第64話 暗躍する者


「ちくしょう……!」



 城塞都市モリーゼの外周にある森のそばで、粕森は両腕だけで森へ向かって這いずっていた。火傷によってほぼ炭化した足はもう役に立ちそうもない。

 高位の回復魔法の使い手にでも頼まなければ二度と歩けないだろう。

 前に進む度に足に激痛が走り、粕森の体は脂汗でびっしょりだ。



(せめてどっかに隠れねぇと……)



 何が起きたのか理解は出来なかったが、この場所を離れなければ不味いことだけは分かる。痛みで意識が朦朧とする中、死にたくない一心で粕森は森へと急ぐ。



「誰か……誰かいないか……! 助けてくれぇっ……!」



 せめて誰かが気づいてくれればと粕森は声を出す。

 獣でも人間でも、生物ならなんでもいい。

 通りかかった生物を洗脳さえしてしまえばこの場を切り抜けることは可能だし、火傷した足も回復魔法の使い手を洗脳すれば再起可能だ。



「誰か、誰でもいい……っ! ……俺に気づいてくれぇっ」



 粕森の祈りが届いたのか、近くの茂みが大きく揺れ、それを見た粕森の目に希望の光が宿る



「お、おい……! そこに誰かいるんだろ? 助けてくれぇ……!」


「ほっほぅ! これは辛そうじゃのぅ。すぐに楽にしてやるでな」



(この声、ジジイか? いや、使えるなら誰でもいい)



 茂みから聞こえた老人の声に落胆する粕森。

 だが今は猫の手でも借りたい状況だ。文句は言えない。

 洗脳して体のリミッターを外せば、老人でも大の男一人担げることは分かってる。

 無理が祟って早死にするためあまり使わない手だが仕方がないだろう。

 そう考えた粕森はすぐに洗脳の力を飛ばす。

 その直後、粕森の脳裏に甲高い音が響く。

 この音、そしてこの感覚は洗脳が弾かれた時のものだ。



(なんでこんなジジイに……!?)


「ふむ、今お主、ワシを洗脳しようとせなんだか?」



 相手の言葉にぎょっとしたのも束の間、洗脳失敗に粕森は頭が沸騰するほどの怒りを感じる。粕森はもう一度能力を使おうと、すぐそばまで来た声の主を見上げた瞬間、恐怖で凍り付いた。



「なっ……に? ば、バケモノ……っ」



 声の主は人ではなかった。

 顔だけなら確かに人間に見えるが、耳まで裂けた老人の顔がとてもおぞましく、口にはサメのような歯がずらりと並んでいる。

 胴体はライオンで、背中から蝙蝠の翼とヤマアラシのような黒い棘がびっしりと生え、尻尾は長く鋭いサソリの尾だ。



「バケモノ扱いは傷つくのぅ。気安くゴースと呼んでいいぞぃ」



 粕森の前に現れたのは一頭のマンティコア――ゴースだ。

 かつて城塞都市を襲い、信太郎や魔道戦姫リリアによって倒されたはずの怪物が粕森を見下ろしていた。

 ゴースの醜悪な笑みに粕森は震え上がる。



「安心せよ。意味もなく甚振るような真似はせんよ。痛いのは一瞬じゃ」



 ゴースは幼子をなだめる様な声を出すと、耳まで裂けた口を限界まで広げる。

 粕森の頭をかみ砕く気だ。

 捕食者のおぞましい口腔内を覗き込んでしまった粕森の背筋が震える。

 体はまともに動かず、洗脳も効かない。



 避けられない死を目前にして、粕森の脳裏に浮かんできたものがある。

 それは日本で暮らしていた時、まだ普通の大学生だった時の記憶だった。



(なんだこれ? 死ぬ直前に見るっていう走馬灯って奴か? あ、こいつらは……)



 粕森の脳裏に浮かぶのはチャラそうな茶髪の男が2人。

 彼らは高校からずっと一緒の親友だ。



(そういや中学時代の先輩の合コンに誘われた時もやめろって止めてくれたっけ)



 粕森が思い出すのは順風満帆だった大学時代を地獄に変えたあの事件。

 良くない噂の多い先輩に誘われた合コン、参加予定の女性はみんな美人で粕森はホイホイついて行ってしまった。

 友人2人は関わるなと言ってくれたというのに。

 大物ヤクザの孫娘に手を出した先輩はヤクザの報復行為で『解体』され、一緒に浚われた粕森は思わぬとばっちりを喰うことになる。



 ワビとして売人の仕事を手伝わされ、多くの友人が離れていく中で、彼らだけが最後までそばにいてくれたことを粕森は思い出した。

 巻き込みたくない一心で最後は自分から距離を取ったが、どれほどその友人らに救われたのか言葉に出来ない。



(い、いやだ! 死にたくねぇ! せめてあいつらに謝り……っ)



 意識が朦朧とする粕森が最後に感じたのは、自分の頭蓋骨が砕かれる音だった。




 ◇



「ゴースおじいちゃん、能力はちゃんと奪えた?」



 可愛らしい声が暗い森に響く。

 声の主は赤い頭巾をかぶった可憐な少女だ。

 彼女の名前はアリス。

 十代前半に見えるこの少女は星振教団の幹部であり、大陸中に指名手配されている危険人物だ。



 そんな少女の隣に座るのは喰い殺した人間の能力を奪える人面の魔物、マンティコアのゴースだ。

 人間を遥かに超えた視力で、遠くにいる人影――ガンマたちを物陰から油断なく見据えている。

 遠くのガンマたちの姿を視界に収めながら、口元を真っ赤にしたゴースが笑う。



「おう、きっちり奪ったぞい。たしか洗脳の力だったかのぅ。異世界の者に、例えばあやつらは効くのかの?」



 ゴースは数百メートル離れた場所で何かを探し回るガンマたちを顎で指し示す。

 おそらく粕森を探しているのだろう。

 ガンマたちは必死に茂みを探し回り、ついにゴースが食い散らかした粕森の死体を発見する。

 まさかに結末に驚き、戸惑っているのが分かる。

 ゴースからしてみれば隙だらけだ。



「無理っぽいよ~、この世界の英雄とかにも効かないし、格上すぎると弾かれることもあるみたい。それとあのお兄ちゃんたちは≪お気に入り≫みたいだから襲っちゃダメだよ~」


「ふむ、残念じゃの」



 釘を指すような視線にゴースは大人しく引き下がる。


 ≪お気に入り≫。

 それは星振教団が崇める邪神たちが目をかけた者を指す言葉だ。

 彼らの最近のブームは異世界の住人に能力を与えてこの世界に解き放ち、観察することらしい。

 神々からしてみれば小説を見ているようなものなのだろう。



 ゴースからしてみれば厄介な敵が増える行為なのであまり気分の良いことではないが、その思いをアリスの前で口に出すことはない。

 アリスの戦闘能力はゴースを遥かに超えており、ここで争うのは得策ではないからだ。



「ここで食い殺して能力を奪っておきたかったんじゃが≪お気に入り≫ならば仕方がないのぅ。ところで魔王は今どこにおるんじゃ?」


「西の方で『聖女』と『武神』相手にやりあってたよ~。お互いに痛み分けの形になったみたいだね」


「……ほう」


 大陸でも有名な英雄の名を聞き、ゴースは少し驚いたような顔を見せる。


 武神オーガス。

 勇者の国にて武神の称号をもらった大英雄であり、一対一の戦闘なら今代の勇者にも勝てるほどの強者だ。



 聖女アナスタシア。

 宗教国家ロマリアを治める聖王、その直系に生まれた少女は稀代の神聖魔法の使い手として有名だ。

 体は弱いが、魔力量なら歴代聖女で並ぶものなしと謳われるほどで、初代聖王の持つ伝説の武具に選ばれた彼女は『天使の軍団』を召喚する事が出来る。

 彼女の戦力は単独で一軍にも匹敵するほどだ。



 英雄の中でも厄介なあの2人を相手に痛み分けとは中々の戦果だ。

 嬉しい報告にゴースは笑みを浮かべる。



「して、計画についてじゃが変更などはあるかのぅ?」


「思ったより消耗したみたいだし、時間を置きたいんだけどさ~。なんか勇者の国がこっちの動きに気づいてるみたいなんだよね~。だから早めることにしたんだって」


「どれほどじゃ?」


「遅くても二ヶ月以内に総力戦だって」



 アリスの言葉にゴースは一瞬渋い表情を浮かべる。

 あまりに急すぎる話だ。

 ゴースに任された仕事は後方の補給部隊や支援を崩すことだ。

 まだ人間の兵糧を焼いたり、食料生産地を荒らしまわるという役目が残っているというのに。

 ゴースは疑問の声を上げる。



「……いつもならもう少し人類の力を削いでから総力戦のはずではないかのぅ?」


「そ~だね。でもね、お母様が面白いことを考えたんだって! いつもと違う展開にしたいみたいなの~」



 アリスは夢見る少女のようにはしゃぎだす。

 お母様という言葉を口にした時の声色からすると、相当にその人物に懐いているようだ。そんなアリスとは対照的にゴースの顔が強張る。

 星振教団でアリスがお母様と慕う存在などアレしかいない。

 非常に気まぐれな存在で、人や魔物を無償で救うこともあれば虐殺することもある。

 ゴースからしてみればあまり関わり合いになりたい存在ではない。



(またろくでもない事でも企んでるんじゃろな……)



 触らぬ神に祟りなし。

 ゴースはそう考えると、作戦を前倒しにした理由を追求するのを諦めた。

 どうせ気分の悪くなる話なのは間違いない。



「ふむ、ならワシにこの洗脳能力を与えたのは……」


「ゴースおじいちゃんには足りない兵力を作って欲しいんだって~」


「了解じゃ。では早速動くとするかのぅ」



 無邪気に「バイバイ~!」と手を振るアリスに、ゴースは疲れたような笑みを浮かべると闇に溶けるように姿を消した。

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