1-14 どこかだれかのストーリー
自転車にまたがり、生温い風を切って疾る、帰り道。
俺は恥ずかしさのあまり、世界で一番死にたい人になっていた。
なぜ俺は会ったばかりの女の子に、浮ついたようなことを言ったのだろう。
……紗々とラインがしたいって、なんだよ。
思い返しても顔から火が噴き出しそうだ。
でも、ウソはついてない。
紗々の機嫌を取るためについた、その場限りの言葉じゃないことは確かだった。
「カズ~」
胸元の缶バッヂからゆるい声が聞こえる。
帰り際、紗々にもらった物だ。
紗々の家には他にもブルームグッズがあるので、俺がブルームと話す時に使ってくれと言って手渡された。
「さっきの、悪くなかったじゃん」
俺は応えない。
「点数で言うなら、七十点てとこかな」
「なんの点数だよ」
「さあね~」
ブルームの言葉を無視し、俺は黙々とペダルを踏む。
……月明りに照らされる儚い笑み。
なぜかその光景がなかなか頭から離れなかった。
「これからもその調子で頼むよ!」
「できる限りな」
「ったく、素直じゃないなあ。男のツンデレは需要ね~ぞ?」
「うるせえ、缶バッジ。川に投げ捨てるぞ」
「わーウソです、ウソ!」
ブルームはしばらくぎゃあぎゃあと騒ぎ立てた後、不意にしんみりと呟いた。
「……ボクはね、カズに友達になって欲しかっただけなんだよ」
「なんの話だ?」
「ママと会ってもらった理由だよ」
俺はあの日、ブルームに急き立てられて紗々の部屋に飛び込んだ。
蛇口の水を止めるという、崇高な行いのために。
だがブルームは頑なに俺を帰らせようとしなかった。
それは俺と紗々の間に、繋がりを持たせるため……?
「だったら最初からそう言えよ」
「ママと友達になって! ……なんて理由で深夜に叩き出すのは、さすがに失礼かと思ってさ」
数百円の水道代ならどっこいどっこいだろ。
「それに心配だったんだよ。ママが引退したらボクは自然と消滅する。そしたらママは広い都会に独りぼっちだ。カズはぶっきらぼうだけど、悪いヤツじゃなさそうだったし」
「お前、そこまで考えてたのか」
「当たり前さ。ボクはママに我慢をさせてまで、ブイチューバーを続けて欲しいとは思えないよ」
我慢、か。
その一言には果たしてどれだけの意味が込められているのだろう。
「だからボクは言ったのさ、カズにはそこまで頼んでないって」
「いや、やるよ」
「……誰かに命令されたから?」
「それだけじゃない」
ブルームを繋ぎ止めるのは、上から降ってきたやらされ仕事だ。
でも二人には離れ離れに欲しくないと心から思う。
紗々の負担にはなりたくない。
そんな悲しい覚悟を、ブルームにはさせたくなかった。
---
それからブルームといくつか軽口を交わし、自宅のボロマンションに帰ってきた。
近くの神田川からは安定の不思議な香りが漂っている。
俺もできることなら紗々のマンションに引っ越したい。
そんなことを思い自転車の鍵を閉めていると、スマホがけたたましくなり出した。
……紗々だろうか?
スマホを取り出すと、着信相手は三厨さんだった。
タクシーだったし、家に帰れなかったってことはないだろう。
もう仕事の話もあるまいし、酔っ払いのウザ絡みだろうか?
めんどくさい……とは思ったが、これから世話になる相手だ。邪険にはできない。
俺は外壁に背を預けて、着信ボタンを押す。
「……もしもし?」
無言。
「三厨さん?」
返事がない、ただのしかばねのようだ。
……なんだろう、バッグの中でスマホが暴発でもしてるんだろうか。
それとも電話を掛けた瞬間に寝落ち? んなアホな。
けれど掛けてきた相手が一言も発しない以上、どうしようもない。
一度切ろう、用事があるならまたかけ直してくるはずだ。
そう思い、耳から離そうとした瞬間。
「――夢見くん、だよね」
生温い風が前髪を撫で、葉擦れの騒めきがあたりに響く。
「違うなんて言わせない。二年間、ずっとキミの側にいたんだから」
……すっかり失念していた。
三厨さんが夢見降魔の元アシスタントだという、事実。
そうだ、わからないはずない。
三厨さんはあの場で気付かなかったんじゃない。
隠そうとしていたことを読んで、初対面を装ってくれたんだ。
「さーちゃんに知られたくなかったんだよね、DSの大ファンだったから。夢見降魔が実はいまも生きていて、ひっそりと生きてるなんて知らせたくなかったから」
思えばおかしいことはあった。
変装を解いた瞬間、三厨さんは「思ったより若かったから安心した」なんて言って俺を信じた。
違う。
知っている人物だったから信用に至ったんだ。
それに引っかかっていた言葉もある。
――片手間に書けるデザインじゃないですよ、可愛くかけてると思います。
――はは……ツギモト君にそう言ってもらえると嬉しい、かな。
なんで俺に褒められたら嬉しいんだ?
……世間に認められた経験のあるマンガ家であることを、知っていたからだ。
「話してよ、もうバレちゃったんだからさ」
声音がフラットで感情が読み取れない。
喜んでいるのか、それとも怒っているのか。
「このままじゃ気になって眠れない。あの原稿狂いの夢見先生が、マンガを書かずにのうのうと生きてるなんて」
「……怒ってますか」
「半分は。でも、もう半分は……うれしいよ」
電話口ではぐっ、と溜めた息を吐きだすような音。
「顔色、よくなったじゃん。それに前より明るくなった」
「そう、ですか」
「マンガを書いてるときのキミはご飯もろくに食べないし、寝ないし。私たちアシスタントはキミの生活管理係って感じだったよね。ご飯作って洗濯して、思い出したようにベタ塗りして。マンガの内容について口出せることなんて、ほとんどなかったし」
不思議だ、人から聞かされる自分の話って。
「最初は年下の先生はやりづらいって思ってた。でもすぐにキミの才能に圧倒された。ペースも内容も常人とかけ離れていて、書き直しにも迷いがなくて、自分が天才だと思ってるのは鼻についたけど……私生活はなにも出来ないとこが可愛かった、尊敬できる先生であると同時に、みんな弟みたいな目で見てた。私たちがついていてやらなきゃな、なんて思ってた」
当時を思い出したように楽しげに笑う。
「だから突然の事故って聞いて驚いた。面会謝絶のまま、無期限休載を決めたことも。編集長も一切の事情を明かしてくれないし」
「……本当にすいません」
「なにがあったかは知らない。でも私じゃ、私たちは、信用できなかった?」
「違うんです」
「じゃ、どうして」
「もう俺は、夢見降魔じゃないからです」
「……どういうこと?」
「もう、ここに夢見降魔の魂は残ってないんです」
家族と編集長以外知らない事実、それは――。
「俺、次元和平は事故に遭ってから、記憶喪失になったんです」
次本和平は夢見降魔の名前でマンガを書いていた。
だがいまこの体を生きているのは、夢見降魔の記憶を持つ魂じゃない。
この体には二年前から別の魂が宿っている。
「だから俺には三厨さんとの思い出がないんです。……本当に、ごめんなさい」
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