最悪の場合、あなたと雪になる 5/6



 どうしてここにいるんだろう、とまずは怪しむところから。

「どうしたの? そんなに時間経たずに帰るつもりだったんだけど、」

「そうではない」

 きっぱりとトトは言う。いつになく強硬な目つきだった。こんな顔は、今まで一度も見たことがない。心なし足幅も広くなって、対峙するような雰囲気が流れている。

 そういうのが嫌だったから、静かに遠音は言った。

「……なんでもいいけど。もうちょっと近づいてよ。寂しいから」

 ちょいちょい、と手招きすると、その手をじいっとトトは見つめて、動かない。それこそ本当に猫が警戒しているような雰囲気で、遠音は何とも反応しづらい。

 とりあえず、やることやっちゃうか。

 そう思って、火を紙に近づけて

「わっ」

「―—だめ」

 見逃した。

 いつの間にかトトが自分の手首を握っている。宇宙人にしか使えない超加速か何かをしたに違いない。それなりの距離があったはずなのに一瞬だって経たないで、もうトトは自分の目の前にいる。いたたたた、と言えば素直に手を離して、

「燃やしては、だめ」

 真剣な顔で、トトは言う。遠音は自分の手の中にある紙と、トトの顔を交互に見て、

「……これがなんだか、知ってるの?」

「知らなくてもわかる。あなたのやろうとしていることくらい。―—はっきり言う。私はあなたの代わりになるためにここにいるのではない。あなたのやりたいことは、あなたの力でやって」

「―———」

 あんまりにも直球で言われたから、かえって上手く言葉は出なくなってしまって。

「え、えっと。……どこまで?」

「きなこと名乗る人物からすべて聞いた。あなたが私に『トト』の役を押しつけて、どこかへ行こうとしていること。……いいえ。どこかに行こうとしているのではない。どこにも行かないようにしている。そのこと」

 きなこ、と聞いてピンと来たことがある。前にあの人の絵を描く配信を見たとき、その絵柄が「パッチワーク・アソート」のメンバーのアバターにそっくりだった。たぶん運営サイドの人間なんじゃないか、と思っていたけれど、案の定だったのだろう。マネージャーを経由して「きなこ」から「トト」に連絡が入って、それにトトが対応してしまった。そんなところか。

「インターネットで電話かけられても出ないで、っていつも言ってるのに……」

「その点に関しては謝罪する。でも、いま私がしたいのはそういう話ではない」

 ぴ、とトトは遠音の手元を指差して、

「消して。火」

「……嫌って言ったら?」

「無理やり消す」

 合理的な判断だ、と遠音は呆れたように溜息を吐いて、真っ白なそれが空気に溶ける前に、かち、とライターを消した。

 それから天を仰いで、

「あーあ」

 ばたり、と背中から雪の上に倒れ込む。思ったよりも衝撃はなかった。温度が低い。肌に冷たさは刺さってくるけれど、見た目以上に雪は積もっていて、クッションになったらしい。前髪が雪を巻きこんで、額の熱に溶かされて水滴だけを残す。

 本当はどこかに夏の日が上っているのだろうけど。

 今ここからは、奇妙な雪雲だけが見えている。

「風邪を引く」

 トトの声。その心配に応えるわけでもなく、遠音はゆっくりと目を閉じた。

 そして、言葉がその代わりに、

「たぶん、私、自分のことを痛めつけたかったんだよね」

 トトは、何も言わない。

 だからその先も、遠音は勝手に。

「やりたいことをやる理由って、全然ないんだよ。ただ『やりたい』って、それだけのこと。『どうして宇宙に行きたいんですか?』って、そんなの行きたいからに決まってるし。『どうしてゲームが好きなんですか?』って、そんなの好きだからに決まってる。突き詰めれば突き詰めるほど、答えは純粋なものになってくの」

 取り留めのないことばかり。

 生まれて初めての、独白だった。

「でも、やりたくないことって、その逆。だって、やりたくないのにやらなくちゃいけないものに、たったひとつしか理由がないなんてこと、ないもん。出そうと思えば、いくらだって理由を出せる。『就職しなくちゃ、こういう理由で』。『結婚しなくちゃ、あういう理由で』。『ちゃんとした大人にならなくちゃ、そういう理由で』。……それで、最後には『やりたいことを諦めなくちゃ』って。別に、私ひとりだけがそういう苦しみを抱えてるってわけじゃないと思うけどね。みんなそうやって折り合いをつけて、やりたくないことをやってるんだと思う」

 でもね、と。

 額から、雪解けの水はこめかみへ流れて。

「私はたぶん、やりたくないことが多すぎたんだよ。そのうえ、すごく頑固。どうやっても、ひとつくらいはやりたくないことをやらなくちゃいけないし、ひとつくらいはやりたいことも諦めなきゃいけなかったんだけど、それで全部になっちゃった。ひとつ欠けるくらいなら全部なくした方がマシって、すぐ極端になっちゃうの。誰かに一口自分の林檎を齧られたら、どんなにお腹が減ってても思いきり投げつけてやりたくなっちゃう」

 子どもみたいだ、と自分で言っていて思う。誰にもわからない、誰にしているのかもわからない当てつけ。結局は、自分が傷つくだけの。

 でも、大人になった覚えがないのだから、それで当然なのかもしれない。

「低い給料で働いているのも、たぶんそれだったんだろうね。自分の価値を低くすれば低くするほど安心したし、傷つけば傷つくほど正しい場所に置かれてる気がした。……でも、もうずっと子どものままじゃいられないから。薄っぺらでも、本心じゃなくても、そろそろ形だけでも幸せにならなくちゃいけないって、そう思ったから」

 小さく、ほんの少しだけ唇を動かして。

 遠音は、言う。

「……だめかな。そういうの」

 しばらくの沈黙の後。

 さく、と雪を踏む音が聞こえる。遠音の身体に沿うようにして、頭の方へ。それから、瞼に届いている光の、遮られる気配。

 声は、さっきよりずっと近くで。

「だめ」

 さっきより、ずっと容赦なく。

「……ひどいなあ」

「まず、私にあの『トト』のキャラクターをやらせるのは不可能。あなたの方がゲームは上手い。それに、あんなに流暢に何時間も喋ることは、私にはできない」

「大丈夫だよ。ゲームはすぐに上手くなると思うし。それに私、あんまり中身のあることを喋ってるわけじゃないから。ちょっとトトに話し方とか声とか寄せてるし、入れ替わってもそんなに気付かれないって」

「気付かれる。あなたは自分のファンを馬鹿にしすぎ。人はもっと本質的な部分を見ている。少なくとも私は気付く」

「いや、それは一緒に暮らしてるから、」

「そもそも、あなたはそういう風に幸せになることはできない。断言してもいい。あなたは私の同類」

「―—え?」

 あんまりにも予想していない言葉だったから。

 どうるい。ドウルイ。同類。他にどんな漢字で表すんだっけ。それとも聞き間違い? 外国語? その響きが「同類」以外の何物でもないことを認めて意味を考え始めるよりも先に、トトは続きを口にする。

「こんな辺境の惑星まで旅するなんて、馬鹿のすること」

 トトの手のひらが、遠音の顔にそっと触れる。

 雫を拭うように、ゆっくりと横顔から、額へと流れていく。

「不時着して遭難したら、二度と帰れないかもしれない。命知らずで、頭がおかしくて、普通には生きられない人間のすること。平和で、波風のない生き方がどうしてもできなくて、あるかどうかもわからないものを求めて、めちゃくちゃな生き方を選んでしまう。そういうどうしようもない人間だけがすること。……私もそうで、」

 あなたも。

 囁くような声で、それでも確かに、トトはそう言った。

「私みたいな宇宙の漂流者を拾って、一緒に暮らす。しかも、全身ほとんど燃え尽きて炭になった状態から再生する姿をはっきりとその目で見てさえ。そんな選択をできる人間は、最初から普通の生き方を求めてはいけない。ただあなたは、少し変わった形でまた自分を痛めつけようとしているに過ぎない。それは、自分でもわかっているはず」

 そんなこと。

 あるに、決まっていたけれど。

「夢を見るために生まれてきた生き物は、自分の生き方を他人のせいにはできない。……いい加減に、諦めるべき。私たちは、何かを諦めることができない生き物だということを」

「トト、」

「なに」

「―—そんなにお喋りだっけ」

「うるさい」

 きょとん、と。

 同類、という言葉のあたりから、ずっと。

 だって、そんなことを考えているだなんて、今まで一度だって思わなかった。せいぜいトトから見た自分は「食事と娯楽を提供する便利な下僕」だとか、そのくらいのものだと思っていた。

 それが、こんな。

 たったひとりの、仲間みたいに。

「……ひとつだけ、訊いていい?」

「だめ」

「トトってさ、」

「だめと言った」

「知らない、そんなの。……トトは、どうしてこんなに遠いところまで旅してきたの?」

 無言。

 仕方がないから目を開けて立ち上がろうとするのを、ぐい、と押し戻す強い力。わぷ、と声を上げて目を白黒させれば、顔の前には小さな手。

「ねえ。手、どけて」

「嫌」

「寒くて風邪引いちゃう」

「…………」

 少しの躊躇いの後、恐る恐る手は引っこんでいく。身体を起こして、瞼を開いて、遠音の目にはトトの背中ばかりが映る。

「ねえ、トト」

「知らない」

「じゃあ、私の秘密を先に教えてあげる」

「いらない」

「あのね、私、」

「いらないと言っている」

 その背中に、ぺたりと手のひらを押しつけて、


「宇宙人と結婚するのが、夢だったの」


 びゅう、と寒風が吹いた。雪の粉を遠く向こうへ、きらめいて連れて行く、銀の風。

 懐かしいな、と遠音は思う。

 古い記憶だ。「宇宙飛行士」と同じくらいの時期に、持っていた夢。真正面から、ゲームの影響を受けた夢。たぶんこれは、白馬の王子様の変形なのだと自分では思っている。

 どこか遠いところから運命の相手がやってきて、お互い本当の気持ちで向き合える。

 なんて。

 10年前だって、あんまり子どもっぽくて、口にできなかった言葉。

 たぶん、父だって知らなかったけれど。

「ねえ、トト」

「うるさい。ばか。関係ない。そんな話はしていない。議論の流れが構築できていない。あなたが迷うのは何もかも曖昧だから。結局何になりたいのかどうしたいのかの話をしていない。優先順位が違う。異なっている。誤っている。しっかりとこれからの生活を検討して自分らしい生き方を模索するべきで、」

 トトが言うことももっともで、うんうん、と頷きながら、背中を撫でる。

 でも、いま一番重要なのは、そっちじゃなくて。

 もっと古い、夢の方で。

「だいたい何でもかんでもそうした文脈へと回収してしまうことに私は賛成しない。この星の文化を観察していてもわかった。大衆的なアプローチが望めるパーツであることは理解するが、それは本質的な部分の誤魔化しで――」

「トト」

「…………」

「あなたも、そう?」

 ふと、父のことを思った。

 遠くから来た人と、愛し合った人のこと。

 幸せだったのだろうか、と思う。

 それから、本当にあの人は、どこにも行かないままだったのだろうか、とも。

 ずっと誤解していたのかもしれない、なんて思って。でも、そんなこと、考えたって答えは出るわけもなくて。

 雪が降る。空と、この星の間に、仄白く。

 その一粒が、誰かの唇に触れて、解ける前に、またどこかへ。

 たったそれだけのことで、手のひらの向こうは、熱を帯び始めて。

 本当に、最後の最後に、トトは言った。



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