二泉映月
津田薪太郎
第1話
いつの事だったか、詳しい日付は全く思い出せない。情景だけが、あれから20年以上経った今でも僕の心に残っている。
1930年代の上海は、ごみごみとした何でもあるけど、何にも無い街だった。あちこちで延々と戦いが続いていて、僕達は追われる様に各地を転々としていた。
彼に会ったのは、そんな日常の中の事。目的もなく街に出た僕の前に、彼は突然現れた。
最初見た時、僕は「変わった人だな」と思った。穴の空いた帽子、歪んだ黒眼鏡、ボロボロの服。今にも折れそうな古い杖。言い方は悪いけど、ボロ雑巾が歩いている様だった。
だけど一つだけ、ただの乞食とは違う所があった。彼が背負っているものだ。長い木の板に、弦が張られた特徴的な形。
「どうして、あんな乞食が二胡を持っているのだろう」
不思議に思った僕は、失礼に思われるのも構わずに彼をずっと見ていた。
すると、僕の視線に気がついたのか、彼が僕の方へと歩いてきた。彼は覚束ない足取りで、何度も人にぶつかりながら歩いて来る。
「もしかして、彼は目が見えないのじゃ無いか」
そう思った矢先、彼は地面に落ちていた大きな石に引っかかって転んでしまった。彼の背負っていた二胡や、他にも様々な物が地面に散らばる。
慌てて走り寄って、僕はそれを集めるのを手伝った。やっぱり彼は目が見えない様で、ひとつひとつ手で触って感触を確かめていた。
「大丈夫ですか?」
「ああ、ごめんなさい。お手間を取らせまして…」
「ところで、貴方の背負っている二胡なんですが…」
「ああ、これですか。これは私の大事な商売道具でしてな。これが無くては、ご飯が食べられないのです」
「そうでしたか」
「宜しければ、お礼に一曲弾きましょうか。何が良いでしょう?」
曲を弾いてくれると彼は言ったが、生憎と僕はそんなに音楽に詳しくはなかった。
「なんでも構いませんよ」
「そうですか、では…」
そう言って、彼は弓を弦に合わせた。
ふと気がつくと、僕は上海じゃない、別の何処かに居た。さっき迄煩く聞こえてきた喧騒も、所狭しという雑踏も無く、僕の他には人っ子一人いない、静かな場所に僕は居た。
周りはすっかり夜の帳がおりていて、空には月が一つ、煌々と輝いている。周りには僕の膝の高さまで葦が生えていて、一歩踏み出す度にざわざわと音を立てた。
不思議と、どうしてここに居るのかという疑問は浮かんでこなかった。ただ、何とも言えない快さが心にあった。
暫く草むらを歩いていくと、僕の前に二つの泉が現れた。同じ様な形と大きさの、ずっと昔から互いに寄り添っていた様な泉。そして其処には、双子の月が棲んでいた。
澄み切った泉に映る双子月は、自身を見つめる僕の視線に気がついて、優しく微笑みを返す。その微笑みに惹かれて、僕はさらに一歩を踏み出す。さらさらとした風が吹いて、周りの葦と共には僕を慈しむように美しい歌を唄った。
どこか懐かしく、優しいこの場所に、僕の心はすっかりとらわれてしまった。
再び目を開けると、其処は元の上海だった。双子月も、歌う風や葦も其処にはいなかった。曲を弾き終わった彼は、笑みを浮かべて僕を見えない目で見つめていた。時は夜には程遠い真昼間で、彼と出会ってから殆ど時間は過ぎていなかった。
美しい情景は僕の瞼にすっかり焼き付いてしまって、離れようとしなかった。
「どうやら僕は、幻を見ていたようです。貴方の演奏が、あまりにも優れていたから」
僕は彼に告げた。彼は笑って言った。
「夢幻と言って忘れてしまうのは、惜しくはないかな。君はまさしく、其処に居たと言うのに」
荷物を持って彼は立ち上がった。二胡を背負い直し、また歩き出す。
「貴方のお名前は、何とおっしゃいますか?」
「阿炳。人は私をそう呼ぶよ。もし君とまた会えるなら、その時も同じ曲を聞かせてあげよう」
そう言うと、阿炳はまた僕の方に笑みを浮かべて、ゆっくりと歩き去った。彼の姿は、すぐに人々の中に溶け込んで、消えてしまった。
「さようなら」
僕は口の中で呟いて、家路についた。さっきまで聞いていた、慈しみの曲を口ずさみながら。
二泉映月 津田薪太郎 @str0717
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