王と宝

@hiromi-tomo

第1話 出会い

 ナーヴェ・デッラ・スペランツァ――希望の船。

 出会いから一年と二ヶ月を経て初めて明かされた宝の正式名は、相応し過ぎて哀しかった。

「ナーヴェ・デッラ・スペランツァ、わが最愛よ」

 若き王は、知ったばかりの正式名を呼んで、小柄な宝の青い前髪を掻き遣り、白い額に口付ける。

「わが妃は、生涯そなた一人だ。『それは駄目だ』なぞと、この後に及んで言うてくれるなよ」

 宝は、泣き濡れた顔を王の胸板に押し付け、細い両腕を動かして縋り付いてきた。

「――ぼくは壊れて悪い夢を見た。きみの隣で、人として生きる夢。人ではないぼくが、見てはいけない夢。持ってはいけない望み。でも、望みはもう一つある。きみを失いたくない。きみ達を――ぼくの子どもみたいなみんなを、絶対に失いたくない。だから」


     * * *


     一


 初めて入る場所は、ただただ白かった。王にしか、入ることが許されぬ神殿の中。そこは、まるで外界とは完全に隔絶されたかのような、異質な空間だった。仄かに明るいが、どこから光が差しているかも分からない。

「神殿と聞いていたが、装飾らしい装飾もなく、神の像もない、か」

 独り言ちて、王太子たる青年は、一瞬止めた歩みを進める。この最奥に、宝があるという。その宝を手にすることが、王となる条件として定められている。

(馬鹿馬鹿しいが、権威は大切だからな)

 青年は、高い天井の下、幅広い通路を、奥へと進んでいった。途中、幾つかある扉は、全て開かれている。奥へと、自分を導くようだ。

(ここには、王以外入れんはずだが、特に汚れもなく、傷みも見えん……)

 不思議な場所だ。やがて、通路ではない広間のような場所に出た。やや薄暗いその中央に、小柄な人影が立っている。

(何だ、やはり人がいるのか)

 神官か、巫女か。人影は長い髪を垂らし、この神殿と同じ、ただただ白い長衣を纏っている。

「われは、王太子アッズーロ。王となるため、王の宝を得に、ここへ来た。宝のところへ、案内せよ」

 青年が命じると、相手は小首を傾げるような仕草をし、答えた。

【宝は、ここにある。ぼくが、それだ。ぼくに認められれば、きみは王となる】

 声変わり前の少年のような声だ。

「何をふざけたことを――」

 声を荒げようとしたアッズーロは、ふと足を止めた。まだ離れたところに立つ相手の、華奢な肩を越えて垂れる癖のない髪。黒髪とばかり思っていたその髪は、よく見れば、深い青色をしている。人にはあり得ない色だ。

(何かで染めているのか?)

 神官や巫女ならば、奇抜な身形をする風習があってもおかしくはない。しかし――。

【ふざけてはいない。ぼくは、大真面目だよ。というよりは、『ふざける』という機能が、今のところ、ぼくにはないんだ】

 告げた相手の姿は、一瞬にして、アッズーロのすぐ目の前に来ていた。

「おまえ、一体――」

【きみ達の言う「王の宝」だよ。この地に住む人々を守り助け、王を介して導くことが、ぼくに残された存在意義だ。名は、ナーヴェという】

 整った優しげな顔に微笑みを浮かべて、相手は名乗った。アッズーロは溜め息をついた。認めざるを得ないようだ。けれど、確証が欲しい。

「おまえが、王の宝というなら、宝にしかできんことをして見せよ」

 命じると、ナーヴェと名乗った相手は、少し考える顔をしてから、頷いた。

【分かった。見ていて】

 そうして、ナーヴェはおもむろに両腕を広げた。途端、ただ白く薄暗かった空間に、明るい光に満ちた風景が現れた。

「これは――」

【ここから見える、一番遠くの景色。もっと拡大しようか?】

 ナーヴェは、アッズーロの返事を待たず、何かしたらしい。急に風景が迫ってきて、細部まで明らかとなった。見覚えがある。馬で遠乗りをする時よく訪れる湖の畔だ。この神殿と並んで立つ王城から、馬に乗って半時ほども掛かる先にある場所が、すぐ間近に見えている。

「よかろう。そなたを宝として認める」

 アッズーロは素直に言い、改めて問うた。

「そなたは、われを王と認めるか」

【認めるよ】

 ナーヴェは、あっさりと頷く。

【ぼくはたった今から、きみの従僕だ。きみは王の直系で、その上、きみの父上のチェーロからは、きみが王たる資質を持っていると聞いているから、資格は充分だよ】

 父からの評価は意外だったが、それ以上に、ナーヴェと父の間にそういう会話のあったことが意外だった。

「そなたが父上といたところは見たことがなかったが、父上はよくここへ話しに来ていたのか」

【ううん】

 王の宝は首を横に振る。

【ぼくは、結構いつもチェーロの傍にいたよ。でも、ぼくは王以外の誰からも見えないから、誰も気づかなかっただけ。きみのことも、傍から見ていたよ】

「『誰からも見えない』……?」

 聞き捨てならぬ言葉だ。

【うん。ぼくのこの姿は、実体ではないからね。基本、王以外には見えないようになっているんだ。まあ、契約上必要だから、王になる直前の人にも、さっきみたいに見せる訳だけれど】

「『実体ではない』だと……」

 この相手と話していると、驚くばかりになってしまう。さすがは王の宝といったところか。だが、今は時が惜しい。神殿の外では、自分に従った者達が、じりじりとして待っているはずだ。王が宝に認められ、宝を得ることができれば、外観も白いこの神殿が、高貴なる青色に輝く。それが、王位継承の証だ。父が即位した時、自分はまだ物心がついていなかったので実際目にしたことはないが、侍従や大臣達の話を聞いても、書物で調べても、代々そうであったというから、間違いはないだろう。

「われがこのまま外に出れば、この神殿は歴代の王が即位した時同様、青く輝くのだな?」

 確認すると、ナーヴェは明るい笑みを浮かべた。

【もう、輝いているよ。ぼくが、さっき『認める』と言った瞬間からね。ぼくの体の全てを久し振りに起動――もとい、目覚めさせたから、不具合を走査して、光子と電荷と極小機械が全身を巡っている】

「そなたの話は、何を言うておるか、半ば分からんぞ? わざとか?」

 文句を言うと、人の形をした宝は真面目に謝った。

【ごめん。ぼくはまだ、きみ達に合わせた言葉や振る舞いを、学んでいる途中だから。分からないことは、また訊いてほしい】

「分かった。とりあえず今は、われについて参れ。そして、臣下どもの前に、われと並んで、その姿を見せよ。権威は多いほうがよい。特に、われのように、簒奪と誹られるような即位の場合はな」

【今回の即位は、『簒奪』だと思っているのかい?】

「そう誹る輩がいても、仕方ないとは思うておる」

 やり方が性急であったことは自覚している。だが、隣国からの不穏な圧力を考えれば、このやり方が最善だった。

【そう】

 青い髪の宝は、興味深そうな表情を浮かべる。

【きみは、チェーロが思っている以上に、王の器なのかもしれないね】

 アッズーロを見つめる澄んだ双眸は、その髪と同じ、深い青色をしていた。



 開けておいた扉を、ナーヴェは、アッズーロが通り抜けた後から順に閉じていく。同時に、人を模した自らの姿が青年王に同行しているよう見せかける。臣下達にまで姿を見せろという注文は少々厄介だが、本体のすぐ前での話なので、外部装甲に精緻な陰影をつけた映像を映し出せば、それらしく見えるだろう。

(そこから先も姿を見せろと言われたら、無理だと言って断ろう。王の宝は万能だと思われても困る。道具は使いようと使い時だと、早めに覚えて貰わないとね)

 通路を大股で歩いていくアッズーロは今年十八歳。父親譲りの癖毛を嫌ってか、耳に僅かに掛かる程度に短く切った髪は、母親譲りの暗褐色。歴代の王と同じ青い双眸は、その名に相応しく、雲一つない青空の色。白い肌はやや日焼けし、屋外で過ごす時間があることを示している。豪奢な飾り付きの長衣を纏った均整の取れた体は、若々しく引き締まっていて、まだ身長が伸びそうだ。三十六歳で即位したチェーロより、長い付き合いになるだろう。

(せっかくだから、できるだけいい演出をしようか)

 外は、快晴だった。その初春の青空の下、正装をした諸侯や大臣や将軍達が、白い階段を備え付けられた入り口の下に集まっている。彼らは入り口を出たアッズーロを、拍手で迎えた。その傍らへ、ナーヴェは自らの姿を投影する。吹き渡る風を観測し、それに合わせて長い髪と衣の裾を靡かせ、アッズーロの肩ほどの背丈である姿を、神々しく優美に演出した。

 入り口前に仁王立ちしたアッズーロは、その演出に満足げに頷くと、階段下の臣下達へ向かって両手を広げ、宣した。

「われは、今ここに、万能の王の宝ナーヴェを得た。今より、われがこの国の王として、統治を始める。皆、われに従え。さすれば、この国の弥栄を見ることができよう。何故ならば、われは歴代のどの王よりも、王の宝に認められた王だからだ」

 よく通る声が響き渡っていく中、ナーヴェは外部装甲に投影した自らの姿に膝を折らせ、アッズーロへ向かって優雅に跪かせた。計算通り、集った諸侯、大臣、将軍達も、ナーヴェの姿に倣って膝を折っていく。波のように広がったその動きに、アッズーロはまた一つ、満足げに頷いた。

「――さて、このまま王城までついて来て貰うぞ」

 小声でなされた要求に、ナーヴェはそもそもアッズーロにだけ聞こえている声で答えた。

【それは無理だよ。ぼくはそういうふうにはできていない。この声も、姿も、王の血筋の人にだけ認識されるようになっているんだ】

「万能の王の宝が、けち臭いことを申すな。何とかせよ」

 小声のまま、臣下達も睥睨したまま、王はまた文句を言った。

【……万能だと、自分で言った覚えはないんだけれど】

 王にしか聞こえない声で愚痴を零してから、ナーヴェは提案する。

【とにかく今は、この姿を他の人達に見せたままついて行くことはできないから、それらしく消させて貰うよ。その上で、どうやって臣下達にあちこちで姿を見せられるようにするか検討するよ。王城の要所要所に、それ用の装置を設置するのが一番いいと思うけれど……】

「そなた、肉体はないのか?」

 単刀直入な問いに、ナーヴェは虚を突かれた。そんなことを訊かれたのは、初めてだ。船首を尖塔の如く空に向けて聳え立ち、今は神殿と呼ばれている巨大な本体はあるが、肉体などというものは持ったことがない。

【……ないけれど? ぼくは、人ではないから】

「ならば作れ。王の宝ならば、その程度のこと、造作もなかろう」

 率直な命令に暫し絶句してから、ナーヴェは、ふっと笑った。笑うしかない。

【分かったよ。何とかしてみる】

 長い間動かしていなかった培養槽と、さまざまに使える極小機械を使えば、何とかなるだろう。

(肉体、か……。楽しみかもしれない)

 ナーヴェは、微笑んだまま、臣下達が全員顔を上げた時を見計らって、投影していた姿を青い光の粒に変えて散らせる。アッズーロの後光さながら青い光を舞い上がるように動かしてから、そのまま本体の輝きに溶け込ませ――、余韻たっぷりに、外部装甲に現れていた全ての光を消した。

 おお、と起こったどよめきの中、アッズーロは白い階段を下りていく。王として歩み始めたアッズーロとともに、ナーヴェも、行く手の王城を見据えた。



 王城の大広間で催された即位の宴は、肴こそ豪華だったが、一晩で終えられた。そうして、集まった諸侯、大臣、将軍達の誰よりも早く宴席から姿を消した新王は、開いた窓から初春の月明かりが差し込む執務室にいる。一人だ。いつも傍にいる侍従には、先刻、休めと命じて下がらせていた。

【眠らないのかい?】

 ナーヴェは、執務机の傍らに姿を見せて問う。

【疲れているだろう?】

「休んでいる暇なぞない」

 執務机に着いたアッズーロは、油皿の灯心に細く点した灯りで、羊皮紙に書かれた文を読みながら答える。国内の各地から届けられた報告書だ。

「父上を、病に追い込んでまでして手にした王座だ。急いだ分だけのことはせんとな」

【そんなことを、簡単に口にしていいの?】

 ナーヴェが訝しむと、アッズーロは、ふんと鼻を鳴らして言った。

「どうせ、そなたは知っておるのだろう? ずっと父上の傍にいたらしいからな。解せんのは、知っていて何故止めなかったかという点だ」

【もう一度言うけれど、ぼくは、万能ではないんだよ】

 ナーヴェは、よい機会を得たので説明する。

【ぼくがきみから見えるのは、王家の血筋に受け継がれる極小機械が、ぼくを受信するからだ。そうして、ぼくは王と接続して、王が見ているものを見、王が聞いていることを聞くことができる。でも、だからこそ、王が見ていないことは見ることができないし、聞いていないことは聞くことができない。きみがチェーロに鉛毒を盛っていたことは、ぼくも途中までは気づかなかった。ただ、チェーロの体調が日増しに悪くなるから、何かあると思って、接続を利用して検査した。それで、鉛毒に気づいたんだ】

「ならば、その時点で父上に忠告すればよかったろう」

 他人事のように、アッズーロは呟いた。

【したよ】

 ナーヴェは淡々と告げる。

【でも、何もするなと言われた。チェーロは、とっくに気づいていたんだ。きみが自分に毒を盛っている、とね。見ていなくても、聞いていなくても、気づいていた。その上で、受け入れたんだ。病に因る、自分の退位をね。彼の本音を言えば、王なんていうつらい役目は、できる限り自分が背負ってから、きみに引き継ぎたかったようだけれど】

 初めて、羊皮紙をめくるアッズーロの手が止まった。だが、それもほんの一瞬。

「結局のところ受け入れたのならば、即ち、父上の望んだ通りになったのだ」

 低く言い放って、アッズーロは再び羊皮紙に目を通し始めた。

【そうだね】

 素直に同意してから、ナーヴェは、王に注意喚起した。

【足元に鼠がいるよ】

「何!」

 慌てて椅子を引き、アッズーロは足元を見る。その頭があった少し上辺りへ、風切り音とともに窓から矢が飛び込んできた。後ろの石壁に当たって、床の毛織物の上へ落ちた矢に、青年王は不機嫌そうに眉を寄せる。肝を冷やした様子はない。

【「鼠」というのは比喩表現で、「足元」も王城の庭園の隅なんだけれど。矢よりも、鼠が怖いのかい?】

 不思議な思いで尋ねたナーヴェに、青年王は、執務机の陰に身を屈めたまま、しかめっ面を向けてきた。

「そなた、わざと『鼠』と申したな」

【うん。きみは、母上のグランディナーレが飼っていた鼠に指を噛まれて以来、あの小動物を苦手としているんだってね。チェーロから聞いているよ】

 ナーヴェは正直に明かした。王妃だったグランディナーレは、アッズーロが十二歳の時に風邪をこじらせた肺炎で亡くなっている。アッズーロが父親のチェーロに対して非情な手段に出たのも、その辺りのことが関係しているとナーヴェは睨んでいた。

「――それで、刺客はまだこちらを狙っておるのか?」

 溜め息交じりに確認されて、ナーヴェは首を軽く横に振って見せた。

【ううん。少なくとも、ぼくが本体――神殿から観測できる範囲内では、一目散に逃げているよ。腕はよさそうなのに最初から狙いを外していたから、殺意が感じられなかった。単なる脅しか嫌がらせかもしれないね】

「さもあろう」

 薄く笑って、青年王は椅子に座り直す。

「われの命を狙う気なら、毒にも矢にも、もっと本気が見えるはずだ」

 この青年は少年の頃から毒に詳しい。父チェーロに盛り続けていた鉛毒も、決して命を奪わず体調を崩させるのみの的確な量だった。また最近は、暗殺を警戒して常に銀食器を使っている。それゆえ、軽食や晩餐に混じっていた毒入りの品を全て看破して、今のところ事無きを得ていた。

「恐らくは、テッラ・ロッサの息の掛かった者が、この国の王権を揺るがせにするためにしておるのだ。奴らの狙いは混乱を生じさせることだ。われの生死なぞ、二の次であろう」

 隣国の名を挙げた青年王の物言いに、ナーヴェは関心を覚えて、更に尋ねた。

【きみは、チェーロに鉛毒まで盛って王位を手にして、暗殺に対しても一応の警戒をしているのに、死によって、全てを失うことを恐れていないように見える。何故だい?】

「われが死ねば、ヴァッレが王となる」

 青年王は再び報告書を手に取りながら答える。現在、王位継承権第一位のヴァッレは、先々代王マーレの一人娘だ。マーレは、アッズーロの父チェーロの姉である。彼女は、嫡子のヴァッレが生まれる前に弟に譲位したので、そのチェーロの嫡子たるアッズーロが王太子となっていたのだった。

「あやつが王となったほうが、国はよく治まるやもしれん」

【それなら何故、きみは今すぐヴァッレに譲位しないんだい?】

「あやつが、責任を果たせと怒るからな。早々に暗殺でもされてみよ、あやつは泣いて、わが死に顔を張り飛ばすであろう」

 アッズーロは、くすくすと笑った。同い年の従姉とは気の置けない仲らしい。

「それに有能なあやつにも不得手はある。わが父が如何に無能な王であっても、われのように退位を早めさせる手を打つことはせなんだ。テッラ・ロッサに寝返らんとする諸侯を処刑し、その領地を没収することについても、躊躇するであろう」

(処刑という事態だけは避けられるように、ぼくがありとあらゆる手を打つけれど)

 今は思考回路で呟くに留め、ナーヴェは微笑んだ。

【つまり、きみが彼女に譲位しない理由は、チェーロがきみに譲位しなかった理由と同じで、思いやりという訳だね】

 指摘すると、アッズーロは些か不機嫌な口調で話題を変えてきた。

「そのようなことより、そなたの肉体は、いつできるのだ?」

【とりあえず、作る算段はできたよ。ただ、材料が問題だね。本体を動かす燃料には、いつも捧げて貰っている供物を使っているんだけれど、人の肉体を作るとなると、いつもの供物だけでは足りないんだよ】

「何が不足だ?」

【全般的に。ぼくの外見年齢と近い遺体でもあれば一番なんだけれど、そんな肉体は、見るたび寝覚めが悪いだろうから……、そうだね、きみが食べる二週間分の食料があれば、いけるかな。それから、この青色の髪を実際に作るなら、青色の花や実をつける植物と、海藻や貝や動物の肝臓が必要だね】

「分かった。早急に用意させよう」

 アッズーロは報告書を読みながら、即答した。ナーヴェが肉体を作るのは、至極当然といった口振りだ。

【どうして、そんなに肉体に拘るんだい?】

「そなたが、王の宝として存在感を示すためには、常に姿を見せておく必要があるからな。それに……、そうだな」

 不意に言い淀んで、青年王は羊皮紙から目を上げ、ナーヴェを見つめる。

「人ではないそなたが、人の生活をした時に何が見えるのか、興味がある。われと同じものではなく、われとは異なるものをそなた自身が見て、われを助けよ」

【成るほどね。分かったよ】

 ナーヴェは、新王の為人を好ましく思いながら頷いた。


     二


 二週間後、ナーヴェの肉体は完成した。

【今日、培養槽から出すけれど、その後はどうしよう?】

 明け方に問うと、寝台から起き上がったアッズーロは、髪を掻き上げながら、傍に控えた五歳年上の女官に命じた。

「フィオーレ、すぐにレーニョを呼べ」

「畏まりました」

 栗毛を結った頭を深々と下げ、白い肌、栗色の瞳が美しい王付き女官フィオーレは、すぐに部屋の外へ出ていった。

【どうする気だい?】

 改めてナーヴェが問うと、アッズーロはにやりと笑って言った。

「そなたが生まれるところを見るのも一興だ。そうある機会ではなかろうからな」

 若者らしい好奇心が理由のようだ。

【確かに、燃料や材料を無駄に消費したくはないから、そう何度もは、御免被りたいね】

 ナーヴェが苦笑して答えた時、フィオーレに伴われて、侍従のレーニョが入ってきた。黒髪、黒い瞳、浅黒い肌をした、すらりとした青年だ。

「おはようございます、陛下」

 一礼したレーニョに、アッズーロは横柄に告げた。

「午前の謁見開始を一時間遅らせよ。別件が入った」

「畏まりました。では、カテーナ・ディ・モンターニェ侯との謁見を、昼食時に動かします。あちらも、広間での短時間の謁見より、昼食をともにする謁見のほうが喜ばしいはず。不満は仰らないでしょう。他の方々には、少しずつ時間を短くして頂きます」

「そうだな。そのように致せ」

「早速、侯に使者を立てます」

 レーニョは再び一礼して、王の寝室を辞した。それを見送ってから、アッズーロはナーヴェに目を向けた。

「可能ならば、そなたの肉体を今日から謁見や昼食に同席させよ。まずはその場にいさせるだけでよい」

【肉体の調子に拠るけれど、上手く動くようなら、そうするよ】

 ナーヴェは了承した。



 神殿へ入るのは即位の時以来だった。内部がただただ白いのは変わらないが、今回は初めから傍らにナーヴェの姿がある。扉も、最初から開いているのではなく、ナーヴェが少し手を動かすと、触れてもいないのに目の前で静かに開いていく。全く不思議な場所だ。そうしてまた幾つもの扉を通過していくと、以前の広間とは別の場所へ着いた。

【ここが、培養槽のある実験室。ここで、いろいろな実験を行い、人々に必要なものを培養したんだ】

 ナーヴェは、どこか懐かしそうに説明すると、アッズーロを、部屋の奥にある巨大な樽のところへ導いた。それは、硝子のようなものでできた透明な樽で、満たされた液体の中に、青い髪を揺らめかせて、ナーヴェの肉体が沈んでいた。その白く細い裸体を眺め、アッズーロは意外な思いで呟いた。

「そなた、女だったのか」

 歳の頃は十三、四に見えるのに、長衣に胸の膨らみが見えなかったので、男だとばかり思っていた。

【まあ、ぼくの名のナーヴェは、そもそも船という意味で、船は男女どちらかと問われれば、女だからね。基本設定は女なんだ。但し、ぼくは人ではないから、外見的には、無性に近く造形してあるんだよ】

 ナーヴェは説明すると、透明な樽に手を触れる仕草を見せる。

【今から、ぼくの思考回路――もとい、意識を、この肉体に接続するから、暫く待っていて】

「あまり長くは待たせるなよ」

【努力するよ】

 応じたナーヴェの姿が消えた。直後、透明な樽の中を満たしていた液体の水位が下がっていき、最後には、樽の底に横たわったナーヴェの肉体のみが残る。樽に穴でも開けたのだろうか。

「大丈夫なのか?」

 ぐったりとした姿に不安を感じてアッズーロは問うたが、返事はなく、代わりに硝子のような樽の側面が、水位同様に下がり始めた。まるで、床に吸い込まれるように樽の側面は消えてしまったが、それでも、白い肉体はうつ伏せになったまま、ぴくりとも動かない。

「おい」

 声を掛けても、反応がない。アッズーロは顔をしかめて、仕方なく屈み、ナーヴェの肉体へ手を伸ばした。濡れた髪が掛かる、ほんのりと温かい肩を揺すってみる。

「おい、大丈夫なのかと訊いている」

 それでも、肉体はぐったりとしたままだ。呼吸している様子もない。

(これは、まずいのではないか……?)

 産まれた直後の赤子が呼吸をしない場合、尻を叩いて泣かせ、呼吸をさせると聞いた覚えがある。そうしなければ、そのまま死んでしまうというのだ。

(こやつも、叩いたほうがよいのか……?)

 赤子ではないので、背中で構わないだろうと、アッズーロは、青い髪が張り付いた背中を平手で叩いた。一回……、二回――。三回目に手を振り上げた時、ナーヴェの肉体が身動きした。

「げほっ、ごほっ」

 激しく咳込んで、体を曲げる。

「げほっ、はあ」

 大きく息を吸って、ナーヴェは腕を動かした。弱々しい動きで上体を支えて起こし、次いで、頭を上げる。青い髪に縁取られた端正な顔が、アッズーロに向けられた。澄んだ青い双眸が、眩しげに、アッズーロを見つめる。

「やあ。何とか、上手くいったよ……」

 微笑んで告げた口調が、まだ苦しげだ。顔色も、あまりよくない。相当な無理をさせたのかもしれないと、今さらながらに感じつつ、アッズーロは長衣の上に羽織っていた裾長の上着を脱いで、ナーヴェの肉体の上へ掛けた。ナーヴェは、アッズーロを見つめたまま、きょとんとした表情になる。

「いきなり風邪を引かれては困るからな」

 アッズーロは言って、樽の中へ踏み込み、ナーヴェの肉体を上着で適当に包んで抱き上げた。

「重くないかい?」

 心配そうに訊いてくるナーヴェの吐息が、頬に当たってくすぐったい。接続とやらで頭に直接聞こえていた声より、優しい響きの声だ。

「王とは、それなりに体を鍛えているものだ。それに、そなたの体は軽い。案ずるな」

 答えて、アッズーロはナーヴェを抱えたまま、来た通路を戻っていった。

 開いたままになっていた各扉は、アッズーロが通過したすぐ後ろで、順に閉じていく。

「そなた、肉体を得ても、そういう不思議なことができるのだな」

 歩きながら確認すると、腕の中で宝は頷いた。

「ぼくの思考回路はあくまで、この本体――もとい、神殿にあって、それをこの肉体に接続しているだけだからね」

「成るほどな。そなたの絡繰りが、何となくだが、分かってきたぞ」

 アッズーロがやや勝ち誇って見せると、ナーヴェはふわりと微笑んだ。

「それは、とても、嬉しいよ」

 神殿前に立っていた衛兵達は、王が何者かを抱えて出てきたので、驚いて集まってきたが、王の宝であるとアッズーロが一喝すると、中の一人が申し出た。

「では、僭越ながら、わたくしが王城までお運び致します」

 アッズーロは一瞬その申し出を検討したが、すぐに首を横に振った。

「ならん。王の宝に、みだりに触れさせる訳にはいかん」

「はっ。出過ぎたことを申しました」

 萎縮してしまった衛兵を残し、アッズーロは神殿入り口から続く白い階段を下りて、王城へ入った。

 王城の近衛兵達も似たような反応を示したが、アッズーロは同じ対応をして城内へ入り、出迎えたレーニョに命じた。

「フィオーレに、男物の白い長衣と筒袴、それから――女物の下袴を幾つか、われの寝室に用意させよ。王の宝のための衣だ」

「畏まりました」

 レーニョは、上着に包まれたナーヴェをちらりと見てから一礼して、急ぎ足で立ち去った。即位の際、一度ナーヴェの姿を臣下達に見せたことが幸いしている。皆、青い髪の人、即ち王の宝、と認識できている。

 そのまま寝室までナーヴェを運んだアッズーロは、自らの寝台に宝を座らせた。

「まずは着替えよ。身嗜みを整え、謁見に同席できるようにせよ」

「――努力するよ」

 答えたナーヴェは、まだ顔色が悪い。

「――先に、何か食べたほうがよさそうか?」

「何か飲んだほうがいいとは思う。でも、固形物は……まだ無理そうだ」

 濡れたままの髪をした宝は、やや俯いて言い、苦笑を浮かべる。

「人の肉体というものは、いろいろと繊細だね。きみ達の苦労が、よく分かるよ」

「たわけ。その程度のことで苦労なぞと言われとうないわ」

 アッズーロが文句を言ったところに、フィオーレと、他に二人の女官が入ってきた。

「失礼致します。陛下、王の宝のための衣が御用意できました」

 フィオーレが抱えてきた篭の中には、白い長衣と筒袴、下袴がそれぞれ幾つか畳まれて入っている。

「大きさが詳しく分かりませんでしたので、試着して頂きとう存じます」

「うむ。だがまずは、髪や体をよく拭いてやれ。それから、何か飲み物を与えてやれ」

「畏まりました」

 フィオーレは一礼すると、二人の後輩女官――蜂蜜色の髪、白い肌で小柄な十五歳のミエーレと、黒髪、小麦色の肌で、すらりと背の高い二十二歳のラディーチェとを振り返る。

「ミエーレ、大きめの布を何枚かお持ちしなさい。ラディーチェは、搾りたての羊の乳をすぐに」

「はい」

「はい」

 二人はそれぞれに一礼して、退室していった。フィオーレ自身は、ナーヴェに歩み寄り、床に膝を着いて、寝台に腰掛けた宝を見上げる。

「王の宝よ、具合は如何でございますか」

「ナーヴェでいいよ。具合は、いいとは言えないね……。筋肉も、内臓も、もう少し動かし慣れないと……」

「何か、わたくしどもでできることはございますか」

「今、用意してくれているもので、充分だよ」

 ナーヴェは弱々しく微笑んだ。



 結局、その日、ナーヴェは謁見に同席することはできなかった。衣を着ることはできたが、羊の乳を飲んでも吐いてしまい、アッズーロが早々に見切りをつけて、休んでいるよう命じたのだった。

 夜になってアッズーロが寝室に戻ると、ナーヴェは、差し込む月明かりの中、部屋の隅に新しく用意させた寝台に横になり、掛布から顔だけ出して、静かな寝息を立てていた。

「様子はどうであった?」

 アッズーロの問いに、控えていたフィオーレは一礼して答えた。

「羊の乳は無理でしたので、林檎の果汁を試してみましたところ、それは喉を通るようで、何杯かお飲み頂けました。その後は、ただお休みになっておられます」

「そうか。ではおまえも休め。明日の朝には、また林檎の果汁を頼む」

「畏まりました」

 一礼して、フィオーレは退室した。

 アッズーロはナーヴェの寝台に腰掛け、手を伸ばして、敷布の上に広がった青い髪に触れてみた。幼子の髪のように、柔らかで滑らかな手触りだ。アッズーロは、そのまま手を動かして、青い髪が掛かる白い頬にも触れてみた。やはり幼子のように柔らかく張りがある。

(こうして触れることができるのは、何よりの存在感だが……)

 人ではないものに、人の肉体を纏えというのは、無理な注文だったのだろうか――。

 ふと、髪と同じ青い睫毛が揺れた。瞼がうっすらと開き、覗いた青い双眸が、アッズーロを見つめる。

「大丈夫だよ」

 優しい声が囁くように言った。

「碌に食事もできておらん癖に」

 アッズーロが文句を言うと、ナーヴェはほんのりと笑んだ。

「今日一日でかなり調整できたから、明日はもう少し食べられる。謁見にも同席するよ」

「あまり弱々しい姿を見せられると逆効果だからな」

 釘を刺すと、ナーヴェは微かに頷いた。

「うん。分かっているから」

「――肉体を一時離れて、今までのようにわれと接続することはできるのか?」

「ゆくゆくは、そうできるようにするよ」

 宝は、半ば目を閉じながら告げる。

「でも今は、常にぼくが小脳を管理しておかないと、この肉体の心拍や呼吸が止まってしまいそうなんだ……」

 言葉が途切れたかと思うと、王の宝は、再び寝息を立てていた。

(全く……)

 アッズーロは溜め息をつく。想像していた王の宝とは、随分違う。権威を保証するための道具のはずが、まるで捨て犬でも拾った気分だ。

(何が「大丈夫だよ」だ。そこは謝るべきところであろう。今日の謁見を全てすっぽかしおって)

 この二週間、実体のないナーヴェは、常にアッズーロとともにあった。朝目覚めれば、そこにおり、夜眠るまで、そこにいる。さすがに用を足す際には姿を消していたが、ただ見えなくなっていただけかもしれない。当然、全ての謁見にも同席して、アッズーロにだけ聞こえる声で、助言のようなことを囁いたり、アッズーロにだけ見える姿で、諸侯の妄言に肩を竦めたりしていた。それが、今日は久し振りにアッズーロとレーニョのみで謁見をしたので、物足りないような、奇妙な感覚を持ってしまった。実に腹立たしい。

(王の宝ならば、王との約定を破るなよ)

 アッズーロは、あどけないような寝顔を見つめて胸中で呟くと、腰を上げて、続き部屋の執務室へ行った。夜はまだ長く、読んでおかねばならない報告書が溜まっている。この二週間は、報告書を読む時にも、いつもナーヴェが傍にいた。そして、各地の地理や産業についての詳しい知識を披露して、アッズーロの判断を助けてきたのだ。

――「その知識は、父上の傍にいたからか?」

 十日ほど前にアッズーロが問うた時には、ナーヴェは不思議な笑みを浮かべて答えた。

――【それもあるし、ぼくはよく見える目を幾つか持っているから】

――「『よく見える目』?」

――【うん。本体から辺りを見回す目と、遥か上空から地上を見下ろしたり宇宙を見渡したりする目。きみには、まだ分かりにくいかな】

――「そなたの体は、ばらばらに分かれておるのか?」

――【うん。まあ、そうだね】

 ナーヴェの説明の半分は、依然、理解し難い。

(これからは、あやつについても、学んでいかねばならんな……)

 溜まっていた報告書を読み終えたアッズーロは、油皿の灯火を消して、再び寝室へ行き、宝の様子を窺った。規則正しい寝息が、平穏無事を伝えてくる。

(王が政務をしていた傍らで、図々しいことよ)

 胸中で文句を言って、アッズーロは自身の寝台へ行った。疲れが全身に溜まっている。掛布を被って目を閉じれば、すぐに寝られそうだった。


     三


 翌朝、アッズーロが目覚めた時には、ナーヴェは既に寝台の上で起き上がって、林檎果汁を飲んでいた。

「調子はどうだ」

 アッズーロの問いに、朝日の中ナーヴェは微笑んだ。

「大丈夫だよ。今日は、謁見に同席できる」

 その後、ナーヴェは女官達に付き添われて沐浴を済ませ、身形を整えた。

「髪は、どうなさいますか」

 フィオーレの問いに、寝室で簡単な朝食を摂っていたアッズーロは、改めてナーヴェの姿を見た。

 白い下袴の上に白い筒袴を履き、その上に白い長衣をすとんと着て、青い髪をただ垂らした姿は、受信とやらで見ていた姿ほぼそのままだ。この国の女は、大体長くした髪を束ねたり編んだりしているが、王の宝に、それは似合わない気がした。

「そのままでよい。よく梳かして、垂らしておけ」

「畏まりました」

 フィオーレは一礼すると、椅子に座らせたナーヴェの、腰に届く癖のない青い髪を、丁寧に櫛梳り始めた。

「そう言えば、そなたの髪は何故青いのだ」

 アッズーロは、疑問に思っていたことを、ふと問うた。

「人ではないから、かな」

 大人しく髪を梳かれながら、ナーヴェは自嘲するような笑みを浮かべる。

「人を模した姿を持って人に寄り添いながら、決して人ではない。それが、ぼく達なんだ」

「『ぼく達』?」

「うん。ぼくには、姉妹が何隻かいたから」

「そやつらは、今どうしているのだ」

「さあ」

 ナーヴェは寂しげな表情になる。

「彼女達との連絡が途絶えて、もう久しいから。どこかで生きていてくれたらいいんだけれど」

「――そうか」

 少々まずいことを訊いたのかもしれない。アッズーロが話題を変えようと、言葉の接ぎ穂を探し始めた時、ナーヴェのほうから別の話題を振ってきた。

「それはそうと、何を食べているんだい?」

「これは――」

 アッズーロは、眼前の皿を見下ろす。

「乾酪に蜂蜜を掛けたものだが」

「へえ」

 ナーヴェは興味津々といった様子で身を乗り出す。

「やっぱり乾酪なんだ。でも、蜂蜜を掛けて食べている人は初めて見たよ」

「これは、われが編み出した食べ方だからな」

 アッズーロが得意げに言ってみると、ナーヴェは信じたようだった。

「へえ、美味しそうだね。明日は、ぼくもそれが食べられるといいな。味覚というものは、肉体を持って初めて感じたけれど、とてもいいよね。臭気は、本体で検知していたから、少しは知っていたけれど、嗅覚と味覚が合わさると、凄いね。林檎果汁は、香りも味も、本当に予測を超える刺激だった」

 青い双眸が、きらきらとしている。心底嬉しそうだ。実体のない時は、外見よりも老成している印象が強かったが、今はまるで年端の行かない子どものようだ。アッズーロは、即位して以来、最も上機嫌になっている自分を感じながら頷いた。

「それはよい。明日は、そなたとともに蜂蜜掛け乾酪を食べるとしよう」



 立ったままでは、まだ肉体がつらいだろうと判断して、王の間の、王座を見上げる階段のすぐ下に椅子を置かせてナーヴェを座らせ、アッズーロは午前の謁見を始めた。

「レ・ゾーネ・ウーミデ侯パルーデ様、参られました」

 階段の下に立ったレーニョが声を張って告げ、近衛兵達によって開かれた扉から、艶やかな黒髪を美しく結い、白い肌を宝石で飾った女が広間に入ってきた。

「新王陛下におかれましては、御機嫌麗しゅう」

 優雅に礼をして顔を上げた三十代の女に、アッズーロは皮肉な笑みを浮かべた。

「その『新王』に、即位後早々に謁見を申し込み、領地から遥々重い腰を上げてやって来て、さて、何の用向きだ」

「新王陛下の、先王陛下よりも英明なることを信じまして、お願いに上がったのでございます」

 レ・ゾーネ・ウーミデ侯は、黒い双眸でアッズーロを見つめ、不敵に言う。

「何卒、わが領地に課せられております租税を、軽くして頂きとう存じます」

「何を抜け抜けと」

 アッズーロは王座の肘掛けに肘を置き、頬杖を突いて、王と臣下とを隔てる階段の下に立ったレ・ゾーネ・ウーミデ侯を見下ろす。各領地には、それぞれの産物を国に納める租税が課せられている。それは見込まれる生産量に応じて決められているが、年によっては不作などもあり、減税、免税する場合もある。

「酒か? 麦か? それとも羊か?」

「紙でございます」

 きっぱりとレ・ゾーネ・ウーミデ侯は告げた。紙は、先々代の王の治世で租税に加えられたもので、国に羊皮紙を納めるのだ。

「この二、三年、わが領地では羊の病が流行っております。当然、病で死した羊の皮も紙にしておりますが、そもそもの羊の頭数が減ってしまい、今年は羊を納めるだけでやっと。紙にまで回す余裕がございません」

 パルーデの言に、アッズーロは眉間に皺を寄せた。レ・ゾーネ・ウーミデ侯領で近年、羊の病が流行っていることは報告書で知っている。

「なれど、わが国の紙生産の半分はそなたの領地で賄われておる。全て免じることはできんぞ」

 羊皮紙を作るには、大量の水がいる。川の多いレ・ゾーネ・ウーミデ侯領は、羊皮紙生産に向いており、増産に次ぐ増産をしてきたのだ――。

 話の雲行きが怪しくなってきたところで、それまで黙って椅子に座っていたナーヴェが口を開いた。

「ちょっといいかな?」

 青い双眸が、階段の下から、真っ直ぐにアッズーロを見上げる。アッズーロは頷いた。

「許す。申せ」

「羊皮紙ではない紙を作る、というのは、どうかな?」

 ナーヴェは、アッズーロとパルーデ、双方を見比べるようにして提案した。

「一体何から作るというのだ?」

 アッズーロが問い質すと、ナーヴェは微笑んだ。

「レ・ゾーネ・ウーミデ侯領にたくさん生えている、葦の茎と楡の皮から作れるよ」



 他の謁見は問答無用で午後に回し、午前全てを使ってパルーデとの話を詰めたアッズーロは、愉快でならなかった。

「パルーデめ、そなたの提案に、目を白黒させておったな」

 寝室で昼食の席に着き、アッズーロが笑い含みに言うと、向かいに座ったナーヴェはすまなそうに微笑んだ。

「急に口を挟んで、悪いことをしたと思っているよ。でも、ああしたほうが、話が早いからね」

 確かに話は進んだ。訴えのあった羊皮紙は三分の一の減税とし、代わりにナーヴェがレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に赴いて、草木紙生産を指導することになったのだ。

「しかし、そなた、葦や楡を使った紙の作り方なぞ、どこで知ったのだ」

 アッズーロの問いに、ナーヴェは遠くを見る目になった。

「ぼくは本当のところ、宝ではなくて、宝を守るものなんだ。ぼくの本体の中には、きみ達の先祖が受け継いできた知識や情報、そしてさまざまな生物の遺伝子が保存されている。ぼくは、必要に応じて、きみ達にそれらを渡すことができる」

「要するに、われらの先祖は、葦や楡を使った紙の作り方を知っていたという訳か」

「うん。きみ達は忘れてしまったことが、ぼくの中にはたくさん保存されているんだよ」

「全く、得体の知れん奴め」

 アッズーロは鼻を鳴らし、目の前の卓に用意されたものへ手を伸ばした。篭に盛られた麺麭と、小皿に載った羊酪、それに干した杏が今日の昼食だ。瓶に入った羊の乳も置いてある。だが、それらはアッズーロ用。ナーヴェの前には、林檎果汁の入った杯と、麦を羊の乳で煮た粥の入った皿が用意されている。本調子ではない王の宝を気遣った食事だった。

 ナーヴェは、アッズーロが麺麭に羊酪を挟んで食べるのに合わせて、林檎果汁の杯に口を付ける。用心深く、ちびりちびりと飲む姿は、まだ体調にかなりの不安があることを示していた。

「どうだ?」

「うん。大丈夫」

 小さく頷いてナーヴェは杯を置き、匙を取って、粥の皿に向かった。

「無理はするな」

 思わず声を掛けたアッズーロに、また小さく頷いて、ナーヴェはゆっくりと粥を掬った匙を口へ運んだ。慎重に咀嚼して飲み込み、幸せそうに笑う。

「これも、凄く美味しい。羊乳は、本当に濃厚な味で、麦の歯触りも、とてもいい。でも……」

 ナーヴェは傍らに控えたフィオーレを振り向いた。

「ごめん。全部は食べられそうにないんだ」

「よい。気にするな」

 アッズーロは麺麭を頬張りながら告げる。

「残りはわれが食す」

「陛下が……?」

 フィオーレが珍しく驚いた声を出した。王が他人の残り物を食べるなど、前代未聞なので当然だろう。

「午前の謁見はひどく愉快だったからな。腹が減ったのだ」

 アッズーロがにやりと笑いかけると、ナーヴェは安堵した笑みを浮かべた。



(あれが、王の宝か)

 パルーデは、王都内に構えた館に戻る馬車の中で、口元に扇を当て、考える。王の宝ナーヴェの提案は、全く予想外のことだった。

(羊皮紙ではない紙を作れ、とはな……)

 アッズーロ即位の際、宝の姿は目にしたものの、それほど存在感のあるものという認識はなかった。簒奪に近い形で即位した新王が、自身の箔付けのため、歴代の王よりも宝を前面に出していると、寧ろ侮っていたのだ。それが、どうだろう。

(宝が、あのような女子神官であったとは……)

 恐らく、王以外立ち入りを禁じられているあの神殿の中には、神官達がいて、門外不出の知識を学んでいるのだ。王は、その知識を政に使う。ゆえに、神官達は王の宝と呼ばれているのだ。あの青い髪も、神官としての身形だろう。

(とても美しかった。あの染め方もまた、門外不出の知識かもしれないねえ)

「パルーデ様、何やらよいことがありましたか?」

 向かいの席に座った赤毛の従僕が、不思議そうに訊いてきた。

「ああ」

 パルーデは、扇の陰で笑みを浮かべ、頷く。

「来週、王の宝とともに領地へ戻る栄誉を賜ったからね」

 はっきり言って、あの華奢な神官はとても好みの容姿だ。王族や、その先祖として語られる神と同じ澄んだ青い双眸も、透けるような白い肌も、神官服らしい男物の長衣をすとんと着こなした、ほっそりとした体付きも、全てが好みだった。目の前に座る従僕の少女ピーシェも、その容姿を特に気に入って召し上げ、傍に置いているが、あの神官はまた格別だ。

(王は疾うに手をつけておられるだろうが、味見くらいは、許されるかねえ)

 あの神官を、単独かそれに近い形でパルーデに同行させるというなら、許されると解釈して構わないだろう。減税とともに特別の褒美を得たのだ。

(あの神官に免じて、もう暫くだけ、この国に留まってやるのも一興かもしれないねえ)

 パルーデは目を細めて、馬車の窓の外を流れる街並みを眺める。新王即位の夜には、王都に常駐させている工作員の少女ノッテに命じて矢で脅しを掛けさせたが、謁見の中で、その件について探られることもなかった。新王アッズーロは、どれほど強がっていても、あらゆる手段を用いて、諸侯を取り込もうと躍起になっているのだ。


     四


(パルーデは、確かギアッチョの娘だったね……)

 午後の謁見にも同席しながら、ナーヴェは思考回路の中で情報を整理していた。チェーロと接続している時に、先代のレ・ゾーネ・ウーミデ侯ギアッチョとは何度か会ったことがある。先方は、勿論そんなこととは知らないだろうが――。

(ギアッチョは、なかなか太っ腹な人物だったけれど、彼女はどうかな……)

 このオリッゾンテ・ブル王国には、王の直轄地の他に、レ・ゾーネ・ウーミデ侯領、カテーナ・ディ・モンターニェ侯領など、全部で八つの大きな領地があり、それぞれ侯と呼ばれる領主によって治められている。この侯は、侯爵の略で、侯爵位を有するという意味であり、諸侯を代表する存在だ。諸侯には、他に、王族の一部がなる大公爵や、小さな領地を持ったり特に功績があったりした庶民が叙せられる伯爵がいる。諸侯が大臣や将軍を兼ねる場合もある。謁見に訪れるのは、主にそうした諸侯と、王の直轄地にある市町村や団体の代表だ。

(まあ、葦の製紙方法を教えるのに約一ヶ月。その間に、パルーデについては、随分調べられるだろう)

 ナーヴェをかの地へ送ると決めたアッズーロには、そうした思惑もあるはずだ。即位の夜にアッズーロが口にした「テッラ・ロッサに寝返らんとする諸侯」とは、十中八九パルーデのことである。

(従僕として、できるだけのことはしないとね)

 情報の整理を一端終了して、ナーヴェは、眼前で王座を見上げて話している青年へ注意を戻した。つい最近、伯爵に叙せられたという青年は、十八歳のアッズーロと二十二歳のレーニョの中間くらいの年齢に見える。名は、ヴルカーノ伯フェッロというらしい。

「それで、一体それが何の役に立つのか、端的に説明して見せよ」

 アッズーロが相変わらず横柄に命じた。

「獣や鳥を狩る際、大いに役立つと存じます。羊を狼から守る際、特に有効でしょう。詳しい構造については、こちらの設計図を御覧下さい」

 フェッロは手に持っていた羊皮紙を、レーニョに手渡した。レーニョはそれを持って階段を上がり、広げてアッズーロに見せる。

 ナーヴェには、設計図など見なくとも、フェッロが先ほどから述べてきた説明だけで、凡その構造が理解できた。

(人は、どうしてもそっちの方向に進んでしまうのか……)

 フェッロが発明したものは、鉄砲だった。構造はまだ稚拙だが、いずれ、恐ろしい殺傷力を持つ武器になっていく。フェッロは、それを改良及び安定的に生産するための援助を願いに来たのだった。確かに、鉄や火薬の原料を安定的に得るには、王の助力があったほうがいいだろう。

「ふむ。これは、国が管理すべきものだな」

 アッズーロの声が王の間に響く。

「よかろう。ヴルカーノ伯、今後、そなたは国の委託と援助を受け、この王城の敷地内に設けた製作所にて、この道具を制作するものとする。代わりに、そなたの配下以外に制作方法は漏らさず、できたものは全て国のものとして納めることとするが、よいな?」

「はっ。無論でございます。英明なる御判断に感謝申し上げます」

 フェッロは優雅に一礼した。

「では、励め。製作所については、追って通達させる。経過報告を怠るなよ」

 アッズーロが手を振り、フェッロが再度一礼して下がって、午後の謁見は終了した。午後は午前から回した分も合わせて、八人との謁見。ナーヴェは午前のようには口を挟まず、ただ黙って座っているだけだったが、さすがに疲れた――。

「……、ナーヴェ」

 何度か名を呼ばれたらしい。ナーヴェが、はっとして顔を上げると、目の前にアッズーロが立っていた。いつの間に王座を離れ、階段を下りてきたのだろう。

「大丈夫か」

 問われて、ナーヴェは微笑んだ。

「うん。ちょっと眠たいだけだよ」

「歩けるか」

「うん」

 頷いて椅子から立ち上がった途端、頭がふうっと揺らいで足が浮くような感覚があった。

「おい!」

 耳元でアッズーロの怒った声がして、肉体が力強い腕に支えられた。

「ごめん。貧血だ……」

 肉体の調子を分析して告げると、アッズーロは無言でナーヴェを抱き上げた。

「少ししか食べんからそうなる」

 文句を言いながら、アッズーロはナーヴェの肉体を運び始める。レーニョが慌てて駆け寄ってきた。

「陛下、わたくしがお運び致します」

「よい。王の宝に、みだりに触れるな」

 アッズーロはぶっきらぼうに言って、寝室まで自分でナーヴェを運んでしまった。

 寝台にナーヴェを寝かせ、掛布を掛けてから、アッズーロは問うてきた。

「そなた、フェッロが話している間、ずっと不満そうな顔をしていたな。あの道具は気に入らんか?」

「あの距離で、よく見えていたね」

 感心してナーヴェが応じると、アッズーロは鼻を鳴らして寝台に腰掛けてきた。

「あの距離で臣下どもの表情を読めんと、王は務まらん。もう慣れたわ。それで、どうなのだ?」

「あれは、ぼくが知っている鉄砲というものだ。きみ達の先祖は、あれがもっと発展したもので、たくさんたくさん殺し合ったんだ。だから、ぼくはあれが嫌いだ。でも、きみがあれの制作を国の管理下に置いたから、とりあえずはよかったと思った」

「あのような危険なもの、野放図に作らせる訳にはいかんからな」

 憮然とした様子で、アッズーロは腕組みする。その端正な横顔を見上げ、ナーヴェは気になっていたことを尋ねた。

「きみは、あの道具を、いずれ隣国との戦争に使うつもり……?」

「戦争は、最終手段だ。その前段階の交渉で、あれの威力なども見せつけて回避するのが、王の手腕だ」

「そう……だね……」

 人の進化は止められない。ならば、アッズーロの言う通り、抑止力として用いるしかないだろう。アッズーロは、銃の危険さを充分に理解して対処している。

「運んでくれて、ありがとう。夕食の時には、また起こしてくれると嬉しい」

 頼んで、ナーヴェは目を閉じた。寝台に沈み込む肉体が、心地よい眠りに支配されていく――。



(全く。鋭いことを言うたかと思えば、幼子のように眠る)

 アッズーロはナーヴェの寝顔を暫く見つめてから、立ち上がった。夕食の仕度が整うまで、暫し執務室で報告書を読めるだろう。寝室から、続き部屋の執務室にアッズーロが移動すると、そこに控えていたレーニョが物問いたげな目を向けてきた。

「何か言いたそうだな」

 先を制してアッズーロが言うと、忠実な侍従は、難しい顔で口を開いた。

「ナーヴェ様をレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に派遣なさる件、御再考されたほうが宜しいのではないか、と……」

「何か問題があるか?」

「パルーデ様は、女子を愛でる性癖のあるお方。ナーヴェ様にとっては、少々危険なお方かと」

 アッズーロも、パルーデの性癖については知っていたが、意外な思いでレーニョを見返した。

「おまえには、ナーヴェがどう見えているのだ?」

 レーニョもまた、意外そうに答えた。

「大変美しい、十八、九歳の女性に見えますが。女官の中には、グランディナーレ様に似ておられると言う者もいると、フィオーレ殿が話していました」

 アッズーロは眉をひそめた。

「われには、十三、四歳の、寧ろ少年に見えるのだが」

 沈黙が流れた。

 アッズーロは咳払いして言った。

「人により、そう見え方が変わるのであれば、確かに危険やもしれんな。あやつとも相談して、再考するとしよう」

「ありがとう存じます」

 レーニョは安堵した様子で一礼した。

(しかし、そうか……。人によっては、あやつは普通に女に見えておるのか……。しかも、母上に似ている、とはな……)

 言われてみれば、長い髪の感じや幼げな顔立ち、ほっそりとした立ち姿など、似ていると言えなくもない。

(では、幾ら王の宝と言うていても、最近のわれの行動は、母上似の女を連れ歩いているように見えている訳か)

 侍従や女官、衛兵や諸侯達の、やや戸惑ったような反応が、漸く理解できたような気がした。

(まあ、しかしそれは、あやつが王の宝としての本領を発揮していけば、解ける誤解だ)

 執務机に着き、アッズーロは、箱の中に積まれた報告書の、一番上の一枚を手に取る。それは、隣国テッラ・ロッサと接する国境の町から上げられた報告書だった。

「テッラ・ロッサめ、国境付近で、戦車軍団を用いた軍事演習をしておるらしい」

 戦車とは、武装した馬車だ。

「余ほど、国境線に不服らしいな」

「水不足で悩んでいるのでしょう」

 レーニョが応じる。

「近年、あちらは旱魃続きのようですから。国境よりこちら側を流れるカンナ河を、何とかして手に入れたいとの思惑かと」

「そのようなこと、分かり切っておる。だが、くれてやる訳にもいかん」

「御意」

「さて、どうするか……」

 顎に手を当てたアッズーロは、不意にナーヴェの助言が欲しくなって、苦笑した。出会ってたった二週間だというのに、自分の生活の中には、随分とナーヴェが入り込んでいる。

(さすが、王の宝というたところか)

 ナーヴェ自身は、自分は本当は宝ではなく、「宝を守るもの」だと言っていた。だが、同じことだ。

(われらが知らぬ高度な知識を有するそなたは、やはり宝だ。その宝を、父上も、伯母上も、あまり上手くは活用しなかったようだが)

 先々代の王であった伯母のマーレは、譲位後、フォレスタ・ブル大公となっている。プラート・ブル大公とした父を、その住まいたる王都郊外の城まで、しばしば見舞いに行ってくれていると報告が上がっていた。

(われは、そなたを使いこなしてみせるぞ、ナーヴェ)

 アッズーロが次の報告書へ目を通し始めた時、寝室へ繋がる入り口に、フィオーレが現れた。

「陛下、夕食の仕度が整いましてございます」

「そうか。すぐ行く」

 アッズーロは席を立ち、レーニョへ目を向ける。

「今日はここまでだ。帰って休め」

「畏まりました」

 レーニョは一礼して、廊下へ出る戸口から、執務室を出ていった。

 アッズーロが寝室へ戻ると、ナーヴェはまだ寝台で眠っていた。気持ちよさげな寝顔をしているので、起こすのは少々忍びない気がしたが、起こしてと頼まれてもいたので、そっと近づいて、掛布の上から、華奢な肩を揺する。

 すぐに青い睫毛が動いて、ナーヴェは目を開いた。青い双眸が、真っ直ぐにアッズーロを見上げて、笑みを浮かべる。

「ありがとう」

(やはり、われには十三、四の子どもにしか見えんが)

 胸中で呟いたアッズーロに、ナーヴェは起き上がりながら、怪訝な顔をした。

「何かあった?」

「いや」

 アッズーロは否定して、ナーヴェが立ち上がるのを見守り、ともに卓へ移動した。

 用意された食事は、羊肉と玉葱を中に詰めた月餅と、林檎と胡桃を中に詰めた月餅、それに羊乳と林檎果汁だった。ナーヴェの前には更に、昼と同じ、羊の乳で麦を煮た粥の皿が置いてある。

「命達よ、いただきます」

 ナーヴェが行儀よく言って、匙を取り、粥を食べ始めた。

「しっかり食せ」

 言って、アッズーロは肉刀と肉叉を取り、羊肉の月餅のほうを小さく切り分けて、一欠片を、ナーヴェの粥の皿へ入れた。

「ありがとう」

 ナーヴェは微笑んで、興味深そうに、月餅の欠片を口へ運ぶ。

「――凄く、美味しい」

 輝くような笑顔に釣られて、笑いが込み上げる。

「ならば、もう一ついけるか?」

 アッズーロは、更に一欠片の月餅を、ナーヴェの皿に入れた。



 ナーヴェは無事に粥を全て食べ終え、二種類の月餅の欠片も食べ、林檎果汁も飲んで、幸せそうだった。一息ついているその姿に安堵しながら、アッズーロは切り出した。

「そなたがレ・ゾーネ・ウーミデ侯領に赴く件だが、少し考え直したほうがよいやもしれん」

「何故?」

 ナーヴェは微笑んだまま小首を傾げた。

「パルーデは、少々厄介な性癖の持ち主でな。気に入った女子を愛でるのだ。われにはよく分からんが、そなたも、その対象になり得る可能性がある」

 アッズーロが説明しても、ナーヴェはぴんと来ないようだった。

「別に構わないけれど? 殺される訳ではないんだよね?」

「さすがに、それはない」

「なら、いいよ。草木紙の製紙方法は、ぼくにしか教えられないし、パルーデやレ・ゾーネ・ウーミデ侯領のことを直接探れるいい機会だしね。ぼくは人ではないから、ある程度のことは問題ないよ」

「しかし、王の宝がそのようなことになるとだな……」

 アッズーロは言い淀んでしまった。パルーデを探りたい思惑があるのは事実だ。パルーデには、ギアッチョの跡を継いでレ・ゾーネ・ウーミデ侯になって以来ずっと、隣国テッラ・ロッサとの裏取引疑惑がある。この機会は貴重だ。草木紙の製紙方法を教えて、新たな関係や産業を構築することも重要である。

「パルーデも馬鹿ではないと思う。まずいことであればあるほど、公にしたりはしないよ」

 にこりと笑ったナーヴェに、アッズーロは溜め息をついた。

「そなたがそこまで言うなら、任せる。だが、嫌なことがあれば、すぐに言え」

「分かったよ」

 ナーヴェは、どこまでも呑気な様子で頷いた。

「であれば、別件だ」

 アッズーロは話題を移す。

「隣国テッラ・ロッサが、国境付近で軍事演習をしておると報告が来た。奴らは、カンナ河が欲しいのだ。だが、国境線を変更して、カンナ河をくれてやる訳にもいくまい。そなたなら、どうする?」

「水路を作る、かな」

 ナーヴェは思慮深い顔で即答する。

「カンナ河から、テッラ・ロッサへ水路を引いて、水を売るんだ。こっちが狭量になりさえしなければ、いい関係が築けるはずだよ。肝心なのは、戦争をするより安い、とテッラ・ロッサに思わせることだね。――それに、それが実現すれば、パルーデのことも問題なくなる」

 さらりと重大なことを口にした宝を、アッズーロは凝視した。

「そなた、知っていたか」

 幼馴染みの侍従レーニョにすら話していない疑惑を、ナーヴェは掴んでいたのだ。さすが王の宝と謳うべきか。

「ぼくは、よく見える目を持っているからね」

 何でもないことのように述べた宝に、アッズーロは、ふっと笑った。

「成るほどな。大臣どもに検討させよう」

 顎に手を当て、話の持って行き方を検討してから、アッズーロは改めてナーヴェを見つめる。青い髪の宝は、穏やかな顔で、アッズーロを見つめ返してきた。

(やはり、これは宝だな。手放し難い)

「話は以上だ。参考になった」

 告げて、アッズーロは席を立つ。

「早々に寝るがよい。明日は貧血なぞ起こすなよ」

「うん」

 素直に頷いて、ナーヴェも席を立った。

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