少年と亡霊妃と事の結末
『んん?』
青筋を浮かべたテレスティアが、再度鈴を鳴らすも、六本腕の騎士とは違い、何かが現れる事も、何か変化が起きる事すら無い。
「ヒ、ヒメ?」
『うん、すこーし、待ってくれぬか主様。……あの根暗、妾を嘗めとるな』
青筋を浮かべたまま、先程とは違い、矢鱈滅多に鈴を鳴らし始める。
『
割れろと言わんばかりに、鈴を振り回し、先程の聞き覚えの無い言語で喚き立てる。
その間にも、マルコとレイナは仮面の中毒者達を、〝冥石宝女王の火避け傘〟から伸びた触手で拘束し、テレスティアが呼び出した六本腕の騎士も、ハワードとの戦闘を続けている。
〝
天界の炎を捌くクロクモは、今の自分の力に不満を抱いていていた。
喚び出され、戦いに身を投じる事に不満は欠片も無く、寧ろ本来の役割を果たせているという事に、充実を感じている。
だが、だからこそ今の力に納得がいかない。
「このままだと、千日手ですね」
嗚呼、あの人間の言う通りだ。本来なら、天界の眷属程度、一息に百や千を蹴散らす事なぞ容易に出来る。
なのに、今はそうではない。
──
体が重い、
なら、何が起きているのか。
答えは単純だった。
──
人界に己が顕現出来る為の枷、主にはその様なものは無いが、己程度では人界という弱い世界に、枷無しに顕現する事は不可能という事だ。
『
〝
クロクモにはそう言ったが、あの偏屈医者が、何を考えて己の呼び出しを無視しているのか、テレスティアには皆目、検討がつかない。
しかし、ここであれを呼び出さねば、主からの命を、十全に果たす事は不可能に近い。
『妾の手を煩わせるとは……』
禁薬の副作用だろう。人間達の体から、塵芥程度に残っていた生気が失せ始めている。
時間が無い。主は滅するのではなく、救えと仰せだ。
ならば、迷う数瞬すら惜しめ。
『主様、娘。少し、妾から離れよ』
「う、うん」
何時も何かを取り出す様に、テレスティアが何もない空間に、手を突っ込んだ。
また何か、道具を取り出すのだろうか。だが、それで態々、離れる様に言うだろうか。
答えは否。
「な、何をしているの?!」
レイナが驚愕する。テレスティアが空間に、手を突っ込んだのと同時に、彼女の透けた銀灰色の髪が靡き、肉眼ではっきりと認識出来る程に、帯電と放電を繰り返していた。
蒼白い、テレスティアよりも尚蒼白く、且つ透き通り、この世のもの全てから逸脱した光。
怖気すら覚える雷光、そして秘匿された地下室にまで、はっきりと轟き唸る雷鳴。
その異常事態に、一部を除く者達全員が、身動きを止めてしまった。
そしてそれは、クロクモと相対していたハワードも例外ではなかった。
〝
「しまっ……!?」
六つの腕、それぞれの得物がハワードの身を斬り裂き、叩き潰し、不死鳥の眷族を地に叩き付ける。
己を斬り裂き、床に縫い止める痛みと衝撃に、ハワードが苦悶の声を挙げるが、その体からは血は、一滴も流れてはいなかった。
〝
「言葉は、分かりませんが、私に後悔は、ありません」
その言葉通りに、ハワードの顔には後悔の色は無かった。
それどころか、一種の誇らしさの様なものがあった。
クロクモは、ハワードに不明な危険性を感じたが、今はそれよりも重要な事がある。
〝
ハワードの腹に、十字槍を突き立て、床に完全に縫い止める。手足は切り落とし、体中に刃を突き立てているが、念には念を入れるべきだ。
「あれ、は、まさか、冥王の……」
その瞬間、ハワードの言葉を遮り、掻き消す様に雷鳴が轟き、テレスティアの手が消えた先の空間に、蒼い雷光が走った。
耳をつんざく轟音と、身を震わせる衝撃。テレスティアは、いまだに帯電する髪を左手で払い、空間に突っ込んだ手を引き抜き、掴んだ者をマルコ達の前に放り出した。
『カテルラよ、妾の手を煩わせ罪は、我が主様の命を果たす事で帳消しにしてやろう』
焼け焦げた臭いと共に、放り出された者は、奇妙不可思議な姿をしていた。長い膝まであるだろう、赤みを帯びた紫の髪に、白衣とはかけ離れた黒い長衣。
そして、手足と体の形は人間だが、異様に長い手指と、長い嘴の様なマスク、否、あれは顔だろうか。
目は丸いレンズを当てていて、その感情を探る事は出来ない。
そして、そのカテルラと呼ばれた者は、僅かに焦げた身を起こすと、
〝
『
それだけを言うと、テレスティアはマルコの傍に戻り、倒れている禁薬の中毒者達を指差す。
『
〝
『
〝
マルコとレイナが、魔族の娘を守る様に抱き、二人の会話を見守っていると、中毒者の一人が突如として、胸を掻き毟り始めた。
肉が抉れ、爪が剥がれ、血が溢れようとも、お構いなしに、その女は掻き毟る手を止めない。
すると、カテルラがその女に近づき、徐に歪に長い中指で、女の額を突いた。
「ヒメ、あの人は?」
『主様、不安かもしれぬが、心配は無用じゃ。あやつは妾の配下でも随一の名医。役目は果たすじゃろう』
カテルラの歪で長い指が、女の額から離れると、何かうっすらと形のある靄の様なものが、額から抜き取られる。
カテルラがそっと、長衣から取り出した黒い札を貼り付けるそれは、辛うじて何かがあるとしか、判別出来ない程に薄く、今にも散り散りに消え去りそうな程に脆かった。
『主様、娘。よく見ておくがよい。あれが、禁薬に犯された者の、魂の残滓じゃ』
「え?」
『つまり、あの者達には、もうあの程度しか
次々に、カテルラが女達から魂を抜き出しては、黒い札を貼り付けていく。札にはマルコとレイナには、読めない記号が書かれていて、テレスティアに意味を問うが、ただ無言で首を横に振るだけだった。
やがて、魂を抜き出し終えたカテルラが、肉体と魂に触診する様に触れて、耳たぶの様な部位を伸ばして、女達の胸に当てる。
そして、テレスティアを見てから、ゆっくりと首を横に振り、テレスティアがそれに頷くと、人差し指を立てる。
カテルラの歪な人差し指は、注射器のシリンジの様に、複雑なメモリと何かの記号が刻まれ、薄く赤色の着いた液体が満たされていた。
『麻酔じゃ。あれを打ち、魂を肉体に戻す。……もう少し早ければ、助かる可能性はあったが、あそこまで魂が摩耗しては無理じゃ』
マルコとレイナにも、今のテレスティアの言葉の意味は解る。つまり、今カテルラが打っている注射は、そういう事なのだ。
〝
全員に注射を打ち終え、カテルラは長い胴を曲げて、テレスティアに頭を下げると、一つのアンプルをテレスティアに渡して、霧の様に消えてしまった。
『ご苦労、カテルラよ』
「ヒメ、あの人達は……」
『これより終わりの時まで、苦しむ事は無く、後にあの者達を暴く者も居ない。妾に言えるのは、それだけじゃ』
ああ、やはりと、魔族の娘を抱いていない、レイナと繋いでいた手を、マルコは握り締めた。
すると、レイナも握り返し、優しい眼差しをマルコに向ける。分かっている。そうではないと、そんな訳はないと、理解しているのに、背後で静かに息絶えていく命を感じて、マルコの考えは止まらない。
「ねえ、レイナ。もし……」
『我が主よ、その考えだけは持つでないぞ』
テレスティアがマルコの言葉を遮り、彼の両頬に手を添える。そして、迷いに揺れるマルコの瞳を、真っ直ぐに見詰め、優しく諭す様に語る。
『よいか、主様。たられば、もしもの考えだけは持ってはならぬ。その考えは、一切の光の差さぬ果ても底も無い闇じゃ。……主様や娘が抱えるには、些か早すぎる』
「でも……」
『でも、もじゃ。先の見えない未来を、抱えるには人は脆すぎる。……だからこそ、あの様な判り易い力に走る』
剣に槍に貫かれ、楯に鎚に鎌に砕かれた身で、石の床に縫い止められ、しかしそれでも血の一滴も流さず、命すら失っていない。
ハワードは、その己かそれともまた別の何かか、苦悶の表情を僅かに苦笑に変えて、マルコとレイナ、そして傍で漂うテレスティアに視線を向ける。
「彼女、達は……」
「皆、眠りました」
「そうか、そう、ですか」
マルコの言葉を聞いた瞬間、ハワードの体から消え入る様に力が抜けた。
僅かに点っていた不死鳥の炎は燻り、赤みを帯びた金の髪も、どこかくすんで見える。
「聞かせてください。どうして貴方は……」
「早く、ここを出た、方がいい。もうじきに、聖天教の息の、掛かった騎士団が、来る」
いくら君達が強くても、面倒な事になる。
ハワードはそう言うと、視線で扉を示した。
「あそこ、からなら、すぐに大通りへ、抜けられる」
『無用な心配じゃ』
テレスティアが指を弾き鳴らすと、何も無い空間から木製の荘厳な扉が現れる。
『耳長の部屋への直通じゃ。さ、早く行くがよいぞ、主様』
「う、うん」
『クロクモ
〝
クロクモの巨体が霞の様に消え去り、マルコとレイナは、まだ意識がはっきりとしない娘を抱えて、扉を潜る。その時、ハワードはぽつりと呟いた。
「助からないと知っていても、助けたかったのですよ」
マルコが振り向いた時には、扉は既に閉じる寸前で、見えたのはハワードの疲れた笑みだけだった。
「そう、助けたかった。若く馬鹿で青臭い、青二才の商人の意地でした」
ハワードは、消えゆく扉を見届け、遠くに聞こえ始めた足音に、ため息を吐き出す。
「聖火派として、一人の商人として、後悔は無く、目的は達した」
眠る様に息絶えた女達。そこには苦しみの色は無く、本当に眠っているだけの様にも思える。
だが、ハワードは分かっている。これは慈悲だと。
あの幼く、まだ正義も悪も知らない無垢な主の、裏表の無い慈悲。
「しかし望むなら、あの憎き霊王派を、焼き滅ぼしたかった」
その言葉と、地下会場の扉が乱暴に蹴破られるのと、ハワードが会場を焼き払うのは、同時だった。
「幼く優しい亡霊妃の主よ、聖火妃の血筋よ。どうか、あのおぞましき霊王に注意されよ」
その言葉と共にハワードは、地下と騎士団を焼き尽くす炎の中に消えた。
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