最悪の場合、あなたと雪になる 1/6



「今のって何語?」

 自動ドアが開いて、蝉の声がやかましく図書館の中まで入り込んできていた。その瞬間にかけられた声。去っていくバックパックに向けていた視線を外して戸祭とまつり遠音とおねが振り向くと、同じ臨時職員の前田が、破れた絵本を膝の上で修復しながら、不思議そうに問いかけてきている。

「フランス語でした」

「は~。戸祭さんって英語だけじゃないんだ。何か国語喋れるの?」

「いや、喋れるってほどでは……。入門書みたいなのをたまに読んでるだけです」

「英語とフランス語と?」

「中国語とロシア語、あとドイツ語と、ちょっとだけ韓国語……」

 すっご、と何の嫌味もなく言われれば、もう謙遜の余地もない。とりあえず遠音は、笑うだけ笑っておく。

 この間さ、と前田は言った。

「戸祭さんがいない日に外国の人が来ちゃってさ。そんなんあたしは全然わかんないし。で、三島くんとかに訊いてもわかるわけないでしょ? だから館長とかまで呼んできてさ、てんやわんやの大騒ぎ。まあどうせあの山見に来たんだろうなーっていうのはわかってたから、最後はボディランゲージで解決したけど。大変だったよ。三島くんとか、ずっと『戸祭さん今日いないんですか!』とか『前田さん電話番号知らないんですか!』とか言ってさ。館長が『休みの日なんだから』って止めてたけど」

「金曜日ですか?」

「いや、木曜」

「電話、かけてくれても大丈夫ですよ。私、だいたい暇してますから」

「ダメダメ。プライベートと仕事の境目なくなるとあっという間だからね。あたし、それで前の仕事辞めてるもん。三島くんとかに連絡先訊かれても絶対教えない方がいいよ」

 これは本当、と実感のこもった口調で前田は言う。以前に確かに、遠音は聞いていた。前田が昔は都心の方まで出ていって、それなりの規模の会社で働いていたこと。そこで心身の調子を崩したから、この北の町まで戻ってきたということ。前田の年のころはあまり詳しく訊いたことはないけれど、経歴を聞く限り30前後。帰郷の経緯が記憶として薄れるには、きっとまだ、日が浅い。

 そうします、と遠音が言えば、うんうん、と前田は頷く。真剣に心配しているらしかった。

「さっきの人、やっぱりそう?」

「ええ。やっぱり、観光で来たみたいです」

「だろうねえ。実習生って感じでも、工場の人って感じでもなかったし。やっぱあの山のせいか」

「あの山、海外ニュースでまた取り上げられてたみたいですよ」

「あー。町の広報にも出てたね。あとなんだっけ、テレビでやってたやつ」

「世界の奇景100選ですか?」

「あ、それそれ。……まあでも、確かに見に来たくもなるかもね。あたしもこの町に住んでなくて、お金があったら遥々遠征してたかも」

 どっこらせ、と前田が立ち上がる。どっこらせって、と遠音が笑うと、笑ってっけどあんたもいつかこういうこと言い出すんだかんな、と口を尖らせて、窓辺へ歩いて、ブラインドを上げて、

「あ、また降ってる」

 遠音も一緒になって近づいて、少し背伸びをすれば、前田の頭越しに、その風景が見える。

 少し抉れて歪な夏の山に、白く雪が降っている。

 しばらくそれを、じっと眺めて、

「暑いですね」

「今日37℃だってさ」

 閉めんべ、とふたりはたった数秒、陽に炙られただけでうっすらと汗をかいていて。

 時給790円で週4のフルタイム。だいたい月収10万ちょっと。

 雪の降る夏の町の、小さな図書館の一幕。



 遠音の家には宇宙人が住んでいる。1年くらい前に、道端で拾った。

 燃えないゴミの日だった。あまり溜まるものでもないから普段は無視してしまうような日だったけれど、そのときはたまたま、使い終わった制汗スプレーが気になったからと、朝5時。ゴミ捨て場までとぼとぼ歩いていた。

 その途中で、人だかりができていた。すれ違えば会釈くらいはするような人の家。けれどいまだにその人の名前はよくわかっていない。向こうは自分の名前をよく知っているみたいだけれど。

 おはようございます、とだけ言ってすり抜けた。話に夢中だったのか、簡単に頭を下げ返されただけ。消防車のサイレンが遠くからやかましく響いていて、朝から火事なのかな、とかそんなことを考えながら、白ちゃけた朝空に月が名残惜しく浮かんでいるのをぼんやりと見て、歩いていた。

 この日にあったことは、本当は火事なんかではなかった。

 隕石が落ちてきていたのだという。県内6番目の高さを誇る山の中腹のあたりに、唐突に。ただし朝の段階では、そのことは誰にも知られていなかった。遠音はぐっすり眠っていたからまるで気付かなかったけれど、爆発音だけが響いたのだと言う。それで、ひょっとすると山が噴火でも起こすんじゃないかと言って、町の人たちは大慌てだったそうである。

 そんなことも知らないで、とぼとぼ歩いて、出会った。

 ゴミ捨て場に、真っ黒な髪の、背の小さな子がひとり。ボロボロの姿で、皮膚を焦げ付かせて、そこに打ち棄てられたみたいに佇んでいた。

 目が合った。

 昔好きだったキャラクターに似ている、と思った。

 スプレー缶を置いて、代わりにその子を抱えて、誰にも見つからないように森の中を通って、家路を辿った。

 帰ってきて最初にしたのは、汚れた服を着替えることと、その子に服を着せること。

 そして次にしたのは、名前をつけること。

 自分の昔のあだ名から取って、「トト」と名付けた。と 音で、縮めて「トト」。

 ちょっと紛らわしかったかもしれない、と今では思っている。



 買い物にはもっとずっと、夜が更けてから行くことにしている。閉店間際ならお弁当が半額で買えるから。

 だから、仕事を終えて家に帰ってくる段階では何も持っていない。手ぶら。父の遺した自動車は車検やら自動車税やらが怖かったから早々に手放してしまって、今は自転車一本。冬の間はいいけれど、こんな夏の季節はもう汗まみれになって仕方がない。自分のことを正午だと勘違いしていそうな午後6時の日の光をかき分けて、無駄に広い庭の地面をざりざりとタイヤが踏んで、スタンドを蹴って鍵をかけて、玄関の戸を開く。

「ただいまー」

「おかえり」

 顔を上げもしない。隕石と一緒に落ちてきた宇宙人は、地球のゲームに夢中になっていた。

 暑い暑い、と遠音はエアコンのスイッチを入れる。トトは温感が地球人とは違っていて、夏だろうが冬だろうが空調なんてものを根本的に必要としていない。電気代がかからないという点では間違いなく美点なのだけれど、こういうとき、つまりもし家に帰ってエアコンがとてつもなく効いていたら大層気分がいいだろうなあというときには、いつもがっかりする羽目になる。

 そのまま浴室に直行して、ざっと汗を洗い流す。夜にスーパーに出かけるのだから、この時点ではそこまで本格的に入浴するわけではない。3分もしないうちに出てきて、部屋着にも外出着にも使えるようなラフな格好に着替えて、うちわでぱたぱた扇ぎながら、また居間に戻っていく。

 年季の入った家には不似合いな、ぴかぴか光るデスクトップパソコンが、背の低いテーブルの上に置いてある。トトはその前に座って、ゲームに夢中になっていた。今日やっているのはこの間50円で買った、大きな虫になって市民を殺害するゲーム。

 教育に悪いかもしれない、と思いながら遠音はコップに水道水を入れて一息に飲み干す。田舎の夏と言えば麦茶らしいのだけど、味にこだわらない性質だから、わざわざひと手間かけてまで水に色をつけたいとは思わない。

「面白い? それ」

「奇っ怪」

 どんな感想だ、と思ったけれど、どう見ても足の数が6本では収まらないメタリックな生き物を使ってボタンをひとつ押すごとに数百人単位で人間が死ぬゲームをやれば、確かにそういう言葉も浮かんでくるかもしれない。奇っ怪なんて言葉、どこで覚えてきたんだろう。

 インターネットか。

「あ、今日の配信11時……、23時からね」

「遠音がスーパーに行ってから?」

「うん。あと、お弁当食べてから」

「この間はそう言って何も食べていなかった」

「だって全部売り切れてたんだもん」

 ぐるり、とトトが首を回して後ろを向いた。毎度のことだし、人間の関節可動域はギリギリ超えていないのだけれど、それでも首の下が微動だにしない異様な動作なので、その都度ぎょっとする。そのうえ立ち上がって、小さな身体に似合わない威圧的な足取りで近づいてくれば、遠音も後退って、

「な、何……わっ!」

「また骨が出ている」

 腰骨のあたりを、がっちりと無造作に掴まれた。あんまりにも遠慮のない動作に言葉もない。

「痩せた。もっと食べないと、地球人は餓死する」

「そ、そうでもないって。パリコレのモデルとか、もっと痩せてるよ」

「パリコレのモデルというのが何なのかは知らないが、おそらくあなたはそれではない」

 ぐにぐにと骨をつまんで、好き放題に弄られる。宇宙人だけあってトトの力は恐ろしく強くて、力加減をちょっと間違えただけで、たぶん自分の胴体はまっぷたつにされる。そうとわかりながら、それでも遠音はほとんど身動きしないでいる。

「今日の食事はいつもの3倍食べることを推奨する。それで幾分バランスが取れる」

「あのね……、そういう単純なものじゃないの。食事とか、人の身体って」

 そうなの?と小首を傾げられれば、昔近所に住みついていた猫のことを思い出す。そして猫といえば、人間は実は猫程度を相手に戦ったとしてもまるで勝てやしないという話をどこかで見た記憶がある。あれは本当のことなんだろうか。

「…………」

「なぜ私は撫でられている?」

「……暇だから」

 そう、と言ってトトはゲームに戻った。

 そういう素っ気なさが、やっぱり似ている。

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