神さまは何も言わない 7/7



「―—壊れてる」

 第一声がそれ。

 建物に辿り着いて、すぐにわかった。ついさっきくぐった大扉が壊れている。

 壊れ方も尋常ではない。無理やりその扉の幅を超えたものが突っ込んだような。たとえるなら、小さなトンネルに巨大なダンプカーが突っ込んでいったような。

 中も悲惨なものだった。ただでさえ古びていた床はボロボロになっていて、ほとんどふらふらで意識が朦朧としている平良だから躊躇なく進めるけれど、まともな神経の人間だったら一歩目から尻込みするだろう有様になっている。今度は建物の内部を鉄砲水が隅から隅まで暴れ回ったような有様だった。

 中庭に面した窓はすべて割れて、散らばった硝子は雨に打たれてきらきらと光を跳ね返している。

 大扉の横の廊下はどちらも左右の扉の前の床が赤く変色している。どちらでも構わないだろう、と思って向かって左から進んでいくことにする。物置部屋へと続く扉もひしゃげて、薄汚れた水槽の残骸が撒かれている。角を折れて、「はてな」が出口だと言った扉の前。

 ここも扉が壊れている。

 確かに、外の景色に繋がっていた。

「やっ――」

 それ以上は、言葉にならない。

 外に出たかったのか、と訊かれたら、ひょっとしたら今の時点でも平良は首を横に振るかもしれない。中も外もないのだ。もともと部屋の中しか知らなかったのだ。外の世界を多少は知ったのもパソコンのおかげで、それだって部屋の中にいてもやれたのだから。

 だから、こうして泣いているのは、苦労して何かを成し遂げたという感動から。

「やったよ、みんな!!」

 パソコンを広げていないから、平良がコメントを見ることはない。

 だから代わりに「はてな」が彼らの声を代弁した。

「おめでとう」

 短く、一言で。

 涙を拭って、平良は言う。

「じゃあ、あの。この道を辿って、外に行こうと思います。たぶん、結構歩くと思うんだけど。みんなは私の弱音とか、そういうの聞いておいてくれればうれしいです。コメントとかあんまり追えないかもしれないけど、もしよければ」

 今度は、誰にも訊かずにそう決めた。

 ちらり、と外に足を踏み出す前に建物の中を一目確認したのは、だから、未練からなどではなかった。

 ただ、気にかかった。あの大蛇がどこに消えてしまったのか。もしこの先の道で鉢合わせなんかしたら堪らないと、そう思って。

 地下室へと続く扉が、一際激しく壊れている。それこそ、大扉のように。無理やり巨大な何かが、そこに入っていったみたいに。

 その一瞬の躊躇いが、最後の邂逅を生んだ。

 ばたん、と扉の閉まる音がする。平良以外の人間だったらそれが車の扉を閉める音だと気付いたかもしれないし、夫がどういう立ち位置の人間なのかを理解できるだけの知識背景があれば、身を隠したかもしれない。

 そうじゃなかったから、壊れた扉の前で夫と鉢合わせた。

「な―――—」

 言葉を失ったのは、夫の方。

 平良の方はのんきに、やっぱり地下じゃなかったら顔って結構変わって見えるものだな、知らなかったけどこの人は目の下に黒子なんてあるんだな、なんて思っている。

 夫は腕一杯に、買い物袋を持っていた。中に食料と衣類が入っていたということは、たった今取り落とされて床に散らばったのを見ればわかる。

「ど――どうしたんですか!」

 夫は慌てた様子で、平良の肩を掴む。そう言われても、平良はこの数時間の大冒険を一言で言い表すようなことは到底できそうにない。

 何も言えずにいるうちに、夫の目線は中庭の向こうに注がれた。視線の先には壊れた大扉。さあっ、と顔が青くなって、あたりをきょろきょろ見回して、地下室の扉を見るや走って階段を降りていったらしい音が聞こえてくる。

 そしてやがて、上ってくる音。

 じっと、夫は平良の顔を見つめた。

 平良からすれば見つめられるような理由も思い当たらず、首を傾げるばかり。やがて「あ、」ともしかして水槽をかき回すのをやめたから怒られるのかもしれない、と思って、でも、とすぐに心の中で反駁する。

 自分で決めていい、

 らしいのだから。


「―—あの。私、ここ出て行きます」


 夫は、は、と息を吐いた。

 どういう感情なのか、平良にはわからなかった。強いて言うなら、夫という存在が、急に重さを失ったように見えた。

「―—そうですか。少し、待ってもらってもいいですか?」

「やだ」

「お願いします」

 そう言われると押し通しきれない。「お願い」と言えば「はてな」も「ヨキ」も大抵のことは聞いてくれる。つまりはそうするのが優しい人のやり方ということで、自分で決めるというのなら平良は優しい人になりたいと思っている。

 迷っている間に、夫はその「少し待ってほしかった」用事を済ませてしまったらしい。さらに奥の部屋に入って行って、出てきて、手にはバスケットを持っている。

 その中から上着を取って、差し出してきた。

「びしょ濡れですから……。着て行ってください。夏とはいえ、風邪を引きますよ」

「え、はい。ありがとうございます」

 平良も、気遣いを断るような人間ではない。受け取って、濡れた服の上から羽織る。

 ちゃり、とその上着のポケットの中で音がした。

 手を突っ込む。取り出す。

 鍵。

「これって――」

「死んでましたよ、どっちも」

 夫はそう言って、穏やかに笑った。

 寂しげにも見えたし、安心したようにも見えた。

「本当は、僕がやるべきことだったんでしょうけど。……情けないな。こんな風に、あなたにすべて頼ってしまった。ひとりで、死ぬつもりだったのに」

「死ぬのはよくないですよ」

 夫が何を言っているのか、そのときの平良にはわからなかった。

 だから、そう返したのは本当に純粋に、そう思ったから。

「だって死ぬのって、たぶん怖いですから」

「―—————」

 言葉を失って、夫は目を丸くする。

 ひどい時雨の後に、虹の欠片を見つけたように。思いもしないものを見た、というような表情で。

 ちゃり、と夫がポケットに手を入れる。

 取り出したのは、小さな鍵。

「よければ、街まで車で送りますよ」

「え、いいです。自分で歩きますから」

「……ふふ。そうですよね」

 夫は笑うと、その鍵をひょい、と床に投げ捨ててしまう。

「自分の足で、歩かなくちゃ」

 その言葉を最後に、平良は建物の外に出る。続いて夫も出てきて、ふたりとも思わぬ眩さに目を細めた。

 見上げると、夏雲は風に浚われて、いつの間にかに晴れ渡る。

 少なくとも見渡す限りには、どこまでも快晴が続いていた。



 ある日の新聞に、こんな記事が載っていた。

 廃墟倒壊、地下室に蛇2匹。

 あとのことはなんでも、お好きなように。

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