第9話 Iris

___________________Irisイリス



  by. 碧




蒼との暮らしにもかなり慣れてきた。



初めて病院のベットで蒼を目にした第一印象は冷たくて寂しそうな人だと思った。


低めのハスキーボイスは優しい言葉を掛けてるにも関わらず、その目には何の

感情も見えなかったから・・・。


それなのに、私は蒼に縋らずにはいられなかった。


冷たそうに見えたのに、私には唯一の味方のように思えた。


自分の事が何一つ分からない、でも日常生活には困らないくらい他の事は大体

できるが自分には不安しかない。



蒼はそんな私の心に添うように、この暮らしを提案してくれた。


二人で過ごす時間は、まるで春の木漏れ日のように穏やかにゆっくり流れていく

ようだった。



退院した日のショッピングから、中川の妻の環さんが週二回来ては料理を教えて

くれるようになっていた。


初めは上手くできなかった料理も、環さんの教え方が上手いのかメキメキと上達

していった。


「碧ちゃん、今日はラタトゥーユを作りましょうね!」


「ラタトゥーユですか?」


「簡単にいうと野菜のトマト煮込みかな?

 これから夏野菜が沢山出てくるから、覚えておくといいかも。」


「はい!」


早速、環さんと一緒に材料を切っていく。


玉ねぎやナス、ピーマン、ズッキーニ、セロリなどの野菜をオリーブオイルと

ニンニク、唐辛子で炒めて、トマトを加えて香草とワインで煮ていると、美味

しそうな匂いが鼻に届く。


「うわ~、美味しそう!」


「このままおかずとして出してもいいし、パンと一緒でもいいよ。

 後は、パスタにかけても美味しいよ。」


「一つで色々楽しめるんですね。」


「うん、便利でしょ。」


私はフランスパンと一緒に出すことに決め、環さんが帰ってから簡単に野菜

のスープも作り夕食の準備を進めた。


夕食の時間になると、蒼が仕事の作業部屋からリビングに顔を出した。


「お~、良い匂いがするな。」


「はい、今日は環さんにラタトゥーユを教えてもらったんですよ。

 夕食にするので、蒼さんは手を洗ってきてくださいね。」


「了解。」




ダイニングテーブルに夕食を並べていると、蒼が戻ってきて席に着く。


「美味しそうだな。」


「食べましょうか。いただきます。」


「いただきます。」


二人で手を合わせて食べ始めた。


私は初めて作った料理の出来にドキドキしていると、蒼が「美味い!」と褒め

てくれ、胸をなでおろした。


基本、口数の少ない蒼だったが、私の作る料理をこうして褒めたり掃除の礼も

口に出して伝えてくれる。


そんな蒼に、私も頑張ろうと張り切るのだった。


病院から退院して大分経ったが、私の身元は依然として分からないまま

だった。


時々、刑事の江波さんがその報告と共に家に顔を出していた。


江波さんからの紹介もあって、私と蒼さんで弁護士の先生と一緒に戸籍の取得

のために動いていた。


家庭裁判所にも何度も蒼さんと一緒に足を運んだ。


蒼さんは、嫌な顔もせずにいつも付き添ってくれていた。


そうした、皆の協力の元、私の戸籍が出来た頃には、セミの鳴く汗ばむ季節

に変わっていた。


新しい戸籍には、『海野 碧ウミノ アオイ、3月25日生まれの25歳』

と表記されていた。


名前は、蒼さんがつけてくれた。


何でも、私のイメージは『海』なんだそうで、そこから海野という苗字を考え

たらしい。


誕生日は、私が助けられた日。


年齢は、中川さんから大体このくらいの年齢だと予想されるという話を聞き、

決定した。


それまで、何処の誰かも分からず不安だった私に、ここに居て良いんだと、

海野碧として存在して良いんだと言ってもらえたような気がした。



海野碧となってからも私の生活は変わらなかった。


蒼さんと一緒に過ごし穏やかに過ぎていく。


毎日、朝、昼、晩の食事に掃除、洗濯。


週に二回は、食料の買い出しやショッピングを蒼さんの愛車に乗って一緒に行き

帰りは二人でドライブする。


蒼との暮らしが、今の自分の当たり前の日常だった。



その日もいつものように家の掃除をしていた、するといつもは閉まっているはず

の蒼の作業部屋のドアが少し開いていた。


私がここへ来た時、約束したことがある。


奏の部屋と、仕事の作業部屋は入らないという約束。


だから今まで部屋に入ったことはなかったけど・・・目の前には、僅かに開いた

ドア・・・。


私は好奇心を抑えられずに、ドアの前に立った。


右手で白地のドアを軽く押すと、すんなりと内側にドアが開いた。



私はドアの前で立ち竦んでしまった。


その部屋には、『青』の世界が広がっていた。


見渡す限り、様々な『青』


そこは、圧倒されるほどの青い色で描かれた絵画で埋め尽くされていた。


風景画であったり、静物画であったり、抽象画であったり・・・


全てが、青の色で描かれていた。


どれもが、素晴らしい作品だということは素人目にも感じたが私には、何とも

言い難いもの悲しさが伝わってきて、胸が締めつけられるようだった。


一つ一つ作品を見ていくうちに私はあることに気がついた。


“蒼さんは、人物画は描かないのかな?”


この部屋の多くの作品の中には、一枚も人物が描かれたものはなかった


そんな事を思いながら部屋の奥に足を進めると、沢山の画の奥にベージュの布

が掛けられた画を見つけた。



“見ちゃダメ!”


頭の中では警鐘が鳴っているのに、私の手は震えながらも真直ぐに画に掛けら

れているベージュの布に伸びていく。


プルプル震える指先が布の端を掴んでしまった。


少しずつ布を下にずらしていく・・・。


布が床にポスッと音をたて落ちると同時に、私の目に飛び込んできたのは

『青』の世界とは全く別の異彩を放つものだった。



柔らかく温かみのある色彩で描かれた女性の画・・・。


光に向かって手を伸ばす女性の微笑みを湛えた表情は幸せに満ちていた。



私はただただ、その画に引き込まれていった。


その画には、画を描いたものの愛おしさが溢れていた。



それを感じた時、私の胸には小さな棘がいくつも刺さったようにチクチク

と痛むのを感じた。



ただ、その時の私には、その胸の痛みがどういうものなのか、何も分かって

いなかった。



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