第6話 捕らわれてのち
一
「歌っている……」
ソニャーレの呟きに、フェッロは何のことかと耳を澄ませた。確かに、荷馬車が走る音に紛れて、微かに細い歌声が聞こえる。フェッロは、背後から差してきた朝日に目を細めつつ、御者台から荷台を振り向いた。荷台に座ったソニャーレの視線の先で、王の宝は腹に手を当てて横たわったままだ。細い足首の片方には、ソニャーレに固く綱を結びつけられ、荷台に繋がれている。一度水を飲み、その後、用を足すためソニャーレに藪の中へ連れていかれた以外は、殆ど動いていない。歌声は、その王の宝から響いていた。
スカーバラの市へ行ったことがあるかい?
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
そこに住むある人に宜しく言ってほしい、
彼はかつてぼくの恋人だったから。
一噎の土地を見つけるように言ってほしい、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
海水と波打ち際の間に、
そうしたら彼はぼくの恋人。
羊の角でそこを耕すように言ってほしい、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
それから一面胡椒の実を蒔くようにと、
そうしたら彼はぼくの恋人。
革の鎌でそれを刈るように言ってほしい、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
それから欧石南の縄でまとめるようにと、
そうしたら彼はぼくの恋人。
「一体、どういう意味の歌なんだ?」
フェッロは難解な歌詞に眉をひそめて、ソニャーレに尋ねた。
「わたしも初めて聴く歌ですから、よく分かりません」
工作員の少女は切って捨てるように答えたのみだった。
王の宝は歌い続ける。
彼がそれをやってできたのなら、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
薄い亜麻布の衣を取りに来るように言ってほしい、
その時彼がぼくの恋人になるから。
できないと言うならぼくはこう答えるよ、
和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、
ああ、せめてやってみると知らせてほしい、
でなければきみは決してぼくの恋人ではないと。
「恋人」というのは、国王アッズーロのことだろうか。王はかつての恋人で、無理難題を示して、もう恋人になるなと言っているのか。それとも、無理難題を乗り越えて、また恋人になってほしいと言っているのか。
「フェッロ殿」
不意に、ソニャーレが緊張した声を出す。
「厄介な追っ手が来ました。わたしが相手をします。あなたはとにかく国境目指して馬車を走らせて下さい」
「『厄介な追っ手』?」
「元同僚、ですよ」
淡々と告げて、ソニャーレは荷台の上に立ち上がった。オリッゾンテ・ブルから吹く風に、ソニャーレの結い上げた胡桃色の髪が靡く。国境まではもうすぐだ。眩い日の出を背景に土埃を上げ、騎馬で追ってきたのは、銀髪を襟足で切り揃えた少女。
(あれが追っ手――。ソニャーレの「元同僚」――)
フェッロは、奥歯を噛み締める。つまりは、レ・ゾーネ・ウーミデ侯の許でともに働いていた相手ということだ。
「戦えるのか?」
肩越しに問うたフェッロに、ソニャーレは薄い笑みを浮かべて見せた。
「わたしは工作員。あちらは暗殺者。いい勝負になるでしょう」
――「わが配下から離反者を出したとあっては、王に合わせる顔がなくなる。必ず、ソニャーレに追いつき、王の宝を救え」
パルーデの、珍しく真剣な顔が脳裏を過ぎる。サーレは唇を引き結んで、馬を疾駆させたまま、腰の鞘から剣を抜いた。ソニャーレは、疾走する荷馬車の荷台に立ち、曲刀を抜いて、こちらを見据えている。荷台の囲いは高く、その下半身は見えないが、恐らくソニャーレの足元に、王の宝も捕まっているだろう。
サーレは荷馬車に馬を寄せ、ソニャーレ目掛けて剣を振るった。
金属音が響き、火花が散り、剣が弾き飛ばされる。サーレはすぐに馬上で体勢を立て直し、手綱を捌いて、ソニャーレに再び挑む。数合切り結んだが、決着は着かない。予想以上に、手強い。
(さすが、単身テッラ・ロッサから送り込まれていただけのことはある――)
サーレは片手で手綱を握ったまま、揺れる鞍の上に足を置いた。勝負を掛けるしかない。何度目か、荷馬車に馬を寄せていき、サーレはソニャーレと切り結びながら、荷台に転げ込んだ。
(いた、王の宝……!)
王の宝ナーヴェは、ぼろぼろの長衣を纏った姿で、荷台の底に横たわっていた。腹を庇うように体を曲げ、片足は綱で荷台に繋がれている。
(状態が思わしくない――)
顔をしかめながら、サーレはソニャーレの曲刀を剣で受け流した。王の宝が動ける状態ならば、サーレがソニャーレを防いでいる間に逃げろと言えたが、そうもいかないようだ。
(それなら、せめて、この荷馬車を止める――)
サーレは、ソニャーレの曲刀を躱し、御者台へ向かった。轟音が響いたのは、その直後だった。
サーレの目が捉えたのは、振り向きざまに鉄砲を撃った青年の姿、そして、己の体から散る血飛沫。サーレは、背中から荷台の中に落ちた。衝撃に一瞬閉じ、開いた目に、朝日を反射する曲刀が映る。
(パルーデ様――)
覚悟したサーレの視界を、影が覆った。
「殺したら、駄目だ――」
掠れた声が、間近で言う。青い髪が、さらさらとサーレに掛かる。
「ぼくは逃げないから、彼女は逃がしてほしい」
「そもそも、あなたは逃げられるような状態ではないでしょう」
呆れたようにソニャーレが応じる。
「取り引きになっていませんよ」
「ぼくは、その気になれば、きみも、フェッロも殺せる」
硬い声で、王の宝は告げた。サーレを庇いつつ、王の宝は体を起こし、ソニャーレを見上げる。
「王城の庭園で、フェッロの足元の地面を抉ったのはぼくだ。でも、ぼくは、きみも、フェッロも殺したくない。ぼくは、きみ達みんなに、幸せになってほしい。それが、とても難しいことだと分かってはいるけれど、幾ら壊れようとも、やっぱり、ぼくにとって、きみ達はみんな子どもみたいなものだから」
「どこまで真実なのか分かりませんが、わたしはあなたが何かする前に、一瞬であなたの首を刎ねることができます」
冷酷に、ソニャーレは告げる。
「やはり、取り引きにはなりません」
「ぼくの体は、これ一つではないから、首を刎ねても無駄だよ。それに、きみはそんな無駄なことはしない。ぼくの肉体を生きたままロッソ三世のところへ連れていくほうが、余ほど利益になると知っているから」
淡々と、王の宝は応じた。ソニャーレの性格を、よく分かっている。取り引きが、成立してしまう。サーレは、懸命に口を開いた。
「駄目です、ナーヴェ様。わたしなど放って、お逃げ下さい。これは、致命傷です。わたしは、もう助からない。それより、どうか、御身大切に。復讐と追憶以外、生きる糧のなかったパルーデ様に、新たな生きる糧を与えたのは、あなた様と王の、絆なのですから。どうか、あなた様は、王の許へ……」
「アッズーロには、きみから伝言を頼むよ」
優しい声で、きっぱりと告げ、王の宝はサーレの手から剣を取った。身構えたソニャーレには目もくれず、王の宝は剣を使って、長く青い髪を一房切り落とす。
「これをアッズーロに渡して、伝えてほしい。『ぼくはきみが思っているより、しぶといから大丈夫』と」
「しかし……!」
サーレは反論しようとしたが、意識が遠くなり始めた。
「大丈夫だよ」
王の宝は、サーレの手に青い髪の束を握らせ、次いで、傷口に触れる。
「きみは助かる。ぼくが助ける。だから、頑張るんだ」
サーレは、もう一度反論を試みようとしたが、言葉が出る前に、視界が暗くなり、意識が途切れた。
それは奇跡の業に見えた。
王の宝は、髪を切るついでのように、手の親指を、剣で傷つけていた。その親指を、サーレの出血し続ける脇腹に当て、まるで祈るように、目を閉じる。その直後から出血の勢いが収まっていき、見る見る傷の状態が改善していくのが分かった。
(これが、王の宝の力……!)
ソニャーレは、目を瞠った。王の宝とは、一体何者なのだろう。神ウッチェーロに特別に愛された巫女なのだろうか。
(信じたくはないが、わたしやフェッロを殺せるという話も、本当かもしれない……)
ソニャーレは、新たな警戒心を持って、王の宝を見下ろした。
暫くして王の宝は目を開くと、纏っているぼろぼろの長衣の片袖を引き裂いて包帯を作り、サーレの腹に巻いた。
「あんまり清潔ではないけれど、ないよりはましだから、ごめん、サーレ」
呟いて、王の宝は顔を上げる。
「ソニャーレ、サーレを下ろしてくれるかな? 下ろして、地面に寝かせておくだけでいい。多分、すぐに迎えが来るから。逆に、サーレを残しておかないと、きみ達は新たな追っ手に悩まされることになるよ」
「サーレで追っ手を足止めしろ、ということですか」
「有り体に言えば、そうだね」
寂しげに微笑んだ王の宝に、ソニャーレは顔をしかめると、まずは床に置かれていた剣を荒野へ放り、次いで意識のない元同僚を抱き上げた。その手に握らされた青い髪が風に飛ばされないよう注意しながら、荷台の囲いに足を掛け、走り続ける荷馬車から跳び下りた。轍跡の砂埃を避け、サーレを寝かせると、走って荷馬車に追いつき、御者台へ跳び乗った。複雑な顔をしたフェッロと目が合ったが、ソニャーレは何も言わず、そのまま荷台へ戻った。
「ありがとう」
王の宝は、座ったままソニャーレを見上げて微笑み、礼を言うと、元のように横になり、瞼を閉じた。その顔色は、土気色に近い。完全に状態が悪化している。
(サーレに何かを与えて弱ったように見える……)
まさか、「ぼくにとって、きみ達はみんな子どもみたいなものだから」という、あの言葉も本当なのだろうか。
小さく息を吐いて、ソニャーレは荷台の床に座り、王の宝の上半身を、自らの膝の上に抱え上げた。硬い床の振動から、少しは守れるだろう。ぐったりとした王の宝は、微かに目を開けてソニャーレの顔を見上げ、ありがとう、と口の動きだけで礼を述べて、力なく目を閉じた。
国境の山のこちら側、風が吹き渡る荒れ野に、銀髪の少女がぽつんと倒れている。ルーチェは馬に拍車をかけ、急いで少女の許へ行った。
「サーレ!」
呼んでも返事はなかったが、細身の少女の腹には包帯がしてあり、微かな呼吸も見て取れた。
(一体、誰が……)
馬から降り、同僚を抱き起したルーチェは、零れ落ちた青い髪に目を瞠った。風に飛びそうになる長い髪の房を急いで掴み、まじまじと見つめる。本物だった。
(じゃあ、手当てして下さったのは、ナーヴェ様……!)
間違いなく、王の宝はここまで来たのだ。そうでなければ、辻褄が合わない。敵には、サーレを手当てする理由などないのだから。
(ナーヴェ様の足取りは掴めた。でも――)
ルーチェは眼前に聳える国境の山を見つめた。そこへ続く荒野には、荷馬車も人も見えない。
(サーレをこのままにして、追ってはいけない……。それに、ナーヴェ様は、既に国境の向こう……)
ルーチェは、サーレを抱えて騎乗した。現状では、サーレを救うため、そして報告のため、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領経由で王都へ行くことが最上だろう。
(ナーヴェ様、申し訳ありません……!)
山の向こうへ、ぺこりと頭を下げて、ルーチェは馬首を巡らせた。
荒涼とした国境地帯を抜け、田園地帯を通り、レ・ゾーネ・ウーミデ侯城へ戻ったルーチェは、一先ずサーレをパルーデに預けた。手当てはしてあったが、傷はかなり酷い。
「おまえは、その王の宝の髪を持って、王都へ急げ」
パルーデは、ルーチェの正体を知ってか知らずか、命じる。
「サーレも、回復し次第、わたくしが王都へ連れていくと、陛下に伝えよ」
サーレをパルーデの寝台に寝かせたピーシェも、振り向いて、力強く頷いてくれた。ピーシェから働きを認められたのは、初めてかもしれない。
「はい!」
ルーチェは青い髪を握り締めて返事をすると、パルーデの部屋を出て、玄関先に待たせた愛馬の許へ急いだ。御者のフォルマッジョが水と飼い葉を与えてくれていた愛馬ヴィーノは、よく走った。昨夜からほぼ休みなく走らせ続けているが、ルーチェの気持ちを汲むかのように、足を休めない。そのお陰で、日が沈む前に王都へ辿り着くことができた。
「レ・ゾーネ・ウーミデ侯よりの使者である! 火急の用件につき、すぐに陛下に謁見を賜りたい!」
ルーチェは、いつものような隠密行動ではなく、正々堂々と城門で名乗り、愛馬を衛兵に預けて王城の玄関へと走った。玄関を守る近衛兵達が、やや身構えたが、ルーチェが短衣の懐に入れていた青い髪の束を示すと、一人が王城内へ知らせに走ってくれた。
王の間で待ち構えていた王は、ルーチェを見るなり、王座から階段を下りてきた。通常ではあり得ないことだ。
「陛下、まずはこれを」
ルーチェが両手で差し出した青い髪の束を、王は掴み、一瞬見入ってから目を上げた。
「どこにあった?」
「レ・ゾーネ・ウーミデ侯領からテッラ・ロッサ王国へ至る国境手前の荒野です。クリニエラ山脈の北の端に当たります。負傷して意識のない従僕が持っておりました。その従僕は、レ・ゾーネ・ウーミデ侯の配下で、侯より、ヴルカーノ伯の追っ手として派遣されておりました。従僕の負傷は、鉄砲に拠るものと見受けられ、白い、長衣の袖と思われる布で包帯がされておりました」
「つまり、王の宝がテッラ・ロッサへ連れていかれた、ということだな?」
「そう推測されます」
ルーチェの肯定を受けて、王は周囲に控えた大臣達を振り向いた。
「ヴァッレ、そなたの配下に連絡を取り、最優先で王の宝の所在を突き止めさせよ」
「畏まりました」
外務担当大臣が一礼し、足早に王の間から出ていった。次に、王は軍務担当大臣を見た。
「ムーロ、直ちに国境沿いの警備を強化せよ。商人であれ、旅人であれ、全て身元を厳重に改めた上で通せ。そして、われが命じたならば、即刻テッラ・ロッサを攻められるよう、軍備を整えよ」
「御意のままに」
一礼した軍務担当大臣の脇から、道路担当大臣が進み出た。
「陛下、短気はなりませんぞ。今、戦を起こすは、愚策中の愚策」
「分かっておる!」
王は怒鳴る。
「そのようなことすれば、最初にナーヴェが危険に晒されよう! 全てはナーヴェを――王の宝を救ってからだ」
「それは、困難でございましょう」
重々しく、財務担当大臣が発言する。
「どうか、王の宝を失った場合のこともお考え頂きたく。テッラ・ロッサには、そうする理由が、充分にございます」
王は、冷ややかに財務担当大臣を睨んだ。だが、怒鳴りはしない。
「それも分かっておる。なれど、まずは王の宝救出を最優先する方針に異議はなかろう?」
「お分かり頂けているなら、異存はございません」
財務担当大臣は恭しく一礼した。
王の宝は、ルーチェに視線を戻した。
「おまえは暫し客間にて体を休めよ。後で、もう少し話を聞く。大臣達は、三十分後に会議室へ集合。今回の件について対策を練る」
「「仰せのままに」」
王の間に残っていた大臣達が一斉に頭を下げ、ルーチェもそれに倣った。
二
寝室へと、夕暮れの回廊を歩くアッズーロに、フィオーレが駆け寄ってきた。
「陛下、レーニョが目を覚ましました! 侍医殿が、もう大丈夫だと、一命を取り留めた、と……!」
「そうか」
アッズーロは心の底から安堵した。レーニョもまた、失う訳にはいかない大切な存在だ。それは、涙に濡れた笑顔をしているフィオーレにとっても同じだろう。
「われのことはよい。おまえは、レーニョについていてやれ。何かあれば、すぐ呼ぶゆえ」
「――ありがとう存じます……」
深々と頭を下げ、フィオーレはレーニョの部屋のほうへ下がっていった。
アッズーロはついて来るガットも一度部屋へ戻らせ、一人で寝室へ入った。真っ直ぐにナーヴェの寝台へ行き、腰掛ける。そうしてアッズーロは、上着の内隠しに入れていたナーヴェの髪を取り出した。長く青い、さらさらとした髪の一房。
「馬鹿者め……!」
呟いて、アッズーロは青い髪束に額を押し当てた。
「他人ばかり助けおって、少しも、己を顧みん……! そなたは、いつもいつもいつもいつも……!」
だからこそ、輪を掛けて愛おしい。健気で純真で賢く、頑固で博愛主義で寂しげで愛らしい。アッズーロは、青い髪にそっと口付けると、首に掛けて肌身離さず持っていた小巾着を、長衣の襟から出した。青い髪束を掛布の上に置き、小巾着を開く。中から、昨夜ここで拾った一筋の青い髪を取り出し、青い髪束と一緒にした。柔らかな光沢を放つ、深い青色の髪束。あの形のいい頭から背中へ流れていた、美しい髪の一房。自分で切り落としたのだろうか。それとも、誰かに切られたのだろうか。どちらにせよ、サーレのところに残されていた意味は、自分はこの先へ行くという伝言だろう。
(必ず、そなたを助けにいく――)
改めて心に誓い、アッズーロは青い髪束を大切に小巾着に納め、再び胸元へ入れた。
国境を越えて暫く進み、小さな町の灯りが見えたところで、ソニャーレはフェッロに荷馬車を停めさせた。王の宝のためにも、自分達のためにも、食料と衣服を買う必要があった。
(できれば、馬車も変えたいが、この町の規模では無理か……)
ソニャーレは、フェッロに王の宝の見張りを任せ、一人で町に入った。まずは食料品店に行き、無花果と発酵乳、水と麺麭を購入した。次いで服屋へ行き、三人分のテッラ・ロッサ風の長衣を見繕う。テッラ・ロッサ風の薄手の白い頭巾付き外套も購入した。強い日差しから肌を守るためのものだ。
荷馬車に戻ったソニャーレは、フェッロに問うた。
「次の町に入る前に、人目に付かない川か湖で、体を洗って、着替えられればいいのですが、心当たりはありますか?」
「そんなに水辺に恵まれていれば、この国はオリッゾンテ・ブルに手を出したりはしない」
苦々しく、フェッロは答えた。
「ならば、この水を使うしかないですね」
ソニャーレは先ほど購入した水の瓶を見る。
「少なくとも、わたしと王の宝に付いているサーレの血は拭っておかないといけませんから」
「――そうだな。どこか、町から離れたところで、馬車を停めよう」
フェッロは硬い声で応じた。
町と町を繋ぐ街道から少し離れた沙漠の、岩山の陰に、フェッロは荷馬車を停めた。揺れの止まった荷台で、ソニャーレは王の宝から長衣を脱がせた。王の宝は、起きているのか寝ているのか、ぐったりとしたままで、何の抵抗もしない。ソニャーレは、最早使いものにならない長衣を曲刀で切って、幾つかの布切れを作り、その一枚に買った水を垂らした。その急造の雑巾で、ソニャーレは王の宝の体を拭う。下袴だけにした細い体は、妊娠の兆候はあるものの、まだ幼気な少女のもので、痩せている。ソニャーレ達ともども丸一日食事をさせていないので、その所為もあるだろう。細く骨ばった手指に付いていたサーレの血を拭き取り、砂や埃も拭き取ってから、ソニャーレは王の宝にテッラ・ロッサ風の長衣を着せ、髪も覆う頭巾付き外套を纏わせた。
フェッロは御者台で着替えている。ソニャーレは新しい布切れに水を垂らし、それで己の体に付いたサーレの血を丁寧に拭き取ってから、他の汚れも落とし、テッラ・ロッサ風の長衣に着替え、曲刀も鞘と帯ごと新しい長衣の腰に巻いた。その上から頭巾付き外套をすっぽりと纏う。王の宝と自分の着ていた衣は、全て近くの砂礫の中へ埋めた。フェッロもソニャーレのすることを見て、同じようにしている。
(これで、オリッゾンテ・ブルから来たと一般人に気づかれることはない。後は、荷馬車を、幌付きの目立たない馬車に替えられれば……)
更に追ってくるであろう、オリッゾンテ・ブルの工作員や間諜達の目を欺くことができる。
(でも、それは次の町に着いてから……。今夜は、ここで休まないと、フェッロも、王の宝も、もう限界ね……)
ソニャーレは発酵乳の瓶を手に、王の宝の傍らへ座った。華奢な体を助け起こして支え、その口元に蓋を開けた瓶の縁を宛がう。少しずつ瓶を傾け、白い液体を口に含ませると、こくりと喉を鳴らして、王の宝は飲み下した。まるで、赤子に乳を飲ませるような感覚だ。少しずつしか飲まない王の宝に、ソニャーレは辛抱強く付き合い、できる限り多くの発酵乳を痩せた体に流し込んだ。
(無花果は、まだ無理そうね……)
意識がはっきりとしない状態で、固形物は無理だろう。ソニャーレは、王の宝の体をそっと床に寝かせると、次は無花果を手に取った。
「フェッロ殿」
声を掛けて、振り向いた青年に、ソニャーレは無花果を一つ投げ渡す。青年は無言で果実の皮を剥き、一日振りの食事を始めた。ソニャーレもまた、無花果の皮を剥き、かぶりつく。甘く瑞々しい果実が、五臓六腑に沁み渡った。
「今夜はここで休み、明日の朝早く発ちましょう」
ソニャーレはフェッロに言って、さっさと横になった。沙漠の夜は冷える。テッラ・ロッサ風の長衣と外套は、寒さからも身を守ってくれた。
腹の子を守ることと同時に、減った極小機械を増殖させることに全力を注いで一日を過ごしたので、体調は安定しても、体力はぎりぎりだった。ソニャーレが酸っぱい乳を飲ませてくれなかったら、もたなかったかもしれない。
(まあ、ぼくの肉体を死なせないために、最低限のことはしてくれると思っていたけれど、ソニャーレには感謝しないとね……)
思考回路で呟いて、ナーヴェは腹の子の様子に微笑む。一時期は危なかったが、極小機械で細やかな支援を行なったので、状態は回復している。細胞分裂も順調に進んでいる。
(これで、アッズーロを悲しませないで済む……)
ほうと息をついて、ナーヴェは肉体を微睡みへ戻した。気温がどんどん下がっていくが、ソニャーレが着せてくれたテッラ・ロッサ風の長衣と外套が、体温を守ってくれている。それでも、寒さはつらい。本体でも当然外気温は検知していたが、肉体で感じる寒さは、また別ものだ。
(きみと一緒に寝ていた時は、とても温かかったな……。こういう感覚を、「人肌が恋しい」と言うのかな……)
アッズーロと再会できるのは、いつになるだろうか。腹の子がいる限りは、アッズーロへの接続は難しいだろう。
(ロッソ三世と会えたら、いろいろと打開策も見つけられるはず……)
テッラ・ロッサ王国を創始した初代ロッソのことはよく知っているが、ロッソ三世のことは噂に聞くばかりだ。
(ロッソと似ていて、赤褐色の髪、小麦色の肌の、大柄な人だということだけれど……)
フェッロとソニャーレは、ほぼ確実にナーヴェをロッソ三世の許へ連れていくだろう。ロッソ三世は、自分をどう扱うだろう。オリッゾンテ・ブル王国に、どんな要求を突きつけるだろう。
(みんなが幸せになれるように、精一杯努力するよ、アッズーロ……)
大臣達からは、有用な意見も、突飛な意見も、さまざま出た。
(ペルソーネめ、似合わん策を打ち出しおって。あやつ、あのような性格であったか……? ヴァッレも、同調しおってからに……)
胸中で零しながら、アッズーロは寝室に戻った。さすがに、今日は報告書を読む気にならない。テッラ・ロッサに関わることであれば、即座に直接報告するよう命じてあるので、ナーヴェに関わるものはないだろう。
心配そうな様子で迎えたラディーチェを、手を振って下がらせ、一人になったアッズーロは、着替えながら自嘲の笑みを浮かべた。
(モッルスコに「分かっておる」と答えたが、本当のところ、われはどの程度分かっておるのだろうな……)
自らの王としての権威を強めるためと僅かな好奇心で、王の宝ナーヴェに肉体を持たせた。ところが、そのナーヴェの肉体のほうが、ともすれば自分の中で、王としての責務より大切になりつつある。
(肉体が死んでも、あやつは死なん。肉体はまた創らせればよい。子も、また生せばよい――)
分かってはいる。だが、この手で抱いたあの体を、あれほど嬉しげに食べ物を口にしていた体を、そして初めてのわが子を、諦めたくはない――。
(王とは、不自由なものだ。なれど、王でなければ、そなたには会えなかった。そなたも、王でないわれには、用がなかろう……)
自分は、王として、ナーヴェの肉体を取り戻さねばならない。
(ロッソ三世、わが宝に手を出したのが、きさまの運の尽きだ。覚悟しておけ)
アッズーロは、歯を磨き、洗面を済ませると、自分の寝台に横たわった。掛布を被り、首に掛けて肌身離さず持つ小巾着に口付けて、明日のために目を閉じた。
三
昨夜飲ませた発酵乳がよかったのか、夜が明けると、王の宝は幾分元気になっていた。無花果を手渡せば、律義に礼を述べて美味しそうに食べ、揺れる荷台の囲いから頭だけを出して、興味深げに、流れる景色を眺めなどする。片足は綱で荷台に繋いだままにしているが、王の宝は、約束した通り、逃げる気はないようだった。
やがて見えた次の町には、ソニャーレだけが、荷馬車から外した二頭の馬を連れて入り、幌馬車を買って戻った。荷馬車で待っていたフェッロと王の宝を幌馬車に乗り移らせ、ソニャーレは、その町を迂回して先へ進ませた。
テッラ・ロッサ王国の王都アルバに到着したのは、その日の昼過ぎだった。
多くの人々が行き交う街路を、王の宝は物珍しそうに眺める。外套を頭からすっぽり被っているとはいえ、間近で見られれば、その髪が青いことに気づかれてしまう。
「ナーヴェ様、囲いから頭を出すのは、お止め下さい」
ソニャーレが求めると、王の宝は素直に応じ、背中を囲いに凭せ掛けて座った。そうして、微笑みを浮かべて呟いた。
「こんなに近くでアルバを見るのは初めてだけれど、さすがに王都だけあって、いろいろな物を売っているね。オリッゾンテ・ブル王国の王都エテルニタにも引けを取らない品揃えで、しかも異なる物がたくさんある。こういう多様性を見ると、ぼくの『原罪』が少しは償えていると感じられるよ……」
「『原罪』……?」
不穏な言葉に、ソニャーレは眉をひそめて聞き返した。
「うん。ぼくの大昔の大失敗のこと」
自嘲気味に答えた王の宝は、ふと目を上げて、ソニャーレを見る。
「ところで、きみは、この国の出身なのかい?」
唐突な鋭い質問に、ソニャーレは思わず視線を逸らした。
「――工作員などというものは、忠誠心だけではできないものなんですよ」
「つまり、きみは純粋にこの国の人、という訳ではないんだね」
王の宝は、さらりと言い当て、次に御者台のほうを見る。
「彼は――フェッロは、この国の人なのかな?」
「それは、彼自身に訊いて下さい」
ソニャーレは逃げるように言って、荷台の反対側に座り込んだ。
「分かった」
王の宝は素直に頷き、律義に囲いから頭を出さないよう四つん這いで御者台のすぐ後ろへ行く。
「ヴルカーノ伯フェッロ、きみの父親は、確かにオリッゾンテ・ブル王国の人だった。王城にも出入りしていた鍛冶師の彼を、ぼくは記録――もとい、覚えているし、親がオリッゾンテ・ブル王国の人でなければ、きみはオリッゾンテ・ブル王国で伯爵にはなれない。でも、きみの母親は? もしかして、この国の人なのかな?」
「あなたには、関係のないことです」
低い声で答えたフェッロに、王の宝は肩を竦めた。
「関係あるよ。ぼくは、きみの所為で今ここにいるんだからね」
「それを言うなら……!」
フェッロは振り向き、怒りを湛えた翡翠色の双眸で王の宝を睨む。
「あなたが、わたしの道を阻んだのだ! あなたこそが……!」
「そうだね」
あっさりと認め、王の宝は荷台に座り直す。
「ぼくは、鉄砲が嫌いだからね……。でも、きみも、少なくとも今は、特に鉄砲が好きな訳ではないと思うんだけれど……?」
フェッロは答えない。王の宝は、笑みを湛えた口で、更に問うた。
「きみが推進したいのは鉄の生産であって、鉄砲を大量に作りたい訳ではないんだろう……?」
やはり、フェッロは答えない。幌馬車はそのまま王都の街路を進み、王宮へ到着した。
「一応、取り次ぎを頼んできます」
ソニャーレは立ち上がり、フェッロに告げる。
「わたし達が来たことは、既に間諜達によって陛下に伝えられているでしょうが、衛兵達には知られていないかもしれませんから」
「分かった。ここで待っておく」
フェッロの返事を受けて、ソニャーレは荷台から跳び下りた。実のところ、幌馬車を購入した町で、ロッソ三世直属の間諜と接触し、王の宝のことなど細かく伝えてある。
宮門を守る衛兵達に歩み寄ると、予想通り向こうから、ソニャーレを認めて声を掛けてきた。
「ソニャーレ殿ですね? 陛下が王の間でお待ちです。特別に、王宮の玄関まで馬車で来ることを許すとの仰せです。ヴルカーノ伯、及び、宝とともに参れとのことです」
「分かりました」
頷いて、ソニャーレは、王宮の塀沿いにフェッロが停めた幌馬車へ戻った。御者台に上がってフェッロに事情を告げ、荷台へ移る。フェッロは手綱を操って、幌馬車を宮門から王宮の敷地内へ入れた。そのまま、庭園内の道を王宮の玄関まで幌馬車で行く。王宮の玄関前で、近衛兵達に見つめられながら、ソニャーレは王の宝の足から綱をほどき、その華奢な体を抱えて、幌馬車から下りた。フェッロも御者台から下りて、近衛兵に馬達の手綱を預ける。近衛兵の一人が、三人を、玄関から王の間へと導いた。
工作員ソニャーレが抱えて入ってきた小柄な姿を、ロッソは王座からじっと見下ろした。白い外套で頭から全身をすっぽりと覆っているので、青い髪はまだ見えない。ともに入ってきたフェッロは、憔悴した顔をしている。逃避行が余ほどきつかったようだ。
「まずは、宝を見せよ」
ロッソは前置きも何もなく命じた。
「仰せのままに」
ソニャーレは王の宝を床へ下ろして立たせ、その外套を脱がせた。途端に、長く青い髪がさらりと現れた。体つきはすんなりと華奢で、男か女か、長衣を纏った状態では定かには分からない。肌の色は白く、顔立ちは整っていて、双眸は――吸い込まれそうな深い青色だった。
「宝よ」
ロッソは呼び掛ける。
「きさまには罪がある。知っておるか」
「記録している。覚えているよ」
高くも低くもない、不思議に響く声だった。
「百年前のことを、『覚えている』と言うか」
ロッソは薄く笑い、宝を見据える。
「ならば、述べてみよ。きさまの罪とは、何か?」
「ぼくのこの容姿と、代々青い瞳の王を承認してきたことによって、『王』には青い瞳の人しかなれないという文化を創ってしまったこと。それで、きみのお祖父さんのロッソは、第一王子で、且つ有能な人であったにも関わらず、オリッゾンテ・ブル国王になれなかった。彼は、美しい翡翠色の双眸を持っていたから」
十代後半にしか見えない宝は、「罪」の内容を正確に答えてみせた。祖父ロッソ一世から教えられた通りで、寸分たがわない。しかもその語りは、祖父がその父王から聞いたという宝の在り方と一致する。
(王の宝は、人ではない。命を持つ者ではないゆえ、寿命などない。どこにでも現れ、されど王以外には見えず、王に語りかけてくる、神の使徒――。それが、何故、万人に見える姿を持ったのか……)
宝に、歴史上初めて、このように振る舞わせているオリッゾンテ・ブルの新王アッズーロとは、如何なる者なのか。間諜が持ってきたソニャーレからの情報には、更に意外なことが含まれていた。
「ふむ。確かにきさまはオリッゾンテ・ブルの宝のようだ」
ロッソは目を眇め、宝の体を――その腹を見る。
「であれば、身篭っておるは、アッズーロの子か」
「そうだよ」
宝は、そっと腹に片手を当てて認めた。その、人を真似た仕草が腹立たしい。ロッソは眉間に皺を寄せて命じた。
「近衛兵、この異形の者を幽閉塔の最上階に入れよ! 即刻、直ちにだ!」
「「御意!」」
王の間の端に控えていた近衛兵達が走り、王の宝の華奢な体を左右から捕らえて、乱暴に幽閉塔へ繋がる通路へと連れていった。
「フェッロ」
ロッソは続けざまに言う。
「そなたの母は既に幽閉塔から出してある。控えの間に待たせてあるゆえ、連れて帰るがよい。今回の任務、御苦労であった」
「――ありがたく――」
掠れた声で述べて一礼した青年は、最低限の礼儀を守りつつも、急ぎ足で王の間を辞していった。
「さて、ソニャーレ」
ロッソは残った一人に視線を移す。
「おまえの願いを聞く番だ。約束通り、王宮の秘薬をくれてやる。シンティラーレ、薬草園へ一緒に行ってやれ」
ロッソは近衛兵とともに控えていた薬師に命じて踵を返した。
「畏まりました」
暗赤色の髪を布で覆い、青い瞳、小麦色の肌をした少女は一礼し、ソニャーレへ歩み寄っていく。ロッソはその光景を尻目に、幽閉塔へ向かった。
王宮の敷地内にあり、直接通路で繋がっている幽閉塔は、地下牢とは異なり、貴人を監禁するための建物だ。閉じ込めた貴人を、近衛兵達が厳重に守り、女官が世話を焼く。その最上階の部屋へ、ロッソは階段を上がっていった。
扉の、格子が嵌まった覗き窓から室内を見ると、宝は寝台に横になって掛布を被り、眠っていた。
「図々しい奴だな」
ロッソが呟くと、扉を守っていた近衛兵二人の内一人が生真面目に告げた。
「中へお入りになってから、ずっとあの御様子です。もしかしたら、お加減があまりよくないのかもしれません」
成るほど、妊娠中であれば、そういうこともあるかもしれない。
(人ではないはずの宝が、妊娠――。本当に一体、どういうことだ……)
「開けよ」
近衛兵に指示して、扉の錠を開けさせ、ロッソは部屋の中へ入った。寝台へ歩み寄り、眠る王の宝を見下ろす。高い位置にある小窓から差し込む昼下がりの光の中、横向きに寝た宝の青い髪は、枕から零れ落ちるように敷布の上に広がっている。掛布から覗いた手は軽く握られていて、閉じた目を縁取る青い睫毛が白い頬に陰を落としている。顔立ちは整っているが、寝顔は幼い。
(これを、アッズーロは抱いたのか)
ロッソは掛布を掴み、一気に剥ぎ取って床に落とした。宝は、長衣を纏ったまま寝ていた。
「――ロッソ?」
目を覚ました宝が、青い双眸で見上げてくる。まだ妊娠したばかりなのか、すんなりした体に膨らみはない。胸すら、殆どない。起き上がろうとした華奢な肩を押さえつけ、ロッソは寝台へ上がった。
「ロッソ、駄目だ」
宝は、細い両手を上げて、ロッソの体を押しやろうとする。
「お腹の子に障る」
「これは、きさまの罪に対する罰だ」
ロッソは言い切り、宝の抵抗を捻じ伏せて、その長衣の紐を解いた。顕になったのは、痩せていて、身長の割に幼い中性的な体。ロッソはその不思議な体を、隅々まで暴いていった。けれど、細部を探れば探るほど、それは確かに温もりも柔らかさもある人の体で、妊娠していることも頷ける形をしていた。
宝は、途中から諦めたように、されるがままになっていたが、ロッソが全てを確かめ終えた時には、潤んだ青い双眸から、ただ静かに涙を流していた。憎むべき青い双眸であるのに、瑠璃のように美しい。
「子が流れた様子はないな。また来るぞ」
言い置いて、寝台から立ち上がったロッソの背に、宝が問うた。
「きみはお祖父さんにそっくりだけれど、瞳は、青いんだね。きみがぼくを深く憎むのは、その青い瞳の所為なのかな……?」
「――祖父は、おれを溺愛していた。だが、おれの目を真正面から見るたび、いつも一瞬、苦しみに堪えるような顔をした。おれは、祖父のあの顔が忘れられん」
低い声で答え、ロッソは部屋を出た。ずっと扉の外にいた近衛兵達が、やや青褪めた顔で、すぐに錠を下ろす。ロッソは無言で、王宮へ戻った。
「陛下」
通路を出たところで声を掛けてきたのは、薬師シンティラーレだった。暗赤色の髪を隠す布の陰から、青い双眸でロッソを見上げた少女。ロッソの末の妹である。
「仰せの通り、ソニャーレに狐手袋の葉を渡しました。ただ、あれは、投薬量の調節の難しい薬。わたくしもともに赴いて治療を見届けたいと思うのですが」
「好きにせよ」
手を振ったロッソに、シンティラーレは眉をひそめた。
「不機嫌でいらっしゃいますね。一晩で十人の女を侍らす方が、たった一人に手こずられましたか」
相変わらず遠慮のない言いようだ。末っ子ということで、幼い頃より少々甘やかし過ぎたかもしれない。
「予想以上に人であったゆえ、興醒めしたまでだ。行くなら早く行け」
ぶっきらぼうに応じて、ロッソは自室へ行った。自らの寝台に腰掛けると、自然に溜め息が出た。酷く疲れた。
痩せた体だった。弱々しい抵抗だった。美しい両目から止め処なく涙を流して、静かに泣いていた。
(ずっと憎んできた相手だというのに――)
罪に対する罰を与えたはずが、まるで自分が罰を下されたような苦い思いが拭えなかった。
ナーヴェは寝台に横たわったまま、そっと下腹に手を当て、極小機械で探って、安堵の吐息を漏らした。肉体を隅々まで蹂躙される間、極小機械で、何とか子どもを守り切ることができた。
(「また来る」と言っていた……。来て貰わないと話ができないけれど……)
意図に反して、目からまた涙が溢れる。
(これも、壊れた所為かな……。きみ以外に、こういうことをされるのは、何だか凄く、嫌だよ、アッズーロ……)
吐き気がする。ナーヴェは不快感に耐えながら、寝台から下り、部屋の隅にある洗面台へ行って、麺麭や発酵乳など、幾らか胃袋の中に残っていたものを吐いた。それから桶に用意されていた水で、まず口を濯ぎ、次に掬って飲み、最後に手巾を濡らして体を拭いた。その後、衣をきちんと纏い直すと、床に落とされた掛布を拾って寝台に横になり、目を閉じて、ナーヴェは肉体回復のための眠りに就いた。
四
「爺様、ただいま! 薬を貰ってきた」
ソニャーレは、久し振りに帰った我が家の、暗い屋内へ声を掛けた。まだ明るい外から入ると、土煉瓦で作られた家の中は、目が慣れるまで何も見えない。
「爺様」
再度呼び掛けると、漸く返事があった。
「お帰り、ソニャーレ」
しわがれた弱々しい声。状態は思わしくないようだ。隣人達が世話をしてくれていたはずだが、病に対しては、どうしようもなかったのだろう。
「すぐ薬を用意するから、待っていて」
ソニャーレは、任務の報酬として受け取ってきた秘薬――狐手袋の葉を、調理道具の石で磨り潰し始めた――。
シンティラーレがロッソに許可を求めてきたのは、その夜だった。
女官に起こされ、近衛兵が守る扉から廊下へ出ると、シンティラーレが可愛らしい顔に焦燥を浮かべて立っていた。
「如何した」
ロッソが問うと、末の妹は形のいい眉を寄せて告げた。
「ソニャーレの祖父の容体が急変したんです。やはり、薬の量が難しかったようで……。わたくしも手伝ったのですが、与え過ぎたものは、如何ともし難く……」
「それは、寿命であろう」
冷ややかに応じたロッソに、シンティラーレは、少し目を泳がせるようにして言った。
「それで、ソニャーレが頼むのです。王の宝を遣わしては頂けないか、と。宝は、巫女のように奇跡の業を使うから、と。御許可頂けますでしょうか……?」
顔をしかめたロッソに、末の妹は重ねて請うた。
「ソニャーレは忠義の者。今回も、難しい任務をやり遂げました。その忠義に、できるだけ報いてやらねば、われわれは忠義を失うことになります。どうか、お慈悲を……!」
「分かった」
ロッソは溜め息とともに頷き、近衛兵の一人に顔を向けた。
「おまえがシンティラーレとともに塔へ行き、宝を出して、ソニャーレの家へ連れていけ。塔の近衛兵も三人ばかり連れていけ。くれぐれも、宝を逃がすでないぞ」
「御意!」
近衛兵は敬礼し、シンティラーレを伴って、足早に立ち去った。
(「巫女のように奇跡の業を使う」か……)
ロッソは顎に手を当て、考えを巡らせる。今までに間諜達が収集してきた情報では、王の宝は、人が知らぬ知識を有し、人を動かす技量を持っているということだった。それだけでも脅威で、フェッロを工作員に仕立て上げ、既に送り込んでいた工作員のソニャーレと協力させて、排除しようとしたのだが――。
(宝とは、それ以上のものであったか)
妃にもなれ、巫女でもあるという。
(忍びで、様子を見に行くか)
ロッソは、残っている近衛兵に指示を出し、着替えるため、一度寝室に戻った。
幽閉塔の最上階の部屋で、王の宝は寝台に座り、格子の嵌まった窓からの月明かりを浴びて、小さな声で歌っていた。
「宝よ」
シンティラーレは、近衛兵が扉の錠を外す間、待つのももどかしく、声を掛ける。
「助けてほしい」
長く青い髪を揺らして、宝は振り向いた。
「ぼくにできることなら。何だい?」
寝台から下りて歩み寄ってきた宝に、シンティラーレは告げた。
「ソニャーレの祖父に狐手袋を与えたんだが、量が多過ぎたんだ。容体が急変して、危険な状態になっている。救えるか?」
「心不全の薬だね。間に合えば救える。すぐに連れていってほしい」
硬い面持ちで、宝は答えた。
シンティラーレは宝と近衛兵四人を連れ、幽閉塔を出て、自分が乗ってきて王宮玄関前に待たせていた馬車で、ソニャーレの家へ向かった。
ソニャーレの家は、王都アルバの外れ近く、貧民街にある。土煉瓦造りで藁葺き屋根の家々の間の狭い路地を、馬車は壺などを蹴散らしながら何とか進み、崩れかけた家の前で停まった。
「ここだ」
低く叫んで真っ先にシンティラーレは馬車から降り、簾が立てかけてあるだけの入り口を入った。
「ソニャーレ、宝を連れてきたぞ!」
「ありがとうございます……!」
ソニャーレは、油皿の灯りの中、やつれた顔を上げた。その向こうの寝台では、彼女の祖父スコーポが、喘鳴を繰り返していた。
「小刀を、火で炙って、貸して」
暗い室内に、凛とした宝の声が響いた。近衛兵達に取り囲まれた宝が、シンティラーレの後ろから来る。
「はい」
ソニャーレがすぐに応じて、手近にあった小刀を、油皿の火に翳した。そうして消毒された小刀を受け取ると、宝はスコーポの手を取り、その指先を僅かに傷つけた。続いて宝は、自らの手の親指も傷つける。そこには、治りかけの傷も見て取れた。以前にも、同じことをしたのだろう。
宝は小刀をソニャーレに返すと、血が溢れる自らの傷口を、スコーポの傷口に押し当てた。そのまま目を閉じ、何か念じるように眉間に皺を寄せる。厳かで緊迫した雰囲気に、近衛兵達も圧倒されて、見守るばかりだ。
やがて目を開けた宝は、幾分表情を弛めて言った。
「代謝を速めて急いで毒素を排出できるようにしたから、手洗いへ連れていってあげて」
「はい……!」
ソニャーレは頷いて、祖父の片腕を自らの肩に回して起こし、外の厠へと連れていった。
「さてと」
宝は、息をついて、シンティラーレを振り向く。
「彼に狐手袋を与えたのは、きみ?」
「直接投薬したのは、ソニャーレよ。わたしは、ソニャーレに渡したの。でも、その時に、少しずつ様子を見て飲ませるよう、注意はしたのよ?」
宝は苦笑した。
「薬の素人に、『少しずつ』は難しい注文だよ。どのくらいが『少し』なのか加減が分からない」
シンティラーレは頬を膨らませ、両の拳を握った。
「だから、急いで様子を見に来たのよ。でも、もう与え過ぎた後だったから、対処の仕様がなくて……」
「狐手袋は、効き目は絶大だけれど、代謝の悪いところが欠点だからね。代わりに、代謝のいい毛狐手袋があればよかったんだけれど、それはないの?」
油皿の灯りの中、青い双眸に見つめられて、シンティラーレは首を傾げた。
「『毛狐手袋』?」
「うん。狐手袋に似ているけれど、もっと小さくて、花は白い。葉や花に、たくさんの産毛が生えているから、毛狐手袋というんだ」
「ああ、それなら、薬草園の狐手袋の近くにあるわ。狐手袋の変種かと思っていたんだけれど」
「変種というか、近縁種でね。狐手袋と同じ薬効があるんだけれど、体内残留性が低く、排泄が早いから、薬としては狐手袋より使い易いんだよ」
「――それは知らなかったわ……」
シンティラーレは項垂れた。王族の薬師として薬草園を継いだ時、生えている薬草については先輩薬師達から詳細に学んだつもりだったが、まだ足りないところがあったのだ。
「あなたは、薬に詳しいのね。お陰で忠義の者を失わずに済んだわ」
シンティラーレが素直に称賛し、感謝すると、宝は微笑んだ。
「ぼくは、王の宝。正確には、きみ達の遥かな先祖達が蓄積してきた知識という宝を守るものだからね。きみ達より知っていることが多いのは、当たり前なんだ」
「あなたは――」
シンティラーレは息を呑む。
「本当に、人ではないかのようね……」
まさしく神殿育ちの、神の御業を許された巫女なのかもしれない。
「そうだよ。ぼくは人ではない。それなのに……」
宝は俯いて下腹に手を当て、そして僅かに顔をしかめると、そのまま床に座り込んでしまった。
「どうした? 具合が悪いのか?」
慌ててシンティラーレが青い髪に隠れた顔を覗き込むと、宝はつらそうな表情で告げた。
「少し、冷えたみたいだ……」
そこへ、ソニャーレが祖父を連れて戻ってきた。油皿の灯火に照らされたスコーポの呼吸は落ち着き、顔色もましになっている。祖父をゆっくりと寝台に寝かせたソニャーレに、宝が教えた。
「後は、水を飲ませて厠へ連れていくことを何度か繰り返せば治まるよ。多分、今度は、もっと使い易い薬を、この薬師さんが渡してくれるだろうし」
「そんな約束は……!」
シンティラーレは反論しかけてやめた。自分の知識が足りなかった埋め合わせに、そのくらいはしてもいいと思えたのだ。
「まあ、いいわ。もっと使い易い薬を明日にでも届けに来るから、それまでしっかりスコーポの看病をしていなさい」
「本当に、ありがとうございます、お二人とも……!」
ソニャーレは深々と頭を下げた。シンティラーレは笑顔で頷いて、踵を返した。
「では、われわれは帰るぞ。近衛兵、宝を運べ。丁重にな」
「「仰せのままに」」
近衛兵達は敬礼し、その内の一人がそっと王の宝を抱き上げた。宝は、半ば目を閉じ、脂汗を浮かべている。早く幽閉塔へ戻して休ませたほうがよさそうだった。
(あれが、「王の宝」か……)
一足先に騎馬で王宮へ戻りながら、ロッソは眉間に皺を寄せた。集めてきた情報の通りだ。否、それを上回る。
(あれは、危険だ――)
人が知らぬ知識を有し、人を動かす技量を持ち、巫女の如き奇跡の業を使って人を助け、人を垂らし込む。
(あれと身近に接した者は皆、あれに垂らし込まれてしまう。あれは、オリッゾンテ・ブルにとっては宝であろうが、わが国にとっては、毒だ……)
宝に、テッラ・ロッサ王国へ帰属する意識があれば、真に宝となるだろうが、アッズーロの子を身篭っている以上、それは望めないだろう。
(無理に子を流させても、おれを恨むだけ。どうあっても、あれはわが国のものにはならん。であれば、あれは置いておくだけで危険だ。どんどんと周囲の者達を垂らし込み、オリッゾンテ・ブルの権威を高め、わが国の独立を脅かす――)
夜の街路を、近衛兵二人だけを供に騎馬で進む中、ロッソは決断する。
(あれは、殺さねばならん――)
もともと、殺す予定だったのだ。運よくフェッロとソニャーレが攫ってきたが、長く生かしておくつもりなど最初からない。
(オリッゾンテ・ブルの権威を貶められるよう、趣向を凝らして、殺す)
宝の泣き顔が、ちらと脳裏を掠めたが、ロッソは険しく目を眇めて、王宮まで馬を急がせた。
日差しが、きつい。テッラ・ロッサ王国が、オリッゾンテ・ブル王国よりも、全体的にやや南に位置している所為だろう。この王都アルバも、オリッゾンテ・ブル王国の最南端とほぼ並ぶ位置にある。
「ペルソーネ様、あちらに飲み物を売っています。少し休まれては?」
傍らから声を掛けてきたのは、癖のある黒髪を襟足で切り揃えた、浅黒い肌、黒い瞳の少女。レ・ゾーネ・ウーミデ侯から貸し出された工作員の、ノッテという者だ。
「そう致しましょう。無理をしては、長期の活動はできません」
もう一人の、癖のない黒髪、小麦色の肌、青い瞳の少女が賛成した。ヴァッレ配下の工作員、バーゼという者だ。
「『様』は付けるな。わたくしはただの竪琴弾きのペルソーネです」
注意したペルソーネに、同行者の残り一人が、苦笑して言った。
「でしたら、もう少し言葉遣いを崩して下さいね」
こちらもヴァッレ配下の工作員だが、この一行の中では唯一の男だ。歳の頃は二十歳過ぎの、金褐色の柔らかい髪を短めに整え、白い肌、茶色の瞳をしたジョールノという青年である。自分を含めたこの四人で小さな楽団を結成して隠れ蓑とし、王都へ、あわよくば王宮へ入り込むというのが、ペルソーネがアッズーロに提案した策だった。そうして許可を得て、現状、王都アルバへ入るところまでは上手くいっている。
「ああ、気を付ける」
頷いて、ペルソーネは少女達とともに街路に軒を連ねる屋台の一つへ向かった。売られているのは、無花果の果汁だ。なかなかに美味しそうである――。
野太い声が聞こえてきたのは、その時だった。
「告げる!」
宣言したのは、街路の先にある泉の前に立った近衛兵だ。この辺りには、幾つか泉が湧いており、それらの水が、沙漠の中のこの王都を支えている。
「来たる初夏の月、四の日に、憎むべきオリッゾンテ・ブル王国の宝の処刑を行なう!」
(なっ……!)
跳ねた心臓を押さえ、ペルソーネはその近衛兵を凝視した。近衛兵は、王家の紋章入りの羊皮紙を両手で掲げ、言葉を続ける。
「場所は、クリニエラ山脈の端、国境沿いの丘だ! オリッゾンテ・ブル王国を憎む者、恨みを懐く者は必ず来て、宝を名乗って民を惑わす娼婦の最期を見届けよ!」
「――すぐ、すぐ、陛下に知らせよ。それから――、助けに行かないと――」
小声で呟いたペルソーネの背を、ジョールノがぽんと叩いた。
「そんな顔をしたら駄目だ」
低い声で工作員の青年は囁く。
「さあ、周りの人に合わせて拍手喝采して。行動するのは、それからだ」
ペルソーネは青年の横顔を見上げ、次いで周りの熱狂する人々を見て、弱々しく拍手をした。
「ナーヴェ様、ナーヴェ様」
小声で呼ばれて、ナーヴェは寝台の上で目を開けた。ソニャーレの声だ。随分眠ったらしい。部屋は真っ暗で、また夜になっていることが分かる。
(ロッソが来てくれないと、話が進まないな……)
溜め息をつきながら体を起こし、ナーヴェは声がする扉のほうを見た。扉の覗き窓に嵌まった格子の向こうに、篝火の灯りに照らされたソニャーレの顔がある。
「どうしたの?」
応じたナーヴェに、ソニャーレは険しい表情で告げた。
「陛下が、あなた様の処刑を決定なさいました。今日、新しい薬を届けて下さったシンティラーレ様が、そう仰いました。三日後の四の日に、国境沿いの丘で、あなた様を処刑する、と既に民に布告も出されています」
「そう……」
ナーヴェは俯いて苦笑した。ロッソが来ないはずだ。もう対話する意思がないのだ――。
「わたくしがお救い致します」
ソニャーレのきっぱりした言葉に、ナーヴェは顔を上げた。
「それは駄目だよ。きみが罪に問われる」
「あなた様は、わが祖父の命の恩人。恩人のためならば、わたくしは命を懸けられます」
ナーヴェは首を横に振った。
「駄目だよ、ぼくの作り物の肉体のためなんかに命を懸けたら。きみの命は、掛け替えのないものなんだから」
「しかし、では、お腹の子は……?」
ソニャーレの問いに、ナーヴェは寂しく微笑んだ。
「わざわざ国境沿いまで連れていってくれるなら、何とかできるかもしれない……。処刑方法は、何?」
「陛下の性格ならば、見せしめとして最も効果のある、磔刑を選ばれるでしょう」
ソニャーレは苦しげに言った。ナーヴェは更に問うた。
「止めを刺すのに、槍とかを使うのかな?」
「いえ、わが国の磔刑は、長い苦しみを伴う、最も残酷な十字架刑です」
ソニャーレは俯いて答えた。
「ああ、あれか……」
ナーヴェは、自分が守る知識の中にある、有名な磔刑の情報を精査し、微笑む。
「それなら、いい」
口の中で呟いて、ナーヴェは格子越しにソニャーレを見つめ、請うた。
「もし、きみがぼくのために動いてくれるなら、命を懸ける必要はない。ただ、ぼくの遺体を、その場でオリッゾンテ・ブル王国に引き渡してくれるようロッソに頼んでくれたら、嬉しい」
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