ひとりよがりのアフターグロウ 2/7



 無断欠勤でとっくに仕事をクビになっていた杏子は、今は学生時代のバイト経験を生かして近所の中華料理屋の厨房で働いている。時給1100円。夜のシフトはもう少し割増。

「んじゃ、行ってくるな」

「うん、気をつけて」

 言って、杏子は部屋を出て行く。玄関の戸が開く音。夏の夜風がどさくさに入り込んでくる気配。街明かりを太陽だと勘違いした蝉がいつまでも鳴いている。扉が閉じると、星の明かりも消えた部屋。

 しんとして、パソコンの静かに震える音だけが。

 やるべきことは2つある、と葵名子は思っている。

 ひとつは、引っ越しをさせること。正社員だったころと比べて収入は落ちているし、貯金にだって限りはある。2人暮らしだったころを引きずってこんなに大きな部屋に住み続ける必要はない。いい物件を見つけて、もう少し家計を圧迫しないようなところに引っ越しさせてやらねばならない。

 そしてもうひとつは、骨壺を手放させること。

 やんわり何度か聞いてはいるのだ。それ、お墓に入れなくていいの、と。そのたびに姉はこう言って答える。

「その方がいいんだろうけど……。あたしが、ダメなんだよ」

 なんでやねん、と葵名子は思う。そして言ってやりたくなる。そんなのもうただのカルシウムとタンパク質の集合体ですよ、と。なんならおたくの妹さんオタクの好きなアニメ柄のキャラクターの方に魂宿してますよ、と。

 言わない。

 よくある話らしいのだ。勝手にどこかに骨を埋めるのは違法だけれど、ただ自宅に保管している分には何の法律にも触れない。だから手元で持ったままにしている人は、そこそこいるらしいのだ。

 かと言ってお気に入りのぬいぐるみみたいに四六時中抱きしめているのは何か色々問題があるだろう、と葵名子は思う。

「ひとりだと寂しくてさ……。甘えてるんだよ。葵名子、優しかったから」

 なんて言われて微笑まれた日には今までありがとうねその白いのは好きにしてねお腹が減ったら食べてもいいよくらいのことを言い放ちたくもなるけれど、しかしそうもいかない。

 今の状態だって、それなりに努力して勝ち取ったものなのだ。

 食事させて、着替えさせて、元いた会社に連絡して後処理をさせて、生活リズムを整えさせて、衰弱していた状態からそれなりに回復すれば軽い運動を勧めて、最終的には当座のアルバイトまで決めさせて、

 そうやって、何とかこの状態にまで持ち直したのだ。

 あと一歩だ、と思う。なんだかんだで本来の生活能力は自分みたいな子どもなんかよりよっぽど高い人だから、あと一歩だけ前に進めれば、悠々自適で順風満帆な人生を歩めるはずなのだ。

 歩んで、ほしいのだ。

 だからこの日、マネージャーあてに突然やってきた「ひらら」からのメッセージに、葵名子は何の相談もないままで、こう返した。


――行くところがないなら、うちはどうですか?



「……なるほど。話はよくわかったけど……」

「けど?」

 葵名子が口を挟むと、う、と杏子は言葉に詰まる。もう情が移り始めている。思った通りだ、と胸を張る気持ち半分、もう半分で葵名子はこう思っている。この人、将来よっぽど悪い人に付け込まれてしまうんじゃないのか。

「確かに可哀想だとは思うけどさあ……」

 リビングには松弓平良が座っている。傍らには大きなリュックサックを置いて、部屋の中をきょろきょろ見回しながら、時折テーブルの上に置かれたチョコレートに手を伸ばしたりしている。

 杏子は葵名子の部屋に入ってきて、パソコンの中の「きなこ」にこそこそ事情聴取をしている。なんだかこれって昔、マスコットキャラクターが出てくるような子ども向けのアニメで見た光景だな、と葵名子は思っている。

「いきなりすぎるだろ。こっちだって前もって相談してもらわないと……」

「そう……。ごめんなさい。葵名子から話を聞いていた限り、マネージャーはこういうとき、何も言わずに引き取ってくれるような人だと思ってたから……」

「う」

 今度もまた言葉に詰まる。そしてごにょごにょと、いやまあ引き取らねーとは言ってないけどなんて呟いている。言った方がいいよ、と葵名子は思っている。インターネットでちょっと繋がりがあるだけの人を家に住ませようとするって、全然正気でやることじゃない。

 でも、こういうことが姉には必要なのだ。

 葵名子演じる「きなこ」が属するバーチャルアイドルグループ「パッチワーク・アソート」。そこで「ひらら」を演じているのが、この松弓平良だ。

「パッチワーク・アソート」に所属している5人のアバターは、すべて生前の葵名子が趣味で作っていたキャラクター。なぜわざわざ死んでから知らない人たちにインターネットで声かけしたりしてまでバーチャルアイドルグループなんて始めたのかと言えば、それは今回平良を家に呼んだのと同じ理由。

 姉は人の世話をしているときが一番いきいきするタイプの人なのだ。

 本人に自覚があるのかどうかは知らないが、どう見たってそうだ。これまでの葵名子の扱いや「きなこ」の扱いを見てもそうだし、前の職場だって後輩ができたと思ったら毎日目に見えて機嫌がよくなった。葵名子自身はまるでそうなる気持ちがわからないけれど、客観的に見てそうなのだ。この人は人の世話をするのが大好きで、それが活力になるタイプの人間なのだ。

 だから「パッチワーク・アソート」を立ち上げて、忙しいマネージャーの仕事をやらせることにした。今のところこれは上手くいっている。

 だから次は、実際に人の世話をしてもらうことにした。松弓平良だって、あの永久にネットの海を漂うことになるだろう配信の後、精々が慰謝料分の金額を貰っているくらいで、仕事が何もない上に保証人のあてもないから不動産の入居審査も通らず、ビジネスホテルやらネットカフェやらを転々としながらその日暮らしでくたびれているというのだから、利害は完全に一致したと言っていい。

 つまり、葵名子は期待しているのだ。

 平良という新しい人間が家に増えたことで、かつての自分の存在感が薄まって、風化して、ただの思い出になることを。

「でもなあ、」

 と杏子は言う。

「だって、人ひとり泊めるって言ったってさ。寝るところだって、ほら、色々あるだろ」

「この部屋を使ってもらえばいいと思うけど」

「いや、おま……。あたしだってここで寝てるんだけど」

「いや、マネージャーはマネージャーの部屋があるんだから、そっちに戻ればいいでしょ……」

「まあ、確かにひららさんには空いてるあたしの部屋で寝てもらえばいいかもしれないけどさ」

 正論が無視された。「こいつ……」と内心で葵名子は思っている。

「もっとほら、人と住むって簡単なことじゃないだろ? 生活習慣とかさ」

「ひららさんには生活習慣とかないから大丈夫。メッセージのやり取りでも『いま頑張って人間のみなさんの物真似から始めてます!』って言ってたし。それにひららさん、生活費もとりあえず半分持ってくれるって言うし。いいことづくめでしょ」

「…………」

 当然、あらかじめ理論武装した状態で話は始めている。反論を探している杏子に、葵名子は立て続けに、

「なんなら次の引っ越し先が決まるまででもいいし。宿無しはいくらなんでも可哀想だってマネージャーは思わない?」

「そりゃ思うけどさ……」

「あのー」

 後ろから急に声をかけられて「うおわっ!」と杏子は飛びのく。きょとんとした顔で、半開きの扉の前に平良は立っている。

「ごめんなさい。お手洗いお借りしてもいいですか?」

「あ、うん。全然」

 場所わかるか?と杏子は平良に付き添っていく。平良がトイレに入って行くのを見届けて、戻ってくる、その一連の流れを葵名子はふよふよ隣で浮かび上がりながら見届けていた。

 間違いない。

 たったこれだけのことなのに、杏子の足取りの生気はいつもより輝かしくなっていた。

 葵名子の部屋に戻ってきて、葵名子もパソコンにまた憑りついて、話の続きだけどさ、と杏子は、

「こうやって話してるのも、なんか見られたらマズいだろ?」

「どうして?」

「いやだってAIとか……。ほら、AI相手にこんなぺらぺら喋ってたら、あたし頭おかしい人みたいじゃん」

 そうだよ、という言葉をぐっと飲みこんだ。妹の骨壺を抱いて妹の幽霊と喋ってる人は段違いでおかしいけど、妹の骨壺を抱いて妹に似たAIを積んでるアニメ柄キャラクターと喋ってる人ってだけでも十分おかしいんだよ。

 やや自覚しただけでもだいぶ前進したと、ここはそれで満足すべきところだろう。

「『きなこ』役の人と通話してるって言えばいいよ。別に、通話の向こうに誰がいるとか、わかるわけじゃないんだし」

 トイレの扉が閉まった音がする。だから、葵名子は最後に畳みかけるように。

「でも、急にこんなことしたのは本当にごめん。ひららさんがこのまま路頭に迷って素寒貧になって野良犬よりみじめに死ぬんだと思ったら居ても立っても居られなくなっちゃって……」

 こんこん、と今度は半開きの扉を、わざわざノックする音。振り向けば、もちろんそこには平良が立っていて、

「あの、お手洗いありがとうございました。……やっぱり、急に来ちゃったりして迷惑でしたよね。帰ります」

「え」

「ごめんなさい。私、まだ言葉の裏とかよく読めなくて……。変に本気にしちゃったんです」

 帰りますから、と立ち去ろうとした平良を、杏子は反射的に引き止めている。

 ぱし、とその音に杏子は我に返ったように、自分で握ったはずの平良の手首を、信じられないものを見るように見つめながら、なんとか、

「い、いいよ。全然。迷惑なんかじゃないって。ただ、その、ほら」

「ほら?」

「……今日の晩飯の献立に悩んでただけなんだよ。中華でもいいか?」

 チューカってどんなのですか?と平良は首を傾げる。杏子が「どうしよう」と言いたげな背中で平良に話しかけているのを、葵名子は後ろから眺めている。

 よし。

 ひそかなガッツポーズ。



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