Zokuri

クサバノカゲ

――いる。

 あれはコロナ禍による緊急事態宣言が全国に広布されてから、一週間ほど過ぎた頃のことだ。


 私は同僚である高橋(仮名)と自宅の仕事机同士を結ぶテレワークで、懸案のプロジェクトに関する打ち合わせをしていた。

 ノートPCの画面に映し出された高橋の、自宅だというのに小ぎれいに整えた身なりに感心しつつ、だからこの男はモテるのだろうなと、わずかな妬ましさもおぼえてしまう。

「なあ、どうした?最近ちょっと元気ないぞ」

 片耳に装着したワイヤレスのヘッドセットから、響く優しい声。こういう気遣いもそうだ、私にはないものばかりを彼は持っている。

 彼の言うとおり、私は先週から、ごく私的な事情によりたいへん落ち込んでいた。はっきり言ってしまうと、原因は失恋である。

「少し、休憩しようか。コーヒー淹れてくるよ」

 高橋が画面から消えて、あるじと同様に小ぎれいな部屋の一角、多様な書籍が並ぶ本棚だけが映し出される。

「……?」

 一瞬の違和感。画面の隅に、何か白っぽいものが見切れたような気がした。なにかわからないまま、見てはいけないものを見てしまったような、妙な胸騒ぎだけが残る。

「なあ、ほんとどうした?ますます顔色わるいぞ」

 声と共に、コーヒーを持った高橋が再び画面の中央に収まる。

「いや……、その部屋ってお前の他に誰もいないよな?」

 私の問いかけに、高橋はあからさまに嫌な顔をしてみせた。

「やめろよ、そういう趣味悪いの。女の子のLIVE配信によくいる厄介なやつみたいだぞ」

 たしかに高橋の言うとおりだな、と出かかった謝罪の言葉を、つぎの瞬間に私は生唾とともに飲み込んでいた。


──いる。


 高橋の映る画面の左の端。長い黒髪に、白いブラウスを着た若い女が、片目だけでこちら側を覗き込むように見切れて、そこにいる。

 高橋からの位置関係は、ほぼ真横。気付かないはずがない。

「頼むから、冗談はやめてくれ。そこに女の子がいるじゃないか。申し訳ないけど、そういうのに乗れる気分じゃないんだよ」

 心臓の高鳴りを抑え、声が震えそうになるのを必死にこらえながら、私はそう言った。こんなにはっきり見える霊だとか、そんなものあるわけがない。高橋の悪い冗談であってほしい。

 しかし高橋は、何も言わずに目を見開いて、こちらを凝視して、それからゆっくりと喋りだした。

「……なあ、そっちこそ悪い冗談はやめないか。女の子が見切れてるの、そっちじゃないか。白い服で、長い黒髪の……」

 こいつはいったい何を、言っているんだ?理解できない、というよりも、脳裏に浮かんだおそろしい想像を理解したくない気持ちのまま、私はゆっくりと首を横に向ける。

 誰もいない、見慣れたいつもの私の部屋だ。反対側を見ても、殺風景な壁しかない。

「いや、こっちには誰もいない」

 言いながら視線を画面に戻すと、高橋も同じ考えに至ったのだろう、周囲を見回しているところだった。

「こっちも、誰もいないぜ」

 確かに、女の姿は消えている。

「でも、見えたよな」

 私の言葉に、真剣な表情でうなずく高橋。その画面端から、ゆっくりとのびる生白い女の腕。その手には、まがまがしく銀にかがやくナイフが逆手に握られている。

「「逃げろ!」」

 私が叫んだのと同時に高橋も、まったく同じ言葉をこちらに向けて発していた。その「意味」を瞬時に理解した私は、椅子ごと後方に倒れ込み、肩をどこかにしたたかに打ちながらも、転げて這いずるように仕事机の前から必死で離れる……!


 ──沈黙。


 部屋の中には誰もいない。ナイフを持った女の霊なんてものは、いやしない。


 ふふ、くふふ…… あは、ははは…… ひひひ……


 突然ヘッドセットから聞こえてきた笑い声に、心臓が縮み上がる。だが、それが高橋と他の誰か──女性の、笑い声だと気づいた私は、慌てて画面の前に戻る。

「いやごめんごめん……ああ、くるしい……おまえが最近あんまりに元気ないから、ドッキリしかけて励まそうと思ったんだけど……ひひ……まさかそこまで見事に引っかかるとは……」

 笑いすぎて苦しそうに弁明する高橋と、その横で片手を口に添えて上品に笑う、白いブラウスを着た美しい女性。

「おっと、紹介しておくよ。さいきん、っていうか先週から正式に付き合うことになった、俺の彼女」

 画面の中から微笑んで会釈したそのひとは、先週、一方的なさよならのLINEと共に音信不通になった、私の元恋人だった。

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Zokuri クサバノカゲ @kusaba

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