、テゾーロと離れるのがつらいのだろう。

「ああ、それから」

 沈み掛けた空気を自ら盛り上げるように、ナーヴェは明るく言葉を続ける。

「きみが、ぼくの歌やソニャーレとの会話をわざわざ幽閉塔の下まで聴きに来て、ヴァッレ経由でアッズーロに伝えたり、上手く作戦に役立てたりしてくれたんだってね。ありがとう。何の連絡も取れずに勝手にやっていたのに、ちゃんと利用してくれたと聞いて、とても嬉しかったよ」

 手放しの称賛に、バーゼは困惑気味に身を縮こまらせ、再度頭を下げた。

「いいえ、全ては、ナーヴェ様の布石があったればこそです。こちらこそ、ありがとうございました」

「では次、ノッテ」

 ジョールノのさくさくとした指名を受けて、ノッテが硬い面持ちで会釈した。

「わたくしは、レ・ゾーネ・ウーミデ侯配下の工作員ノッテです。父のネーロが以前お世話になりました。特技は短剣と弓、速く走ること、屋根裏や床下で動くことです」

「ぼくがネーロにいろいろ助けて貰ったんだ」

 ナーヴェが懐かしげに応じる。

「彼は本当に優秀な竹細工職人だよ」

「では次、ペルソーネ様」

 ジョールノは、容赦なくペルソーネも指名した。

「はい」

 返事をして、ペルソーネは頭の中で素早くまとめたことを話す。

「わたくしはカテーナ・ディ・モンターニェ侯女ペルソーネ、学芸担当大臣を拝命しております。特技は竪琴と陶芸です」

「へえ、陶芸もするんだ……!」

 ナーヴェは目を見開いて感心してくれた。

「では最後に、御者をしてくれているルーチェ」

 ジョールノが小窓越しに指名し、御者台で手綱を握ったルーチェが肩越しに会釈した。

「ええと、ちょっと複雑なんですが、レ・ゾーネ・ウーミデ侯パルーデ様の従僕で、実は国王アッズーロ陛下の間諜でもあるルーチェです。もうパルーデ様に素性はばれているので、大丈夫です。特技は乗馬で、いろんな曲芸乗りができます」

「きみにはレ・ゾーネ・ウーミデ侯城でもお世話になったね。ありがとう」

 ナーヴェが穏やかに礼を述べてから、自分の胸に手を当てる。

「ぼくは、王の宝ナーヴェ。きみ達も知っている通り、去年の仲秋の月にアッズーロと結婚して、王妃になった。今は肉体を持っているけれど、もともとは宇宙船の疑似人格電脳に過ぎなくて、代々の船長、王としか話せなかったから、今、きみ達とこうして関われることは、本当に嬉しいよ。特技は、観測と観察かな」

「……詳しい自己紹介をありがとうございます」

 ジョールノが微かに引きつった笑顔でまとめに入る。

「話を聞いただけでは、まだ分からないこともありますが、これからの四日間、作戦を遂行する中で相互理解を深め、充分に連携できればと思います。大変な任務ですが、オリッゾンテ・ブルとテッラ・ロッサ双方の人々のために、最善を尽くさねばならない、と団長のペルソーネ様も考えておられるはずです」

 急に名前を出されてペルソーネは驚いたが、ジョールノに見つめられると、反論できなかった。そもそも、大体言われた通りのことを考えていたので否定もできない。

「――ええ。よろしくお願い致します」

 努めて冷静に、団長らしく、ペルソーネは締め括った。



 翌日、ルーチェに代わって御者台に座ったジョールノは、馬車を急ぎめに走らせ、夕方にはテッラ・ロッサ王国の王都アルバに入り、日暮れ前に王宮の門前へ至った。書簡で、予め緊急を要すると知らせておいたため、拒まれることはない。近衛兵達に導かれ、ジョールノ達使節団一行は宮門から王宮の玄関へと進んだ。途中、近衛兵達が、王の宝を見て、ひそひそと囁き合う。ナーヴェはいつも通り、男物の白い長衣と筒袴を纏っただけの姿で、テッラ・ロッサの風俗に反し、髪を顕にしていた。どう見ても意図的な行動だ。辺りを茜色に染める夕日の中、長く青い髪は、紫色に染まり、風に靡く。ナーヴェは、疑心暗鬼な目を向けてくる近衛兵達に優しい目を向けながら、優美に歩いた。先刻まで馬車の中で居眠りをしていた人物とは、とても思えない。

(全く。「人ではない」と言うだけあって、底知れない方だ)

 ジョールノは感心しながらも、ナーヴェをそれとなく護衛しつつ、玄関を入った。

 玄関からすぐの王の間で、ロッソ三世は既に王座に着き、一行を待っていた。

「このような時間ながら、謁見をお許し頂き、感謝申し上げます」

 ペルソーネが使節団を代表して、口上を述べる。

「使節団団長のカテーナ・ディ・モンターニェ侯女ペルソーネと申します。本国においては、学芸担当大臣を拝命しております」

「遠路、御苦労。書簡であらましは読んだが、『重大な危機』とやらについて、まずは説明致せ」

 ロッソ三世は、階段の上の王座から重々しく促した。

「それにつきましては」

 ペルソーネは、傍らに立つナーヴェを振り返る。

「こちらの、わが国の王の宝が詳しく御説明申し上げます」

 紹介を受けて、ナーヴェは嫋やかに一歩前へ進み出た。

「約一年振りだね、ロッソ。それに、シンティラーレも」


     四


 王座の階段下で、シンティラーレは両手を握り締め、使節団を凝視していた。驚いたことに、後ろのほうに控えた亜麻色の髪の小柄な少女以外は、宝の偽者も含めて、見た顔ばかりだった。

(あの楽団の団員達だわ……。やはり、全員、工作員だったのね)

 けれど、一番の驚きは、宝の偽者だ。

(一体、どういうこと……? 同じ顔にしか見えない――。声も同じに聞こえる――)

 あの憐れな少女の、双子の姉か妹なのだろうか。

「みんな元気そうで何よりだよ。ソニャーレや彼女のお祖父さん、それにフェッロも元気かな?」

 偽者は、シンティラーレを試すように笑顔を向けてくる。

「お世話になった近衛兵のみんなや、女官のみんなにも挨拶して回りたかったんだけれど、時間がないのが残念だよ」

「まるで、一年前にここへ来たのも自分だと言わんばかりだな」

 兄王が、低い声で口を挟んだ。宝の偽者は、ロッソへ明るい眼差しを向けて、応じた。

「うん、そうだよ。ぼくは、確かに十一ヶ月と十六日前にここへ連れてこられて、その三日後に処刑されて死んだ。でも、ぼくは人ではないからね。肉体が死んでしまっても、努力すれば、生き返らせることが可能なんだ」

「誰がそのような世迷言信じるか」

 眉をひそめて言い放ったロッソに、宝の偽者は涼やかに言った。

「信じて貰わないと困るんだよ。『重大な危機』の話の信憑性にも関わってくることだからね。だから、手っ取り早く、ぼくが人ではないことの証明をして見せよう。みんな、ちょっと外へ出てくれるかな?」

 返事を待たずに、偽者は、さっさと玄関へ向かう。使節団の他の面々も、それに続こうとする。彼らを押し止めようとした近衛兵達に、ロッソは手を振った。

「よい。『証明』とやらを見ねば、化けの皮は剥がせんからな。庭園に、衛兵を集めよ。近衛兵は王族を守れ。皆でその偽者の嘘を暴くと致そう」

 王の一声で、王の間に集まっていた近衛兵達も動き出し、シンティラーレも三人の姉達とともに、使節団を追って庭園へ出た。

 日が沈み、外は薄暗くなりつつある。その夕焼けの残滓の中で、宝の偽者は使節団から一人離れて、庭園の中央辺りに陣取っていた。

「危ないから、離れていて」

 よく通る声で兵達に警告してから、偽者は、おもむろに左手を真っ直ぐ上げて、空を指す。

「今から、小さな金属の塊を一つ、空からここへ落とす。少し庭を壊してしまうけれど、ぼくが人ではないことを証明するためだから、許してほしい」

 一呼吸置いて、偽者は、左手を前へ下ろした。直後、大気を切り裂く衝撃音がして、偽者の足元の土が爆発するように散った。砂粒が、かなり離れた場所にいたシンティラーレのところまで飛んできて、頬や手に当たる。傍らで、姉達が咳込んだり、目に入った砂に涙を流したりする中、シンティラーレは両眼を眇めて、舞い上がった砂埃の向こうを見た。

 未だ霞む視界の中で、粉塵とともに舞い上がった青い髪が、白い長衣を纏った肩に静かに戻っていく。左手を振り下ろした格好のまま佇む少女の足元には、円形の大きく深い窪みができていた。何かが落ちてきて、地面を激しく抉ったのだ。

「ごめん。威力は加減したんだけれど、砂粒がかなり飛んでしまったね。みんな大丈夫だった?」

 落ち着いた声で青い髪の少女は詫びた。そこへ、悲鳴に似た女の声が被った。

「ナーヴェ様、血が……!」

「ああ、大丈夫だよ、ペルソーネ。心配しないで。これは、わざとだから」

 すまなそうに答える声が聞こえた直後、夕風が吹き、宙に残っていた砂埃を吹き払う。シンティラーレの目に再び鮮明に映った少女は、左腕から夥しい量の血を流していた。離れた位置にいたシンティラーレ達に、あの勢いで砂粒が当たったのだから、抉れた地面の至近距離にいた少女が、無傷で済む訳がなかったのだ。

「すぐ止血を!」

 自らの袖を破った金褐色の髪の青年から、一歩離れ、青い髪の少女は告げた。

「ぼくは人ではないから、大丈夫だよ。止血は、自分でできるんだ」

 少女は、ぼたぼたと血を滴らせる左腕から、襤褸切れとなった袖を右手で取り去った。顕になった左腕は、二の腕の中ほどに骨が見え、千切れ掛けているようにすら見える。兵達も含めたその場の全員が息を呑む中、青い髪の少女は微かに顔をしかめながらも、その左腕を地面に水平に掲げた。大量の血が流れ落ちて、円形の窪みの横に血溜まりを作っていく。

(出血多量になるぞ……!)

 シンティラーレが、姉達とともに固唾を飲んで見守る中、「奇跡」は起きた。

 出血がゆっくりと収まり、赤い肉が白い骨を覆っていく。

(一体、何が起きているんだ……)

 呆然と見つめるシンティラーレの視線の先で、最後に白い皮膚が赤い肉の上に浮き上がるように広がり、何事もなかったかのように、傷が完治した。無傷となった白い腕をゆっくりと下ろし、青い髪の少女は――王の宝は、シンティラーレ達に微笑み掛ける。

「これで、ぼくは人ではないと、証明できたかな?」

 夕焼けの最後の残滓が消え、夜の闇が濃くなる中、その微笑みは空恐ろしく、確かにこの世の者ではないのだと感じさせた。



――「ナーヴェ様は、穏やかそうに見えて、交渉事においては好戦的なところのある方だ」

 親友のレーニョを見舞った際に聞いた言葉が、脳裏に蘇る。

(おまえの観察通りだ、レーニョ)

 ジョールノは、止血のため破った袖を右手に握り締めたまま、生唾を飲み込んだ。この二日間身近に接してきたジョールノでさえ、背筋に寒さを覚える雰囲気を、今、王の宝は纏っている。

(少々やり過ぎという気もするが……)

 見回せば、遠巻きに取り囲む兵達も、王妹達も、恐怖に駆られた表情をして凍りついている。だが、その中で唯一、少なくとも外見上は平静を保っているように見えるロッソ三世が、口を開いた。

「暗くてもう何も見えん。中へ入るぞ」

「「――仰せのままに……!」」

 まるで呪縛を解かれたかのように、衛兵達が慌てて篝火を焚き始め、近衛兵達は、王族を守って広間へ戻り始めた。

「ぼく達も行こうか。ここからが話の本題だ」

 ナーヴェに穏やかに促されて、ジョールノ達も、強張っていた体を動かし、王の間へ戻った。

 ロッソ三世が王座に座るのを待って、ナーヴェは語り始めた。

「これで、ぼくが『人ではない』こと、即ち、磔刑の死から『復活』できる尋常ではない存在であることは、分かって貰えたと思う。それで本題だ。約一ヶ月後、空から、星が降ってくる。大きさは、ぼくがさっき落とした金属の塊の比ではない。地上の被害は甚大なものになる。だから、地下に防空壕を造って、国民全員が避難できるようにしてほしいんだ」

 しん、と王の間の空気が冷える。

(わたし達にとっても信じ難い話だが……)

 ジョールノは、前に立つナーヴェと、その向こう、遥か高い位置にある王座に座ったロッソ三世とを見比べた。

「勿論、ぼくは全力を以て、きみ達を守る。でも、きみ達にも、命を守るために、できるだけの対策をしてほしいんだ」

 締め括ったナーヴェに、王座で頬杖を突いたロッソ三世は、おもむろに言った。

「きさまの言を信じるには、今一つ、確証が足りん。この場で衣を脱ぎ、体を見せよ。おれが一年前に調べた体のままであれば――即ち一年前と同一人物であると確認できれば、きさまの言を信じてやろう」

「それは……!」

 ペルソーネが抗議の声を上げる。

「王の宝は、今やわが国の王妃! そのような辱めは受け入れられませぬ……!」

「いいんだよ、ペルソーネ」

 穏やかに宥めたのは、当のナーヴェだった。王の宝は、ゆっくりと王の間の中央へ進み出ながら、長衣の胸紐を解き、ぱさりと脱ぎ捨てる。

「このくらいのことで信じて貰えるなら、それに越したことはない。アッズーロは怒るだろうけれど、事後報告で許して貰おう」

 王の間の中央で足を止め、王の宝は更に、筒袴、胸当て布、そして下袴を脱ぎ落とした。明々と篝火が焚かれた王の間の中、ロッソ三世、王妹達、近衛兵達、ジョールノ達の視線の集まる先で、白い肌が全て顕となる。――不思議な体だった。すんなりと伸びた手足、凹凸に乏しい幼げで細い胴、それでいて、産後であることがまだ微かに見て取れる腹。

「ナーヴェ様……!」

 息を呑んだペルソーネと対照的に、ロッソ三世は笑みを浮かべて王座から立ち上がった。

「よかろう。おれ自ら、改めてやろう」

「陛下、御自らなど、危険では……」

 近衛隊長らしき女性が、ロッソ三世を見上げた。しかし王は取り合わなかった。

「何かする気であれば、既にしておるであろうよ」

 泰然と応じて階段を下り、ナーヴェへ歩み寄った王は、武骨な手を伸ばして、淡々と調べ始めた。

 髪の生え際、耳の穴、口の中、顎。首筋、脇、手首、掌、指。胸、臍、両足の間、足の甲――。その間、王の宝はされるがまま、時折、ほんの僅かに眉をひそめながらも、大人しく無抵抗だった。

(ああ、この方の本質は、聖娼だ)

 ジョールノは、漸く合点がいった。わが身を顧みず、全てを晒して、文字通り相手の懐に入り込み、その心を癒す。どれほど理不尽に扱われようと、その心が穢されることはない――。恐らく、国王アッズーロに対しても、レ・ゾーネ・ウーミデ侯に対しても、そうだったのだろう。

(この方を守るのは、至難だな、レーニョ)

 親友の苦労と自分のこれからの苦労を思って、ジョールノは内心で苦笑した。

 ロッソ三世は最後に、ぎゅっと宝の左腕――治ったばかりの二の腕を掴んだ。ジョールノの目には、一瞬だけ、宝が顔をしかめたように見えた。

「――成るほどな」

 呟いて、ロッソ三世は宝の左腕を離す。

「同一人物と認めよう。衣を着るがよい」

 静まり返っていた王の間に、王の声が響き、その場の大勢が、ほっと安堵するのを、ジョールノは感じた。

「ありがとう」

 柔らかに礼を述べたナーヴェが、下袴から順に衣を身に着け始め、ロッソ三世は上着の裾を翻して、王座へ戻っていく。バーゼとルーチェが素早くナーヴェに駆け寄り、衣を着るのを手伝った。

「さて、本題とやらは終わった訳だが」

 再び王座に座った王が、衣を纏い終わったナーヴェを見下ろす。

「他に申しておくことはあるか」

「細かいことを伝えておくよ。誰か、記録を取ってくれるかな?」

 テッラ・ロッサの人々を見回したナーヴェに、王妹の一人が手を上げた。

「では、わたくしが」

「ああ、ありがとう、シンティラーレ」

 ナーヴェが微笑み、ロッソが不満げな顔をした。

「そのようなこと、記録官に任せておけばよい」

「いえ、わたくしも是非」

 言い張って、小柄な王妹は、腰に下げていた巾着から木札と墨壺と筆を取り出した。

「……勝手に致せ」

 ロッソが呆れたように手を振ったのを見てから、王の宝は告げた。

「この辺りに星が降ってくるのは、初夏の月十三の日の午後十時三十二分頃。きみ達は、その日までに国民全てが入れるだけの防空壕を造って、その日の日没には、防空壕に避難しておいてほしいんだ。星は、その一週間前に、ぼくが遥か上空で迎え撃つつもりだけれど、欠片が降ってしまう可能性があるからね」

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