最悪の場合、あなたと雪になる 3/6



 将来なりたい職業に「宇宙飛行士」と書いた日のことを、今でも遠音は覚えている。あんなに小さな、薄っぺらの一枚紙に、自分の気持ちの半分を込めた日のことを。

 職員室に呼び出された。年がら年中ジャージの担任は、椅子に座ったままで、その横に遠音を立たせて、周りの教師にも聞こえるような音量でこう尋ねた。

「どうした、お前。この間まで公務員とか学校教員とか、ちゃんとしたこと書いてただろ。なんの影響だ?」

 別に、その質問自体は的を外していなかった。遠音が宇宙飛行士になりたいと思ったのは、間違いなく何かの影響だったのだから。

 その何かが何だったのかと言えば、ゲームだった。主人公の男の子が、宇宙人の女の子を巡って、右へ左へ大慌てする話。そして最後には、「いつか宇宙に会いに行くよ」と約束をして、終わる話。あんまりにも感動して、1週間くらいその余韻が抜けなかった。

 そのことを、担任に言えなかった。男の子と女の子がパッケージで手を繋いでいるSFのゲームに影響を受けたんですなんて、馬鹿正直に言えなかった。恥ずかしかった。

 はっきりそんなことを口にして、笑われるのが怖かった。

「一度くらい、大きなことが言ってみたかったんです」

 茶化してそう言えば、担任も安心したように笑った。書き直しておけよ、と言ってその紙を突っ返されて、遠音は逃げるように職員室を後にした。

 実際、逃げたのだと思う。

 家に帰って、宿題と予習と復習を終えて、それから修正に取りかかった。「宇宙飛行士」と書いてある欄を消しゴムで消して、上から「公務員」とでっかく塗り潰す作業。

 その途中で、父が帰ってきた。

 珍しく早い、と思って作り置きのおかずをレンジに突っ込んでいると、いや暑いな

とワイシャツの襟元をぱたぱた扇ぎながら父がリビングまでやってきて、そういえば思い返すとあの日も夏だった。エアコンくらい好きに点けていいんだぞ、と早速冷房のスイッチを入れて、

「ん?」

 と机の上のそれに、目を留めた。

 しまった、と思ったが焦らなかった。宇宙飛行士という文字を消す途中で止まっている。でも、慌てて弁解なんかしたらかえって怪しい。何か訊かれたときにだけ冷静に答えればいいのだ。「ちょっとふざけて書いただけ」と。

 父は何も訊かなかった。鞄を置いて、ネクタイを外して、それから遠音と一緒になって食卓に皿を並べて、もそもそといただきますをして。

 その途中で、ようやくぽつりと、こう言った。

「遠音、あれな」

「うん?」

「もっと字、でかく書いた方がいいぞ」

 何を言われたのか、よくわからなかった。

 ふざけているんだと思った。どうせ馬鹿なことを書くならもっと胸を張ってやらないと面白くならないぞ、と。そういうことを言われているのかと思った。

 でも、自分の父親がそういうユーモアとは無縁の人だなんて、遠音がいちばんよく知っていたのだ。

「母さんも、遠くに行きたがる人だった。……だから、こんな町まで来たんだよ」

 懐かしいな、と最後に一言だけ、父は言った。遠音は手を止めて、何も言えないまま、考え込んでいた。

「公務員」と「宇宙飛行士」の、どっちが真剣なんだと言われたら、きっと「公務員」の方なんだと、遠音は思う。だって、どう考えてもそっちの方が現実的だ。そうした方が安定した生活を送れるに決まっていたし、ちょっとゲームをやっただけで「宇宙飛行士」だなんて、本当はろくに何にも検討していない、思いつきの衝動に過ぎないことを、自分でちゃんとわかっていた。

 でも。

 それでも。

 その父の一言が、背中を押した。結局宇宙飛行士は目指さずに、大学は別の学部を選ぶことになったけれど、それでもあのとき、遠音の中にあった衝動ははっきりと形になって、胸の奥に灯された。

 遠くへ行きたい。

 それが燻るだけで終わったのも、父の携帯から告げられた、たった一言が理由。

 倒れた、と。

 東京で、大学卒業前の、8月のこと。

 思えば、あれすら夏の出来事だった。



「遠音。今日は配信しないの」

「……えっ?」

 ふと気が付くと夜だった。自分の部屋で、畳の上で、身体を起こすとちょっとふらつくくらい汗をかいている。額を押さえながら考える。どうやら眠ってしまっていたらしい。昔からストレスがかかるとすぐに寝入ってしまう癖があって、それは30代が見えてきた今でもまるで変わらない。

 時計を見た。

 23時15分。

 あっ、と身体が強張って、

「やっちゃった……。スーパー閉まっちゃった……」

「もっと早く起こすべきだった?」

「ううん。私が目覚ましかけておかなかったのが悪いから……。明日は休みだし、とりあえずいいよ。そうめんの買いだめがあるから、それで」

 でも麺つゆの残りはあったっけ、と疑問が頭をかすめる。まあ、ないならないで水にでも浸して食べればいいだけの話だ。

「あ、で、配信ね。ごめん、今日はなし」

 言うと、トトはなんとなくびっくりしたような顔になる。ほとんど表情に変化は見られないから、遠音の気のせいなのかもしれないけれど。でも、ひょっとしたら、楽しみにしていたのだろうか。

「そう。機材の不調?」

「ううん。そういうわけじゃなくて……」

 じゃあどういうわけなんだ、と訊かれたらきっと返答に困ってしまうから、先にこっちから訊ねてみることにした。

「トト」

「なに」

「ゲームは好き?」

「面白い。私のいた星では、仮想世界を使ったゲームというのは存在しなかった。このひとつをとっても、この星に不時着した甲斐があったと思う」

「……そっか」

 後でまた対戦をしよう、と言うトトに頷き返して、それじゃあね、と遠音は、

「もっと楽しくゲームができる場所があるって言ったら、どうしたい?」

「質問の意味がよくわからない。もっと楽しくゲームができる場所、というのは?」

「ええとね。つまり、もっとたくさんの上手い人たちとゲームをして、たくさんの人に見てもらって、そういう場所」

「よくわからない」

 どこで覚えたジェスチャーか、トトは小首を傾げて、

「それは、楽しいこと?」

「……そうだよね。トトならそう言うよね」

「……? 今日の遠音はよくわからない。私の言うことは、私の言うこと」

 じゃあ、結局。

 これもまた、自分が決めなくちゃいけないことなのだ。

 目を瞑ると、今でも胸の奥にしまわれた灯火を感じる。遠くに行きたいと思う気持ち。いつまでも燻り続ける、紫色の夢の残骸。

 あのとき、父は一体どんな気持ちで。

「トト。……あのね、私、今の倍くらいお給料貰えるようになるかも」

「そう。よかった」

「だから、もう心配しなくていいんだよ」

 遠音の痩せた手のひらが、トトの髪から頬へと流れた。

 くすぐったそうにトトは目を細めて、小さな背で見上げるように、顔を上げる。瞼の奥から、銀河色の瞳が覗いている。

 灯火に、白い雪が降る。

 ふと、あの日の父の気持ちが、わかった気がした。

 この子に、遠くに行ってほしい。


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