第10話 駄目かもしれない
「ふん。それならば井戸を捨てる必要はないだろう。サンプルというなら多様性は必要だ。それに井戸の謎が見つかるかもしれない」
あれだけ断言しておいて亜塔は井戸に未練があった。何とかならないものかと必死に考えている。こうなると誰の意見も聴かないので周りは放置することにした。それに何か噂を拾ってくるかもしれないとの希望的観測もある。
「そうすると、まずは解りやすいものから取り組むべきだろう。音楽室の謎はすぐに解けるはずだ。視線が合うという問題は角度のはずだ。それが総て一致するということは一定の値があるはずだぞ」
迅がナンプレを解きながら提案する。ちなみにナンプレとは81個の升目に1から9までの数字を入れていくというパズルである。パズル雑誌として売られているものを迅は解いているのだ。しかも一問あたり五分のかからないというハイスピードを発揮している。
この行動も迅が数字中毒だからという理由で誰も態度を改めろとは言わない。おそらく井戸の調査で外に出たせいで禁断症状が出たのだろうくらいなものだ。
「たしかに例題としても悪くない。すぐに解答が出ないものを最初に持ってきてはいけないというのが今日の教訓だからな。よし、松崎先生に音楽室の使用許可を取ってもらおう」
桜太はにんまりと笑った。今日はこのまま解散となってはやる気がゼロになるところだ。何か取り組むものが出来るというのは有り難い。
「俺も付き合おう。三年が参加していることを伝えておかないとな」
前部長としての責任感を思い出した亜塔が立ち上がる。
こうして作戦会議が無事に終了するや否や、残りのメンバーは一斉に自分の興味があることに取り組み始めた。その熱心さだけは凄さを感じる。
「やっぱ、これが科学部かも」
化学教室を後にしながら、桜太はチームプレーの難しさを感じていた。
とはいえ、音楽室が使えるのは当然のように吹奏楽部の練習が終わってからだった。終わるのは夕方の六時ということなので、それまでは普通の活動をすることになる。八人はそれぞれ黙々と自分の興味のあることを研究するのだ。
「なあ、ブラックホールってエントロピーを考えるには量子力学が必要なんだろ?」
優我が桜太にちょっかいを掛け始めても話題は研究からずれない。
「そうそう。相対性理論からは毛のない状態になってしまうからな。あっても三本というところだ。エントロピー問題はホーキング博士が提案したことで取り組まれるようになったものだしな」
すらすらと答え始める桜太の言葉は、その分野に詳しくない人が聴いていればただの暗号だった。そもそも高校生がエントロピーなど持ち出さない。それは大学の熱力学を勉強して出てくるものだ。
「ブラックホールか。俺も気になってるんだよね。なんといっても天体の最終形態の一つだからさ」
さらに莉音がこの話題に乗り始めて、状況はさらに大学の物理学科状態に陥っていく。三人の会話は天体や惑星といいながら数式がメインだ。だれも頭の中に星を思い浮かべていない。
「なあ、この現状をどう思う?」
自分の趣味が科学部内でも禁止事項扱いの亜塔は、受験勉強に飽きて芳樹に質問する。やはり新入生問題がなければ誰も現状を変えたくないのだと気づいたこともある。
「どうって。なるようにしてなった現状だろ。大体先輩たちだって科学コンテストがなければ好き勝手やってたんだし。科学コンテストの参加も、こうやって科学部存続のために仕方なくやってたことなんだよ。きっと」
芳樹は捕まえたカエルたちのスケッチを描きながら、悲しくなるような事実を指摘する。
「なるほどな。つまり我々は科学コンテストを七不思議解明に変えただけか」
亜塔はそんなことで納得してしまっていた。
こうして科学部存続のための七不思議調査は出だしから躓くのだった。
六時になるまでそれぞれの時間を堪能したメンバーは、危うく音楽室の調査を忘れるところだった。
「やっぱり科学部は居心地がいいな」
教室で肩身の狭い思いをしてる芳樹はしみじみと言う。彼はカエルをどこにでも携えているため、嫌がられる回数も多いのだ。
「そのために我らは協力しているんだろうが」
ここでも肩身の狭い亜塔は文句も言わずに頷く。亜塔も一歩外に出れば変人として見向きもされないのだ。ここで友達や後輩と囲まれているのは楽しい。
「そうですよ。だから音楽室の肖像画の調査です」
ブラックホールの温度を求める式を眺めていた桜太が立ち上がった。引退すれば自分たちの行き場もなくなるという実感が湧いたのだ。後輩がいれば亜塔たちのように何かと理由を付けて化学教室に潜り込める。
「なあ、メジャーは要るよな?」
楓翔が鞄から自前のメジャーを取り出して訊く。
「要るけど、そんな本格的なものである必要があるか?」
振り向いて確認した桜太は呆れてしまった。楓翔が手にしているメジャーは明らかに測量用で、結構な大きさがある。それを普段から持ち歩いている時点で驚きだ。
「教室が何十メートルもあるわけないでしょ。これで十分よ」
容赦なく突っ込んで、千晴が3.5メートル測れるメジャーを楓翔に渡した。楓翔は不満そうに渡されたメジャーを伸ばしたり戻したりする。
「計算には黒板を使えばいいか。しかし、やった計算を記録しておくことも重要だろうか」
その楓翔の横では莉音がノートを持っていくかで悩んでいる。彼にとってはそれが研究ノートなのだろう。様々な数式が所狭しと書き込まれている。
「実際に測れるわけですし、数値だけどこかに記録できればいいかと」
仕方なく迅が対応した。数式に対する思い入れの強さは理解できるからだ。
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