月は、ときどきひとりで 7/7



――イジメって大変だよね……。どうしても合わない環境なんだったら、逃げ出すことも大事かも。ほら、RPGだって逃げるコマンドを使うと便利だしね。それから応援ありがとー! これからも活動がんばるからよろしくね!



  @


 深呼吸なんていうのは立ち止まってからまた動き出す自信を持てる強い人間だけがやる行為で、だからお湯を入れたカップ麺を持って部屋に戻ってきた次の瞬間には一息もつかないで配信開始のボタンを押していた。SNSでも配信開始の告知。

 乾いた笑いが出るのは、望まれた展開じゃないってわかってるから。

「お」「なになに」「ゲリラ配信だ!」「お気持ち表明か?」「うお、気付いてよかった」

 マイクのスイッチを、

 押して、

「懺悔します」

 一言目。「はてな」の口が動く。

「この間DMをくれた人に、わたしは結構適当な返信をしました」

「懺悔?」「おいおいマジの答え合わせか」「黙っときゃいいのに」「いやいいよ、そんなこと言わなくても・・・」「性悪アイドル崩れの突発謝罪会見www」「引退しないで」

 ぴこ、と机の上で携帯が鳴る。通話。発信元は「ヨキ」。

 今だけ無視。

「イジメられてるって話をしてくれたのを見て、わたしはこう思いました。『逃げてもいいよ』って言ってほしいんだろうなあって。だから、あんまり深く考えもしないで、君が欲しがってる言葉を口にしちゃいました」

「DM?」「イジメって自分のことすか?」「いきなり何?」「なになに この配信怖いんだけど」「ファンサでやってるDM返信のことだろ この規模でもまだ続いてんのは驚きだけど」「イジメに適当な返答したってマジ? ほんとに性格最悪じゃん」

「でもね、」

 けほ、と咳き込む。夜とはいえコンビニまで全力で走れば、水浴びしたみたいに汗は全身を流れている。口の中はカラカラで、唾を飲もうとすればかえってもっと大きな咳が出る。

「でも、ね」

 もう一度、果奈は言った。

 画面の中では「はてな」が果奈を見ていた。ごめんね、と果奈は思う。自分はあんまりいいスーツアクターじゃなかった。「はてな」としてのキャラクターを透かして、自分を見せてしまった。本名だけは出回っていないのをいいことに、自分と同じ「はてな」の名前を設定したのもそう。そのせいで「はてな」のキャラクターまで自分と一緒になって攻撃されてしまった。

 ごめんね、と告げた後に、ありがとう、とも思った。

 少しの間だったけど、鎧になってくれてありがとう。

「―—なんで自分がその場所からどかなきゃいけないのって、そう思わなかった?」

 これまでにメッセージをくれたファンのアカウントは、全部覚えている。

 配信のコメント欄に、中学生の彼のアカウントは見当たらなかった。もうとっくに自分を見限って別のVのファンに転向したのかもしれない。こんなこと言っても誰も聞いてないのかもしれない。誰の心にも響かないで、ただ感情を逆撫でして炎上して終わるのかもしれない。

 誰もこんなこと、自分が言うのを望んでないってわかってる。

 それどころか、こんなことを言うなんて想像もしていない。

 だから、超能力があったって、この先どうなるかなんてわからない。

 でもいいや、と果奈は思う。

「はてな」も果奈も、人形なんかでは全然なくて、ひとつの人格なのだから。

「わたしも逃げてきたよ。つらいことがあって、耐えられなくて、それでここまで来た。あのとき逃げたことをわたしは間違いだったとは思わないし、あのとき逃げなかったら今ごろきっと死んでたんじゃないかって思う。―—でも、それでも、今でも思うよ。なんで悪いことしてないのに、わたしがどかなくちゃいけなかったんだろうって」

 いいのだ。

 言いたいことを言ったって。

「『立ち向かえ』って言われるの、つらいよね。『逃げていいよ』って言われるの、楽になるよね。わたし、自分でそれがわかってるから、それに、自分で逃げたことを間違いだとも思ってないから、簡単にそう言っちゃった。……でも、それでも思うんだ。悲しくなるたび、つらくなるたび、もっと安全なところへ、もっと安心できるところへって逃げて――それで、最後にはどこに着くの? 誰も自分を傷つけない優しい場所って、逃げ続ければいつかは辿り着けるの?」

 震える息。

「はてな」の頬が、笑うように持ちあがる。それはたぶん、顔のキャプチャ機能がエラーを出していて、その表情と連動しているはずの果奈は全然そんな顔をしていない。そもそも「はてな」のアバターはこんな複雑な表情パターンをトレースできるようにできてないのかもしれない。理屈なんてなんでもいい。

 大丈夫、と「はてな」が言ってる気がした。

 それで十分。

「少なくとも、ここは優しい場所なんかじゃなかったよ。―—逃げた先でも、わたしはまだ傷ついてる」

 コメントを見るのが怖かった。

 どんなことを書かれているだろう。直接的なことは口にしていないけれど、本当にそれだけ。誰だって、ちょっと調べれば自分が何のことを言っているのか簡単にわかってしまう。

 そんな状況で、自分の言葉はどう受け止められているだろう。

 知るか、ばか。


「でもわたし、ここが気に入ってるから。もう、どいてあげない」


 カップ麺の蓋を開ける。粉を入れる。液を入れる。特製ソースを入れて、割り箸を割って、割り損ねて、不揃いな2本でぐにゃぐにゃとかき混ぜる。

「戦うところを見せてあげる。―—『激痛らーめん無情』、一気食べします」

 ものすごい勢いでかきこんで、ものすごい勢いで咳き込んだ。

 痛い。舌がとかそういうレベルの話じゃない。麺から立ち上る蒸気に辛味が混ざっていて、喉に直接唐辛子を塗り込まれてるみたいな錯覚に陥る。唇は大して触れてないはずなのにぷくぷくと腫れあがってくるようで、たった1口目でこれだと思うとあまりの絶望感によくわからない尿意が立ち上ってくる。

 2口目。

 鼻から出た。

 とんでもない声も出たけれど妙に聞き覚えもあって、なんだろうと思って妙に冷静な頭の片隅で記憶を探ると、「ヨキ」が前に動画で出していた声にそっくりだった。なんでこんな苦行を何の覚悟もなく「ヨキ」は普通の配信の延長でできるんだろう。頭か舌かのどっちかがおかしいとしか思えない。

 今日の自分は頭の方がおかしいから、3口目。もう恥も外聞もない。とんでもない音声が全世界に向けてオープンで公開されている。全身から冷たい液体が噴き出してきて本当に汗なのか不安になる。ダンスレッスンのときどころかサウナに入ったときだってこんな汗のかき方は一度もしたことがない。皮膚が溶けてるんじゃないのか。これを食べ終わったら全身の皮が剥がれて足元に丸まっていて自分は剥き出しの真っ赤な筋線維を晒して身体に触れる酸素にすら悲鳴を上げるような体質になってしまっているんじゃないか。

 なんでこんなことをしてるんだ、と言われたら自分でもよくわからない。

 わかっていたら、こんなことは絶対にやらない。

 4、5、6―—気になって携帯を取ろうとして、まだ着信中だから出てもいいだろうと思って通話を繋げる。

「な、「スープまで飲んだ!?」

 何かを言われる前に被せるようにそう訊けば、気圧されたように一拍開けて、電話の相手は、

「全部飲んだ」

 ふざけんな、と思いながら容器を両手に抱え込んだ。

 こんなことしたって、バーチャルなんだから絶対に伝わらない。やったってやらなくたって変わらない。やったように演技すればそれで済む話。わかってる。

 だからこれは、自己満足。

 嘘だろうが本物だろうが、どうせ面白い方しか人は見ないのだから。

 だから「しょうもない嘘」を「面白い本当」で叩き潰してやろう、って。

 ちょっとでも立ち止まったら、本当にこれ面白いか?って疑問で何もかも台無しになってしまいそうな、なけなしの勇気。

 熱いんだか辛いんだか痛いんだかもうさっぱりわからない液体が唇について。

 ファック。西洋食事マナー。

 ぞぉずぞぞぞぞぞぞっ、と。

 排水溝みたいな音を立てて、

 机の上に空の容器を叩きつけて、

「どうだぁっ!!」

 果奈は吠えた。

「はてな」も、満面の笑みを浮かべて、大口を開けていた。

 コメントがものすごい速度で流れている。「えぇ……」「草」「何?」「理解不能すぎる」「ヨキが全部悪い」「唐突フードファイトやめて」「パチワの過酷な労働実態に迫る」「前半のシリアスなやつどこ行ったんすか?」「体調不良(これからなる)」「かわいそう」

 もう、超能力は何の色も、言葉も見せない。

 いきなり意味不明なものを投げつけられて、視聴者たちも自分がどんな言葉を欲しがっているのか、わからなくなっている。

 そんなものだ、と果奈は思う。人の顔色を伺ったって、そんなもの。

 自分が何を欲しがってるのかなんて、本当はその人自身、よくわかっていないのだ。

 だから、押しつけてやる。

「この間5万人超えてお祝いしたばっかりで悪いんだけど――中身の話だとか、過去の噂だとかで中傷してくるような人たちは、わたしはファンになってもらわなくていいです」

 口の中が痛くて、まだ喋りづらい。胃のあたりの温感が狂ってしまっていて、かえってプレッシャーを感じているのかどうかわからなくなってありがたい。

 きっぱりと、「はてな」の顔で、

「『はてな』は『はてな』だよ。『はてな』と関係のないことで言い争う気はないから、それ以上は言わない。『はてな』が好きな人だけがついてきてくれれば、わたしはそれでいい。もしそれに文句があるなら――」

 こん、と「はてな」は空の容器で机を叩いて、

「わたしと同じくらい『はてな』に必死になってから、言って」

 コメントを見る。

 まだ、何を言われたのかわかっていない人たち。わかったふりをしている人たち。賛成してくれる人たち。反対してくる人たちも、まだ少し。

 5秒、10秒、20秒。やがてリスナーたちも自分の考えをまとめ始まって、とうとう超能力が動き出す。

 何が来てもいい、と果奈は思う。

 どんな言葉が来たって、もう気にしない。求められるままに振る舞うのはもうお終い。人形遊びももう終わり。今度は、コントロールするのはこっちの番。

 好きにやるから、好きになりたきゃ好きにしろ。

 コメントに、言葉が浮かんでくる。


『いまの面白かったから、もう一回やってほしい』


 部屋の外には大声を心配して2階まで上がってきた母の気配がある。机の上の空の容器に軽い音を立てて割り箸が落ちる。通話を繋げたままの向こうでは「ヨキ」がこの状況で何かを言った方がいいのか通話を切った方がいいのか決めあぐねていて、窓の外に突っ立っている電柱には昼夜逆転したセミがひっついて、つがいを探して途方に暮れている。

 夏の月は夜。

 見えない光を照り返す、今は一番きれいな光。

 やだよ馬鹿、と果奈が言えば、「はてな」も笑った。




  @



――正直言って、僕は立ち向かうのが怖いです。たぶんあれだけのことを言ってもらっても、はてなちゃんみたいに何かと戦う勇気はありません。でも、気付きました。自分でもわかってなかったけど、本当は自分はそういうことが言いたかったんだって。逃げ出すのは悪いことなんかじゃないと思うけど、逃げなくちゃいけない状況には、ちゃんと怒っていいんだって。そして勇気があるなら、思いっきり戦ってもいいんだって。

――ありがとう。

――あなたのことが、今はもっと大好きです。

――ずっとずっと、大好きです。

――これからも活動がんばって。応援してます。……それから、

――僕も少しずつ、頑張れるようになりたいと、そう思っています。



――あ、それともうひとつ。



――やっぱりはてなちゃん、FPS上手いですね。




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