神さまは何も言わない 2/7




 もうこの地下室から出ないまま2年が過ぎる。

 だから今が昼なのか夜なのかもよくわからないけれど、時計が18時というのだから実際にそうなのだろうと信じる。パソコンの電源を落とす。電源マークのボタンをぽちっと押すのじゃダメだとちゃんと教わっているから、きっちりシャットダウンの手順を踏んで、誇らしげに平良は胸を張る。

 部屋は白と灰と、コンクリート色でできている。あるのはベッドとノートパソコンと、優に人ふたりは横たえられるだろう巨大な透明の水槽だけ。水槽にはたっぷりと液体が溜められているが、その色は森の奥の泥混じりの沼のように灰緑に濁って、中に何が入っているのかさっぱりわからない。そして平良はずっとここに暮らしているのに、その中身が何なのか、誰にも一度も訊いたことがない。虫とかが入っていたら嫌だな、とはちょっと思っている。病気になりそうだし。

 壁一面も床もコンクリートで、窓は嵌め殺し。その窓の向こうすらコンクリートで塞がれていて、日も差さない。トイレと浴室に繋がる扉は小さく、電球の色は珍しいくらい色のない無機質な白で、空調もずっと低い音を立てて動き続けているから、日付を確認しないと平良は今の季節が夏だということも綺麗さっぱり忘れ去ってしまう。

 部屋の唯一の出口は、剥き出しの階段だけ。5人くらいは一度にすれ違えそうな幅の広さで、そこに至るまでの道のりを遮る扉は何も存在しない。ただし電球の明かりはそこまで届かないからいつ見ても真っ暗で、今はちょうど人が降りてきている。

 蝋燭の灯りが揺れながら、一段一段下りてくる。平良は咄嗟に水槽に近寄って、少なくともこの3年の間一度も水洗いすらしたことのない長い木の棒を手に取る。元は角材だったのだろうそれは握り手の部分だけが丸まって、その部分を除けばびっしりと札が貼りついている。その札に何と書いてあるのか、平良は知らない。一度も習ったことのない字だから。

 ざぶん、と棒を水槽の中に入れる。ぐにり、といつもの手ごたえがして、平良はそれをかき回す。

「―—どうですか」

 と、灯りの主は声をかけてきた。

 静かで、落ち着いた声。

「ええと、」

 取り繕うことに成功したのだろうか、とやや疑いながら平良は横目でちょっとだけ振り向いて、

「いつもどおりです」

「……そうですか」

 部屋の明かりがぎりぎり届かないような場所、炎に照らされて浮かび上がるのは、平良の夫の顔だった。平良より頭ひとつ半くらいは高い身長。人の顔立ちに良し悪しがあるということも最近覚えたばかりだからあまり自信がないけれど、きっと美青年と呼ばれるような類型のものだと平良は思っている。

 明るいところで見たことが一度しかないから、本当に自信はないのだけど。

 1日に2度、朝と夜に夫は平良の様子を見に来る。本当に見に来るだけで、他には何もする様子がない。ただ背後に立って、ぼうっと平良が水槽をかき回すのを見ている。話しかけられることはあっても、大抵のやり取りは今みたいに一言二言で終わってしまう。

 何もずっと水槽にかかりきりになっていなければいけないわけではないのだけど、見られているとそうしなきゃいけないような気持ちにさせられる。

 だってそれが、結婚した女の役目なのだから。

 ざぷん、ざぷん、と水面に波が立つ。その中にある手ごたえが何なのか、一度も平良は目にしたことがないし、教えられたこともない。何のためにこれをしなくちゃいけないのかも、知らない。

 結婚って、そういうものだと思っていたけれど。

「……食事はこちらに置いていきます。多いとか、少ないとか、そういう要望はありますか?」

「いえ、特には」

「そうですか。夏バテなどは……」

「え、夏バテって何ですか?」

 訊き返すと、炎が揺れる。

「……気温が上がると、体力が底をついて食事もままならなくなることがあるのです」

「え、体力がないと何かを食べたりできないんですか?」

「ええ。思いのほか」

 へえ、と平良はまた新しく物を知る。あとでパソコンで詳しく調べてみよう。

 あのパソコンとインターネットは、この夫が用意してくれた。「ずっとこんなところにいると不便でしょうから」と言って。確かにあると面白いし毎日は楽しいけれど、ちょっと人を甘やかすタイプなのかな、と平良は思っている。

 だって、生まれたときからこんな感じだったのだし。

 部屋で、ひとりで、大抵は過ごしてきたのだし。

 今更あんなに面白いものを渡されたから大ハマりしてしまっているけれど、別になければないで普通に過ごせただろうと思う。言えば取り上げられてしまいそうだから、言わないけれど。

 夫はじっと、背中を見つめている。今日は長いな、と平良は気になり始めている。こんなことしているとすぐに腕は疲れてくるし、ずっと監視されているのは居心地が悪い。

 名前も知らない相手なのだし。

「あなたは、階段を上れますか?」

「え?」

 振り向くと、いつの間にか蝋燭を持つ手の位置は下げられていて、夫の表情は見えなくなっている。

「いや……どうだろう。この部屋に来るときに下りるのはできたから、上るのもたぶん、できると思いますけど。何か、下りるときとは違うコツがいるものなんですか?」

「―———」

 息を呑むような音がした。平良はそれを不審に思って、

「え、あの、」

「いいえ。何のコツも必要じゃありませんよ」

 いつもの、微笑みのような声色で、

「訊いてみただけです。確かめたかったので」

 はあ、と平良が訳も分からず頷くと、夫は踵を返してコツコツと靴音を立てて階段を上っていく。

 ひとり取り残されて、もう5分だけ水槽をかき混ぜて、それから平良は長棒を置いて、浴室で手を洗って、部屋の入口に残された食事の盆を手に取った。

 少し冷め始めている。

 よくわからない人だな、と平良は思っている。



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