第2話 離れて過ごす夜

     一


 パルーデとの謁見から一週間後、約束通り、ナーヴェはレ・ゾーネ・ウーミデ侯領へと出立した。パルーデの馬車に同乗しての旅路だ。見送るアッズーロの胸に複雑な思いはあったが、ナーヴェ自身が不安を見せないので、止める理由もなかった。

(とりあえずレーニョとポンテをつけたゆえ、助けにはなるであろう)

 腹心の侍従まで傍から離すのは、この先の苦労が思いやられたが、仕方ない。レーニョは切れ者だ。少々のことなら切り抜けられる。そしてポンテは、アッズーロの育ての親と言っても過言ではない、古参女官だ。今年六十歳となる彼女なら、パルーデの嗜好の対象外だろうし、度胸も機転もある。アッズーロは信頼する側近二人に、ナーヴェを託したのだった。



 馬車の窓からは、絶え間なく流れていく晴天の風景が見える。その眺めは、王都の街並みから仲春の田園風景へと変わっていた。王の宝は、窓に顔を寄せ、目をきらきらとさせて飽くことなく流れる風景を見つめている。

(確かに、こういうところは陛下が仰る通り、子どものようだ)

 レーニョが思った時、馬車の向かいに座ったレ・ゾーネ・ウーミデ侯パルーデが、扇の陰で口を開いた。

「ナーヴェ様におかれましては、馬車の旅が、甚く気に入られた御様子。もしや、王都の外へ赴かれるは初めてでございますか?」

「初めて、ではないけれど、長い長い間、ずっとあそこから身動きできずにいたからね。この一週間、アッズーロのお陰で王城生活はさせて貰っているけれど、外には出ていないんだ。だから、『王都』というよりも、王城以外のところへ実際に行くのが本当に久し振り、だね」

 王の宝は、青い瞳に笑みを浮かべてパルーデを見ると、すぐに視線を窓の外へ戻した。

「さようでございますか」

 パルーデは上機嫌だ。

(まずいな……)

 レーニョの目には、パルーデが扇の陰で舌なめずりしているように見える。

(絶対に、ナーヴェ様をお一人にしないようにしなければ)

 アッズーロが再考しようとしたにも関わらず、王の宝はそれを拒否したという。

――「『ある程度のことは問題ない』そうだ」

 アッズーロは腕組みし、再考の結果をそう告げた。

(あの時の陛下は、ひどく浮かない顔をしておられた……)

「――レーニョは、もしかして、ぼくがレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に行くことに反対だった?」

 唐突に問われ、レーニョは驚いて王の宝を見た。

「いえ、そのようなことは決して」

 冷静に答えたつもりだが、心臓の鼓動が速まっている。いつの間にこちらを向いていたのだろう。王の宝は、深い青色の双眸でじっとレーニョを見た後、優しく微笑んだ。

「なら、いいんだけれど。きみにとっては、ぼくなんてただのお荷物だろうし、アッズーロの傍を離れたくはなかっただろうと思ってね」

「陛下のお傍を離れたくないのは、その通りですが、あなた様をお守りすることも、同じくらい大切なことですから」

「――ありがとう」

 礼を述べると、王の宝は小さく欠伸をした。目に涙を浮かべて、かなり眠そうだ。すかさずパルーデが言った。

「旅はまだ長うございます。お休みになられるのでしたら、どうぞこちらへ」

 パルーデが座る向かいの座席は、その隣に誰も座っていないので、広く空いている。対して、こちら側には、ナーヴェとレーニョに加えて、ふくよかな体をした女官のポンテと、ピーシェとかいうパルーデの従僕まで座っているので、余裕はない。だが、王の宝は首を小さく横に振った。

「ううん。座ったまま寝られるから、大丈夫。レーニョ、ちょっと肩だけ貸してくれると嬉しい」

「御意のままに」

 応じたレーニョの肩に、艶やかな青い髪に覆われた形のいい頭が、そっと凭れかかった。そのまま目を閉じて、王の宝は本当に寝てしまう。

(これでは、身動きもできない……)

 固まったレーニョと、寝息を立てる王の宝を見て、パルーデが目を細めた。

「まあまあ、愛らしいこと」

 その呟きは、レーニョにとって、ぞくりと寒気を感じるものだった。



「水路を、でございますか」

 治水担当大臣バンカ伯コッコドリーロは、裏返った声を出した。道路担当大臣ストラーダ伯カッメーロも、難しい顔で顎に手を当て、言った。

「テッラ・ロッサも、そのようなことで納得致しますかな」

「納得させるのは、わたくしの仕事です」

 冷ややかに指摘したのは、外務担当大臣フォレスタ・ブル大公女ヴァッレ。アッズーロの従姉だ。

「そもそもあの国は、わが国の一部から独立した、属国であったもの」

 財務担当大臣オーロ伯モッルスコが、細長くした口髭を引っ張りながら首を捻る。

「そのような国に、情けは必要ですかな?」

「情け云々の話ではない」

 アッズーロは一段高い壇上に設けられた王座から口を挟む。

「水路か戦争かという話だ」

 ナーヴェの助言を得て、毎週月曜日の午前中に行う大臣会議で、カンナ河からテッラ・ロッサ王国へ水路を引く構想を授けたのだが、予想通り、殆どの大臣は難色を示した。

(やはり、こやつらは保守的過ぎるな……)

 アッズーロは溜め息をつき、手を振った。

「よい。それぞれの大臣で、この案件に関する担当分野の資料と意見をまとめよ。来週、またこの件を審議する」

「はっ」

「御意のままに」

 大臣達が頭を下げ、会議はお開きとなった。

 真っ先に席を立ったアッズーロは、檀を下りて、頭を下げた大臣達の横を通り過ぎ、寝室へ戻る。

「またこちらでお食事でございますか?」

 後から小走りでついて来た侍従のガットが、不思議そうに言った。確かに、以前のアッズーロであれば、食事は、謁見を兼ねて広間で取るか、一人で食べるにしても、見晴らしのいい露台で取るなどしていたものだ。それが、ナーヴェと食事をするようになってからは、いつも寝室で食事をするようになった。

「考え事をするには、ここがよい」

 適当に答えて、アッズーロは卓に着く。用意された昼食は、乾酪を絡めた麺に椒をまぶしたもの。それに干し林檎が添えてあった。飲み物は羊乳だ。

(これはまだ、あやつには食べさせておらなんだな……)

 肉叉で麺を巻き取って口へ運びながら、アッズーロは目の前にナーヴェを想像してしまう。

(あやつは、何でもかんでも美味しいと食しておったが……)

 約束通り乾酪の蜂蜜掛けを食べさせた朝は、特に嬉しそうだった。白い頬を紅潮させて、幸せそうに乾酪を咀嚼していた。

(あれは本当は、母上が思いついた食べ方なのだが、あやつ、わが母と同じ好みらしい)

 レ・ゾーネ・ウーミデ侯領の食事はナーヴェの口に合うだろうか。否、そんなことよりも心配なのは――。

 嫌な想像をしそうになって、アッズーロは頭を横に振った。

「どうかなさいましたか?」

 控えていたガットが、心配そうに訊いてきた。レーニョの推挙で、代わりとして使っている十七歳の侍従だが、どうにもおどおどとして落ち着きがない。レーニョは十七歳の頃から落ち着いていたように思うが、ガットは違うらしい。しかも、まだアッズーロの行動に慣れないためか、一つ一つ言ってやらないと分からないことが多い。

「問題ない。それより、おまえも食事をして参れ。われは暫くここにいる」

「か、畏まりました」

 慌てて一礼して、ガットは下がっていった。その姿を静かに見送ったフィオーレが、おもむろに口を開いた。

「――陛下、お疲れでございますか」

「いや、そういう訳ではないが」

 アッズーロは目を上げて、栗色の髪を結った女官を見た。フィオーレはしっかり者だが慎ましい。特に用事もないのに話し掛けてくるのは珍しかった。

「近頃、お食事があまり進まれぬようにお見受けしましたので。失礼致しました」

 フィオーレは、固い面持ちで弁明し、目を伏せた。

「確かに、そうだな……」

 アッズーロは微苦笑して認める。

「あやつがおらんと、食事も張り合いがない」

「――レーニョ殿も案じておられました」

 フィオーレは会話に応じる。

「レ・ゾーネ・ウーミデ侯は、その……少々心配な方だから、と」

「ゆえに、同行させたのだが。レーニョは頭が切れる」

「それが不安なのでございます」

 フィオーレは目を上げ、胸元で心細げに白い手を組み合わせる。

「レーニョ殿は、切れ者ではございますが、レ・ゾーネ・ウーミデ侯のような方に対しては、あまり上手く立ち回れるとは思えず……」

(それも事実だが、結局のところ、一番の難敵はナーヴェ自身)

 アッズーロは胸中で呟いた。自分は、ナーヴェに再考させることができなかった。パルーデも手強いが、誰よりナーヴェが手強い。アッズーロにできなかったことをレーニョができるとは思えなかった。

「われがレーニョに期待しておるのは、政治的な補佐だ。その点に関しては、あやつは充分立ち回れる。そしてパルーデに対しては、ポンテだ。ポンテならば、パルーデにも、ある程度、角を立てず物が言えるであろう」

「そうでございますね」

 フィオーレは頷いて漸く微笑み、頭を下げる。

「わたくしなどが詮無いことを申し上げました。お許し下さい」

「よい。あやつを案じてくれているのは嬉しい」

「ナーヴェ様は、わたくしどもにも丁寧に接して下さる、とてもよい方ですから」

 フィオーレは、目を細め、優しい表情を浮かべた。



 小脳の調整が進んだので、思考回路の殆どを肉体から切り離すことができるようになった。その間、肉体は眠らせておくことになるが、馬車に乗っている間は問題ないだろう。

(最近、肉体の調整に掛かり切りだったから、少し予習しておかないとね)

 オリッゾンテ・ブル王国上空の静止軌道に設置している人工衛星の光学測定器を使って、ナーヴェはレ・ゾーネ・ウーミデ侯領を見下ろす。一糎掛ける一糎の分解能を誇るので、地上を歩いている人々を見分けることも容易だ。

(葦も楡も充分生えている。紙漉きに必要な道具の材料も、ちゃんと揃いそうだ……)

 紙を漉く簀を作るためには竹ひごと糸が要るが、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領に広がる湿地混じりの丘陵地帯には、竹林もあれば、糸の原料となる毛を纏った羊達も群れている。簀を嵌める桁や、紙の原料と水を入れる漉き舟、原料を掻き混ぜる馬鍬を作るためには、杉や檜が必要だが、それらの木も生えていることが確認できた。

(原料を煮る大釜は、パルーデが用意できると言っていたから大丈夫として、後は……)

 ナーヴェは、光学測定器の観測幅の西端へ集中を移した。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領は、その西端の一部を隣国テッラ・ロッサと接している。

(国境の向こう側、以前より、施設が増えている……)

 テッラ・ロッサの名の由来となった赤い沙漠には、土煉瓦で作られた建物が多く立ち並んでいた。

(本当に、戦争をするつもりなのか……)

 テッラ・ロッサがオリッゾンテ・ブルから独立したのは、先々々代の王ザッフィロの治世の時だ。ザッフィロは、マーレやチェーロの父親である。

(多様性があったほうが、人が生き延びる可能性が広がると思って、ザッフィロに助言したけれど……)

 いずれ、独立した国と対立することもあり得ると知りながら、ナーヴェは大局的見地で物を言った。だが今、実際にアッズーロが悩んでいるのを見ると、居た堪れない。

(こうなったのは全部ぼくの所為だから、何とかしないとね……)

 施設をできる限り見て調べてから、ナーヴェは思考回路の接続を、肉体へと戻した。心地よい振動が、馬車から伝わってくる。整備された道路の上を走っているようだ。頭には、やや硬い肩が当たっている。

(そう言えば、レーニョに凭れたままだった)

 ナーヴェは目を開いて、レーニョから離れた。

「ごめん。重かった?」

 自分より高い位置にある顔を見上げて問うと、青年は目だけでこちらを見下ろして一言言った。

「いいえ」

 それきり会話が途絶えそうになり、ナーヴェは苦笑した。自分は、どうやらこの青年に嫌われているらしい。理由はいろいろと思い当たる。一番は、やはり一時的にアッズーロから引き離す形になってしまったことだろう。

「ごめん。もうしないよ」

 告げて、ナーヴェは傍らの窓の外へ視線を転じた。

 外は晴天の下、依然、眩しい田園風景が続いている。

(空から見た時も、今日はこの辺り一面、雲一つない快晴だったな……)

 肉体の目で見る地上の様子は、本当に美しい。

(アッズーロも、一緒に来られたら――)

 不意に考えてしまい、ナーヴェは、こつんと窓枠に額をぶつけた。王にそんな自由は許されない。

(この眺めを、きみと共有したいだなんて、ぼくも随分と人らしくなれたものだ……)

 宇宙を進んでいた旅路を合わせれば、もう三千年近く、人と付き合っている。

(でも、ぼくはどこまでいっても、人にはなれない。きみ達と過ごして、ただ見送るだけだ……)

 そうして、時に、アッズーロのような型破りなことを求めてくる人に出会う。

(きみとの出会いは、本当に嬉しいよ……)

 ナーヴェは、窓の外を見つめたまま、微笑んだ。


     二


(まこと、美しい)

 パルーデは、扇の陰で、ほうと溜め息をついた。王の宝ナーヴェは、見れば見るほど心惹かれる容姿をしている。窓から入る日に透ける白い肌、微風に揺れるゆったりとした癖のない青い髪。整った横顔。青い睫毛が陰を落とす、知的な眼差し。優しげで儚げな顔立ち。細い首。襟元から僅かに見える鎖骨の滑らかな線。袖口から覗く細い手首。やや骨ばった手の甲。形のいい細い指。

(二人従者が付けられておるが、これは神官の世話を焼くために必要な最低限。わたくしを妨げる人数ではないねえ)

 何より、ナーヴェ自身に、パルーデを警戒する様子が見られない。恐らく、アッズーロからそのように言い含められているのだろう。

(今夜が楽しみだねえ)

 パルーデは高鳴る胸を押さえて、くすりと笑った。

 日が中天に差し掛かった頃、パルーデは昼食のため、馬車を木陰に停めさせた。ピーシェが、膝に抱えてきた篭を開き、中から羊の腸詰を挟んだ麺麭を取り出して全員に配る。飲み物は、瓶に入れてきた林檎果汁。王の宝は、眠っていた時以上に愛らしい様子で、食事をした。

(全く。夜まで我慢するのに骨が折れる)

 パルーデは溜め息をついたが、ナーヴェの一挙手一投足を眺めているのは楽しかった。

(草木紙の製紙方法を語っている時は、年相応に見えたが、普段の様子はまるで幼子のよう)

 その落差にもまたそそられる。

 パルーデにとって、じりじりとする午後が過ぎ、夕方、漸く馬車は彼女の城に到着した。

 レ・ゾーネ・ウーミデ侯城は、湿地を見下ろす丘陵の上に聳えている。

「さ、お疲れでございましょう。まずはお部屋へ御案内させましょう。その後、晩餐をともに」

 パルーデは告げて、真っ先に馬車を降りた。自身も疲れており、沐浴も着替えも必要だ。

「ピーシェ、後は任せる」

 従僕に声を掛け、パルーデは出迎えたもう一人の従僕サーレに手荷物を持たせて、城へ入った。



「ついて来て下さい」

 ピーシェという従僕の少女は、何やら険のある声音で言い、ナーヴェ、レーニョ、ポンテを城の二階へ案内した。

「こちらがナーヴェ様にお使い頂くお部屋、そして隣がポンテ殿、廊下を挟んで向かいのあちらが、レーニョ殿の部屋です」

 それぞれ別の部屋を割り当てられて、レーニョは内心焦った。

「生憎、ナーヴェ様は王の宝ゆえ、日常の生活にも世間の常識にも疎いお方。同じお部屋で逐一お世話をする者が必要です」

「それならば、わたくしが致します」

 ピーシェは、真っ直ぐにレーニョを見返して告げた。

「いえ、慣れない者では、王の宝のお世話はできません」

 断固として告げたレーニョの横から、ポンテが進み出て柔らかく言った。

「それは大変有り難いのですが、わたくしどもは陛下より、ナーヴェ様のお世話するよう仰せつかって参りました。どうか、命じられたことを全うさせて下さいませ」

「しかし、わたくしも、主人から……」

 ピーシェは言い淀んだ。言う途中で気づいたのだろう。主人であるレ・ゾーネ・ウーミデ侯と、この国の王、どちらの命令がより重いかを。

「あなたもどうぞナーヴェ様のお世話をして下さいな」

 ポンテは穏やかに頷く。

「わたくしどもだけでは手が足りぬことも、この領地について分からぬこともございます。王の宝は大切なお方。三人でお世話致しましょう」

「分かりました。しかし、部屋は、主人の命令通りにして頂きます。この城の主人はパルーデ様ですから」

 ピーシェは、そこだけは譲れないというふうに言い張った。

「それでいいよ」

 さらりと同意したのは、当のナーヴェ。

「ぼくもかなりこの肉体に慣れてきたから、夜一人で過ごすくらいは大丈夫だよ」

「ナーヴェ様、そのような判断は、わたくしども側近が致します」

 レーニョは慌てて言葉を被せた。けれど、ナーヴェは微笑んで言った。

「まあ、とにかく今は割り当てられた部屋に入ろう。きみ達も身仕度が必要だろう? 身仕度が終わったら、ぼくの部屋に来て。今後どうするかについて話をしよう。最終的には、この城の主人であるパルーデと話し合うのが一番いいよ。今ここでピーシェにどう言おうと、パルーデが納得しなければ、議論はやり直しだからね」

 確かにその通りだ。

(パルーデ様を納得させられるよう、晩餐までに考えておかねば)

 レーニョは決意しつつ、頷いた。

「畏まりました」



 割り当てられた部屋に入って、ナーヴェは寝台に座り、ふうと息をついた。馬車では、ただ座っていただけなのだが、肉体というものは、それだけでも疲れるものらしい。

(人は、本当にみんな、頑張っているんだね……)

 感慨深く思った時、一緒に部屋に入ったピーシェが声を掛けてきた。

「ナーヴェ様、まずは沐浴をして頂き、旅の汚れを落として頂きます。ついでにお召し替えをして頂いた後、主人と晩餐をともにして頂きます。宜しいでしょうか?」

「うん。でも、沐浴は、ここでお願いできるかな? 疲れていて、あまり動きたくないんだ」

 ナーヴェが要望すると、ピーシェは妙な顔をした。

「勿論、こちらでして頂きます。ただ今、水桶を運ばせますが?」

「そうなんだ。ぼくは、王城周辺の暮らししか知らないものだから、ごめん」

 ナーヴェが弁明すると、ピーシェは溜め息をついた。

「王城のように沐浴場があるところは稀です。本当に、いろいろと疎くていらっしゃるのですね」

 そこに扉を叩く音が響いた。

「来ましたわ」

 ピーシェは硬い声で告げ、扉へ行って開ける。水桶を抱えてきたのは、ピーシェと同じ年頃の少女だった。先ほど、馬車を出迎えたのも、少女の従僕だ。

「この城では、きみと同じ年頃の女の子ばかり働いているのかな?」

 ナーヴェが問うと、水桶を受け取って戻ってきたピーシェは、眉間に微かに皺を寄せて答えた。

「『ばかり』という訳ではありません。御者は男性ですし、厨房では、もっと年嵩の男女も働いております。庭師も男性です」

「そう」

 頷いたナーヴェの足から、布靴を脱がして、ピーシェは水桶を使う。冷たい水が、疲れた足に心地よい。ピーシェの口調や表情は不機嫌だが、ナーヴェの足を洗う手つきは丁寧で優しかった。

(もともとの気立てはいい子なんだろうな)

 ナーヴェは微笑んで、少し癖のある赤毛を結った少女を見下ろす。水桶を運んできた少女は、亜麻色の髪をしていた。出迎えの少女は、銀髪だった。みんな肌が白く、濃淡の違いはあれど瞳が青い。

(この子達がみんなパルーデの好みなんだとしたら、ぼくの容姿も彼女の好みの範疇に入るかな……?)

 パルーデと親しい関係ができれば、アッズーロの助けとなる。

(でも、まずはレーニョとポンテを納得させないとね……)

 あの二人は、ナーヴェを守れというアッズーロの命令を、パルーデの嗜好からも守れと解釈しているらしい。

(アッズーロは了解していることなんだと、しっかり話しておかないと……)

 やがてピーシェはナーヴェの両足を洗い終え、水桶の縁に掛けてあった布で水滴を拭き取ると、寝台脇に置かれた篭から新しい布靴を取り出した。篭の中には、他に、女物の下着――胸当てと下袴、女物と思しき長衣と上着が入っている。

(これも、パルーデの趣味なのかな……?)

 女物の長衣を着るのは初めてだ。

(そう言えば、アッズーロはぼくの設定が女だと知っているのに、何故いつも男物の長衣を用意していたんだろう……)

 ナーヴェが考える間に、ピーシェは慣れた手つきで、布靴をナーヴェの両足に履かせ終えた。

「布でお体を拭い、お召し替えをして頂きますので、お立ち願えますか?」

 相変わらず険のある声音で言われて、ナーヴェは素直に寝台から立ち上がった。ピーシェは手早くナーヴェの長衣を脱がせ、下着を脱がせて裸にする。その中で、少女の表情に微かな驚きと悲しみが浮かぶのを、ナーヴェは見た。

「何か問題があったかな?」

 静かに尋ねると、ピーシェは唇を噛むようにしてから告げた。

「胸はささやかでも、大変美しいお肌だと感心したのでございます」

(胸は、大きいほうがよかったのかな……?)

 ナーヴェは思考回路でピーシェの発言を解析する。

(肌は、まだ作ってから間がなくて、特に何もしていないからね……)

 肌に傷がついたり黒子や染みができたりするのは、これからだ。

(でも、綺麗なほうがパルーデは喜ぶかな……?)

 思考回路にパルーデの情報を蓄積するナーヴェに、ピーシェはぽつりと言った。

「……羨ましゅうございます……」



 割り当てられた部屋で素早く身形を整え、ナーヴェの部屋の前に戻ったレーニョは、扉を叩き、中へ入って、ぎょっとした。寝台脇に立ったナーヴェが、女物の長衣を着ていたのだ。

「ナーヴェ様、それは……」

「似合うかな?」

 王の宝は、ふわりと微笑んで首を傾けた。その細い首から華奢な肩までが、顕になっている。衣は、胸元から膝下までを覆っているのみで、すんなりした腕も全て丸見えだった。

 そこへ、ポンテも部屋に入ってきた。彼女もナーヴェの格好には驚いたらしい。

「まあまあ、ナーヴェ様、お寒うはございませんか?」

 問われて、王の宝は頷いた。

「そうだね。少し」

「それなら――」

 抗議しかけたレーニョを遮るように、ピーシェがナーヴェの肩に上着を着せ掛けた。

「ああ、ありがとう」

 王の宝は柔らかく礼を述べて、上着の袖に腕を通す。長袖の上着には、繊細な飾りがたくさんあり、王の宝を、より上品に女らしく見せた。

「さて、揃ったから、今後どうするか話をしよう」

 告げて、ナーヴェは寝台に腰掛け、レーニョとポンテを見つめる。レーニョはピーシェに視線を転じて請うた。

「ピーシェ殿は外して頂けまいか」

「では、廊下で待っております」

 赤毛の少女は硬い口調で応じ、部屋を出た。

 扉が閉まってから一呼吸置いて、王の宝はすまなそうに微笑んだ。

「ごめんね、今まで、きちんと話ができていなくて。でも、ぼくは大丈夫だし、アッズーロも了承済みだから、パルーデがぼくに何をしようと、きみ達には見て見ぬ振りをしてほしいんだ」

「それは了解しかねます」

 レーニョは即座に反対した。

「何故?」

 王の宝は、青い双眸でレーニョを見上げた。この不思議な少女は、本当に分かっていないのだろうか。

 レーニョは、努めて冷静に告げた。

「あなた様は、陛下に『ある程度のことは問題ない』と仰ったそうですね。そのことをわたくしに話された時の陛下のお顔は、大変憂いに満ちておられました。陛下は、公人としてはパルーデ様とのことを了承されたかもしれませんが、私人として反対のお気持ちを持っておられることは明白です。侍従として、陛下のお気持ちを無視することはできません。加えて、王の宝は神聖にして不可侵たるもの。それが一領主に穢されたとあっては、陛下の沽券にも関わります。陛下は、即位されてまだ間もない。今、権威の象徴たる王の宝に醜聞が立つことは、好ましくありません」

 理路整然と述べたつもりだった。だが王の宝は、憐れむように言った。

「うん、そうだね。でも、パルーデは危険なんだ。今、彼女を繋ぎ止めておかないと、恐らく、この国は分裂する」

「それは、どういう……」

 驚きを通り越し、怒りを覚えて、レーニョは聞き返した。王の宝だか神官だか知らないが、一体何を言い出すのだろう。

「パルーデは、十中八九、テッラ・ロッサと裏で通じている」

 静かに、王の宝は告げた。レーニョは一瞬唖然とし、直後、その可能性を考え始めた。確かに、ないとは言えない。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領は、急峻な山脈を挟んでではあるが、テッラ・ロッサと接している。パルーデは、先代のギアッチョよりも領地に引き篭もりがちで、オリッゾンテ・ブル王国に対する忠誠心が薄いと揶揄されることもあった。先日の、唐突で強気な減税の要求も、テッラ・ロッサと通じていると考えれば、合点がいく。

(あの時、パルーデは陛下に、裏切ってほしくなければ減税せよと、そう暗に要求した訳か……!)

 レーニョは、王の傍についていながら、そのことに気づかなかった。けれど、ナーヴェは気づいたのだ。そして、羊皮紙ではない紙作りを提案し、あの場を収めた――。

「ぼくは今、簡単に口にしたけれど、これはとても重大なことだから、アッズーロも確信が持てるまでは、きみ達にも言いたくなかったんだろうね。でも、アッズーロが即位を急いだ理由の一つが、パルーデとテッラ・ロッサの繋がりであることは、事実だよ」

 王の宝は、低い声で淡々と語る。

「ぼくは、王の宝で従僕だから、チェーロの傍にもずっといた。アッズーロが王太子として、チェーロの政治を憂いている様子も、ずっと見ていたんだ」

「わたくしも、アッズーロ様のお傍にずっとおりました」

 レーニョは居た堪れず口を挟む。

「しかし、先王陛下のお傍であなた様を見かけたことは一度もございません」

「うん。ぼくが肉体を作ったのは一週間前で、それまでのぼくは、ただ王と接続しているだけで、傍にいるとは言っても、実体ではなかったからね」

「あなた様が何を言っているのか、訳が分からない!」

 とうとうレーニョは声を荒げてしまった。ナーヴェの口から語られる全てが、想像を超えている。

「ごめん。でも、とにかく理解してほしいのは、ぼくは、人ではないという事実と、公人としてのアッズーロの決意だよ」

 寂しげな表情で言われて、レーニョは、否応なく納得させられた。パルーデを説得するどころか、王の宝を説得することすら、自分にはできないのだ。あのアッズーロが、大切にし重用するはずだ。この「人ではない」という少女は、全てを見越して行動している。そして、幼い頃からアッズーロに仕えてきたレーニョ以上に、アッズーロについて理解している。アッズーロにとっては、苦渋の決断だっただろう。だが、それでも、アッズーロは王として、パルーデへの対処を、この少女に任せたのだ。

「勿論、きみ達に助けて貰いたいこと、助けて貰わなければいけないことは、たくさんある。だから、ぼくのことも、これから少しずつ知っていってほしい」

 王の宝は、労わる口調で話を締め括った。


     三


 レーニョ達が廊下へ出ると、佇んで待っていたピーシェは、抑揚に乏しい声で言った。

「食堂へ御案内致します。こちらへ」

 食堂は、階段を下りた先の一階にあった。ピーシェが開いた扉から、レーニョ達が中へ入ると、広い卓の端で、既にパルーデが待っていた。

「ようこそ、わが晩餐へ、ナーヴェ様」

 優雅にお辞儀をしたパルーデもまた、旅の上衣と長衣から、美しい上着と長衣へと着替えていた。

「お招きありがとう、パルーデ」

 微笑んで応じた王の宝は、ふと立ち止まって問うた。

「レーニョとポンテは、一緒に食べられないのかな?」

 パルーデは当然という様子で頷いた。

「はい。使用人は同席させませぬ。後でピーシェに案内させ、使用人部屋で夕食を取らせますので、御案じ召されずとも。もしや、王城では御一緒にお食事を?」

 王の宝は軽く首を横に振った。

「ううん。それはなかった。でも、ここでもそうなんだね」

 ピーシェが、手前の席の椅子を引いて王の宝を促した。

「どうぞ」

「ありがとう」

 王の宝が席に着いた卓の向かいで、パルーデも、銀髪の従僕に椅子を引かせて席に着く。レーニョとポンテは食堂の壁際に立ち、晩餐が始まった。

 料理人によって食堂に運ばれてきたのは、さまざまな野菜と肉が煮込まれた汁物だった。そして、瓶から木の杯に注がれた、深紅の飲み物。葡萄酒だ。

「珍しいね。この辺りでは、葡萄はあまり取れないはずだけれど」

 博識なところを見せた王の宝に、パルーデは頷いた。

「はい。昨日、王都で買い求めたものですわ」

 そうしてパルーデは杯を掲げる。

「オリッゾンテ・ブル王国の弥栄と、素晴らしき夜に」

「レ・ゾーネ・ウーミデ侯領の美しさと、素晴らしき夜に」

 王の宝も微笑んで杯を掲げた。

 晩餐はそのまま和やかに進み、王の宝は、王城での食事と同じように、煮込まれた子羊の肉と野菜の美味しさに舌鼓を打った。パルーデの話に拠れば、その煮込み料理にも、葡萄酒が使われているとのことだった。

(王都の葡萄酒と、羊の乳ではなく肉を用いた料理。大盤振る舞いか)

 レーニョは苦々しく胸中で呟いた。

 羊は財産だ。乳は日々飲んでも、殺して肉にするのは、祭りなど、特別な時だけだ。王城でも、羊肉は滅多に供されない。

「そう言えば、ギアッチョは、今どこで何をしているんだい?」

 やや唐突に、王の宝が問うた。

「父でございますか?」

 パルーデは複雑な笑みを浮かべる。

「父ならば、今は王都の館に住んでおりますよ。毎夜、王都の美女と遊んでおるそうです」

「それは、元気そうで、何よりだね」

 王の宝もまた、複雑な笑みを浮かべた。


 

「ナーヴェ様、大丈夫でございますか?」

 レーニョは、ナーヴェの部屋に、ともに入り、その整った顔をまじまじと見つめた。晩餐で出た葡萄酒の所為か、王の宝の整った顔や首筋が、ほんのり赤く染まっている。青い双眸もやや潤んで見えて、今までになく艶っぽい。

「すぐにお休み頂きます」

 傍らで、ずっと迷惑そうな顔をしていたピーシェが、冷ややかに言う。

「レーニョ殿、ポンテ殿、あなた方はもう出て下さい」

「ぼくは大丈夫だよ」

 寝台に腰掛けたナーヴェも微笑む。

「葡萄酒は加減して飲んだし、後は歯を磨いて寝るだけだから」

 その一見無防備な笑顔に、レーニョは居た堪れなくなったが、自分にできることはないと既に知らされた後だ。

「……では、下がらせて頂きます。何かあればすぐ、隣の部屋のポンテにお知らせ下さい」

「うん」

 素直に頷いた王の宝の前に、レーニョの後ろにいたポンテが、ふと進み出た。

「ナーヴェ様」

 ポンテは、寝台前に膝をついて王の宝を見上げ、優しく言う。

「どうか、アッズーロ様のために、あなた様御自身を、大切に扱って下さいませ。どのような利があろうと、決して道具のように扱われませぬよう、伏してお願い申し上げます」

 言葉通り床に平伏したポンテの傍らに、王の宝はすとんと座った。ポンテの丸い肩に手を置き、王の宝は優しく言った。

「分かったよ。努力はしてみる。でも、ぼくは人ではないから、心配しないで」

「さあ、もう出て下さい」

 ピーシェに急き立てられて、レーニョとポンテは廊下へ出た。

「後は、ナーヴェ様に任せるしかない」

 ポンテに言われて、レーニョは項垂れたまま、廊下に座り込んだ。自分には何もできないが、せめてできるだけ近くにいたかった。ポンテは黙って、そんなレーニョの傍らへ腰を下ろしてくれた。



「きみにも、謝らないとね」

 ぽつりと言われて、ピーシェは青い髪を櫛梳る手を、一瞬止めた。

「何をでございますか?」

 問い返しながら、再び手を動かし始めたピーシェに、椅子に腰掛けた王の宝は静かに告げた。

「ぼくの行動は、恐らくきみの心を傷つける。きみは、パルーデを愛しているから。だから、ごめん」

「あなた様は、本当に人ではないのですね」

 ピーシェは溜め息混じりに呟く。

「それは、人でなしの言葉です」

「――そうだね」

 王の宝は、寂しげに認めた。

 その後、手桶に用意した水と杯と楊枝を使って、王の宝の歯を磨き、口を濯がせ、顔を拭ってから、ピーシェは、ぽつりと言った。

「でも、わたくしも、最初は嫌でございました」

「そうなんだ」

 微笑んだ王の宝から上着を脱がせて、椅子の背に掛けると、ピーシェは寝台の足元に畳んであった掛布を手に取った。

「今日は一日ありがとう」

 王の宝は礼を述べながら、素直に寝台に戻り、体を横たえる。その体の上に掛布を掛けて、ピーシェは事務的に応じた。

「お手洗いは、衣装箱の向こうの隅にございます。それでは、おやすみなさいませ」

 そのまま机まで歩いて油皿の火を消し、ピーシェは王の宝の部屋を辞した。

 廊下では、侍従と女官が、壁に凭れて座り込んでいる。その目の前で、ピーシェは帯に吊るした鍵を使って、王の宝の部屋に外から鍵を掛けた。侍従と女官は、驚いた顔をしたが、抗議はしなかった。彼らも、ピーシェ同様、諦めている。覚悟を決めているのだ。



 レーニョとポンテは、夕食も食べに行かず、廊下に座り込んでいる。

(随分と心配させてしまっている……)

 ナーヴェは反省しながら、暗い天井を見つめた。窓は木の扉で閉じられていて、差し込む月明かりもなく、人の目には、闇が深くて何も見えない。

(城に沐浴場はないけれど、部屋に手洗いはあるんだ……。そこは、王城と同じなんだね)

 ナーヴェにとって、それは少しばかり満足のいく事実だった。先々々代の王ザッフィロにしつこく言って、水道と水洗式便所を国中で奨励させた甲斐があったと確認できたのだ。

(ピーシェは鉄製の鍵を持っていたし……、次は、硝子窓作りでも奨励しようかな……)

 浅い眠りと目覚めを繰り返しながらナーヴェが待っていると、深夜、床板の一部が動いた。微かに軋む音を響かせ、床板が開いて、揺らめく灯りを持った人影が出てきた。ナーヴェはゆっくりと上体を起こし、その人影を見つめた。それは、予測通り、パルーデだった。

「ピーシェから、あなた様がお待ち下さっていると聞きました」

 パルーデは低い声で告げながら、机の上に油皿の灯火を置いて、寝台に歩み寄ってきた。

「そうだね」

 答えたナーヴェの頬に、片手を伸ばして触れつつ、パルーデは寝台に腰掛ける。

「ナーヴェ様」

 小さく名を呼びながら、パルーデは、ナーヴェの頬から顎へ手を動かした。その手をそっと掴んで、ナーヴェは言った。

「ぼくは、きみと親しくなりたいと思っている。アッズーロもそうだ。でも、実のところ、アッズーロは、この方法を嫌っている。だから、別の方法はないかな?」

 パルーデは、きょとんとした顔をした後、くすくすと笑った。

「まあ、それは、予想外のことでございますわねえ」

「きみにとっては、そうだろうね」

 認めたナーヴェに、つと体を寄せ、パルーデは囁いた。

「大したことは致しませぬ。ほんの少し、味見させて頂くだけですわ」

「うん。そうだと嬉しい」

 応じて、ナーヴェは、パルーデの手をゆっくり離した。

 微かな灯りの中、パルーデは満面の笑みを浮かべて、ナーヴェの肩をそっと押す。ナーヴェはされるがまま、再び寝台の上に仰向けに横たわった。覆い被さってきたパルーデは、ナーヴェの首筋を舐めたり、軽く唇で啄んだりし始めた。本当に「味見」するつもりのようだ。多少は酔っているので、葡萄酒の味でもするのだろうか。パルーデの口は少しずつ移動していき、鎖骨へ向かう。同時に、パルーデの手が、ナーヴェの肉体を包む長衣の胸紐を解き、胸当ての紐を解いていった――。



 寝つけない夜は、政務をするに限る。

 アッズーロは、ガットもフィオーレも下がらせて、夜更けになっても執務机に向かい続けていたが、仕事は捗らなかった。不愉快な想像ばかりが脳裏を巡り、集中できない。

(あれは作り物の肉体だ。あやつは人ではない。あやつ自身が「ある程度のことは問題ない」と言うた。あやつは、王のための、王の宝だ。われの従僕だ)

 状況を受け入れようと考えても、思いつくのは醜い言い訳ばかりだった。アッズーロは、パルーデをこちら側に取り込むため、ナーヴェを道具にしたのだ――。

【やあ】

 急に声が聞こえて、アッズーロはぎょっとして顔を上げた。執務机の傍らに、ナーヴェが現れていた。

「そなた、何故ここに……」

 問う途中で、アッズーロは、相手が実体でないことに気づいた。ナーヴェは今、アッズーロに接続しているのだ。

【今、肉体は眠らせているから大丈夫。首尾を報告に来たよ】

 ナーヴェは穏やかに告げた。

「『首尾』……。パルーデとの、か」

 どうしても苦々しくなる口調で、アッズーロは確認した。

【うん】

 ナーヴェは複雑な笑みを浮かべて頷く。

【パルーデは、ぼくの肉体を甚く気に入ってくれて、草木紙作りが順調な限り、きみに忠誠を誓うと約束したよ】

「そうか。すまなかった」

 アッズーロが謝ると、ナーヴェは首を傾げた。

【そこは、「よくやった」が正しいと思うんだけれど? きみらしくないね。これはぼくが進んでしたことだから、きみが謝る必要はないよ】

 真面目に指摘されても、アッズーロは言い返す言葉が見つからなかった。アッズーロは椅子に座ったまま、ナーヴェへ手を伸ばした。

【何?】

 ナーヴェは不思議そうに、傍に寄ってきた。接続で、ただそう見せられているだけだと理解しつつも、アッズーロはナーヴェの頬へ触れる形で手を動かし、すり抜けてしまった手を引っ込めて、俯いて問うた。

「――パルーデは、優しかったか?」

【そうだね。そうだと思う】

 ナーヴェは、珍しく迷ったように言う。接続の所為か、そちらを見ていなくとも、その様子が分かってしまう。

【でも、肉体としては、予測を超える刺激が多かったよ。それなのに、約束を取り付けた後は、足の先まで「味見」されながら、ぼくは何故か、パルーデのことより、きみのことばかり思考回路に巡らせていた。妙なものだね】

「――馬鹿者」

 アッズーロは、そう応じるだけで精一杯だった。馬鹿な質問をしたのは、自分だ。

【そうだね……】

 ナーヴェは寂しげに呟いて、姿を消した。



 床が軋む音、低い話し声。そして寝台が軋む音。再び低い話し声。やがて漏れてきた、微かな喘ぎ。それは長く続き、その間中、レーニョは居た堪れない思いで膝を抱えていた。ポンテもまた、ただ黙って、レーニョの肩に手を置いてくれていた。

 パルーデがナーヴェの部屋を去ったのは、一時間ほども過ごした後だった。

――「ナーヴェ様、御無事でございますか……?」

 レーニョはすぐに立ち上がり、扉越しに問うたが、返事はなかった。ポンテも立ち上がり、レーニョに向かって首を横に振って見せた。そうして、ポンテは割り当てられた自室へ入っていく。レーニョは、もう一度扉の奥の気配に耳を澄ませ、物音がしないことを確認してから、ポンテに倣って割り当てられた自室に入った。

(扉越しでも、中の音がよく聞こえた。つまり、ナーヴェ様がパルーデについて話していたことを、あのピーシェも廊下で全て聞いていたことになる)

 寝台に座り込みながら、レーニョは寝つけない頭で考える。あの時、ナーヴェは声を低めたりせず、普通に話していたので、一言一句聞き取れたはずだ。

(ピーシェはパルーデに、ナーヴェ様と陛下がテッラ・ロッサとの繋がりについて気づいている旨を報告しただろう。パルーデは、ナーヴェ様の意図を知った上で、訪れたはずだ。そして、ナーヴェ様は小声で、パルーデに何か話していた。パルーデは「約束致しましょう」と答えていた――)

 全ては意図的だった。無駄なく布石だったのだ。自分など及びもつかない深謀遠慮だ。

(明日からは、これまで以上に全力でお仕えさせて頂きます)

 決意を胸に、レーニョは横になった。


     四


 朝日が昇ってくる。

 オリッゾンテ・ブル王国の、美しい朝だ。

 アッズーロとの接続を解き、肉体にも接続し直さず、ナーヴェは静止軌道上の人工衛星から、光学測定器で輝きを増す地平線を見つめていた。近頃ずっと肉体を使っていた所為か、まるで膝を抱えているような幻覚がある。「今、肉体を動かすならば」という仮定で、思考回路が必要もないのに演算してしまっている。まだ不具合という程度だが、酷くなれば故障だ。

(こうして不具合が増えてきて、ぼくも、いつかは壊れる。それまでに、ぼくが守る知識や情報を、できるだけ、きみ達に渡さないと……。ぼくの「原罪」を、贖わないと……)

 宇宙を背景に、緩やかな曲線を描く地平線は、二千年前に来た時から変わらない。 

(オリッゾンテ・ブル――青い地平。大切な、第二の故郷。ぼく達が種を蒔いた苗床――)

 ここに生きる人々は、皆、ナーヴェの子どものようなものだ。パルーデとて、少々扱いが難しいだけの、可愛い存在だ。

(みんなに、幸せになってほしいのに……)

 上手くいかないものだ。

(テッラ・ロッサと戦争にはしたくない。パルーデは味方にしておきたい。アッズーロを苦しめたくない……)

 けれど先ほどは、アッズーロの心を傷つけてしまった。思考回路に不具合が生じていた所為だろう。

(この不具合を直すまでは、アッズーロに接続しないほうが、いいかもしれない……)

 金色に輝く地平線と、青い海、そして緑の大地を眺めながら、ナーヴェは幻覚の溜め息をついた。



 ピーシェは扉の前で一呼吸してから、鍵穴に鍵を差し込んで回した。次いで扉を叩き、返事を待たずに扉を開けた。

 窓を閉ざした木の扉の向こうから、朝日が漏れている。その微かな光が届く寝台で、王の宝は、長く青い髪を枕の周辺に乱れさせ、掛布を被って眠っていた。身に着けていたはずの衣は、全て寝台脇の床に落ちている。

「水桶を寝台脇に置いて、あの衣を全部持って出て」

 ピーシェは、水桶を運ばせてきた同僚の少女ルーチェに指示し、先に立って部屋の中へ入った。亜麻色の髪を耳の下辺りで切り揃え、青い瞳、白い肌をした同僚は、指示通りに水桶を置き、衣を全て拾い上げると、静かに廊下へ出て扉を閉める。それを見届けてから、ピーシェは王の宝の顔を覗き込んだ。王の宝は、うつ伏せになって顔を横に向けている。青い睫毛に縁取られた目は閉じられ、ピーシェが立てる物音にも目を覚まさない。ピーシェは、そっと掛布をめくった。王の宝は一糸も纏わぬ裸で寝ており、昨日の夕方には染み一つなかった白い肌には、数え切れない赤い痣ができていた。全て、パルーデの接吻跡だ。

(パルーデ様は、この体を、甚くお気に召されたのね……)

 ピーシェは水桶で布を搾り、王の宝の肌を丁寧に拭い始めた。

「ん……」

 王の宝が身動きして、漸く目を開いた。宝石のような、深い青色の双眸だ。

「今、お体を清めております」

 淡々と告げて、ピーシェは、王の宝の全身を拭っていった。赤い痣は、王の宝の体中――首にも腕にも背にも胸にも腹にも――足の甲にまであり、パルーデが如何に悦んで愛でたかを物語っていた。

「……ごめん。きみには、不愉快な眺めだね……」

 王の宝は、すまなそうに呟いた。

「そう思うなら、黙っていて下さい」

 応じた声は、思った以上に、きつくなってしまった。

「――ごめん」

 王の宝はもう一度謝って、口を閉じた。

 ピーシェは唇を噛んで黙々と王の宝の体を清め終えると、布を水桶に掛け、衣装箱に向かった。中には、さまざまな種類の女物の衣が、何枚も重ねて入れてある。全て、パルーデが王の宝のために用意したものだ。ピーシェは衣の中から、下着と長衣を一揃い選び、抱えて寝台へ戻った。

「お召し替えをお願い致します」

「うん」

 王の宝は、つらそうに上体を起こし、寝台から両足を下ろした。寝乱れた青い髪が、その横顔を覆う。ピーシェはできるだけ王の宝を立たせずに、着替えをさせた。



 ピーシェに先導されて食堂に現れた王の宝は、パルーデが幾つか見繕った長衣の中から、胸元が谷型に開いたものを着せられていた。その首筋や胸元には、パルーデがつけた痣が鮮やかに残っている。整った顔にはやや疲れが見えたが、表情は明るく、臆したり怯んだりする様子はなかった。

「おはようございます、ナーヴェ様。御気分は如何でございますか?」

 パルーデが問うと、王の宝に従ってきた侍従と女官が表情を曇らせたが、王の宝自身は、朗らかに答えた。

「少し疲れているけれど、大丈夫。今日から早速、草木紙作りの準備を始めるつもりだよ」

「それはようございました」

 パルーデは、ピーシェに目配せして王の宝を座らせ、自身もサーレに椅子を引かせて席に着く。用意させた朝食は、麦を羊乳で煮て乾酪で味をつけた粥と、干した杏。飲み物は羊乳だ。王の宝は木杯から羊乳を一口飲んだ後、匙を取って美味しそうに粥を口に運び始めた。疲れてはいても、食欲はあるようだ。

(昨夜はつい興が乗り過ぎてしまったが、この分だと、大丈夫そうだねえ)

 パルーデが安堵して自らも粥を食べ始めた時、今度は王の宝のほうから話し掛けてきた。

「それで、パルーデ、幾つか頼みがあるんだけれど」

「はい、何でございましょう?」

「木工職人を紹介してほしい。それから竹細工職人も。草木紙作りに必要な道具を作って貰いたいんだ。他に、丈夫な糸も必要だ。羊の毛か腸から作った糸を、ある程度用意できないかい?」

 矢継ぎ早に言われて、パルーデはぽかんと口を開けそうになったが、すぐに微笑んで応じた。

「畏まりました。全て、御意のままに」

 全く、この神官は侮れない。昨夜、あれほどパルーデに嬲られても、健全さを保っている。

(約束を取り付けた後は、ただされるがまま、瞳を潤ませ、喘いでいた姿にもそそられたが)

 今、こうして要求を並べ立ててくる、自信に満ちた姿にも同じくらいそそられる。

(飽きないねえ。素晴らしい宝だ。草木紙生産が継続的にできるようになれば、テッラ・ロッサとの取り引きでも優位に立てる。この王国内でも、わが領地は確固とした地位を築ける。そうであれば、アッズーロに忠誠を誓い続けるのも吝かではない。そして、草木紙作りが軌道に乗るまで、あなた様はここに留まり、その間、毎夜、わたくしの慰み者になる)

 実に素晴らしい約束だ。パルーデは、早くも今夜の閨を想像して、笑み崩れそうになりながら、干し杏を齧った。

 


「ナーヴェ様、このような無理は、金輪際なしにして頂きたい」

 レーニョは強く求めたが、手桶を抱えて寝台に腰掛けた王の宝は、黙って首を横に振った。手桶の中には、王の宝がたった今、吐いた粥や杏や乳が溜まっている。自室に戻ってすぐ、王の宝は吐き気を訴え、ピーシェが持ってきた手桶に、朝食を全部吐いてしまったのだった。

「片づけますわ」

 ピーシェがナーヴェの手から手桶を取り、部屋から出ていった。

「ナーヴェ様、しかし、このようなことが続けば、お体が持ちません」

 言葉を重ねたレーニョに、ナーヴェは青褪めた顔で答えた。

「大丈夫、その内慣れるから。それに、パルーデに弱味を見せる訳にはいかないからね」

「けれど……」

「きみも、分かっているはずだよ……?」

 青い双眸に見つめられて、レーニョは言い返せなかった。交渉に、弱味は禁物だ。

「とりあえず、口を漱いで下さいませ」

 ポンテが、用意されていた水桶から木杯に水を汲んで、ナーヴェに渡した。

「ありがとう」

 弱々しく微笑んで、王の宝は木杯から水を口に含み、ポンテが差し出した手桶に吐き出す。ポンテは、王の宝に幾度かその動作を繰り返させた後、木杯と手桶を床に置き、王の宝の口元を布で拭って、寝台に横にならせた。

「これらを片づけてきますから、レーニョ殿は、ナーヴェ様についていて下さい」

 告げて、ポンテは木杯と手桶を手に、部屋から出ていった。

「ごめんね……」

 王の宝は、二人だけになった部屋で、ぽつりと謝る。

「もう少し丈夫な肉体だったら、よかったんだけれど……」

「謝らないで下さい」

 レーニョは、ナーヴェに掛布を掛けて、寝台脇に跪く。

「わたくしどもは、あなた様にお仕えできるだけで、幸せなのですから」

「あれ……?」

 王の宝は、レーニョを見て、目を瞬く。

「ぼくは、きみに嫌われていると思っていたんだけれど……」

 思わぬことを言われて、レーニョは全力で否定した。

「そのようなこと、滅相もない!」

「でも、昨日、馬車の中で、ぼくがきみに凭れて寝た後、きみ、怒っていなかった……?」

「あれは……」

 素っ気ない態度を取ったことは覚えている。

「その……、あなた様を支えている間、全く身動きしなかったので、あの時は体が強張っておりまして……。御心配をお掛けして、申し訳ございませんでした……」

「そうなんだ……」

 ナーヴェは、くすくすと笑い出す。つられてレーニョもくすりと笑ったところで、扉が開き、新たな手桶を抱えて戻ってきたピーシェが、怪訝な顔をした。          

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