第4話 子どもが産める

     一


 アッズーロは駆けつけてきたレーニョに肩を借り、咳込み続けるナーヴェをトゥオーロが抱き上げて、ともに侯城の広間へ戻った。水浴びしていた他の職人達も、不安げな面持ちでぞろぞろとついて来る。

 ジャッロは、既に元気な様子でフルミネに抱き抱えられ、心配そうにアッズーロとナーヴェを迎えた。

「……きみが、無事……で、よかった……」

 ナーヴェが咳の合間に、安堵した様子で言うと、ジャッロは目に涙を浮かべて謝った。

「ごめんなさい、ナーヴェ様。おれが、お母さんの言うこと聞かなかったから……」

「うん。……次から……は、気を……つけ……」

 ナーヴェの咳はいよいよ激しくなり、言葉が続かなくなってしまった。

「ジャッロ、おまえは早く家へ帰って休め」

 アッズーロはレーニョから離れて言い、トゥオーロに向き直る。

「フルミネとともに、ジャッロを一晩しっかり看てやるがよい。ナーヴェをこちらへ」

 トゥオーロは、注意深くナーヴェをアッズーロの腕へ渡してから、深々と頭を下げた。

「陛下、ナーヴェ様、ジャッロを救って頂き、本当にありがとうございます。この御恩は一生忘れません!」

 フルミネも、ジャッロを抱いたまま頭を下げた。

「本当に、ありがとうございます。わたしが、目を離したばっかりに……! 本当に、申し訳ありません!」

「ならば今後は、更なる忠勤に励め」

 アッズーロは肩越しに言って、階段へ向かった。腕に抱えたナーヴェの咳が、一向に治まらない。アッズーロは階段を足早に上がり、廊下を大股で進んだ。ついて来たレーニョが小走りで先回りして、ナーヴェが与えられている部屋の扉を開ける。アッズーロは一直線に寝台へ行き、ナーヴェを寝かせた。

 アッズーロが掛けた掛布の下で、ナーヴェは体を横向きにして折り曲げ、咳込み続ける。咳込みながら、うっすらと目を開けて、言った。

「この……体……は、替えが……利く。でも、きみ……の体……は、違う……」

「分かっておる。だが、われは泳ぎにもそれなりの腕前を有しておる。それに、われの二週間分の食料を費やしたその体だ、そう簡単に諦められるか」

 アッズーロの反論に、ナーヴェは苦しげに咳をしながら、告げた。

「ごめん……、たくさん……の命を……費やして……きた体……なの……に。極小機械……で、対処……は、している……んだ……けれど、多分、肺水腫に……なる……から、助かる……可能性……は、五分五分……」

「何だと」

「泳ぎ……はできた……けれど、やっぱり……体力不足……だった。ごめん……」

 詫びて目を閉じ、咳を続ける王の宝を、アッズーロは愕然として見下ろした。

(死んでしまうのか?)

「陛下」

 ポンテの声が、すぐ間近でした。見れば、頼りになる女官が、いつの間にか傍らに立っている。

「ナーヴェ様にはすぐに着替えて頂きます。濡れたままでは、一層お体が弱ってしまいます。お話は、その後に」

 強い口調で言われて、アッズーロは一歩下がった。途端に、ピーシェを始めとした従僕の少女達が視界に入ってきた。少女達はポンテを手伝い、ナーヴェの衣を脱がせて体を拭き、長い髪の水を拭い、新しい男物の衣を着せて寝かせ、取り替えた掛布を掛ける。ピーシェはそのまま寝台の傍らに残り、他の従僕達は部屋の外へ去り、ポンテは寝台に腰掛けて、掛布の上からナーヴェの背をさすり始めた。

「あり……がとう……」

 弱々しく礼を述べたナーヴェに、ポンテは厳しく言った。

「お命を、簡単に諦めてはいけません。あなた様は王の宝。陛下の許可なくして死ぬことは許されぬと、思い定めて下さいませ」

 ナーヴェは細く目を開き、微かに驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。

「そう……だね……。努力……する」

「陛下も」

 ポンテの矛先は、急にアッズーロへ向く。

「いつまでも自失なさっておられずに、ナーヴェ様の手ぐらい握って差し上げて下さいませ。それが、何よりの励ましにございます」

 アッズーロは無言でナーヴェの枕元へ腰掛け、その片手を握った。華奢な手は、ひどく冷たく、ナーヴェが咳込むたびに揺れ、アッズーロの心を抉る。

(母上と、同じだ……)

 母グランディナーレは、肺炎で没した。もともと病弱な体質で、風邪を拗らせたのだ。

「……ごめん」

 またナーヴェが謝る。

「嫌なこと……思い出させ……るよね……」

 ナーヴェもグランディナーレのことを知っているのだ。

「よい。気にするな。今苦しいのは、そなたのほうであろう」

 アッズーロが応じると、ナーヴェは目を閉じ、咳込みながら、アッズーロが握った手に頭を寄せてきた。

(急に、幼子のように……)

 アッズーロは、ナーヴェの片手を握った手はそのままに、もう一方の手を上げ、青い髪を枕に流す形のいい頭を、そっと撫でた。

 外がいつの間にか暗くなり、一度部屋を出て、火を点した油皿を持ってきたピーシェが、窓を閉めた。

 ナーヴェは、息も絶え絶えに咳を続けていたが、不意に空いているほうの手を寝台に着いて、上体を起こした。

「どうした? 何か飲むか?」

 問うたアッズーロの肩に、ナーヴェはゆっくり凭れ、囁くように答えた。

「肺……に、水……が、溜まって……いる……から、このほう……が、楽……なんだ……」

「そうか。ならば、一晩中凭れていよ」

 アッズーロは空いているほうの手をナーヴェの肩に回して、細い体を支えた。

「あり……が……」

「もうよい。話すな」

 アッズーロが遮ると、律義な宝は大人しく黙った。

 長い夜だった。ポンテとピーシェは、ナーヴェが起き上がった暫く後に黙って部屋を辞し、パルーデも現れず、二人きりの時間が過ぎた。

 ナーヴェは強く弱く咳込み続けた。アッズーロは黙ってその体を支え続け、時折は背中をさすった。居た堪れない時間の連続。ついに耐え切れず、アッズーロは口を開いた。

「黙ったまま聞け。われがそなたのこの体を大切にするは、既に、この体に、多くの思い出を持っているからだ。この体は、われが初めて、この両腕で抱き上げた体だ。この体は、われが初めて、自ら考えた料理を食べさせた体だ。この体は、われが初めて、口付けた体だ。そう簡単に、諦められるか」

 ナーヴェは咳込みながら、青い双眸でアッズーロをまじまじと見つめ、破顔した。

「笑うな」

 アッズーロは憮然として命じた。

 夜半を過ぎると、ナーヴェの喉から喘鳴が漏れるようになった。咳の合間に、ひゅうひゅうと苦しげな音が鳴る。呼吸がままならない所為で意識も朦朧とするのか、傾いて倒れそうになる華奢な上半身を、アッズーロが両腕で支えなければいけなかった。それでも、握った手は離さず、ナーヴェが咳に耐えながら手に力を込めるたび、アッズーロは優しく握り返した。冷えていたナーヴェの体は、今や熱を出して汗ばんでいる。たまに開く目は段々と虚ろになっていき、アッズーロに、否応なく病床の母を思い起こさせた。

 明け方が近づくにつれ、ナーヴェの咳は小さく弱くなっていき、目も全く開かなくなって、眠るように、アッズーロに上体を預けるばかりになった。長く青い髪ごと、その体を抱えて支えながら、アッズーロは唇を噛んだ。手を握り、体を支える以外、できることのない己が悔しい。

「ナーヴェ……」

 頑張れ、とも言えず、アッズーロは時折ただ宝の名を呼んだ。

 がくりと、急にナーヴェの全身から力が抜けたのは、窓の外に朝日が感じ始められた頃だった。

「ナーヴェ!」

 低く叫んで、アッズーロは支えたナーヴェの顔を見つめた。目は閉じたままだが息はしている――。

【漸く峠を越えたよ】

 頭の中に唐突に声が聞こえ、寝台の傍らに、実体ではないナーヴェが現れた。白い長衣を纏い、微笑みを浮かべて佇む姿は、まるで幽霊のようだ。

「大丈夫なのか?」

 アッズーロの問いに、実体ではないナーヴェは頷いた。

【うん。極小機械を酷使していたから、肉体との接続をずっと切れなくて、心配かけてごめん。でも、肺水腫の治療は済んだから、後は体力の回復を待つだけだよ。まあ、無理は禁物だけれどね】

 成るほど、言われてみれば、ナーヴェの肉体の咳は嘘のように収まっている。熱も引いたようだ。

【とにかく、今は寝かせておいてくれるかな】

 指示されて、アッズーロはナーヴェの肉体をそっと寝台に横たわらせ、掛布を掛けてから、文句を言った。

「大丈夫なら、自分で体を動かせばよかろう」

【せっかく上手く眠らせられたから、もう起こしたくないんだよ】

 実体ではないナーヴェは、すまなそうに説明する。

【体力的には、本当に限界だからね。きみが励まし続けてくれなかったら、諦めていたかもしれない。病を得た肉体というものは、本当に苦しくてつらいね……】

 しんみりと呟かれて、アッズーロは不覚にも目頭が熱くなった。ナーヴェの肉体が助かったという安堵もある。だが、病床の母の苦しみを、ナーヴェが慰めてくれたような、不思議な感覚があったのだ。

「ならば、これからは、もう少し体を厭え」

 声が湿らないよう、気をつけて命じたアッズーロに、実体ではないナーヴェは優しく目を細めて告げた。

【そうだね。ぼくも、きみと同じで、この体に愛着が湧いてきたしね】

 寝台に歩み寄り、青い双眸で自分の肉体を見下ろす姿は、やはり幽霊のようだ。

【初めて人に抱き上げられて、初めて物を食べて、初めて馬車に乗って、初めて人と肩を並べて働いて、初めて口付けられた。とても思い出深い、思い出の詰まった体だよ】

 人ではない者は、臆面もない。

「――もうよい。さっさと肉体に接続して体力回復に専念せよ」

 頬が微かに火照るのを感じながら、アッズーロはぶっきらぼうに命じた。



 ナーヴェの肉体は、時折目を覚まして林檎果汁を飲む以外は、昏々と眠り続けた。

 代わりに草木紙生産の指揮を執ったのは、レーニョだった。

――「ナーヴェ様から、葦と楡から紙を作る方法については、できるだけ詳しく聞き取っておりますので」

 きっぱりと言い切った侍従は、広間に下りて、職人達の相談を受けながら、てきぱきと指示を出し、働き始めた。

【彼の理解力は、きみに匹敵するね】

 肉体を眠らせては話し掛けてくるナーヴェに、アッズーロは広間の階段の上で溜め息をついた。

「そうして話せるなら、あやつを助けてやったらどうだ?」

【それは無理だよ。ぼくが接続して話し掛けられるのは、王だけだから】

 実体ではないナーヴェは、寂しげな笑みを浮かべる。

【いろいろな人と話すなんて、肉体を持って初めてできたことなんだ。昨日、ポンテから叱られた時も、あんなこと初めてだったから、とても新鮮で、嬉しかったよ】

 そうして、ナーヴェは悪戯っぽい眼差しをアッズーロへ向けた。

【何なら、きみが彼を助けてあげたら? ぼくがずっと傍で説明するから】

「たわけ。王がそのような真似できるか。それに」

 アッズーロは信頼する侍従を見下ろす。

「あやつは、ああして取り戻したいのだ、あやつ自身の矜持をな。頑固で有能なそなたの所為で、あやつの存在意義は随分と揺らいでおったからな」

【うん。そうだね】

 ナーヴェは悪びれず頷き、微笑む。

【きみは、やっぱり優秀な王だよ。――それで、その優秀な王に、幾つか提言があるんだけれど】

「急に、何だ」

 アッズーロは幻影のナーヴェを振り向いた。

【まずは、水の中で人を助ける時に注意すること】

 ナーヴェは人差し指を立てて、少し真面目な顔で言う。

【あんな急流の中、手首を掴んで引っ張ったら駄目だ。昨日は、それで大分水を飲んで、肺にも入った。水の中で人を助ける時は、ぼくがジャッロを助けた時みたいに、相手を仰向けにして、顔が必ず水面から出るように支えるんだ。――まあ、これは、ぼくの肉体が死んだ場合、きみが後悔頻りになるから、今まで黙っていたんだけれど。幸い、ぼくの肉体は一命を取り留めたし、泳法に自信のあるきみが次また誰かを助けるかもしれないから、言っておくよ】

「――そなた、助けられておいて、よくも」

 怒るというより呆れたアッズーロに、ナーヴェも多少頬を弛めつつ、提言を続けた。

【王たる者、直せるところはどんどん直していかないとね。そして次に言いたいのは、そろそろ王城に帰らないといけないよね、ということ。ここにきみがいてくれるのは嬉しいけれど、でも、この国の脅威は、何もパルーデやテッラ・ロッサだけではないだろう? ぼくの肉体も明日にはある程度回復するし、レーニョも頑張ってくれている。ポンテもいるから、ここはもう大丈夫だよ。きみの間諜達もいるしね】

「――気づいていたのか」

【まあ、本気になれば情報収集は得意分野だから】

 底知れなさを匂わせるナーヴェに、アッズーロは複雑な思いで言った。

「戻らねばならんのは分かっておる。この昼には発つつもりだ。あやつらもおるが、そなた自身も、一日に一度は報告に参れ。接続なら、すぐに来れるのであろう?」

【うん。分かったよ。ただ、最近ぼくは不具合を起こすから、きみを不快にさせるかもしれないけれど、いいかな?】

「『不具合』?」

 不穏な言葉に、アッズーロは聞き返した。

【うん】

 ナーヴェは考える顔で告げる。

【多分、ぼくの本体と肉体の間で、僅かな齟齬が生じていて、それが不具合になるんだと今のところ分析している。酷くなったら、また言うよ】

「すぐに言うのだぞ」

【うん。約束する】

 笑顔のナーヴェに溜め息をつき、アッズーロは王城へ帰るため、与えられた部屋へ戻った。

 部屋には、従僕の少女が一人控えていた。

「昨日は申し訳ありませんでした、陛下」

 謝罪の言葉に、アッズーロは鼻を鳴らした。

「おまえの任務は間諜であって、われの護衛ではない。思い上がるな」

「はい」

 項垂れた少女に、アッズーロは口調を変えて言った。

「われは王城へ戻る。王の宝の動向も含めて、この侯城の情報、これからも逐一伝えよ。それこそが、われがおまえに与えた任務だ」

「はい……!」

 少女は深く頷くと、部屋を辞した。

「全く、どやつもこやつも……」

 アッズーロは文句を呟く。頼りになるのに、心配が尽きない――。

 そこで、床板が開いた。

「陛下」

 床下から頭を覗かせたフルミネが呼ぶ。

「用意が整いました。どうぞこちらへ」

「うむ」

 アッズーロは応じて、身軽に床下へ入った。


     二


【今日は、初めて紙を漉いたんだよ……!】

 青い双眸を輝かせて告げたナーヴェに、アッズーロは笑顔で応じた。

「あれからたった一週間で、やるではないか」

【レーニョが頑張ったんだよ】

 ナーヴェは優しく微笑む。

【紙漉きにおいて重要なのは、紙を漉く技術と練りなんだけれど、レーニョが毎日、壺に入れた楡の様子を見て、湿気を加減して、上手に発酵させて、いい練りを作ってくれたんだ】

「そうか。そういう細かいことは、あやつの得意とするところよな」

【そうだね。でも、紙を漉く技術のほうはレーニョに頼る訳にいかないから、ぼくが手本を見せたんだけれど、思考回路にある情報を肉体で再現するのは、なかなか骨が折れるね。上手く紙を漉けるようになるまで、かなり練習が必要だったよ。泳いだ時も思ったけれど、思う通りに肉体を動かすのは本当に難しいね】

 言葉とは裏腹に、ナーヴェの口調は明るい。

「そなた、楽しそうだな」

 アッズーロが言うと、ナーヴェはきょとんとした。

【「楽しそう」?】

「見るからに楽しそうではないか」

【へえ……】

 ナーヴェは不思議な表情をする。

【人が楽しそうなのは何度も見てきたし、「楽しい」というのは分かる。でも、ぼくは今「苦労している」ことを話していたつもりなんだけれど、「楽しそう」だったのかな?】

「――どこからどう見てもな」

 アッズーロは面食らって頷いた。

【そう】

 ナーヴェは、心持ち上げた自分の両手を見下ろすような仕草をする。

【人から「楽しそう」と言われたのは、初めてだよ。そうか、これが「楽しそう」に見える時の内実なんだ……】

「妙なことで驚くのだな」

 虚を突かれて、アッズーロは実体ではないナーヴェを見つめた。

【……ぼくは、人ではないからね】

 ナーヴェは青い双眸でアッズーロを見つめ返し、考え深げに言う。

【でも、肉体を持ってから、どんどん人のことが分かるようになって、人に近づいていると思う。「人ではないそなたが、人の生活をした時に何が見えるのか、興味がある」と、きみは言った。ぼくも、興味が湧いてきたよ。この先、何が見えるのか、に】

「それは重畳。これからも多くの物事を体験するがよい。但し、無理はするな。肉体を厭え」

【きみは意外に心配性だよね】

 ナーヴェは華奢な肩を竦めて見せる。

【実は、もう一つ報告があるんだけれど、それはそっちに戻ってから言うよ】

「何だ、気になるではないか。今申せ」

 軽く眉をひそめたアッズーロの命令に、ナーヴェは首を横に振った。

【ううん。今言っても仕方のないことだしね。後二週間ほどは特に問題ないから、大丈夫だよ。二週間後には、こっちの草木紙生産を軌道に乗せて、そっちに戻るから、その時に言うよ】

「そなたの『大丈夫』ほど当てにならぬものはない」

 アッズーロが文句を言うと、ナーヴェは小首を傾げた。

【何故? ぼくには今のところ「嘘をつく」という機能がないのに】

「そなたが限界までやり過ぎるからだ」

【そうかな? ぼくは大丈夫な時にしか「大丈夫」と言っていないんだけれど】

 呟いてから、ナーヴェはいつもの微笑みを浮かべる。

【まあ、気をつけるよ。肉体というものは、なかなか扱いが厄介で、計算通りにはいかないものだと分かってきたからね】

「そう致せ」

【うん。では、また明日】

 ナーヴェは、アッズーロの命令を煙に巻いたような形で、接続を切ってしまった。

「あやつめ……」

 アッズーロは、何も見えなくなった執務室の暗がりを睨み、溜め息をついた。



 翌日も、その翌日も、毎夜ナーヴェは約束通りアッズーロに接続してきたが、もう一つの報告については、決して言おうとしなかった。

「そなた、相当に頑固だな」

 呆れたアッズーロに、実体ではないナーヴェは青い髪を揺らして微笑んだ。

【そうかもしれないね。ぼくの判断には常に明確な根拠があるから、その根拠が揺らがない限りは、判断は変わらないんだよ】

「もうよい、分かった。それで、明日にはこちらに戻って、その報告を致すのだな?」

 アッズーロは確認した。明日がとうとうナーヴェの言った二週間後なのだ。

【うん。葦紙がもう百枚ほどもできたし、若い職人のみんなに草木紙生産の全工程を覚えて貰ったからね。パルーデも満足しているよ】

 ナーヴェの言葉の中に、久し振りにパルーデの名を聞いて、アッズーロは顔をしかめた。触れないようにしてきた話題だが、ずっと気にしてきたことだ。

「――パルーデは、やはり、毎夜そなたと過ごしたのか?」

【それが、そうでもないんだよね……】

 ナーヴェは苦笑するような顔になる。

【ぼくが促した所為もあるんだろうけれど、三夜に一度はピーシェと過ごしていたみたいだよ。ぼくのところにも来たけれど、その時も、前とは違って、ぼくの髪を三つ編みにして遊んだり、思い出話をしたりが増えたね。勿論、前みたいに、ぼくを「味見」することもあったけれど。それも、今夜が最後だと言っていたよ】

「約束は果たされた。もう二度と、そなたをあやつの慰み者にはせん」

 アッズーロはきっぱりと告げた。

【そう】

 ナーヴェは目を伏せる。

【それは、少し寂しいね】

 意外な反応に、アッズーロはひどく気持ちが逆撫でられるのを感じた。

「――あの女が、それほどよかったのか」

【前にも言ったけれど】

 ナーヴェは目を上げ、悪びれず言う。

【きみ達は、パルーデも含めて、みんな、ぼくの子どもみたいなものなんだ。だから、会えなくなるのは、少し寂しいというだけだよ】

「そなたのそういうところは、理解できん」

 つい零したアッズーロに、ナーヴェは悲しげに応じた。

【ぼくは、人ではないからね。それは仕方ないよ。――では、また明日】

 接続が切られて数瞬後、アッズーロは唇を噛み、拳を握って執務机を叩いた。夜半も過ぎており、ガットもフィオーレも誰も傍にいないことが幸いだった。



 翌日、星々が輝き始める頃、王城の前庭に停まった馬車から、ナーヴェは元気に降りてきた。一緒に降りてきたポンテも、御者を務めていたレーニョも、篝火の灯りの中、元気そうだ。

「ひと月に及ぶ任務、御苦労だった。報告を聞く。すぐにわれの部屋へ参れ」

 アッズーロは王城の玄関で声を掛け、先に立って城内へ入った。

「何だか素っ気ないね。もしかして、怒っているのかい?」

 ナーヴェの声が、追ってくる。

「夕食に間に合わなかったのは悪かったけれど、みんなに別れを告げるのに、少し時間が掛かってね。出発前に接続して言った通り、夕食は途中で済ませてきたから」

 久し振りに聞く生の声だ。アッズーロは顔をしかめて、足早に執務室へ向かった。

 執務机に着いたアッズーロの前に並んだ三人は、互いに顔を見合わせる。レーニョとポンテは小さく首を横に振って一歩下がり、結果、最初に口を開いたのはナーヴェだった。

「草木紙生産については、毎夜報告していたから、特に新しく報告することはないんだけれどね。つけ加えて報告するなら、パルーデは、きみに改めて忠誠を誓うと約束してくれたよ」

「閨の睦言なぞ信用できるか」

 つい、またも言い返してしまったアッズーロに、ナーヴェは肩を竦め、溜め息をついてレーニョとポンテを振り向いてから答えた。

「今日は本当に御機嫌斜めだね。レーニョとポンテには明日、改めて報告して貰うよ。二人とも疲れているしね」

「いえ、ナーヴェ様、わたくしは――」

 レーニョが反論しかけたが、ナーヴェは微笑んで首を横に振った。

「レーニョ、悪いけれど、ちょっと二人で話したいこともあるんだ。今日は、部屋に帰って休んでくれるかな?」

「――畏まりました」

 レーニョは渋々と頭を下げた。

「お心遣い、ありがたく頂戴致します」

 ポンテも頭を下げる。

「では陛下、また明日、お目に掛かります」

 笑顔で執務室を辞したポンテの後にレーニョも続き、残ったのはナーヴェとアッズーロ、そして最初からいた侍従のガットだけとなった。ナーヴェは、そのガットへ優しい眼差しを向けた。

「きみも、今日はもう帰っていいよ。後は、ぼくが引き受けるから」

「え? は、はい……?」

 ガットはしどろもどろになって、ナーヴェとアッズーロとを見比べる。アッズーロは無言で手を振った。下がれ、の合図だ。

「は、はい。畏まりました」

 ガットは頭を下げて、足早に部屋を出ていった。

「さて、人払いは済んだぞ」

 アッズーロは、執務机に頬杖を突き、目の前に立つナーヴェを見据える。

「われの代わりに命じるなぞ、暫く会わぬ内に偉くなったものだ。余ほど重大な報告なのだろうな?」

「うーん、どうだろう?」

 ナーヴェは小首を傾げる。

「あんまり期待されると、拍子抜けされそうで、逆に言いにくいんだけれど」

「勿体をつけるからそうなる。さっさと申せ」

 いい加減、堪忍袋の緒が切れかけたアッズーロに、ナーヴェは苦笑し、告げた。

「どうも月経があるみたいなんだ、この体。今回は初めてだから、初潮だね。それで、衣や敷布を汚してしまわないように、フィオーレに対処の仕方を――」

「は?」

 アッズーロは、頬杖から顎を落としそうになって踏ん張り、ナーヴェの顔を見上げた。端正な顔に、嘘をついている気配はない。

(そもそも、こやつは嘘をつけぬのだったか……)

 改めて事実を認識し、アッズーロは姿勢を正す。

「それは、つまり、子どもが産めるということか?」

「まだはっきりとは分からないけれど、不可能ではないかもしれないね。そんなつもり、全くなかったんだけれど。基本設定通り女として作ったから、そうなっただけで。これは、ぼくにとっても想定外の事態なんだよ。それで、まずきみに相談しようと思って」

「何故、接続でさっさと言わんのだ!」

 文句を言ったアッズーロに、ナーヴェは片手を腰に当て、諭すように答えた。

「目の前にいないのに言っても、余計な心配を掛けるだけだからね。いつあるかも、予測できるものだし、それまでは、特に何ともないものだから」

「それは、そうだが……」

 憮然としたアッズーロは、はっとして椅子から立ち上がった。自分では、月経に対処できない。

「フィオーレ!」

 隣の寝室に控えている女官を呼び、アッズーロは命じる。

「ナーヴェに、その……月のもののことを、いろいろと教えてやるがよい」

「仰せのままに」

 一礼したフィオーレの顔には、驚きと微笑みがあった。



 沐浴を終え、黒い長衣を纏い、歯磨きを終えたナーヴェは、寝台に腰掛けて所在なさげにしていた。アッズーロが行くのを待っていたふうである。既に寝室を辞したフィオーレに拠れば、黒い衣は血を目立たせないための月経対策で、下袴も月経用のものにしてあるという。

「どうした? さっさと寝るがよい」

 アッズーロが言うと、ナーヴェは僅かに肩を竦めた。

「きみが仕事をしている時に寝ていたら、また文句を言うかなと思って」

「文句は言うが、体調を崩されるのは困る。体調を崩さぬほうを選べ」

 アッズーロが顔をしかめて告げると、ナーヴェは苦笑し、大人しく寝台に横になって掛布を被った。それを見届けてから、アッズーロは執務室から持ってきた油皿の火を消して卓の上に置き、自分の寝台に行った。ナーヴェと同じ部屋で寝るのは久し振りだ。

「おやすみ」

 暗闇の向こうからナーヴェの小さな声がした。

「うむ」

 短く応じて、アッズーロは寝台に横になり、掛布を被った。暫くはナーヴェの寝息が何となく気になったが、すぐ手の届くところで安眠しているのだという実感が深まるにつれ、アッズーロも眠りへと落ちていった。

 アッズーロにとっても、久し振りの安眠だった。


     三


「ごめん」

 王城に戻った翌朝のナーヴェの第一声は、謝罪だった。青白い顔で寝台に横たわったまま、アッズーロを見上げ、弱々しく告げる。

「貧血と腹痛が酷いんだ。今日の謁見は、接続だけにしたいんだけれど、いいかな?」

「『体調を崩さぬほうを選べ』と言うたろう。しっかり肉体を休ませよ。食事は取れるか?」

「食欲はないんだけれど、貧血だから食べたほうがいいだろうね……。動物の肝臓とかがいいんだけれど、全然食べたいと思わないから、肉体は矛盾していて不思議だよ……」

「分かった。朝食は林檎と杏にしておこう。昼食は肝臓をまぶした麦粥だ」

 さっさと献立を決め、アッズーロは控えている三人の女官達を振り返り、一人に命じる。

「ミエーレ、厨房に指示して参れ」

「畏まりました」

 ミエーレは蜂蜜色の癖のある髪を揺らして一礼し、寝室を辞した。

 後は命じずとも、フィオーレとラディーチェがそれぞれナーヴェとアッズーロの身仕度を手伝う。ナーヴェは沐浴にも連れていかれ、少しさっぱりとした顔で戻ってきた。

 ミエーレは、二人分の林檎と杏、瓶に入れた羊乳と二つの木杯を持って戻ってきた。

「あれ? きみも同じものを食べるの?」

 億劫そうに卓に着いたナーヴェが、軽く目を瞠ってアッズーロを見た。

「別のものを用意させるのも手間であろう。厨房には、予てより同じものを用意せよと指示してある」

 アッズーロが教えると、ナーヴェは端正な顔を花のように綻ばせた。

「嬉しいよ。きみは、優しいね」

 やはり、人でない者は臆面がない。

「当たり前だ。王たる者、必要な配慮は常に欠かさん」

 アッズーロは尊大に応じ、自分も卓に着いた。



 朝食後、レーニョとポンテが来たので、アッズーロは執務室に移って報告を聞いた。

「草木紙生産は完全に軌道に乗りました。品質は、この通りです」

 レーニョは、手にしている紙束の一枚を、アッズーロに手渡す。

「羊皮紙ほど丈夫ではありませんが、字を書くのに難はありません。ナーヴェ様に拠れば、紙漉きの技量の向上で、更に丈夫な紙にしていけるそうで、職人達は奮起しておりました。何より画期的なのは、羊皮紙よりも相当簡単に紙が作れることです。材料を用意するのに少々手間は掛かりますが、羊皮紙生産に比べれば、一枚一枚に費やす時間はかなり短いものです。長期保存しなければいけない文書はやはり羊皮紙のほうがよいでしょうが、そうでないものは、この草木紙で充分でございましょう」

「成るほどな」

 アッズーロは葦紙の手触りを確かめた。繊維が見え、多少ざらざらとはするが、予想より滑らかだ。端を持ち、破ろうとすると、それなりの抵抗があってから、びりびりと破れた。確かに羊皮紙よりは脆いが、通常の使用には充分に耐えそうだ。

「うむ。なかなかの出来だ。パルーデには今後、税紙の三割を、この草木紙で納めるよう通達せよ」

「畏まりました」

 レーニョは一礼してから、手にした紙束に一瞬目を落とし、報告を続ける。

「続いて、レ・ゾーネ・ウーミデ侯周辺の情勢についてですが」

 どうやら、紙束の殆どは、レーニョが自分でまとめた報告用の文書らしい。羊皮紙より簡単に生産できるため、気軽に使えるという利点もありそうだ。

「陛下の間諜二人は滞りなく任務に邁進しております。ただ、二人ともが、あの侯城で働く従僕サーレとソニャーレを警戒するよう進言しております。時折、不審な動きをしている、と」

「サーレは、確か、パルーデの身辺で働いている従僕であったな。ソニャーレという者は、記憶にないが」

「ソニャーレは、あの侯城で、主に清掃を担当している従僕です。胡桃色の髪に青い瞳、白い肌の十代後半の少女です」

「また『青い瞳』か」

 アッズーロは眉をひそめ、考察する。

「パルーデがこちらに放つ間諜ならば、まだよいが、パルーデの嗜好を利用したテッラ・ロッサ側からの間諜ならば、逆に足元を掬われかねん。二人には、充分警戒するよう伝えよ」

「御意のままに」

 レーニョは再び頭を下げ、一歩下がった。レーニョからの報告は以上ということだ。代わって、ポンテが一歩進み出た。

「ナーヴェ様についてでございますが、陛下がお帰りになった後、パルーデ様は三日に一度ほどの頻度でお越しになられました。それも全てが夜伽という訳ではなく、ただお話しになって帰られることも多かったようにございます。お陰様で、ナーヴェ様もあれ以降、大きく体調を崩されることなく、健やかにお過ごしでございました」

「あやつの報告通りだな」

 アッズーロは明後日の方向を睨んで顔をしかめた。喜ばしい報告なのかもしれないが、それでも、確実に夜伽があったという内容は、不快でしかない。すると、ポンテが更に半歩前へ出て、声を潜めて言った。

「ナーヴェ様を充分に労わって差し上げて下さいませ。三日に一度であろうが、五日に一度であろうが、つらいお役目に変わりはありません」

「あやつはそう思うておらんようだぞ?」

 アッズーロも、やや声を低めて反論した。隣の寝室では、当のナーヴェが歯磨きなどしているはずだ。

「それは、あの方がまだ、陛下を御存知ないからにございましょう」

 ポンテは平然と言ってのけた。その斜め後ろで、レーニョが固まっている。アッズーロは溜め息をついて指摘した。

「あやつは王の宝だ。人ではない」

「けれど、女人でいらっしゃいます。しかも、神にお仕えする巫女ではないとのこと。あの方は、あくまで陛下にお仕えする従僕だと明言なさいました。であれば、後は陛下次第にございます」

「おまえは、われをけしかけておるのか?」

 アッズーロは呆れて問うた。

「はい。有り体に申せば、そうでございます」

 ポンテは、強い眼差しでアッズーロを見つめ、頷く。

「ナーヴェ様は、浮世離れしたお方。その所為か、御自身のことを蔑ろになさりがちです。どうか、陛下がしっかりと繋ぎ止めて下さいませ」


 

 週の初めなので、午前は謁見ではなく大臣会議である。議題は多岐に渡ったが、最も重要なものは、テッラ・ロッサ王国への対応だった。カンナ河からテッラ・ロッサへ水路を引く件については、未だ検討中である。

「重要であるのは、本当にそのような大工事が可能かどうか、という点でございます」

 治水担当大臣バンカ伯コッコドリーロが眉間に皺を寄せて述べる。

「わが国とテッラ・ロッサの国境にあるクリニエラ山脈に、どう水路を通すのか。その問題が解決されぬ限り、この案件は先へは進みませんぞ」

【どこへ水路を通すべきかは、ぼくが教えられるよ】

 実体ではないナーヴェが、王座の傍らで微笑む。

【工事は難しいけれど、人死にが出ないよう、助言もできる】

「その問題は、解決できると王の宝が言うておる」

 アッズーロは一段高い王座から、コッコドリーロを始めとする大臣達を見下ろして告げる。

「話を先へ進めよ」

「王の宝――ナーヴェ様が?」

 道路担当大臣ストラーダ伯カッメーロが顔をしかめる。

「しかし、それは信用できるのですかな? こう申し上げては御不快でしょうが、何ゆえ王の宝は、水路工事についてなど御存知なのですか?」

「王の宝に疑いを差し挟むな。それは王権への疑いと同義」

 冷ややかに反論したのは、外務担当大臣フォレスタ・ブル大公女ヴァッレ。

「実際、ナーヴェ様は、葦と楡から紙を作る方法をレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に伝授なさった。王の宝とは、そのような存在だと、われわれは認識すべきだ」

 場が一度静まった後、財務担当大臣オーロ伯モッルスコが口を開いた。

「まあ、ナーヴェ様がわれわれには想像もつかぬ知識の持ち主であることは確かでございましょう。陛下も、それゆえ、ナーヴェ様を重んじておられる。であれば、話を先へ進めましょう」

「次の問題は、そもそもテッラ・ロッサがそれで納得するかということです」

 ヴァッレが鋭く指摘する。

「わたくしも配下の者を使い、いろいろ探ってはおりますが、あちらは領土を増やすことに血道を上げている様子。ただ、沙漠側へは容易に領土を開拓できず、わが国側へ、となっているようです」

「何故そのような情勢になっておるのだ?」

 アッズーロは王座から問うた。ヴァッレは席から立ち上がり、王家の青い双眸でアッズーロを見上げて答えた。

「内政が上手くいっておらぬようでございます。国王ロッソ三世は、治世四年になりますが、旱魃が続き、テッラ・ロッサ国内は食糧が不足して、酷い地域は飢饉となっているようです。国民の不満は膨れ上がっており、王権も危ういとか。それで、国民の目を内政から外交へ向けさせたいのでしょう」

「ロッソ三世は、わが国が不当に国境線を引いたと、国民に吹き込んでおるようですな」

 モッルスコが付け加える。

「百年も前のことを持ち出して、いやはや、御苦労なことです」

「ではヴァッレ、工作員を送り込み、テッラ・ロッサ国民に、水路の計画を噂として伝えよ」

 アッズーロは命じる。

「世論を操作し、突破口を作る」

「仰せのままに」

 ヴァッレは結った金褐色の髪を揺らして一礼し、再び席に着いた。

 案件はこれで全て検討したはずだ、とアッズーロが閉会を指示しようとした時、沈黙を保っていた学芸担当大臣が急に発言した。

「陛下、検討すべき案件が、もう一つございます」

「何だ、ペルソーネ」

 アッズーロは不機嫌に応じた。二十歳の学芸担当大臣ペルソーネは、カテーナ・ディ・モンターニェ侯女であり、軽々には扱えない相手だ。しかし、どうにも反りが合わないので、アッズーロには珍しく苦手とする相手でもあった。

 白い顔に厳しい表情を浮かべたペルソーネは席を立ち、水色の双眸でアッズーロを見上げて答えた。

「王の宝ナーヴェ様の、今後の処遇についてでございます」

 アッズーロは鼻を鳴らした。

「ナーヴェは、王の宝。王権の象徴。それ以上でも、それ以下でもない」

「先王陛下の御世までは、それでようございました。なれど」

 ペルソーネは強硬に主張する。

「今、ナーヴェ様は、われわれの目の前におられる。陛下と寝食をともにされ、謁見に同席し、政務に助言し、あまつさえ、一領主の許へ赴いて、新しき知識を伝授なさる。そういう方を、ただ王の宝、王権の象徴とのみ定義し続けるのは、難しゅうございます。どうか、ナーヴェ様に、その処遇を明らかとする新たな肩書きを。このままでは、神殿の聖なる御業を使う巫女が、陛下に代わり、国を動かしているようにすら見えます。それは、逆に王権を揺らがせるのではないでしょうか」

「ペルソーネ、さすがに口が過ぎるぞ」

 ヴァッレが窘めた。だが、ペルソーネは怯まない。緩く編んだ銀灰色の髪を揺らし、ヴァッレを含む他の大臣達を振り向いた。

「確かに言葉が過ぎました。けれど皆様も、この件に関しては、多かれ少なかれ、わたくしと同じ懸念を懐いておられるはずです」

 大臣達は、或いは腕を組み、或いは溜め息をついて、一様に黙した。

(皆、同意見ということか)

 アッズーロは顔をしかめた。予想されたことではあったが、早々に解決すべき難しい案件が浮上したのだった。



「ごめん。ぼくのことで、随分と時間を取らせたね」

 昼食の席で、ナーヴェはすまなそうに詫びた。結局、あれから一時間ほどもナーヴェの処遇について議論することになってしまった。しかも結論はまだ保留中だ。

「そなたの所為ではない」

 アッズーロは憮然として応じ、匙で麦粥を口に運んだ。塩味の利いた羊の肝臓が、麦粥にいい味を付けている。

「そなたをただ王の宝とのみ呼称し、特に説明もせず傍に置き、政務に関わらせているわれの責任だ」

「――それで、きみは、ぼくをどうするつもりだい?」

「それが、われの中でも明確に決められんから、議論が長引くのだ」

 アッズーロは赤裸々に告げて、眼前のナーヴェを見つめた。肉体のナーヴェは、麦粥をゆっくりと口に運んでいる。食欲はないらしいが、それでも微笑みを浮かべ、味わって食べている姿が――。

 アッズーロは小さく息を吐き、麦粥の皿とナーヴェとを見比べながら言った。

「――モッルスコが、一つ、肩書きの案を提示しておったな。新たな肩書きを作るよりよい、と。一番明快で皆も困らん、と」

「ああ、あれ?」

 ナーヴェは可笑しそうに肩を竦める。

「『妃』なんてね。みんなまだ、ぼくのことを誤解しているよ。普通の生身の巫女だと思っているんだね」

「なれど、今そなたは肉体を持っておる。月経もある。あながち、的外れの提案でもないと思うがな」

 アッズーロが重ねて言うと、ナーヴェは目を瞬いて、匙を止めた。

「――まさか、きみ、それを本気で検討するつもりなのかい?」

「一考の価値はあると思うておる」

 アッズーロは、真っ直ぐにナーヴェを見据えた。ナーヴェは、珍しく笑みの消えた顔で、まじまじとアッズーロを見つめ返す。アッズーロは、もう一度小さく息を吐き、匙を振った。

「まあ、暫くは議論を続けることになろう。われも、必要な情報は全て把握した上で結論を出したい。暫くは障りがあろうが、来週半ばになれば、問題ないな?」

「……何の話だい?」

 真顔で問い返してきたナーヴェに、アッズーロも同じく真顔で答えた。

「そなたを抱く。形ばかりでなく、実際に臥所をともにし、われの子を孕めるかどうか確かめる」

 控えていた女官のフィオーレが両手を口に当てたが、当のナーヴェ自身は、目を見開いたきりで、暫く身動き一つしなかった。


     四


――「ぼくは、人ではないんだよ?」

 朝昼夕、ナーヴェは言い続けた。けれど、アッズーロは耳を貸さなかった。

 木曜日には月経が収まり、金曜日の朝には、ナーヴェはいつも通りの白い長衣を着せられていた。

 その翌週の木曜日の一日を、アッズーロとナーヴェは必要最小限の会話だけして過ごし、夜を迎えた。

 寝台に腰掛けたナーヴェは、歩み寄ったアッズーロを無言で見上げた。長く青い髪は結わずに背に垂らしたまま。衣も、男物の白い長衣と筒袴のまま。普段通りの格好である。フィオーレは、初夜に当たって、いろいろと気を揉んだようだが、ナーヴェが全て拒否したらしい。しかし、その姿で充分だった。

 アッズーロは片手を上げ、ナーヴェの白い頬に触れた。

「一つ、誤解があると不本意ゆえ、言うておく」

 前置きし、アッズーロは、ナーヴェの端正な顔を見つめる。

「われは、そなたを愛している」

 嘘だ、と胸中で呟く声がした。冷え切った仲の両親を見て育った自分が、愛など分かる訳がない。これは単なる独占欲だ。パルーデや他の輩に掠め取られる前に、この賢く美しく優しい宝を、失った母に似た温もりを、名実ともに我が物としたいだけなのだ。己の欺瞞を自覚しつつ、アッズーロは静かに言い切った。

「――ゆえに、そなたを妃にと望むのだ」

「それは、とても嬉しいけれど」

 ナーヴェは、硬い面持ちを崩さない。

「ぼくは、人ではないんだよ? そのぼくを、妃にして、あまつさえ母親にしようだなんて、きみは血迷っているよ」

「そうだな。われは血迷うておる」

 アッズーロは認め、ナーヴェの頬から顎へと、手を動かした。華奢な顎を支えながらアッズーロは身を屈め、口付ける。夕食に食べさせた杏の味がする。ナーヴェは抵抗しない。アッズーロは存分に味わった後、そっと口を離して、もう一度ナーヴェの顔を見つめた。やや息が乱れ、白い頬が上気してほんのり赤く染まり、青い双眸が潤んでいる。

「そなたの、涼しい顔で政治を語る知性に、笑顔で食べ物を味わう無邪気さに、赤子のように眠る幼さに、決断したことを貫き通す頑固さと健気さに、われは、血迷うておる」

 告げて、アッズーロはナーヴェの頭と肩を両手で抱き寄せた。ナーヴェは抵抗しない。

「だから、許せ。加減はできん」

 アッズーロは、片手でナーヴェの肩を抱えたまま、もう一方の手をナーヴェの両膝の裏へ入れて、華奢な体を抱え上げた。寝台にナーヴェを仰向けに寝かせ、自らも寝台に上がる。青い髪を広げた形のいい頭の左右に両手を突き、細い腰の両側に両膝を突いて、アッズーロは改めて、自らの宝を見下ろした。ナーヴェは、もう何も言わず、深い青色の双眸でアッズーロを見つめ返してくる。

「――そなたは、われの宝だ」

 囁いて、アッズーロは寝台に肘を突き、再びナーヴェに口付けた。

 夜が更けていく中、ナーヴェは最初、声を出さなかったが、段々と息が荒くなると、喘ぎが漏れ始め、アッズーロが最後の一線を越えんとした時には、ついに、泣き声で「駄目――」と訴えた。だがアッズーロは、「許せ。受け入れよ」と言い切り、始める前に断った通りに、全てを強行した。



 行為自体について、当然、思考回路に情報はあった。歴代の船長達や王達が伴侶と過ごした時の記録もある。ただ、知っているのと、体感するのとでは、全く異なっていた。

 肉体は、思考回路が支配する大脳の指令を、殆ど受け付けなかった。代わりに、小脳の指示に従い、激痛に慄きながらも、懸命にアッズーロを受け入れていった。やがて、予測を超える刺激の末に、完全に受け入れてしまうと、不思議な感覚に襲われた。まるでアッズーロと一つの個体になったような、そしてアッズーロとの繋がりを通して、その肉体を形作った大地と繋がったような、大地に根を下ろしたような、未知の感覚だった。

(ああ――)

 痛みからくるものとは別の涙が溢れる。

(これが、命を繋ぐ営み――)

 四十億年に渡る生命の連鎖の一端に、自分は今、接続されているのだ――。



 卓に置いた油皿の仄かな灯火が照らす中、ナーヴェの両目からは涙が溢れて零れたが、アッズーロはその涙を舐め取って、容赦なく何度も、すべきことを続けた。

 アッズーロがナーヴェに眠りを許したのは、明け方近くになってからだった。

 僅かな微睡みを経て、朝日の眩しさにアッズーロが目を開けると、傍らでナーヴェが上体を起こし、俯いて、己の下腹を両手で押さえていた。

「――宿ったか?」

 アッズーロが問うと、ナーヴェはゆっくりと首を横に振り、寂しげに微笑んだ。

「どうも無理そうだね。極小機械で調べたけれど、きみの分身達は、誰も辿り着きそうにない」

「われが、だらしないということか」

 愕然として上体を起こしたアッズーロに、ナーヴェはまた首を横に振った。

「違うよ。この作り物の体が悪いんだ」

「たった一度のことで、諦めるでない」

 アッズーロはきっぱりと言い、両腕を伸ばして宝を抱き寄せ、その耳に囁く。

「人と人であっても、一度で成功するなぞ、なかなかないことだ。今宵も、また努力しよう」

「え」

 ナーヴェは、アッズーロの腕の中で、身を固くした。

「嫌か?」

 アッズーロが確かめると、ナーヴェは、ふっと苦笑した。

「きみは大丈夫なの? 疲れていない?」

「われは寧ろ、これ以上ないほど充実しておる」

 アッズーロはナーヴェの両肩に手を置いて体を離し、笑顔を見せる。

「生きる気力に満ち満ちていると言うてよい。そなたは最高であった。今宵が楽しみだ」

「全く。どっちが幼いんだか」

 ナーヴェは青い髪を揺らして首を傾げ、優しい呆れ顔をした。



 敷布に鮮血の染みが付いたことにナーヴェはひどく恐縮したが、フィオーレは嬉しげで、アッズーロは満足だった。それが月経の血ではないことを知るのは、今のところ、三人のみだ。

「そなたこそ、疲れておるなら、今日一日肉体を休めていてよいぞ」

 アッズーロは気遣ったが、ナーヴェは首を横に振った。

「昨日、漸く大臣会議と謁見に姿を見せられたのに、また休んだりしたら、それこそみんなに不安を与えてしまう。あいつは一体何なんだ、とね。だから、ちゃんと出席するよ」

「途中で居眠りなぞするなよ」

「努力するよ……」

 ナーヴェは言葉通り、一日努力していたが、一見して疲れていることは明らかだった。

「後は雑談だ。先に部屋へ戻っていよ。レーニョ、ついて行ってやれ」

 最後の謁見の終わりにアッズーロが命じると、ナーヴェは素直に頷いて階段下の椅子から立ち上がり、レーニョに付き添われて、近衛兵が開けた扉から出ていった。

「随分と、疲れている様子だったわね」

 本日最後の謁見者は、青い髪が扉の向こうへ消えるのを見送り、砕けた口調で言った。

「われが少々無理をさせたからな」

 アッズーロが擁護すると、謁見者――ヴァッレは、冷ややかな目で王座を見上げてきた。

「一体何をさせた訳? 王の宝だからと、人権まで無視している訳ではないでしょうね?」

 アッズーロは王座から立ち上がり、階段を下りながら顎に手を当て、黙って考えた。ナーヴェは常に自分を「人ではない」と主張しているが、アッズーロ自身は、彼女を人として扱おうとしている。しかし、昨夜はもしかすると、人権を無視したかもしれない――。

「ちょっとアッズーロ、図星なの……?」

 従姉は、信じられないという顔になって、アッズーロを見つめた。二人きりの時は、アッズーロに対して全く遠慮がないので、ペルソーネとは別の意味で苦手な相手だ。

「――試みたいことがあって、少々無理をさせているのだ。あやつも今は了承済みだ」

「『今は』?」

 ヴァッレの追求は厳しい。アッズーロは視線を逸らし、従姉の前を通り過ぎながら言った。

「あやつの処遇については、また月曜日に話し合う。まずは工作員の件、頼んだぞ」

 それこそが、今日ヴァッレが謁見に訪れた理由だった。テッラ・ロッサ王国へヴァッレ配下の工作員を送り込む件について、詳細を詰めたのだ。

「それは勿論、責任を持って遂行するけれど」

 ヴァッレは引き下がらない。

「ナーヴェ様の処遇、本当にどうするつもりなの?」

「今、考えているところだ」

 アッズーロの答えに、ヴァッレは真顔で告げた。

「ペルソーネが神経質になっている理由は、あなたとナーヴェ様の距離が近過ぎるから。彼女は、あなたのお妃候補の一人よ。心穏やかではいられないでしょう」

「分かっておる。ゆえに、いろいろと考えておるのだ」 

「そう。よい思いつきが降ってくるよう祈っているわ」

 ヴァッレは溜め息混じりに言ってから、居住まいを正し、恭しく一礼する。

「工作員の件、畏まりました」

「うむ」

 アッズーロは肩越しに頷いて、王の間を後にした。



 寝室で、ナーヴェは寝台に横になり、静かな寝息を立てて眠っていた。

 アッズーロは執務室へ夕食を運ばせて一人で食べ、レーニョとともに報告書を読んだ。

「では、おやすみなさいませ」

 夜も更けてレーニョが執務室を辞した後、アッズーロは油皿を持って寝室へ戻った。フィオーレは先に声を掛けて下がらせておいたので、寝室は暗い。アッズーロが油皿を掲げてナーヴェの寝台を照らすと、澄んだ青い双眸と目が合った。

「起きていたのか」

「ごめん」

 ナーヴェは詫びて、ゆっくりと上体を起こす。

「随分ぐっすりと寝ていたみたいだ。きみに接続もせずに、ただ寝てしまうなんて、ぼくも随分と人に似てきたね……」

「気にするな。疲れておるなら、そのまま寝ておけ」

 アッズーロが卓の上に油皿を置きながら言うと、ナーヴェは小さく首を横に振った。

「ぼくの、今最も重要な仕事は、きみの試みに協力することだろう? ぼくはきみの従僕だ。役目を放棄したりはしないよ」

「『仕事』と来たか」

 アッズーロは鼻を鳴らした。確かにナーヴェにとっては「仕事」なのかもしれないが、夕方のヴァッレの言葉とも相まって心に刺さり、穏やかな反応ができなかった。

「ごめん。ぼくはまた不具合を起こしたね」

 ナーヴェが項垂れる。

「意図しないのに、きみの心を傷つけてしまう」

「そのような気遣いは無用だ。われは幼子ではない」

 アッズーロは顔をしかめ、足音荒くナーヴェに歩み寄ると、その細い手首を掴んで、寝台の上に押し倒した。青い髪が敷布の上に広がり、ナーヴェは驚いた表情でアッズーロを見上げた。その少し開いた口に口付け、アッズーロは宝を味わう。今夜は林檎の味だ。きっと寝る前に林檎果汁を飲んだのだろう。そのままアッズーロは、昨夜同様、容赦なくナーヴェを抱いた。

 ナーヴェは昨夜よりも柔らかくアッズーロに反応し、時には自ら手を伸ばしてきたりした。アッズーロもその手に頬を寄せたりしながら、明け方近くまでを過ごし、後は朝日が差してくるまで、二人で微睡んだ。

「――どうであった?」

 アッズーロが目を開いて問うと、隣に横たわるナーヴェは、寂しげな表情で微かに首を横に振った。

「そうか」

 呟いて、アッズーロは手を伸ばし、ナーヴェの顔に掛かる青い髪を掻き遣り、優しい目に浮いた涙を拭う。

「思えば、そなたの涙を見たのは、昨日が初めてであったな」

「そうだね」

 ナーヴェは穏やかに応じる。

「何だか昨日は、きみを通じて、この大地に漸く根を下ろしたような、不思議な感じがしたんだよ。ぼくは二千年も前に、この惑星に着地しているのにね」

「『二千年』――」

 想像を絶する時間に、アッズーロはまじまじと目の前の端正な顔を見た。

「うん。着地して、船長ウッチェーロの指揮の下、この惑星を、人が住み易いように改良していったんだ」

 ナーヴェは、懐かしげに語ったが、それはアッズーロにとって、神話だった。

「ウッチェーロは、われらの神ではないか……!」

「うん。きみ達が崇める神で、オリッゾンテ・ブル王家の始祖となった人だよ。とても指導力のある人だった……」

「そうか……」

 アッズーロは一度敷布に下ろしていた手を再び上げ、ナーヴェの頭を撫でた。ナーヴェは目を閉じ、ただされるがままに撫でられていたが、その内、静かな寝息を立て始めた。

(全く。やはり赤子のようだな……)

 溜め息をついて、アッズーロはそっと起き上がる。ナーヴェが抱える寂しさを、きっと自分は全ては理解できない。

(それでも、われは、浮世離れしたそなたを、できるだけ、この地上へ引き下ろしたい。地に足を着けさせたい)

 ゆっくりと寝台を離れたアッズーロは、現れたフィオーレに身振りでナーヴェを寝かせたままにするよう指示し、執務室で朝食を取った。

 その日一日、ナーヴェはアッズーロに従い、接続のみに徹して、肉体を寝室から出すことはなかった。



 状況が変わったのは、アッズーロとナーヴェが三夜目をともにし、目覚めた朝だった。

「アッズーロ……!」

 柔らかな朝日の中で上体を起こしたナーヴェが、下腹を両手で押さえ、上擦った声を出したので、すぐに分かった。

「上手くいったのか!」

 がばりと起き上がってアッズーロが確認すると、ナーヴェは、こくりと頷き、青い瞳の端から、ぽろりと涙を零して言った。

「ここに、いる……」

 アッズーロは、ナーヴェが両手で押さえる下腹を凝視した。そこに、わが子がいるのだ。自分に、新たな家族ができた。ナーヴェが、与えてくれた。止め処なく湧き上がってくる温かな感情に、目が潤む。

(これは……、これが……、愛か……)

 愛おしい。確たる理由などない。溢れる温かな感情に、逆に胸が締め付けられて、切ないと感じるほどに、新たな命とナーヴェが愛おしい。アッズーロはナーヴェの腰に両腕を回し、その下腹へ、そっと頭を寄せて囁いた。

「でかした……。嬉しいぞ」

「……ぼくも、嬉しい……」

 感極まったように呟いたナーヴェの手が動いて、アッズーロの頭を、新たな命が宿った下腹へ、優しく押し当ててくれた。

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