ひとりよがりのアフターグロウ 3/7


 自分の才能が怖かった。

 みるみる杏子は回復を見せていた。平良はさすがに人間としての最低限のことはできていたけれど、逆を言えば最低限のことしかできていない。出された食事は残さず食べるけれど、根本的に食べていいものと食べてはいけないものの区別がついていない。杏子が職場で貰ってきたクッキーを渡そうとすれば、まずは中身を皿の上に全部ばらまいて、クッキーと乾燥剤を分けながら「こっちが食べてよくて、こっちはダメ。ほら、よく見ると食べちゃダメって書いてあるだろ?」と教えるところから始まる。そして次の日には買ってきた半額弁当の中に入っているバランをいつまでもくちゃくちゃと口の中で動かしているのに杏子が慌てる羽目になる。平良容疑者の供述によると「食べちゃダメって書いてないから大丈夫だと思いました」とのこと。

 しかし一度言ったことは必ず覚えるし、説明されたことを理解するだけの力もある。全体的には手がかからないと言ってよく、大きなストレス源にはならない。あとはホラー映画を見ているときに自分より怖がっている人が隣にいるとその人のフォローをしようとかえって恐怖が紛れてしっかりするみたいなもので、ここ最近では「きなこ」を見ているときにしか出なかった杏子の笑顔が、家の中のところどころに咲くようになり始めた。

 見込み通りだった。

 自分の才能が怖い、と葵名子は思う。もしかしてそのまま成長していたらカウンセラーとか占い師が天職だったのかもしれない。本当に思った通りに姉の心は回復に向かっている。これならもう、自分の骨壺を手放すまでの時間はそう長くはないだろう。現に今だって、眠るとき、部屋の入り口を念入りに施錠してからしか骨壺を抱きしめなくなっている。

 ありがとう、と思いながら葵名子は平良を見ていた。今日の杏子は昼番で、だから夏の日の一番暑い午後2時に、家の中には平良しかいない。杏子は暑さに強い性質だから、出勤前に平良のためにつけていった空調は微妙に部屋の中に熱気を残して、葵名子は暑いんだったら勝手に設定温度下げてくれてもいいんですよ、とじんわり汗かく平良に思っている。

 リビングで平良は自分のパソコンを広げていた。そして何事かを喋っている。別に独り言というわけではない。画面にはゲームと配信ページが映っていて、つまりは「ひらら」としてのバーチャル配信をしていた。それを後ろから見る葵名子は奇妙な気分になっている。自分でもやっていることなのに、傍から見るとなんだかとても不思議な行為に見える。

「わ、ここで3章終わりか~……。続き気になるね? じゃあ明日も配信来てほしいから、気になるところで切っちゃいま~す。それじゃあみんなまた明日~」

 ぽち、と配信終了のボタンを平良が押す。平良のやっていたのはノベルゲームで、ちょうど葵名子も後ろから見ながら続きが気になっていたものだから、あまりにもさっぱりした平良の切り上げっぷりに一瞬茫然とする。

 どうして一気にやってしまわないのだろう。

 明日があるかどうかなんてわからないのに。

 平良は「ふい~」と額を手の甲で拭って立ち上がる。それから部屋を出て、キッチンへ。杏子が買ってきた平良専用の花模様のグラスを手に取る。両親のカップも自分のカップも余っているのだからそれを使わせたらいいのに、と葵名子は思っている。その人用のものを買い揃え始めたらどんどん情は濃くなるばかりだろう。自分はそれで思惑通りだけれど、姉としてはそれでいいのだろうか。

 しゃー、とグラスに水道水が注がれて、んっんっ、と平良はそれを一息に飲み干した。それを見ながら、ふと葵名子は思い出す。あれ、お姉ちゃん確か冷蔵庫のもの勝手に飲んでもいいよって言ってなかったっけ。

 そんな思いが伝わったわけでもないだろうが、平良はグラスを置いて冷蔵庫を開けた。いくつか飲み物のペットボトルが揃っている。この間まで冷蔵庫の中身が空っぽだったことを考えると大した進歩である。このすべては杏子が自分で飲むためではなく平良に飲ませるようにこっそり買ってきたものだろうし、遠慮せずに飲んでくれて構わない。

 炭酸飲料を手に取った。

 嫌な予感がした。

 この間のことを葵名子は思い出している。朝食にオレンジジュースが出されたときのこと。パックを開ける前にしゃかしゃか杏子がそれを振るのを見て「それは何をしてるんですか?」と平良が訊き、「こうしないと下の方に味が溜まっちゃうんだよ」と杏子が答えたこと。

 嫌な予感が的中した。

 ふんふん、と鼻歌混じりに平良が炭酸のペットボトルを上下に激しく振る。頼む、と葵名子は思う。ペットボトルの開け方をまだ知らないままでいてくれ。

 明らかに蓋を捻るフォームを平良が取る。

「ちょ、ちょっと待―—!」

 聞こえるわけもないのに、思わずそう叫ぶと、

「―—え?」


 平良が手を止めて、じっと葵名子を見ていた。


 たっぷり5秒。

 それから、こう言った。


「―—えっと、そこにもしかして、誰かいますか? 見えない人……」

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