第3話 母の面影
一
ナーヴェが木工職人と竹細工職人を頼んだその日の午後には、職人達が城に集まったと、亜麻色の髪の従僕ルーチェが知らせに来た。
広間に集められているという職人達の許へ行こうとして、ナーヴェは困った顔でピーシェを見た。
「この格好だと、少し障りがあるんだけれど、何とかならないかな……?」
確かに、パルーデがつけた痣はかなり薄くなったとはいえ、まだ微かに残っており、胸元も、職人達へ指示を出す立場としては開き過ぎだ。
「畏まりました。少々お待ち下さいませ」
ピーシェは一礼して一度部屋を辞し、戻ってきた時には、手に、ナーヴェの男物の長衣と筒袴を持っていた。一見して、綺麗に洗濯して保管されていたことが分かる皺のなさだ。
「ありがとう」
ナーヴェは笑顔で礼を述べて、さっさと胸開きの長衣を脱ぎ始める。一部始終を眺めていたレーニョは、慌てて部屋を出た。
広間には、十数人の職人達が集められていた。殆どは男だが、中には若い女も混じっている。
(アッズーロには、もっと男女平等を進めて貰ったほうがいいかな……?)
そんなことを思いながら、ナーヴェは広間を見下ろす階段の上に立った。職人達はすぐに気づき、そしてざわめいた。当然だろう。長く青い髪は、それだけで異質だ。加えて、王の宝の容姿も、既に国中に伝わっているはず。
(ぼくの容姿は、確かに演出としては最高だね、アッズーロ)
微笑んで、ナーヴェは口を開いた。
「みんな、忙しい中、急に集まってくれてありがとう。ぼくは、王の宝ナーヴェ。このレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に、葦と楡を材料にした紙作りを伝えるために王都から来た。この新しい紙作りには、杉や檜を使った道具と、竹を使った道具が必要だ。だから、きみ達に集まって貰った。今日から、ぼくの指示通りに、道具を作っていってほしい」
声が通ったのを見届けてから、ナーヴェは言葉を続ける。
「まずは、材料を揃えたい。きみ達の伝手を使って、明日中に、杉材と檜材、そして竹ひごを、この広間に、できるだけ用意してほしい。ただ、その前に、木工職人の代表と、竹細工職人の代表を決めて、ぼくに教えてほしいんだ。今後、細かい指示は、その代表達を通して出す」
職人達はまた一頻りざわめいてから、それぞれの職人集団で集まり、話し合いを始めた。ほどなくして、二人の男が階段下に進み出てきた。
「木工職人のトゥオーノです」
「竹細工職人のネーロです」
トゥオーノは金髪に小麦色の肌をした肩幅の広い男、ネーロは黒髪に黒い肌の細身の男だった。
ナーヴェは階段を下りていって、二人とそれぞれ握手した。
「宜しく。ぼくのことは、ナーヴェと呼んで」
「畏まりました」
「それでは、竹ひごを集めて参ります」
各々一礼すると、トゥオーノとネーロは、それぞれの職人集団と言葉を交わしながら、城の外へ出ていった。
「如何でございますか?」
階段の上から、パルーデの声が響く。
「使えそうな職人を集めたつもりですが」
「ありがとう」
ナーヴェは階段の上に現れたパルーデを見上げて、微笑む。
「こんなに早く集めてくれるとは思わなかったよ」
「伝手があったのですよ」
パルーデは笑う。
「あのトゥオーノの娘はフルミネ、ネーロの娘はノッテ。どちらも、この城で行儀見習いを兼ねて働いておりました。ノッテは今、王都の館におりますが、フルミネは木工職人になっておるので、今後お目にかかることがあるやもしれませぬ」
「――成るほど」
ナーヴェは、思考回路にまた一つ、パルーデの情報を蓄積した。
深夜、ナーヴェの部屋を訪れたパルーデは、昨夜以上に、執拗だった。
(この分だと、明日の、朝食も、吐いて、しまう、か、な……)
肉体の肌に与えられる刺激に耐えながら、ナーヴェは暗い天井を見つめる。
(今日の、昼食と、晩餐は、量を、抑えた、から、吐かずに、済んだ、けれど……)
肉体は、いつになれば、この生活に慣れてくれるだろう。またも廊下に座り込んでいる、レーニョとポンテの体調も心配だ。
(ぼくは、大丈夫だと、安心させ、たい、のに……)
これでは明日も、心配させてしまう。
(肉体を、作る、時に、もっと、考えれば、よかった……)
培養槽を出る時から、ずっと助けられてきた肉体。
(アッズーロ……)
昨夜と同じだ。思考回路に、暗褐色の髪に青い瞳、白い肌の青年の記録が巡る。納得がいかない様子で口にしていた数々の文句。乾酪に蜂蜜を掛けて食べていた顔。深夜の執務机で報告書を読む姿――。特に必要もないのに、次々と記録を閲覧してしまう。
(これ、も、不具合……)
自分は、急速に壊れていっているのではないだろうか。
(アッズーロ……)
開けていても、大して意味のない両眼を、ナーヴェは喘ぎとともに閉じた。
王の宝がレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に来て三日目。職人達は、立派な杉材や檜材、竹ひごの束を馬車や荷車に積んで、続々と城に集まってきた。
「なかなか、酷い有り様ですわねえ」
広間の階段の上に立ったパルーデは、扇を口元に当て、嘆息した。美しい木目の床を誇る広間が、木材と竹ひごに覆われて、見る影もない。だがその中で、男物の長衣を纏った王の宝は、トゥオーノとネーロに説明を聞きながら、運び込まれる材料を生き生きと見て回っている。男物の長衣は、着替えとして幾枚か持ってきているようだ。製紙に関わる時に、それを着ることは、パルーデも黙認している。
(ピーシェの話では、王の宝の体調は優れないとのことであったが……)
弱味を見せる気はないらしい。
(気丈なことよ)
そういう姿にもそそられる。
(さて、今夜はどう愛でようかねえ)
扇の陰でにやりと笑いながら、パルーデは三階にある自身の執務室へ戻った。
執務室では、一人の少女が待っていた。
「おや、ノッテ、何かあったのかい?」
パルーデの問いに、やや癖のある黒髪を襟足で切り揃え、黒い肌と黒い双眸を持つ少女は、跪いて告げた。
「一週間後、王がお忍びで、この領へいらっしゃいます」
「まあまあ」
パルーデは扇を弄びながら声を立てる。目的は何だろうか。
「王の宝の身を案じて、だろうかねえ?」
「そこまでは、現時点では分かりかねます」
ノッテは淡々と答えた。
「まあ、いい。また何かあったら、知らせておくれ」
パルーデは扇を振った。
「御意のままに」
ノッテは一礼すると、執務室の床板の一箇所を開いて、中へ姿を消した。この城には、秘密の通路があちこちに巡らせてある。パルーデが毎夜ナーヴェの部屋へ行くのも、秘密の通路を通ってだ。
「なかなか、面白いことになってきたねえ」
パルーデは執務室の窓から、眩しい外を眺めた。
侯城から少し離れたところまでは、人目につかないところを走り、それから街道に戻って歩き始めたノッテは、前方から来る馬車に道を譲って端へ寄った。ところが馬車は通り過ぎず、手綱を引いて馬に足を止めさせた御者が、声を上げた。
「ノッテ? やっぱりノッテじゃない!」
御者台を見上げれば、麦藁帽子の陰からこちらを見下ろしているのは、かつて一緒に働いていたフルミネだった。
「フルミネ、何故こんなところに……」
「木工職人として、木材を運んでるのよ」
茶褐色の髪を編んで垂らしたフルミネは、快活に言う。
「王の宝が城にいらっしゃってね、何でも、葦や楡から紙を作る方法を教えて下さるとかで、その紙作りに必要な道具を、杉や檜から作るらしいのよ」
「それは凄い……」
既に知っている情報だったが、ノッテは初めて知ったかのように相槌を打った。そこへ、幼い声が響いた。
「お母さん、早く行こうよお」
五、六歳に見える金髪の少年が、フルミネの傍らから顔を出してせがんでいる。
「ジャッロ、危ないから座ってて」
フルミネは少年を片腕で座らせ、ノッテへすまなそうな笑顔を向けた。
「これ息子のジャッロ。凄く手が掛かるのよ。引き留めてごめんね。また近くに来たら、声掛けてね」
「分かった」
頷いたノッテを残して、馬車は侯城へと走っていった。
(まさか、子どもができていたとはな……)
フルミネと道を違えてからの歳月が思われる。
(みんなのために、草木紙生産が上手くいくといいな)
「どうか、幸せに……」
呟いて、ノッテは再び街道を王都へと歩き始めた。
「ピーシェ、ノッテが来ていた」
廊下でサーレに告げられて、ピーシェは眉をひそめた。ノッテは王都の館を拠点に、諜報活動をしているはずだ。
「何があったの?」
「王が一週間後、お忍びでこの領へ来る、と」
「目的は?」
「まだ不明」
「そう。とりあえず、報告ありがとう」
短い会話を終えて、ピーシェはサーレとすれ違った。そのまま、ピーシェは考えながら廊下を歩く。
(王がこの領へ来る、それもお忍びで……?)
目的は、草木紙生産の進捗確認だろうか。だがそれなら、秘密にせず、公然と来ていいはずだ。或いは、パルーデとテッラ・ロッサとの取り引きの証拠でも掴みに来たのだろうか。しかし、それは王自らすることだろうか。誰か間諜を放ってさせればいいのではないか。
(そもそも、王はこの領へ、既に何人もの間諜を放っているはず)
新王アッズーロは油断がならないと、パルーデも常々言っている。
(でも、それなら、一体何のために――)
行き着いた部屋の前で、ピーシェは一つの可能性に思い至った。扉を軽く叩いて開け、中へ入ると、王の宝が青褪めた顔で寝台に横たわり、女官のポンテが椅子に座って付き添っていた。
「広間で倒れられたと聞きました。御様子は?」
問いながらピーシェが寝台へ歩み寄ると、王の宝は閉じていた目をうっすらと開けて微笑んだ。
「大丈夫だよ。少し、眩暈がしただけだから」
無理もない。連日の睡眠不足と食欲不振、加えて本格的に始動した草木紙生産の多忙。体がもつはずがない。
(王は、この方を心配して、こっそりここへ来るのかもしれない)
王の宝の性格と、置かれている状況を知っていれば、案じるのは当然だろう。況してや、その状況に追い込んだのが自分であれば、尚更だ。
「とりあえず、寝ていて下さい。林檎果汁を取って参ります。喉を通るようでしたら、お飲み下さい」
淡々と応じて、ピーシェは王の宝の部屋を出た。厨房へと階段を下りる途中で、今度は向かいからルーチェが来た。ピーシェはすれ違いざま、小声で告げた。
「ノッテが知らせに来た。王がお忍びでこの領へ来る」
「何で……?」
ルーチェは大きな目を更に大きくして足を止めてしまった。ルーチェはこの城に入って一番日が浅いので、こういうところが困る。
「目的はまだ不明」
素っ気なく言って、ピーシェはさっさと階段を下りた。
(陛下が、お忍びでいらっしゃる……!)
レーニョは、従僕の少女達に気づかれぬよう廊下の角に隠れたまま、複雑な思いに揺れていた。
この城の従僕達の言動に注意を払い始めて二日目。すぐに貴重な情報を得ることができた。しかし、アッズーロが来る目的を考えると、心が沈む。
(陛下は、きっと、ナーヴェ様の身を案じて来られるのだ。だが、現状は最悪だ。わたしも、ポンテ殿も、ナーヴェ様を守れていない……)
アッズーロは、怒るだろうか。悲しむだろうか。想像もつかない。
(思えば、あの方が誰かにこれほど執着されるのは、お母上が身罷られて以来、初めてだな……)
レーニョは、少女達が充分に遠ざかり、他の足音や気配もないことを確かめてから、王の宝の部屋へ向かった。広間で忙しく指示を出していた王の宝は、とうとう倒れて、見守っていたレーニョ自身が部屋へ運んだのだ。痩せて、軽い体だった。その後は、できることがなかったので、ポンテに任せ、城内を見回っていたのである。
扉を叩いて中へ入ると、ポンテが振り向いて言った。
「ピーシェ殿が、今、林檎果汁を取りに行って下さいました」
「そうですか」
頷いて、レーニョは寝台へ歩み寄り、身を屈めた。王の宝は、青白い顔で目を閉じている。けれど、一階へ下りたピーシェが戻ってくるまでに伝えねばならない。
「ナーヴェ様」
呼び掛けると、王の宝は目を開き、澄んだ青い双眸でレーニョを見上げた。
「心配かけて、ごめん」
囁くような謝罪の言葉に、レーニョは首を横に振り、小声で告げた。
「一週間後、陛下が、お忍びでこちらへいらっしゃると、ここの従僕達が話しておりました」
「――そうなんだ……」
王の宝は、複雑な様子で微笑んだ。やはり、ナーヴェとしても、アッズーロに現状を知られるのは、気が進まないのだろう。
「……でも、多分――」
王の宝は、何か言い止して口を閉ざした。次いで、優しく目を細めて言った。
「――ありがとう」
直後、扉を叩く音がして、ピーシェが瓶と木杯を抱えて入ってきた。
二
結局、無理して食べた晩餐は吐いてしまった。胃の中にあるのは、少しずつ飲んでいる林檎果汁だけだ。寝台から暗い天井を見上げて、ナーヴェは溜め息をついた。レーニョとポンテは、今夜も廊下に座り込んでいる。最早、「大丈夫」と言うのも、無理になってきた。
(こんなところ、あんまりきみに見られたくないんだけれど……)
恐らく、アッズーロの性格上、「一週間後」ではないだろう――。
案の定、いつもより早く、床板が開いた。灯りが広がり、油皿を持った人影が出てくる。
「当たりだな。あやつの情報は、なかなか正しいと見える」
低い声で愉快そうに言いながら、アッズーロは机に油皿を置いて、寝台に歩み寄ってきた。
「やあ、三日振り」
何とか上体を起こしたナーヴェを、しげしげと見つめ、アッズーロは寝台に腰掛けた。
「驚かんのだな。つまらん」
「お忍びで来た目的は、それ……?」
苦笑したナーヴェに、アッズーロは鼻を鳴らした。
「たわけ。そのような目的でこのようなところまで来るか」
「なら、やっぱり目的は、双方の間諜の力量を測るため、だね……?」
「よく分かっておるではないか」
満足げにアッズーロは笑う。
「この領へ、われが忍びで一週間後に来るという情報は、正確に伝わっておった。パルーデの情報網はまずまずだ」
「きみは、その一つ上を行った訳だね……」
一週間後ではなく、今、アッズーロはここにいる。
「情報を垂れ流す時、そこに真実と虚偽を混ぜるは常道だ」
「そうだね。ぼくにはできないことだけれど……」
ナーヴェは寂しく言った。
「どういうことだ?」
訝しむアッズーロに、ナーヴェは目を伏せて告げた。
「ぼくには、今のところ『嘘をつく』という機能がないからね……」
「『今のところ』?」
「ぼくには学習機能があるから、もしかしたら、その内できるようになるかもしれない……」
息が切れて、声が細くなってしまう。眩暈がする――。
「おい」
素早く立ち上がったアッズーロが、ふらつく上体を支えてくれた。
「ごめん。あんまり、丈夫でなくて……」
「よい。休め」
アッズーロは、そっとナーヴェの上体を寝かせると、掛布を掛け直してくれた。ナーヴェは、閉じそうになる目を懸命に開いて、アッズーロを見上げた。
「そろそろ、パルーデが来るから……」
二人の鉢合わせは、さすがにまずいだろう。しかし、アッズーロはまた寝台に腰掛けてしまった。
「丁度よい。文句の一つも言うてやらんとな」
「駄目だよ。ぼくが、そう約束したんだから……」
ナーヴェは細い声で諫めたが、アッズーロは頑なだった。
「そなたを壊してよいとは、言うておらん。王の宝を害することは、何人にも許さん」
「ぼくはまだ、壊れては――」
「壊れかけておるではないか!」
アッズーロは、急に声を荒げると、枕の両脇に左右の手をついて、ナーヴェの顔を見下ろした。その端正な顔が、怒りに満ちている。
「目の下に隈を作って、頬をこけさせて、体も――」
アッズーロの右手が、乱暴に掛布を剥ぎ、ナーヴェが纏った胸開きの長衣の上から、浮いた肋骨をなぞった。それが、駄目だった。
「っ……」
二夜連続でパルーデに嬲られた体が、反応してしまった。一瞬閉じてしまった目をナーヴェが開くと、見下ろしてくる青空色の双眸が、冷たい怒りを湛えていた。
「――随分と調教されたようだな、あの女に」
「アッズーロ、こんなことは、大したことではないよ。だから――」
「ならば、これも大したことではなかろう!」
アッズーロは不意に、身を屈めて、ナーヴェの首筋に唇をつけた。
「っ……、アッズーロ、何を……」
ナーヴェの問いを無視して、アッズーロは首筋から鎖骨、鎖骨から開いた胸元へと、唇を動かしていく。パルーデと同じように、ナーヴェの肉体を味わっていく。与えられる刺激と熱に、思考回路の命令を無視して、肉体が反応してしまう――。
軋む音がして、また床板が開いた。灯火が増え、人影が出てくる。ナーヴェは目の端でその姿を確認した。パルーデだ。
「これはこれは……、不審な物音がするので、誰かと思えば、陛下ではありませぬか」
面白そうに言い、パルーデは油皿を掲げて、アッズーロとナーヴェを眺める。
アッズーロはゆっくりと身を起こし、寝台の上に座って、パルーデを見返した。
「これは、どういうことだ?」
冷ややかに問うたアッズーロに、パルーデは笑みを深くした。
「『これは』とは、どのことにございますか?」
「王の宝が、壊れかけておる」
「それは、申し訳ありませぬ。何分、初めて扱う者ゆえ、加減が分かりませず」
「では学べ。今夜は無理だ。王の宝は二つとない者。壊させる訳にはいかん」
「約束を反故にする、という訳では、ございませぬな?」
「約束は、守る。そうでなければ、王なぞ名乗れん」
「――畏まりました」
パルーデは嫣然と一礼して、床下の通路へ戻る。その背へ、アッズーロは告げた。
「われも、時には感情で動く。加減を知らぬは、いつか命取りになるやもしれんぞ……?」
「――承りましてございます」
パルーデは笑みを含ませた声で答え、床板の下へ姿を消した。
灯火が減り、薄暗さを増した部屋で、アッズーロはナーヴェを見下ろした。
「すまん。もう何もせん。だから、しっかりと休め」
「うん。でも……」
ナーヴェは、視線で部屋の扉を示す。
「レーニョとポンテが、そこにいて、随分と心配させてしまっているから……」
「よい。われが言う」
アッズーロは寝台から下り、扉へ歩み寄る。鍵が掛かっていることすら、情報として掴んでいるらしい。アッズーロは、扉を開けようとはせず、内側から言った。
「レーニョ、ポンテ、御苦労だった。われは二、三日滞在する予定ゆえ、安心して部屋へ戻って休め。ナーヴェのことは、われに任せよ」
「御意のままに」
レーニョの声は少しばかり湿っていた。
「畏まりました」
ポンテの声は穏やかだった。
寝台へ戻ってきたアッズーロを見上げ、ナーヴェは微笑んで問うた。
「もう一つ、頼んでいいかな……?」
「許す。申せ」
「隣で寝てくれると、嬉しい。寝台は、これ一つしかないけれど、ぼくはもう動けないし、きみだけ、寝ずに起きていられると、落ち着かないから……」
請うたナーヴェに、アッズーロは文句を口にした。
「王城では、われが政務に精励しておる間も、ぐうぐう寝ておった癖に」
「ごめん」
ナーヴェは素直に謝り、ついでに教える。
「ここの鼠さん達は、みんなお行儀がいいから、ぐっすり眠れるよ」
「そなた、『ふざける』ことができんと言うておった癖に、今、確実にふざけておるであろう?」
アッズーロの指摘にナーヴェは小首を傾げた。
「そう……なのかな……?」
「今、どういう気持ちか分析してみよ」
命じられて、ナーヴェは瞬時に思考回路で解析し、結果を伝えた。
「きみの反応を楽しむ気持ち、だね」
「それを『ふざける』と言うのだ、このたわけ」
「そうなんだ……」
自らの学習成果に納得したナーヴェに、アッズーロはまた鼻を鳴らすと、爪先の開いた靴を脱ぎ、掛布をめくって隣へ身を横たえてきた。
「狭いな」
「ごめん」
「それ以上、痩せるなよ」
「努力するよ……」
ナーヴェは、アッズーロの肩に頭を寄せて、目を閉じる。アッズーロの匂いを感じるのも、三日振りだ。
(こういう感覚は、「懐かしい」と言うのかな……)
思考回路の片隅で分析しながら、ナーヴェは肉体を眠らせた。
(こやつ、食の好みだけでなく、ふざけ方まで、母上に似ているな……)
アッズーロは、さっさと眠りに落ちた宝に、溜め息をついた。母グランディナーレは、彼女が飼っていた鼠に餌をやろうとして指を噛まれた息子を、憐れむどころか、いつまでもからかい続けたものだ。すぐに薬を用意して、気遣い続けた父チェーロとは、正反対の性格だった。
(さて、明日から、どうするか……)
アッズーロは、自らが持ち込んだ油皿の灯火が微かに照らす天井を見つめ、考える。この様子では、パルーデが連夜、王の宝を慰み者にしているという情報も正しかったようだ。
(「嫌なことがあれば、すぐに言え」と言うておいたのに……)
最初の夜に報告に来ただけで、昨夜、ナーヴェはアッズーロに接続しなかった。ゆえに、アッズーロは業を煮やし、行動に出たのだ。
また床板が動いた。出てきたのは、パルーデよりかなり華奢な人影。油皿も持っていない。
「陛下、パルーデは自室に戻り、従僕の一人サーレと同衾しております。他には特に何かする様子はありません」
少女の声が告げた。
「そうか。では、おまえも休め」
「御意のままに」
少女は答えて、すぐに床下へ姿を消した。
(全く、パルーデめ。従僕は全て情人か。「行儀」のよい「鼠」達だろうが何だろうが、虫唾が走るわ)
アッズーロは、険しく眉をひそめ、自らの肩に頭を寄せて眠るナーヴェを見遣った。
静かな寝息を立てて、安堵した表情で王の宝は眠っている。その顔が、三日前に比べ、目に見えてやつれている。
(馬鹿者め)
触れた体も、骨が浮いていて痛々しかった。
(そもそも痩せておったのに。われがせっせと食わせて、せっかく少し太らせたものを、パルーデめ)
ナーヴェをパルーデに触らせることには嫌悪感しかないが、約束であれば拒否できない。
(とにかく、可及的速やかに、草木紙生産を軌道に乗せるしかない)
そうすれば、ナーヴェを王城に戻らせることができる。
(レーニョに命じて、あらゆる手を講じさせ、作業を急がせる)
アッズーロは決意すると、目を閉じた。慌ただしい一日だった。途中からは、木材を運ぶ荷馬車の荷台に潜んできたので、体もあちこち痛い。
(しかし、このようなもの、そなたの苦痛に比べれば、な……)
少し身動きすると、頬に、ナーヴェの髪が触れた。髪は、相変わらず滑らかで、柔らかい。
(そなたは、王の宝、われの宝だ――)
アッズーロは、胸中でそっと呟いた。
「こんな遅くにどうしたの……?」
暗闇の中から問われて、ルーチェはびくりと体を強張らせた。
「ソ、ソニャーレ、まだ起きてたの……?」
相部屋のソニャーレは、主に城の清掃を担当している従僕だ。胡桃色の髪に白い肌、空色の瞳をしているので、ピーシェやサーレ同様、パルーデの部屋へ呼ばれることもある少女だ。ルーチェはまだパルーデの部屋へ呼ばれたことはないが、この任務が長引けば、いずれはそういうこともあるだろう。とりあえず、ルーチェは無難な答えを選んだ。
「ちょ、ちょっと冷えたから、お手洗いへ」
客間や主人の部屋に手洗いはあるが、さすがに使用人部屋にはない。夜中だろうが、厨房の向こうにある便所まで行かねばならない。
「だったら、油皿持っていけばいいのに」
ソニャーレに指摘されて、ルーチェは自分の寝台に上がりながら、言い訳した。
「灯りを点けたら、ソニャーレを起こしちゃうと思ったから。月明かりがない訳じゃないし……」
「結局、物音で目が覚めたわ」
ソニャーレは冷ややかに言うと、静かになった。どうやら、追及は終わりらしい。
「ご、ごめんね。おやすみ」
ルーチェは、掛布を被って、目を閉じた。暫く通路や廊下にいたので、本当に体が冷えてしまっていた。
三
「われが滞在する間、王の宝には、この部屋で食事を取らせる。食事場所まで、約束はしておらんだろう」
朝起きてから、アッズーロはナーヴェの生活について、次々とピーシェに要求した。前触れなく部屋に現れていた王に驚かなかったピーシェは、矢継ぎ早の要求にも眉をひそめるのみで、対応していった。パルーデに、ある程度言い含められているのだろう。着替えも、アッズーロの目の前で、その要求に従い、ナーヴェは女物の長衣を脱がされ、下着を替えられ、男物の筒袴と長衣を着せられた。
アッズーロの要求で部屋に運ばれてきた朝食は、林檎を蜂蜜入り羊乳で柔らかく煮て、乾酪の欠片をまぶしたものだった。飲み物は、こちらも蜂蜜入りの生姜湯だ。
「きみも、同じものを食べるの?」
用意された卓に着いたナーヴェは、向かいに座ったアッズーロに問うた。二人の前には、同じものが並べてある。
「うむ。たまには、ただ胃に優しいだけの食事もよかろう」
頷いて、アッズーロは匙を取り、羊乳で煮た林檎を食べ始めた。
「一緒に、同じものを食べられるのは嬉しいよ。ありがとう」
ナーヴェは礼を述べ、自分も匙を取った。温かく、胃に優しい食べ物は、肉体に沁み渡るようで、元気が満ちてくるようだった。
「残さず食せ。そして太れ」
アッズーロは、自分も綺麗に林檎を平らげながら言った。
(この朝食では、太るところまではいかないけれど)
思考回路で分析しながら、ナーヴェは微笑んだ。
「努力するよ」
朝食を無事に全て食べ終えた後、ナーヴェはピーシェに、大きめの羊皮紙数枚、及び細めの葦筆と墨汁とを頼んだ。
「一体何を始める気だ?」
アッズーロの問いに、ナーヴェは椅子に座り、机に向かいながら告げた。
「設計図を描くんだよ。道具をどう作ればいいか、ぼくの思考回路に情報はあるけれど、それを職人達に口で伝えるのは難しいからね」
「成るほど」
アッズーロが頷いたところへ、ピーシェが羊皮紙数枚と葦筆一本、墨汁の入った小さな墨壺を持って戻ってきた。
ナーヴェは早速、机の上に羊皮紙を一枚広げ、墨壺に葦筆を浸けて、まずは漉き舟の設計図に取り掛かった。肉体の手を使って描くのは初めてだが、人としての生活などよりは、余ほど得意分野である。五分ほどで描き上げた。
「これは一体何をするものだ?」
傍らに立って、設計図の完成を見守ったアッズーロが、興味津々に尋ねてきた。
「これは、漉き舟といって、葦の茎を煮て作った紙の材料と楡の皮から取る練りと水を入れるものだよ。それで、次に描くのが馬鍬。漉き舟に入れた紙の材料と水を掻き混ぜる道具だ」
口を動かしながら、左手も動かして、ナーヴェは二枚目の羊皮紙に馬鍬の設計図を描いた。
「上手いものだな」
アッズーロが珍しく素直に感心している。好奇心がくすぐられている所為か、純真な子どものようだ。ナーヴェは笑顔で三枚目の羊皮紙を取った。
「次は、桁。これに竹ひごで作った簀を嵌めて使うんだよ」
「どう使うのだ?」
身を乗り出すアッズーロに、ナーヴェは図を描きながら説明した。
「水の中から、紙の材料、つまり、葦の茎の繊維を掬い上げるんだ。葦の茎の繊維は、楡の皮から取れる練りで均等に水に浮いて、薄く掬い易くなるんだよ」
「成るほどな。薄く掬い上げれば、薄い紙になるということか」
アッズーロは、顎に手を当てて頷いた。
「うん。きみはやっぱり、理解が早いね」
再確認した事実をナーヴェが述べると、アッズーロは軽く憤慨して言った。
「当たり前だ。われは王ぞ。一、二を聞いて十を理解できねば、政務に時間が掛かり過ぎるわ」
「そうだね。きみは、とても優秀な王だよ」
ナーヴェはアッズーロを見上げ、微笑んだ。それは、思考回路に蓄積してきたアッズーロに関する情報に拠る、現時点における端的な結論だった。
「その優秀な王から提言だ」
アッズーロは腕を組んで得意げに言う。
「部品一つ一つの設計図も必要であろうが、それらを組み合わせた完成図も必要ではないか? そのほうが、作り手としては、どう使う道具かより分かり易く、調整や工夫がし易かろう」
「確かに、そうだね……! きみは、やっぱり凄いよ」
ナーヴェは、惜しみない称賛を送った。
アッズーロに、「お忍び」を貫くつもりはないようだった。それは、ナーヴェが与えらえた部屋へ突如現れたところまでで完了したらしい。
設計図の束を持って広間へ下りるナーヴェについて来たアッズーロは、職人達に、王であることを隠しもせず、作業に精励するよう薫陶を授けた。職人達も、最初は驚いていたが、王の宝がいるところへ王が来るのは当然と理解したらしい。ナーヴェについて回る好奇心旺盛な若い王に、段々と馴染んでいった。中でも、最もアッズーロに馴染んだのは、木工職人代表トゥオーノの孫、五歳のジャッロだ。ナーヴェとアッズーロについて回り、設計図の説明に口を挟み、知っていることについては、得意げに身振りを交えて話す。
「あらあら、子守りをして頂いて申し訳ありません」
笑い含みに声を掛けてきたのは、茶褐色の髪を後ろで束ねた女の職人。
「その子の母で、木工職人のフルミネと申します」
名乗られて、ナーヴェはすぐに、蓄積してきた人物相関情報を補強した。
(トゥオーロの娘で、以前この侯城で働いていて、今は木工職人をしている、ジャッロの母のフルミネか……)
少し気になる人物だ。
「フルミネは、この城で働いていたことがあるんだよね?」
ナーヴェは探りを入れた。
「あら、御存知なんですか?」
屈託なく、フルミネは応じた。
「うん」
ナーヴェも屈託なく頷いて話す。
「パルーデから昨日聞いたんだ。ネーロの娘のノッテのことも」
「そうなんですね! パルーデ様には、本当にいつもよくして頂いてます」
フルミネは明るく納得し、軽く頭を下げる。
「では、わたし、あちらで木を切ってますので、ジャッロが眠たそうになったら言って下さい」
「まだ子守りをさせ続ける気か」
アッズーロがぼそりと言ったが、フルミネは笑顔で立ち去っていった。
(成るほど、そういうことか)
ナーヴェは事情を理解して思考回路に蓄積し、職人達への設計図の説明を再開した。
職人達の作業は順調に進み、夕方には、漉き舟も馬鍬も桁も一つずつでき、簀は五つもできていた。
「明日は、釜を用意して、実際に葦の茎を灰を加えた水で煮てみよう。打ち棒も作って貰って、繊維を叩いて、繊維の一本一本が分かれるようにしないとね。それから、楡の皮を壺に入れて自然発酵させて、練りも作っていこう」
寝台に腰掛けて語るナーヴェの青い瞳は、きらきらと輝いている。美味しいものを食べている時と同じだ。ナーヴェが元気になったことは喜ばしいが、夜の帳が下りた、この後のことを考えると、アッズーロの気持ちは否応なく沈んだ。
「――という訳でアッズーロ、もう寝ないと」
先に切り出したのはナーヴェだった。優しい眼差しでアッズーロを見つめ、宝は促す。
「きみも部屋を用意して貰ったんだから、今日からは一人で寝台を使って広々と寝られるよ」
アッズーロは、座っていた椅子から無言で立ち上がり、ナーヴェに歩み寄った。見上げてきた笑顔の、線の細い顎に手を添え、低い声で命じた。
「少し、口を開け」
「こう?」
ナーヴェは素直に、小さく口を開けた。アッズーロは身を屈め、宝の口に、口付ける。ナーヴェは驚いたように両目を瞠ったが、抵抗はしなかった。そのまま暫く口付けを続けてから、アッズーロはナーヴェを離した。
「今日のそなたは、林檎と蜂蜜と生姜の味だな」
目を逸らしながら言って、アッズーロはナーヴェの部屋を出た。レーニョとポンテが、後ろからついて来る。ポンテが扉を閉める直前、ナーヴェの歯を磨き始めるピーシェが見えた。
「おまえ達も部屋に入って休め」
アッズーロはレーニョとポンテに命じ、自分も割り当てられた部屋に入った。レーニョの部屋の隣で、ナーヴェの部屋の向かいにある一室だ。部屋の中の構造は、ナーヴェの部屋とほぼ同じである。その部屋の、同じ位置にある寝台に腰掛け、アッズーロは溜め息をついた。結局、自分はナーヴェに頼ってばかりいる。王の宝たるナーヴェの存在に権威を守られ、その知恵に助けられ、気遣われてすらいる。
(誰が「優秀」だと?)
自嘲が口の端に浮かぶ。
(われは王だと、そなたはわれの宝だと、言い切る力は、まだわれにはない――。許せ、力なき王を)
幾ら広々と寝られようと、今夜は眠る気になれなかった。
(「林檎と蜂蜜と生姜の味」か……)
大人しく歯を磨かれながら、ナーヴェは分析する。当然だろう。今日の食事は、林檎と蜂蜜と生姜ばかりだった。朝食は羊乳で煮た林檎と生姜湯でどちらも蜂蜜入り。昼食は海藻入り平打ち麺を羊乳で煮て生姜で味付けしたものと蜂蜜入り林檎果汁。夕食は蕪と海藻とを羊乳で煮て生姜で味付けしたものと蜂蜜入り林檎果汁。全てアッズーロが考えた献立らしい。
(きみは、毒にも詳しいけれど、薬にも――薬膳にも詳しいよね……)
お陰で、体調は一日で随分とよくなった。
ピーシェに木杯を渡され、手桶を差し出されて口を濯ぎながら、ナーヴェは微かに目を細める。
(そして、きみはいつも、香ばしいような、羊の乳の匂いがする。だから、ぼくも羊の乳の匂いがするのに、気づかないんだね……)
今日は一日、あの香ばしい匂いを傍で感じていた。人の言葉で、「楽しい」と言える一日だった。
「ナーヴェ様、お召し替えを」
ピーシェに声を掛けられて、ナーヴェは大人しく立ち上がった。男物の長衣と筒袴を脱いで、女物の長衣を纏う。薄く柔らかく、胸元が広く開いた前開きの衣。
(アッズーロのためにも、今夜はできるだけパルーデと話をしないとね……)
着替えを終え、椅子に座り、髪を丁寧に梳かされて、夜の仕度は完了だった。
ナーヴェは寝台に横たわり、ピーシェに掛布を掛けられて、闇に没した部屋に一人になる。
(ピーシェ、きみのことも、パルーデに話してみるよ)
いつも通り、油皿を持って部屋を辞した赤毛の少女の横顔は、頑なで、悲しげだった。
暫く微睡んで肉体を休めていると、やがて床板が軋んでパルーデが現れた。
「お体の調子は、如何ですか?」
油皿の灯火を掲げて、パルーデはナーヴェを見下ろす。ナーヴェは上体を起こし、詫びた。
「大丈夫だよ。昨夜は、ごめん」
「いえいえ、こうして今夜からまたあなた様との逢瀬を楽しめる。それで充分でございますよ」
パルーデは妖艶に微笑み、机に油皿を置いて、寝台へ来た。
「パルーデ」
ナーヴェは、寝台に腰掛けた相手を見つめて問う。
「きみは、青い瞳の人が好きなのかな?」
パルーデは、少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んでナーヴェの首筋に口付け、言った。
「――そうでございますね。わたくしは、あなた様のような、澄んだ青い瞳の者に、心惹かれるのですわ」
「それは、何故?」
問いを重ねたナーヴェを、パルーデはゆっくりと押し倒し、囁いた。
「長い昔話になりますが、宜しいですか?」
「うん。聞かせてほしい」
ナーヴェは、見下ろしてくるパルーデの顔を、真っ直ぐに見上げた。
「分かりました」
パルーデは唇に微笑みを浮かべると、ナーヴェに半ば覆い被さるように、傍らに身を横たえて、語り始めた。
「わたくしには、歳の近い叔母がおりました。癖のない暗褐色の長い髪と、深い青色の瞳が印象的な、美しい人でした。名を、グランディナーレといいました」
(グランディナーレ……)
ナーヴェは、軽く目を瞠った。それは、アッズーロの母の名だ。
(確かに、グランディナーレは、ギアッチョの腹違いの妹だった)
チェーロの妃グランディナーレ。
(あれは、幸せな結婚ではなかった――)
「グランディナーレは普段はとても大人しくて、無口で、物静かで、あまり笑いもしない人でした」
パルーデはナーヴェの髪に顔を埋めて、懐かしげに話す。
「でも、好きなものを食べる時や、馬で遠乗りに出た時などには、青い瞳をきらきらとさせて、生き生きとして、まるで、彫像が動き出したかのような――、そういう美しい人でした」
「もしかして、少しぼくと似ていたのかな?」
ナーヴェは問うてみた。グランディナーレの容姿は記録している。自分の設定と比較すれば、背格好や顔立ちに類似点が多いことは明白だった。
「ええ」
パルーデは、ナーヴェの首筋から胸元へ手を這わせながら、小さく頷く。
「あなた様を知れば知るほど、姿形だけでなく振る舞いまで、グランディナーレに似ているという思いが強くなりました。そうして、是が非でも、あなた様を抱きたいと思うようになりました。グランディナーレは――わたくしが初めて愛した人は、永遠にわたくしから奪われてしまいましたから」
王家は、その象徴たる青い瞳を血筋として保つために、婚姻相手には、必ず青い瞳の者を選ぶ。それは、既に絶対の掟となっている。
(掟のために、グランディナーレは、チェーロに嫁がされた。ギアッチョは、王家への忠誠心と、自らの地位、両方のために、妹を差し出した)
チェーロの傍にいたナーヴェは、全てを見ていた。チェーロは、グランディナーレを愛した。けれど、グランディナーレは、生涯、チェーロを愛することはなかった。
(チェーロの前では、いつも硬い表情で、素っ気なくて、まるで人形のようだった……)
「――グランディナーレは、食べることに妙な拘りがありましてね」
パルーデは、湿っぽくなった話を乾かすかのように、くすりと笑う。
「誰もしない食べ方、新しい料理を考えることが好きでした。たまには、わたくしが眉をひそめるようなものも作っていましたけれど、大抵は、意外に美味しくできていて、それを二人で笑顔で食べたものですわ」
(ああ、もしかしたら……)
乾酪に蜂蜜。あの食べ方を発明したのは、アッズーロではなく、グランディナーレだったのかもしれない。あの食べ方は、アッズーロにとって、大切な母の思い出なのかもしれない。
(きみは、嘘がつけるから……)
目を閉じたナーヴェの肉体を、パルーデの指と唇が、隅々まで弄っていく。いつもより優しく、いつも以上に細やかに――。
ナーヴェは頃合いを見計らって、目を閉じたまま、もう一つの話題を切り出した。
「ピーシェは、きみのことを、愛しているよ……。きみは、どう思っているの……?」
「――あれは、拾ったのです」
パルーデは、ナーヴェの足を愛撫しながら、淡々と告げる。
「拾って、わたくしが一から躾けたのですわ。優しく躾けた訳でもないのに、何故かわたくしに懐いて……。不憫な子です」
「それは、違う……」
ナーヴェは目を開いて、天井を見つめながら諭す。
「彼女は、きみと出会えて、幸せだから……」
「――閨で別の子を勧められたのは、二度目ですわ」
パルーデは、不意に動きを止めて、呟いた。そうして体を起こし、黒髪の間からナーヴェを見下ろす。
「グランディナーレ。今夜だけ、そう呼ばせて頂いても、宜しいでしょうか?」
微かに届く灯りの中で、微笑んだパルーデの両眼が潤んでいる。
ナーヴェは、黙って頷いた。
パルーデの天秤は、早くからテッラ・ロッサ側に傾いていた。ゆえに、ギアッチョが引退し、パルーデがレ・ゾーネ・ウーミデ侯となった時から、アッズーロは即位を急ぎ始めたのだ。
(パルーデの、父上への憎しみは、尋常ではなかった。あのままでは、あやつは最も効果的な時を狙って、わが国を裏切っただろう)
アッズーロが即位すると、パルーデの天秤の傾きは少しだけましになったが、まだテッラ・ロッサ王国側へ傾いていた。アッズーロは、グランディナーレの子だが、チェーロの子でもあるからだ。
(あやつは、減税を願い出たあの時、われを最後に見定めて、見限りに来ておった。ナーヴェが新たな産業となり得る草木紙生産を教授すると条件を出して、あやつの天秤は、漸く水平になった。だがそれでも、わが国のほうには傾かなかった……)
最後にパルーデの心の天秤を、オリッゾンテ・ブル王国のほうに傾かせたのは、ナーヴェ自身だった。その底知れぬ知性と知識、そしてパルーデ好みの容姿を使って――。
(パルーデも、疾うに気づいておるのだろうな……)
ナーヴェが、外見だけでなく、性格すら、グランディナーレに似ていることに。
(母上が、もっと自由であったなら、きっと、あのようであられたろう……)
だからこそ、パルーデは今、オリッゾンテ・ブル王国を裏切らない。ナーヴェが、重石となって、パルーデを繋ぎ止めている――。
アッズーロは、じっと寝台に腰掛けたまま、険しく目を細めた。廊下の向こうから、ナーヴェの声が微かに聞こえる。己自身を、道具として使い切る、人ではないナーヴェの喘ぐ声に、アッズーロは唇を噛んで向き合い続けた。
四
朝、ピーシェが鍵を開ける音を待って、アッズーロは与えられた部屋を出、ナーヴェの部屋へ入った。
寝台で、ナーヴェは掛布を被り、静かに眠っていた。枕の周りに青い髪が綺麗に広がっている。
「昨夜は、いつもと少し違ったのかもしれません」
寝台の傍らに佇んだピーシェが、ぽつりと言う。
「ナーヴェ様の衣が、床に落ちていません」
ピーシェがそっと掛布をめくると、ナーヴェの体は予想通り長衣を纏っていた。
「こんなことは、初めてです」
ピーシェは静かに告げ、掛布をナーヴェに掛け直して寝台を離れ、窓を開けた。朝の光が束となって部屋の中に差し込み、ナーヴェの青い睫毛が揺れる。うっすらと目が開き、青い双眸が、近寄ったアッズーロを捉えた。
「おはよう」
優しい微笑みと挨拶に、アッズーロは手を伸ばして、宝の白い頬に触れた。
「体は、大丈夫か?」
「うん。パルーデは、いつも以上に優しかったよ。気遣ってくれたんだろうね」
「当たり前だ」
アッズーロは鼻を鳴らし、手を下ろして寝台に腰掛ける。
「あやつがそなたを壊せば、われは即刻この領を攻める」
「そんなこと、言ったら駄目だよ」
言いながら、ナーヴェが上体を起こした。形のいい青い眉をひそめ、アッズーロを軽く睨む。
「パルーデは、きみに必要な人なんだから」
「分かっておる」
アッズーロは溜め息混じりに言った。分かっているから、手が出せず、もどかしいのだ。
「――そうだね。ごめん。きみはよく分かっているのに、ぼくは時々、言わなくていいことを言ってしまうね」
ナーヴェは謝りながら、寝台の上で座り直すと、そっとアッズーロを背中から抱き締めてきた。温かい抱擁に、驚きで身が竦む。人から抱き締められたのは、本当に久し振りだった。幼い頃、母やポンテに抱き締められて以来だ。
「――子ども扱いするな」
文句を言いながら、自分の肩から胸に回った白い腕に、アッズーロはそっと手を重ねた。
「――きみ達はね」
耳元で、ナーヴェが呟く。
「みんなぼくの子どものようなものだよ……」
「――御歓談中申し訳ありませんが、ナーヴェ様は、お召し替えをお願い致します」
ピーシェが、迷惑そうに口を挟んできた。
朝食後、ナーヴェはまず、侯城の庭に大きめの石を並べさせ、その上に大きな鉄釜を置かせた。釜にたっぷり水を入れさせ、石の間には薪をくべさせ、同時に、丘の麓を流れる川岸から冬枯れの葦を取ってこさせる。
「葦の茎をできるだけ細かく切って、砕いて、釜に入れて」
ナーヴェは、アッズーロが見守る先で、木工職人と竹細工職人の中から若者を集め、指示を出す。
「葦の茎がたっぷり釜に入ったら、灰も入れて。薪に火を点けて、葦の茎が充分柔らかくなるまで煮るんだ」
若い職人達は、葦を刈る者、葦を運ぶ者、葦の茎を砕いて釜に入れる者に分かれて、せっせと働き始めた。壮年から年配の職人達は、昨日に引き続き、紙漉きに必要な道具を作っていく。ナーヴェは、暫くそうした職人達の間を回って、細かい指示を出した後、釜のところで自分も作業に加わった。
「そなたには、人を仕切る力もあるようだな」
アッズーロは、ナーヴェを手伝って、自らも葦の茎を鎌で切りながら言った。
「それは、きみのお陰だよ」
ナーヴェは微笑んで答える。
「きみが、ぼくを王の宝として、国民に知らしめた。ぼくが王の宝だから、みんなぼくに従うんだよ」
「それはそうだが……」
アッズーロは、周囲の職人達を見回す。皆、楽しげに生き生きと作業している。ナーヴェに話し掛ける時も、皆、明るく熱心だ。それは、権威などではなく、ナーヴェの人柄が為せる業に他ならない。
「ぼくは王の宝だ」
ナーヴェは笑顔で告げる。
「ぼくができることは、即ち、きみができることなんだよ。ぼくは、きみの従僕なんだから」
「従僕なぞではない。そなたは――」
アッズーロが言い止したところへ、また職人がナーヴェへ質問に来て、会話は途切れた。
(そなたは、われの唯一無二の宝だ)
アッズーロは、胸中で呟いた。
釜一杯になった葦を煮始めたところで、ナーヴェは職人達に昼食を取るよう指示した。
アッズーロもナーヴェとともに部屋に戻り、卓に着いた。
「午後は、釜から葦を揚げて、塵取りをして、打ち棒で叩く作業ができるよ」
卓の向かいで、ナーヴェは嬉しそうに言った。天気にも恵まれ、作業は全て順調だ。
「それにしても、これ、美味しいね」
ナーヴェが舌鼓を打ったのは、羊乳を煮詰めた蘇に、干し杏と乾酪を細かく切って混ぜたものだ。昨日に続き、アッズーロが朝の内に厨房の料理人に作り方を教えた料理である。
「きみが料理に熱心なのは、グランディナーレの影響なのかな……?」
さらりと問われて、アッズーロはまじまじとナーヴェを見つめた。卓の向かいから、ナーヴェも静かにアッズーロを見つめ返してくる。ナーヴェは、父チェーロの傍にいた。それなら、当然、母グランディナーレのことについても知っているのだろう。
「そうだな」
アッズーロは蘇を口に運びながら、認めた。母は、父の前では人形のようだったが、アッズーロの前では、生き生きとした姿を見せた。料理は、その母の趣味の一つで、いろいろな料理を発明しては、アッズーロにも食べさせた。中には、顔をしかめるものもあったが、殆どは美味しいものだった。
「なら、もしかして」
ナーヴェは、アッズーロを見つめたまま問いを重ねる。
「乾酪に蜂蜜を掛けることを発明したのは、きみではなく、グランディナーレ?」
「――そうだな。まあ、一番相性のよい乾酪と蜂蜜の組み合わせを研究したのは、寧ろ、われだが」
アッズーロは多少の言い訳を混ぜて答えた。
「やっぱり、そうなんだね……」
ナーヴェは微笑み、匙を動かして蘇を平らげていく。その姿が、母に重なる。初めて会った時は、そこまで思わなかったというのに、ナーヴェは、日に日に母グランディナーレに似てくる気がする。
(まさか、意図的に似せておる訳ではあるまいな……?)
疑念が湧いたが、馬鹿馬鹿しくて尋ねる気にはならない。アッズーロは、別のことを口にした。
「しかし、そなた、随分と薄汚れたな」
白い男物の長衣は、葦の汁や屑であちこち汚れ、小さな鉤裂きもできている。長く青い髪にまで、屑が付いている。
「きみも、似たようなものだけれど?」
ナーヴェは可笑しそうに言った。確かに、同じ作業をしたアッズーロの長衣も、薄汚れている。髪も汚れているかもしれない。控えていたピーシェが口を開いた。
「早めに作業を切り上げて、日が高く暖かい内に、水浴びをなさっては如何ですか? 沐浴場がない代わり、この辺りの人々は、よく水浴びを致します。もう仲春ですし、ここは王都より南で水も温かいです」
「それはいいね。髪は暫く洗っていないから、そろそろ洗いたかったし」
蘇を食べ終え、林檎果汁を飲み終えたナーヴェは、乗り気な様子で立ち上がった。
充分に煮た葦の茎を庭の石畳の上に出させたナーヴェは、若い職人達を集め、午後の作業を説明した。
「まずは、この煮た茎から、塵、つまり外皮やごみを取り除く塵取りをするんだ。その後、棒で叩いて、繊維が分かれ易くする打ち解きを行なう。まずは、塵取り頑張ろう」
率先して座り込み、作業を始めたナーヴェに倣って、若者達も塵取りに取り掛かった。アッズーロも参加したが、それはなかなか骨の折れる作業だった。何より根気がいる。
「妥協したら駄目だよ。白くて汚れの少ない紙を作るには、この塵取りが大切なんだ」
ナーヴェは笑顔で職人達を励ます。アッズーロも励まされながら、段々と作業に没頭していった。
気がつくと、釜一杯の葦の茎は全て、微かに茶色がかった白さの、毛羽立った塊になっていた。
「今度は、これを棒で叩くんだ」
ナーヴェの指示の下、若者達は、広間の道具作りの過程でできた手頃な角材を取ってきて、白く毛羽立った塊を叩き始めた。ナーヴェも同じように作業に加わろうとするので、アッズーロは細い手から角材を奪った。
「そなたは座って見ていよ。一度倒れたのだろう? また倒れられては適わん」
周りの若者達も揃って頷き、ナーヴェは苦笑して石畳の端に腰を下ろした。
「分かったよ。でも、きみも無理しないでね。どうせあんまり寝ていないんだろう?」
肩を竦めて言い当てられ、アッズーロは鼻を鳴らした。
「一日二日の睡眠不足で倒れておったら、王なぞ務まらんわ」
「さすが陛下だ」
「では、体力勝負といきやしょう」
周りの若者達から、陽気な声が幾つも上がる。
「わたしも、負けちゃいませんよ!」
最後にフルミネが元気に言って、賑やかに打ち解きが始まった。
打てば打つほど、叩けば叩くほど、微かに茶色がかった白い塊は、柔らかくなっていく。同時に息も切れてくる。
「おい、ナーヴェ、まだ叩くのか?」
振り向いたアッズーロは、うつらうつらと、座ったまま舟を漕ぐナーヴェを見た。その傍らで、ジャッロが唇の前に人差し指を立てて、眉を吊り上げている。しまった、と思ったが、ナーヴェは、ゆっくりと身動きして、顔を上げた。
「ごめん。うたた寝していた。ええと、何?」
「すまん。これは、まだ叩くのか?」
仕方なくアッズーロが問うと、ナーヴェは立ち上がって傍まで来た。若者達も手を止めて下がる中、ナーヴェは白い手で毛羽立った塊を触り、状態を確かめた。
「いい感じだよ。ありがとう。今日は、ここまでにしておこう。この塊を広間に運んだら、作業終了だ」
職人達はナーヴェの指示通り動き、広間に集まって全員で明日の作業を確認した後、解散した。
「アッズーロも、お疲れ様」
職人達を見送ったナーヴェは、笑顔でアッズーロを振り向く。
「さあ、水浴びに行こうか」
昼からずっと楽しみにしていたような口振りだ。
「そうだな」
お互い、随分と小汚い格好になっているのが妙に可笑しい。
「行くとするか。王が水浴びをした場所として、ゆくゆくは名所の一つになるやもしれんしな」
「観光名所になれば、この領の利益になるね」
ナーヴェは、アッズーロの軽口に真面目な考察を加えながら、先に立って歩き始めた。
丘を下り、川へ行くと、先にフルミネとジャッロ、それに他の何人かの職人達が浅瀬で水浴びをしていた。フルミネの父トゥオーロの姿もある。男達は下穿きだけで水に入り、泳いでいる者さえいる。フルミネも下着だけになって、素っ裸になったジャッロと浅瀬に入り、その頭を洗ってやっていた。
「みんな、楽しそうだね」
ナーヴェは職人達より少し下流の岸辺へ行き、膝を着いて屈むと、長く青い髪を水に浸けた。内心、裸になられるのではと案じていたアッズーロは、ほっとしてその傍らに腰を下ろす。ナーヴェの長く青い髪は、水の流れの中で、まるで水草のようだ。
「そなたの青い髪には、やはり海藻や貝や動物の肝臓が必要なのか?」
ふと問うたアッズーロに、ナーヴェは頭を水に浸けたまま、こちらを向いて微笑んだ。
「うん。この髪の青い色素は、きみがぼくの肉体の材料として用意してくれた露草の遺伝子を取り込んで作っているんだけれど、青色を鮮やかに発現させるためには、ほんの少し金属が必要なんだよ。海藻や貝や動物の肝臓には、他の食べ物よりも多くの金属が含まれていてね。だから、毎日ではないけれど、ぼくは海藻や貝や動物の肝臓を食べないといけないんだ。昨日は、それで食事に海藻を入れてくれたんだね。ありがとう」
「礼を言う必要はない。そなたに無理矢理肉体を作らせたは、われだからな」
肉体の材料として、青い花に加えて告げられた海藻と貝と動物の肝臓の意味を正確に知れて、アッズーロは満足だった。
ナーヴェは、頭の角度を少しずつ変えて水に浸け、頭皮を指で洗っていく。水音は静かで、川上からはジャッロや職人達の笑いさざめく声が聞こえてくる。平和だ。
「きみも、せっかくだから手足や頭くらい洗ったら?」
水から頭を上げたナーヴェに提案され、アッズーロが靴を脱ぎ始めた時だった。川上で、悲鳴が上がった。
「ジャッロ!」
フルミネが叫んで、川の中ほどへ水を蹴立てて走っていく。その先で、小さな頭が水に沈んだ。
「きみは岸でぼく達を引き上げて!」
ナーヴェが早口で叫んで川へ跳び込んだ。
「おい!」
アッズーロは止めようとしたが、ナーヴェは巧みに泳いで、再び浮かんだジャッロの頭へ近づいていく。こちらが川下だったので、流れてくるジャッロを迎えにいく形だ。水の色や、ナーヴェの動きから察するに、川は、途中から急に深くなっているようだ。それでジャッロも、分からず深みに嵌まったのだろう。
ナーヴェが、ジャッロを捕まえた。そのまま、今度は岸へと泳ぎ戻ってくる。流されながら、泳いでくる。アッズーロは、その動きを見ながら、岸を走った。走りながら、川の様相を見て、ナーヴェの言葉の意味を悟った。ここまで真っ直ぐ流れていた川が、すぐ先から曲がり始め、同時に、抉られて切り立った川岸になっているのだ。水深もかなりある。
(確かに、あれでは川岸から誰かが引き上げんと、なかなか川から上がれん……!)
ナーヴェが、片腕でジャッロの上半身を支え、横泳ぎをしながら、その川岸に近づいてくる。二人が丁度川岸へ着く、その場所へ、アッズーロは駆け寄った。手を伸ばして、ナーヴェが懸命に押し上げるジャッロの腕を掴む。もう一方の手も伸ばしてジャッロの脇の下へ入れ、勢いよく岸の上まで引っ張り上げて、アッズーロはすぐにナーヴェへ視線を転じた。しかし、アッズーロの目に映ったのは、速い流れに呑まれる青い髪だった。
「ナーヴェ!」
叫んだアッズーロの眼前に、ナーヴェが――実体ではない姿が立ちはだかった。
【駄目だ! ここから先は流れが速い!】
だが、アッズーロはナーヴェの言葉を無視して、川へ跳び込んだ。
(そう簡単に、諦められるか!)
急に入った所為もあるだろう、水は、心臓を鷲掴みにするように冷たい。
【馬鹿! きみは王だぞ!】
ナーヴェの声が頭の中で響く。
(怒鳴る暇があるなら、そなたの肉体を少しでも泳がせよ!)
頭の中で怒鳴り返して、アッズーロは青い髪目指し、川の流れも利用しながら、懸命に冷たい水を掻いた。
ナーヴェも、アッズーロを戻らせるには、自分が泳ぐのが最良と悟ったらしい。弱々しい動きながら、腕で水を掻いて、川の流れに抵抗し始めた。
二人の距離が少しずつ近づいていく。腕を伸ばし、水を掻き、流れを蹴って、アッズーロはナーヴェの手首を掴んだ。そのまま、今度は岸を目指して泳ぐ。ナーヴェは重く、流れは速い。けれど、岸には走る人影が幾つか見える。アッズーロは最後の力を振り絞って、岸へ泳ぎ着いた。複数の手が伸ばされ、アッズーロを、そしてアッズーロが手首を掴んでいるナーヴェを引き上げる。岸辺に転がってすぐにアッズーロは起き上がり、傍らに横たわったナーヴェを見た。目を閉じ、蒼白な肌色になっている。
「息をしていない……」
トゥオーロが告げた。
「馬鹿者!」
アッズーロは吐き捨て、ナーヴェの背を叩いた。あの硝子のような樽でナーヴェの肉体を目覚めさせた時と同じだ。
「さっさと目を開けよ!」
何度目か叩いた時、ナーヴェが咳込んだ。ごぼりと水を吐き、激しく咳込み続ける。咳込みながら、細く目を開け、アッズーロを見た。
「……馬鹿……、無茶、して……」
咳の合間に文句を言われて、アッズーロは憮然とした。
「その言葉、そっくりそのまま返すわ! それから、王相手に何度も馬鹿と言うな」
ナーヴェは、咳込みながら、微笑んだ。
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