ひとりよがりのアフターグロウ 7/7



 じりりりり、と目覚ましを鳴らしてやれば、ううん、と杏子は身じろぎをして、枕に顔を押しつける。

「起きてるんでしょ。わかってるよ」

「…………」

 夏の朝。一睡もしていないんでしょ、と言ってやれば、杏子も観念して顔を上げる。夜っぴて泣き通したらしい目元は赤くなって、髪には寝ぐせまでついている。今日はバイトのシフトがある日なんだっけ、と心配しそうになって、とりあえずそれは後回し。

「本当は、言わずに済むならそれがいいと思ってたんだけどね」

 杏子はパソコンをじっと見つめている。そこには「きなこ」の姿がある。水嶋葵名子に、妹にそっくりの、アニメ調のキャラクター。

「マネージャーの泣き言が、昨日の夜ので記念すべき100回を迎えました」

「……は?」

「おめでとう。このパソコンに隠されていた機能が解放されたので、私からご紹介です」

 言って、デスクトップ画面に現れたひとつのアイコンを指差してやる。

 名前は『遺言.mp4』。

「…………」

「こら、目を擦らない。もっと腫れるよ」

 夢の続きだとでも思ったのか。ごしごしと瞼を手で擦るのを叱ってやれば、ふらふらとおぼつかない足取りで杏子は「きなこ」に近づいてくる。

 再生ボタンは、クリックするだけ。

「……本物、なのか?」

「聞いて判断すればいいんじゃない?」

 押した。

 ざらついた音質は、この家には元々マイクなんてなかったから。配信デビューしたのは、幽霊になってから。だから携帯で撮ったみたいな、できるだけ粗い音声に聞こえるよう、ノイズを細かく入れて調節する。

 顔を動かさずに声を出すことくらいはできる。

 幽霊だし、バーチャルだから。

『この動画が見られているということは、すでに私はお姉ちゃんより先に死んで、そしてお姉ちゃんはいつまでもめそめそしているということでしょう』

 びくり、と杏子の肩が震える。

 信じたかどうかなんて、知りようがない。どうせ幽霊のことをAIだと勘違いするような人の思考回路なんて、こっちには読めっこないのだ。

『正直言って、私は情けないです。人が死んだくらいが何? お姉ちゃんにはいつまでも背筋をピンと伸ばして、かっこいいままでいてほしいです』

「……んな、勝手な……」

 絞り出すような、杏子の声。

 続ける。

『でも私は、どんなお姉ちゃんも好きなので、ちゃんと慰めてあげます。

 私は、幸せでした』

 杏子の瞳が揺れる。それに、葵名子は目を閉じて、

『信じられないかもしれないけど、私にとってはそうです。自分の人生が短いことは、なんとなくわかっていました。それでも、優しい両親と自慢のお姉ちゃんに囲まれて、やりたいことも全部やりました。心残りはひとつもないし、もし別人になって人生をやり直せるなんて言われても、絶対にそんなことはしません。何度生まれ変わっても私は水嶋葵名子になりたいって、そのくらい、幸せに生きたつもりです』

 く、と杏子の手の内で、マウスが軋む。

 涙はもう、瞳に留まってはいられない。

『でも、お姉ちゃんにとっては、そうじゃなかったのでしょう。だから、この遺言が再生されたのだと思います。私は自分にとって最高の人生を歩んだつもりだったけど、お姉ちゃんにとっては、あんまりいい妹じゃなかったっていうことなのかな』

「そんなことっ……!」

 がたん、と椅子の揺れる音。おいおい、と葵名子は思う。ニュース番組に相槌を打つ人じゃないんだからさ、と。

 そんなことしたって、幽霊くらいにしか言葉は伝わらないのに。

「そんなこと、ないっ……!」

『でも、これでおあいこです。私はあんまりいい妹じゃなかったけど、ずっと泣いているお姉ちゃんも、この場に限ってはあんまりいい姉じゃないから、これでおあいこ』

 ふふ、と笑い声を出す。ああ、難しい。こればかりはずっと慣れなくて、おかげさまで「きなこ」は「笑わないキャラ」としてファンの間で定着してしまっている。本当は、笑顔が一番可愛く描けているキャラクターなのに。

『本当は、何も残すつもりはありませんでした。お姉ちゃんは、そういうのがなくても生きていけると思ってたから。それに、変な荷物を残したくなかったから。それでも、こうしていつまでもめそめそしている以上、仕方ないと思って――』

 そう。

 こんな風に。


『私の作った「きなこ」を、お姉ちゃんにあげます』


 パッと、画面に「きなこ」が表示される。

 笑った顔。もしかしたら姉もほとんど見たことないような、珍しい表情。

 それに、言葉を添えるように。

『「きなこ」は結構すごいやつです。見ての通り、私がイラストを描いたので可愛いです。それに、寂しくないようにと思ってAIもつけてあげました。大体私に似てると思います。そのうえ、絵とか3Dモデルの作成機能までついているので、この子に配信させたりすれば、ひょっとするとそれから収入が得られて、家計が助かったりするかもしれません。

 あと、他にも4つ、こういうキャラクターを作ってあります。その子たちにAIは入っていないので、よければ中の人の募集をかけて、グループでも作ってみてください。きっといい人が揃います。友達になれるかはわかりませんけど、少なくとも賑やかで、忙しくて、落ち込んでる暇なんかなくなっちゃうんじゃないかと思います。あとは、ええと……』

 そこまで言ってしまえば、もうその先は思い浮かばなくて、

『それでおしまい。じゃあ、元気でね』

 ぴたり、と音声ファイルは止まる。本当は、そういうファイルに偽装しただけの、画面のギミックなのだけど。

 デスクトップには、もうそのアイコンすらなくなって。

「……なんだよ、それ」

 俯いた杏子が、小さく、そう呟いた。

 それに「きなこ」は、こう言って、

「葵名子はうっかり屋だったね。本当は、今の音声ファイルが再生されてから私を出すはずだったのに、起動条件の設定を間違えてたみたい」

 もちろん全部、真っ赤な嘘なのだ。

 こんなのは初めから、全て嘘。どうしてバレずに吐き通せてるのか、嘘を吐いている葵名子自身が不思議になるような、そんなあからさまな嘘。

 でもきっと、それでもいいのだ。


「おはよう。改めて初めまして。私はバーチャルAIの『きなこ』。

 あなたの妹が遺した、最初で、最後で、唯一の形見です。

 あなたがまたかっこよくて、優しくて、無敵のお姉ちゃんになって、泣いたりしなくて済むようになるまで、ずっとあなたと幸せに暮らすつもりです」


 どうぞよろしく、と言えば、もう杏子は言葉にならない。

 夏の雨より激しく降り落ちる涙に、「きなこ」は笑って。

 ああ、と遠く未来に思いを馳せる。


――幸せに暮らして、それから死にましたってことじゃないかな。


 うそつき、と心の中で、初めて母に文句を言った。

 死んでからだって、めでたしめでたしは、まだこんなにも。

 こんなにも、遠く。

 こんこん、と小さく控えめに、部屋の扉がノックされる。

 杏子が立ち上がって、そのドアを開けるまでの時間を、葵名子は静かに数えている。

 カーテンから洩れる夏の朝日にまみれて、いつまでも、なんて言葉の上で、光のようにゆらゆらと揺れながら。



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