最悪の場合、あなたと雪になる 6/6



「断ったんだって?」

「え?」

 振り向くと、前田がいた。

 夏の間は閉館業務が終わった後でもまだずっと明るいままだ。ほとんど昼みたいな時間に家に帰れるのは気分がいいけれど、反面、日差しが強いから大量の発汗を覚悟しなければいけないデメリットもある。駐輪場に行くまでの間にどのくらい汗をかく羽目になるのか、と腹立たしいくらい青い空を勝手口から見上げていたら、後ろから、突然の声だった。

「正職員になるってやつ」

「ああ」

 歩きながら話すのかと思ったら、どうもそういう雰囲気ではない。遠音は庇の下にとどまったまま、前田の話に相槌を打つ。

「もしかして、あたしに気遣った?」

「え、ああ」

 思わぬ踏み込みに遠音が戸惑いながら頷けば、うわ、と前田はその表情を見て一言。

「今の、全然考えてなかったって顔じゃん。うわー……。自意識過剰で恥ずいわ……」

「あ、いや! 考えてました。考えてましたよ、ちゃんと!」

「それはそれでどうなんだよ」

 ぐりぐり、と腰のあたりに拳を当てられて、とりあえず遠音は困り顔で笑う。

 別に、嘘ではなかった。断りの言葉を口にするとき、前田のことを考えたのは嘘ではない。ただきっと、前田が思っているのとは、違う考え方だっただろうというだけで。

 前田は拗ねたように言う。

「別に、今からでもいいんじゃない。あたし、戸祭さんが正職員になるとか気にしないよ。外国語要員でしょ? あたしじゃ絶対無理だし。そういうところ、変に遠慮しなくてもいいからさ。生活だって、絶対そっちの方が楽になるし」

「そんなことないでしょう」

 ん、と怪訝な顔をする。今の言葉が、どこを否定したのかわからなかったらしい。だから、遠音ははっきりと言葉にする。

「前田さん、外国語の勉強してますよね」

「な、」

 今度は前田が戸惑う番だった。攻守逆転。思わぬ踏み込みに言葉をなくしたのは向こうの方。

 本当は、最初から知っていたし。

 それを当てにした部分も、少なからずあった。

「私のいないときに借りてるんですか? 毎週あのあたりの棚から入門書が借りられてるなって思ってたんです」

「……気付いてたの」

「なんとなくそうなんじゃないかなと思ってました。最初のころと違って、英語か英語じゃないかくらいは聞き分けられるようになってたみたいですし。ほら、フランス語のときなんか」

 そこまで聞くと、前田は頭を抱えた。しまったな、と唇のあいだから小さくこぼして、唸るように、

「忘れてたわ、この子頭いいんだ……」

「恐縮です」

 思ったより、遠音は自然に笑えた。もう、何も気にすることはなくなったから。

 そうすると、決めたから。

 恐る恐る、前田が、

「……ちなみに、本当は何か国語くらい喋れるの?」

「20くらいじゃないですか?」

「もう嫉妬する気も起きねえや」

 ははは、と乾いた笑い声。勝てねー、と前田は顔の片側に手を当てるようにして、

急に真面目な顔になって。

 じっと目を見て、こう言った。

「―—なりなよ、正職員」

 それに、遠音は穏やかに笑って、こう返す。

「―—なりません、正職員」

 あんまりきっぱりした言い方だったからだろう。気圧されたように身体を後ろにそらしたのは前田の方で、それでもかろうじて、疑問を口に。

「なんで」

「安定した生活に興味がないので」

 今度こそ、前田の口は唖然の「あ」の字になって、ぱっかりと開いた。

「……そんなパンクな感じなんだ。可愛い顔して」

「前田さん、今から家来ます?」

「えっ? なになになになに! ついていけてないんだけど。ジェットコースターみたいな会話やめてくれる?」

「さっきの話、私が断ったから4月採用にずれ込むらしいですよ。半年以上あれば、とりあえず英語と中国語くらいは形になると思います。私がサポートすれば、ですけど」

「……対価は?」

 悪魔に契約でも持ち掛けられたような警戒ぶりの前田の様子にまるで頓着しないで、遠音はひょい、と親指で庇の先、じりじりとアスファルトを灼く夏の陽を指し示して、軽い調子で言う。

「さすがに暑くて。車で送ってもらえませんか。前田さんって軽トラだから、後ろに自転車積めますよね」

「……他には?」

「まあ、前田さんを差し置いて正職員の誘いを受けたことへの負い目があることも否めません。あと、引継といえば、引継なのかもしれませんね」

 ふふ、とまるで負い目などなさそうに笑う遠音に、前田は溜息を吐いて、ばりばりと頭の後ろの髪を掻いて、

「なんか……変わったね」

「はい。―—綺麗さっぱり」

 逆光に、遠音の髪の先がちかっときらめいた。

 夏の空を青く切るような、清々しい笑顔を浮かべて。

 それを見る前田の瞳に、一瞬の間、白と、青と、紫と、合わせて銀河のような明かりが閃いて。

 それでとうとう観念したように、前田も笑った。

「よし! じゃあとりあえず送迎のみのメニューでお願いしようかな! ……本当に半年でいける?」

「前田さんの努力次第です」

 早速話が違くないか?と呆れる前田をものともせず、遠音は光の下に足を踏み出す。

 それから、「ああそうだ」と忘れ物を拾い上げるようにして振り向いて。

 こんなことを。


「―—私の家、宇宙人がいるんです。驚くと思うので、準備しておいてくださいね」


 なんじゃそりゃ、と前田が言うので。

 大切なことです、と遠音は言った。



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