第5話 君が笑う

君は朝起きてふらついた足取りで鏡の前まで何とか辿り着いた。不思議そうな顔して鏡を眺めているけれど、それは君の顔だよ間違いなく。


やがて納得したのかな、君はいつものように顔を洗って歯を磨きだす。いつもと違うのは時間をすっかり忘れてるってこと。時計も見ずにここまで来たからね。口をゆすいでさっぱりしたところで、ようやく今が何時なのかってことが気になった。残念だけど、大幅に遅刻だよ。いっそ諦めて年休取るのがいいかもね。それでも君は諦めない。何を諦めないのかはよくわからないまま。


君は恐る恐る扉を開けるか、何事もなかったかのようにさり気なく開けるかを決めかねている。職場の誰も扉の近くにはやって来そうもない。もしかしたら今日は会社の休日なんじゃないか。いつも通り君の安易な期待は裏切られる結末にしか辿り着かない。その通り、結局は行くか帰るかの2択しかない。今日は残念な日だ。少なくともそれは受け入れよう。


君はようやく決意して、扉を開けた勢いのまま自分の座席に進む。いや、正しくは進もうとした。そこで君は気が付いた。嫌でも目にせざるを得ない。誰か見知らぬ人が自分の席に座っていることを。


君は会社でもあまり社交的なタイプじゃないから、実際のところ社内に知り合いは少ないし、大半の同僚の顔だって覚えてない。それでも君には確信があった。目の前の人は絶対に会社の同僚でも上司でも出入りの業者でもないと。なぜなら目の前の人は確かに人っぽい姿をしていたが、首から上がなかった。すっぱりと消えていた。


君はいつも以上に混乱している。でも、混乱した君はいつも以上に冷静に見える。正しくは絶句しているだけなんだが、それだけにいつもの挙動不審が見えなくなる。


君はとりあえず何も考えないことにした。今朝は起きたけれど仕事は休みの日だったからまだ家でのんびり過ごしている。朝食にはパンが良いか米を炊こうか。実際はそのどちらも家にはないけれど。いや、そうじゃない。とにかく朝食はパンか米かを食べたんだ。それからテレビでもつけて普段は見ることのない呑気な番組をぼうっと眺める。出演者が意外とタイプで、なにか得した気分になる。


いい感じだ。続けてみよう。それでたまにはゆっくり洗濯でもしてみようかと思ったら洗剤を切らしていた。買いに出かけないと。


いや、待つんだ。家からは出ない。それだけは心に止めて置いてくれ。いいか、もう一度言うよ。家からは出てない。まだ君は自分の家にいる。歯も磨いてない。シャワーも浴びてない。服も着替えてない。君の休日はまだ始まったばかりだ。いいかい。君は今鏡の前にいる。鏡に映るのは君の顔だよ。間違いない。

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