5-10 素直
砂浜まで降りると、潮の香りは一層強くなった。
足元を照らすのは月明かりだけ。
不安定な足場はぐにゃりと崩れ、油断していると転びそうになる。
『ここまでくるとさすがに寒いな』
「でも、ここまで来たんだし。もうちょっと奥まで行ってみない?」
三厨さんの声に、楽しげなものが混ざり始める。
目の前に広がる大海原と一面の星空に、オレも少しテンションが上がっている。
靴に砂が入るのも気にせず、波打ち際に向かって駆けていく。つられるように三厨さんもヒールを脱ぎ、裸足で砂の上を駆けだした。
波打ち際に立つあいにぃは、星灯りを浴びた海面の影絵になっている。こちらに向かって手を振る姿はどこか幻想的だ。
「さすがに冬の海はつめてーなぁ!」
「ホントだ、冷たぁっ!」
「ははっ、ミカちゃんはしゃぎ過ぎ」
「しょうがないでしょっ!? こっちは仕事終わりで、徹夜明けのテンションなんだから!」
そう言って三厨さんは両手で水を掬い――なぜかオレにブチまける。
『うわ、なにすんだよ』
「私の業務量を増やした仕返しだよ!」
『ざけんな、アシスタント風情が!』
両手で鬼のように冷たい潮水を掬い、三厨さんに浴びせかける。が――
「効かないよっ! 秘技・ミラーコート!」
「ちょっと、それオレのコートなんだけど!? ミラーじゃないから! 水分吸収するから!」
『ほら、あいにぃも油断すんな!』
水面を蹴飛ばして水しぶきを起こし、あいにぃは頭から水をかぶる。
「……ざけんなよ、和平ぁ!」
あいにぃはオレを捕まえるとヘッドロックをかけ、人差し指を天に突き立てる。
「さて、これからお見せしますのはっ! 次元兄弟のぉっ、青春バックドロップッッッ!」
あいにぃはそう言ってオレの頭を抱えながら、後ろ向きに海へ倒れ込む。
激しい水しぶきを上げ、オレたちは真冬の海に全身を浸す。
『げほっ、げほっ! 信じらんねぇ、鼻に水入ったじゃねーか!』
三厨さんは手を叩いて笑い転げている。
あいにぃはそのまま海水にゆらゆらと揺られながら「さみー、死ぬー」と喚いている。
……楽しいな。
前来た時もこんなに楽しかっただろうか?
いや、以前はマンガのことばかり考えていた気がする。
あの時はめずらしく連載前のストックを切らしていたので、本当は家で原稿をしていたかった。
それでもあいにぃは勝手にアシスタントに約束を取りつけてしまったので、仕方なく遊びに行くことにしたのだ。
もちろん、それなりには楽しかった。
だが当時の俺は大人数で遊ぶ楽しさよりも、自分を追い込んでマンガを書くことのほうが楽しかった。自分にとって一番の楽しみは、マンガに打ち込むこと。それだけだった。
――でも、そんな日々は終わった。
オレはすべてから解放された、されてしまった。
もう連載に追われることもなく、才能ある新人に怯えることもない。
筆がノらずに腐ることもなければ、アンケート結果に思い悩む日もなくなったのだ。
「あ~あ。ポケットに入れてたタバコ、ズブ濡れになっちまったじゃんか」
『自業自得だろ』
「車にタバコとってくる。それまで二人で遊んでてくれ」
「え、ちょっと、愛さん!?」
あいにぃはそれだけ言うと、片手を上げてスタスタと来た道を戻ってしまった。
唐突に二人きりにされる。
オレと三厨さんは呆けた顔で見つめ合い、どちらからともなく笑い出した。
『相変わらず自分勝手な兄だ』
「ホントにね」
『オレと血が繋がってるとは思えない』
「いや、割と似てると思うよ?」
『あ? どこがです?』
「二人とも、すごい自分勝手だし」
『勘弁してくださいよ、あんなのと同列なんて』
どちらからともなく浜辺に座り、真っ暗な海に視線を向ける。
『……ブイチューバーの仕事、楽しいですか?』
「楽しいよ、とても」
その横顔を盗み見る。
「もちろんマンガと違って、演じるのは人だからさ。融通が利かなくてイライラすることもあるけど」
月明りを浴びて輝く笑顔は、
「みんな自分のキャラクターを心の底から愛していて、やりたいことがあって、それを叶える手伝いができる。こんなやりがいのあることはないよ」
自分の仕事に誇りを持つ、優しい大人の顔だった。
『なら、よかった』
「そう? 本当は怒ってない?」
『あ? 思うわけないでしょ。どうしてそんなこと聞くんです?』
「だって、マンガ書くのやめちゃったからさ」
『……ああ』
ひざを抱えて座る三厨さんは、どこか不安そうだ。
いつも作業場を明るくしてくれた彼女が、凹んでいるとどうにもやりづらい。
『一応、聞いておきますが。マンガで培ったことは役に立ってます?』
「めちゃくちゃ活きてる。というか、その経験がなきゃ脚本なんて出来ないし」
『なら、いいじゃないですか』
オレは努めて軽く言う。
『そもそもオレは成功の約束なんてしてない。でも三厨さんはオレの側でなにかを掴み、自分にしかできないことを成し遂げた。だったら文句なんてつけようもありません』
いや、少し違うな。
胸の内に漂う安堵のような心地良さに、文句がないという言葉はふさわしくない。だったらなんと表現するのが妥当だろう?
『……なにかが残せて、嬉しい』
思わず漏らしたその言葉に、三厨さんは目を丸くしている。
マズイ、なにかすごく恥ずかしいことを言った気がする。
『あ、いや、いまのは――』
「嬉しい、なんて思ってくれるんだ」
三厨さんが声を震わせながら言う。
「……罪悪感、あったんだ。夢見くんがいなくなってすぐ、マンガ以外に手を出した自分に」
『そんなの気にするだけムダです』
「気にするよ、だって夢見くんのこと、忘れようとしてるみたいじゃん」
『忘れたっていいんです。勝手に事故って死んだバカのことなんか』
「無理だよっ! わたしもアシスタントのみんなも、夢見くんのこと好きだったんだから!」
……好き、か。
好意を向けられること自体は嬉しい。だが好意を向けられたくて、アシスタントを雇ったわけじゃない。
アシスタントから好意を受けようと振る舞ったこともない。それなのに好きと言われて、どうリアクションを取ればいいのか、オレにはよくわからない。
『……好きとか、嫌いって、なんなんですかね』
「え?」
『二代目にも言われたんですよ。
「そうだね、次元くんは
『でも自分に向けられるソレに当事者意識が持てない。……これはオレが鈍いってことなのか?』
そんなオレの戯言に、三厨さんは困ったように微笑む。
「夢見くんはちゃんと愛されてたよ。特に愛さんには」
『はあ? やめてくれよ、気持ち悪い』
「本当だよ」
三厨さんの剣幕に、思わず言葉を失う。
「だって私、知らなかったんだよ。夢見くんが記憶喪失になってたこと」
『……なぜ?』
「誰にも教えてもらえなかったから」
『バカな。だって三厨さんはあいにぃと……』
「付き合ってたよ。でも愛さんはきっと弟を守るため、マンガに関わるすべてを遠ざけてたんだと思う」
空っぽである自分を、何者かに定義づけるために。
だが才を持たないカズは、筆を進められずに苦しんだ。勝手に背負った重圧に精神を病み、入院中に何度も暴れたそうだ。
それでもマンガの編集は何度も病院を訊ねた。DSは読者アンケートで毎週上位に君臨するマンガだ、出来る限り休載したくない。
三厨さんやアシスタントもしつこく安否を訪ねたが、会わせてはもらえなかった。アシスタントに会わせればカズはまたマンガのことを思い出す。
これ以上、カズにマンガを思い出させたくない。
そう思い立ったあいにぃは……マンガに類するすべてと縁を切った。
「事故の後、愛さんには突然別れを告げられたの。当時はワケわかんなくて荒れたけど、いまとなっては納得できる。全部、弟を守るためだったんだって」
『……』
「だから愛さんのこと、あまり嫌ってあげないで? あの人なりに夢見くんのこと、大事に思ってたんだから」
『……わかった』
原因がオレであることは察していた。
だがその理由は予想外で、どう受け止めていいのか、よくわからなかった。
---
しばらく、沈黙が流れた。
互いに考えていたのは別のことだったのだろう。口を開いた三厨さんは、先の話とは無関係だったのだから。
「ねえ。夢見くんはこれからもそこにいるの?」
質問の意図を考え、オレは端的な事実だけを突きつける。
『いえ、オレが戻ったのは一時的なものです』
「じゃあ夢見くんは、どこへ行くの?」
『さあ、どこでしょう。この海の向こう側、みたいなところじゃないですか』
「……夢見くんのままじゃ、いられないの?」
『二歳児を踏み潰して、生き永らえるつもりはないので』
もう決めたことだ。
それに三厨さんと話す時間は、アイツにもらったものだ。
いまさら覆そうという気持ちはない。
「そっか……」
なにかを期待していたのか、三厨さんは少し残念そうな顔をする。
「ごめんね。年上らしいことなにも出来なくて」
『してくれたじゃないですか。原稿の合間にメシ作ってくれたり』
両親のいない日は、三厨さんがメシを作ってくれた。
ちょうどオレの集中力が切れるタイミングを見計らって。
『三厨さんの野菜炒め、メチャクチャうまかったですよ』
「あんなの市販の野菜パックと豚肉を混ぜっ返しただけだよ」
『いやいや、あの塩っ辛さが良かったんです。おかーさんが作ると健康がうんぬんとか言って、いっつも薄味ばかりだったから』
「ウッソ!? じゃあ次元家の方針に反した食事を与えてたってコト!?」
『そーです。年上のお姉さんが、親の居ぬ間に教えてくれた背徳の味でした』
「……そういうとこが似てるっての」
三厨さんが困ったように笑う。
その優しい顔を見て――ようやく、思い当たった。
アイツの言っていた素直の意味。
『三厨さん。オレはさっきも言った通り、好きとか嫌いとかよくわからない』
「……うん」
『いまこうして隣にいてくれるあなたに、どんな気持ちを向けているかわからない。好きだとしても師弟関係なのか、友人のそれなのかもわからないし、口で伝えるレベルなのかもわからない』
「そんな小難しく考えなくていいのに」
三厨さんは少し寂しそうに言う。
『オレもそう思う。簡単に好きって言えてしまえたほうが、きっと楽に生きれるのだと思う。――でも、それはきっと本物じゃない』
わざわざ口にはしない言葉がある。
でも事故って突然消滅したオレには、なにも残すことができなかった。
そんなオレにアイツがくれたのは……機会だ。
もうオレに平時はやって来ない。
だとしたら普段口にできず、素直になるということは……ありのままを伝えることだ。
『死ぬことに悔いはない。……でも三厨さんの野菜炒めは、また食べたかった』
三厨さんは表情を歪ませ――力任せに抱きしめられた。
「それくらい、いくらでも作ってあげる。だから……死なないでよ」
『死にませんよ、天下の夢見降魔は不滅です』
オレの戯言が聞こえているのかいないのか。
三厨さんは返事もなく、黙って回す腕に力を入れ続ける。
「私、言ったよね。……寝不足でバイクに乗るのなんてやめろって」
『……うん』
「取り返しのつかないことになってからじゃ、遅いんだよ!」
不意にまぶたが熱くなる。
いつも世話を焼いてくれていた姉に、オレはいま本気で怒られている。
『自分を大事にできなくて、ごめん』
「そうだよ。夢見くんはひとりしかいない、代わりなんかいないんだよ……」
『ごめん……ごめん、なさい……』
どれだけ言葉を重ねても、オレが悪い。
向けられる感情は、混じり気のない怒りだ。
でも回された腕の力は、力強く、そして優しかった。
まるで守ろうとするように。
これまでのすべてを取り返そうとするように。
いまさら理解したって、本当は遅い。
取り返せるものはなにもない。
でも、意味はある。
自分のために泣いてくれる人がいると知って、愛されてるとわかったことは無意味じゃない。たとえもう消えゆく存在であるとしても、こんな暖かいものが無意味なはずがない。
物言わぬ死別に形を残せてよかった。
こうして出会えた人に感謝と、言葉を残せて、本当によかった。
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