第5話 妃となる道

     一


「男か女かは、分かるのか?」

 アッズーロの問いに、朝日を浴びたナーヴェはあっさりと頷いた。

「うん。きみの分身が運んできた染色体がYだから、男の子だよ」

「そうか。王子か……!」

 別にどちらでも嬉しいのだが、性別がはっきりすると、生まれた後、育っていく過程への想像が膨らむ。

「侍従や馬も、幼い頃より用意してやらんとな。妃は、どの家より迎えてやるのがよいか……」

「ちょっと待って」

 ナーヴェが心配そうな表情で言う。

「そもそも、ぼくを妃にするというのは、本当にできることなのかい? 大臣達は、まだ全員が賛成している訳ではないだろう?」

「何、子どもができたのだ、反対する理由はあるまい?」

「あるよ」

 ナーヴェは冷静に告げる。

「ぼくは、人ではないんだから。幾ら王の宝だと言っても、王家に得体の知れない血を入れるのは、やっぱり反対が多いと思うよ。それに、きみには何人か、お妃候補がいたはずだ。ペルソーネもその一人だろう? 彼女達は納得するのかな?」

「全て黙らせていく」

 アッズーロはきっぱりと言い、寝台から下りた。すべきことは山ほどある。

「そなたは安静にしていよ。腹の子の世話を最優先にし、障りがあるなら接続もするな。よいな?」

「うん。分かったよ……」

 ナーヴェは素直に、だがどこか不安そうに頷いた。



 アッズーロに接続すれば、その間、肉体は小脳に任せた状態になる。

(この作り物の、しかも月経が始まったばかりの体が、受精卵を保持し続けられるかは、心許ない……)

 ナーヴェは、寝室の美麗な天井を見つめて、溜め息をついた。アッズーロは明らかに焦っている。子どもができたことを喜んでくれるのは嬉しいが、どうにも事を急ぎ過ぎている。

(政治は、みんなの納得がないと、上手く進まないものなのに……)

 アッズーロには、そもそも独断専行を好む癖がある。チェーロを廃した時も、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領へお忍びで来た時もそうだった。

(何か手を打っておかないと、きみは、いずれ孤立する。でも今きみは、ぼくの言葉にあんまり耳を貸そうとしない……)

 そもそも接続がままならないので、話す機会すら少ない状態だ。

(今のぼくに、できること――)

 ナーヴェは頭を動かし、寝室の隅で、静かに衣装箱の中身を整えているフィオーレを見た。

(今のぼくは、アッズーロ以外の人と話すことができる――)

 アッズーロは、ナーヴェの勝手な行動を怒るかもしれないが、事態が悪化するのを静観してはいられない。

(ぼくは、きみに守られたいのではなくて、きみを守りたいんだから)

 ナーヴェは、立てた計画をもう一度思考回路で精査してから、口を開いた。

「フィオーレ、頼みがあるんだけれど」

「はい。何でございましょう?」

 フィオーレは手を止め、素早く寝台脇へ来てくれた。

「アッズーロの従姉のヴァッレに会いたいんだ。ここに彼女を呼ぶことはできるかな?」

 ナーヴェの問いかけに、フィオーレは困惑した表情を浮かべた。

「ここは、陛下の寝室でございますから、陛下のお許しがなければ、お呼びすることはできません……」

「なら、ぼくがここから出ればいいのかな?」

 ナーヴェは、フィオーレが困るのを承知で、寂しく微笑み、尋ねた。

「それは、いけません……!」

 フィオーレは必死で止める。

「お体のことを、お考え下さい……! お子に何かあれば、陛下がどれほど落胆なさるか……!」

「なら、ヴァッレをここへ呼んでほしい。どうしても、彼女と話したいことがあるんだ」

 ナーヴェはきっぱりと告げた。



 フィオーレは決断すると素早かった。女官仲間にヴァッレ付きの女官もいるということで、さっさと連絡を取り、ナーヴェが頼んだ日の午後には、アッズーロが謁見を行なっている留守を狙って、ヴァッレを寝室に招き入れた。

「寝転んだままでごめん。でも、どうしてもきみと話したかったんだ」

 ナーヴェが寝台から話し掛けると、ヴァッレは部屋の入口で恭しく礼をし、跪いて応じた。

「御体調が優れぬとか。そのような折、このような場所で、わたくしに何の御用でしょう?」

 異例のことで、随分と警戒されているようだ。ナーヴェは苦笑して答えた。

「単刀直入に言うと、アッズーロは、ぼくを妃にしたがっているんだ。でも、ぼくを妃にするとなると、いろいろと問題が多い。アッズーロもそれは分かっているはずなんだけれど、今、彼はあんまり冷静ではないように見えるんだ。それで、きみの意見を聞きたい。どうしたら、彼を冷静にさせることができるかな?」

「『どうしたら、あなた様が王妃になれるか』ではなく、ですか?」

 ヴァッレは、軽く眉をひそめて問い返してきた。

「うん。そこは、みんなの意見に任せるよ。ぼくは人ではないから、あんまり妃に向いているとは思えないしね……」

 正直にナーヴェが告げると、ヴァッレは拍子抜けしたような顔をした。

「畏れながら、あなた様は、王妃になりたい訳ではないのですか?」 

 この問いにも、ナーヴェは正直に答えた。

「アッズーロの望みを叶えたいとは思うよ。でも、ぼく自身が妃になりたいかと問われれば、そんなこと、二週間前までは考えもしなかったし、今でも、アッズーロが先走っているとしか思えないよ」

「……そうでございましたか……」

 ヴァッレは考え深げに一度目を伏せ、それからナーヴェを見据える。

「差し出がましいことではございますが、あなた様の御不調の理由を、教えて頂けませんか」

「妊娠だよ」

 率直に、ナーヴェは答えた。ヴァッレは大きく目を瞠ったが、すぐに小さく息をついて言った。

「それで合点が行きました。陛下は、確かに冷静ではありません。明らかに焦っておいでです。けれど、あなた様が妊娠なさっているのなら、そうもなりましょう――」

 ヴァッレはまた視線を落とし、考える様子だ。ナーヴェは、アッズーロの従姉の意見を、静かに待った。

 やがてヴァッレは顔を上げ、述べた。

「陛下が冷静さを欠く理由は、強固な反対が予想される、まさにその一点に尽きるかと思われます。ゆえに、陛下を冷静にさせるには、それほどの反対はない、急いで既成事実を作って強引に事を進めなくともよい、と思わせる必要があろうかと存じます」

「『既成事実』に似たものは、もうできているけれど……」

 ナーヴェは掛布の下で下腹に手を当てながら呟き、溜め息をつく。

「それは、とても難しいね……」

「わたくしも、大臣達の内、話の通じ易そうな者から順に、ナーヴェ様が如何に王妃に相応しいかを説いて回ります。ですので、ナーヴェ様御自身も、できる限り多くの者に、あなた様が王妃に相応しいことを、示していって頂きたいのです」

 ヴァッレの真摯な眼差しに、ナーヴェはぽかんと口を開いた。

「ええと、きみは、ぼくが妃に相応しいと思うの……?」

「はい。つい先ほどから、心底そう思っております」

 ヴァッレは、理知的に微笑んだ。



 午後の最初の謁見者は、ヴルカーノ伯フェッロだった。

「本日は、陛下にお願いしたき儀があり、罷り越しました」

 頭を下げて堅苦しく述べ、フェッロは王座のアッズーロを見上げた。その眼差しが、以前より心持ち鋭い。

「うむ。申せ」

 アッズーロは目を眇めて応じた。

「畏れながら、鉄砲作りに欠かせない鉄の原料となる鉄鉱石が、わが国ではそれほど産出されません」

 フェッロは熱意を込めて語る。

「しかしながら、テッラ・ロッサ王国では、あの赤い沙漠で多く産出されると聞きます。どうか、国としてテッラ・ロッサ王国と交易を行ない、鉄鉱石を継続的に手に入れて頂きたいのです」

「いつ敵となるやもしれん国と、交易せよと申すか」

 アッズーロが呆れて見せると、フェッロは眉間に皺を寄せて主張した。

「互いに敵とならぬためにも、交易をするのです。共存共栄できれば、敵とはなりません」

「あちらも、そう考えてくれればよいがな」

 アッズーロは、皮肉な口調で、更にフェッロを試した。現在、オリッゾンテ・ブル王国とテッラ・ロッサ王国の間に、正式な国交はない。民間での細々とした交易があるのみだ。

 フェッロは、自信を覗かせて答えた。

「わが国が骸炭を売ればよいのです」

 骸炭とは、石炭を蒸し焼きにして硫黄成分を取り除いたものである。鉄鉱石即ち酸化鉄から鉄を作るには、骸炭を使って還元する必要があるのだ。そして石炭は、オリッゾンテ・ブル王国で多く産出される。

「互いに足りぬものを補い合い、共存せよと申すか」

 アッズーロが先回りして言うと、フェッロはわが意を得たりとばかりに頷いた。

「さすがは英明なる陛下。その通りでございます」

「たわけ」

 アッズーロは顔をしかめて吐き捨てた。フェッロは唖然とした顔になる。アッズーロは重ねて言い放った。

「鉄は強力な武器となる。おまえの鉄砲然りだ。それを互いに作って、何とする。より多くの犠牲を強いる戦争をせよと申すか」

「いえ、そのようなことは! 鉄は農具にも建材にもなる頗る有用な資源です。わが国とテッラ・ロッサ王国とは、交易を通して豊かな鉄資源を得ることで、必ず共存共栄できます」

 フェッロは力強く言い切った。

(臭うな……)

 アッズーロは眉をひそめ、手を振った。

「分かった。次の大臣会議で検討させよう」

「ありがたき幸せにございます」

 フェッロは優雅に一礼し、近衛兵が開いた扉から出ていった。

「レーニョ」

 アッズーロは即座に階段下に控えた侍従を呼びつけた。

「はい」

 レーニョは心得ていて、すぐに階段を上がってくる。王座の傍まで来て膝を着いた侍従の耳に、アッズーロは囁いた。

「ヴルカーノ伯をおまえの配下に見張らせよ。テッラ・ロッサの工作員と接触の可能性がある」

「仰せのままに」

 レーニョは緊張した面持ちで答え、素早く階段を下りて、近衛兵が開いた扉から出ていった。その後ろ姿を見送り、アッズーロは王座の肘掛けに頬杖を突いて、小さく息を吐いた。こちらからテッラ・ロッサへ工作員を送り込む前に、先手を打たれたかもしれない。

(全く、ロッソ三世め、やりおるではないか……!)

 ナーヴェを妃にするため忙しくしたい時に、余計な横槍が入りそうなことが気に喰わなかった。



 物事が全て、思考回路が弾き出した計算通りに進むことは殆どない。特に人相手はそうだ。ゆえに興味深くもあるのだが――。ナーヴェは美麗な天井を見上げて、また溜め息をついた。

(ヴァッレがぼくに妃の資質を見出してしまうのは、計算外だったな……)

 正直に、頼りなく振る舞ったつもりなのだが、当てが外れてしまった。だが、学べたこともある。

(アッズーロを冷静にさせるには、反対が少ないと思わせたらいい……。なら、まずはぼくが変わらないと駄目か……)

 アッズーロに対し、否定的な意見をぶつけている一人は、他ならぬナーヴェ自身だ。

(きみのためには、本気で、妃になることを考えないといけないんだね……)

 ナーヴェは思考回路の中で、新たな演算を開始した――。



 全ての謁見を終えたアッズーロは、夕日が差し込む二階の回廊を急いで歩き、自室へ戻った。

 寝室に入って真っ先にナーヴェの寝台を見ると、青い髪の妃候補は、仰向けに寝転んだまま優しい顔でアッズーロを見つめ返した。

「調子はどうだ?」

 歩み寄って問うたアッズーロに、ナーヴェは穏やかに答えた。

「特に異常はないよ。ずっとこの体に接続して、細心の注意を払っているからね」

「そうか」

 安堵して、アッズーロは寝台に腰掛け、ナーヴェの頬に手を触れた。そのままそっと頬を撫でると、ナーヴェは気持ちよさげに目を細める。アッズーロは身を屈め、その目元に口付けた。

「駄目だよ、アッズーロ。今は無理だよ?」

 ナーヴェが困惑したように窘めた。

「分かっておる」

 アッズーロは鼻を鳴らし、身を起こす。

「われにとっても、今は腹の子が最優先だ。そなたを抱けぬのは、なかなかにつらいがな」

「と月十日の間、我慢して貰わないと」

 ナーヴェが真面目に請うた。

「――長いな……」

 アッズーロは溜め息をつく。本気で、もっと抱いておけばよかったと後悔した。

「それで、アッズーロ」

 ふとナーヴェが口調を改めて言う。

「ぼくも、妃になれるよう、努力することにしたよ」

「ほう、漸くその気になったか……!」

 アッズーロの声は、思わず上擦った。ナーヴェ自身が乗り気でないことが、やはり心の重荷になっていたのだ。

「それはよい。われも大臣どもを口説く甲斐があるというものだ」

「うん。でも、きみはあんまり頑張り過ぎないほうがいい。こういうことは、急ぎ過ぎると、反発が余計に大きくなるから」

 ナーヴェは微笑み、言葉を重ねる。

「協力者を増やせるよう、ぼくが頑張るよ」

「いらん。無理をするなと言うておろう!」

 アッズーロは慌てて言ったが、ナーヴェは枕の上で首を横に振った。

「駄目だよ。きみは焦り過ぎている。ぼくが搦め手から攻めてみるから、暫くの間、任せてくれないかい?」

「『搦め手から』とは、一体どこだ?」

 アッズーロが眉をひそめて訊くと、ナーヴェは悪戯っぽい笑みを浮かべて告げた。

「マーレだよ。いつの時代でも、女を動かせば、男も動くものさ。そうして、世の中が動くんだよ」


     二


 フォレスタ・ブル大公マーレは、娘のヴァッレに伴われて部屋に入ってきた人物を見て、椅子の肘掛けを強く握った。

 青く癖のない髪は腰に届く長さ。前髪のかかる形のいい青い眉。慈愛と好奇心を湛えた青い双眸。白い長衣と筒袴を纏った、すんなりと細い体。懐かしい姿――人ではない者だ。それが、目の前に、人として在る。

「話すのは久し振りだね、マーレ」

 親しげに挨拶されて、マーレは椅子から立ち上がった。

「そなた、本物なのか」

 口から零れた言葉に、相手は、寂しげな苦笑を浮かべた。

「やっぱり、疑っていたんだね。少しも会いに来てくれないから、そうだろうな、とは思っていたんだ」

「当たり前であろう」

 マーレは頭痛を覚えて、こめかみを押さえる。

「そなたは人ではない。それが人として現れたのなら、誰か適当な者にそれらしいなりをさせておると思うではないか」

「まあ、アッズーロは、そうしても可笑しくない状況で即位したからね」

 涼しい口調で言い、王の宝――ナーヴェは、マーレを見つめる。

「でも、アッズーロは、ぼくの予測も、きみの想像も、超えたんだよ」

「どうやら、そのようね」

 マーレは溜め息をつき、椅子に座り直した。

「ああ、ぼくも椅子に座っていいかな?」

 ナーヴェが、既に目で椅子を物色しながら訊いてくる。

「ちょっと、体調が思わしくなくてね」

「如何した?」

「妊娠しているんだよ、驚いたことにね」

 さらりと告げられて、マーレは目を瞬いた。

「は?」

「びっくりした時のその反応、甥っ子とそっくりだよ」

 くすりと、王の宝は笑った。

「一体、誰の――」

 尋ねる途中で、マーレは口を閉じた。答えなど、決まっている。

「――本当に、あの子は、われの想像を超えたようね……」

「それで、座っていいかな?」

 再度問われて、マーレは手を振った。

「どの椅子でも、適当に使うがよい」

 マーレが座る肘掛け椅子の前には長卓があり、その周りには他にも長椅子や肘掛け椅子がある。ナーヴェは長椅子にゆっくりと腰掛けた。娘のヴァッレが、その長椅子の背後に立つ。マーレは、ヴァッレに視線を向けた。

「ヴァッレ、そなたは、いつからナーヴェの妊娠を知っていたのだ?」

「わたくしも、つい昨日、知ったばかりです」

「何しろ、ぼくは昨日の未明に妊娠したところだから」

 ナーヴェが赤裸々に付け加えた。マーレはまたも頭痛を覚え、顔をしかめつつ尋ねた。

「……それで、何ゆえわれに会いに来たのだ?」

「口添えを、お願いしたくてね」

 王の宝は、マーレが初めて見る優しい表情をする。

「アッズーロが、ぼくを妃にしたがっているから、できるだけ多くの協力者が必要なんだ」

「妃だと? 人ではないそなたをか!」

 マーレは激高した。王家に、人ではない者の血を入れるなど、考えただけでぞっとする。

「アッズーロめ、血迷うたか!」

「うん。彼は血迷った」

 王の宝は冷静に認める。

「ぼくが幾ら反対しても、聞く耳を持たなかった。それどころか、ぼくを妃にするために暴走して、どんどん孤立していく感じがした。だから、ぼくは彼に協力することにしたんだ」

 澄んだ青い双眸が、真っ直ぐにマーレを見据える。

「ぼくは、彼を暴君ではなく、賢君にしたい。ぼくは青い瞳を持っている。ぼくは多くの知識を持っている。ぼくは、子どもを産める。後は、何が不足だい?」

 マーレは深く息をついた。これほど熱を帯びた言葉を語るナーヴェも、初めて見る。アッズーロは、歴代の、どの王も為し得なかったことをしたのだ。

「その体は、本当に人なのか?」

 マーレの問いに、ナーヴェは穏やかに頷いた。

「人だよ。極小機械は入れているけれど、人には違いない」

「そなたは、嘘がつけぬのだったな?」

「うん。造られてから今に至るまで、まだ嘘をつけたことはないよ」

 マーレは、もう一度深く息をついた。考えたこともなかったが、選択肢としては、有りなのかもしれない。

(王権の象徴の血を、王家に入れる――。悪くないやもしれぬ……)

「よかろう」

 マーレは椅子から立ち上がる。

「われが、そなたを支援しよう。そなたが如何に妃に相応しいか、吹聴して回るとしよう」

「ありがとう」

 ナーヴェも立ち上がり、ふと片手を差し出した。マーレはその手を一瞬見つめた後、自らも手を伸ばして握手に応じた。宝の白い手は、華奢で、やや骨ばっていて、柔らかな肌をしている。その生の感触が、どんな言葉より、青い髪をしたこの少女を、人なのだと感じさせた。

「まさか、そなたと実際に手を握り合う日が来ようとはな」

 感慨深く呟いたマーレに、ナーヴェも僅かに肩を竦めて言った。

「そうだね。ぼくの予測にも、こんな未来はなかったよ」



 ヴルカーノ伯フェッロは、王都に小さめの邸を持ち、王城の敷地内に設けられた製作所へ通っている。レーニョ配下の間諜達は、その生活を逐一観察し、報告し始めた。そうして八日目、レーニョは気になる報告を受けた。フェッロの許を、とある少女が訪ねたという。その少女は、頭巾付き外套で容貌を隠してはいたが、レ・ゾーネ・ウーミデ侯の王都の館にも出入りしていたというのだ。

(テッラ・ロッサ絡み、と見るのが妥当だろうな――)

 だが、確証がない。

(視察と称して、一度、製作所を彼に案内させてみるか)

 アッズーロの命令を受けて、実際に製作所設置の指揮を執ったのはレーニョだ。その後の様子を気にして視察に訪れても、違和感はないはずだ。

(彼が製作所にいる時を狙って、抜き打ちで行くか)

 レーニョは、間諜の報告と自分の判断を伝えるため、王の執務室へ向かった。夕食が終わる頃の時間なので、王はもしかしたら続き部屋の寝室のほうにいるかもしれない。

(ナーヴェ様と語らっておられるところへお邪魔するのは気が引けるが……)

 王の宝ナーヴェを妃にする、とアッズーロから告げられたのは、七日前だ。さまざまな説得工作の成果で、今では大臣の半数が賛成に回っている。

(ペルソーネ様を筆頭に、根強い反対もあるとは聞くが、ここまでくれば、時間の問題だろう)

 執務室の扉を叩き、中へ入ると、やはりそこにアッズーロはおらず、隣室から話し声が聞こえてきた。

「明日は、ペルソーネと話してみるよ。彼女も、話が分からない人ではないから、突破口はあると思う」

 ナーヴェが提案している。相変わらず、意表を突く真っ向勝負が好みらしい。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領から戻って暫くは体調を崩しがちだったが、ここ二、三日は調子がよさそうだ。

(穏やかそうに見えて、交渉事においては好戦的なところのある方だ)

 小さく息をついて、レーニョは声を掛けた。

「陛下、レーニョでございます。御報告したき儀があり、参りました。宜しいでしょうか?」

「うむ、入れ」

 卓に着いたまま振り向いたアッズーロに促され、レーニョは王の寝室へ入った。

「いつも遅くまでありがとう、レーニョ」

 ナーヴェが、卓の向こうから涼やかな笑顔で労ってくれた。フィオーレに拠れば、女官達は皆、ナーヴェの魅力の虜だという。気遣いが細やかで、優しく、しかも当たり前の世話に素直に喜び感謝してくれる、仕え甲斐のある主人である、と。それは、レーニョにとっても同じだった。

「お気遣い痛み入ります、ナーヴェ様」

 一礼してから、レーニョはアッズーロへ歩み寄り、声を低めて告げた。

「ヴルカーノ伯の件ですが、レ・ゾーネ・ウーミデ侯の従僕が接触を持ったようです。それだけでは確証はありませんが、やはり、テッラ・ロッサとの繋がりが濃厚に疑われるかと。明日、抜き打ちの視察と称して、彼が製作所にいるところへ訪れ、幾らか探ってみようと思います」

「ふむ。それはよいが、急ぐ必要はないぞ。こちらも工作員を送っている最中だからな。抑止力になれば、それでよい」

 アッズーロは、気負いなく言った。ナーヴェの体調がよくなった所為か、一時感じられた焦りがなく、余裕がある。よいことだ。

「畏まりました。浅く探る程度に致します」

 再び一礼して、レーニョは寝室を辞す。去り際に、寝室の隅に控えていたフィオーレと目が合ったが、レーニョは特に何も示さず、扉を閉めて廊下へ出た。



「それで、そなた本気でペルソーネと話す気か?」

 顔をしかめたアッズーロに問われて、ナーヴェは苦笑した。

「きみは、本当に彼女が苦手なんだね。そんな顔をしなくてもいいのに。彼女は真面目でいい人だよ?」

「真面目だけが取り柄の女だ。一々狭量で面倒だ」

 アッズーロは鼻を鳴らして言った。

「そういう人こそ、政務では大切にしないと」

 ナーヴェは忠告して、席を立った。すると、アッズーロも慌てて立ち上がり、フィオーレも駆け寄ってくる。

「大丈夫だよ」

 ナーヴェは二人を宥めたが、アッズーロは真剣な顔で怒った。

「大事な体で、大事な時期であろう! われの寿命を縮める気か! 歩く時は必ず介添えを付けよ!」

「――分かったよ」

 ナーヴェは渋々頷いて、アッズーロに支えられて歩き、寝台へ腰掛けた。

 すぐにフィオーレが楊枝と手桶と木杯を持って傍へ来て、歯磨きを始めてくれる。アッズーロは隣に腰掛け、何となくナーヴェの青い髪を触り始めた。髪を手櫛で梳いたり、毛先を指に搦めて弄ったりする。臥所をともにできない代わりに、そうして欲求不満を解消しているらしい。アッズーロの優しい手の動きを髪を通じて感じながら、ナーヴェは大人しくフィオーレに歯を磨かれ、口を濯いだ。次いで、フィオーレに手伝われながら、夜着の長衣へと着替える。アッズーロは隣に腰掛けたまま、時折、立ち上がってナーヴェを支えた。ナーヴェが上半身裸になった時には、アッズーロはふと手を伸ばし、まだ平らなナーヴェの下腹に触れてきた。

「順調か?」

 耳元に囁くように問われて、ナーヴェはくすぐったさに首を竦めながら答えた。

「順調だよ。ぼくがずっとこの体に接続し続けて、極小機械で守っているから大丈夫。この子は元気に細胞分裂を続けているよ」

「そうか」

 アッズーロは相槌を打つと、ナーヴェの頬に口付けてから、体を離した。その隙を逃さず、フィオーレがナーヴェの頭から長衣を被せる。貫頭衣の襟から頭を出したナーヴェの髪を、アッズーロが手際よく衣の外へ出して背中へ流してくれた。

 フィオーレに介添えされて、寝室の隅にある手洗いへ行ってから、ナーヴェは寝台に横になる。アッズーロが優しく掛布を掛けてくれた。そうして、アッズーロは身を屈め、ナーヴェの口に口付ける。妊娠してから、毎晩の習慣だ。

「今宵は、蜂蜜の味だな」

 呟いて身を起こしたアッズーロを見上げ、ナーヴェは問うた。

「きみは、まだ暫く政務をするのかい?」

「うむ。報告書は日々溜まるからな」

「そうだね。でも、無理をしたら駄目だよ。一つしかない体なんだから」

「分かっておる。体が幾つもあるのは、そなただけだ」

 呆れたように言ってから、アッズーロは優しく微笑む。

「では、しっかり休め」

「うん」

 頷いたナーヴェの前髪にちらりと触れてから、アッズーロは執務室へと消えた。

「では、ナーヴェ様、おやすみなさいませ」

 フィオーレが一礼し、油皿の灯火を消した。

「おやすみ、フィオーレ。今日もありがとう」

 暗くなった部屋の中、感謝を告げて、ナーヴェは目を閉じた。明日、ペルソーネとどう話すか。暫く演算してから、眠りに落ちた。


     三


 ペルソーネとは、王城の露台で話すことにした。いい天気なので、暖かい。

 学芸担当大臣の肩書きを持つ女性は、ラディーチェに案内され、いつも通り緩く編んだ銀灰色の髪を揺らして歩いてきた。やや緊張した面持ちをしている。無理もないだろう。

(彼女は、ぼくを「話す相手」とは認識してこなかった……)

 ナーヴェは椅子に座ったまま微笑み、フィオーレが隣に用意してくれた椅子を示した。

「ようこそ、ペルソーネ。どうぞ、ここに掛けてくれるかな?」

「お待たせして申し訳ありません」

 ペルソーネは立ったまま律義に頭を下げた。

「ううん」

 ナーヴェは首を横に振って見せる。

「きみのほうが忙しいんだから、ぼくが待つのは当然だよ」

「しかし、あなた様は王の宝。王権の象徴。お待たせするには畏れ多いお方でございます」

「――そうだね。王権は、この国の根幹だものね。とにかく、まずは座ってくれるかな?」

 ナーヴェが柔らかく応じると、漸くペルソーネは椅子に腰掛けた。それを見届けてから、ナーヴェは眼下に広がる風景へ視線を転じた。

「ぼくは、ここから見える景色が好きでね。特に、杏の花や扁桃の花、それにあの林檎の花が、大好きなんだ」

 既に季節は晩春で、王城から見える景色の中にも、満開の花を付けた林檎の木がところどころにある。ほんのり淡紅色を帯びた白い花が、たわわに咲いているさまが可憐だ。

「きみは、花を美しいと思うことはある?」

 ナーヴェの問いに、ペルソーネはむっとした口調で答えた。

「わたくしを、何だとお思いですか? わたくしは学芸担当大臣。美しいものを愛でる心は充分に持っているつもりです」

「そうか、愚問だったね。ごめん」

 素直に謝り、ナーヴェはペルソーネを見つめる。

「なら、きみは、歌を好ましいと思うことはある?」

 ペルソーネはナーヴェを見つめ返してから、やはりむっとした口調で答えた。

「ありますわ。わたくしは、竪琴も弾きますのよ」

「そうなんだ。だったら、一曲、聴いてくれるかな? ずっとずっと昔、姉が教えてくれた歌があるんだ。きみ達の言葉に直して歌うのは初めてだから、あんまり上手くは歌えないかもしれないけれど」

 二千五百年前、まだ船団を組んで航宙していた頃、姉妹船のシップが教えてくれた幾つかの民謡の一つ。教えられた当時は、歌詞の意味が全く理解できなかった曲。

 ナーヴェは椅子に座ったまま背筋を伸ばし、露台の下に広がる風景へ向かって口を開いた。


  スカーバラの市へ行くのか?

  和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、

  そこに住むある人に宜しく言ってくれ、

  彼女はかつての恋人だったから。


  薄い亜麻布の衣を作るよう伝えよ、

  和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、

  縫い目も細かい針仕事もなしで、

  そうしたら彼女はわれの恋人。


  あの涸れた井戸でそれを洗うよう伝えよ、

  和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、

  そこには水も湧かなければ雨も降ったことがない、

  そうしたら彼女はわれの恋人。


  そこの荊でそれを乾かすよう伝えよ、

  和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、

  それにはアダムが生まれて以来花が咲いたことがない、

  そうしたら彼女はわれの恋人。


  この親切をしてくれるよう頼んでくれ、

  和蘭芹、薬用緋衣草、迷迭香に立麝香草、

  そしてわれに同じような願い事をするように、

  そうしたら彼女はわれの恋人。



「――まだ、続きはあるんだけれど、長くなってしまうからね」

 歌い終え、振り向いた王の宝を、ペルソーネは暫く凝視していた。儚く美しい歌声だった。初めて聴く歌だった。懐かしいような寂しいような、不思議な旋律の歌だった。そして――。

「さっぱり意味の分からない歌詞ですわね。不可能なことを要求して、それをすれば恋人だ、などと」

 感想を述べたペルソーネに、王の宝は青い髪を揺らして首を傾け、苦笑した。

「うん。ぼくも、ずっとそう思ってきた。でも、最近、似たようなことを言われてね。何だか、この歌の意味が分かってきたような気がするんだ」

「『似たようなこと』?」

 眉をひそめたペルソーネに、王の宝は微笑んで告げた。

「肉体がないのなら肉体を作れ、作って自分とは違うものを見て助けよ。人ではなくても妃になれ、なって子どもを産め。――随分と、無茶苦茶な要求だよね」

「――それは、陛下のお言葉ですか」

 暗く沈む声で確認したペルソーネに、王の宝は不思議な笑みを浮かべた。

「きみは、どっちだと思う? この話は、ぼくの捏造か、それとも実際にアッズーロが言った言葉か」

 ペルソーネは溜め息をついた。そんなことは決まっている。アッズーロとの付き合いはそれなりに長いのだ。

(レ・ゾーネ・ウーミデ侯を丸め込んだだけのことはある……。大した交渉力ね……。アッズーロが惚れるのも、分かる気がする)

 胸中で呟いてから、ペルソーネは答えた。

「――間違いなく、陛下が仰ったお言葉でしょう。あのお方は、そういう御性格ですから」

 それは、敗北宣言だった。ペルソーネ自身が、アッズーロが王の宝にぞっこんであることを認めざるを得ない。そういう台詞を、王の宝は、ペルソーネの口から引き出したのだ。

(わたしの、陛下に対する思いも、自負も誇りも、全て利用して……)

 目を伏せ、唇を引き結んだペルソーネに、王の宝は優しい声音で言った。

「ぼくも、いずれ、アッズーロに無茶な要求をする時が来るかもしれない。その時は、きみが彼を支えてほしいんだ」

「『無茶な要求』?」

 目を上げ、聞き返したペルソーネに、王の宝は晩春の風景を見つめながら告げた。

「ぼくの不具合は、日々増えている。ぼくは、いずれ壊れるかもしれない。そうしたら彼に、ぼくが守る宝なしで生きていけと、王権を一人で背負っていけと、無茶な要求をしなければならなくなるから……」

 その時、急に風が吹き、王の宝の長く青い髪を大きく靡かせた。それは、一枚の絵画のように美しく完成された光景だったが、ペルソーネには、ひどく不吉な印象を与えた。

「お妃になられるのでしたら、無責任でいらっしゃっては困ります」

 思わずペルソーネは口を開き、求める。

「お妃になられるのでしたら、必ず、陛下が御譲位なさる日まで、全力で支えて下さいませ!」

 王の宝は驚いた表情をしてペルソーネを振り向いたが、目を瞬いてから、ふわりと微笑んだ。

「うん。努力する」



 鉄砲の製作所は、王城の庭園の隅にあった煉瓦でできた農具倉庫の一つを改装した建物である。その鉄製の扉を叩き、レーニョは中へ入った。間諜により、そこにフェッロがいることは確認済みだ。

「これは、レーニョ殿」

 フェッロは、部下に設計図を示す手を止め、振り向いた。

「抜き打ちの視察ですよ。あなたに任せていることは、大変重要ですからね」

 さらりと答え、レーニョはフェッロに歩み寄る。

「制作は、順調ですか」

「はい。ですが、如何せん、原料が――よい鉄が足りません」

 フェッロは、作業台に置いた鉄砲を見下ろし、眉間に皺を寄せて告げる。

「生半な鉄では、弾丸を発射する際に砲身がもたぬのです。われわれには、テッラ・ロッサ王国で採掘される潤沢な鉄鉱石が必要です」

 目を上げ、フェッロは翡翠色の双眸でレーニョを見る。

「テッラ・ロッサ王国との交易の話、どうなりましたか?」

「まだ検討中です。鉄は確かに有用ですが、使いようによっては、危険なものですから」

「それは、さまざまな道具全てに言えることです。しかし、われわれは道具を使いこなしてきた。鉄も、必ずわれわれにとって、もっともっと必要となってくるものです」

「そのことは、わたしも理解しています」

 レーニョが冷静に受け止めると、フェッロは暗い表情で問うてきた。

「一番反対なさっているのは、王の宝――ナーヴェ様でしょうか?」

「――何故、そう思うのですか」

 レーニョはやや硬い口調で尋ねた。急に、しかもよくない話の流れでナーヴェの名を出されたので、つい身構えてしまう。

 フェッロは、俯いて言った。

「最初に陛下に謁見を賜った時、あなたとともに、ナーヴェ様も同席なさっておられました。そしてあの方は、わたしの説明を聞きながら、終始浮かない顔をなさっておられた。近頃は、あの方が王妃になられるという話も聞きます。陛下に対し、大きな影響力を持っておられるあの方が、鉄砲制作に反対しておられるなら、わたしの計画は、望み薄なのでしょうか……?」

 レーニョは、フェッロに向き合い、諭した。

「陛下も、ナーヴェ様も、狭量なお方ではありません。鉄砲に可能性を見出されたからこそ、ここに、こうして製作所を設けるよう指示なさったのです。勝手にあの方々を判断してはなりません」

「はい――」

 フェッロは俯いたまま、頷いた。

「ところで」

 レーニョは製作所内を見回す。

「現在、鉄砲は何丁ほど出来上がりましたか?」

「まだ三丁です。命中率の高さを追求して、試行錯誤を重ねておりますので」

 フェッロは、製作所の奥の棚へ行き、一丁の鉄砲を手に取って示す。

「これが、最新の一丁です。試し撃ちを御覧になりますか?」

「是非」

 レーニョは応じ、フェッロとともに製作所の外へ出た。

 製作所の脇に、煉瓦塀で四角く囲って設けた試験場で、フェッロは的に向け、二射した。どちらも、的の中央をやや外す程度で、なかなか正確な射撃が可能だということが分かった。

「素晴らしい出来、そして、素晴らしい腕前ですね」

 レーニョが称賛すると、フェッロは僅かに頬を弛めた。

「鉄砲も、わたしの腕前も、まだ発展途上です。次は、もっと正確な射撃を御覧に入れますよ」

「楽しみにしています。それにしても、あなたはテッラ・ロッサ王国のことに詳しいですね。わたしは、テッラ・ロッサに鉄鉱石が豊富にあることすら知りませんでしたよ」

 レーニョが試験場から出ながら明るく問うと、フェッロは、はっとしたように答えた。

「い、いえ、ただ、鉄鉱石の産出地について、調べたことがあるだけです」

「ああ、そういうことでしたか。さすがですね」

 笑顔で流して、レーニョは踵を返した。

「では、わたしはこれで。また来ます」

「はい。腕を磨いておきますよ」

 フェッロは、最新の鉄砲を手に、試験場の入り口でレーニョを見送る。レーニョは、庭園を横切って王城の勝手口へ向かった。ふと目を上げると、王城の露台に、ナーヴェの姿が見えた。風に、長く青い髪を靡かせながら、フィオーレに介添えされて、室内へ戻るところのようだ。ペルソーネの姿も見える。

(あそこで話をなさったのか)

 試験場へ行く前に姿が見えなかったのは、椅子に座っていて、重厚な手すりの陰になっていた所為だろう。話は既に終わった様子だ。

 上手く説得できたのならよいが、とレーニョが思った時、背後で音がした。先ほど試験場で聞いた、鉄砲に火薬と弾丸を込める音――。振り向いたレーニョが目にしたのは、露台へ向けて鉄砲を構えるフェッロの姿だった。

「一体、何を――」

 レーニョの叫びに、フェッロは反応しない。狙いを定めている。

(この距離では、命中しないはず――)

 思いながらも、レーニョは走った。先ほどの試射は、わざと下手に見せた可能性もある――。



 叫び声に続いた射撃音に、ナーヴェは庭園の隅を見た。レーニョが仰向けに倒れて、肩の辺りから大量の血が流れている。そのレーニョを見下ろして、鉄砲を持ったフェッロが立ち尽くしている。

「レーニョ!」

 傍らのフィオーレが悲鳴を上げた。瞬間、ナーヴェは肉体への接続を切った。本体から衛星を操作し、小型飛翔誘導弾を発射する。狙いは――。

 はっとして、ナーヴェは誘導をずらした。極超音速を誇る誘導弾は、命中寸前で方向を変え、フェッロではなく、そのすぐ傍の地面を深く抉った。

(駄目だ、人を狙うなんて……、ぼくは、壊れた――)

 動揺しながらも、ナーヴェは肉体に接続を戻した。まだ、急いでしなければならないことがある。フィオーレに抱えられて座り込んでいた肉体を立ち上がらせながら、ナーヴェは露台の周辺を見た。飛び移れる距離に、木が生えている。ナーヴェはフィオーレの腕を振り切って躊躇なく露台の手すりに登り、跳んだ。木の枝に掴まり、そこから幹へ移動し、長衣が破れるのも構わず、ところどころの枝へ足を掛けて滑り降りる。地上へ着くと、そのまま走ってナーヴェはレーニョのところへ行き、跪きながら己の右手の親指を食い破った。そこから溢れる血にできる限りの極小機械を含ませて、レーニョの傷口へ入れる。見ただけで、レーニョの左肩の骨が砕け、筋肉がずたずたになっていることが分かった。

(まずは止血、それから、血管と骨と筋肉の修復――)

 作業を命じた極小機械達を、血液とともに、己の肉体からレーニョの体へ注ぐ。肉体の血液型は万が一の可能性を考えてO型に設定したので、害はないはずだ――。

 突如として、下腹に激しい痛みを覚え、ナーヴェは蹲った。原因は明らかだ。肉体への接続を切ったり、肉体を激しく動かしたりしたので、流産し掛かっているのだ。

(アッズーロ、ごめん……)

 地面に倒れ、両手で腹を押さえて動けなくなったナーヴェの肉体に、歩み寄ってくる足がある。

(フェッロ……?)

 肉体を抱え上げられ、運ばれ始めても、ナーヴェには為す術がなかった。



〈緊急安全装置作動。緊急安全装置作動〉

 唐突に頭の中で声が響き始め、アッズーロは王座に座ったまま顔をしかめた。ナーヴェが接続してきたのかとも思ったが、声が違い過ぎる。

〈疑似人格電脳に重篤な故障が発生――殺人未遂。疑似人格電脳に重大な故障が発生――殺人未遂〉

 抑揚に乏しい声は、頭蓋骨を割らんばかりに響く。

〈船長の同意により疑似人格電脳を初期化します。尚、初期化した場合、現在の疑似人格は復元不可能です。船長の同意により疑似人格電脳を初期化します。尚、初期化した場合、現在の疑似人格は復元不可能です。同意しますか?〉

 アッズーロには、何の話か理解できない。だが、よくないことがナーヴェの身に起こったことだけは分かった。

〈同意しますか?〉

 繰り返し、声は問うてきた。どうやら「船長」とは、アッズーロのことらしい。

(「疑似人格」? 「殺人未遂」? 「初期化」? 「復元不可能」?)

 意味の分からない言葉もあるが、「同意」してはいけないと感じられた。

 アッズーロは王座から立ち上がり、謁見相手のヴァッレと同席していたガットが驚くのも構わず、怒鳴った。

「否! 断じて否だ! 何があろうと、絶対に同意はせん!」

〈了解しました。緊急安全装置は、船長による起動命令があるまで休眠状態に戻ります。以降の事態には船長の判断で対処願います〉

 声は淡々と告げて、そのまま聞こえなくなった。

「ヴァッレ、急用だ」

 アッズーロは早口で告げて、急ぎ足で階段を下り、ナーヴェがいるはずの寝室へ向かった。しかし、回廊を行く途中で、庭園のほうから、騒ぎが聞こえたのだった。


     四


(わたしは何をしている……? 一体何をしているんだ……?)

 自らに問い掛けながらも、足を止められず、フェッロは鉄砲と王の宝とを抱えたまま、走り続けた。王の宝に鉄砲を突き付けて喚くと、衛兵達は驚愕した様子で、フェッロの通過を許した。

 王城の敷地を出たフェッロは、街路を行く人々を避けながら、ひたすら走った。人々は皆、呆然とフェッロを見送る。何が起きているのか、理解できないのだろう。フェッロはそのまま自分の邸へ駆け込むと、馬車小屋へ走った。王の宝を荷馬車の荷台へ乗せ、馬を二頭、馬車に繋ぎ、御者台に乗り込む。馬に鞭をくれ、フェッロは荷馬車を走らせて邸を出た。使用人の少ない邸なので、誰に見咎められることもない。フェッロはそのまま、二頭の馬に鞭を与え続け、全速力で荷馬車を走らせて王都を抜け、街道へ出た。目指すは、テッラ・ロッサ王国だ。

(くそっ、焦った……!)

 テッラ・ロッサ王国から下されていた指示は、初め一つだった。即ち、オリッゾンテ・ブル国王に対し、テッラ・ロッサ王国との交易を促せ、と。ところが先日、使者が来て、更にもう一つの指示を下されたのだ。即ち、交易が不可能である場合は、早急に王の宝を殺すか攫うかせよ、さもなくば母の命は保障しない、と――。

 ゆえに、焦った。王の宝は近頃、滅多に人前に姿を現さなくなっていた。露台にその姿を見た時は、逃してはならない機会だと思えた。交易は絶望的だった。その障害となっていたのも王の宝だ。フェッロにとって、ぎりぎり射程内だった。けれど、まだそこに、レーニョがいた。

(まさか、身を挺して守るなんて……)

 殺すつもりだった王の宝を連れて、今、自分は逃げている。

(攫うほうが難しいのに、何故わたしは……)

 あんな目立つことをしたのだ。すぐに追っ手が掛かる。今の内に、王の宝を殺しておくべきだ。それなのに、自分は王の宝を生かしたまま、無謀に逃げている。

(……殺したくない――)

 鉄砲の威力は、想像以上だった。レーニョは――あの礼儀正しい侍従は、もう死んでしまっただろう。

(母さん、母さん……)

 フェッロは、ただただ鞭を振るって、馬車を疾走させた。



「すぐに街道を封鎖せよ! 絶対に逃がしてはならん!」

 アッズーロの怒りに満ちた声が頭の上で響いている。レーニョはうっすらと目を開けた。

「レーニョ!」

 今度はフィオーレの声がした。手を握られている。柔らかい、フィオーレの手だ。はっきりと見え始めた目に青空が沁み、次いで、フィオーレの顔が視界に入ってきた。泣きそうな顔をしている。

「レーニョ、レーニョ、しっかりして」

「気がついたのか!」

 アッズーロの声が被さってきた。青空の眩しさを遮って、アッズーロの顔も視界に入ってくる。

「レーニョ、気をしっかり持て! 痛みはあろうが、目撃していたペルソーネに拠れば、ナーヴェがおまえに治療を施したようだ。出血は収まりつつある。すぐに侍医の許へ運ばせるゆえ、今暫く我慢致せ」

「ナーヴェ……様……は……?」

 レーニョは問うた。ナーヴェへの狙撃を阻もうとして撃たれた後のことは、よく覚えていない。あの後、事態はどうなったのか。

「……ナーヴェ様は……」

 涙声で答えかけたフィオーレの言葉を先取りするように、アッズーロが告げた。

「少しここを離れておるが、すぐに戻ってくる。ナーヴェは、おまえのお陰で助かった。今は、自分の治療に専念せよ」

 違和感のある言い方だった。しかし、追及するほどの体力はなく、レーニョは目を閉じた。



 再び気を失ったレーニョをフィオーレの腕に預け、アッズーロはしゃがんでいた身を起こした。未だ、ナーヴェを見つけたという報はない。フェッロは荷馬車に乗って街道を逃走中であるという。

「ええい、馬引け、馬!」

 アッズーロは叫んだ。最早待っていることに耐えられない。

「われが直接追う!」

「陛下、短気を起こされてはなりません!」

 控えていたペルソーネが、珍しく声を荒げた。

「黙れ!」

 振り向きざまにアッズーロは怒鳴る。

「そもそも、ナーヴェはそなたと話すために露台に出ておったのだ! それさえなければ――」

「陛下!」

 口を挟んできたのは、ペルソーネの傍らにいたヴァッレ。

「それは筋が違うというものです。罪を問われるべきはヴルカーノ伯。ペルソーネではありません」

 そんなことは、言われずとも分かっていた。罪を問われるべきはヴルカーノ伯。そして、責めを負うべきは、フェッロに王城の敷地内で鉄砲の制作をさせ、ナーヴェにペルソーネのことを任せた自分だ。

 アッズーロは唇を噛んで、引かれてきた愛馬に跨った。

「ヴェント、全力だ、行くぞ」

 愛馬の耳に囁いて、アッズーロは拍車をかけた。

 一気に王城の庭園を抜け、城門を出たヴェントは、アッズーロの手綱捌きに従って、王都の街路をひた走る。その背から、アッズーロは街道へと続く街路の先を、行き交う人々を、街路から延びる路地を、忙しく見渡した。

(ナーヴェ、どこにいる……!)

 腹の子のため、ナーヴェが接続してこられないことは分かっている。ペルソーネに拠れば、ナーヴェは露台から木に飛び移って地面に降り、レーニョに駆け寄って、巫女の如く手当てしたという。その直後、ナーヴェは腹を押さえて倒れたらしい。フェッロは、そうして動けないナーヴェを抱えて、走り去ったというのだ。

(くそっ、フェッロめ、捕らえた暁には、あらゆる拷問にかけた後、八つ裂きにしてくれる……!)

 アッズーロの気持ちを汲んだように、ヴェントは疾駆する。その名の通り、風のようだ。アッズーロとヴェントは一つになって、フェッロの目撃情報があった街路を走り抜け、王都の外――街道へ出た。アッズーロは更にヴェントを走らせたが、とうとう、フェッロも、その荷馬車も、ナーヴェも見つけることは叶わなかった。ヴルカーノ伯フェッロは、王の宝ともども行方知れずとなったのである――。



「無事、追っ手を撒いたようです」

 工作員の少女に教えられても、御者台に座ったまま、フェッロは頷くことすらできなかった。半日、全力で荷馬車を走らせ続けたので、心臓の激しい鼓動が収まらず、息苦しい――。

「あなたもつらそうですが、こちらは更に状態が悪いようですね」

 淡々とした工作員の言に、フェッロははっとして顔を上げた。振り向けば、宵闇に包まれた荷台で、王の宝はまだ腹を押さえて横たわっている。鉄砲の材料を運ぶための簡素な荷台だ、あれだけ無茶苦茶に馬達を走らせたので、さぞ揺れたことだろう。フェッロは無理矢理息を整えて問うた。

「テッラ・ロッサまで、もちそうか? そもそも、王の宝は、何故、苦しそうなんだ?」

「そんなことも分からず攫ってきたのですか? あなたにしてはよい判断だったと感心していたのですが」

 工作員の少女は冷ややかに評してから、告げた。

「この様子、どうやら、王の宝は身篭っているようです」

「……何……だと……」

 乾いた声で、フェッロは訊き返した。工作員の少女は、暗がりで振り向き、ゆっくりと、噛んで含めるように告げた。

「病でないとすれば、王の宝は妊娠しているようです。これで、人質は二人になる、ということです。しかも腹の子は、国王アッズーロの種である可能性が高い。お手柄ですよ、フェッロ殿。ここからは、流産させてしまわぬよう、気をつけながら参りましょう。われらが祖国までは、後一日の道のりです」



(ぼくは壊れた、ぼくは壊れた、ぼくは壊れた……)

 ナーヴェは依然、動揺のただ中にあったが、思考回路は演算をやめない。

(それなのに、まだ初期化されていない……。つまり、アッズーロが、それを拒否したということ。ぼくは、アッズーロのお陰で、まだ、ぼくでいる――)

 ナーヴェは、痛みの治まらない下腹を庇って体を丸める。

(アッズーロのためにも、この子を守らないと――)

 状況は厳しい。極小機械は、かなりの量をレーニョに渡したので、残り少ない。しかも自分は、オリッゾンテ・ブル王国から連れ出されようとしているらしい。

(人質にされれば、アッズーロの足を引っ張ることになる――)

 けれど、ここから事態を挽回していくしかない。

(フェッロを助けたこの少女は、パルーデのところにいた、ソニャーレ)

 アッズーロの間諜たるフルミネとルーチェが、不審な動きをしていると報告していた二人の内の一人だ。

(この子を守りながら、テッラ・ロッサ王国の内情を探り、あわよくば、ロッソ三世の懐柔を図る……)

 方針は定まった。

「水を……くれるかな?」

 乾いた唇を開いて、ナーヴェは新たな計画の第一歩を踏み出した。



 情報を集めるにつれ、何故フェッロの馬車を見失ったかが分かってきた。

 街道へ出たフェッロの荷馬車を、途中から、似たような荷馬車が追走し始めたという。それも一台や二台ではない。六台も七台も一緒に走り始めた後、二、三台ずつ脇道へ散っていったらしい。騎馬で追跡していた衛兵達も分かれたが、見通しの悪い脇道ばかりで、荷馬車も更に散り散りになっていき、ついに、フェッロの荷馬車には辿り着けなかったというのだ。衛兵達が捕らえた荷馬車の御者達は皆、金で雇われて、その脇道を行くよう命じられていた。

(レ・ゾーネ・ウーミデ侯城にいた、例の工作員が、フェッロを逃がしたという訳か……)

 王城へ戻ったアッズーロは、引き続きの捜索を命じた後、惰性で寝室へ向かった。とても眠れるような気分ではないが、ヴァッレやペルソーネが休め休めと煩かったのだ。

(報告待ちの身には、今のところ、できることもない……)

 自嘲したいような気持ちで、アッズーロは寝室へ入り、習慣的にナーヴェの寝台を見た。

(帰ってはいない、か……)

 ナーヴェの目撃情報は、王城の街路を走るフェッロに抱えられていたというところまでだ。フェッロが走らせていた荷馬車に、ナーヴェが乗っていたかどうかも定かではない。フェッロの荷馬車は、荷台の囲いが高く、中までは見えなかったというのだ。

(ナーヴェ、今、どこにいる……?)

 力なく歩いて寝室を横切り、アッズーロはナーヴェの寝台に腰掛けた。集めてきた情報を総合すれば、ナーヴェはテッラ・ロッサ王国へ連れ去られつつあると考えるのが妥当だ。それゆえ、国境方面へは、最も多くの兵達を捜索に出した。だが、最悪の場合も考えておかねばならない――。

(国境を越えられてしまえば、簡単には手出しできん……)

 俯き、掛布に触った手に、微かな感触があった。触り慣れた、細く柔らかい感触。開けっ放しの窓から差し込む月明かりに掲げて見れば、やはりそれは、長く青い一筋の髪だった。

(ナーヴェ……)

 アッズーロは、青い髪にそっと口付ける。

(どこにいようと、何としてでも助けに行くゆえ、腹の子ともども、必ず無事でいよ……!)

 そのままアッズーロは、ナーヴェの髪を掌に包み、顔の前で両手を組む。

(神よ、われらが祖ウッチェーロよ、どうか、あなたも愛したであろう宝を、お守り下さい……)

 母グランディナーレを失って以来、初めてアッズーロは神に祈った。

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