第6話 Bleu Ciel

___________Bleu Cielブルー・シェル



             by. 氷室 蒼




女が退院する日は、空には雲一つない春らしい陽気となっていた。




この一週間の間、俺が見舞いに訪れると以前話を聞きにきていた刑事の江波

も何度か病室を訪れていた。


そのほとんどが失踪者の届けにも女に該当するものが無い旨を報告に来たと

いうものであったが、単に女の事が心配で様子を見に来たということもあった。


江波は身元の分からない女の今後の生活を心配し、一つの提案をしてきた。


「今後の生活を考えると戸籍がないことは大変だと思います。

 なので、戸籍を取得してはどうかと思うんです。

 考えが決まったら良い弁護士を紹介するので、連絡をください。」


そう言うと携帯番号の書かれた名刺を置き病室を出ていった。


「戸籍の事は家に行ってからゆっくり考えよう。」


「はい、そうします。」


女はそう言うと江波の名刺をバックの中に大事そうに仕舞っていた。




結局、何も手掛かりのないままの女に俺は一つの提案をした。


「あのさ、名前が無いのは不便だろ。

 取りあえず、何か呼び名を考えよう。」


「はい、どんな名前がいいでしょう?」


喉の調子も戻り、女のか細いながらも高くも低くもない声が耳に届く。


俺の頭の中には、ふと『海』の青さが浮かんだ。


「『碧アオイ』はどうかな?」


一瞬「ん!?」という表情をするが


「君を見ていると初めて会った、海を思い出す。

 海の青からイメージして碧。」


俺の名前の由来を聞くと、フッと顔を綻ばせ笑顔をむけた。


「碧。素敵な名前ですね。ありがとうございます。」


「じゃあ、今日から碧って呼ぶよ。」


「はい!

 あ、あの・・名前を聞いてもいいですか?」


恥ずかしそうに聞く碧に、今更ながら自分が名乗ってなかったことに気づく。


「ああ、すまない。俺は氷室 蒼ヒムロ ソウ、蒼って呼んで。

 ついでに言うと35歳の独身。」


「じゃあ、蒼さんでいいですか?」


「いいよ。」


「蒼さん、これからよろしくお願いします。」





そんな以前のやり取りを思い出しながら、病室の扉をノックした。



病室に入ると、既に碧は着替えを済ませ、ベットに座って俺を待っていたよう

だった。


「お待たせ。」


「おはようございます。」


碧を砂浜で見つけた時に着ていた水色のワンピースは、とても碧に似合っていた。


「碧、これから退院したら先ずは生活に必要な物を買いに行こうと思う。

 今日は、中川と奥さんに付き添ってもらうから一緒に買い物しよう。」


今まで人と関わりを持つことを極力避けてきた自分には、女性が生活に必要

なものがよく分からないため、中川に相談したところ奥さんと一緒にと今日

休みを取ってくれていた。


中川の奥さんなら、俺も知っているから安心だ。


碧は少し不安そうにしながらも、コクンと頷いた。



お世話になった看護師さん達にお礼を言って、荷物を持ち車に向かう


車の前に立ったまま、動かない碧を助手席に促しシートベルトを締めると待ち

合わせのショッピングモールへと車を走らせた。


碧は車の中から、外の景色を不思議そうに眺めていた。


「何か知っているものとか、見たことがあるものはあった?」


碧は首を横に振るだけで、また外の景色を眺めていた。




ショッピングモールの駐車場に車を停めて、降り立つと碧が不安そうにしながら

俺のジャケットの袖を掴む。


俺は、左手で碧の手を掴むと手を繋いだ。


碧は一瞬ビックリしたような表情を浮かべたが、直ぐに安心した目を俺に向け

微笑んだ。


繋いだ左手は仄かに碧の暖かさが伝わってきて、俺自身も心が穏やかになるのを

感じるのが不思議だった。


碧と手を繋ぎ、中川夫妻との待ち合わせ場所に向かうと、俺達の

姿を見つけた中川が手を振っているのが見えた。


「碧ちゃん、退院おめでとう。

 俺の奥さんのタマキ、これから一緒に買い物するからよろしくね!」


「初めまして、碧ちゃん。

 今日は、私と一緒に買い物しましょうね。」


「はい、よろしくお願いします。」


碧は初めて会う環さんに緊張しながらも、挨拶していた。


大柄な中川に比べ、小柄で可愛らしい雰囲気の環さんだが、元看護師だけあって

さり気なく碧を気遣いながらも、テキパキと買い物を進めていく。


男は入れない下着の店も、碧の手を引いて行ってしまった。


俺達男は、近くのベンチで待つことにした。


「今日は、ありがとう。助かった。」


「いいって、滅多にない蒼からの頼みだし、俺も碧ちゃんの事が心配だったから

 丁度良かったよ。

 碧ちゃんの事は、良かったのか?」


「あ~、どうせ俺も一人だし、きっとこれも何かの縁なんだろうし何かほっとけ

 ないんだよな。」


遠目に碧と環さんの姿を見ながら俺がそう応えると、中川が一言


「お前、変わったな。」と呟いた。


「そうか?」


「ああ、碧ちゃんに会って、良い意味で変わってきてる気がする。」


「そうか・・・」



俺と中川の会話は、楽しそうに買い物袋を下げて戻った二人に気がつくと、

そこで途切れた。



その後も、服や化粧品など女の買い物は多いという事が分かった一日となった。


クタクタになった俺達は、ショッピングモール内のイタリアンレストランで

少し早めの夕食を取ることになった。


初めは緊張していた碧も、すっかり環さんに慣れたようで笑顔が見える。


「碧ちゃん、私の事はお姉さんだと思って分からないことは何でも聞いてね。

 時々は、遊びに行っちゃうし何かあったら連絡して。」


そう言うと、早速スマホで連絡先を交換していた。


一応、何かのために碧にさっきスマホを買っておいたのが役にたったようだ。


環さんにスマホの扱いを聞きながら、慣れないながらも操作していく。


その光景を見ながら、環さんを連れてきてもらって良かったと改めて思った。


ひとしきり食べて、話し終わった頃には店に入ってから2時間が過ぎていた。


中川夫妻と店で別れ、明日からの食材を買い込み家に向かって車に乗った。


家に着くと、不思議そうな顔で家と俺の顔を見る。


「どうした?ここが今日から碧が住む家だ。」


「ここに、蒼さん一人で住んでたの?」


そういうことかと、碧の不思議そうな顔に納得がいった。


一人で住むには大きい家だと思ったのだろう。


「ああ、ここには俺一人だ。

 だから、部屋も余ってるんだ。

 さあ、中に入ろう。」


碧は何か言いたそうにしていたが、俺の言葉に頷き玄関を入った。


今日買い出したものを持って、二階に上がる。


「ここが碧の部屋。気に入ってもらえるといいが・・・」


碧はドアの陰から中を覗くと「わー、素敵!」と声をあげた。


どうやら気に入ってもらえたようだ。


「片付けたら、下においで。」


「はい。」


俺は碧を部屋に残し、リビングに降りた。


缶ビールを開けながら、愛用のZIPPOで煙草に火をつけると、煙を肺に送る。


何度か繰り返すと、頭がスッキリしたような気がした。


二本目の煙草に火をつけ、ボーっとテレビを見ていると後ろで、ドアの開く音

がする。


「蒼さん、片付け終わりました。」


「じゃあ、一通り家の案内をしておこう。」


煙草を灰皿に押し付けながら缶ビールをテーブルに置いて、家の中を案内

しようとソファーから立ち上がった。


キッチン、浴室、お手洗い・・・順に部屋を案内していく。


「碧にお願いしたいのは、掃除と食事なんだけど大丈夫そうかな?」


「多分、大丈夫だと思います。」


「あ、後、俺の仕事の作業部屋と俺の部屋の掃除はいらないから。

 じゃあ、今日は疲れただろうから先に風呂に入って」


「じゃあ、お言葉に甘えて、お先に失礼します。」


碧の後姿を見ながら、今まで一人暮らしの長かった自分が他人と一緒に住む

ことに対して不安がなかったといったらウソになるが、思った以上にすんなり

受け入れている自分にも碧にも驚く。



リビングで二本目の缶ビールを飲んでいると、風呂上がりの碧が顔を出した。


「お風呂、あがりました。」


風呂上がりで上気した顔に、濡れた髪が妙に艶っぽく感じる。


「おい、髪の毛濡れたままじゃ風邪ひくぞ。」


「え、自然乾燥で大丈夫ですよ?」


「いいから、ここに座って待ってろ。」


そう言うと、俺はバスルームに向かって歩き出していた。


戻った俺の手にはドライヤー。


碧はソファーの端にちょこんと座っていた。


「ほら乾かすぞ!」


「いいですよ、自分でできますから・・・」


「いいから、大人しく座ってろ。」


碧の髪にドライヤーを当てながら乾かしていく、腰まであるストレートの長い

髪は、明るい栗色だが染めたものではなく地毛のようで、痛みなど全くない

ようにサラサラしていた。


乾かす度に髪から香る甘い匂いが鼻腔をくすぐり、何とも言えない気持ちが湧き

上がりそうな感覚がした。


「はい、乾いたぞ。」


「あ、ありがとうございます。」


俺はいつからこんなに面倒見が良くなったんだ・・・・。



「明日は8時位に起きてくるといい。

 キッチンの説明をするよ。」


「はい、わかりました。じゃあ、おやすみなさい。」


「ああ、おやすみ。」



さっきの感覚を消すように缶に残っていたビールをグイっと一気に空けると

俺も風呂に入ろうとバスルームに向かった。




寝室に入った俺は、何となく眠れずにいた。


この隣の部屋には、碧がいる。不思議な感覚だ。


碧は眠っただろうか?



暫くボーっとしていたが、段々瞼が重く閉じていき、いつの間にか俺は眠りに

落ちていた。


カーテンの隙間から日の光が差し込んでいた。


“ 朝か・・・”


枕元の時計を見ると、6時半・・・起きるか・・・。


スェットのまま階下の洗面所に向かいドアを開けた。


「あ、おはようございます。」


「あ、あ、あぁ、おはよう。」


碧は洗顔したばかりなのか、タオルで顔を拭きながら慌てたように挨拶をし

俺は俺で予想外の状況に慌てふためき声が出るのが遅れた。


「ごめん、今度からはノックして確認するよ。」


「大丈夫ですよ。気になさらないでください。」


碧はそう言うと足早に洗面所を後にした。


自分とは違う甘い香りが残る洗面所に少し落ち着かない気持ちになりながら、

冷たい水で顔をバシャバシャと洗った。




約束の八時前にリビングに行くと、そこには既に碧がいた。


「じゃあ、キッチンの説明からするね。」


「はい、お願いします。」


キッチンの収納や使い方を説明しながら、簡単に二人で朝食を作る。


目玉焼きにウインナー、野菜スープにトースト。


碧は覚えが早く、料理もある程度できるようでテキパキと動いていた。


「これなら安心して任せられそうだ。」


「それなら良かったです。」


碧もホッとした顔を俺に向けて喜ぶ。



いつもは一人の侘しい食卓も二人だと楽しい物だと感じた。



悪くないな・・・。





これからの生活に明るい兆しが見えた時だった。


碧との生活は俺の予想以上に快適なものだった。


相変わらず記憶は戻らないものの、日常生活にはほとんど支障なく、頼んだ

ことを無難にこなしていく。


元々口数も少なく、人と関わる事を極力避けてきた俺には、碧に気の利いた

言葉など掛けれるはずもなく、会話らしい会話もたいしてないのだが、碧は

不満を漏らすこともなく俺の身の回りの世話をせっせとしてくれていた。


碧の存在のお陰か、それまで冷たく重い空気が漂っていた気すらしていた

自分の家の空気すら浄化されたような気がして、呼吸がしやすくなった。



「蒼さ~ん、コーヒー入りましたよ。」


「あぁ、今行く。」


作業していた手を休め、リビングに向かった。



テーブルで碧と二人コーヒーを飲みながらの休憩時間、最近の俺の楽しみ

の時間だ。


「あの、今更なんですけど、蒼さんの仕事って何をしてるんですか?」


「あ~、言ってなかったか?

 絵描き、画家っていうのかな。」


「そうなんですか!?」


碧が驚きの顔で俺を見た。


そりゃあ、いい大人がいつも家に居て籠っていれば、どんな仕事だろうって

不思議に思うよな。


「ああ、いつも俺が仕事している部屋が作業場だ。

 色々物が溢れているから、初めに言ったようにあの部屋は掃除しなくて

 いいから。」


「はい、分かりました。」



そんな会話をしながら、一時の休憩を過ごしていた。



碧とのホッとするような休憩時間、そう言えば・・・と思い出す。


「なあ、前に刑事の江波さんが言っていた事を覚えているか?」


「江波さん・・・戸籍のことですか?」


そう確か、このままだと身分を証明するものもないし、今後のために戸籍の

取得を勧めていた。


引っ越しと生活に追われて、ついつい後回しにしていたが、碧も大分慣れて

きたようだし良いだろうと考えた。


「ああ、江波さんに明日にでも連絡してみよう。

 俺も手伝うから、そうしてみないか?」


「はい、蒼さんにはご迷惑お掛けしますが、よろしくお願いします。」


碧はすまなそうにしながらも、どこかホッとしたように見えた。





翌日、碧と俺はリビングである人物を待っていた。


インターホンが鳴ると、碧が足早に玄関に向かう。


俺はそんな碧の後姿を何となく見ていた。



玄関からは碧ともう一人、今日の客の話し声が微かに聞こえていた。


「チッ・・」


何故だか、碧が自分以外の人間と楽しそうに話すのを、面白くないと感じ

舌打ちする自分がいた。


碧は、ただの同居人なのに・・・


あれか、妹を取られるような感じなのか・・・?


今まで感じたことのない気持ちに、少し戸惑いながらもそう結論付けひとり

納得した所で、碧と客の江波がリビングに入って来た。


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