ひとりよがりのアフターグロウ 4/7



 葵名子が持っている一番古い記憶は、母にベッドで読み聞かせしてもらったときのこと。

 文句を言っていた。シンデレラを読んでもらって。どうして意地悪な姉をぶんなぐったりしないの。自分に優しくない人の言うことなんて聞く必要があるの。優しくないお姉ちゃんなんて美味しくないチョコレートみたいなものでそもそも存在しないよ。ママハハってママと母のどっちかでいいんじゃないの。どうしてシンデレラは王子様が好きなの。こんなの全然知らない人なのに。王子様もシンデレラのどこを好きになったのか全然わかんない。

 めでたしめでたしって、どういうこと?

「そうね、」

 1冊読み終えたのにまるで眠る素振りなく、マシンガンのように疑問を口にする葵名子に向かって母は苦笑いして、

 たったひとつだけ、質問に答えた。


「幸せに暮らして、それから死にましたってことじゃないかな」





 何もわざわざこんなに暑いなか外に出なくたっていいだろうに。

「だって、せっかくついてきてくれる人がいるんだもん」

 真夏の午後2時の気温は37度にまで上がる。熱されたアスファルトの上では空気が歪んで蜃気楼。信号機の色すらも霞んで見えるような強烈な太陽の照りに、歩道では死にかけの蝉がひっくり返ってじーじーと最後の名残みたいな声を上げている。

「ひとりだとやっぱり、色々不安だし……」

「ひららさん、止まって。その蝉、まだ生きてるから飛んでくるかも」

 横断歩道の白いところだけを踏んで跳ねて、木陰の下をこそこそと進んで、気まぐれな猫のように平良は進む。その後を、葵名子はふよふよ追いかけていた。

「飛んでくるとなんでダメなの?」

 葵名子に言われたとおり平良は立ち止まったけれど、その言葉の理由はわからなかったらしい。

「びっくりすると思う。虫、苦手な人も多いから」

「んー……」

 平良はじっと蝉を見て、

「小さいから、私でも倒せそう」

 しゅっしゅっ、と拳で宙を殴りつけながら前に進んで、案の定顔面目掛けて高速で飛来してきた蝉に「ぎゃあ!」と声を上げた。言わんこっちゃない。

 声だけは聞こえるそうだ。

 葵名子がどこにいるかとか、そういうのがはっきり見えるわけではない。けれど、ちゃんと何か言っていればその声が聞こえるらしい。葵名子は他にそういう人間を知らない。寺も神社も評判の占い師も、誰も幽霊の自分が近くにいることに気が付かなかったし、「わーっ!」とスクランブル交差点で大きな声を上げたときにも誰ひとりとして振り向いたりしなかった。霊感がある、とは平良のような人のことなのだろう。

「すごいね……。外の世界には危険がいっぱいだ……」

「うちに来る前、どうやって生活してたんですか?」

「危険に晒されながら生きてきたよ……ソーシャルサバイバル」

 この人語彙だけは達者だな。

 どのあたりまでを言うべきか迷ったが、とりあえず自分が杏子の死んだ妹だということは告げてしまった。身元も素性も知れない透明人間が近くにいたら怖いだろう、という配慮だったのだけれど、そのたったの一言で平良は葵名子を信用し切って「じゃあ外行くのついてきてくれる?」といきなり旅のお供を頼んできた。姉と接しているときもよくあるけれど、ひょっとしてこの世の人たちは自分の知らないルールブックを持っているんじゃないか、と葵名子は思う。普通に考えてそうはならないだろうという流れが、しばしば発生するから。

「どこか行きたいところがあるんですか?」

「うーん……。色々行ってみたいところはあるんだけど、とりあえず買い物がしたくて」

「何が欲しいんですか?」

「マネージャーさんにいつもありがとうっていう、お礼をしたいんだ」

「―———、」

 何がいいかな?と訊ねる平良に、葵名子は昔のことを思い出している。

「たぶん、何でも喜ぶと思いますよ。お姉ちゃん、人に物をあげるのももらうのも好きだから」

「えー、そうなんだ。でもやっぱり、普段から使えるものとかがいいよねえ」

 そうですね、と葵名子は相槌を打つ。それなら雑貨屋なんかに入るのはどうですか熱中症になる前に、なんて言いながら平良の先を歩く。

 もう放っておいても大丈夫なのかもしれない、と思っている。



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